544 :
:2005/04/10(日) 20:45:41 ID:???
age
とりあえず、FalmanかBreguet辺りを収集中。
少々お待ち下さい。
うぃっす
DI-6が複座戦闘機として世界の駄っ作機に取り上げられていたのが
不満だったけどお陰でちょっとすっきりした。
別にデファイアントなんかと比べなくてもいい生い立ちなんですよね!
ありがとう!
Avions Henri, Maurice et Dick Farmanについて今回は少々。
Farmanと言えば、日本航空黎明期に日本の空を闊歩したHenri Farman、Maurice Farmanが
有名です。
さて、Henri Falmanは、Parisで英国人を両親に生まれました。
彼は、絵描きになるため、フランスの美術学校に通っていましたが、何故か最初は自転車レー
サーとして、次いでカーレーサーとして名を馳せてしまいました。
1907年、彼は弟Mauriceと共に、Voisinに飛行機の操縦を習います。
その自分の機体をVoisinに発注する際に、尾部形状の修正と翼断面の修正を依頼します。
この機体が種々の競技会で成功したことが、彼の航空機設計者としての第一歩になりました。
1908年1月13日にVoisin機に改良を加えた、独自のHenri Falman機は、Archdeacon競技会で優勝し、賞金50,000フランを手にします。
これによって、彼の名声は益々高まり、自分の航空機工場を構えるに至ります。
そして、1909年には最初の航空機操縦士訓練校を開設し、民間航空にも進出するなどの発展を続けていきました。
一方のMaurice Falmanは4つ違いの弟で、飛行機作りはVoisinの改良から始めています。
1908年にVersailles近郊に工場を建て、1909年から独自の飛行機作りを開始しました。
彼の設計する機体は主に軍用機、練習機が多かった様です。
リスク分散もあったのでしょうが、結局、1912年1月に二人の会社は合併して、Avions Hanri, Maurice et Dick Farmanとなりました。
この時、3番目の兄弟、Richard Falmanが入社して、彼らを財務面から支えています。
1913年、HanriはHF-20/21/22/23と言う複葉機を、MauriceはMF7/11と言った複葉機をそれぞれ製作します。
両機とも性能的には互角でしたが、Mauriceの機体は、支柱や張り線が多い分、頑丈さでは一歩勝っていました。
日本でもMaurice機は、「馬鹿烏」と言われつつも量産され、1920年代に至っても使用され続けていましたし、英国、スペイン、イタリアでも
License生産されており、ギリシャ、スウェーデン、デンマーク、ロシアへも輸出されました。
第一次大戦が勃発すると需要は急増し、大戦初期には両方とも偵察、爆撃任務に使用されていますし、日本でも青島戦に投入されたので
有名です。
本国フランスでは、1914年末には流石に旧式化し、両方とも練習任務に格下げされています。
次の機体からは兄弟の共同設計となり、推進式複葉機F.30を原型とした本格的な戦闘用航空機、F.40シリーズが1916年から製作されます。
しかし、既に推進式は限界に達しており、程なく夜間爆撃機に転用されています。
なお、この機体は、フランスの他、ベルギー、ロシア、英国にも輸出されています。
この機体は、爆撃、偵察、観測に用いられましたが、変わった任務として観測気球へのロケット弾攻撃と言うのもありました。
結局、Falmanは小型機の開発から大型機専門メーカーとしてその経営資源を移行し、最初に手がけたのが双発複葉爆撃機F.50でした。
しかし、F.50は生産開始直後に第一次大戦が終了してしまい、これを転用した旅客機、F.60を製造します。
この機体の製造と前後して、Falmanは、民間航空会社SGTAを設立し、これは後にエールフランスの母胎の一つとなりました。
また、大戦後には多角化の一環として、Henriが昔携わっていた自動車産業に進出したりもしています。
日本陸軍航空隊では、F.50を導入しようとしましたが、機体の強度不足が露呈して、F.60の爆撃機改造をFalmanに依頼し、その機体を採用。
この機体は、1922年から28年に掛けて、主力爆撃機として16機が生産され、使用されました。
これらは輸入品でしたが、中島が国産化を計画した時期もあり、その国産化案には、F.140と同様の四発化した機体も計画されていました。
さて、Falmanは自動車メーカーへの脱皮を図っていましたが、結局それは果たせず、Goliathの4発化版、F.140 Super Goliathを更に発展させたF.220
四発爆撃機とその発展型のF.222爆撃機、これを改造したF.224旅客機を製作します。
F.222は1930年に製作したF.220を改良したF.221を引込脚化したもので、高翼単葉、四発のエンジンは胴体からスタブを出して、主翼支柱と共に支えら
れており、そのエンジン配置も串形配置というものでした。
こんな旧式な形態のF.222ですが、夜間爆撃機として、第二次大戦では、ドイツ領へのビラ撒きやMunichのBMW工場空爆にも出撃していますが、流石に
旧式化しており、フランス降伏後は北アフリカで輸送機として使用されていました。
F.222を形ばかり近代化したものが、F.223で、無骨な機首は流線型となり、エンジンが空冷から液冷に換装されています。
この機体も、同様にドイツに対するビラ捲き飛行を行っており、ベルリン初空襲もこの機体が行っています。
次いで海軍向けの雷撃・偵察・爆撃機として提案されたF.271があります。
元々は1928年に試作されたF.168をリニューアルしたものですが、1936年に製作されたのにも関わらず、木金混製の複葉双発機で、
フロートと車輪を交換することの出来る水陸両用機となっているのが特徴でした。
流石にこれでは他社の機体に太刀打ちできないことから、試作に終わっています。
Falman社最後の軍用機は、自主開発のF.470です。
これは、1930年代のBCR計画で試作されたF.420多用途「戦闘機」を下敷きに、双発練習機として開発したもので、海軍に採用されて
います。
第二次大戦勃発後、海軍の乗員学校に配備されていた機体は、全機偵察機中隊に配備され、沿岸哨戒に用いられました。
占領後、14機がドイツに接収され、輸送任務に充当されています。
1937年1月3日、フランスの航空機産業国有化によって、FalmanはSociete nationale de constructions aeronautiques du Centre(SNCAC)
に吸収され、Falmanとしては活動を終えます。
SNCACでは、ドイツ軍の要請でSiebel Si-205の生産が行われていました。
ところが、Falmanは1941年春に、占領軍の要請で再起します。
但し、純粋にFalmanが再起した訳ではなく、戦前、Austin Sevenをコピー生産していた自動車
工場のRosengart Motor worksの傘下企業、Societe anounyme des usines Falman(SAUF)と
して設立されたもので、元のFalmanとは関係ないものです。
これは、大型機の工場を確保するためで、この工場はHeinkelの下請工場として、He-177、
次いでHe-274の開発、生産を行っていました。
この工場は、フランス解放後に接収され、Ateliers Aeronautiques de Suresnes(A.A.S.)と
改められて、He-274はフランス空軍向けにAAS.01としてそのまま生産され、各種実験母機
として使用されています。
組織自体は暫定的なものであり、1947年頃には消滅していますが、工場は1964年まで、
SUDの工場などとして残っていました。
ちなみに、Falman兄弟は、兄も弟も戦後、1950年代後半から1960年代前半まで生きて
いたりします。
てことで、次いでソ連編。
眠い人乙
とりあえずあげとくですよ
ちょっと、GW期間中はどたばたしてるので保守させて貰いますよ。
555 :
名無し三等兵:2005/05/09(月) 00:20:15 ID:x+/ATzw0
あげ
もしもし、Farmanが途中でFalmanになってますよw
保守
>556
あじゃぱ。
スマソ。
普段でもそうなのだが、ついつい、LとRを間違えてしまうのよね。
つ〜こって、ソ連編に行く前に、Hispano-Suizaについてちょっと書こうかと。
でもって、現在、資料収集中。
漏れにもっと時間と金を…(ぱたり。
ヘンリー・ファーマンがフランスに帰化してアンリ・ファルマンになったのはいつのことだろう。
帰化後はHenri Farmanだが、イギリス国籍の時はイギリス綴りのHenry Farmanだったはずなんだよね。
>559
20世紀初頭じゃなかったですっけ。
で、>552補足。
後になって資料が出てくる…(ぐはぁ。
SNCACになってから、表向き「本物」のFarman社は出なくなっていましたが、戦後すぐの1946年、実験機として双子エンジンを
装備した高々度実験機SNCAC NC.3021 Belphegorが製作されました。
これは、SNCAC NC.130の系譜ですが(機体の規模は全然違う)、そもそもがFarman F.1000/1001から始まったものでした。
NC.3021試作機は、最初、Hispano-Suiza HS.12Zエンジンを2基搭載し、1つのプロペラを駆動するもので、後に、戦利品のDB610に
換装しています。
また、1952年にはFarmanの名称を冠した最後の機体、SCA-Farman F.500/521 Monitorが開発されました。
この機体は、1939年10月に初等練習機として、BelgiumからLicense購入して、Farmanで生産していた、Stamp S.V.4練習機の後継機(この
機体自体は、Falmanで生産されており、1950年代末まで使用されていた)として開発された機体で、全体として、DHC-1練習機に似た雰囲
気を持つ低翼単葉固定脚機でした。
F.500は、Renaultの140馬力倒立エンジン、後に170馬力に向上したモノを装備し、翌年開発された、F.520はRegnir170馬力エンジンを使い
最終的に、1955年に完成した型では、Salmson-Argusの260馬力エンジンを用いていました。
この機体は、空軍のSV.4後継機のコンペには間に合わず、フランス陸軍軽航空機隊学校用の初等練習機コンペに出され、Nord 3200と競争
試作となりましたが、Nordの方が成績優秀で、落選、その後、Falmanの名を冠した機体は消滅しました。
でもって、次回は、Hispano-Suizaに逝くけど、フランスにするかスペインにするか、それが問題だ。
さて、Hispano-Suizaですが…。
この会社の本業はそもそも、Sociedad la Hispano-Suiza Fabrica de Automoviles S.A.と言う高級車メーカーから出発しています。
Hispano-Suizaとは、「スペイン・スイス」という意味で、主任技師となった、スイス人、マルク・ビルキヒトに由来します。
彼は、Genevaに生まれ、機械学校で学んだ後、兵役で砲兵となり、その後、国営軍事工場で、機械工学、空力学、冶金工学を当時の一流の学者から学びました。
その経験を生かし、除隊後、BarcelonaのQuadoroと言う自動車メーカーに就職しますが、この会社は資金難で倒産、次いで別の会社でエンジン設計の職にありつき
ますが、これも、破産し、彼は路頭に迷うのですが、彼の技術的センスはスペイン産業界でつとに有名であり、その会社の債権者会議で、中心メンバーが彼に仕事
を与える様、他のメンバーを熱心に説き、これが複数の賛同者を得て、1904年に自動車メーカーとしてのHispano-SuizaをBarcelonaに設立します。
国王AlfonsoXIIIもこの人の設計した車のお得意様で、1910年にはフランスの自動車レースで勝利し、スペイン国民を熱狂させたりしています。
その余勢を駆って、1911年4月にParis郊外にフランス支社La Societe Francaise Hispano-Suizaを設立し、此処に工場を建設して高級車の製造に
乗り出すのですが、折から、第一次世界大戦が勃発し、フランス支社の方では、軍部の要請を受けて各種のエンジンを開発します。
中でも、1914年11月に開発されたA型と呼ばれるエンジンは、90度に配置されたアルミ一体鋳造製の2個のシリンダーブロックの採用で、薄肉の
深いクランクケースに十分な強度を与え、潤滑油は全てクランクケース内部にあり、強制給油によってエンジン全ての部分を循環すると言うもの
です。
その他の部分でも画期的なエンジンであり、従来の直列6気筒エンジンに比べると全長が短く、コンパクトで、星型のロータリーエンジンより直径が
小さく、航空機の前面面積を減らすことが可能で、パワーウェイトレシオも優れていました。
これは1915年から製造が開始され、これを基本に、改良型が作られていきます。
一般的に、Hispano-Suizaのエンジンの製造品質は非常に良く、十分に注意すれば、20時間のオーバーホール間隔で、信頼性と性能を維持する
ことが出来ました。
このエンジンの問題点は、シリンダの冷却不足、排気バルブの変形、減速ギア付きエンジンでは、不均等に熱処理されたヘリカルピニオン、クラ
ンクシャフトの疲労破壊が挙げられており、1917年夏にはクランクシャフトが4時間でトラブルを発生させるため、SE5aに深刻な問題を発生させ
ました。
この際、直接駆動方式への変更も考えたようですが、減速ギアの改良などを施したエンジンの製造で乗り切りました。
また、1917年にはプロペラ軸内を通して機関砲を発射するMotor Cannonを開発し、最初にSpadXIIに採用されています。
と言うわけで、しばらくHispano-Suizaを取り上げてみる。
>560の最終行は折衷にしたわけですね
564 :
:2005/05/31(火) 20:33:54 ID:???
あげかな
保守。
眠い人ばかりに頑張ってもらうのもあれなのでネタを投下。
全く興味をもたれない中国ネタだけどw
中華人民共和国の航空産業
・航空産業の黎明期
中国での航空機研究や航空宇宙産業は1950年代に始まった。
1951年4月17日、国家中央軍事委員会と政務院(現在の国務院)は
航空産業設立の決議案を発布し、ここから中華人民共和国の航空産業が
始まった。西安、上海、瀋陽、成都の4地域に航空機メーカーが設立された。
航空産業は設立当初、第三機械工業部と航空工業部が管轄していたが
性能や整備への追求が乏しかった。拡大し複雑化する一方の航空産業を
発展させる事よりも、いわゆるソビエト式は現在の部署の状況のままで
製品を生産するだけだった。航空工業部は数千機の軍用機を製造したが、
ほとんどが時代遅れのものになるか、改良発展を試みる事がないので
時代遅れになりかけていた。
産業の環境も中ソ断交や文化大革命の影響もあって航空産業は混乱が
続いており、国務院は運営を一本化するために航空宇宙工業部に
統合化するなどして対応を試みたが、抜本的な解決にはならず
社会主義市場経済の導入に活路を見出す事になる。
・民営化による産業の改革
1993年、航空宇宙工業部は中国航空工業集団有限公司(CAIC)という
中国航空メーカーなど産業を統括する目的で国務院の直下に置かれた
国有民間企業に転換され、開発・生産・輸出と航空産業全般を手がけた。
111の企業、36の研究所、6つの大学院と大学に56万人の従業員を擁し、
軍用機、民間航空機、ミサイル、航空機用エンジン、航空機用機材の
研究・開発・生産を担当するだけでなく、最新の航空力学の研究、生産計画、
テスト飛行、材料研究、生産技術、物理計算、自動制御システムを手がけた。
また計器類、ガスタービン、自動車、オートバイなどの製造工場を持ち市場を形成する
ことにも成功している。70以上の国と取引をし、10カ国以上の国々に航空機や
エンジン、航空機搭載機器を輸出し、20を越す海外の製造業者向けに
部品やコンポーネントを製造した。
・二つの巨大企業の誕生
この民営化は大きな変革を与えた。従来、中国の軍用機は品質上深刻な問題を
抱えており、その原因は製造業者ごとに製品管理方法がばらばらだったからで、
ほとんどの中国機は1975年に生産工場に回収され、80年代に軍用機に整備上
深刻な問題があると報告された。
しかし、民間用航空機分野にアメリカやヨーロッパの企業が進出し(特にMD80や
MD90の部品製造に関わった上海飛機工業公司)、中国の航空機生産の
標準レベルが明らかに上昇した。西側の基準が厳しいことから、中国の
品質管理が改善された。中国軍機は以前に比べはるかに優れた仕上がりに
なっていると報告されており、民間のノウハウが軍用機生産ラインにもたらされた
事を示している。こうして中国は更なる発展を求めて市場競争原理を本格的に
導入する事になる。
99年7月中国は56万人の従業員を擁する中国航空工業集団有限公司(CAIC)を
中国航空工業第一集団公司(AVIC-I)と中国航空工業第二集団公司(AVIC-II)に
分割し、両社は協力関係であると同時に競争相手になり、競争力を持たせる事に
なった。政府の監督下にある国の持ち株会社として経営され、政府の投資に
よって運営される経済団体である。両社の活動範囲は似ているものの、一般的に
AVIC-Iは大型・中型作戦機、AVIC-IIは作戦支援機やヘリコプターを主に製造する。
・中国航空工業第一集団公司(AVIC-I)
AVIC-Iは軍や民間向けに航空機、エンジン・航空機搭載機器、戦闘システムの
改良、製造、販売、維持メンテナンスを行っている。軍向けに戦闘機、戦闘攻撃機、
爆撃機、輸送機、練習機、偵察機を生産している。産業用ガスタービン、自動車、
オートバイ、冷蔵庫、環境保護製品など非航空分野も製造し、主要8部門、
3000種類以上の製品を製造している。
航空機のリースや保守点検など航空ビジネス全般以外にも地盤工学、建築、
不動産も含まれている。53の大中の工業会社、31の研究・調査機関、
19の専門機器メーカーやエンジン輸出企業、資源開発企業、
科学研究開発企業を傘下に持つ。4万5千人の研究機関関係者を含め
24万人の従業員を雇用し、資産総額349億人民元になる。
AVIC-Iの主な企業として成都飛機工業集団有限公司、西安飛機工業公司、
中国南昌飛機製造公司、瀋陽飛機工業集団有限公司があげられる。
これらの企業はボーイング社など海外メーカー向けの部品を製造している。
・中国航空工業第二集団公司(AVIC-II)
AVIC-IIは54の大中の企業と3つの研究調査機関を傘下にもち、他に22の企業、
研究所、専門機器メーカーが加わる。2003年の報告によると21万人の従業員を
雇用し、資本金126億人民元、資産総額315億人民元になる。ヘリコプター、
輸送機、練習機、攻撃機、UAVなどの軍民の航空機や航空機搭載部品の製造を
行う。また自動車やオートバイ関連のエンジンやパーツ、繊維機器、医薬品、
医療機器、環境保護製品など非航空機分野も製造している。
航空ビジネス全般以外にも工学技術の開発・立案、金融業、不動産取引、
仲介業、貿易業、地下資源開発を行っている。政府所有の土地利用権利などを
含む資産の運用を任されており国内外の株式運用や投資・金融を行っている。
国産エンジンの製造や、国産沿岸防衛対艦ミサイルを開発し、改革解放を受けて
各国との国際協力を独自に持ち始めており、傘下の洪都航空工業公司はパキスタンから
資金を調達して自主開発したK-8練習機を製作してパキスタン、エジプト、スリランカ、
ザンビア、タンザニアへの輸出に成功している。
中国の代表的な航空機メーカーがまとまったらカキコの予定・・・
>563
いあ、高級車工場から出発して、航空エンジンの製造に乗り出したのが、1915年。
スペイン本社の航空機製作事業が立ち上がったのが1916年なので、編年体で逝くと、フランスが先に来ちゃったと。
>566
モツカレさまでつ。
中国は余り資料がないので助かります。
1916年12月、主力のA型シリーズ、試作に終わった4気筒のB型に加え、新たに大型で300馬力級のH型を投入します。
第一次大戦が終わった時点で、全モデルの出荷数は、49,893基で、内訳は150〜180馬力が12,593基、200〜220馬力が28,977基、300馬力が
8,323基となっていました。
また、英国のWolseleyではW.4APythonとしてA型をコピー生産し、これに改良を加えて高圧縮比を採用して210馬力とし、B型では、減速ギアと
バランスウエイト付クランクシャフトを有していました。
クランクシャフト折損で、SE5aに重大な問題を出したのは、このエンジンです。
一方、米国では、1916年にWrightとMartinの合弁企業、Wright-Martinに於いて、Hispano-Suizaエンジンの改良型が生産され、コンロッドなどを
改良した180馬力Wright-Hispano TypeEが多数生産され、H型エンジンも少数が生産されました。
しかし、1919年にWright-Martinは解散し、その技術的遺産はMacTracksに移りますが、10月にはWright Aeronauticalが設立され、その中核技術
として、Hispanoエンジンは命脈を保ち、最終形はA型の改良型で200馬力のWright E-4Tempestに発展しています。
このほか、フランスではアリエス、バロー、ブラジエ、シェナール&ウォーカー、デロネイ−ベルヴィユ、ドゥ・ディオン−ブートン、ドリオット−フランド
ラン−パラン、ファイブ−リル、ルフラヴィ&シエ、メイエン、プジョー、SCAP&ヴォアザン、イタリアのイターラ、ナグリエッタ&SCAT、スペイン本社、
ロシアの帝政ロシア軍需工廠、日本の三菱に製造Licenseが渡されました。
第一次大戦後も、フランスはParis郊外にあった工場では、継続してエンジンが生産されており、主力工場に行く道路の名称は、カピタン・ギヌメール
と改称されました。
また、Hispano-Suizaでは、これらのエンジンの更なる改良に努め、数多くの飛行記録を打ち立てたエンジンとして名を馳せます。
この中では、60度V型12気筒エンジンが主に用いられ、他に直列6気筒、W型12気筒、W型18気筒も製作されていました。
ところで、Hispano-Suizaには空冷エンジンを作る予定がなかったかと言うと、そんなことはなく、1929年にかつての提携先であるWrightから、
WhirlwindのLicenseを購入し、それに基づいた星形エンジンを2500基生産しています。
その中でも、複列14気筒の小型エンジン14ABは650〜800馬力を発揮し、大型の14AAは、1,100〜1,350馬力を発揮していました。
但し、Gnome-Rhoneのシェアが非常に高い状態では経営資源を液冷、空冷に分散投資するのは効率が悪く、航空省の指導で、液冷エンジンに
特化することとなりました。
このエンジンは、Breguet Br.691攻撃機に採用されていましたが、生産中止で最適なエンジンの選定に苦労しています。
1933年、従来のエンジンと一線を画す、戦闘機用12Yエンジンが開発されます。
同時期に開発されたMarlinと比べると、排気量が後のGrifonくらいあったのにも関わらず、軽量でした。
但し、回転数はMarlinの様に3,000回転まで上げずに2,400回転までしか上げなかったため、出力は低いものでした。
M.S.406に採用された過給器付き860馬力の12Y-31に加え、最も大量に生産されたのが、Turbomeca製過給器を装備した12Y-45で、このエンジンの
出力は910馬力で、いずれもMotor-Cannonが装備可能となっていました。
このエンジンも、日本の三菱航空機を初め、各国に売れましたが、License生産権を購入し、本格的に改良したのは、ソ連のKlimovで、GUAP
(航空産業理事会)の方針によって、12YのLicenseを購入します。
1933年後期に契約が締結され、最初のエンジンVK-100は1935年に製作され、単段式過給器を付けて750馬力、翌年には改良を加えて100Aとなり、
2,400回転で860馬力を発揮、1937年のVK-103では二段式過給器を取付け、1939年のVK-103Aでは960馬力となり、これに100オクタン燃料を用い
ることで、1,100馬力になっています。
更に回転を上げて、2,700回転としたVK-105は、1,000馬力を越えて最終的に1,260馬力となっており、エア・スカベンジ・バルブを用いたVK-107は
1942年に、93/95オクタン燃料で1,400馬力、1943年には100オクタン燃料で1,650馬力に達しました。
このVK-100から発達したエンジンは、最終的にVK-109で、2,073馬力に達しています。
ソ連のHispano-Suiza派生エンジンの生産台数は、1935〜47年で約129,000基が生産され、このうち、VK-105だけで、101,000基に上っています。
さて、フランスでもソ連と類似の発展を遂げ、1940年の12Y-51で、1,100馬力に達し、89terは1,280馬力となって、V.G.39戦闘機に用いられ、
DB系列の様な直接燃料噴射に変更した12Zでは、2800回転で1,800馬力に達しています。
しかし、時既に遅く、フランスは崩壊しました。
幸い、工場は戦前にフランス南部に移転していたため、占領による協力は避けられましたが、以後は細々とD.520などの動力用に生産や研究が
続けられているだけで、ドイツによる占領後は、連合軍によって工場が破壊され、生産活動は停止しました。
但し、技術が失われたわけではなく、戦時中は12Zの改良に努め、これはD.520Zの動力となり、また、これを2基繋いだ、H型24気筒で4,000馬力
の際物、24Zとして結実しました。
このエンジンは、4個の燃料噴射ポンプ、横断シャフトに2個の2段式過給器を持つもので、1949〜52年の間にテストが繰り返されました。
なお、これは、Arsenal(海軍工廠航空部門)が試作していた、Junkers Jumo213エンジンを2基タンデムに繋いだ2,250馬力の12H、更に12Hを2基
垂直対向に繋いだモンスターエンジン、24Hエンジンに対抗するものでした。
閑話休題。
この24Hエンジンには、2本のクランクシャフトを2基ギアで繋いで結合し、プロペラシャフトを駆動、エンジンには左右に2基Superchargerが搭載され、
左側は上側のエンジン用、右側は下側のエンジン用に圧縮空気を供給するもので、プロペラの駆動装置は、後方の24Hエンジンから前方エンジン
のシャフト内部を貫通するようになっており、小型の5枚羽根ロートルプロペラを駆動する様になっていましたが、実際には4,000馬力、究極的には
8,000馬力を出す計算でしたが、実際には半分の動力も伝達できなかった様です。
ついでに書くと、Jumo213を2基繋げた12Hは、更にカップリングで結合して、Arsenal V.B.10試作戦闘機の動力源となりました。
上まぁ、ドイツの更に斜め45度上を逝く状況であろうか、と。
閑話休題終わり。
もう一つ、2,000馬力級の12Bエンジンは、戦争終了後の1945年に開発が完了して試運転を行い、1947年には2,200馬力に達していますが、これも
時機を失し、実用化には至っていません。
試作エンジンでユニークな機構のエンジンとしては、1938年に開発されたものがあります。
これは、ドイツのHZ計画と同じく、胴体内に12Xirsエンジンを搭載して3段のコンプレッサーを駆動し、翼搭載の12Y-32/33エンジンに過給する機構
で、高々度飛行用の試作機Nord N.C.150で実際に使用されています。
Hispano-Suizaは、多角化を進め、機関砲や砲塔の製造なども行っています。
高級車の製造自体は、1936年に終了していますが…。
エンジン部門は、武器製造部門と共に、一方の雄として、君臨します。
戦後、いち早くジェット化に対応しようと、1946年にはRolls-RoyceからNeneのLicenseを取得し、SNCASE S.E.535 Mistral
(De Haviland D.H.100 VampireのNene搭載版、俗称Elephant Ear Vampire)やDassault M.D.450 Ouragan、Mystereの初期
試作機の動力源として採用されるなど、初期のフランス空軍機のエンジンとして用いられていました。
NeneのLicense生産は、Mk.101/102/104/105とアフターバーナー付きの102Bが主に作られ、独自に、空気流量を増加し、
空冷式中空タービン静翼を採用したR.300を製作しています。
これは、Rolls-Royce Tay250RのLicense生産のため、1951年に開発破棄されました。
また、これに代わる発展型として、Tayの空気流量を更に多くして、回転数、温度を更に高めたVerdonが製造され、MystereIV
戦闘機に搭載されています。
しかしながら、Hispano-Suizaのエンジンは全て遠心式で、軸流式の戦闘機用エンジンとして、ライバルのSNECMAが、Atarを
開発したため、以後は苦しくなっていきます。
まずは、軸流式エンジンとして、Rolls-Royceからの提案で、Sud CaravelleとDassault Super-Mystere戦闘機の装備に参画し、
その経験を元に、1954年に軽戦闘機用小型軸流ターボジェットエンジンのR.300を設計しますが、設計コンペに敗れて、1956年
年には開発中止となってしまいました。
結局、エンジン部門はこの後立ち直れず、Dassault MirageIIIC/E用補助ロケットのSEPR844の一部製造などを行いますが、
不況には打ち勝つことが出来ず、1968年12月、遂にエンジン部門は切り離されて、SNECMAに買収されてしまいました。
と言うことで、次回は、機体メーカーとしてのHispano-Suizaなんぞ。
さて、1916年にSociedad la Hispano-Suiza Fabrica de Automoviles S.A.の航空機部門として、
Sociedad La Hispano-Suiza S.A.がGuadalajaraに設立されます。
当初、この会社は、"La Hispano"と呼ばれていました。
この会社の工場の敷地面積は、当時としては広大な8,500平方メートルに及び、機体とエンジンの一貫生産が可能でした。
此処でもHispano-Suiza 8F系のエンジン製作が開始され、次いで、1919年にGeoffrey De Havillandの兄弟である、Hereward De Havillandがスペインに
来訪し、数機のD.H.4と16機のD.H.9を英国から持ち込みます。
この機体に、Hispano-Suiza8Fbエンジンを搭載したのが、La Hispanoで、これをきっかけにDe HavillandとLicense契約を締結し、それに基づく技術移転を
受けて、1922年からD.H.9を約130機生産します。
これは、スペイン陸軍航空隊に配備され、CASAの製作したBreguet19に代替されるまで、爆撃機として用いられました。
その生産が完了した頃、1928年に、政府は主力戦闘機として、Nieuport-Delage NiD52を採用します。
このLicense生産が、La Hispanoに命じられ、1930年7月から部品状態で引き渡された最初の24機が組み立てられ、引き渡され
ました。
この機体は、フランスの主力戦闘機として、発展型のNiD62シリーズが725機採用されたもので、一葉半で500馬力の
Hispano-Suiza 12Hbエンジンを搭載し、2丁の7.7mm機銃を装備していました。
NiD52は、フランスの原型機では脚に装備されていた冷却機構を改造し、胴体下に冷却器をぶら下げ、機関銃はVickersMk.Iか
Mk.IIに換装しています。
閑話休題。
NiD52は操縦士達には蛇蝎の如く嫌われていました。
舵は重く、効きが悪く、狭い脚間の為、操縦士が着陸時に判断を誤ると、途端にGround-loopに陥るという欠点の他、メーカーが
保証していた最高速度260km/hには、どの機体も至らず、いくらかの機体で225km/hが出せたに過ぎなかったからです。
その上、事故を度々起こし、多くの機体が修理中になっていました。
こんな機体でしたが、政府は更に、パラソル翼単葉に変更した発展型のNiD82買い付けようとしましたが、もたもたしているうちに
内戦が勃発してしまい、この機体の導入はなりませんでした。
ちなみに、NiD52はスペイン内戦ではソ連製戦闘機が導入されるまで、共和国軍の主力戦闘機として使用されていました。
話を少し戻して、1931年、スペイン王制打倒、共和制施行に伴う混乱の中で、"La Hispano"はHispano-Suiza Seccion de Aviacion
として、自動車部門の子会社から分離独立し、独自の道を歩むことになります。
それに先立つ1930年、フランス人技師Andre Bedoiseauxを招聘し、パラソル翼単葉で、Hispanoが製作したWright Whirlwindを装備
した複座観測機、E.30を製作します。
この機体はオーソドックスな作りで、なおかつ頑丈なため、好評を以て軍に迎えられ、1932年から1934年に掛けて、18機が空軍に、
7機が海軍に採用されました。
また、1934年にはスペイン戦争省の空軍装備近代化計画の一環として、De Havilland Moth MajorやTiger Mothを範に取った、
複葉複座の初等練習機、E.34を製作します。
これは、試作機が製作された直後に、内戦が勃発したため、工場移転などの絡みもあってなかなか生産が進みませんでしたが、
25機発注されたものの内、最初の5機はAlicanteに疎開した工場から1936年10月に、その後順次生産が軌道に乗り、引き渡され
ていきました。
疲れたので此処まで。
次回は、スペイン戦争期から大戦後までの流れについて。
後、CASAとAISAは取り上げないといけないなぁ。
ようやく中国航空メーカーの一つ目がまとまったのでアップ。
眠い人の話をぶった切るようになるけどお許しを。
・成都飛機工業集団公司(CAC)
成都飛機工業集団公司は成飛の略称で知られる。1978年以来、黒字経営が続くなど国家を代表する
模範的企業として政府から高い評価を得て数々の賞を受ける、地上にある天国と形容される風光明媚な
成都平原に拠点を構える中国を代表する戦闘機メーカーである。
1956年4月、中国はソ連の援助により全国156ヶ所に工場建設の計画を中ソ両国は合意した。この計画の
第2プロジェクトが翌5月に結ばれ19の航空機製造工場建設計画が第二機械工業部により提案され、
同年12月に工場用地の指定を受けて戦闘機製造工場として四川省成都に132廠の設立が決定した。
1958年7月、第一機械工業部第四総局は工場名を峨嵋機械廠と命名し、10月18日に建設が開始された。
殲5の原型機は112廠(現在の瀋陽飛機)が1954年10月から試作を開始し、1956年7月19日に原型機の
初飛行に成功し1959年5月に生産停止するまでにソ連からのノックダウンキット13機を含め767機が
生産された。1961年に新型の殲5甲型の生産計画が開始され132廠が開発生産の担当になった。
殲5甲は機首にレーダーを搭載した夜間戦闘能力を有するタイプで、統合管理責任者・工作機械管理責任者・
冶金管理責任者・工程管理責任者の4人の責任者による開発管理体制が作られ、生産現場と設計チームは
双方で計算を行ってのチェック体制を敷いて双方が時間をかけて検討を行う方式を取った。
1962年には経営人事権を党が任命した工廠長が持つように条例が改正された。殲5甲型の生産に備え
拡張に努力し1964年10月には敷地面積507.4ヘクタール、工場面積約30万u、各種工作機械3349基、
総資本額1億8千万人民元、従業員1万人以上に成長した。同年11月、殲5甲型は初飛行に成功した。
1965年に部隊配備が開始され、1968年に生産が終了し、現在は殲5・殲5甲型は全機退役している。
132廠は殲5をベースに独自設計した複座練習機 殲教5(JJ-5)1号機が4月に完成し、2号機が5月に
初飛行に成功し、12月には量産の正式許可が下りた。殲教5は長く生産が続き、1983年まで生産が
続いており、計974機が生産され現在も中国海軍や第三世界で現役にある。また中国空軍の
アクロバットチーム八一飛行表演隊で現在も使用され中国の航空ショーではお馴染みの機体である。
1961年にMiG-21F-13とR-11F-300エンジンのライセンス生産に中ソは合意し、技術資料と機体、
分解した状態のエンジンと中国では入手できない原材料が引き渡された。MiG-21に興味を示した
中国は50年代末にはすでにライセンス生産を打診したが、そのような戦闘機は存在しないの一点張りで
あったという。開発時の名称は62式。しかし、中ソ断交によりソ連技術者が引き上げてしまい、図面と
見本の機体を手本に工作機械から工具まで一から作っての手探りで作業をすることになった。
技術資料は出鱈目が多く参考にならず見本機だけが頼りであった。
試製東風113高速殲撃機の失敗を経験に1965年6月、第三機械工業部は62式の量産の準備を132廠に
命じ、量産原型機の製作は112廠が担当とした。まずは技術情報をきちんと調べ飛行試験を入念に
行ってから、量産技術を研究して量産するという手順をとることになった。機体の技術情報を得るために
39項目を決め、うち27項目は3300回に及ぶ風洞試験を行って入念に調査をした。こうして1965年11月に
量産原型機1号機が完成し、1966年1月17日に初飛行に成功し殲7と公式に命名され、量産原型機の
試作機12機が112廠により製作された。飛行試験をクリアした1966年12月28日に殲7Iの量産が正式に
認可された。殲7から殲7Iへの変更点は空気取り入れ口の拡張や機関砲の増設、R-11F-300の
独自改良型 渦噴7を搭載などである。殲7やソ連から入手したMiG-21は少数ながらも60年代後半の
アメリカの無人偵察機との交戦で中核戦力を成し量産計画への期待が高まったが、CACは1968年末までに
新工場を設立して総投資額386万人民元をかけて第一次生産ライン構築のおおよそ完了したが、
この時期にCAC最大の危機が訪れた。
1966年から文化大革命は132廠にも飛び火し、党派閥の代理戦争が発生して大混乱となり、1967年3月には
国家中央軍事委員会が介入して軍事統制委員会を設けて132廠を接収して軍の管理下に置いた。
1968年2月に革命委員会が設立されて、対立と派閥抗争が激化し、この間工場は操業が停止状態で
多くの幹部や技術者、工員が逃げ出し、この騒動は中国中に知れ渡り問題児扱いされた。
工廠は毎年赤字が続き、1966〜76年の損失は累計5815万人民元にも達している。
1972年になって132廠に臨時党委員会を設置されて軍の統制から党の統制に移った。1976年に4人組が
権力の座から追われて文化大革命が終結し、1978年には132廠は再び党が任命した工廠長を責任者とする
体制に戻った。こうして部内の整理、6つの分工場と試験飛行場の整備・改修を行って機能を回復した。
こうした混乱により計画は大幅に遅れ殲7Iの初飛行は1970年3月であったが、量産開始は更に遅れ
1976年6月からであった。しかもすぐに生産が停止され生産数は少数にとどまり、1985年を目処に
殲7を年間200機を生産する規模の工場を目指し工場の近代化がはじまった。1979年に中越紛争に
殲7Iが投入されてがベトナム空軍のMiG-21MFと交戦し劣勢を強いられて、すでに時代遅れで
あることが現実となって現れていた。他の計画を考えると生産開始時にはすでに殲7Iが能力不足と
認識していたようである。
1975年に殲7Iの能力向上計画を第三機械工業部を正式に命じ、1978年12月30日に余明文が操縦する
殲7IIは初飛行に成功し、各種飛行試験を行い量産仕様が翌年に決定、1980年から量産が開始された。
かねてよりの懸案であった脱出装置の改良(HTY-2型脱出座席が最終的に完成したのは84年)、
渦噴7Aの改良型 渦噴7乙の搭載、翼下への増槽搭載能力の付加、電子部品の改良が行われた。
殲7IIは10種類以上の派生型が作られている。殲7IIは発展途上国には魅力的な存在で殲7I以上の
販売実績を示すことになる。殲8もこのII型がベースになっている。
1970年にCACを構成するもう一つの重要なメーカーが設立された。中国国内の空力シミュレーション関係施設や
実験用施設を統合した、錦江川に建設された611所(現在の成都飛機設計研究所(CADI))である。
以来、中国が独自改良・独自開発する超音速戦闘機を生み出す頭脳として今までに1200の研究項目を発表し、
航空機の設計を中心に航空宇宙分野などの最先端の研究開発を行っている。
現在、1200名の従業員を擁し80の分野の研究を行っている。CADIはCACの開発する航空機設計を
一手に引き受けており、殲7の改良やFC-1やJ-10の設計・改良などを手がけている。
殲7IIが殲7Iの部分改修を行ったものに対し、これと平行して後の殲7IIIになる大規模改修計画が進められた。
部隊運用報告から改良項目をまとめて1975年5月に第三機械工業部は計画を開始し、1976年に132廠と
011廠(現在の貴州航空工業集団公司)に対して技術検証と生産準備を命じた。1977年9月にメーカー側からの
報告と計画案が提出され、1978年6月に611所、132廠、011廠の共同開発が決まり、10月には設計担当は
611所、主要部品と最終組立は132廠、主翼および降着装置は011廠が担当することが決定した。
1976年と1978年には海外視察団を派遣してMiG-21MFを視察し、132廠に実機が届けられた。1979年10月から
1980年5月にかけて実機を調査して図面が製作された。1980年6月3日、国務院と中央軍事委員会は正式に
開発許可を出し、国家重点プロジェクトに指定した。1981年12月31日、611所は生産に必要な精密図面を完成。
総部品数15768、殲7Iとは80%が異なる全く別の機体となった。1983年1月から原型機の部品試作が開始され、
1984年2月6日に原型機1号機が完成、1984年4月26日に初飛行に成功し、1987年12月に量産型の仕様が
確定し生産が開始された。
脱出装置にはHTY-3が採用され、レーダーにはJバンドのJL-7対空捜索レーダー、HK-03D光学式照準機、
930-IIレーダー警戒装置(生産後期型はKJ-8602)など電子兵装に最新のものや従来には無かった装備が
搭載され、エンジンは推力6.6tの渦噴13になった。しかし、殲7IIIは大規模な改修により価格が高騰した上に、
運動性能が低下したことなど非難されたが、最も空軍将兵から問題視されたのは中国空軍では最新でも
世界的には時代遅れであることであった。1979年当時のベトナムの主力戦闘機で21世紀を迎えるというのは
悪夢の再現になるのは確実であった。湾岸戦争で新世代の兵器の別次元の強さは中国に大きな衝撃を与え、
第2世代戦闘機などの兵器がすでに使い物にならない事で認識が固まったようで、殲7IIIは発展型を製作するなど
対応が試みられたが少数生産で終わる事になった。
とはいえ殲7系列の開発は続いておりF-7Mをベースにした殲7EBの開発が行われ、これは主翼を
全面的に改良して1.17m延長し、二重前縁後退角にして従来に比べ高い運動性能を持つ機体に
したもので、90年に初飛行、93年に完成し同年から配備が開始され八一飛行表演隊も6機を使用している。
2004年にはF-7PGとしてパキスタンに配備が開始されている。またエアインテークを機体下方に移し、
A-7コルセアに似たデザインとなったBVR戦闘能力を有する殲7FSが発表されている。イスラエル製の
EL/M2032レーダーを搭載し、APG-68に換装する事も出来る輸出向けの機体である。殲7FSはCACが
自ら計画して完成させた機体で数千万人民元を投資した。この機体はミラージュ2000の1/5の価格で
販売すると提案している。さらにこれを発展させた渦噴14を搭載しカナード翼を装備し、エアインテーク形状を
F-16と同じような配置にした完全に第3世代戦闘機の能力を持つ殲7MGの計画も発表し、第3世代戦闘機の
低価格路線で市場開拓を狙っている。
80年代に入るとケ小平政権の改革解放により戦闘機輸出が活性化して殲7Iを改良したF-7Aが主力商品として
成長した。さらに西側技術が取り入れられ殲7IIをベースにGEC-マルコーニ製HUD/WACを搭載するなど
各部を西側電子機器に換装、エンジンに渦噴7BMを搭載し1300項目を改修した輸出名称F-7Mエアガードを製作、
1982年五月に初飛行に成功し、1985年にはパキスタンに輸出が開始され輸出主力機種になった。
F-7CP開発計画(FC-1の原計画)が大幅に遅れたためにAIM-9とマジック運用能力やウェスタン・テクノロジー社と
共同してマーチン・ベーカー製脱出装置やGRIFO-7レーダーを搭載してパキスタン規格を合わせて開発した
F-7MPエアボルト、中国製電子機器を使用するスリランカ空軍向けF-7BSなどが作られた。
80年年代〜90年代の輸出実績は以下のとおりである。F-7シリーズは80年代から90年代にかけて合計で
564機を輸出し、現在も能力向上型の輸出が続けられている。
F-7A系輸出実績
バングラディッシュ16/エジプト80/イラン44/ミャンマー6/北イエメン6/パキスタン75/スリランカ4/アメリカ12
計243機
F-7M系輸出実績
バングラディッシュ21/イラン68/ミャンマー29/パキスタン140(120機はMP)/スリランカ5(MでなくBS)
スーダン6/ジンバブエ52
計321機
1979年、132廠は成都飛機公司の名義で、海外貿易を行うことになった。また同年12月には民生部門を
設立してオートバイ部品の製造を受注して、海外・民間への販路を拡大し始めた。1980年、第三機械工業部の
許可を得て、工廠自身が経営責任を負う形に転換し、軍の請負工場から自主経営の多角的な生産能力を
有する工場を目指して前進を開始した。
1982年には航空産業の全面整理が行われた。132廠では統一指導とラインごとの管理を原則とし、部門ごとの
純利益と売上責任の明確化を打ち出し、計画・経営管理を強化し4つの分工場を独立採算制にするなどの
改革を行った。1984年には国務院は工廠長の自主経営権を拡大し、132廠はそのモデル企業となった。
同年5月、国防化学工業委員会の指示で新型戦闘機開発・生産の研究命令を出し、132廠と611所は合同で
成都飛機設計研究所(CADI)を設け戦闘機開発の専門集団を設立した。1985年にはパキスタンと共同で
殲7CP計画が開始されCACが担当になり、1987年に海外メーカーと共同して第三世代型戦闘機の開発が
行われる事が正式に発表されCADIが設計、CACが生産を担当する事になった。これは後のFC-1である。
「対外開放・国内経済活性」「軍事技術の民間転用」「軌道を変え、型を変える」の方針で、企業内の体質を変革し、
8つの分工場を14の専門工場に分割し、積極的に外国の機械類を導入して急成長を遂げる事になる。
ドライ・クリニーング機やオートバイ・エンジン、工作機械などの民間部門も成長し、1987年には
国内オートバイ19メーカーの一つになった。1988年には国際的な航空産業へ参入を開始する。
中国国内向けのMD80の生産に参加して、機首部分の生産をマグダネル・ダグラス社と契約した。
またこの年は国務院と民間用軽自動車の生産契約を結んび、メーカーのハイテク化と
オートメーション化のモデル工場に指定され、中国国内生産民間自動車の空白の歴史を
埋めることになった。1989年7月、132廠と611所は航空宇宙工業部の許可を受けて
中国航空工業集団成都飛機工業公司として創立され、航空機の開発・生産を一本化して行う企業が誕生した。
1992年、軍受注の航空機の開発・生産を体、航空機の部品・コンポーネントの輸出と民生品生産を
両翼とする「両翼を持つ体」を経営戦略に掲げた。4月には民生品部門が独立採算制の適用が
認められ独立企業へと向けて動き始めた。1993年、等級による給与制を改変し、各担当ごとに
給与が異なる体制にし等級は97あったものを68に縮小し、人員削減を実施した。12月には
自動車生産設備建設の第1段階を終了し、工廠が独自に生産から営業、アフターサービスまで
一貫して行う体制の構築を始めた。こうして1994年にはCAICの子会社から独立して、
成都飛機工業公司と名称を変更し労働環境の改革し、雇用形態をメーカーと従業員が直接契約する
労働契約体制になり義務と権利が双方にもたれるようになった。
1995年、国際市場を開拓すべくマクダネル・ダグラス、ボーイング、大韓航空、シンガポール航空の
航空機関連部品の下請け生産を契約し、1997年には3億人民元の部品生産契約をボーイングと締結して
両翼の一つに新たな市場を開拓した。外国の巨大民間企業との取引から多くのことを学び、下請け生産は
人材の育成に大いに役立った。また民生品分野も付加価値のある特殊な機械類の開発や高い技術レベルの
必要な製品を率先して開発するなど新分野への取り組みと同時に、外国メーカーからの受注生産によって
基礎技術を学び、ノウハウを取り入れて、非航空分野の販売利益は1996年には1億人民元を突破した。
1998年、国が株式を保有する独立採算制の成都飛機工業集団成都飛機工業有限公司が創立され、
完全労働契約制に移行し給与は部門の売上によって分配するシステムになり、人事権をメーカー側が
完全に持つようになり、リストラを実施して多くの若手が登用され自主的に経営目標を掲げて組織が刷新された。
またこの年にはエア・バスA320、ボーイング757-200の部品生産を受注し、成都飛機電力設備総公司が
ISO9001を中国で初めて獲得するなど、国際市場での競争力のある品質や市場規模が拡大した。
また国内向け製品も順調で成都汽車は中国南西地区最大の自動車生産メーカーに成長した。
21世紀にはCACは737-300の部品生産も受注。新たにボーイング7E7の部品生産契約を結んでおり、
民間航空機分野における部品・コンポーネント生産の市場を拡大している。戦闘機開発分野でも
FC-1梟龍の開発や殲7E/F系列を独自開発して第3世代戦闘機の開発生産能力を持つようになった。
民生品分野ではリニア鉄道計画でフランスと提携するなど新分野を切り開き、多くの市場で拡大を続けている。
CACはこれでおしまい。
現在は瀋陽飛機工業集団有限公司をまとめているもののCACと違って全く資料がないよ・・・orz
590 :
:2005/06/19(日) 10:27:21 ID:???
age
>>586 >F-7A系輸出実績
>アメリカ12
結構な数で驚き
>580
乙です。
参考になりますです。
とりあえず、こちとらマターリ展開するので、気にしないで下しい。
来週辺りに復活出来ればいいけど。