日本と世界の歴史的な戦争を語りましょう

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皆様ごきげんよう。
>518の約束を果たしてみようかと、少々の書き込みなどを。
よろしければ、しばらくお付き合いくださいませ。

1950年6月25日より始まった朝鮮戦争は、北朝鮮軍の開戦奇襲の成功によって韓国軍が大きな損害を受け首都ソウルが陥落したことにより、3年余りの長期にわたって戦争が継続する結果となりました。
以下は、開戦よりソウル陥落までの戦争経過を、各師団担当正面ごとに時系列に沿って記述したものです。

1950年6月25日は日曜日であり、韓国軍の各部隊の大半は、兵士に外出許可を出しており低い警戒態勢にありました。
これは、3月以来繰り返し警戒警報が出されていたために韓国軍に馴れが生まれ、全体的に緊張が薄かったことと、4月以来部隊は警戒待機下にありその間特に異状が発生しなかったため、将兵に休暇が必要であると判断されたこと、が、理由とされています。
また、1948年4月の済州島蜂起からあと韓国全土で左翼勢力の蜂起が相次ぎ、その掃討に韓国軍主力が拘束されてもいました。
実際に38度線国境付近陣地に配置されていた部隊の数は、韓国軍の61個大隊のうち11個大隊であり、残りの大隊のうち25個がゲリラ討伐のために南部に分散配置され、残る25個大隊は第一線師団の予備としてソウル−原州−三陟の地域に駐屯しておりました。
北朝鮮軍による国境突破は、半島西部では、第1軍団に所属する、第1、第6師団と第203戦車連隊、第206機械化連隊が韓国軍第一師団を、第3、第4師団と第107、第109戦車連隊が第七師団を、それぞれ攻撃することで始まりました。
半島東部では、第2軍団に所属する、第2、第7師団と独立戦車連隊が第六師団を、第5師団および第766、第424、第200の独立連隊が第八師団を、それぞれ攻撃することで開始されました。

北朝鮮軍は、6月25日0430頃より38度線全線で砲迫3000門による攻撃準備射撃を開始し、30分後に全線で国境線を越えて侵攻を開始しています。
韓国軍陸軍本部が、甕津半島の第十七連隊からの緊急電報を受け取ったのが0600頃であり、続いて議政府正面の第七師団からの緊急電報が入ったのが0830頃でした。
そして、全軍に非常呼集がかけられ作戦命令が発せられたのが0700前後であったのです。
甕津半島の第十七連隊は、北朝鮮軍第3警備旅団及び第6師団第14連隊の計6800名の来襲を受け、第一線大隊の各分哨は壊滅し、その主力も包囲されました。
第十七連隊主力は、これまでの国境紛争の際と同様に反撃に移ったが、兵力が約二倍半で装備も優越する北朝鮮軍の撃退に失敗し、26日朝、派遣されたLST3隻に分乗して仁川に撤退しました。
開城の第一師団第十二連隊は、北朝鮮軍第6師団主力の2個連隊の攻撃を受けています。
第6師団長は、第6師団第13連隊で、地域一帯の制高点でもある松岳山正面から攻撃をかけて第十二連隊を拘束し、第6師団第15連隊を京義本線鉄道を利用して列車で一気に開城駅まで突進させ、腹背から挟撃することを決心しました。
25日朝の時点で、第十二連隊は多くの兵に休暇外泊を与えていたために実勢力は通常の半数くらいであり、全線にわたって配備は手薄でした。
このため、第6師団長の奇計は成功し、第十二連隊は南北より奇襲を受けて壊乱し、開城は0930頃には完全占領されてしまったのです。
なお、第十二連隊で部隊として後退に成功したのは、連隊本部と2個中隊のみであったとされています。

高浪浦の第一師団第十三連隊は、0500頃より北朝鮮軍の砲兵射撃が開始され、後、北朝鮮軍第1師団及び第203戦車連隊(T-34x40輌)の攻撃を受けています。
連隊は、まず57mm対戦車砲で射撃をしたが効果が無く、続いて爆雷や梱包爆薬、柄付き爆薬などをもって肉薄攻撃を行いました。
これにより、北朝鮮軍戦車4輌を撃破したものの、第一波約90名全員が戦死したため、後に続くものがいなくなりました。
このため、北朝鮮軍戦車は陣地の突破に成功して国境陣地背後から射撃を開始し、第十三連隊はそれ以上の防御戦闘を断念して、25日夜に陣地を撤収し、臨津江南岸の既設陣地に移動しています。
ソウルの北20kmの水色にいた第一師団司令部と第十一連隊は、秩序良く北上して25日中に臨津江南岸の文山里付近の既設陣地に入りました。
第一師団長は、第一師団の目的は、北朝鮮軍をソウルの西側から進入させないことであるとし、その目的を達成するために陣地に拠って遅滞防御を行うことを考えていました。
このため師団長は、戦前より各部隊長に対し、開城−高浪浦の線の陣地は警戒陣地であり、師団の主抵抗線は臨津江南岸の高地線であることを徹底させていたのです。
これによって、第十二連隊及び第十三連隊、休暇外泊中の将兵が三々五々と陣地に集結しつつありました。
このため、第十二連隊主力の臨津江渡河後に臨津鉄橋を爆破する予定は遅延し、北朝鮮軍第1師団は第十二連隊と混交状態で急追しため、第一師団は鉄橋の爆破に失敗し、橋は無傷で北朝鮮軍の占拠するところとなってしまいました。
この結果、翌26日朝0900頃、北朝鮮軍第6師団の一部が文山駅の北側高地を占領し、第十一、第十三連隊の背後から圧力をかけ得る態勢となってしまったのです。

第一師団は、この京義本道を制する緊要地形である高地を奪回するべく、増援として到着した陸軍士官学校教導隊の2個中隊相当の部隊をもって1000頃逆襲し、高地を奪回しています。
さらに、北朝鮮軍主力の渡河がいまだ終了していない態勢に乗じて、師団の全力をもって反撃に出ました。
1300第十一連隊は増援の歩兵学校教導隊を配属され、臨津鉄橋方向へと進発し、師団左翼の主抵抗線の回復に成功したのです。
しかし、北朝鮮軍の優勢なる砲兵の猛射を受けてそれ以上の攻勢は持続せず、さらに第十一連隊の背後に北朝鮮軍の戦車が回りこんで退路を断ち、第十一、第十三連隊の全面に圧力をかけてきました。
結局第一師団は、現陣地でのこれ以上の抵抗を断念し、26日夕刻、各連隊に対し奉日川南方の後方陣地への後退を下令しました。
この後退は、さらに増援として到着した第十五連隊第三大隊、第二〇連隊第三大隊の協力を得て速やかに秩序良く行われ、翌27日早朝には、第一師団主力は再配置を完了しています。

第一師団は、師団長の陣頭指揮の適切と、それによって士気を鼓舞された将兵の勇戦によって、翌28日まで陣地を固守することに成功したのでした。
議政府正面に展開していた第七師団は、第一連隊に38度線を警備させ、第三連隊を東豆川、第九連隊を抱川に配置し、師団司令部を議政府に置いていました。
師団の任務は、反撃部隊の到着まで議政府付近を確保することでありました。

北朝鮮軍の主攻軸は、この議政府回廊に指向されています。
第4師団と第107戦車連隊が東豆川道から、第3師団と第109戦車連隊が抱川道から、議政府を目標に0530攻撃を開始しました。
北朝鮮軍の攻撃は、まず戦車と自走砲を韓国軍陣地の前面に進出させ、その支援の元に工兵が道路両脇のトーチカを破壊することから始まりました。
さらに、この正面攻撃の間、歩兵は急峻な崖を登って陣地の背面に進出し、道路を突破してきた戦車の支援の元、韓国軍陣地を攻撃し、0800頃には国境陣地の要点の占領に成功しています。
これらの攻撃によって第一連隊は後退を余儀なくされ、さらに後退中に急追してきた北朝鮮軍の戦車と自走砲のために大損害を受けてしまったのでした。

この第一連隊の防御戦闘中に、第三連隊と第九連隊主力は、それぞれ既設陣地に進入し、第九連隊は25日夕刻まで抱川北側の陣地を固守していました。
しかし、第三連隊は、第4師団師団砲兵主力と第107戦車連隊の主力の支援を受けた第16連隊の猛攻を受けて陣地を突破され、夕頃には東豆川を占領され、その南側に後退させられてしまいました。
春川攻略を担当したのは、北朝鮮軍第2軍団の第2師団であり、これを五台山で活動していたゲリラ部隊が支援する形となっていました。
第2師団師団長は、韓国軍の陣地が高さ300〜400mにも及ぶ切り立った崖のような水利山系にトーチカを中核とした野戦陣地を構築しているために、正面攻撃ではこれを攻略することは非常に困難であることを理解していました。
最大の理由は、錯綜した地形のために砲兵陣地の適地が少なく、主力である加農砲が使えず、榴弾砲もしくは迫撃砲が主力となり、これらの砲ではトーチカの銃眼を射撃することができないことにありました。
このため第2師団は、第4連隊に正面から牽制の攻撃を行わせて韓国軍の注意をひき、その隙に第6連隊が北漢江の河床道を潜進して、韓国軍陣地の正面を奇襲突破することを着想したのです。

第2師団は、攻撃準備射撃の後、予定の通り攻撃を開始し、第6連隊は北漢江の河川敷に進入しました。
しかし第6連隊は、待ち構えていた韓国軍の105mm榴弾砲の射撃を受け、両岸は断崖が多いこともあって退避することもままならず、大損害を受けてしまいました。
さらに、第4連隊も、水利山頂のトーチカ陣地を攻撃したものの、待ち構えていた韓国軍の猛射を受けて大損害を受けています。
河床道の第6連隊は、韓国軍砲兵の集中射撃によって損害が50%に達し、韓国軍陣地正面の第4連隊は督戦を受けて突撃を繰り返したものの、攻撃は頓挫したのです。
第2師団長は、予備の第17連隊を右第一線に投入したが、戦局を打開することはできませんでした。
北朝鮮軍第2師団は25日一杯力攻を続けたが、韓国軍第六師団も予備の第十九連隊を増援したために、北朝鮮軍の攻撃は進捗しなかったのです。
北朝鮮軍第7師団は独立戦車連隊(T34x30輌)の配属を受け、第六師団第八連隊を攻撃しつつ洪川へ向けて前進中でした。
第八連隊は、峻険な地形と肉薄攻撃によって防戦を行っていたが、25日夕刻には麟蹄南方25kmの三街里付近に後退させられてしまいました。
北朝鮮軍第2軍団長は、25日の夜、第7師団に対し「麟蹄に引き返し、春川の東方に進出して、第2師団と協同して春川を攻撃せよ」との命令を発しました。
第2軍団長は、北朝鮮軍最高司令部から与えられた「ソウル南側に進出して韓国軍主力を包囲する」任務の達成の為に、春川を奪取することを最重要視していたのです。
このため、目前の第八連隊の撃破よりも、第六師団主力を撃破して春川を占領し、第2軍団の一部でもソウル東南方に突進させることが、軍全般の企図に合致すると判断していたのでした。

第7師団は、一部を三街里に残置し、主力は山間の一本道を反転して26日の夕刻には春川東方に進出しました。
そして、ただちに春川の攻撃に参加し、戦車は道路から、歩兵は昭陽江両岸の切り立った高地を攻撃しましたが、まもなく日没となり、攻撃は進捗しませんでした。
翌27日、第2軍団は第2、第7両師団の攻撃を調整して総攻撃を実施したが、峻険な山岳の地形の為に戦車と砲兵の威力を発揮できず、第2師団の損耗が40%に達して攻撃力を失ってしまったのです。

北朝鮮軍第2軍団は、ついに春川の奪取に失敗しました。
韓国軍第六師団は春川の陣地を確保していましたが、東海岸の第八師団が敗退し、27日夕刻にはソウルの防御が崩れた為に、春川だけが敵中に取り残される格好となったのです。
このため第六師団は、27日夕刻陸軍本部の命令を受けて同日夜後退し、洪川南側の阻止陣地につき、江陵から原州に向かって退却中の第八師団を援護しました。
28日朝、北朝鮮第2軍団は春川の町を占領し、第7師団は洪川から原州に南下し、第2師団は加平を経てソウルに向かって前進しています。
東海岸道を守備していた第八師団は、師団司令部を38度線の南方24kmにある江陵におき、第一〇連隊に38度線南側の峻険な地形を利用した国境陣地を守備させ、第二一連隊を38度線南方64kmの三陟に駐屯させて太白山脈のゲリラを討伐させていました。
北朝鮮軍第5師団は、東海岸道を速やかに突進し、浦項付近に進出する任務を与えられていました。
北朝鮮軍最高司令部は、この第5師団の突進を支援する為に、第766、第424、第200などのゲリラ戦訓練を受けた独立連隊を韓国軍の後方に上陸させ、在来ゲリラとも連携させて、第八師団の退路を遮断させようとします。
それと同時に、以後内陸に浸透させて、中央道を南下する第2軍団主力の前進を援護させようとしました。

北朝鮮軍第5師団は、0500時攻撃を開始し、同時に漁船や小型貨物船に分乗したゲリラ部隊を、玉渓、三陟、臨院津港、江陵、に上陸させました。
三陟に上陸を企てたゲリラ船団は、第二一連隊の57mm対戦車砲によって2隻を沈められて撤退しましたが、玉渓には約400人、臨院津港には約600人、江陵付近には第766連隊の2個大隊が上陸して、第八師団司令部と各部隊間の連絡を遮断しています。
これによって第八師団は各所で分断され、26日、江陵の司令部で米軍顧問も全員出席の上で部隊長会同が行われ、師団は後退することを決定し、退路を内陸に選択したのです。

米軍顧問団は26日夜に江陵から原州に向かって退却し、同地で第六師団司令部と合流しました。
第八師団は、後方を整理し重装備を下げた後、27日陸軍本部に報告後、28日朝には整然とした退却に移りました。
第八師団は、この3日間の戦闘で731名の兵員を失い、29日に掌握していた兵員は6135名でしたが、火砲その他の装備はそのほとんどを持ち帰ることに成功しています。
6月25日0900頃に陸軍本部が把握しえた情報は、次の通りと考えられています。

1、甕津半島に配置されている第十七連隊は壊乱に陥り、米軍顧問は脱出を要請してきた。
2、開城から高浪浦にかけて配置されている第一師団は、戦車を伴う優勢な敵と激戦中。
3、議政府方面の第七師団は、第一連隊が突破され、第三、第九連隊が東豆川と抱川北側で戦車を伴う敵と交戦中。
4、春川方面の第六師団は、敵に大損害を与えつつ既設陣地を確保、固守している。
5、東海岸の第八師団は、第一〇連隊をもって38度線南側の既設陣地を固守し、ゲリラ討伐に投入されていた第二一連隊を集結中、ただし師団後方に上陸した敵部隊によって退路を遮断されている。

以上の情勢判断により、韓国軍参謀総長は、既定の防衛計画に基づき、南部の3個師団をソウル北方に集中し、議政府正面の北朝鮮軍に対して反撃することを決心したのです。
韓国軍参謀総長の反撃計画の基礎は、以下の三点にありました。

1:議政府正面の敵は、北朝鮮軍第4師団の1個師団と戦車数十輌である。
2:第一師団は、臨津江の障害を利用し得るので、陣地を持ちこたえ得るであろう。
3:第二師団は、明朝までにその主力を集結し得るであろうし、第三、第五師団も明日中には戦闘に参加し得るであろう。

これにより25日夜、第七師団は、東豆川の南側に集結し、翌朝からの攻撃を準備ています。
しかし、反撃のために抱川の第九連隊を招致しなければならないのにも関わらず、交代に来るはずの第二師団の部隊が到着せず、夜半に第九連隊を陣地を撤収させて主力と合流させることとなりました。
このため、一時的に抱川道を守備する部隊がいないという危機が生じていますが、北朝鮮軍の追尾が無かったために事なきを得たのでした。
大田に駐屯していた第二師団は、25日午後には北上を開始しましたが、ゲリラ活動や輸送計画の不備により師団主力の出発がいつになるかは完全に不明でした。
しかし、韓国軍参謀総長は、翌26日早朝より既定計画どおりに反撃に出ることを重ねて命令し、第二師団は抱川道方面から、第七師団は東豆川道方面から反撃に出ることとなったのです。
ところが、第二師団が26日の朝までに議政府に集結し得た兵力は、師団司令部と第五連隊の2個大隊にすぎなかったのでした。
このため第二師団長は、2個大隊の歩兵だけで攻撃してもどうにもならないと考え、この2個大隊で議政府東側の隘路を防御させ、主力が集結してから攻撃を行うことにしました。

こうした韓国軍の動きに対し、北朝鮮軍第1軍団は、韓国軍の南部集団が集結を終えるまでに議政府を占領することを目指していました。
また、ソウルに圧力をかけることによって韓国軍主力をソウル北方に誘致し、第2軍団によるソウル南方への仰回運動によってこれを捕捉し包囲殲滅することを目標としていたのです。
そこで、26日には、第3、第4師団とも2個連隊を並列して一挙に議政府を攻略するように指導したのです。

韓国軍第七師団は、予定の通りに反撃を開始しました。
この反撃は、北朝鮮軍第4師団が攻撃を開始しようとしていた矢先に先制攻撃をしかけた結果となり、第4師団は混乱状態に陥りました。
しかし、北朝鮮軍第3師団が、26日朝に無人になっていた抱川を占領し、引き続き第109戦車連隊を先頭に南下を続けたのです。
韓国軍第二師団第五連隊と支援砲兵が、道路上を突進してくる北朝鮮軍のT34に対して射撃を行いましたが、効果がなく、北朝鮮軍戦車隊はそのまま議政府に突入してしまったのでした。
続いて、戦車に続行していた北朝鮮軍第7連隊が、砲兵の支援の元に第五連隊に対して攻撃を開始し、逐次第五連隊の両翼を包囲するように機動し始めています。
第五連隊は、戦車に中央を突破され、さらに両翼を包囲されそうになったので、急速に戦意を失って東南方の山中に壊乱してしまいました。
この北朝鮮軍第3師団による議政府占領によって、韓国軍第七師団は退路を失い、南北から挟撃される態勢となりました。
このため、師団は重装備を放棄して議政府西方の山中に分け入り、議政府南方へと脱出することとなったのです。
北朝鮮軍は、26日の夕刻には完全に議政府を占領し、第3、第4師団は合一してソウルに迫る態勢をとりました。
しかし、それでは当初の計画にそわなくなる為に、議政府にとどまって翌27日の攻撃を準備しています。

韓国陸軍本部は、議政府正面の反撃の失敗に動揺し、逐次到着する第二師団の後続部隊や、第三師団、第五師団、首都師団も議政府道に投入し、北朝鮮軍の南下を阻止しようとこころみました。
しかし、27日の朝より始まった北朝鮮軍の攻撃に対し、これらの部隊は逐次投入される形となりました。
また各部隊は、それぞれ直接陸軍本部の指揮下で戦闘することとなり、各個ばらばらに無統制な反撃や防御を行うこととなったのです。
ですが韓国軍は、27日一杯は、ソウル周辺の山地丘陵地帯を占領して確保し、北朝鮮軍のソウル突入を阻止し続けていました。

27日1930頃、北朝鮮軍第3師団第9連隊は、戦車とともにソウルの東北角に突入したが、猛射を受けて撃退されています。
続く28日0100頃、北朝鮮軍の戦車がソウル市内に突入に成功し、その混乱の中で続く0215頃、漢江橋が韓国軍によって爆破されてしまいました。
この時点で、第二、第三、第五、第七、首都師団は、ソウルの外郭防衛線でそれぞれ組織的防御戦闘を継続していたのです。
しかし、北朝鮮軍が28日1130頃ソウルの中心部に突入し、ソウル市内東大門付近の防御線が突破されたことや、漢江橋が爆破されたことを知った各部隊は、一気に士気崩壊して漢江南岸へと壊走し始めました。
このため、装備のほとんどが遺棄され、各部隊は完全に組織的戦闘力を喪失してしまったのです。
28日終わりの時点で、韓国軍陸軍本部の掌握下にある兵員は、開戦当初の9万8千名に比し、2万2千名に減ってしまっていたのでした。
さて、上記の国境会戦の経過を見た上でまず思うのは、準備未完の状態で敵の攻撃を受けた際の戦線崩壊の速さですね。

韓国軍は、5月1日のメーデーを警戒して営内待機をしており、続く5月30日の総選挙の際に何かが起こる可能性を考えて警戒待機を続けていました。
また、平壌放送は連日南糾弾の放送を繰り返し、さまざまな「平和統一」策を提案するなどして揺さぶりをかけてきていました。
こうした北朝鮮のプロパガンダに対して、韓国国内の不満分子が蜂起する可能性を考え、韓国軍は6月11日より再度の警戒待機に入っていたのです。
すると、北朝鮮は平壌放送を通じて朝鮮独立運動の功労者である゙晩植と、韓国が逮捕していた南労党地下工作責任者の金三龍と李舟河の両名との交換を提案してきました。
これに対して、6月23日、韓国側はソウル放送で応諾する旨を放送しましたが、北朝鮮は回答をしませんでした。
こうした経緯から韓国軍は、同日が金曜日であり、農繁期でもあり実家の農作業の手伝いが必要でもあることから、将兵に週末の外出を許可したのでした。
このような長期にわたる緊張の連続は、実は人に馴れを発生させ、知らず知らずのうちに緊張を緩めさせてしまうのですね。
実は韓国軍も韓国政府も、北朝鮮軍に南進の意図があり、それに応じて必要な戦備の充実を図っていることを承知しており、ほぼ正確な北朝鮮軍の戦力と部隊配置を把握していたのです。
そうでありながらかくのごとき奇襲を受けてしまったのは、一つには、当時の韓国が非常に貧乏であり、戦車、野砲、航空機、その他重装備はおろか、地雷や鉄条網に至るまで、必要な装備の購入が制限されていたことがありました。
そしてもう一つには、韓国は、世界的な戦略情報はアメリカに完全に依存しており、肝心のアメリカが共産陣営の動向について非常に甘く見積もっていたのです。
そして、当時の韓国国内は、反体制運動が激化しており、各地で北朝鮮の支援を受けたゲリラが蜂起している有様であって、韓国軍はまともな練度には無かったということもあったのです。
ちなみに、白善Y将軍の第一師団は、大隊訓練を終えた時点で開戦を迎えましたが、他の師団は中隊訓練がようやく終了し、大隊訓練に移行する段階で開戦を迎える羽目になったということです。
この結果、個々の将兵や前線小部隊が勇戦敢闘しても、それを戦術的な勝利や、作戦上の優勢に結びつけることができなかったのでした。

開戦奇襲を受けずに済むかどうかは、敵がいつ、どのようにして戦争を開始するか決定する以上、事前に開戦そのものを予測することが極めて困難であるが故に、非常に難しいものがあります。
敵が十分な兵力を集結させ、示威行動を繰り返すならば、これに対応していくだけで我は疲弊し緊張を失っていくことになるのです。
この我の対応の不備を突いて敵が攻撃を行うならば、開戦奇襲は容易に成し得る事になります。
さて、続いて各方面の戦闘を見ていきますと、北朝鮮軍の戦車の活躍がまず目に付きます。
韓国は、その地勢から、例え戦車であっても道路上を進撃するしかないのですね。
開けたところでも、一度に4輌から5輌が横隊になるのが精一杯ですから、機甲衝撃力を発揮した驀進は不可能だったのです。
まして6月ですから水田には水が張っており、戦車も歩兵も、道路を離れて進むのは非常に困難であったのでした。
ところが、韓国軍に有力かつ十分な数の対戦車火器が存在せず、また北朝鮮軍のT34に対抗可能な戦車も存在しなかったために、T34が移動砲台や移動トーチカとして相互に援護しあいながら前進してくると、もはやこれに対抗しようがなかったのですね。
そのため、韓国軍の第一線部隊は、後退するか左右の山地に逃げ込むかするしかなくなり、北朝鮮軍は進撃路を確保して一気に突進することが可能となったのです。

春川正面での韓国軍第六師団の活躍や、東海岸での第八師団の離脱の成功は、北朝鮮軍の戦車の投入が無かったということが非常に大きな意味を持っています。
議政府の第七師団の壊滅の原因は、北朝鮮軍の機甲部隊が後方に展開して退路を断ち、師団主力が包囲されてしまったからなのですね。
また第一師団が、これだけ勇戦敢闘しつつも北朝鮮軍に圧迫され後退せざるを得なかったのは、北朝鮮軍の戦車が第一師団の両翼を迂回して後方に回り込み、随時圧力をかけてきたからなのです。
さらに、一度後退して予備陣地に移動し、あらためて準備を整えて敵を迎え撃とうとしても、常に北朝鮮軍の戦車が後衛部隊に圧力をかけ、場合によっては混交して部隊に追随してくるために、どうしても準備未完の状態で敵を迎え撃たないとならないという状況が起こっています。
第六師団が逆に北朝鮮軍に対してあれだけの損害を与えられたのは、険要地形によって事前の準備通りに陣地防御戦を行いえたから、というのが理由としては大きいでしょう。
また、第八師団がさほどの被害もなく戦場から離脱し、第六師団との合流に成功できたのも、追撃する北朝鮮軍に戦車が無く、容易に敵との間合いを取れたからでしょう。
さて、暴露歩兵の衝撃力の弱さは、春川戦での北朝鮮軍第2師団の壊滅からも明白なわけです。
第2師団は、第六師団に対して砲迫の数では圧倒的に優勢でした。
第六師団は、師団砲兵が105mm榴弾砲15門、各連隊に81mm中迫撃砲が12門と57mm対戦車砲が6門、各大隊に60mm軽迫撃砲が9門、というものです。
これに対して第2師団は、師団砲兵が122mm榴弾砲12門と76mm加濃砲24門、各連隊に120mm重迫撃砲6門、76mm榴弾砲4門、45mm対戦車砲4門、各大隊に82mm中迫撃砲9門と45mm対戦車砲2門、各中隊に60mm軽迫撃砲4門、でした。
時間あたりの投射弾量比は、韓国軍師団と北朝鮮軍師団とでは、約1:10にもなります。
しかし第2師団は、錯綜した険要地形によって陣地防御戦を行った第六師団によって、逆に砲迫に大きな損害を受けています。
その損害は、26日と27日の戦闘で、師団砲兵7門、76mm自走砲16輌、45mm対戦車砲2門、迫撃砲数門とされています。
これは、地形の制約から砲兵の陣地が限定されていたために、韓国軍が、陣地になりそうなところに予め射撃を準備していたことと、北朝鮮軍が直射支援のために無理に砲兵を前線に出して銃眼射撃を行ったこと、が理由として挙げられるのですね。
こうした、支援火力の発揮に難がある状況での徒歩歩兵の陣地攻撃は、あまりにも大きな損害を受けるのに比べて、戦果はほとんど得られない、という、南北戦争以来の当たり前の事実が明らかになったわけです。
ちなみに、第2師団の損害の大半は、第六師団の師団砲兵の105mm榴弾砲の射撃によるものとされています。

さて、こうした状況では、敵の阻止射撃に抗堪しつつ、敵の火点を制圧可能な装甲と火砲を持った戦車が大きな威力を発揮することになるのが明らかでしょう。
地形が峻険で、容易に敵の陣地防御線を迂回することができない場合、敵を攻撃するためには、陣地を正面から攻めなくてはならないわけです。
そうなりますと、どうしても敵の射撃に耐えられる装甲を有する火砲を第一線に展開させて、歩兵が陣地に突入するのを支援しなくてはならなくなるのです。

第六師団が春川でこれだけ粘れたのは、北朝鮮軍第2軍団長が第六師団を正面から撃破し、春川を占領することに拘泥したためであるわけです。
もし、第7師団があのまま直進して26日中に洪川を陥落させ、続いて第六師団を後方から攻撃していたならば、27日中に春川を陥落させることは不可能ではなかったでしょう。
重要なのは、いかにしてソウル南側に第2軍団主力を展開させ、韓国軍主力を包囲殲滅するか、であり、そのための攻勢発起点となる春川の攻略をいかに素早く成功させるか、でした。
漢江橋の過早爆破という韓国軍のミスがなければ、最悪の場合、韓国軍主力が漢江以南への離脱に成功し、漢江線沿いに防御線を引くことに成功していたかもしれないのです。
この場合機甲部隊の運用としては、敵の後方を遮断し、もって敵の継戦能力を無力化するという間接アプローチこそが、適当であったと言えるのではないでしょうか?
国境会戦から得られる戦訓は、まず開戦奇襲を受けないようにすることは非常に困難である、ということでしょう。
このため、敵の奇襲を受けた場合、いかに敵の浸透を防ぎ、味方が反撃準備を整えるまでの時間を稼ぐか、が極めて重要になるわけです。
そのためには、事前に周到な陣地構築と、砲迫の射撃準備を行っておき、可能な限り短時間で我の態勢不備を挽回して火力を発揮できるようにするか、にかかってくるわけです。

多数異方向からの同時攻撃を受けるならば、我は指揮能力が飽和し、容易に敵の突破を許すことになります。
これを防ぐには、我は十分な火力を準備し、敵の攻撃を火力によって妨害し、敵の攻撃の連携を乱す以外に方法はないでしょう。
そして、敵の攻撃の連携が乱れ、その隙に乗じて内線である故の彼我の相対的時間の優位を活かして、敵を各個に撃破し、敵の攻勢衝力を破砕するのです。

議政府回廊での韓国軍の敗北は、北朝鮮軍との相対的機動力で劣位にあったにも関わらず、あえて無理な反撃に出たことでしょう。
これは、韓国軍参謀総長が政治的にソウル陥落を許容できないという要請があったために、あえて無理を承知で行わせたものです。
しかし、当時の韓国軍と北朝鮮軍の戦力差から考えるならば、逆に無理な反撃は味方の防衛線の戦力を早期に喪失し、敵の攻撃を勢いづかせかねないのです。
そして、議政府回廊での第七師団の反撃は、まさしく師団の戦力を早期に喪失し、逆に北朝鮮軍の南下の勢いを強めさせ、増援として投入された第二、第三、第五、首都師団の各師団を敵の各個に撃破する機会を与えたに終わったのでした。
防御作戦においては、敵が攻勢限界に到達したか否かの見極めこそが重要になります。
敵が攻勢限界に到達する以前に、我が反撃に出るならば、逆に敵によって我の戦力は大きく減殺され、我の後退に乗じて敵のより一層激しい攻勢にさらされる事になるからです。
我の防御態勢の維持のための逆襲と、敵の攻勢破砕のための反撃は、似ているようで違うものであることを理解しなくてはなりません。

第一師団の臨津江での逆襲が、度々大きな効果を発揮したのは、これが味方の防衛態勢の機能の維持のためのものであり、北朝鮮軍の攻勢能力の破砕そのものが目的ではなかったからなのですね。
北朝鮮軍の攻勢能力の破砕は、あくまで陣地防御戦によって損害を強制することでなし、その陣地防御戦を戦い抜くための態勢の維持のために、必要な地勢や陣地の確保のために適時適切に逆襲を行っているのです。
多分に韓国陸軍本部は、この両者を混同して、第七師団に無理な反撃を強要し、結果として早期にソウルを喪失するという結果に陥ったのです。

とりあえず、今回はここまでとし、次は気が向いたときにでも書き込みさせていただきます。
それでは、皆様、ごきげんよう。