1 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :
2
自営業阻止
4 :
2:04/01/21 12:25 ID:???
>>3 それは俺がやった。おまいは弾持ってこい。
>>1 乙
5 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/21 12:26 ID:Gs2rhyvZ
軍事史関係文献では、「佐賀藩がアームストロング砲を製造した」という記述
を目にした事が無いのですが、軍事的にはどう捉えられているのでしょうか。
論評に値しない、あるいは、あり得ないことだから黙殺しているという理解で
いいでしょうか。
6 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/21 12:27 ID:Gs2rhyvZ
明治維新前後の兵器を語るスレッドがあったような気がするんだが、どこだったっけ。
アームストロングさんって本当にいるのか。
なんかイジメられそうな名前だ。
9 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/21 13:37 ID:Gs2rhyvZ
>>8 イジメられそうな名前かどうかはわかりませんが…
ウィリアム=アームストロング(1810〜1900)。
イギリスのニューキャッスル=アム=スタイン生れ。
彼が興した会社は、第一次世界大戦後、ヴィッカースと合併して、
今もヴィッカース=アームストロング社として残っていますよ。
確か、チャレンジャーの製造会社では?
チャレンジャーの軍隊行進曲は秀逸
>>11 某研閣下とは、いかなる御方にありましょうや。
>>12 知らない方がいいですw
閣下とまともに会話をするのは軍事板で相当の修行が必要かと思われます。
きわめて特殊な会話をなさる方ですから。
とにかく、真面目に議論するにしても8時を過ぎないことには、
主力のコテハン集団は集まってこないと思いますよ。
軍事板のコテハンや三等兵は最近の戦(ここ100年)に強い人ばかりで
幕末などの知識となると・・めったに来ない近代戦専門のコテハンや名無しが
こない事にはどうにもならないと思います。
14 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/21 15:37 ID:Gs2rhyvZ
増永やら賀来やら、独自に大砲製造に挑戦して、それなりの成功を収めちゃった人らがいますからね。
仮に試作できたとしても、設備的に生産ベースに乗せることがほぼ不可能な、アームストロング砲の忠実なコピー造りに拘るより、とっとと前装カノンを大量生産したほうが割りに合うような。
>8 月着陸・・・トランペット・・・・ 昭和も遠くになりにけり
16 :
名無し三等兵:04/01/21 19:00 ID:5/pW44cm
オリジナルと比べてどうだったの?威力や射程で劣りそうだけど、上野
で2.3発撃ったらお終いだからよくわからん。
記録で見る限り、確実に佐賀藩で製造していた鋳鉄製ボムカノンと
アームストロング砲の間には超えがたい技術的なヒアタスがあるから。
確かな史料の裏付けもなしに、何を世界に誇るのか?
18 :
名無し三等兵:04/01/21 19:04 ID:C4dtxDYy
つうか佐賀藩ていろんなもの
作ってないか?
化け猫とかな
世界に誇れる葉隠精神
21 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/21 19:58 ID:igc6btzD
>>15 アームストロング砲そのものは長崎のグラバーを通じて、20〜30門は輸入して
いるようです。武雄領の砲兵隊は、青銅製の改造前装施条6ポンド砲から、
アームストロング砲に装備を更新しています。
先ず第一に試作する意味があったのかなと…
>>16 製鉄史の研究者は、パドル錬鉄が作れない佐賀の反射炉では砲身材料が揃わない
と考えています。
>>18 幕末の西国雄藩の中ではピカイチの科学技術力を有していたと思われますが、
軍事技術への傾斜が極めて大きかった点が特徴といえるでしょうね。
見よう見まねで蒸気機関車の模型作ったのは何処だったっけ?
>>22 譲り受けた模型を元に蒸気船作ったんじゃなかったっけ?
24 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/21 20:16 ID:DgSgwEsT
>>22 佐賀藩でも「精煉方」と云われた科学技術研究所で作ってますね。
実際に蒸気で走ったらしいです。
今のレプリカを見ると復水器が付いてないです。
25 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/21 20:20 ID:DgSgwEsT
>>23 「凌風丸」という蒸気船も三重津の海軍所で製造しました。
ただし、これがきっかけとなって自らの科学技術の限界を感じたようで、
この後、輸入が解禁されたこともあって、大量の兵器を海外から仕入れてます。
>>1 多分、日本史板以上の事は出ないと思うよん。
>ヴィッカース
6t戦車、冬戦争……(w;;
・大阪砲兵工廠が設置されるのは、明治3年。
・明治5年に青銅砲素材の製造が可能になる。
・明治22年、製鋼炉を設置。しかし、明治26年までは銑鉄を溶かす事すら難しい
という状況が続く。
・明治39年、鋼鉄砲身の砲を完成。 でも、素材の量産には踏み切れず。
上記の原因として、
・日本には炉の温度調節に必要な良質の石炭が少なかった。
・日本には不純物の少ない良質の鉄鉱石が少なかった点が挙げられる。
施条技術も、錬鉄と鋳鉄では格段の差があるでしょうに……
そういう技術を数年で獲得するには、無理があるような……
>>28 確か、大阪砲兵工廠で最初に製造されたのは青銅製前装の四斤山砲で、
その次が青銅(砲金?)製7.5センチ野砲だったと記憶しています。
維新後に国を挙げて行った兵器製造がこのレベルだったのに、文久年間の
佐賀藩にそれ以上の技術力があったとするのは、とても疑問です。
1960年代の後装アームストロング砲自体がかなり過渡的な技術の産物であったのに…
>>30 ちなみに、幕末後半では佐賀藩も鉄製砲はほとんど製造していないようです。
ひたすら、軽量な青銅製前装施条砲を製造したり、施条砲に改造したりしていたようです。
鋳鉄砲をつくるための反射炉は計画段階のものも含めて、全国で30か所以上あったようで、
幕末前半に熱病のように各地に伝染しました。なぜ鋳鉄砲を選択したのか、ちょっと不思議ですね。
伝来した情報に偏りがあったのかも知れませんが…
>>31 >佐賀藩にそれ以上の技術力があったとするのは、とても疑問です。
そそ。
だから、結論としては日本史板にある、
>手持ちの技術で試作した鋳鉄製後装施条砲もどきを、アームストロング砲製造
>としているのでないか〜
に落ち着くんじゃないかな〜 と思う。
>>33 上の
>>5でもふれていますが、軍事史というか銃砲史の研究者は、「アームストロング砲佐賀藩製造説」に
とってもつれないというか無視しているんです。
日本史(文献史)の研究者は編纂物に書いてあるので信用するという態度ですし、製鉄史の研究者は分権に
出ているので、技術的に不可能だけど試作はしたかも知れないという態度です。
軍事史の研究者はその辺の感覚が少し違うのでしょうか?
やはり、兵器製造を取り巻いていた工業レベルというものを意識しているのでしょうか?
>>34 >軍事史の研究者はその辺の感覚が少し違うのでしょうか?
さあ〜どうなんでしょうね?(w;;
一個人の意見なんで、語尾を濁してみるのですが、
『兵器製造を取り巻いていた工業レベル』
云々よりも
『アームストロング砲と云う兵器が、どういう経緯で戦闘に投入され、どのような
成果を見せたか? また、その兵器が投入される事により戦闘の様式が、従来と比
べ、どのように変化したか?』
に重点がおかれているのかもしれませんね。
だから、アームストロング砲が戦闘に投入された事に興味があっても、その出所
には、あまり興味がないのかも知れません。
>>35 なるほど!!
たいへん参考になります。
初期後装アームストロング砲の兵器としての評価はどうでしょうか?
錬鉄製という点で、過渡的な技術の産物と理解しているのですが…
>>36 残念ながら、私的には範疇外なんで、ここでOUTです(w;;
すいません。
>>37 これは御無理を申しまして、よろしかったら、またお相手して下さい。
どうもありがとうございました!!
なんだそのアームストロング砲が欲しい黒人の子供の目は!
41 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 09:16 ID:ByhUl8nG
>>39 どうも、ありがとうございます。
佐賀藩ではアームストロング砲と同時期に、同じイギリス製のブレークレー砲や
ウィットワース砲も何門が輸入しているので、アームストロング砲が選択された
理由は何かなと思ったもので…
性能的にはアム砲よりも優秀であったという記述もありますので…
砲弾は実体弾だったんでしょうか。それとも炸薬弾だったんでしょうか。
43 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 09:55 ID:ByhUl8nG
>>42 初期後装アム砲の砲弾は、佐賀藩の記録(6ポンドor9ポンド砲)には着発信管付榴弾と散弾(霞散弾?多分…)が出てきます。
艦載用の大型前装アム砲には、徹甲榴弾?みたいなものもあるようですが…
>43 レス有難う御座います。すると砲身とその周りはともかくとして
砲弾のほうは輸入せずに火薬も含めて国産だったのでしょうか。
45 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 10:39 ID:ByhUl8nG
>>44 >砲弾のほうは輸入せずに火薬も含めて国産だったのでしょうか。
佐賀藩の記録には、製造の記述は見当たりません。弾薬に関しても輸入の記述は多いですが。
46 :
名無し三等兵:04/01/22 10:54 ID:1q4aSDcm
>>40 それは今時の若者にはわからねぇよ。
28の俺でも思い出すまで20秒くらいかかったぞ。
そういや・・歴史群像で一回幕末の佐賀県の事が書かれていたような・・・
反射炉がどうとか、白虎隊に対する攻撃に使われたとか何とか・・・
>>46 あー出てきそうで出てこない。
なんだっけ・・・
アームストロングから製造用の部材を購入して、それを元に
試作・改修した可能性は無いのかな?<佐賀製安式砲
砲弾もあの時期に陸戦用として着発式の榴弾を採用しているのは
珍しいなぁ。英陸軍はWWIまで榴散弾のみだったはずだし。
レス有難う御座います。
すると、大砲と砲弾をセットで輸入し、その後は交戦の都度砲弾を購入したという
ことで良いのでしょうか。当時は会戦毎の弾薬使用量もさほど大きくはなかった
でしょうからこれで間に会ったのだろうか。
一方、武器商人のほうとしては横浜や長崎に倉庫を借り上げるか港内の商船に
武器弾薬を保管しておき注文の都度下ろしたのでしょうか。
ストックは上海のほうに置いてたような。
>51
生麦事件のときの男女は上海から来ていた人もいたというのを思い出しました。
すると、注文受けるたびに上海と日本の各港間を帆船で輸送して陸揚げして
各藩に渡していたということでしょうか。帆船は良いとして陸揚げ以降の輸送は
大変だったような気がします。帆船から他の船舶に積み替えて各藩の港まで輸送し
そこで陸揚げしたのでしょうか。当時の補給は、食料主であり、弾薬は従だった
のでしょうか。
53 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 19:05 ID:HctpokwA
>>49 >アームストロングから製造用の部材を購入して、それを元に試作・改修した可能性は無いのかな?<佐賀製安式砲
かなりまとまった数(40門程度)を輸入していますから、わざわざ部材まで購入したことは考えにくいですね。さらに発注をかけようとしていたみたいだし。
>砲弾もあの時期に陸戦用として着発式の榴弾を採用しているのは珍しいなぁ。英陸軍はWWIまで榴散弾のみだったはずだし。
そうなんですか。勉強になります。
佐賀藩の記録では、榴弾の輸入が最も多いです。あと、散弾とあるのは、榴散弾のことかなと思っていますが。
54 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 19:10 ID:HctpokwA
>>50 >大砲と砲弾をセットで輸入し、その後は交戦の都度砲弾を購入したということで良いのでしょうか。当時は会戦毎の弾薬使用量もさほど大きくはなかったでしょうからこれで間に会ったのだろうか。
その辺はよくわかりません。戊辰戦争中の弾薬輸入の記録はないようです。
>一方、武器商人のほうとしては横浜や長崎に倉庫を借り上げるか港内の商船に武器弾薬を保管しておき注文の都度下ろしたのでしょうか。
上の
>>51にも書いてもらっていますが、グラバー商会は上海に拠点を有していたようなので、そこからの運搬でしょう。
55 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 19:14 ID:HctpokwA
>>52 >すると、注文受けるたびに上海と日本の各港間を帆船で輸送して陸揚げして各藩に渡していたということでしょうか。
>帆船は良いとして陸揚げ以降の輸送は大変だったような気がします。帆船から他の船舶に積み替えて各藩の港まで
>輸送しそこで陸揚げしたのでしょうか。当時の補給は、食料主であり、弾薬は従だったのでしょうか。
その辺は、よくわかりませんが、佐賀藩は長崎についた物資を、陸揚げして運搬したり、自前の軍艦で輸送したりしていました。
56 :
49:04/01/22 19:39 ID:???
>53
ええと、誤解が生じるといけないから補足します。着発式の榴弾は
日清・日露戦争時でも攻城用の重砲用には存在してますし、英陸軍も
重砲用には持っています。
ただこの時期日本やドイツが歩兵支援を主とする野砲に対して
榴弾と榴散弾を配付していたのに対し、ロシアやイギリスは榴散弾
のみを配付してました(ロシアは日露戦中か後に配備したかも)。
榴散弾のみの配備とされたのは、対歩兵用と考えた場合、薬盤式の
時限信管によって空中から散弾を飛ばす榴散弾の方が殺傷効果が高い
と考えられた事が主要因となっています。
対して榴弾は歩兵集団の中で炸裂すれば充分な効果を発揮しますし、
土堡塁を含む陣地攻撃にはより威力を発揮しますが、着発信管の
精度が良好でないと不発弾が多発して目も当てられない惨状となる事が
影響した結果、歩兵支援の役をなす野砲の砲弾としてはWWIまで各国の
野砲用砲弾としては完全に普及するには至りませんでした。
…蛇足ながら、私も輸入弾薬で散弾と書かれているのは榴散弾の
事だと思います。クリミヤ戦争等この時期の戦争では、榴散弾は
極く一般的な弾種ですから。
日本製のアームストロング砲?
イギリスで見たぞ、なんだっけ敗戦後に持っていかれたらしいが英語わからないから詳細は忘れた。
>>56 どうも、ありがとうございました。勉強になりました。
そもそも後装アームストロング砲ってアームストロング社自身、失敗作と認めてるんじゃない?
たしか明治3年に後装砲の製造を一旦止めていると思った。
60 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 22:07 ID:HctpokwA
>>59 どうも、ありがとうございます。
初期の後装アム砲は、パドル錬鉄製の層肉強化砲身で、トラブルが多かったようです。
>たしか明治3年に後装砲の製造を一旦止めていると思った。
この前後に錬鉄製の層肉強化砲身を諦め、鋳鋼による一体砲身に転換したと思われますが…
61 :
奇兵本営:04/01/22 22:16 ID:yUBX7YDG
じゃあ次俺
日本史板から見てたけどご参考までに。
佐賀のア-ムストロング砲と直接の関連はないと思うが、防衛庁所蔵資料
「公文類纂」に明治9年11月鹿児島から武器弾薬類を東海鎮守府に船で
回漕した際の積荷の記録にア-ムストロング砲に関する記述がある。
一 二十アルムストロンク弾範三個
一 四十斤アルムストロンク弾範三個
一 四十斤アルムストロンク実弾五拾四個
一 四十斤アルムストロンク砲榴弾三拾二個実弾一個
一 二十斤アルムストロンク砲榴弾 三個
一 半作拾二斤アルムストロンク実弾三十五
当時の鹿児島は日本有数の兵器、弾薬、火薬工場が旧藩時代に続き
廃藩置県後も政府に引き継がれ生産が続けられた。
明治5〜9年の(8年は資料なし)「公文類纂」には多数の武器弾薬が
鹿児島より回漕されている大砲だけでも80門近くが記録。
鹿児島よりのア-ムストロング弾は恐らく鹿児島県下の台場に備え付けて
あったので弾を製作もしくは保管していたと思われる。
>60
閉鎖の問題だったと思う。
後装砲を全て止めて前装砲に戻したという記述を読んだ記憶が。
その間にクルップ社に技術的に追い抜かれたという話。
なんかの本の巻末年表に軽く書いてあっただけ程度の話しなんで信憑性は?ですが
要は佐賀藩が不良在庫をつかまされたということではないんでしょうか。
外人商館にだまされた話はこの時期よくありますし。
一般書籍で、アームストロング砲についてかかれているものご存知ないですか?
小説とかではなくて・・・
閉鎖器の問題というのを散見しますが、
具体的には、どういうことなのでしょうか?
>64
発射すると蓋が吹き飛ぶ(もちろん後ろに)
67 :
64:04/01/22 22:26 ID:???
>>65 それはつまり、発射の衝撃に耐えられない(装薬?薬きょうなのだろうか)ということですよね?
後ろの蓋を、がっちりと固定する技術が無かったということですか?
69 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/22 22:33 ID:HctpokwA
>>61 奇兵本営さん
どうも、ありがとうございます。
「四十斤・二十斤」とありますね。艦載砲だったでしょうか。
佐賀藩の艦載アム砲は、鋳鉄前装式で大型のものが多いようです。
アームストロング砲=後装式施条砲では必ずしもありませんよ。
アームストロング社で製造した砲がアームストロング砲であり前装砲もある。
幕末の文献自体、当時の知識レベルもあり相当不正確。
>>62 >閉鎖の問題だったと思う。
>後装砲を全て止めて前装砲に戻したという記述を読んだ記憶が。
これは、薩英戦争の後の話ですね。火門が曲がったり、閉塞器が歪んで開かなくなったりして、後装式のヤツも閉塞を固定して前装でつかったようです。(砲弾はどうしたんだろう。ボルトドライブを使ったのかな?)
>要は佐賀藩が不良在庫をつかまされたということではないんでしょうか。
>外人商館にだまされた話はこの時期よくありますし。
そうした点もあったでしょうね。ただ、アム砲より優秀なブレークレー砲やウイットワース砲も試験的に輸入しているようなので…
アム砲を選択したのは、供給の安定ということが大きかったのかなと想像しています。
72 :
49:04/01/22 22:47 ID:???
四〇ポンドの艦載安式砲は前装砲です。明治八年に軍艦扶桑の
建造に際してクルップ(克式)砲と比較の上、以後の艦砲としては
不採用となってます。
>>70 『松之落葉』という史料を基本にしています。
佐賀藩の御鋳立方の筆頭が、明治に入って書き残した佐賀藩製砲の記録です。
その作者が「本島藤大夫」
『松之落葉』には、輸入したアム砲について、「鋳鉄」「錬鉄」「前込め」「後込め」の別を分かち書きしてありますので、かなり参考になります。
面白いのは、本来の「gun」の意味で、「銃」を使ってて、「アームストロング砲」は「アルムストロング銃」としてあります。
74 :
49:04/01/22 23:01 ID:???
簡易ですが英海軍の安式後装砲の評価。
◯ 前装砲に比べて初速が低くて威力が低い
◯ 砲身にクラックが入る・閉鎖器に問題が生じる
◯ 前装砲に比べて命中精度が不良
初速が低いのは閉鎖器の機構が不完全で密閉力不足のため、
装薬を前装砲ほど増量できないのが原因ですね。
なお、錦江湾の海戦で21門の砲で計365発を発砲した際、
28の不具合が発生して砲撃が中断したことも問題視されており、
これは英海軍がその備砲を前装砲に戻す要因となりました。
因みにこの当時の安式砲のレプリカは英国の記念艦ウォリアーに
展示されてますので、調査されるならそれを見てきたら如何で
しょうか?
75 :
奇兵本営:04/01/22 23:09 ID:yUBX7YDG
本島さんへ
佐賀藩は軍艦にも艦載砲としてア-ムストロング砲を使用しているし
戊辰戦争の際にも砲隊を各戦線に派遣しているが、ア-ムストロング砲
と他の火砲で隊を編成しています自分は後世の議論より当時戦線での
ア-ムストロング砲の使い勝手はどうだったのかが非常に興味あります。
砲隊所属の佐賀兵の日記ないし覚書などないですかね?贅沢を言えば
羽州戦線に参加した武雄兵のがいいですね
アームストロング社の軍艦はクソ…
悲しい事に日露戦争で沈んだ2隻の戦艦はどちらも安社製…
話しをそらしてスマソ
>>74 49さん
イギリス、お金があれば行きたいです。
>>75 奇兵本営さん
蓮池藩(支藩)の従軍日記があったと思います。砲兵かどうか記憶にありませんが…
武雄領も調べてみます。
もしアームストロングが実際使われたとしたら
我が街に復建された日本で一番美しい城 国宝鶴ヶ城を破壊したのがアームストロング砲
という事になりますね。まー完全には破壊出来なかったみたいだけど
難航不落の平城鶴ヶ城がそう簡単に落ちては困るが・・・
あれが山城の青葉城だったとして死守するのが会津蕃士だとするなら
4ヶ月は耐えただろう何故なら青葉城には標的になる天守閣が存在しない
それにあれは城と言うより天然の要塞であった。
一度、青葉城を見にいったがあれなら冬まで持ったなと正直思った
冬になれば我が会津蕃が圧倒的に優勢だし
寒さに弱い貧弱な官軍なんて敵じゃない!敵じゃないって言ってんだろ!
こらこら。あわてて始めてしまった籠城戦で、最終的に籠城側が耐えられ
なくなったのが敗因だろ?>会津
主力を城周辺まで戻して戦力を整えた上で市街戦・籠城戦に持ち込めば、
もう少し耐えたのは確かだろうが。
スレ違いだしデムパっぽいのでここまで。
>青葉城
ありゃ城塞としてはともかく、藩の政治中枢としては最悪だ。
つーか、あの時期にわざわざ山城なんて作るんじゃねえ!
通学大変だったんだぞゴラァ!
あげ
>>80 なればこそ、軍事的拠点として有効…
つか、自分の恨みつらみと混同してどうするw
>>80 つーか、あんなとこに史跡を潰してまで校舎つくった大学当局が悪い(w
>>つーか、あの時期にわざわざ山城なんて作るんじゃねえ!
青葉築城時、政宗にはまだ野心があった
つーか死ぬまで野心があった為、徳川家康から信頼されてはいたが
最も危ないとも思われていた。
ちなみに関ヶ原に遅れていったのはわざとです。
>>78 >青葉城
あれは瑞巌寺と対になって、初めて城砦として機能する存在であったのに、それを家康に看破され、
瑞巌寺の建設途上で断念した事により、政宗は天下を諦めたのだが。
>難航不落の平城鶴ヶ城がそう簡単に落ちては困るが・・・
所詮は250年前に造られた代物です。長距離砲や後装銃を装備した軍隊と戦う為に設計された物では
ないので、それ程過大評価するには値しないでしょう(天守閣なんて、いい的だし)。
>>84 政宗は関が原には参陣していません。最上と共に上杉を攻めていたのですが、裏で南部を攻めたり
と姑息な事をやっています(それがバレたお陰で100万石の約束がパー)。
つーかさ忍者つかって寝込み襲えばええねん!
それにしては熊本城はよく保ったな
>>87 あれは城云々よりも、政府軍の火力密度と、鹿児島への上陸作戦の賜物。
天守閣がいい的なのは当たり前w
あれはあくまでも平時の施設であって戦闘では観測点としての機能でしかない
熊本城も天守閣が焼失したが戦闘の推移には影響しなかった
実際、日本の城塞の火器に対する陣地構築物としての強度は西欧の稜堡を備えた
近代的な要塞に劣ってはいない
ちなみにアームストロング砲を腕に義手代わりに装着して発砲したら
どうなりますか?
>34
日本史系のサイトでは「アームストロング砲を鋳造」と書いているところがかなり検索に引っかかってきますね。
日本史の研究者が言う「アームストロング砲」とは、後装の鉄製大砲全般を指すのかもしれません。
96 :
名無し三等兵:04/01/24 17:21 ID:NcsMDnfK
右手にアームストロング砲
左手にガトリング砲だ!
るろ剣の言う『幕末三大兵器』ってアームストロングの他は何?
アームストロング砲
ガットリング銃
装甲艦
100get!ΣΣ('∀`)
>>99 戦略的に威力を発揮したのはアームストロング砲だけだな。
装甲艦は使い方次第では役にたったかもしれんが……。
102 :
名無し三等兵:04/01/24 19:05 ID:NcsMDnfK
>>101 官軍にとって
装甲艦は
函館戦争の時に
非常に戦略的に重要
>>102 そかそか。
となると、役立たずは哀れなガトリンクのみか(笑)
104 :
名無しの格闘家:04/01/24 19:30 ID:NcsMDnfK
>>103 函館戦争末期に
土方等が考えて
軍艦強奪計画の阻止
に非常に貢献しています
もしガトリングガンなければ
軍艦を強奪された可能性は
高い
105 :
名無し三等兵:04/01/24 19:32 ID:tNzL6Dhm
腕強砲
>>103 勝元と氏家を抹殺するのには役に立ちましたby大村(w
107 :
名無し三等兵:04/01/24 19:42 ID:yAgKHSyR
108 :
名無し三等兵:04/01/24 21:51 ID:EtWBf3pa
>>105 この素晴らしき世界・・・
もしくは月面着陸。
みんな人類に建設的だったのに、この鉄の塊だけは破壊しかもたらしませんですた。
109 :
名無し三等兵:04/01/25 00:23 ID:BITKbFRw
>>95 >日本史の研究者が言う「アームストロング砲」とは、後装の鉄製大砲全般を指すのかもしれません。
これは日本史板の方でも書いているのですが、昭和9(1934)年刊行『鍋島侯爵家御蔵版 佐賀藩銃砲沿革史』にある「文久三年六月、6ttアルムストロング砲、試製あり(石黒手記)」という記述が、〈製造説〉の唯一の根拠です。同時代史料が全くありません。
日本史研究者がいう〈アームストロング砲〉は、ここに出てくるものを指していっていますね。幕末を専門にされる人は政治史の人が多いので疑問を持たれることはほとんどなかったようです。
また、同時代史料では「アルムストロング銃」あるいは「野戦銃」とされているので、「6ttアルムストロング砲」の記載自体が怪しいなと…
弾薬関係から追うと国産できたのか、輸入していたのか分かるかもと思ったのですが
1会戦当りの消費弾数も低かったみたいですね。質問の意図を明確にしていないレスで
失礼しました。
すると残る可能性は
保守などを外国商会に依頼していた可能性や
砲撃の技術として、砲の脇から射撃する目標を直接見ずに撃つことができたのか
などについてはどうでしょうか。
111 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/25 12:18 ID:BITKbFRw
>>109は私です。失礼しました。
>>110 >保守などを外国商会に依頼していた可能性
具体的な内容がよくわからないですが、特に記録にはなかったと思います。
>砲撃の技術として、砲の脇から射撃する目標を直接見ずに撃つことができたのか
これもよくわかりません。武雄にはアム砲の照準器といわれるものが残っているそうです。
『佐賀藩銃砲沿革史』の英製アム砲を記述した部分に、照準器のことが載っていたと思います。
112 :
愚考:04/01/25 18:13 ID:???
アームストロング砲という。
アームストロング社で製造した大砲のことだろう。
トヨタやホンダで製造した車をトヨタ車とかホンダ車と言うようなものだろう。
が、商標とか著作権とかが曖昧な当時、
アームストロング社製品をコピーしたものや、
コピーしようとしたものも含まれる場合があるかもしれない。
「派生品」はともかく、正真正銘のアームストロング砲であっても、
まさか、1種類の大砲を一度に製造してそれだけだった、
等と言うことはあるまい。
113 :
愚考:04/01/25 18:15 ID:???
砲弾重量、口径、構造、弾薬の種類、構造等を異にする様々な
「アームストロング砲」が、長年にわたる発展・変化のもと存在したはずである。
そもそも、「アームストロング砲」にはどのような種類があり、
一体、このスレで対象とするアームストロング砲は、
その中のどういう形式のものなのか?
これまでの議論は、こういった「アームストロング砲」と
ひとくくりにされるものの中の区別をした上でのものであったのか?
114 :
愚考:04/01/25 18:28 ID:???
アームストロング社の大砲の諸元・能力・性能・構造についてふれたカタログか、
それに類するデータペース、
せめて、ある程度共通した専門家間の形式に関する常識(軍オタが兵器について持つような)があって、
それらを議論する人間が前提・参考にし、
「××年××型のアームストロング砲」
といった区分を明確にした上での議論でなかったら、まさに不毛。
そういう区分が既にはっきりとされているなら、私のこの文の方が不毛。
「あるかもしれない。」とか「言うことはあるまい。」とか「存在したはずである。」とか
根拠のない思い込みでケチつけるのは建設的でないしまさに不毛と思うが如何?
>>114 松乃落葉には諸元ごとに区分されて記されているがそれでは不満なのかね?
>>115 で、どこがケチなんだ?
具体的にケチになっているところをのべよ。
>>116 で、その松乃落葉とやらを、みなが前提にして議論しているの?
幕末期の佐賀藩の軍制に関して「松乃落葉」の資料としての価値を
否定するとは凄まじい意見だな。
何故前提としてはいけないのか詳細キボン。
>118
どこで資料としての価値を否定している?
このスレ等で議論している人間は、みなその資料を前提にしているのか?
という疑問なんだが。
なを、念のために聞くが、貴公、「軍制」って、言葉の意味、ご存じ?
その「松乃落葉」という、「軍制」についての資料、
本当に、火砲の具体的な構造やスペックについてわかるものなのか?
軍事技術的面でも批判的に検討されてきているのか?
109が引用している「6ttアルムストロング砲、」というものが具体的にどういうものか、
「松乃落葉」を使っても使わなくてもいいから、ご教授を。
以上、幕末初心者の馬鹿な疑問。
>119
日本史版で一通りの史料は紹介されているんだから、軍事版でもう一回やる必要はないでしょ。
>1 のリンク先を読んでから戻っておいでませ。
>>119 無知は恥ではないが無知であることを開き直るのはとても恥ずかしいことだ
まあ君に理解できるとは思えないが
で、
リンク先を見てから言うが、
いろいろな種類のアームストロング砲の有効射程とか、
発射速度の違いとか、
制式の形式名とか、
どこにあるの?
ここで返事をしてくれる方は、
無知に対して決まり文句でしか返事をできない、
自分が何に対して無知なのかもわからない人なの?
松乃落葉には試射の記録も詳細に記載されていてるんだが(苦笑
まあ君は松乃落葉は認めていないようだが、それならば少しは自分で調べてみようとは思わないのか?
で、有効射程や発射速度や形式名を君が知ってないとこのスレは不毛になるのか?
自分には君のレスのほうがよほど不毛に見えるのだが。
>試射の記録も詳細に記載されていてるんだが(苦笑
その「試射」は、どういう意味での試射?
この質問の意味が理解できないなら、
貴官に大砲について技術面を語る資格はない。
>>125 自分で松乃落葉を読んでみれば?
それでまだ文句があるならまたここで質問したまえ、教えて君
>>123 >で、有効射程や発射速度や形式名を君が知ってないとこのスレは不毛になるのか?
車の形式や性能抜きで、車や車社会の発展について語るべしというスレがあったら、
それはかなり不毛。
このスレが、
有効射程や発射速度や形式名抜きでアームストロング砲についてかたるべしうという
スレであり、そのことの不毛さに貴官が気づいていないなら、
貴官の脳内も不毛。
「試射」について書いてあるとはいっても、
有効射程等、漏れの疑問に、具体例一つ出さない所をみると、、、
お休み、教えられない君。
↑なんで自分で調べてみようと思わないの?
つーか.議論が根本からかみ合ってなくても
煽り合いだけは進行できるもんなんだなあ。
アームストロング社製大砲
6ポンド前装砲・長さ60inch・重量336ibs・口径2.5inch
40ポンド前装砲・長さ120inch・重量3800ibs・口径4.75inch
70ポンド前装砲・長さ126inch・重量6900ibs・口径6.4inch
70ポンド後装砲・長さ126inch・重量7150ibs・口径6.4inch
松之落葉はwebcatで引っ掛からないですね。ですが古書店にはあるみたいです。
有効射程については、当時の砲は恐らく直接照準射撃のみで、間接照準射撃は
第1次世界大戦頃からでしょうから視界内と考えれば問題ないかと思います。
131に掲載して頂いた表でも砲弾の重さで区分していますし、投射できる重量が
重要だったのではないかと思いますが。
133 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/26 16:27 ID:2fvVC7JI
議論が混乱気味のようですので…
私の提示の仕方が悪かったかと思いますので、ここで問題を整理します。
【文献史的考察の基礎】その1
〈アームストロング砲佐賀藩製造説〉の根拠は、海軍少将秀島成忠が鍋島侯爵家の委嘱を
受けて編纂した昭和9(1934)年刊行の『佐賀藩銃砲沿革史』の記載だけです。(原書房で
復刻版が出ていますので、古本屋にあるかと)
『沿革史』の記述のほとんどは『松之落葉』の内容と合致しますが、アームストロング砲製造に関する以下の部分は、この問題の基本史料といえる『松之落葉』に記載が無いか、
異なる内容になっています
〈アームストロング砲佐賀藩製造説〉が成立するためには、基礎資料である『松之落葉』との記載を食い違いを説明する必要があります。
【文献史的考察の基礎】その2 『沿革史』の記載事項
「文久三年六月大銃製造方に於て六tt(ポンド)アルムストロング砲の試製あり(石黒記)」 p286
「(直正)公は能く時勢を達観して豫め最新式とも云うべき施條野砲及後装銃を購入又は製
造に全力を注ぎ遂にアルムストロング式後装砲を製造するに至れり」 p302
「文久三年○月○日 アルムストロング砲の試製着手」 p340
「(元治元年)○月○日 …四十封度(ポンド)後込アルムストロング砲を製造す」 p340
「(慶応元年以後月不詳) 九封度アルムストロング砲線長三尺七寸八分線数三十八條六封
度アルムストロング砲線長三尺九寸二分廻線三十條製造」 p341
「同(慶応三)年同(十二)月二十一日 …六封度アムストロング砲試放せし処四度十分
及四度三十三分十二丁及十五丁に於て殆ど命中せり
六封度アムストロング砲の製造要目左の如し
一、惣量 四十貫六百五十六匁 一、全長 五尺○二分六四
一、孔長 四尺四寸三分○八 一、孔径 二インチ五
一、線数 三十及三十二 一、廻度 六尺二寸七分」 p341
上記を整理すると、
1863年6月に前装ないし後装の6ポンド砲の試作に着手、1864年に40ポンド
後装砲を製造、1865年に前装ないし後装の6ポンド砲と9ポンド砲を製造、1867年12月
21日に前装ないし後装の6ポンド砲を試射した
ということになります。
「製造要目」と
>>131さんに御呈示いただいた資料とでは、口径は一致し、全長と重量はかなり近似しています。この「製造要目」は『松之落葉』には記載がありません。
【技術史的考察の資料】その1
それから『沿革史』の中の「精錬方研究事項」として記述されているものの中にアームス
トロング砲製造法に関する記述があります。重要な資料ですが、読みにくいので私が現代
語訳しました。pp370-374 (長いです)
〈アームストロング砲佐賀藩製造説〉が成立するには、以下の製法による製造が可能であったことの証明が必要になると思います。
「英制大小銃論(1860年オランダ人フレメン著)からは,車台アホイト製式,火管(ボイ
ス・フーヂー・パトロン類)製法,大砲製造に最良の鉄質選定法,イギリス製施条砲(ア
ームストロング砲製造方式)。
これら研究事項のうちイギリス製施条砲アームストロング砲製造方式は最も苦心惨憺し
たもので,当時参考とした原訳書はまことに佐賀藩が製造したアームストロング砲の基
礎となったものであるので,その大要を以下に抄記する。
【技術史的考察の資料】その2
『英国式施条砲の研究大砲製造に最良の金属は,イギリスにおいて最も多くの研究
が必要なものであった。鋳鉄および青銅製のタガをはめて鋳鉄砲身を補強する方法,
鉄線を巻いて砲身を補強する方法,砲身に管状の部品を焼き固めて補強する方法,あ
るいは鋼鉄で砲身を製造方法などがあり,その利害得失には各説があった。製造容易
であったが,試射に於いて破裂することが多い単肉鋳鉄砲身は次第に不利となった。
青銅製砲身は単肉鋳鉄砲身よりは有利であるが,高価であること,大口径・強装薬に
耐えにくいこと,発射の際に弾丸により砲身内腔が摩滅しやすい,などの欠点があっ
た。しかし,施条砲では強装薬を用いないので内腔の摩滅のおそれが少なく,また後
装砲であれば内腔の熱発生を防げるので,青銅製砲身で十分であるとの説もあった。
しかし,マニュアルによって製造された青銅製砲身を試射すると他の金属材料に劣っ
た。当時イギリスで最も先進的な施条砲はアームストロング砲とウイットウォース砲
であった。特に,アームストロング砲はイギリス官製で,他国でも製造している。
イギリスでは施条砲の呼称に未だ旧称を用い,口径は弾丸重量の単位であるポンドで
表現する。しかし,施条砲では円錐弾を発射するので,球形弾より重量が大きくなる。
同じポンド数で表現された滑腔砲の口径と比較すると施条砲の口径はかなり小さなも
のになる。これに注意し混乱を防ぐことが必要である。
【技術史的考察の資料】その3
アームストロング砲の多くはウールウイッチ製作場で製造され,アンテルソン氏がこ
れを監察した。アームストロング氏はニューカストルの自製の製鉄場をもち,そこで
も大砲を製造している。この砲の製造には全く別種の機械装備を用い,従来の製砲と
大きく異なるので,ここに概略を記す。
良質の細長い錬鉄材―その大きさは砲の大小によって異なり100ポンド(約45.4キロ
グラム)弾丸用の砲では長さ90フィート(約27.4メートル)より短くない―を用意
し,これを狭長炉の中に入れる。錬鉄材が白く発光まで熱せられた時に炉口を開き,
研磨した鉄筒の外周に徐々にこれを巻き込む。巻き終わると鉄筒を立て,錬鉄材を外
す。巻いた錬鉄材は大炉の中に入れ白く発光するまで熱し,直立した鉄筒中に入れて
蒸気ハンマーで鍛造し,短い筒とする。
次にこの筒を回転台にあげて内外面を研削―よって少しの傷も認められない―する。
同じ様な第二筒もまた鍛造し,第一筒と入れ子にはめ込んで大炉の中に入れ十分に焼
きはめる。さらに第三筒を鍛造し,第一筒・第二筒ともに焼きはめて,砲身とする。
第一筒と第二筒の焼きはめにあたっては雌ネジ部に近接して赤熱した第二筒をはめ込
む。第三筒を焼きはめる時は,注水して砲身を冷やし固定する。
【技術史的考察の資料】その4
砲尾は,数層の錬鉄によって層成する。この部分には鉄の横繊維は用いずに竪繊維―
装薬のガス圧に耐えるためである―を用い,蒸気ハンマーで筒状にはめ込み研削成型
して,砲身と接着する。さらにこの部分に二重の第二筒を焼きはめる。この方式によ
る鉄の耐抗力は,1立法インチ(約16.39立方センチ)あたり33トンにのぼる。雌ネ
ジ部と砲尾は研削成型して,細かく検査し,回転台にのせる。これは同時に4挺を直
立して鑚孔する。1挺の砲にそれぞれ2回の鑚孔が行われ,1回に6時間ほどかかる。
最初の鑚孔は口径の10分の1ほどの孔をあけ,2回目の鑚孔で口径いっぱいの孔をあ
ける。
砲身に施条を入れるには〈平空の鑚盤〉を用いる。5時間ほどかけて38本の施条を順
番に入れていく。条溝の深さは18分の1インチ(0.14センチ),溝の片側は直角に立
ち上がり,もう片側は丸みを帯びる。10フィート6インチ(約3.2メートル)かけて
条溝は一周する。後部薬室にあたる部分は条溝はなく,砲身よりやや径が大きい。
薬室の最前部は径をやや大きくしている。発射にあたって砲弾の鉛を条溝に食い込ま
せ,砲身内腔の摩耗を少なくさせるためである。
砲尾の上面には方形の孔がある。この孔は火門と小室を設けた鋼鉄製の閉塞器で閉じ
る。その後ろの砲尾端には雌ネジの螺旋が切ってある。
【技術史的考察の資料】その5
閉塞器の前面には銅輪がかませてあり,薬室後端の銅輪と接合して密閉する。この閉
塞器の製造は特に精密ものでないと,その砲の威力は発揮できない。閉塞器は同口径
の砲での互換性が必要である。閉塞に用いる銅輪は,小型の蒸気ハンマーで鍛造し,
適度の強度をもたせる。およそ100回の発射したら,修理が必要となる。閉塞器には
銅製の火門が設けてあり,装填にあたってはここに火管を差し込む。砲には緩衝剤を
塗り,炉に入れて適温で酸化させた後に研磨を加える。そのため砲身は美しい黒色で
仕上がっている。
砲身が完成して,照準器をつける。これは,近距離用と遠距離用の2種類がある。
近距離用のものは,ねじ込み栓の高い所に照星があり―われわれのカノン砲と同じで
ある―,後部には照門があって強い〈弾子,ヘール〉で維持されている。50ヤード(約
45.7メートル)ごとに目盛りが切ってある。
遠距離用のものは,右側に照準器をセットして着弾誤差を修正する。
照門の覗き孔は大裁針の孔より小さい。以前はこの孔に4個の切れ目が入っていたが,
正しい照準に害があるので,新型のものでは省かれている。
100ポンド(約45.4キログラム)弾丸を使用するアームストロング砲は,口径7イン
チ(約17.8センチ),全備重量70ポンドウエイト(約3800キログラム)である。砲
身の中位に照準器を設けず,極めて重要な閉塞器を装薬とともに後部に置いているた
めである。
アームストロング砲の製造に要する時間は,錬鉄材を炉に入れ,研削・焼き固めを経
るまで6〜7週間である。附属機器を完備した完成品として,年間1000挺を生産して
いる。
【技術史的考察の資料】その6 これで終わりです。
砲の価格は著しく高価なものであるが,その性能により兵士の数を省け,長く使用で
きることを考えれば,他の種類の砲の価格と比較しても安いものであろう。
使用する弾丸は中空弾で,口径の約3倍ほどの長さの円錐形である。円柱をなす部分
に2条の鉛ベルトを付けていて,それが条溝に食い込むようになっていて,砲身内腔
と弾丸の間には隙間ができない。装薬の発射には通常,火管を用いている。
野戦砲には一種類の弾丸だけを用いる。この弾丸は,実体弾・榴弾・焼夷弾などの性
質を合わせ持っている。この弾丸は,破片子49個をまとめて成形した内部に1.5オン
ス(約42.5グラム)の爆薬を入れ,発火には信管を用いている。弾丸の先端部の雌ネ
ジには通常信管を用いているため,閉塞にも使える。(以下略)』」
141 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/26 18:35 ID:2fvVC7JI
長々、書き込んですみませんでした。
>>133-134についての補足 〈佐賀藩製造説〉成立の背景として
『沿革史』の序文では「当時精鋭無比と称せられたる後装施條式アームストロング砲まで
も模造し得た事は、世間殆ど之を知る者がない」として、昭和9年以前に〈アームストロング砲佐賀藩製造説〉が存在しなかったことを窺わせています。
ちなみに同じく序を寄せている陸軍中将工学博士南部麒次郎は〈佐賀藩製造説〉について
は全くふれていません。
なお、編者である秀島本人の『沿革史』照会文(『肥前史談』)の記述は以下のとおり。
「石黒氏の遺書によれば其着手せし項目如左 (中略) 若し是等の研究完成して実際に
応用せらるるの機運に遇ひ仮すに時日を以てし維新大変革起らずして右事業を継続せしな
らば佐賀市は実に文化の中心地となりて士民雲集其の繁盛市街を現出せいならんと云ふも
敢て誇張の言に非らずと信ずるなり」
これにより秀島は、精煉方の洋学者であった石黒直寛(寛次)が記した諸記録によって〈佐賀藩製造説〉が成立したことを示し(この史料は現存しない)、もし明治維新が無ければ佐賀こそ文化の中心地であったと嘆いています。
142 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/26 20:06 ID:2fvVC7JI
>>135-140を整理したアームストロング砲の項目は以下のとおりです。
1:後装施条砲の形式であること、
2:砲身材料がパドル錬鉄であること、
3:ケーシングによる層肉強化砲身であること、
4:後部閉塞は鎖栓と組合わせた螺式であること、
これが〈アームストロング砲佐賀藩製造説〉におけるアームストロング砲の定義といって良いでしょう。問題はこれが実際に製造できたかどうか???
以上で終わりです。長々と申し訳ありませんでした…
>『佐賀藩銃砲沿革史』
疑問に思った点をつらつらと挙げてみる。
・石黒氏の遺書
現存してないのは仕方が無いとしても『佐賀藩銃砲沿革史』以外にも、この記
録について書かれた書物があるのだろうか? 無いのなら『石黒氏の遺書』自体
の存在を疑っても良いかもしれない。
・(直正)公は能く時勢を達観して〜
鍋島直正が命じた事業であるなら、その結果が直正に報告されていてもおかしく
はないよね? 直正の日記に「アームストロング砲の製造」に関する記述は無い
のだろうか?
>>126 新刊本屋に置いてあるワケでもない本を、簡単に「読め」と云う奴は嫌いだ。
自分で読んだ事があるんなら、多少でも内容を教えてやれよ。
自分の知識を誇るだけで、それを教えようとしない奴は、どんなに知識があっ
ても人間としてはクズやと思う。
◆本島藤大夫 氏
ところで『松之落葉』に試射の記述はあるの?
146 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/26 22:27 ID:2fvVC7JI
ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0Eさん、レスありがとうございます。
>>143 >石黒氏の遺書
これにふれてあるのは『沿革史』だけです。
というか、皆さん昔から探しているのですけど、出てこない。どこにも無い。
最初から無かった可能性があると思います。
『沿革史』と『松之落葉』の記述の食い違いは少ないんですが、ココというところで食い違っている。
>(直正)公は能く時勢を達観して〜
これも全くないですね。基本史料の『鍋島直正公伝』にもありません。
>>145 >ところで『松之落葉』に試射の記述はあるの?
今ザッと見直したんですけど試射の記録は、慶応三年四月の項(pp334-335)に新製フランス四tt山砲、三ポンド山砲改造四tt長砲などがありますが、アム砲試射の記録はないようです。もう一度見てみますが…
思文閣出版『幕末軍事技術の軌跡 佐賀藩史料「松之落葉」』
>>146 たとえば、新製フランス四tt山砲、三ポンド山砲改造四tt長砲試射の話が『鍋島直正
公伝』にはあるのでしょうか?
もしそれがあるのなら、アームストロング砲の試射の話があってもおかしくない、
それが無いのは…… って話になるとは思うのですが……
でも、山砲等の試射の記述が『鍋島直正公伝』になけりゃ〜 どうしましょうかね?(w;;
>石黒氏の遺書
・現物が存在しない。
・一編の書物でしか、その存在が確認できない。
と云うのは、典型的な存在の怪しい資料と思うのですが、歴史研究の方の人は、
そこら辺をどう考えてるんでしょうかね?
>>147 >たとえば、新製フランス四tt山砲、三ポンド山砲改造四tt長砲試射の話が『鍋島直正公
>伝』にはあるのでしょうか?
ああ、『公伝』は直正の日記ではないです。直正を中心に据えた編纂物ですね。その中には
試射の話は出てきません。
>石黒氏の遺書
>現物が存在しない。
>一編の書物でしか、その存在が確認できない。
>と云うのは、典型的な存在の怪しい資料と思うのですが、歴史研究の方の人は、そこら辺
>をどう考えてるんでしょうかね?
私もとても怪しいと思ってますよw
皆さん、お困りだとお察ししています(最近は水面下で文句つける人間も多いから…)。
最初から本来あるべき手続きを踏んで研究を進めなかったせいだと思いますが。如何に政
治史の人が〈軍事〉を扱うにせよ…
日本史板でも書いてますが、最近では〈製造説〉に対してネガティブな研究も出てきてます。
>>148 >初から本来あるべき手続きを踏んで研究を進めなかったせいだと〜
友達で大学院で史学をやってる人が居るのですが、その人曰く、
「その分野の権威が一言云っちゃうと、修正するのが大変」
多分、アームストロング砲に関しても、それが云えるのではないかと〜
>>149 >「その分野の権威が一言云っちゃうと、修正するのが大変」
ええ、それもあるでしょう。権威らしい権威はいないのですが…
それから一度話が広まると、地元の人の思い入れも強烈なものがあります。
ちなみに司馬遼太郎の『アームストロング砲』は、『沿革史』をきれいに引用しています。細かな間違いはほとんどありませんw
私としては、〈アームストロング砲伝説〉から早く解放されて、正当に佐賀藩科学技術が評価されることを望みます。
〈アームストロング砲製造〉を付け加えなくとも、彼らの業績は日本史に冠たるものですから。
本島さんが頑張って権威になればモウマンタイ!
って、そんなに簡単になれたら苦労しないんだろうけどなあ
ちょっとスレ違いの話。
何故、本島さんはこの事に興味をもたれたの?
>>151 >何故、本島さんはこの事に興味をもたれたの?
むかしむ〜かしの工房のころ、大河ドラマの『花神』でアームストロング砲を見たのがキッカケでしょうか。
ミーハーですがw
その後〈アームストロング砲佐賀藩製造説〉を知り、自分で調べ始めると何か変だなと…
製鉄史での〈アームストロング砲佐賀藩製造説〉への評価を知り、『松之落葉』と『佐賀藩銃砲沿革史』を突き比べるとどうにも怪しいと思うようになったと…
足しになるかどうか分からないんですが、水戸の偕楽園脇の常磐神社の
拝殿前に大極砲というのが置かれていたことがありました。
施条というほどではないんですが、内部をみると正多角形が旋回しつつ刻まれる
形となっています。
ところで、当時の史料にでてくる試射というのは具体的にはどんな手続で
行っていたのでしょうか。射場があってそこで距離を測っていたのでしょうか。
仮に当時の佐賀の町の郊外であれば、射場跡の塚などが残っていて
そこから弾片などが出土したりしないものでしょうか。
154 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/27 12:52 ID:LDgAMEDr
>>153 >大極砲
ん、どこかで読んだ記憶があります。金子功さんの『反射炉』だったかな…
>試射
具体的にどんな手順だったかは、よくわかりません。
『松之落葉』の慶応三年四月の項には、
「フランス四tt山砲線条アリ 一門御試に御鋳立 此砲十二丁試放弾着相応有之」
とあります。一丁は大体108mとして、1300m飛んで命中したことになりますね。
どこを射場にしたかもよくわかりませんが、『鍋島直正公伝』によると嘉永四年に「中折村
に二百間四方の調練場を設く」とありますから、この調練場で試射したかもしれません。
今の佐賀市立日清小学校一帯だそうです。
ちなみに、ここは佐賀藩の築地反射炉があった場所でもあります。反射炉当時の鉄屑はよく
出でくるそうです。
156 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/27 19:05 ID:LDgAMEDr
>>155 >日新小学校ではないでしょうか。
あっ、そうです。 ×日清小学校 ○日新小学校
どうも、すみません。
>>157 >多布施の反射炉
これは、佐賀藩に2カ所あった反射炉のうちの、新しい方ですね。
幕府が品川砲台の備砲を佐賀藩に発注したため、築地の反射炉と別に新たに造営されまし
た。正式には「公儀石火矢鋳立所」といいます。
当時の反射炉の立地は水と薪炭が得られる平地と考えていいんでしょうか。
佐賀宿のサイトを見つけたのですが、築地の反射炉は宿内にあったような感じです。
街道の裏手、川側にあったのかもと想像しています。
160 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/01/28 21:08 ID:vSLjVcMQ
>>159 佐賀藩の反射炉(幕末に各地で行われたものも含め)は、『ロイク国立鉄製大砲鋳造所にお
ける鋳造法』(1826)というたった一冊のテキストを元にして行われました。その内容は
1:鉄鉱石とコークスによる高炉(溶鉱炉)銑鉄の製造
2:その銑鉄に含まれる炭素分を抜くための反射炉による溶解・精錬
3:反射炉で脱炭した溶解鉄を鋳型に流す鋳砲
4:蒸気機関によって錐刀で砲腔を穿つ鑚開
の各方法が記されています。
佐賀藩では、1の高炉は建設せず原料鉄を他から入手し、4の鑚開には蒸気機関ではなく、
水車を動力として用いました。
水車動力を確保するため、流量のある水路(川)の側に反射炉を立地したようです。築地
も多布施も川の側にありますね。築地反射の試験操業(1850)では渇水で水車が回らず、
鑚開がうまくいかなかったようです。
ageときます。
薪炭ではなく、コークスだったとは失礼しました。
銑鉄とコークス、それから反射炉の構造体である煉瓦
動力源として水車を用いたということですね。
反射炉のパドルは水車の動力を用いてかき混ぜることはできたんでしょうか。
それとも、さほど大きくはなく人力で混ぜていたのでしょうか。
163 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/02/01 03:33 ID:2Rp8k/JP
>>162 >薪炭ではなく、コークスだったとは失礼しました。
あっ、いえ、佐賀藩の反射炉の燃料はコークスではなく木炭です。コークスは
高炉の燃料として使われるものでしたが、佐賀藩では高炉は建設されていません。
それから、原料鉄は最初はタタラによる「石見のナマコ鉄」を使ったことが記録
にあります。その後、鋳砲に成功した段階での原料鉄に、輸入した高炉銑鉄が使
用された可能性が製鉄史の方で指摘されていますが、決着してません。
>反射炉のパドルは水車の動力を用いてかき混ぜることはできたんでしょうか。
>それとも、さほど大きくはなく人力で混ぜていたのでしょうか。
佐賀藩の反射炉は、炉内で溶解した鉄を攪拌できる構造ではなく、〈パドル炉〉
ではありませんでした。(同時代のイギリスのパドル炉は人力で攪拌していた
ようです)
したがって、アームストロング砲の砲身材料である〈パドル錬鉄〉は佐賀藩で
生産することは出来ませんでした。また、〈パドル錬鉄〉を輸入した記録も残
っていません。これは私の〈製造否定説〉の根拠のひとつです。
>163 いつも丁寧なレス有難う御座います。
反射炉の操業に関してなのですが、佐賀宿や近隣農村から人足または
人足を雇う為の金銭やその金銭を賄う為の農産物が徴収或いは提供された可能性は
あるでしょうか。操業に際して提供した労働の内容によってはアームストロング砲
関係固有の作業をしているのではないかと思って伺ってみるのですが。
私は誰にでも「さん」をつけるんだ。
例えば、お月さん。
例えば、こっくりさん。
166 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/02/03 23:19 ID:fr1j7ejZ
>>164 難しい御質問ですね〜
>佐賀宿や近隣農村から人足または人足を雇う為の金銭やその金銭を賄う為の農産物が徴収或
>いは提供された可能性はあるでしょうか。
反射炉の操業には、御用鋳物師の(西)谷口家一門、刀工の橋口家(肥前忠吉)一門が加わって
いまして、それらの職人が主力となっていたようです。
費用は、借金踏倒しや税制改革で貯め込んだ直正の「御手廻金」でまかなったようです。「御賄
方」がかなり青くなったようですが…
>操業に際して提供した労働の内容によってはアームストロング砲関係固有の作業をしているので
>はないかと思って伺ってみるのですが。
〈アームストロング砲製造説〉の唯一の根拠文献である『佐賀藩銃砲沿革史』では、アームストロング
砲の製造は、反射炉を操業した「御鋳立方」ではなく、理化学研究所といえる「精煉方」が担当した
としていますので、「御鋳立方」の記録からは分かりません。
いずれにせよ、パドル炉の問題も含めて、
>>135-140であげたような作業が、当時の佐賀藩で可能で
あったとは思えませんが…
アームストロング砲の重量や砲車、牽引に要した牛馬の頭数や人数など
はどうだったのでしょうか。他国で採用されている編制と異なるところが
あれば、日本のアームストロング砲はひょっとして輸入されたものとは
異なる砲をも含んでいたという可能性はあるでしょうか。
168 :
本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/02/07 00:34 ID:IBArhNsL
>>167 >重量や砲車、牽引に要した牛馬の頭数や人数など
佐賀藩のアームストロング砲の運用に関する記録は見当たらない(残っていない?)ので、
その辺の編制までは解りません。
英国の記録では確か、1859年に採用された12ポンド後装アームストロング野戦砲では、
砲車と弾薬車(?)合わせて馬六頭立てだったと思います。(佐賀藩で確実に輸入している
野戦砲は6ポンドと9ポンドです)
どうも、お答えならなくて、申しわけありませんが…
169 :
名無し三等兵:04/02/07 22:25 ID:Mbo273RV
日本史スレから流れてきたんですけど、佐賀藩士について伺って
分るかたいらっしゃいませんか。
いません
>>166 波佐見金山を巡る攻防を調べてみると
なにか新しい知見がある鴨。
172 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/02/10 14:22 ID:bWyZdj6m
日本史板に書き込んだので、こちらにも貼っておきます。
気になる記録を見つけたもので…
精煉方に属していた、からくり儀右衛門(田中久重)の伝記である『田中近江大〓』に含
まれる「翁手記の年譜」には、安政五年(1858)に「アルムストロング六封度筒」という
記載があるそうです。
当時の精煉方は開発に先立ち、蒸気機関車、蒸気船または大砲などの雛形を試製していま
す。早い段階で、アームストロング砲の雛形も試製していたのかも知れません。
今津健治『からくり儀右衛門―東芝創立者田中久重とその時代―』ダイヤモンド社p.128
マルチウザい死ね
マルチというより資料貼りだろ
<波佐見金山
明治に入ってからの発見だとネットにはありましたが、幕末と
関係するんでしょうか。
age
>>175 単語でググっても無意味。
金山の成り立ちと、あの近辺の攻防史から当たらないと駄目駄目。
178 :
549:04/03/09 12:53 ID:???
保守
バットウサィィィィィ!
なんでこの時代は製造会社の名前で砲や銃を呼ぶのですか?
182 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/03/16 23:34 ID:CMlpIsF8
>>181 う〜ん、何故でしょうね。
考えてもみませんでした。
飛行機は今でもそうじゃん
B-17もB-29もB-52もまとめて「ボ−イング爆撃機」とは呼ばんよ。
現代だと最初に会社名、型番、愛称という順番だが・・・
セポイの反乱の時の時とエンフィールド銃と第一次大戦の時のエンフィールド銃は
違うけど、どうも混同してしまう。
6時にメッサーシュミット!
ってのは?
F4FもF6Fもグラマン
後上方に川崎!
々 に中島!
々 に九州!
・・・・・・
馴染まんな(;´Д`)
188 :
名無し三等兵:04/03/26 01:24 ID:F9+g7WOe
age
カタリナ飛行艇→コンソリってのも
コルセア→シコルスキーは…
佐賀人は、渡来してきた、チョンの子孫だから、本家本元と同じで捏造が好きなんだよ。
そのうち、「アームストロング砲の起源は、ウリナラの藩ニダ。」とか言い出しそうだな。(ワラ
保守して置きます。
ほと
194 :
奈砲れおん:04/04/03 14:02 ID:YkdyQLnb
age
画期的な技術が導入されたときは
「ゼロックスしといて」
などという言葉に会社名が使われる場合もある。
そりゃけっこうなジジババだぞ>>ゼロックスしといて。
類
・「ラッタッタで出前」
・「ファミコン」
・ホチキス
「ここは悪いインターネットですね」
ニンテンドー
も似たようなものかな?
要は代名詞。
あと電子レンジの温めを「チン」っていうな。
我が国の場合、軽飛行機は全部「セスナ」だしねぇ。
「パイパー社製のセスナ機が墜落して云々」と言うのがニュースで
出る事もあるしなぁ。
203 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/04/08 21:47 ID:q0huuGx9
「現在佐賀県立博物館の前庭に、かって品川砲台に備えつけられ、のち旧渋谷鍋島
侯爵邸内に所在したと伝えられる鉄製24ポンドカノン砲が復元・保存されている。
近年の産業考古学的研究によれば、この鉄製大砲の原型は、佐賀藩の鋳造によるも
のでなくアメリカ Bellona Foundry 社製との説が有力である。」
斉藤利生「松濤の二十四ポンド砲に対する疑問」
ずいぶん昔から指摘はされていたんですがね…
>203
ところで、アームストロング砲の『砲弾』は展示されてるのでしょうか。
アームストロング砲の場合、鋳造(鉄)前装式の時から、
現代の無反動砲弾のように、ライフリングに合わせて施条された「榴弾」があります。
この場合の「榴弾」は、グレープショットやキャニスターでは無くて、
火薬の入った、現代の榴弾と同じ設計思想の物です。
205 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/04/08 23:52 ID:q0huuGx9
>>204 佐嘉神社に復元アームストロング砲と一緒に砲弾の復元品も飾ってありましたが、
形状から考えるともっと後の時代のものと思われます。
何か混乱があるのでしょうね…
206 :
204:04/04/09 00:24 ID:???
207 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/04/09 18:11 ID:cYFD4LFG
>>206 なるほど、面白いページをありがとうございます。
アム砲の砲弾は、下の文献にいい挿図が載ってます。
有坂〓蔵(1916):兵器沿革図説(東京帝国大学工科大学紀要7-1),東京帝国大
学,東京. 原書房 復刻(1983):兵器沿革図説.
佐嘉神社の復元砲弾は、もっと新しい日露戦争くらいのものかと思われます。原型
は県立博物館にある鍋島報效会の寄託品らしいですが、やっぱ混乱があるような…
幕末当時の『国産鋳造前装ライフル砲(青銅)』の技術レベルについては
世界銃砲史に載っておりました。
(アームストロング砲の国産化については記述無し。鉄鋳造の失敗例は記述有)
慶応三年(1867)に来日したフランス軍事教導団のシャノワヌ大尉は、
江戸の、武田斐三郎の設計した製造所を褒めている。
国産鋳造青銅前装ライフル砲について、鋳造技術の精巧さは称賛した上で、
銅の成分分析の必要性を述べている。(強度検査を主眼に置いた分析)
ただし、ライフリングそのものについては多くが「正常でない」としている。
また、砲架や砲車などは軍事運用のレベルに達していない。
・・・このように分析しています。
佐賀藩の場合も、「技術的に出来ない事を確認した」だけでも重要で、
とても意味のある事だったと思います。
明治に始まる製鉄業は、本を参考にするだけでは追いつけない彼我の差を、
前もって知った上での出発となったわけですから。
幕府・薩摩・佐賀が参加した万博では、クルップの巨大砲と超巨大鉄鋼塊を
みせつけられて、彼我に横たわる技術的な断絶が、
文字道理通り『一目瞭然』となったわけで、当然といえば当然でしょうが。
209 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/05/10 15:25 ID:iUh/0geN
>>208 >佐賀藩の場合も、「技術的に出来ない事を確認した」だけでも重要で、
>とても意味のある事だったと思います。
同意です。
ボムカノンの鋳造には成功していますが、解禁後はイギリスから多様な銃砲類を多
数輸入していますからね。自らのぎじゅつレベルを認識できたのだと思います。
砲はともかく榴弾の国産は国産出来たのかねぇ。
確か薩英戦争時に薩軍が旧式砲から発射する自作の炸裂弾を使って英軍指揮官を爆殺してるが(当の英軍は日本製ではなくロシア製の砲弾だと思ったらしい)本格的な信管にはそれなりにノウハウがいるからなー。オウムも雷管で失敗してたしね。
当時の佐賀藩が着発式の砲弾に取り付ける雷管を当時量産できたか激しく疑問。
黒色火薬程度ならともかく感度の高い火薬も砲弾の量産が可能なほど手に入ったのか怪しいし。
薩摩は、「工業的」な火薬製造工場を所持していました。
薩英戦争では使用機会が発生しませんでしたが、
電気発火方式の「機雷(当時は水雷と呼称)」も、三基のみだが実戦配備していた。
この機雷も、薩摩で生産した物です。
火薬(装薬)に関しては、1886年にフランス陸軍が正式採用した「B火薬」が、
最初の無煙火薬であり、
爆薬のニトロセルロースも1866年にようやく安定化に成功したばかり。
この当時は、軍事目的はまだまだ黒色火薬が全盛時代ですから、
黒色火薬が「時代後れ」とは言えないと思います。
薩摩がイギリス支那派遣艦隊旗艦「ユーラリアス」の艦橋に命中させたのは、
西洋風に言うと100ポンド砲もしくは200ポンド砲のどちらかだといわれています。
「海軍創設史」篠原宏、にも「炸裂弾」との記述がありますが、
詳細は判りません。
また、発着信管ですが、球弾用の「スプリンガルド信管」系のものでしたら、
構造も複雑ではないので、当時の日本でも生産可能だったのではないかと思います。
しかし、ライフル砲弾用の物となると、まだ欧州でも最新技術に属する物でしたから、
正式な技術移転無しに、生産というのはどうでしょう。
薩英戦争後に、イギリス艦隊が放ったアームストロング砲の砲弾のうち、
30発余りの榴弾の不発弾が薩摩藩によって回収されていますので、
これが後に研究材料となる事も、考えられなくは無いでしょうが・・・。
212 :
210:04/05/14 21:40 ID:???
>>211 いやいや、詳しいですね。
正直、幕末は詳しくないんで参考になります。
薩摩の炸裂弾は大昔に読んだ「江戸時代技術史」か何かに大雑把に書いてあったと思ったんですが、あれは確か球弾用だしなー。
旋条砲用となると一発二発ならともかく実践で使用するってレベルではとてもじゃないけど無理だと思うわけですわ。
213 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/05/15 14:38 ID:0mzTL4g+
アム砲の砲弾なら、グラバーを通じて榴弾、散弾(多分、榴散弾)をかなり
まとまった数、輸入していますので、佐賀藩が自作したことはないと思われ
ますね。
佐賀藩と反射炉:新日本新書501:長野暹/著
新日本出版社:2000年06月 ISBNコード:4-406-02748-3
206P 18cm \997円(税込)
*私は未読ですが、他の本を探していたら見つけました。
215 :
本島藤太夫 ◆ditZSI9Xmw :04/05/18 15:09 ID:qA4uDtQ3
>>214 一昨年あたりから立ち上がった「幕末佐賀科学技術史研究会」の主要メンバーですね、長野先生…
ランス
保全あげ
アームストロングは死んでもラッパをはなしませんでした。
保守
アームストロング砲なら
>>216 時期的に気分が高揚して来てるのは理解できるし、何を隠そう漏れも
そうだが、スレ違い板違いも甚だしいw
223 :
名無し三等兵:
鍋島【閑叟公】直正=ゲル長官