もし日本が勝っていたなら Part2.1

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 空冷の方が出力に対し軽量であること、大東亜戦争以前は乾燥地帯であ
る満蒙での使用が主だったことから、日本は液冷発動機の開発に不熱心で、
主に外国製製品やその改良デッドコピーを少数の機種に採用していたのみ
であった。
(決して技術力不足のみが原因でなかったことは、空冷発動機の開発状況
を見れば一目瞭然である)
 しかし、太平洋で戦争勃発の危機が迫ると、前面投影面積を小さくでき
る液冷発動機を使用した高速機にも興味を持ちはじめる。
 開戦直前の昭和15年、陸軍はドイツから戦闘機用発動機として、ダイム
ラー・ベンツDB601のライセンスと見本を購入し、川崎ハ−40として生産
する計画を立てた。
 一方、前年にDB600を購入し、陸軍と同じくDB601のライセンスを購入し
ようとしていた海軍だったが、陸軍への反目から(この時はまだ、お互い
への不信感が強かった、特に航空本部長だった井上成美提督は大の陸軍嫌
いで有名だった)、「同じものは使いたくない」という意識から、同じド
イツ製でもユンカースJumo211のライセンスと開発中のJumo213の図面を購
入し、愛知「熱田」として生産準備を整えていった。

 ドイツの工業製品は高性能だが精細で、凄惨に手間がかかる物が多かっ
た。DB601もその典型で、高回転ではあるがその分生産に手間がかかり、
信頼性も、米国の禁輸政策で資材の質が落ちていた日本では、ドイツと同
等のそれを確保できなかった。
 Jumo211も根本的な問題は同じだったが、(DB601と比較して)鍛造部品を
多く用い、また定格回転数もやや低めであったことから、なんとか使いこ
なすことが可能になった。
 この為海軍の方が先に「熱田」の量産体制を整えることができ、二式艦
戦の早期の戦力化に成功した。
 一方、陸軍の三式戦闘機は配備開始こそ海軍に3ヵ月の遅れで開始した
が、発動機の初期トラブルと生産遅延に悩まされ、結局、昭和18年末に、
Jumo211をベースとした出力向上型を川崎ハ-141として採用するに至った。

 しかし、Jumo211も量産性と言う点で空冷発動機に劣っていたのは事実
で、陸海軍とも空冷型(海軍AXS5、陸軍キ−100)の採用に至っている。

 そして、昭和18年、三菱の空冷18気筒発動機MK9、海軍名「土星」・陸
軍名ハ−104の完成により、「液冷か空冷か」の論争に決着がつくことに
なった。キ−61/AXS2は、帝国陸海軍最初で最後の全金属低翼単葉・液冷
戦闘機となったのである。