補給戦 海上護衛戦

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698名無し三等兵
最後に天号作戦について触れておきます。

天号作戦は、大井大佐が強硬に反対した、大和の沖縄突入ですが、この際、軍令部は片道しか燃料を供給出来ない
と言う強硬意見を述べ、連合艦隊首脳部もこれを是認します。

実際にはタンク底の重油在庫5万キロリットルを集め、「補給命令では片道分の重油搭載」でありましたが、実際には、
「緊急搭載で積み過ぎた余分を油Bargeに吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わずその儘にした」という如何にも、日本
的な臨機応変さ(皮肉な意味での)で、大和に4000キロリットルなど、艦隊全部に1万500キロリットルが余計に搭載され、
大和は重油を満載(6,300t)して出撃しました。

こうして、重油は月頭在庫僅か21.3万トンと言う惨状に陥り、大井大佐が悲憤慷慨した訳です。
再三述べている通り、1945年5月から重油在庫はマイナス、6月から、航空揮発油がマイナスとなる状況に陥り、既に
継戦能力は失われてたりします。

と言う訳で、石油物動に関しては此処まで。
次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。
699名無し三等兵:04/12/15 01:06:24 ID:???
また、南方油田に対する空襲によっても、その生産は阻害されています。
バリックパパンには、1944年9月30日〜10月14日の間に数次の空襲があり、サンガサンガからバリックパパンへの送油は
11月1日まで途絶。
12月中に、サンガサンガが数回空襲を受け、容量3万キロリットルの石油タンクが大中破、また、タラカンへは敵空襲に
よって、壊滅的な打撃を受け、生産途絶。
陸軍の南スマトラ燃料工廠は、1944年8月11日に一回目の空襲がプラジュー製油所に、1945年1月24日には二回目の
空襲があり、29日にはスンゲロン製油所初空襲があって、50日生産が途絶、その後、80%復旧するも、油槽船の製品
搬出困難で、生産量を制限する状況、更に北スマトラ燃料工廠でも、1944年11月4日にブランダン製油所が爆撃に遭い、
製油施設が一部破壊され、12月18日の空襲ではペラワン、カランススの貯油タンクが破壊、1945年1月4日には製油所の
施設は3割破壊された上、パンカランススのタンク4基も破壊されました。

こういった施設破壊と、輸送路の途絶により、海軍保有燃料は80%を南方から距離の近い徳山に保有させ、四日市では、
タンク底の油泥を、四日市特産の菜種油を鹸化して添加し、これらを加熱したモノから重油を採取する技術を確立します。

1945年、海軍省軍需局は軍令部に、「北号作戦」の発動を申し入れます。
これは、第四航空戦隊の伊勢にドラム缶4,994本と燃料タンクに航空揮発油100キロリットル、日向にドラム缶5,200本と
燃料タンクに航空揮発油100キロリットル、連合艦隊旗艦の大淀にドラム缶100本と燃料タンクに航空揮発油77キロリット
ルを2月8日から3日間で満載にして、2月20日に呉に帰還したものです。
この艦隊(既に商船では還送が覚束なくなっている)には他に、南方のタングステン、錫、ゴム、亜鉛、水銀などの重要
物資を搭載しています。
また、油田開発関係者440名の乗船も特筆すべき事です。

700名無し三等兵:04/12/15 01:07:12 ID:???
さて久々に、本筋に戻って、海軍の重油、揮発油消費量について。

海軍の1ヶ月平均重油、揮発油消費量を書いてみましょう。
(単位は万キロリットル)

           重油国内消費量 重油南方消費量 重油消費合計 揮発油国内消費量 揮発油南方消費量 揮発油消費合計
1941年度月平均    13.00        0.00         13.00        1.80          0.37          2.17
1942年度月平均    12.60       17.90         30.50        2.37          1.54          3.91
1943年度月平均    11.30       18.00         29.30        2.67          2.67          5.34
1944年度月平均     8.34       14.50         22.84        2.30          2.30          4.60
1945年度月平均     2.44        3.02          5.46        1.70          0.20          1.90
5カ年月平均       11.11       15.27         26.38        2.54          1.99          4.53

1945年1月以降、月10万トンの供給が出来ていません。
これは最盛期の消費、即ち、1942年8〜10月の30〜35万キロリットルの消費には全く対応出来ないことを意味します。
ちなみに、Midway海戦で60万キロリットル、Mariana沖海戦で35万キロリットル、Leyte沖海戦で20万キロリットルの重油消費
でしたから、そんな海戦は1945年には出来なくなっている訳です。

701名無し三等兵:04/12/15 01:07:47 ID:???
まず、ガ島の再奪回を目的として、30,000の兵力を投入しました。
しかし、糧食、弾薬とも不十分で、1942年10月と11月に、大型輸送船5乃至6隻を有する船団が組まれ、空海部隊による護衛が行われましたが、
米軍の攻撃により、軍需品80%を亡失する結果となり、糧食の割当ては普通1日6合の米を1合に制限し、陸蟹、椰子実、トカゲ類を食するの止む
無きに至り、それらによる病気の蔓延などで、体力低下を起こし、部隊の戦闘力は50%低下することとなりました。

次いで、駆逐艦による高速輸送が行われますが、これも、航空機と魚雷艇による攻撃を受け、甚大な損害を被って断念。
更に、米、食塩を55ガロンドラム缶に詰めて、50〜60本連結して筏とし、これを海岸近くまで駆逐艦で曳航、ロープを切り離して海浜に流すと言う
方法を採用しますが、大部分は周辺の珊瑚礁に漂着してしまい、20万本のドラム缶を使用した割りに、部隊が手に入れたのは僅かに25%と言う
体たらくでした。

遂に万策尽きた海軍は、濃縮食糧60食分をゴム袋に入れ、これを潜水艦に搭載、この袋は水面下で放たれ、これが浮かび上がってきたら泳いで
兵士が回収すると言う方法を採ります。
しかし、この輸送に於いても、潜水艦は敵の攻撃に晒され、潜水艦は20,000tを喪い、結果として補給の途絶えたガ島の将兵30,000のうち、10,000余
名は栄養失調で戦闘出来る状態にありませんでした。

この最初の船団輸送に関しては、現地で陸海軍共同図上演習が行われ、それによると、「現地の要求するだけの航空を出して、制空が出来たとしても、
揚陸に成功するのは2.66割」、しかも、船舶は殆ど磨り潰す、即ち、15隻の船団で11隻は沈没もしくは中破以上の損傷ということになります。