補給戦 海上護衛戦

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703名無し三等兵
さて、D計画について少し述べてみませう。
D計画自体は、本来C計画に次ぐ、1940年実施の年度計画だったのですが、その決定は遅延し、
その間に○臨、○急、○追が1941年に相次いで追加され、更に出師準備、臨戦準備の各計画の
混乱の中で、1942年度計画として承認、後に改D、E計画が追加、検討されています。
D計画は159隻65万トン(戦闘艦艇94隻、54.1万トン)、E計画は197隻80数万トンとなり、1948年3月
までに対米3分の2を実現出来る予定でした。

そのD計画の燃料D計画は1942年7月で、この燃料計画は1946年度末に完了する予定でした。
その目標は、南方油から、原油350万キロリットル、重油300万キロリットルを入手し、缶用重油に原油から
240万キロリットル、重油から260万キロリットルの合計500万キロリットル。
原油残り80万キロリットルから航空揮発油70万キロリットル、重油40万キロリットルから二号重油40万キロ
リットル、南方から航空揮発油を25万キロリットル、そのほか、イソオクタン30万キロリットル、メタノール
25万キロリットルから航空揮発油を同量、オイルシェールから二号重油18万キロリットルを確保しようと言う
ものです。(なお、南方原油は海軍担当地区から200万トン(原油140万、重油60万)、陸軍担当地区から、
475万トン(原油210万、重油210万、航空揮発油25万)を確保する予定でした。
陸軍、民間を合わせた全体では、2,000万トンの燃料を確保する必要がありました。)
704名無し三等兵:04/12/15 02:38:22 ID:???
月刊モデルグラフィックスという模型雑誌で戦時中の輸送船等を模型で再現するという企画があります。
以下リスト
2001年8月号「宏川丸」「九州丸」「那古丸」「神川丸」、9月号「山陽丸」「神川丸」
2001年10月号「護国丸」「報国丸」、11月号「靖国丸」「照国丸」「日枝丸」
2001年12月号「阿波丸」「新田丸」、1月号「安芸丸」「三池丸」「阿波丸」
2002年3月号「摩耶山丸」、4月号「鬼怒川丸」「最上川丸」
2002年6月号「山月丸」「慶洋丸」、7月号「せりあ丸」「延長丸」
2002年8月号「球磨川丸」「五洋丸」、9月号「香椎丸」「清澄丸」
2002年11月号「金華丸」「聖川丸」
2003年1月号「ぶえのすあいれす丸」「りおでじやねろ丸」、2月号「高栄丸」「新興丸」
2003年3月号「華山丸」「長寿山丸」「北京丸」、8月号「にぎつ丸」「あきつ丸」
2003年9月号「神川丸」「聖川丸」「君川丸」「国川丸」、10月号「長良丸」「能代丸」
2003年11月号「能登丸」、12月号「浅香丸」「粟田丸」
2004年1月号「相良丸」「佐渡丸」、2月号「南海丸」「山陽丸」
2004年3月号「平安丸」「氷川丸」、4月号「雄鳳丸」「ありあけ丸」
2004年5月号「久川丸」「江戸川丸」
705名無し三等兵:04/12/15 16:49:49 ID:???
この原因は、海軍の見通しの甘さにあります。
浪費をしまくっているにも関わらず、1942年上半期には民間に60万キロリットルを支援したり。
流石に、後半期には供出を打ち切っていますが…。

で、この齟齬の原因ですが、この消費量計算をしていた参謀の頭では艦隊運動の何たるかが理解出来ていなかった
としか言えません。

即ち、燃料の消費量は速度の二乗三乗に比例すると言うことです。
例えば、原速ならば12ktsで航行するところ、戦闘状態では第四戦速の24ktsと言った速度で航行しているのが常態で
あれば、燃料消費量は増えます。
また、巡航タービンの使用せずに航行するのも常態化していたようです。

例えば、金剛の場合、12Ktsで平時の巡航タービン運転で航続距離15,100海里ですが、18Ktsでは9,300海里になり、
全速30ktsでは全主軸4軸運転で3,000海里、ちなみに、巡航タービン運転と全4軸運転では燃料消費量に1:2の差が
あります。
この金剛の重油積載量は、6,279tです。

ちなみに、このほかの軍艦では、長良、球磨、加賀が、原速(12kts)との対時間比燃料消費量では、24ktsなら凡そ5倍強、
32Ktsで凡そ17倍に達し、川内では、24ktsなら凡そ5倍弱、32ktsで14.5倍、天龍、赤城、夕張では、24ktsなら凡そ5倍、31ktで
11.5倍、蒼龍では、24ktsで4倍、32ktsで11倍、34ktsで17倍弱に達します。

こういった要因、特にMidway海戦で大量の重油を消費した関係で、実需に見合う形で、1942年度の石油物動計画は修正され
ます。

供給力    約910万キロリットル(在庫550+国産60+南方期待300)
需要      約520万キロリットル(陸軍100+海軍280+民需140)
改訂後需要 約720万キロリットル(陸軍130+海軍360+民需230)
706名無し三等兵:04/12/15 16:51:12 ID:???
と言うか、正直予想し切れませんでしたってところでしょうか。
日本の油井は小規模ですし、油井の経営をした訳ではないですので、経験も不足していたでしょう。
正直、どれくらいの産油量なのか、精油したらどれくらい残るかと言うのは想像出来なかったのかも
しれません。

と言う訳で、石油の消費はどうなったのかを見てみましょう。(単位は万キロリットル)

               1942   1943   1944   1945
-------------------------------------------------
    消費見込量    280    270    250    ---
海軍 消費実績      483    428    317     57
    実績/見込量   1.7     1.6    1.3
----------------------------------------------------
    消費見込量    100     90    95    ---
陸軍 消費実績      92     81    67     15
    実績/見込量   0.9     0.9    0.7
----------------------------------------------------
    消費見込量    140     140    140    ---
民間 消費実績      248     153     84     9
    実績/見込量   1.8     1.1    0.6

上記表から言えるのは、海軍の石油消費量の異常なまでの突出です。
陸軍、民間とも、出来るだけ計画値に合わせて来ているにも関わらず、海軍が思いきり石油を消費しています。
当初、海軍の消費見込280万キロリットルの内訳では、重油20万キロリットル/月、航空揮発油2.5万キロリットル/月、
その他諸油0.8万キロリットル/月でした。
この数字の基礎となったのは平時の消費量で、重油消費量は平時の2.5倍、航空揮発油の使用量は平時の4倍で計算
していましたが、実際には、重油消費量は30万キロリットル/月となって平時の4倍、航空揮発油に至っては
707名無し三等兵:04/12/15 16:52:10 ID:???
Sir
良スレageであります。
Sir

アメリカからの石油禁輸が開戦に至った理由なのに
占領地域の産油状況を全く把握し切れなかった(生かされなかった)のには
開いた口が塞がりません。
国のためという考えが全く欠如しており
所属する組織(陸軍海軍)権益優先というのが
改めて認識させられました。
708名無し三等兵:04/12/15 16:53:28 ID:???
1941年10月29日の陸海軍共同研究での、南方石油の還送は以下の通りでした。

第一年目:蘭印(ボルネオ)から30万キロリットル(陸軍側10万、海軍側20万キロリットル)
第二年目:ボルネオから100万キロリットル、スマトラ南部から75万キロリットル、北部から25万キロリットル、合計200万キロリットル。
第三年目:ボルネオから250万キロリットル、スマトラ南部から140万キロリットル、北部から60万キロリットル、合計450万キロリットル。

実際は、1942年2月28日の時点で、タラカン、サンガサンガの海軍油井から、年末まで45万トン、能率を上げれば、60万トンの採油が
可能という報告があり、陸軍の方も、4月20日の時点で、120〜170万トン増加で、油槽船不足が問題となっています。

是を受けて、1942年4月の企画院による一カ年見込では、タラカン20、サンガサンガ60、スマトラ200、ジャワ20など合計360万キロリットル
に上方修正され、スマトラ地区の復旧が予想以上に進んでいることが判明しましたが、反面、油槽船不足が顕著になっていました。

ちなみに、この時期の民需は140万トンの割当てでしたが、是を受けて、190万トンに変更されました。

実際は、推定が入っていますが、

        1942年 1943年 1944年
見 込 量    30   200    450
還送実績    167   231     79
海軍取得量   37    82     58

となっています。