さてさて、ロンメルは1941年2月に北アフリカに着任します。
これが「ひまわり作戦」と名付けなれたアフリカ支援作戦の始まりです。
最初の実働部隊である第三捜索大隊と第39装甲猟兵大隊は2月14日にトリポリに上陸。
2月24日には高射砲部隊と各種輸送隊が揚陸されその後三ヶ月いっぱいをかけて
第五軽師団のほぼ全部隊が上陸してきます。
ところでこの頃、伍長閣下は対ロシア戦に夢中でした。
まだ頭がまともだった伍長閣下は北アフリカを戦略的に低い位置に置いていました。
イタ公とイギリスにとっては主戦場であったがドイツにとっては主戦場では無かったからです。
そこで伍長閣下からロンメルに与えられた命令は以下の物でした
『リビアを守り、できるだけ長期間(ソ連降伏まで)地中海をドイツの負担にしない』
と、いうかなり消極的なものでした。
しかしながらロンメルは戦いの主導権を握る為に命令を無視して攻勢に出ます。
しかしロンメルには大規模攻勢作戦を成功させる戦力はありません。
その上、埃及制圧はイタリア軍が行なわないといけないので、
ロンメルは補給を無駄に消費するだけの足手まといでしかないイタリア軍と共に、
伍長閣下の真の意向も知らずに戦わないといけなかったのです。
(埃及を占領できれば中東に対する橋頭堡を得られるし
中東と言わずともスエズを制圧できれば海上補給線を脅かすクレタを無力化できる
のでバルバロッサの進路を中東に向けていれば・・・
後のロシアに対する支援を遮断できるしインドを挟撃する形にもっていけたかも
・・・・もちろんこれはIF以上の妄想なので突っ込まないで下さい)