日本軍がTa152を運用してたら

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663655:04/03/12 19:02 ID:7B8prcfT
>>656
交代で戦線を維持してんのね?
乙!
664FW190Ta152H-1:04/03/12 22:47 ID:ITPI91/N
>655
そうかも知れネェ・・…。
665名無し三等兵:04/03/12 22:52 ID:???
FW190Ta152H-1を演じる上でのポイントは
やはりヒステリックなキチガイ反応でつか?
666FW190Ta152H-1:04/03/12 23:02 ID:ITPI91/N
>665
さぁ? どうだろう・・…。
667FW190Ta152H-1:04/03/12 23:35 ID:5EemyiY4
バレンタイン版/サンケイ出版 第二次世界大戦ブックスC 「B29」(日本本土の大爆撃)
カール・バーガー著 中野五郎/加登川幸太郎訳  昭和46年3月発行  P.183からの記述によると、

『日本の政治の主導権軍部から離れる日がついに来た。まだ全面的なものでは無かったが、戦争を終
らせようとする動きが現れてきたのであった。4月に小磯国昭に代わって首相になった鈴木貫太郎海軍
大将の新内閣は、適当な時期に和平についてモスクワの仲介を求める事に同意した。しかし東郷茂徳
外務大臣が、駐モスクワ大使佐藤尚武に、戦争終結の為、ソ連政府の援助を要請するよう、公式に指令
したのは7月になってからであった。彼らはこの期に及んでも、自分たちが”永続する平和を樹立し、
維持する”役割を演じているのだと考えていたのである。
 そこで佐藤大使に対する訓令の中で、東郷外相は「アメリカとイギリスとが、無条件降伏を固執する
限り、わが国としては、生存の為、祖国の名誉の為、全力を尽くして戦い抜くより他は無い。」と述べて
いた。佐藤大使にとっては、世界情勢についての東京の見解は、極めて非現実的なものであった。ソ連
に、日本政府のどんな提案にせよ、同意させる可能性は全く無い。と佐藤は報告した。「米英は”平和
を維持する権利を日本から取り上げる”事を計画している。敵の空襲がその回数を増し、強化されている
今日の状況で、我が国が戦争を維持する力を持っている事を示したり、或いは数十万の将兵と数百万の
市民に命を犠牲にして何の意味が有る?」と彼は問う。 しかし大本営は既に本土決戦に向かって突進
しつつあった。』
668FW190Ta152H-1:04/03/13 00:38 ID:viW13FCQ
>667の続き
 『さて、1945年の春、第21爆撃兵団は絨毯爆撃の他に、選定した目標に対する高々度精密爆撃をも
加えていた。4月7日、153機が名古屋の三菱の発動機工場を襲い、高度5000〜8000mで600dの爆弾を
投下した。この工場はこれによって事実上壊滅してしまった。 爆撃後の航空写真では、建物の62%が
破壊されたと判定されていたが、実際には90%が廃墟となったのである。
 同じ日、別の100機が東京の中島飛行機工場に新しく供給された2,000ポンド(908Kg)爆弾を投下。
工場に大損害を与えた。 4月12日、昼間の連続爆撃で、更にこの工場に相当な損害を与えた。中島の
関係者によると「この4月の2回の空襲は、建物、機械、従業員の士気に壊滅的打撃を与えた」という。
 日本の製油・貯油施設も45年春にはB-29の爆撃を受けた。5月10日、300機が徳山の海軍燃料廠、
大竹(広島県)の製油所、大島(山口県)の貯油施設を爆撃した。損害は徳山で20%、大島で90%に及んだ。
しかしこれら、燃料施設に対する継続的な攻撃は6月26日以後であった。 第315飛行団のB-29は新しい
AN/APQ7イーグル・レーダーを装備し、後部銃座以外の機銃を取り外し、機体重量を軽くして爆弾搭載
量を増加した。
 6月25日、33機が四日市の製油所を爆撃し、ここに連続的爆撃が開始された。これに続く7週間、第315
飛行団は日本の5つの石油会社の燃料施設を爆撃し、15回で9000d以上の爆弾を投下。この作戦が終了
したときには日本の石油工業は全く壊滅し、戦争遂行の為にも、生活物資生産の為にも、燃料供給の能力
は無くなっていたのである。
 B-29の特定任務の中で最も成功したと思われるものは、大規模な機雷投下作戦であろう。はじめ、米
陸軍航空軍の当事者は、B-29をこの任務に向ける事に反対していたが、上級司令部に押し切られてしま
った。 3月27日、92機が関門海峡封鎖目的に海峡の西側に1000ポンド(454Kg)や2,000ポンドの音響
機雷や磁気機雷を投下した。 突然、海峡に現れた機雷原は日本軍を驚かせた。そして全船舶が海峡の
掃海が終るまで航行不能になってしまった。日本海軍は直ちに大掛かりな機雷監視の組織を作り、海岸
や海岸や付近の丘、海峡内の漁船に配置した。 
 3月30日の2回目の機雷投下出撃の後、ルメイは4月中に2,000個の機雷を投下ように命令した。 』
 
669<>¥。、¥:04/03/13 00:40 ID:86TDI3Du
mん;。lmkん;。mんm
670FW190Ta152H-1:04/03/13 02:36 ID:nUPk+3AF
668の続き
 『1945年4月上旬、19機が瀬戸内海の水路と呉軍港付近に機雷を投下。交通はたちまち
妨害された。4月9日と12日、関門海峡に更に投下。4月中旬、合計378個の機雷を投下した
ところで作戦は一時中断。 5月3日に再開され、88機が600個以上を関門海峡と神戸、大阪
付近の瀬戸内海に投下。2日後、更に投下して封鎖を強化。また徳山、安芸灘、広島、呉、
名古屋及び東京湾にも新しい機雷原をつくった。
 日本側は掃海作業に狂奔したが、遂には封鎖された海峡を強行航行するかどうかは各船の
船長の決定に任せる事にした、ある船長は突破に成功したが、あるものは機雷に触れ沈没、
又は大損害を受けた。4月27日までに、関門海峡で18隻、39917dの船舶が沈没、又は使用
不能となった。 5月中旬も作戦は続行され、200機が1300個を投下。日本海側の宮津、舞鶴、
敦賀、伏木、七尾、新潟であった。これらの港は3数日間封鎖、その後数ヶ月間も航行は危険
なままであった。
 だが日本側をひどく痛めつけたのは関門海峡の封鎖であった。被害は1日8隻にのぼった。
5月中、機雷は潜水艦よりも多くの損害を日本船舶に与えるという好成績を上げた。 この
1ヶ月で85隻、213000dの船舶が沈没。又は大破。日本の船舶保有量の9%であった。ニミ
ッツ提督は、全く感心してルメイ将軍に祝電を送り、「史上初めての規模の、航空機による
機雷敷設作戦立案と実行は、素晴らしい成果を生んだ・…」と述べている。
 6月、7月も機雷投下を続け、ますます成果を上げた。戦略爆撃調査団は戦時中沈んだ日本
の船舶、合計980万dを上げ、その原因を次のように分類している。潜水艦54.7%、艦載機
16.3%、陸軍機10.2%、海軍・海兵隊の陸上基地飛行機4.3%、海軍艦艇の砲撃1%、機雷9.3%、
残り約4%は事故によるものであった。 参加した4ヶ月半の行動を考えると、相当な成功と言
える。のべ1500機で12953個投下。これまでのうち、最も強力な機雷投下作戦であった。 
 日本海軍機雷掃海部の指揮官田村大佐は、後に日本航空部隊を都市防衛に使用すよりも、
機雷敷設防止に使った方が良かったのではないか?と述べている。「中国大陸から食料や物資
を運んで来る補給船の確保が最優先だったからである。」 』
671おほほほほ:04/03/13 02:50 ID:???
お前まだやってたのか。
672FW190Ta152H-1:04/03/13 02:56 ID:W1X6h33f
670の続き
 『さて、この機雷作戦が成功のうちに進行している間に、ルメイは新しい作戦を開始した。
人口10万から20万の中小都市58に対する広範囲の焼夷弾爆撃である。この作戦は6月17日に
開始され、この日、合計450機は鹿児島、大牟田、浜松、四日市の4都市に夜間低空で焼夷弾
を投下した。これら中小都市の空襲は戦争の終わりまで続けられた。 6月19日に582機が豊橋、
福岡、静岡を空襲。その後3日ごとに4、5個所の中小都市が焼夷弾の爆撃を受けた。
 その頃になると、日本国民はどのアメリカ軍の武器よりも「超空の要塞」を恐れるようになって
いた。東京帝国大学のジェスイット教会牧師ブルーノ・ビター師によれば「日本国民の全階層に
渡って、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった。」』
673FW190Ta152H-1:04/03/13 03:30 ID:zRRxwsFZ
672の続き
 『戦争のこの最終段階を通じて日本の航空部隊は、アーノルドの言葉のように「無気力状態を
装っていた」B-29はほとんど反撃を受けず、たまに7,80機の戦闘機に遭遇するだけであった。
だが実際は外見のようでは無かったのである。日本の大本営は日本本土に上陸しようとする連合
軍の艦隊と部隊に備えて、8000機の飛行機-その大部分は-神風特攻機-の温存に努めていたから
である。
 日本軍は各地に300以上の滑走路を建設していた。その幾つかは神風特攻隊の発進だけに使う
ものであり、95は山間部などの秘密の場所に設けられていた。 高田利種海軍少将によれば、大
本営は「もし日本本土に侵攻して来る艦隊を撃破出来れば、戦争に勝てないにしても、何年でも
持ちこたえられると信じていたのである。
 航空反撃が減少し、時には全く無くなったので、米軍は日本国民の戦意をくじく為に、効果的
な文書宣伝戦法をとった。組織的なビラ散布は5月中旬に開始され、7月になってルメイは心理戦
担当者に特別のビラを作る事を命じ、爆撃予定都市の住民に、立ち退きを勧め、爆撃を予告する
ビラを投下する事にした。この最初のビラはサイパンで印刷され、7月27日の夜、6万枚が6機の
B-29により、11箇所の都市に撒き散らされた。そして次の夜、警告ビラで予告した6つの都市に
3700dの焼夷弾を投下。 警告ビラは8月1日、4日にも投下。その都度予告通り爆撃がなされた。
 これらのビラを読んだ日本人は考えさせられたようであった。名古屋の大きな工場の経営者は
戦後の審問で、「このビラは、国民の士気に大きな影響を与えた。敵が空襲を事前に発表出来る
のは、比較にならない位強いからだと考えた。…私はビラを読んで、大事な機械は工場から運び
出した…。」
東京都のある役人はこう語る。「人々は連合軍の空襲警告が信頼出来るという事を知って、米軍
の宣伝を皆信じるようになり、日本人の戦意は急速に衰えていった。」』
674FW190Ta152H-1:04/03/13 04:49 ID:iLS2znnG
673の続き
『397 :FW190Ta152H-1 :03/07/27 20:35 ID:61ZqffvU
名無しのほうだろ?消えるべきなのは。FWTaはカレなりにP47について語ってるから。
それと比べると名無しの方は一切P47について語らず、「大丈夫かあんた」とか「日本語
が不自由」とか執拗で執念深くケナしてるあたり、相当イヤなヤツだ。個人攻撃は迷惑だよ。
398 :名無し三等兵 [sage] :03/07/27 20:38 ID:???
>>397
おいおい、自分の事を
>FWTaはカレなりに
ってどういうことよ?
399 :FW190Ta152H-1 :03/07/27 20:42 ID:61ZqffvU
キーボードの操作ミスです。』
675名無し三等兵:04/03/13 11:54 ID:b5zwwu+r
どうせ本の丸写し
676名無し三等兵:04/03/13 11:58 ID:???
>675
そーだったらまだ価値もあるんだけど、FW190Ta152H-1自身が「自分の都合が良いように
適当に改ざんしている」宣言を上の方でしてるよ(鬱
677名無し三等兵:04/03/13 13:00 ID:???
打通さんと同じ扱いで良いだろう。
678名無し三等兵:04/03/13 14:44 ID:???
そんな良いもんかね
679名無し三等兵:04/03/13 16:09 ID:???
んでそろそろMk-1、2核爆弾の話ですかな
680名無し三等兵:04/03/13 19:26 ID:b5zwwu+r
本の著作者に迷惑かけんなよ!
681名無し三等兵:04/03/14 01:29 ID:???
Ta152-Cはどのくらいの能力を秘めた機体だったんだろうね。
とりあえず量産されたH型とは翼もエンジンも違うわけだが。
682名無し三等兵:04/03/14 03:19 ID:???
>>681
ADVANCED大戦略2001では高度と燃料がH型よりも劣って、攻撃力が勝ってた
どーせ、客観的に評価できる資料がないから、こんなもんで納得するしかないしょ(W
683名無し三等兵:04/03/14 11:04 ID:???
>燃料がH型よりも劣って

?????

クソゲーム厨房はこんな設定に何の疑問も持たないのか?
684名無し三等兵:04/03/14 12:42 ID:???
>>681
Fw190と変わらない機体
685名無し三等兵:04/03/14 22:56 ID:A/9fhaYy
>>674
交代要員が来ない様ですが・・・
戦線が維持出来ませんよ?
686名無し三等兵:04/03/15 20:24 ID:???
FW190Ta152H-1うざいよ。
いい加減やめろ。
687FW190Ta152H-1:04/03/16 02:27 ID:9D0ZiVnB
     ↑ そうカリカリすんな。
688FW190Ta152H-1:04/03/16 02:57 ID:C2pFtqVY
さて、バレンタイン版/サンケイ出版 第二次世界大戦ブックスC 「B29 日本本土の大爆撃」
    カール・バーガー著 中野五郎/加登川幸太郎 訳   P.192〜の記述から参考すると、

 『1945年4月12日、アメリカ大統領ルーズベルトは死去し、副大統領のH・トルーマンが昇格した。
7月にトルーマン新大統領はドイツのポツダムに赴いた。チャーチル、スターリンと会談して、戦後の
ヨーロッパ処理と、日本打倒の最終計画を打ち合わせる為であった。7月23日、スターリンは「ソビエト
連邦は近く日本に宣戦を布告するであろう。東京での次の会合の為に乾杯!」と叫んだ。翌朝、合同
参謀本部首脳はソ連のアントノフ元帥から、詳しい説明を受けた。ソ連軍は極東地域に集結中であり、
「8月の後半」には作戦を開始すると告げた。このニュースは居合わせた米英軍首脳の人たちにとっては
11月1日に開始を予定している日本本土上陸作戦に先立って、ソ連軍に満州の日本軍を攻撃させようと
努めてきただけに満足のゆく知らせであった。
 しかし、数日前に劇的なニュースが飛び込んで来ていた。17日に原子爆弾がニューメキシコの砂漠で
爆発実験に成功した、という知らせである。報告を受け取って、トルーマンはこの新しい兵器をどうすべき
かについて、米政府首脳やチャーチルとも相談した。みんなの意見は一致して、それを使用すべきである
という。
 日本本土上陸作戦を決行すれば、多くの死傷者が出るのは必至であった(陸軍参謀総長マーシャル将軍
は米軍だけでも100万人に上ると推定していた)。戦争を早期に終結させる為には、持っている全ての兵器
を使用する事を、米軍首脳は決意していたのである。
 戦争終結を急ぐ為に、トルーマンは、有史以来初めての原子爆弾攻撃を日本に加える事を許可した。』
 

689FW190Ta152H-1:04/03/16 03:23 ID:tP+qu4hu
>688の続き
 『この爆弾を作り出した「マンハッタン計画」の話はよく知られている。だが、あまり
知られていないのは、これに関連する米陸軍航空軍の計画で、原子爆弾を搭載出来るよう
にB-29を改造し、原爆攻撃を実施する特別のB-29部隊を編成する計画の話である。 
 アーノルド将軍が、原子爆弾計画の事を始めて知ったのは1943年7月で、この時「マン
ハッタン計画」技術部長のレスリー・R・グローブス准将が、これに関する航空部隊の
役割について説明した。グローブスは陸軍航空軍に、この爆弾を搭載し、爆撃実験をやれ
るように改造したB-29を提供する要請した。秘密を守る事を誓い、この後暫くの間、陸軍
航空軍の中でこの爆弾の事を知ってるただ一人の人物であったアーノルドは、計画をどう
進めていこうか苦慮していた。
 マーシャル参謀総長の許可を得て、少数の部下にだけ打ち明け、爆撃機改造の作業を”
誰もその理由に疑問を抱いたりしないように行う”責任を持たせるようにした。航空資材
関係の責任者であるエコルズ少将を信頼して、彼にB-29を原子爆弾の寸法などに適合する
ように改造する事。爆撃実験をする事。そして原爆戦闘部隊を組織する事の任務を与えた。
 エコルズ少将はロスコフ・C・ウィルソン大佐を計画主任将校に選んだ。この改造計画は
陸軍航空軍のほかの全ての計画に優先する事が決められ、どの部門からの反対や苦情も、
すべて直接アーノルド総司令官へ回すように命ぜられた。
 ウィルソン大佐はグローブス准将から説明を受け、原子爆弾には2種類あって、それぞれ
寸法が違う事を知った。B-29はこの両方の爆弾を搭載しなければならなかったのである。』
 
690FW190Ta152H-1:04/03/16 03:45 ID:SbGO9FZv
689の続き
 『ウィルソン大佐は1943年10月に、ロスアラモス原子力研究所の兵器局長、ウィリアム・
S・パーソンズ海軍大佐とコロンビア大学科学者ノーマン・ラムゼー博士の訪問を受け、原子
爆弾のは2種類あって、それぞれ寸法が違う事を知った。B-29はこの両方の爆弾を搭載出来る
ように改造する必要があった。
 ウィルソンはすぐに、それには援助が必要であると考えた。彼は以前に技術局で一緒に勤務
していたプット大佐を思いついた。プット大佐にこの計画を説明し、B-29の改造を担当するよ
うに頼んだ。1943年12月1日、ウィルソンはオハイオ州デイトンのライトフィールドの司令部
に手紙を送り、B-29 1機を極秘のうちに行われているある計画の為に提供する事、プット大佐
にこの秘密計画を担当させる事、この仕事は”他のどんな開発計画よりも優先すべきものである
事”を申し入れた。
 秘密を保持する為に原子爆弾に「やせっぽち」[シンマン]と「でぶっちょ」[ファットマン],
改造計画には「銀食器」という隠語がつけられた。不思議に思う人には「やせっぽち」はルーズ
ベルト、「でぶっちょ」はチャーチルのことで、「銀食器」は大統領と首相が米国内を旅行する
為の一等車両のことだと説明された。暫くして「やせっぽち」がロスアラモスで再設計されて
からは、新しい隠語「ちびっこ」[リトルボーイ]がつけられた。』

691名無し三等兵:04/03/16 10:13 ID:???
まあどうせ議論することもないスレだし、一応読んでたりするが・・・
Ta152タンはどういう意図があってこんなものを書き込みし続けてるんですか?
692名無し三等兵:04/03/16 11:33 ID:???
キーボードの操作ミスのために
こんなものを書き込んでしまっているのです
693名無し三等兵:04/03/16 11:33 ID:???
Ta152タンは週刊文春の今週号の一番最後の記事を読んだ方が良いと思うぞ
おんなじようなことをやった自民党参議院議員がカナーリな損害賠償を求められ
そうだ
694名無し三等兵:04/03/16 11:43 ID:???
藻前らの記憶の中にその存在を残したいから<一連の書き込み>… って独りよがりに浪漫チックな事を想像してたりして(W
695FW190Ta152H-1:04/03/16 14:50 ID:xdVB2KNb
>691
>一応読んでたりするが……。

それでいい、それで。
696FW190Ta152H-1:04/03/16 16:47 ID:vrU6C7y1
690の続き
 『1943年12月に1機のB-29が改造の為、ライトフィールドに到着した。改造は爆弾倉部分に
限られていたが、プット大佐の補佐役、R.L.ロアーク大尉が設計した。この改造作業はB-29に
新しいH型の爆弾架、巻き上げ機、装弾索、懸吊装置、投下装置、縛着装置などを取り付ける事
であった。
 改造工事の進行中、ウィルソンとプットはカリフォルニア州ムーロックで、この爆弾の模型
による投下実験計画を立案した。2ヶ月後、原爆搭載用に改造されたB-29はムーロックに飛んで、
ここで「ちびっこ」と「でぶっちょ」の模型を使って投下実験が2月28日に開始された。24発の
模擬爆弾を投下して実験を中止、この間に懸吊装置が改善され、爆弾の一つも設計が変更された。
 投下実験は1944年7月に再開され、もう一つの爆弾の設計変更や爆弾倉装置改善などもなされた。
これらの変更点の点検を終って、1944年8月下旬、アーノルド総司令官はネブラスカ州、オマハ
にある会社と、実験機をモデルとし、ライトフィールドの原爆投下実験担当部門の示す仕様に従
って、3機のB-29を改造する契約を結んだ。
 この後、B-29の改造の注文は14機に増加し、その後、48機、最後には54機に増加されたが、
戦争の終る頃までには46機だけが原爆投下用に改造された。
 一方、ロスアラモスの科学者、技術者たちは最終的に原子爆弾の設計を決定した。「ちびッこ」
は直径71センチ、長さ3.05m、重さ約4d。「でぶっちょ」は直径1.5m、長さ3.25m、重さ4.5dで
あった。』
697名無し三等兵:04/03/16 16:56 ID:???
話の腰を折って悪いが、今の金にすると有名どころのWW2の戦闘機って幾らくらいだ?
当然、Ta152Hなんて究極って言われてるくらいやし、相当なもんでしょや?
698名無し三等兵:04/03/16 17:04 ID:???
>>697
値段よりも工程の手間とかで考えた方がいいんじゃないか?
699FW190Ta152H-1:04/03/16 17:15 ID:RPawLEh/
696の続き
 『1944年の夏の間、米陸軍航空軍はこれらの原子爆弾を投下する特別の戦闘部隊を組織していた。
提出された将校の名簿の中から、アーノルドは新しい司令官として、ポール・W・チベッツ大佐を指
名した。チベッツは北アフリカやヨーロッパでB-17で25回も戦闘に参加したことのある優れたパイ
ロットで、約15ヶ月の間、米本土でB-29の試験飛行に従事していた将校である。彼の部下として加
わった主な将校たちのある者は、彼の元の連隊の者であり、また各専門分野で有能な者たちが選ば
れた。
 この部隊の任務について知らされているのはチベッツ大佐だけで、その他の者は、単に特殊な種類
の爆弾を投下するのだと告げられていた。部下の選定を終るとすぐチベッツは、特別訓練の出来る
基地を孤立した地区に捜し、ユタ州のウェンドーバー(ネバダ州との州境。ユニオンパシフィック
鉄道の沿線)を最終的に選定した。人里から遠く離れた所であった。
 チベッツ大佐の指揮する戦闘部隊、第393爆撃隊はネブラスカ州で、B-29の訓練を受けていたが、
1944年9月にウェンドーバーに移って、これがチベッツ大佐の第509混成飛行団の中核となった。
この爆撃隊の指揮官はチャールズ・W・スウィーニー少佐であった。この飛行団を独立して行動出来
るようにする為に、技術中隊、飛行資材中隊、兵員輸送隊、それに憲兵中隊がつけられていた。総
人員は将校225、下士官兵1542人に達した。
 ウェンドーバーに西方13`の地点に爆撃演習場が造られ、ここで模型爆弾の投下実験をした。
その後、投下実験はカリフォルニア州のソルトン湖(ロサンゼルスの南東)やインヨーケルンで爆
薬を装填された模型で行われた。飛行団の搭乗員たちは、1945年の春から夏にかけて海外に派遣さ
れるまでに、高々度から目視照準によって、総計して100発近くの爆弾を投下した。そして他の
B-29部隊と同様にキューバのバティスタフィールドに飛び、そこで洋上飛行や爆撃の訓練を行った。』
700FW190Ta152H-1:04/03/16 17:24 ID:k5ktpNFo
699の続き
『397 :FW190Ta152H-1 :03/07/27 20:35 ID:61ZqffvU
名無しのほうだろ?消えるべきなのは。FWTaはカレなりにP47について語ってるから。
それと比べると名無しの方は一切P47について語らず、「大丈夫かあんた」とか「日本語
が不自由」とか執拗で執念深くケナしてるあたり、相当イヤなヤツだ。個人攻撃は迷惑だよ。
398 :名無し三等兵 [sage] :03/07/27 20:38 ID:???
>>397
おいおい、自分の事を
>FWTaはカレなりに
ってどういうことよ?
399 :FW190Ta152H-1 :03/07/27 20:42 ID:61ZqffvU
キーボードの操作ミスです。』
701FW190Ta152H-1:04/03/16 17:35 ID:i3G5Ij8g
699の続き
 『第509飛行団が投下訓練をしている頃、陸軍航空軍総司令部は初めて太平洋戦線の
各司令官に「マンハッタン計画」について知らせる処置をとった。1945年2月に、海軍
の兵器関係の専門家で509飛行団に配属されていたフレデリック・L・アッシュウォース
海軍中佐は、キング海軍元帥(合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長)からグアム島のニ
ミッツ提督に親書を届ける事を命じられた。それには進行中の原子爆弾の研究と、8月
までにはその準備が出来る事について述べられてあった。同時にアッシュウォース中佐
には、飛行団の基地の位置を選定する任務が与えられていた。
 元帥の手紙を提督に手交して、中佐は提督の幕僚の一人と陸軍航空軍のハーマン将軍
と基地候補地について協議した。ハーマン将軍はテニアン島のノースフィールドを強く
推した。目下建設中であったが、45年6月までには完成する予定であった。中佐はこの
島を調査して、基地として適当であると認め、組み立て工場、研究所、倉庫、原子爆弾
の貯蔵所などに必要な区域を取っておく処置をとった。 
 ルメイ将軍は原爆の事も、特別のB-29部隊が有る事も知らなかった。』
702FW190Ta152H-1:04/03/16 17:53 ID:kzX1CM67
701の続き
 『1945年3月のある日、技術将校のエルマー・E・カークパトリック大佐が、テニアン
の原爆基地建設の為にマリアナに到着した。大佐は突然、第21爆撃兵団司令部に現れて
ルメイの副官に、自分は特別重要な任務で派遣されたもので、司令官にお伝えする極秘
の情報を持って来た、と言った。大佐はルメイと2人だけで会って、原爆計画の内容と
第509飛行団の特別施設を建設する彼の任務について話した。ルメイ将軍は協力を約束
した。
 数週間たって、アーノルド総司令官はルメイに第509飛行団を第21爆撃兵団の指揮下
に入れる。しかし「この計画の実験的な性質にかんがみ大部分の指令は総司令部から出す
特に初期の段階においては、この重要な兵器の目的に関してそうである。」と指令した。
 海軍建設部隊によるテニアンの施設建設が進捗するに伴って、第509飛行団は太平洋
地域への展開を準備した。5月上旬、地上勤務員たちはウェンドーバーを出発して乗船地
のシアトルに向かった。彼らは秘密保持の為に他の者とは隔離された別個のプルマン式
車両で輸送され、5月26日にシアトルを出港。飛行部隊はその後数回に渡って太平洋に
展開を始め、7月までに全部隊はテニアンに集結した。』
703FW190Ta152H-1:04/03/16 18:02 ID:NpJ9+94l
702の続き
 『搭乗員たちは直ちに出撃の訓練を開始した。中身は爆薬を装填した模擬原爆が使用
された。この部隊が高々度から小さな目標を実に素晴らしく正確に爆撃する腕まえを持
っている事がすぐに判った。またこの飛行団は日本の目標を原子爆弾で攻撃する時と同じ
模擬爆撃として、1機だけで攻撃訓練を何度もやった。この1機だけというのは、日本軍
を後で何しに飛来したのかまごつかせたが、テニアン島の他の部隊の将兵にも不思議が
られた。』
704FW190Ta152H-1:04/03/16 18:04 ID:yxBHlvLb
>>700
ワロタ
705名無し三等兵:04/03/16 21:00 ID:???
>>698
それやったらモスキートなんて無茶苦茶安いやん<木製&接着剤=模型>
706名無し三等兵:04/03/16 21:10 ID:???
>>705
木製って曲面とか削って出さないとダメなわけだから
下手な金属製より大変じゃないのか?
707名無し三等兵:04/03/16 21:31 ID:???
>>705
\   ∩─ー、    ====
  \/ ● 、_ `ヽ   ======
  / \( ●  ● |つ
  |   X_入__ノ   ミ   そんな餌では釣られないクマ――!!
   、 (_/   ノ /⌒l
   /\___ノ゛_/  /  =====
  〈         __ノ  ====
    \ \_   \
     \___)    \   ======   (´⌒
       \   ___ \__  (´⌒;;(´⌒;;
         \___)___)(´;;⌒  (´⌒;;  ズザザザ
                      (´⌒; (´⌒;;;
708名無し三等兵:04/03/16 23:29 ID:???
>>706
モノコック構造の木製機の曲面はプランクで作る。
金属製機とは違うノウハウが必要なのは確かだね。
709名無し三等兵:04/03/17 00:26 ID:???
九九艦爆の木製化計画は結局挫折しましたな。
710FW190Ta152H-1:04/03/17 03:00 ID:iUqzNMcF
703の続き
 『第509飛行団の将兵たちがマリアナでその爆撃技術に磨きをかけている間、原子爆弾
の科学者や技術者たちは、1945年7月に第1回の爆発実験の準備を完了した。この実験は
ニューメキシコ州の砂漠のトリニティーと呼ばれている場所で、30mの鉄塔の上で爆発さ
せる事になっていた。 各種の測定器具、カメラ、電子装置などを搭載したB-29 2機が
原子爆発の”火の玉”の大きさや、その他の現象を記録する為に飛ぶ事になっていた。
これらの観測機の1機にはパーソンズ大佐が乗る事を命ぜられたが、彼は第1回の原爆攻撃
に出撃する事になるのである。
 実験当日、7月17日は天候が悪く、B-29はカートランドフィールドからの離陸が遅れ、
やっと離陸した時には厚い雲と雷雨の為に、パイロットたちは原爆実験の鉄塔が発見でき
なかった。
 午前5時20分45秒。秒読みがゼロになった時、B-29はまだ早朝の闇の中をてさぐりする
ように飛んでいた。
 恐ろしい爆発が起こり「半径30`の中では、昼間一っぺんに数個の太陽が輝いたような
明るさになり、大きな火の玉が出来、これはキノコ状に大きくなって3000mの高さまで上
った。」と「マンハッタン計画」のグローブス将軍はスチムソン陸軍長官に報告している。
 観測用B-29で飛んでいた人たちは遠方からこの爆発を見た。グローブスはスチムソンに
これらのB-29は実戦の時ほどは近づいていなかったが、「実際の作戦で爆撃機が巻き添え
を食う事は無いだろう。もっとも安全は保証出来ないが・…。」と報告している。』
711FW190Ta152H-1:04/03/17 03:34 ID:4yFwi6r2
710の続き
 『ポツダムにいたトルーマン大統領が原子爆弾の使用を許可した後、ワシントンに
いる参謀総長代理トーマス・T・ハンディ将軍は、7月24日にポツダムにいるスチムソン
陸軍長官とマーシャル参謀総長に、最初の原子爆弾作戦の任務指令の草案を提出した。
彼らはこれを承認し、ハンディは翌日これを、このころ新しく設けられた太平洋地域
米国戦略航空部隊の司令官、カール・スパッツ将軍に指令した。その内容は次の通り
である。
一、 
 第20航空軍(ルメイが司令官に昇格)の第509混成飛行団は、その最初の特殊爆弾を
1945年8月3日以降、天候が目視爆撃を許す場合、なるべくすみやかに投下すべし。
 目標は広島、小倉、新潟、長崎のうちの1箇所とする。この爆弾の影響を観測する為
に、陸軍省より派遣する軍および民間技術者を乗せ、数機の観測機を飛ばし、爆弾投下
地点より数`離れた所に在空させる。
ニ、
 前項の目標地区に対しては、計画担当者の準備完了次第、さらに続けて爆弾を投下すべし。
上記以外の目標については、今後別に指示する。
三、 
 日本に対するこの兵器の使用についての、いかなる情報の発表も、陸軍長官とアメリカ大統領
の権限とする。この問題についての広報あるいは情報の発表は、いかなるものといえども、特別
の認可の無い場合、戦域の全指揮官は行ってはならない。報道はすべて特別捜査の為、陸軍省に
そのニュースを送致すべきものとする。
四、
 この指令は、陸軍長官および参謀総長の指示と承認にもとづいて、貴官に発せられるものである。
この指令のコピーの1通をマッカーサー将軍に、1通をニミッツ提督に、それぞれ参考として直接
手交されることを望む。
 翌日、ポツダムで連合軍の会議の終了にあたって、アメリカ、イギリス、中国の三国は共同宣言を
発表し、日本政府に降伏を要求し、もし降伏を承諾しない場合は、ただ”迅速かつ完全な壊滅”がある
のみと警告した。』

 
712FW190Ta152H-1
711の続き
 『日本の反応は東京のラジオ放送にあらわれた。NHKの放送は7月28日、鈴木貫太郎
首相の記者会見を引用しており、ここで首相は「日本政府は、この共同声明に、何ら
重大な価値ありとは考えていない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂に邁進
するのみである。」と述べている。
 連合軍の最後通告の拒否によって最初の原子爆弾攻撃計画は動き出した。ウラニウム
爆弾・リトルボーイ「ちびっこ」の組成部品は船と飛行機でテニアンに運ばれ、7月29日
から8月2日までに到着した。2日の午後、ルメイの幕僚は、この作戦に関する命令を準
備した。攻撃は8月6日、広島市に対してなされる事に決定した。この命令には予備の目
標として、小倉と長崎があげられ、「目視による爆撃だけを行う事」が命ぜられていた。
また全米軍機は、この3つの都市から80Km以内に近づいてはならないと命令されていた。
これは放射能汚染の予防の為であった。
 8月4日、広島攻撃に出撃することになっているチベッツ大佐は、最後の準備として
その飛行機でテニアン上空を飛んだ。高度9000mで爆撃士トーマス・W・フェルビー
少佐は10000ポンド(4.5d)の演習用爆弾を投下し、チベッツは機を急激に傾けた。
万事完全に作動した。 この頃チベッツは部下たちと相談して、操縦士の窓のちょうど
下の所に彼の母親の名前エノーラ・ゲイという文字を書き入れさせた。
 8月5日、チベッツ大佐は6人の搭乗員に明日に迫っている作戦について説明した。し
かしこの時もなお「原子爆弾」という言葉を使う事は避けていた。彼の部下たちは、離
陸の数時間前になってトリニティーの爆発実験の写真を見せられるまでは、この爆弾の
威力については知らされなかったのである。 』