1 :
復活☆:
3
自営業阻止!とか抜かす馬鹿は氏ね!
4 :
_:03/08/07 14:20 ID:???
My grand-fa died in 1863 at Gettysburg.
>>6 「あなたのおじい様の戦争体験を教えて」 は太平洋戦争に限定してるけど。
このスレは日清、日露、第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争・・・
なんでもありだから重複ではないw
うちのじいちゃんは俺が3歳の時に死んだけど
ばあちゃんの話では陸軍で大陸に行ってたそうな
で南昌・長沙・桂林を転戦したらしい
S19年に桂林の辺りで手榴弾に目やられたとかで内地送り、
そのまま終戦迎えたんだって
ちなみに母方のじいちゃんは
風船爆弾作ってたっていうが、こっちは眉唾っぽい
9 :
名無し三等兵:03/08/08 12:40 ID:waok+9kZ
漏れの親父の兄弟の話をひとつ
親父の兄弟3人は一人も戦地に行かなかった。
コネではない。
親父の父親(祖父)は40を過ぎていたため召集されなかった。
長男は日本光学に勤めていたので召集は遅かった、昭和18年に甲種合格で近所の人たちから
万歳の声援に送られ少年飛行兵として華々と四日市の航空隊に入隊した。
ところが10日後の深夜に家の門をたたく音、長男だった。
風邪気味の体でレントゲン検査を受けたら結核と診断されて即除隊になってしまった。
次男は丙種合格で詳細は聞いてない。
末っ子の親父は甲種合格で少年戦車兵として入隊予定(富士)であったが終戦になった。
当時は東京の芝区に住んでいた。高度1万から1万2千を飛行機雲引きながらB-29が飛んでいく
決まって夜に空襲、その繰り返し、空襲は単機でB-29が進入してくる、高度は僅か5百前後
爆弾倉を開いた状態ですぐ上を何機も何機も通過する光景はほんと圧倒されたとのこと。
祖父曰くアメリカ相手に勝てるわけがない!この戦争で死んだら犬死と言っていたそうだ、
だから学徒動員で疲れている親父をたたき起こしては防空壕に親父を放り込んでいた。
一番怖かったのは陸上機と艦載機による空襲であった、グラマン(F6F)そしてちょっと
疑問だったが双発双胴のP−38が乱舞、もはや制空権は味方になく機銃の発射音、弾着音
超低空での爆音がいっぺんに来てパニック状態になった、どぶに入るというより無我夢中で
走って落ちたというのが正解だったとか。
玉音放送については良く聞こえたと言っていた、感想はやれやれ、やっと終わったかと安堵した
とのこと。
終戦後1ケ月は祖父と釣り三昧、ある日電報が来て学校は既に始まっているから来るように
とのことだった。登校したらその組の3人位はいなかったかなと言っていた。
10 :
名無し三等兵:03/08/08 20:53 ID:DNsseHKe
自分の曽祖父は、陸軍から除隊していたけど本土決戦のために、
在郷軍人として再度徴収されたらしい。
でも、ほとんど生活は今までと変わらなかったらしく、国民服から軍服に変わったくらいだそうだ。
明るいうちは艦載機の対地機銃掃射があるから、畑仕事は危険だったらしいが、食べ物がなかったので
警戒しながら野菜造りしていたとか。
となりのおばちゃんが田んぼで艦載機に追いかけまわされ被弾して死んでしまったのも見たらしい。
皇国の空も、もはや敵の空か・・・って思ったらしい。
>>12 正確には電探の担当だったらしい、十五歳の新兵だったそうだから色々と雑用もやっていたとのこと。
本業の零式水偵の電探の管理のほかに瑞雲の偽装なんかも手伝ってたらしいです。
14 :
名無し三等兵:03/08/11 02:13 ID:1QG1xpg4
>>朝鮮戦争、ベトナム戦争
はああ?
15 :
名無し三等兵:03/08/11 07:19 ID:mqtc3gD4
今の10代だとすでに祖父が従軍世代では
無かったりするって事実に何か愕然としてしまう・・・
大戦時に少年時代を過ごした方は厳しい軍国教育、空襲、疎開などの
辛くて悲惨なイメージしか残ってないんだよね
16 :
名無し三等兵:03/08/11 10:05 ID:brb9MO/Z
軍事板の怪奇現象のひとつに住人数300人前後なのに
この手のスレが何度も何度も建ち
「私の祖父は・・・」の口調で始まる文が
もう明かに1500人分くらいあることが数えられる。
怪奇現象と前述したがこれは怪奇は怪奇でも未知に対する
畏怖を表したものでは無く、仕組みは簡単で同じ人物が
何度も何度も思い付いては書いているだけなのであるが・・・
怪奇なのは誰もそれを指摘しないという状況である。
これに対しての明確な理由は判明していないが
恐らく暗黙の了解や通念と言った類のある種の「秩序」なのかもしれない。
俺としては住人数300人前後という数字の根拠と、
このスレでは「祖父の兄弟の〜」とか「知り合った年寄りの〜」とかいう話も多いが、
本当に1500人分も「私の祖父が〜」というレスがあるのかどうか
>>16に教えてもらいたい。
前者はともかく、後者は前スレからカウントするだけなので、
>>16がその気なら調べられるはずだ。
18 :
名無し三等兵:03/08/11 11:22 ID:1QG1xpg4
19 :
17:03/08/11 11:59 ID:???
釣られたのか・・・鬱だ。
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
父方の爺さんは何やら、餓島でゼロ戦の整備してたんだってさ。
酒の席で自信満々で話してたっけ。
そういや、爺さんの癖にやけに機械に強いし。
22 :
名無し三等兵:03/08/14 03:35 ID:3OeSvTFW
ウチのばあちゃん夫婦(じいちゃんは既に他界)は
ゴー宣台湾論に出てきたような台湾人との別れを体験してるみたい。
じいちゃんはある区画の台湾人の統括を任されていたらしい。
具体的にどういった仕事をしていたのかは聞いてないけど、
台湾論で描かれたような理想の日本人像を体現していたらしく、
かなり人望を集めた事が伺えるエピソードがある。
終戦後、引き上げる際に、持っていける荷物の量が制限されてたんだけど、
じいちゃん夫婦は他の引き上げ組に比べて、多くの荷物を持って帰る事が出来た。
じいちゃんが受け持っていた地区の人達が、超過分の荷物を積みこむのに
見張りから運搬からすべてに協力してくれたんだと。
その頃の縁は今も続いていて、ばあちゃんは今でも数年に一回台湾に行く。
身近な親戚の中でパスポート持ってるのはばあちゃんだけだったりする。
23 :
名無し三等兵:03/08/14 04:05 ID:NHIM3LO6
僕の爺さんの親戚はとても有名ですごい人らしい。
真珠湾攻撃に参加。ブーゲンビル島で撃墜されたみたい
うちのGさん近衛で宮城守っとったんで戦争逝ってへんねん
25 :
名無し三等兵:03/08/14 13:06 ID:HkLCbbrc
父の兄は学徒動員されて愛知・豊川海軍工廠メ公B29の襲撃を受けて爆死。
(父は当時3歳)
いまは亡き祖母が薄暗い部屋の片隅で(息子の)遺影を抱えて泣いていたのを
見たときは見てはいけないものだと思って声かけられなかった。
その遺影は靖国神社の写真と組合わせになっているものなのだが、
いまでは壁からはずして放置しているようです。
…罰あたるよ!←祖母の口ぐせ
26 :
名無し三等兵:03/08/14 13:24 ID:fbgA4SEZ
,,.-‐''""""'''ー-.、
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r'-=ニ;'_ー-、___,,.ィ‐‐-,,_ __|
| r,i ~`'ー-l;l : : : `l-r'"メ、
ヾ、 `ー‐'": i!_,l_ノ`
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/ `::;;. '"`ニ二ノ なめたらイカンぜよ!
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27 :
山崎 渉:03/08/15 20:32 ID:???
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
28 :
名無し三等兵:03/08/15 21:57 ID:haVSuf5k
さっき初めてまともに聞いたので忘れないうちにカキコ。長いけどスマソ。
祖父はいわゆる大学出の幹部候補生で、
太平洋戦争に突入した1941年に卒業を3ヶ月早めて、そして久留米に行った。
そこにしばらくいて爺ちゃんの隊は南方に行くことが決定、その準備をしていたけど、
直前になっていきなり爺ちゃんだけ満州に転属決定、鹿児島で1人部下を手を振って見送った。
そしたらその部下が乗った船がアメリカの潜水艦に撃墜され沈没。
ショックだったそうです。
そして今のプサン、ソウルなどを通って満州へ鉄道へ行った。
士官なので一応今で言えばグリーン席みたいなとこにポツンと1人でいたが、
あまりに暇でしかも寒いので思わず寝たらしい。
そしたら起きた時には持ってきた荷物全て盗まれてたんだとw
満州での主な配置はソ連国境近くの京寧(だったと思う)。
零下30℃の土地でひたすら寒く、寝たら死んでしまうような土地で実際凍死人も出た。
なため爺ちゃんは部下を「おきろ!」と蹴り上げてた。
自然が凄く、虎まで出たそう。
湿地帯に底無し沼みたいなのもあって、そこでも兵が何人か死んだ。
んでソ連側の斥候を命じられた爺ちゃんは部下2人を連れて川を渡ろうとしたんですが、
腰に巻きつけていたロープが切れて川を何キロか流されたらしい。
でもゆっくり落ちついて行動、岸まで辿りつきなんとか生還。
しかし内心こりゃ死ぬと思ってヒヤヒヤだった。
そんなこんなで戦場配置されてなくてもあまりに厳しい環境にこのままここにていも死ぬと思ったらしく、
連隊長に「私は真宗の坊主です、せめてお釈迦様が生まれたインドの近くで死にたい」と転属を直談判。
それを連隊長は目をつぶって頷きながら聞いていた。
すると1ヶ月後に南方カロリン諸島のポナペ島に転属決定。
意外と融通きくものなんだな、とこの話聞いた時はちょっと意外でした。
29 :
名無し三等兵:03/08/15 21:58 ID:haVSuf5k
とりあえずプサン(だったと思う)から連合艦隊総司令部があるソロモンまで行くことになり、
護衛艦2隻に挟まれて貨物船で出発。
するといきなり「ドーン!」という音がし、これはやられたと思っていたら
後ろにいた軍艦がアメリカ潜水艦の攻撃を受けていた。
軍艦なので沈まず真っ二つに折れていた。
爺ちゃんが乗った貨物船は潜水艦に狙われないようジグザグ走行、結果重度の船酔い。
なんとかソロモンについてほっとしてたら、直後アメリカが空襲。
今まで乗ってた貨物船等1分で沈没。爺ちゃんポカーン。
んでソロモンからポナペに今の漁で使う小型船みたいなので行く途中でもアメリカによる空襲に遭遇。
1機が去ったと思ってもまた何機もやってきて、船の回りに爆弾による水が飛びまくって視界ゼロだった。
しかも太平洋なので船の回りに鮫まで出現。
部下が空襲&鮫にパニクって海に飛び込んだりしたため
爺ちゃんピストルや機関銃で鮫に応戦。
ですが、鮫もアメリカの空襲で蜂の巣になったりで助かる。
アメリカ機もとうとう爺ちゃんの乗った船諦めていなくなり九死に一生を得る。
ポナペについてからは空襲されまくり(上陸戦はなし)
足元に銃飛んで来たりでよく死ななかったと今でも思う。
アメリカ機に向かって機関銃撃ったりもしてたけど、機体にゴムが使用されてるから墜ちないらしい。
軍艦がやってきたので日本のものだと思いバンザーイやってたら、なんてこたないアメリカ軍艦で、
ボコボコこっちに撃ちまくってくる。
家もなくなり木もなくなり、それでもまだ撃ってくるもんだからどうしようもない。
やっと終わって外に出た時は、仲間の兵士の遺体がたくさんあって、
その時ばかりは涙が止まらなかったそう。
あと爺ちゃんが言ってたのがマーシャル島あたりで原爆の誤爆っつーか自然爆発があったらしく(帰還後知ったらしい)
隣の何百キロか離れた島にいたのに物凄い音と衝撃がした。
人類で原爆初体験は広島じゃなくあそこにいた人間らしい。
んで無線ラジオで58年前の今日玉音放送を聞く。
最初は「まだ戦え」と言ってると思ってたが、聞いていくと「戦争は終わり」と言ってることに気づき、
本心から「良かった」と思った。
アメリカ軍艦で下田に送られる道中、ご飯やらチョコレートやら薬やらがなんでも揃ってるアメリカの状況を見て、
日本は無理な戦争をしたと心から思った。
アメリカ人は非常に爺ちゃんに良くしてくれたそうです。
そして久々に日本に帰ってくる途中富士山が見えた時、あまりに思うことが多すぎて涙が出た。
下田に着いてからもまた荷物盗まれたり色々あったが、
アメちゃんから貰った砂糖とか持って家に帰ったら喜ばれた。
曾祖母は手紙を送っても帰ってこないなど連絡普通で爺ちゃんもう死んでると諦めてたらしく、
爺ちゃん見た時しばらくポカーンと信じられずにいた。その後二人して号泣。
曾祖母は病気を患ってたそうですが、爺ちゃん帰ってきたら元気が出たらしく治ったそうです。
さっき武器没収に引っかからなかったポナペ時代の木刀見せてもらいましたが、60年の重みに激しく感動。
2.26事件とかも覚えてました。もっと早く聞けばよかった。
あと爺ちゃんいわく「戦争で死んだのは広島、長崎の人間だけじゃないんだからもっと平等に扱え」
爺ちゃんと婆ちゃんいわく「アメリカは許せるがソ連は許せん、逝ってよし」
>>28-30 お前のジーちゃん運良すぎ
しかし羨ましい、近くにこれだけ戦場を覚えてる人がいるとわ
ただ広島前のマーシャルの原爆はマジか?聞いたことない
32 :
名無し三等兵:03/08/15 22:35 ID:+NZIByOa
>>28-30 マジ?
漏れのじーさんもポナペ島にいた。
山形の船大工で設営隊として行ったらしい。
銃爆撃で仲間が二人死んだとか、
椰子の実のとりかたばっかり話してた。
最近ぼけ気味だけど。
33 :
名無し三等兵:03/08/15 22:49 ID:sZfIOsWL
いいね。話聞けるなんて。
ウチの旦那の父様も空軍にいたらしいけど
全然話してくれないとのこと。
>>28-30 うう・・・、良い話。
よくぞ書いてくれたって感じです。
ありがとう。
>>33 辛い経験の有る人もいるから、そっとしておいておやりな。
36 :
28-30:03/08/15 22:58 ID:haVSuf5k
>>31 自分も原爆の話は初耳だったんで今ちょい調べてたんですが
あるのはビキニ島の水爆実験ばかりでソースが見つからない…。
でもボケてもいないし嘘とも思えないんで
もしやこれは隠蔽された事実なのかもと言ってみる。
>>32 じゃあ爺ちゃん同士一緒にいたかもですね、うちの方は佐賀出身の中尉です。
「椰子はとれたけどパイナップルは取れなかった」と言ってましたよ。
ひい爺ちゃんが徴兵逃れのためにでっち上げた家だから、兵隊には縁が無い。
父方の爺ちゃんは大正時代に徴兵検査。餓鬼のころ肋膜炎にかかって、丙種不合格。終戦直前には竹槍訓練に駆出されたけど、3日合宿なのに初日でバテバテ>脱落。
婆ちゃんは空襲の時逃げ遅れて、まだ小さい叔父ちゃん・赤んぼだった叔母ちゃんを抱えて、グラマンだかカツブシに追い回される。ちょうど桜の木が生えていて、敵機が高度を落とせなくて助かる。(゜Д゜)ウマー
溝に逃げ込み、我が子を抱えて隠れていたけど、怖いもの見たさで顔を上げたら、パイロットと目があったとか。その飴公、笑ってやがったそうだ。
大叔父さん(婆ちゃん弟)は徴兵されて奄美大島で終戦を迎える。「もうちっと南に下がっていたら、やばかった」って言ってた。
母方の爺ちゃんはちっちゃい工場やってたけど、闇屋とつるんだんで統制法違反で憲兵だか警察にパクられた。爺ちゃん、「お国の為増産に励んでますが、何か?」みたいなこと言って、相手を煙に巻いて帰ってきた。
工場は伯父さんが継いで、今でも漏れのイトコがやってまつ。
ヘタレな話ばっかでスマソ。