補給戦 海上護衛戦

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684名無し三等兵
14インチ砲の製造技術移転に関してなんですが、比叡以降の戦艦の主砲である14インチ砲
製造は、呉工廠と日本製鋼所室蘭工場(今の新日鐵室蘭工場)で行なわれています。
日本製鋼所は北海道炭礦汽船(実際には裏で日本海軍が動いている)と、Vickers社、
Armstrong社との合弁企業です。

室蘭工場は1911年1月に竣工しましたが、当初は12インチ砲製造体制を整えていました。
しかし、その後は急速に14インチ砲製造工程の整備を行ない、1913年に12インチ砲2門と完成
させた後、1914年4月、5月に14インチ砲は各一門が完成したのを皮切りに、1914年中には12門が
完成しました。

こうして、海軍発注の14インチ砲85門のうち、呉工廠は25門、日本製鋼所は60門となっています。
但し、日本製鋼所の受注分のうち、13門はVickersに製造を委託しています。

・卯号装甲巡洋艦(比叡)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が4門。
・二号装甲巡洋艦(榛名)には、日本製鋼所製が7門、Vickers製が1門。
・三号装甲巡洋艦(霧島)には、Vickers製が8門。
・三号甲鉄戦艦(扶桑)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が8門。
・第四号戦艦(山城)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が10門。
・第五号戦艦(伊勢)には、呉工廠製が12門。
・第六号戦艦(日向)には、日本製鋼所製が12門。
その他予備砲身として製造されたのが、呉工廠製が1門、日本製鋼所製が6門、Vickers製が4門と
なっています。
但し、扶桑と山城の砲門数が違っているように、一応、これは予算措置で配分されたものです。

で、この砲の素材ですが、日本製鋼所製造分で、比叡用4門、榛名用7門、扶桑用3門の砲身素材は
Vickersから輸入しています。(ちなみに、12インチ砲については、Armstrongから技術導入してたり
685名無し三等兵:04/12/14 17:43:48 ID:???
 辻中佐曰く、
  『今放棄せば、再占領は絶対に不可能なり。
   亦、撤退そのものが不可能にして、水際に殲滅せらるべし』と。」(後略)

私はこういう会議の席でいつも感ずるのであるが、派遣幕僚というものである。
大前海軍中佐がガ島の減員を主張したのに対し、辻陸軍中佐が、「二万五千の銃剣は絶対最小限の数である」と
断言し、これに対して一言の異議を差し挟む者もなく、全員これを了承した形になってしまった。

大本営派遣参謀という権威も有ろう、辻中佐の輝かしい経歴の圧力もあろう、自信に溢れた強い調子の物言いも
あろう、先入観的諦めというか、反対して怒られたらつまらんと言う打算も有ろう。
しかしこんなことで事を決して良いものであろうか。

此の二万五千は、偶々結果として二万五千になってしまったと言うだけのことで、計画的にそうした訳ではない。
もしこれが三万有ったら三万、二万になっていたら二万が、「絶対最小限」と主張されたに違いない。
何等理論的根拠はないので、多々益々弁ずと言うだけの事である。
この様な一個人の勘がある場面を支配すると言うことは警戒しなければならない。

派遣幕僚というものは、真相を掴みにくい現地の状況を正しく把握して、施策に速やかに反映させるとか、
或いは、下級部隊で出来ない事をお手伝いすると言う意味では必要であり有用であるけれども、現地軍を
「指導」すると言うやり方は一考を要するものであると思う。
統帥は飽くまで、指揮系統を尊重して行われなければならない。
上級司令部の権威を背景にして、下級司令部或いは指揮官の遠慮を良いことに、往々にして専断的な
事が行なわれやすいからである。
そして、それは指導であり、命令ではないから、実施の結果の責任は下級司令部のものとなる。

上級司令部は、下級部隊がやり易い様に、支援し力を与えてやり、至当な任務を与えてやれば良いので、
そう言うことはやらないでおいて、下級部隊のやり方に活を入れると言うのは、極めて安易な方法であろうが、
宜しくない。
私が派遣幕僚になったらそうしよう、と深く諫める所があった。
686名無し三等兵:04/12/14 17:45:13 ID:???
1942年11月15日、軍司令部に於いて、第11航空艦隊大前参謀、方面軍有末参謀副長、辻中佐、杉田中佐、岩越少佐、第十七軍山本少佐、私、打ち合せを行う。

「今回の輸送の損害は往路四隻大火災(沈没と推定)四隻擱座炎上三隻行方不明なり。
 即ち、予が全般計画を立てし時損害十分の六と推定し各方面より損害多きに過ぐと非難せられながら敢えて主張して枉(ま)げざりしも、
 実際は更に大にして十分の十となれり。
 今回の輸送に於いて四隻が相当有利に揚陸し得たりとするも、先ず二日分の糧秣に過ぎ去るべし。
 即ち、船団輸送を以て補給を継続することは不可能なり。
 然らば、駆逐艦は如何。一日四隻、一ヶ月百二十隻の所要を思えば、之亦不可能に属す。

 茲に於いて大前中佐はガ島の減員を主張せるも、辻中佐之に反対して曰く、
 『現在ガ島兵力は約三万中、健康者二万五千、傷病者五千也。傷病者五千中には海軍設営隊
  の千五百を含むものとす。
  而して、敵は優勢なる火力を持って攻撃し来たるに対し、我は銃剣を以て対抗せらるべからず
  故に数を必要とする。
  この二万五千は絶対最小限の数也。撤退し得べく且つ希望するは傷病者五千のみと。』

 さは言え、この五千の撤退を如何にすべきや。
 健康者軽傷者は駆逐艦輸送の際之に便乗して二百、三百と帰還し有るも、重傷者は輸送すること能わず。
 五千の為には駆逐艦何隻を要するやこれらを検討すれば、五千の撤退すら危険なり。
 戦闘司令所は飛行場制圧の為、「マタニカウ」川左岸高地を占領せんとし、残留せる第三十八師団の二個連隊
 を要求し来れり。軍は、これらの要求あるとも今後一兵も増加する意志無きもさりとて撤退は不可能なり。

 大前中佐曰く、
  『今日までの海軍の損害は対敵一対一なり。飛行機は十一月十日より十四日の間に於いて、陸攻二十、戦闘四十、
   計六十を失えり。
   此の如くんば陸海共倒れとなり了る處大なり。之が為には根本的に考え直す要あり。
   今、ガ島を放棄せば、更に攻撃を開始して奪回する望み無きや』と。
687名無し三等兵:04/12/14 19:48:45 ID:???
さて、少し間が空きましたし、話があっちに飛んでしまったのですが、ガ島輸送の話にまた飛びます。

当初、ガ島に関しての大本営の考えは、「偵察上陸程度」として、本格的反抗であっても奪回は容易、従って、規定方針通りの作戦計画で行くこととしています。
規定方針とは、即ち、Port Moresby攻略作戦です。
さて、1942年8月8日、第一次ソロモン海戦となり、「軍艦」の沈没は多く、泊地にいた輸送船16隻が丸裸であったのに、この攻撃は敵艦載機への恐怖と
魚雷不足から中止します。
これを遺憾とした聯合艦隊では「引き返して船団撃滅」を下令しますが、時既に遅く、結局は輸送船撃滅の機会は失われました。
このため、海軍航空部隊に命じて、攻撃を行いますが、陸攻23機を失い、戦力を喪失。
(ちなみに、8月9日に第11航空艦隊では、攻撃目標を空母か戦艦に変更するよう指示を出します。
 これは、輸送船が空船だったら、損害に比して戦果が少ないと考えた訳で。
 流石に、大本営、聯合艦隊はそれに反対し、10日の攻撃目標は輸送船に再変更しました。)
ところが、泊地には敵艦船が全く見られず(既に上陸した後)、ただ、報告上は過大な戦果を上げていたことになっており、
聯合艦隊はこれを精査することをせず(Midway後の海軍はいつもそうです)、その戦果を鵜呑みにし、大本営海軍部も
これを追認、更に真に受けたのが大本営陸軍部で、敵戦力喪失大として、それを前提に奪回作戦を検討しました。

そして、使用兵力、第17軍主体(歩兵13個大隊基幹)で、先遣隊として一木支隊900名が駆逐艦で輸送され、8月18日に
ガ島に上陸しました。
各人の携行小銃弾は250発、糧食7日分。
ところが、米軍は既に陣地を構築しており、不用意な攻撃を仕掛けた一木支隊は全滅しています。
21日、ガ島に米軍の小型機が30機進出しました。
688名無し三等兵:04/12/14 19:49:57 ID:???
過ぎた話だが、旧大蔵省の銀行管理をさして「護送船団方式」と呼んで、「護送船団方式だった
から悪い」って主張が展開された事にはワロタ。

大型で船足が速い高性能船と波高3m以上だと転覆しかねないボロ船を同じ船団に組み入れた
ことは間違っているが、船の性能が用途に見合った形で船団を組み、適切な兵力をもって適切な
用兵が行われていれば、何の問題も生じなかった。

なにより重要な鉄則である、「被弾して船足が遅くなった船は見捨てる」と言った運用上の規定
が守られていなかったのが問題なのであって、「護送船団方式だったから悪い」って事はあり得
ない。(結果的に見捨てることになるが、決断が遅すぎて船団のスピードを落とした間に他の船
も相当損傷を受けることになり、全滅しかねなかった)

護衛する側(旧大蔵省)の戦力・装備(管理要員や法令)や用兵ミス(実際の管理実体)が主因だ
ったわけだが、表面的な部分しか焦点を当てずに「護送船団方式」と言うことで全てを片づけてし
まうとは、情けない限りだ。

「護送船団方式だったから悪い」」のではなく、「実体に見合わない計画性もない状態の護送船団
方式をとったから悪い」わけだが、新たな仕組みが「護送船団方式」ではないと思ってるのも、お目
出度い(w
689名無し三等兵:04/12/14 19:51:43 ID:???
陸軍の場合、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、それに驚くべきことに東条英機までもが、
それぞれ共同で、バーデン・バーデンに於いて国家総力戦の研究をしていますね。
海軍の場合、「参考情報資料」『開戦経緯』4にも、「海陸軍が軍事的に対米戦の能力有りと
するも、国力判断に於て到底日本は闘う余力無く、戦えば国家滅亡なり。故に南方作戦は
中止の要あり」と言う報告が1941年春の時点で掲載されています。

部署や機関としてのものは無いにしろ、海軍大学校辺りでそう言ったことは検討されていた様な
感じを受けます。(総力戦研究所で作られた摸擬大学の海軍大臣は、海軍大学の卒論に
「総力戦」を選んだ、海兵55期の志村正海軍少佐ですから。)

ただ、表だっての研究は海軍に於いては出来なかったでしょう。

と言うのも、永野修身軍令部総長は、「捨て鉢の戦争をする」と天皇に言われ、その信を喪って
いる状況でも尚、海軍統帥部の長に居座っており、その威光を背に海軍内の主戦派中堅幕僚
である、石川信吾らがいた訳で、更に彼等のバックには、対米強硬論者の伏見宮博恭が控えて
おり、しかも、彼を統御すべき、及川海軍大臣は、永野の後輩で、常々彼に遠慮することが
多かったことから、思い切ったことが出来ない、と言う状況ですから。

更に、海軍がそのような物動に後ろ向きな考えを示した場合、主戦派の特に陸軍から、海軍
の存在価値に言及され、ドイツ海軍の様な事態を招きかねないと海軍首脳が思っていたこと
もあります。

海軍に於いても、まず、組織防衛ありきで、その後の情勢などは政治に任せておけば良い、
と言う感じを受けました。
690名無し三等兵:04/12/14 20:10:55 ID:???
>688
当たり前です。
旧大蔵省の銀行管理を叩いていたのは、
いわゆる「小さな政府論」をとる連中ですから。

彼らにとっては叩ければなんでもいいんですよ。
その内実がどうであろうが、そんなの愚民どもにはわかりゃしません。
いまの日本の政治とは要するにレッテルの張り合いであり、
中身をレッテルから推測するのは筋違いの愚行でしかありません。

そしてうわっつらだけ綺麗なレッテルの張られた瓶の中には、
百害あって一利なし、の腐敗品がたっぷり溜まっていて
それが「改革を求める民意の反映」として各家庭に配布されるシステム。
691名無し三等兵:04/12/14 23:40:29 ID:???
閑話休題。
ちょっと、今の話題を外れてカキコ。

今、「船舶太平洋戦争」という陸軍の船舶運用責任者の人が書いた日記の抜粋を
読んでいるのですが、それによると、制空制海権無き場合の船舶作戦は、

1. 一ヶ月は十五日なり。
   → 敵機の為、月明かりの日は輸送に使えない為。
2. 一日は四時間なり。
   → 敵機の行動半径外から日没後接近し、日の出前に離脱する為、高速船でも接岸作業は四時間が限度。
3. 一万トンは二四〇トンなり。
   → 1万トンの優秀船でも、携行舟艇を沃水し、四時間で作業を終える為には、240t程度しか揚陸出来ない。

と言う状況で作戦を立てなければならなかったそうです。
今日から暫くは2ちゃんの方が不安定になるそうですから、これについて深く追求するのはもう少し先になりそう
ですが、海軍よりも陸軍の方が未だ補給についての考え方ははっきりしていた様に思えます。
とは言え、陸の人々にも糞な香具師はおりましたが…。

でことで、鉄の話は脇に置いて、こっちから先に話を進めようかと思います。
692名無し三等兵:04/12/14 23:42:04 ID:???
鋼材というのは、エネルギー資源と並んで、産業の米と言われるものです。

ところが、1937年の日中戦争勃発に伴う、米国の屑鉄禁輸と軍需への鋼材供給優先によって、一般産業に回す分が少なくなります。
例えば、1938年度、39年度までは総供給の25%程度が軍需でしたが、41年度には実に半分が軍需となります。
これにより、生産力拡充をしようにも、基幹産業への鋼材供給がままならない状況では、夢の又夢です。
1938年度から8年の予定で、第一次生産力拡充計画に着手しますが、1942年から第二次生産力拡充計画がスタートします。

しかし、基幹産業の一つである石炭産業について見てみると、1940年を100とした場合、

            1940   1941   1942   1943   1944   1945
鋼材の配当     100     63     47     40     29     30
爆薬の配当     100    100     98    100    100    74
セメントの配当    100     85     81     63    40    12
坑木の配当     100     98    83     96    94    86
機械故障率     100                 230  1,610
石炭生産伸び率  100     95    91     88    83    53
年生産(t)/人   177    167    153    146    122    66

と言う風に下がって来ており、機械の故障率に至っては、部品工業に満足な鋼材供給が出来ないので、
飛躍的に上がっています。
これで、生産増強なぞ出来ようはずがありません。
693名無し三等兵:04/12/14 23:43:28 ID:???
最後に天号作戦について触れておきます。

天号作戦は、大井大佐が強硬に反対した、大和の沖縄突入ですが、この際、軍令部は片道しか燃料を供給出来ない
と言う強硬意見を述べ、連合艦隊首脳部もこれを是認します。

実際にはタンク底の重油在庫5万キロリットルを集め、「補給命令では片道分の重油搭載」でありましたが、実際には、
「緊急搭載で積み過ぎた余分を油Bargeに吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わずその儘にした」という如何にも、日本
的な臨機応変さ(皮肉な意味での)で、大和に4000キロリットルなど、艦隊全部に1万500キロリットルが余計に搭載され、
大和は重油を満載(6,300t)して出撃しました。

こうして、重油は月頭在庫僅か21.3万トンと言う惨状に陥り、大井大佐が悲憤慷慨した訳です。
再三述べている通り、1945年5月から重油在庫はマイナス、6月から、航空揮発油がマイナスとなる状況に陥り、既に
継戦能力は失われてたりします。

と言う訳で、石油物動に関しては此処まで。
次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。
694名無し三等兵:04/12/14 23:44:21 ID:???
>次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。

はい、宜しくお願いします。(わくわく)
695名無し三等兵:04/12/14 23:45:03 ID:???
> 最近になって、靖国にお参りに行くたびに、
> 上級戦争指導者の何人かは祭らなくて良いんじゃないかと
> 思ったり思ってみなかったり‥‥orz

正直なところ、無能なる事の責任追及が為される事もありでしょう。
しかしそれをやると無能と無能ならざる者の区別がつきにくいし、
戦争指導を批判すると、いつもの常套句「英霊に申し訳が立たないとは(略)」となります。
しかし、過去と向き合う事は、現在に眼を向け、未来において最善の道を選ぶ助けとなるはずですが、それが出来ないことに問題があるような…?
696名無し三等兵:04/12/14 23:46:58 ID:???
まあ、問題は、
ある人の人格、人間的価値、魂、といったものの価値は、
その人の行為によって大きく変わるものなのか?

変わるとして、それはその人の行為の「結果」によるのか?
それとも、その人の「努力」によるのか?

そして、死は、それをどのように変えるのか?
または変えることができないのか?

という、宗教的・哲学的問題になってくるわけで、、、