一方、南方原油の生産高は、1940年の産油額で言うと…。
総額:9,969,655トン
うち、蘭印:7,939,000トン(79.5%)+ビルマ、北ボルネオなどの英領:2,030,665トン(20.05%)
蘭印の内訳は、スマトラ:5,208,700トン(52.2%)+ジャワ:839,500トン(8.4%)+セヲム:93,250トン(0.9%)+ニューギニア:4,400トン+南ボルネオ:1,793,150トン(18.0%)
英国の内訳は、北ボルネオ:932,481トン(9.3%)+ビルマ:1,098,184トン(11.0%)
スマトラは南スマトラ地区:4,287,950トン(43.0%)と北スマトラ地区:920,750トン(9.2%)に分けられ、
南スマトラ地区には、パレンバン:3,077,550トンとジャンビー:1,210,400トンの各油田がありました。
またジャワ地区には、レンバン:688,500トンとスラバヤ:151,000トンの各油田があり、
南ボルネオ地区には、サンガサンガ:983,900トン、タラカン:809,250トンの各油田が、
北ボルネオ地区には、セリヤ:764,006トン、ミリ:168,475トンの各油田がありました。
さて、1941年9月17日、陸軍の辻政信中佐、種村佐孝中佐が軍令部に赴き、「対英米
蘭戦争指導要領」、「占領地行政指導要領案」を説明し、軍令部の神重徳中佐、藤井
茂中佐、小野田捨次郎中佐はこれを承認します。
この時決定された軍政区分は、以下の通りです。
海軍主担当区域(陸軍副担当):蘭領ボルネオ、セレベス、モルッカ群島、小スンダ群島、
ニューギニア、ビスマルク諸島、グアム島
陸軍主担当区域(海軍副担当):香港、比島、英領マレー植民地、スマトラ、ジャワ、
英領ボルネオ
上記の産油量とは偉い違いで、しかも、油槽船保有量たるや、海軍約16万総トン、
対する陸軍は約1.3万トンでしかありません。
軍令部第二部四課が、上記区分を聞いた後、神中佐を突き上げましたが、後の祭り。
交渉すればするほど、陸軍の態度は頑なになりました。
そこで、海軍は裏道を考え、「南方石油開発局設定案」というのを出して骨抜きを狙いますが、
陸軍参謀本部が強硬に反対し、逆に過剰油槽船を吐出せと要求、海軍はFS作戦の遂行を楯に
是を拒否と、1942年4月から5月にかけて泥仕合が続きます。
この争いはその後も尾を引き、1942年度には、スマトラ地区から石油は産出しないと言う前提の
下、タンカーを一切配船しないと言うことも行なわれました。
さて、1942年1月28日、とりあえず、海軍はバリックパパン製油所を占領します。
設備は可成り破壊されていたものの、速やかに復旧され、12月末には製油能力年産140万トンと
戦前の能力を取り戻します。
2月13日、サンガサンガに到着し、復旧作業を開始しました。
3月に第102海軍燃料廠が発足。
5月から復旧作業は本格化し、5月末には蒸留装置1基が復旧しました。
この蒸留装置での製油は、精溜が予想以上に良好で、直接航空ガソリンが製造出来ることが
判明し、サンガサンガ原油の残渣油(含蝋重油)とタラカン原油(重油規格)を混合した製品は、
使用に耐えうるものとして、現地処理を開始し、航空ガソリン、自動車用ガソリン、重油、航空
合成潤滑油、一般潤滑油を供給し、しかも、陸軍地区の余剰原油を用いて陸軍向けの潤滑油、
トランスフォーマー油を供給しています。
しかし、不思議なことに、精油部では常識だったボルネオ原油が航空ガソリンに適していることを
誰も知らないという話もありました。
また、残ったタンク二基には高オクタン価の航空ガソリンがそのまま保管されており、これがその
まま珊瑚海海戦の際に用いられたそうです。
陸軍の方は予想に反して油田は破壊されておらず、ミリ・セリヤの各油田はほぼ無傷で手に入りました。
しかし、パレンバンは川を遡行しなければならず、当時のタンカーでも現地に行けないのがネックとなり、
また、貯蔵施設が間に合わず、灯油、自動車用ガソリンは捨てたこともありました。
このため、内地から海軍基地のタンク33〜35基を解体、現地に移設することになりましたが、敵潜水艦の
雷撃などで相当数が喪われています。
284 :
263:04/03/16 23:06 ID:???
>>283 それでは、パレンバンへ行く為、ムシ川を遡行できるように選定されたのがTM型(中型タンカー)、パレンバン〜シンガポールをTM型で、
シンガポールからの本土環送を担当するのがTL型といった役割分担を当初は考えていた、、、みたい。。。
さて、本文中にある陸海軍の作戦地域(油田)分担ですが、戦前に海軍の輸入していた地域が、ボルネオ系中心であった事が、スマトラ他の油
田の存在を失念し、すんなり渡してしまったのだろう、といった推測もされていますw
また、「精油部では常識だった〜航空ガソリンに適していることを誰も知らない」に関しては、石油技術者は産油地毎の油質を見るのに対し、
一般消費者(これには陸海軍も含みます)は、精製製品、つまり精油地(生産地)を見るといった違いがあります。石油を輸入すると言っても、
原油のみを輸入していたわけでなく、完全な精製後の製品(潤滑油や航空ガソリン)、半製品(粗精製品、ナフサなど)と多種にわたっていたた
め、よほど詳しい人でない限り、輸入品は揚荷地(港の名前)でしか、石油の評価をできなかったのではないかと思います。
>284
レスサンクスコ。
と言うか、さんざ言われていることなのですが、作戦地域の確定には第一課の連中しか関わって
おらず、第二部四課の様な縁の下の力持ちが疎外されたことにあるのではないかと思うです。
領土さえあれば、と言う感じではないでしょうか。
ただ、1941年10月29日に企画院、陸海軍共同で、還送見込とかを計算しているのですよね。
この辺謎ではありますね。
286 :
263:04/03/20 23:55 ID:???
なぜかアク禁が出てレスれなかった。。。
第一課は作戦計画・艦艇整備の大元だったような、、、
領土と言いますか、対米戦に必要な航路も泊地も全部海軍担当だしぃ、今輸入しているボルネオ油田
もあるから、迎撃作戦には無問題アルね ぐらいの間隔で了解しちゃったのかもれないですね。
単に、占領作戦だけ考えていて、行政指導の部分をスッポリ忘れていた可能性も有るけれど <神中佐なら(爆
あと、環送見込みに関しても、海軍としては全然問題無いと考えていたかもしれません。
海軍がタンカー建造・運航に助成をしていても、そのほとんどは艦艇用重油なので、送り先が国内に
なるか、トラック環礁になるかの違いで、(戦前では)海軍雇船以外のタンカーだけで民需が一応満た
されていた事を見れば、会議の内容も「ははぁ、これだけ石油を(民需用タンカーで)送り届ければ良
いのですな」で納得しちゃうかもしれません。
また、石油環送は海運よりも国内物動として石炭とセットで語られるべき事、海務院が出来た事で民
間海運指導が海軍と二元化するのを避けた節もありますから、担当者としては、危険海域では護衛を出
すように前向きに善処します以上の発言に至らなかった可能性もあります。
1941年10月29日の陸海軍共同研究での、南方石油の還送は以下の通りでした。
第一年目:蘭印(ボルネオ)から30万キロリットル(陸軍側10万、海軍側20万キロリットル)
第二年目:ボルネオから100万キロリットル、スマトラ南部から75万キロリットル、北部から25万キロリットル、合計200万キロリットル。
第三年目:ボルネオから250万キロリットル、スマトラ南部から140万キロリットル、北部から60万キロリットル、合計450万キロリットル。
実際は、1942年2月28日の時点で、タラカン、サンガサンガの海軍油井から、年末まで45万トン、能率を上げれば、60万トンの採油が
可能という報告があり、陸軍の方も、4月20日の時点で、120〜170万トン増加で、油槽船不足が問題となっています。
是を受けて、1942年4月の企画院による一カ年見込では、タラカン20、サンガサンガ60、スマトラ200、ジャワ20など合計360万キロリットル
に上方修正され、スマトラ地区の復旧が予想以上に進んでいることが判明しましたが、反面、油槽船不足が顕著になっていました。
ちなみに、この時期の民需は140万トンの割当てでしたが、是を受けて、190万トンに変更されました。
実際は、推定が入っていますが、
1942年 1943年 1944年
見 込 量 30 200 450
還送実績 167 231 79
海軍取得量 37 82 58
となっています。
Sir
良スレageであります。
Sir
アメリカからの石油禁輸が開戦に至った理由なのに
占領地域の産油状況を全く把握し切れなかった(生かされなかった)のには
開いた口が塞がりません。
国のためという考えが全く欠如しており
所属する組織(陸軍海軍)権益優先というのが
改めて認識させられました。
>288
と言うか、正直予想し切れませんでしたってところでしょうか。
日本の油井は小規模ですし、油井の経営をした訳ではないですので、経験も不足していたでしょう。
正直、どれくらいの産油量なのか、精油したらどれくらい残るかと言うのは想像出来なかったのかも
しれません。
と言う訳で、石油の消費はどうなったのかを見てみましょう。(単位は万キロリットル)
1942 1943 1944 1945
-------------------------------------------------
消費見込量 280 270 250 ---
海軍 消費実績 483 428 317 57
実績/見込量 1.7 1.6 1.3
----------------------------------------------------
消費見込量 100 90 95 ---
陸軍 消費実績 92 81 67 15
実績/見込量 0.9 0.9 0.7
----------------------------------------------------
消費見込量 140 140 140 ---
民間 消費実績 248 153 84 9
実績/見込量 1.8 1.1 0.6
上記表から言えるのは、海軍の石油消費量の異常なまでの突出です。
陸軍、民間とも、出来るだけ計画値に合わせて来ているにも関わらず、海軍が思いきり石油を消費しています。
当初、海軍の消費見込280万キロリットルの内訳では、重油20万キロリットル/月、航空揮発油2.5万キロリットル/月、
その他諸油0.8万キロリットル/月でした。
この数字の基礎となったのは平時の消費量で、重油消費量は平時の2.5倍、航空揮発油の使用量は平時の4倍で計算
していましたが、実際には、重油消費量は30万キロリットル/月となって平時の4倍、航空揮発油に至っては、6万キロ
リットル/月と平時の7〜8倍に相当しています。
この原因は、海軍の見通しの甘さにあります。
浪費をしまくっているにも関わらず、1942年上半期には民間に60万キロリットルを支援したり。
流石に、後半期には供出を打ち切っていますが…。
で、この齟齬の原因ですが、この消費量計算をしていた参謀の頭では艦隊運動の何たるかが理解出来ていなかった
としか言えません。
即ち、燃料の消費量は速度の二乗三乗に比例すると言うことです。
例えば、原速ならば12ktsで航行するところ、戦闘状態では第四戦速の24ktsと言った速度で航行しているのが常態で
あれば、燃料消費量は増えます。
また、巡航タービンの使用せずに航行するのも常態化していたようです。
例えば、金剛の場合、12Ktsで平時の巡航タービン運転で航続距離15,100海里ですが、18Ktsでは9,300海里になり、
全速30ktsでは全主軸4軸運転で3,000海里、ちなみに、巡航タービン運転と全4軸運転では燃料消費量に1:2の差が
あります。
この金剛の重油積載量は、6,279tです。
ちなみに、このほかの軍艦では、長良、球磨、加賀が、原速(12kts)との対時間比燃料消費量では、24ktsなら凡そ5倍強、
32Ktsで凡そ17倍に達し、川内では、24ktsなら凡そ5倍弱、32ktsで14.5倍、天龍、赤城、夕張では、24ktsなら凡そ5倍、31ktで
11.5倍、蒼龍では、24ktsで4倍、32ktsで11倍、34ktsで17倍弱に達します。
こういった要因、特にMidway海戦で大量の重油を消費した関係で、実需に見合う形で、1942年度の石油物動計画は修正され
ます。
供給力 約910万キロリットル(在庫550+国産60+南方期待300)
需要 約520万キロリットル(陸軍100+海軍280+民需140)
改訂後需要 約720万キロリットル(陸軍130+海軍360+民需230)
ところが、改訂後の石油物動計画でも…。
海軍の重油消費量は25〜26万キロリットル/月で計画していましたが、
8〜10月の作戦で、30〜34万キロリットル/月となり、計画を超過。
このまま推移した場合、民間のみならず、海軍の石油備蓄は枯渇します。
これを補填する為には、南方原油の内地還送量は最低約35万キロリットル/月に
しなければならないのですが、現有油槽船を総動員しても20万キロリットル/月しか
ならず、1943年度初頭には約20万総トン分の油槽船が必要となり、12万総トン分を
新造し、残り7万総トン分は改造で補うこととすると言う状況になった訳で…。
>>289 >>で、この齟齬の原因ですが、この消費量計算をしていた参謀の頭では艦隊運動の何たるかが理解出来ていなかった
>>としか言えません。
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