[日露戦争百周年記念スレッド]   

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752名無し三等兵
 上原や内山小二郎・秋山好古等陸大1期の秀才達が、各兵科の近代化のため
に、各種操典類の編纂に尽力したのは、夙に知られたところです。しかし、余
りにもマンパワー不足であったのは否めない。工兵として当時最重要とされたの
は、架橋術と野戦築城術で、残念ながら永久要塞の研究にまで手が回っていない。
同じく、砲兵にしても野砲や、駄載できる山砲の開発とその操法の確立が急務
で、攻城重砲は後回しとならざるを得なかった。騎兵においても、捜索を主任務
とする軽騎兵を最優先としたようにね。(秋山も馬格の改良が進めば、胸甲をま
とった竜騎兵による襲撃を演練したかったようだが、日本の台所事情がそれを
許さなかった。)
 そんな中であの旅順攻撃は仕方の無かった部分とは言え、工兵の専門家である
上原を野戦軍である第4軍の参謀長に配したのは、全く閨閥人事の愚であって、
彼が第3軍の参謀長に擬せられていたら、もう少し違ったのではないかと思う。
 青銅砲の時代の留学生である伊地知が参謀長であったことは、現地の砲兵指揮
の改良には期待できず、全くこの人事が失敗であったことの憾みが残る。もっと
も28サンチ砲自体が一時代前の青銅砲なんだけどね。そして、さらに驚くべきは
、この砲が対艦兵器であるにもかかわらず、ストックしていた弾丸が徹甲弾では
なく、殆どが榴散弾だったこと。日本では、大口径砲を海岸線に配備しているとい
うのが、この砲の存在意義であったのか。要塞のべトンにも苦戦したものが、軍
艦の分厚い装甲にてこずったのは、想像に難くない。それでもよくも在旅順艦隊
に傷を負わすことができたと、もっぱら感心してしまいます。
 とにかく、貧乏陸軍には野戦しか教える余地が無かったクレメンス・W・J・
メッケルとしては、ここまでしか教えられないし、その弟子達も、国家の懐具合
から推して、とりあえず野戦重点で部隊編制、練成、教育を完備するしかなかっ
たのですから、苦戦してもしょうがないのかな。