当時、私は小学校六年で、学童疎開も二十年三月で終わり、甲府から東京・高円寺に帰って間もない
時でした。幸い、兄はほど近い調布の飛行隊に所属しており、私が帰って来てからも、月に二、三回、家に
戦友の方々を連れてきました。
その日は雲ひとつない青空でした。いつもの空襲とは違ってB29は戦闘機援護のもとに、高度は今までの
一万メートルの成層圏ではなく、ぐっと低く侵入してきました。
私は下の兄たちといっしょにおそるおそる防空壕からはい出して空を見あげると、何かキラキラ光る物体が
上下している様子が目に入りました。その時はまだ上空で空中戦が行われているとはまったく思いませんでし
た。
その直後、B29の一機が白い煙を尾から引き始めたと思うと、いまキラキラ光っていた小さな物体からも煙
が出て、それこそまっさかさまに落下し、見る見るうちにそれが小さな戦闘機だとわかるほど、私たちの肉眼に
せまってきたのでとっさに身を隠しました。
空はまだゴウゴウとうなりをあげるようにして後続敵機が通過していましたが、どうやら市内での空襲ではな
さそうだと、再び壕から飛び出して空を見ると、米粒のような戦闘機同士が空中戦を交え、上下するごとに
太陽の光にキラキラと反射していました。
初めて見た空中戦に、その時は”兄もおそらく出撃していたのではないだろうか?””いや戦闘に出ていても
兄は決して死ぬことはない”といわば願望に近い気持で打消していました。私がこの日、この目で見た空中
戦はB29が二機、煙を吐いたのと、戦闘機が三機、煙を吐いたり、落ちていったのです。
翌八日夜の八時頃、玄関の床をコツコツと軍刀でたたく音がしました。下の兄二人といっしょに玄関をのぞき
ますと、暗い中にボヤーッと兄の軍服姿がうつりました。
「あっ、お帰りなさい」声をかけるなり、昨日の戦闘でも無事だったんだ、という安心感も手伝い、玄関の電気
をつけました。
ところが、いまいたはずの兄の姿はそこになく、不思議に思って家の外を一周してもどこにも兄は見当たりま
せんでした。
それから一時間後、こんどは「ドンドン」という玄関のドアを強くたたく音に、二番目の兄が玄関に行き、しば
らくして何か紙キレを持ってきたのです。
「何だったの、だれが来たの?」
兄はしばらく無言でした。暗い灯火管制下の電灯で、三番目の兄と顔を合わせ、読むと
「セウイ カウノタカシ 四ツキ七ヒ テイトフキンニオケルヨウゲキセントウニオイテソウレツナルセンシヲトグ。
トウブ一〇八ブタイテウ」
私を妹というより、自分の娘のように可愛がってくれた、あのやさしい兄が死んだなんて━━この世には神も
仏もいないのかしら・・・・・・きっとだれかと間違えたに違いない。でも、もしあの電報が本当だとしたら、昨日見
た、あの空中戦で落ちた戦闘機の一機が兄だったのでは・・・・・・・・・。
それから一週間ぐらいして隊から使いの将校が見え、兄は敵のP51戦闘機と調布上空で空中戦を交えな
がらB29に近づき、攻撃をしつつ、最後に体当たりをして、埼玉県の川口上空で戦死、B29も焔を吐きながら
林の中に墜落したそうです。
それにしても七日に見た空中戦の一機はたしか兄に間違いなく、死んで幸運というのも妙な表現ですが、他
に戦死された方々から見れば、本人も家族も戦時下では考えられない最後の出会いでした。三十四年たった
今もあの時の光景は脳裏にやきついています。