というか、要塞の研究がなされてなかった・・というのは言い訳に過ぎない。
どこぞの誰かが言ってますが、工兵の重鎮たる上原と言ってごまかしてますが、
彼が対壕坑道戦術の教育を怠った為に工兵部隊による坑道戦術の教育が
行きとどかなったという間接的な原因がある。
その彼が乃木が落としたと言っても説得力はありません。
明治33年程度までは普国野戦築城教範やブリアルモン書による諸所の本など
邦訳し研究はなされてます。明治34年7月から変更になったのですが、
ほんの2.3年程度で攻城戦術の知識がまったくなくなるはずも無い。
どこかのスレで第3軍は攻城戦のマニュアルをドイツから翻訳するところから
始めたと書いてましたが、明治33年に翻訳済みなのがあるにも関わらず、
また戦後の対壕戦術の改正を確認してもそれほど変化があるようには見えません。
そもそも 井上参謀は旅順以前に自費で留学し坑道戦術を研究していたのに
他の参謀の翻訳発言はおかしいですね。
それまでの不勉強などを言い訳しているようにしか聞こえません。