1 :
名無し二等兵:
お前らのジーちゃんの戦争体験
1 名前: 名無し三等兵 投稿日: 02/06/25 19:16
を書いてくれ。
俺のジーちゃんの内の一人は海軍で南方に行ったそうです。そこでは整備兵で
飛行機の燃料入れをしてたそうだ。直接的戦闘は一度も無い、と。ただ死人はいやと言うほど見たらしい。
一度はアメリカの捕虜をの○○大佐と言う人が目隠しにして首を日本刀で切り落としたらしい。
孫のうちで戦争話をまともに聞くのは俺だけなので喜んで俺に話す。
もう一人のジーちゃんは俺が生まれる前に死んだので知らない。ただ海軍の中佐で勲章とか結構ある。
もういいよ。
4 :
名無し三等兵:03/02/24 00:48 ID:q6hPyTX2
俺のじいちゃん幼年学校行って訓練中に戦争が終わって人生狂った。
学校が襲撃されて目の前で友達を失ったとか。
そんときの軍刀は形見でもらった。
戦争には行ってないけどね。
5 :
名無し三等兵:03/02/24 22:22 ID:ymKLgp9P
age
ホームステイ先のトムじいさん。
イギリス出身で対戦中はイタリヤ戦線でパルチザンを指揮していたらしい。
パラシュートでイタリヤに降下して、パルチザンと合流。
そこで山にこもって後方撹乱か何かやっていたらしい。
生活は昼寝て、夜活動すると言う。
寝る場所は山の洞窟か何かで、
ローマ時代から人々が戦乱に晒されると隠れる山で、
ものすごい数の洞窟があって、そこを見つけられない様に
毎日違う洞窟で過ごしたそうだ。
あんまり詳しい話は聞けなかったけど、
戦後、アフリカ戦線をバイクで旅したらしい。
砂漠にはドラム缶で燃料が野積ものまま置いてあって、
それを使いながら横断したと聞いた。
こんな所です。
↑トムじいさんは情報部だったのでしょうか?詳細キボンヌ。
>>6
8 :
名無し三等兵:03/02/25 23:42 ID:pUaNyNeT
沖縄出身の祖父は招集されて本土に来た時
上官にどんな舟で来たかと聞かれ「鉄製の大きな船」と
答えたら「鉄が水に浮くか。上官をバカにして」とぼこぼこに
されたそうだ。
祖父は空手をやっていたが上官のほうが強くてかなわなかったそうだ。
その上官は滋賀出身で鉄製の艦船を見たことがなかったらしい。
そんな祖父も去年天国に召されました。
死後は住む世界が異なるが息子の為に基督教徒になろうと思う、
すまないと亡くなる数日前に仏教徒の祖母に言っていたそうです。
祖父の写真を持って靖国に行こうと思いつつもいまだ実行せず。
おじいちゃん、春休みになったら戦友に会いに連れて行ってあげるね。
9 :
名無し三等兵:03/02/26 00:52 ID:xn7EppdD
漏れは、靖国反対派なんだけど、
8のような話書かれると、
イイ話だなぁと
正直思う。
はやく、爺様が戦友と会えると良いですね。
10 :
岩のような瓦斯:03/02/26 01:23 ID:Y/7KIigf
うちのじいさんは大陸の方で戦車中隊の歩兵小隊の小隊長だったらしい。
>>7 多分、違うと思います。
この話を聞けたのも、じいさんがイタリヤ語をどこで習ったかという話題からだったので、
深い話は聞けませんでした。
戦時中は食糧難で、馬肉を食べる位苦労したと言っていました。
が、自分のじいさんの話と比べるとずいぶんと幸せだったなーと思ったのが印象的でした。
12 :
7:03/02/26 09:47 ID:???
>>11 レスサンクス。今度そのおじいさんと話す機会があればイタリアの何処の地方に
何年ごろ降下したのか聞いてみては。この手の話は戦史本にも色々ありますが、
証言が取れるのは非常に稀なので一度トライしてみてください。
保守
14 :
名無し三等兵 :03/02/27 09:45 ID:kC9cUCSW
うちのジーサンは海軍で輸送艦に乗ってました。
ベトナム沖(多分)で魚雷に当てられたのですが、
なんとか持ちこたえて海岸まで行き、捕虜になっちゃったそうです。
でも虐待とかは受けなくて現地の女性と付き合ったりしてたそうです。
あと、その時に食べたらしいマンゴーが今でも大好きです。
戦争のこととか、直接は聞きづらいからあんまり詳しく聞かないけどね。
恥ずかしくて直接は言えんけど、長生きして欲しいなー。
あとバーサンは真珠湾に空母がいなかったことをいまだに悔しがってる・・・
15 :
メララ:03/02/27 11:46 ID:???
死んだうちのじーちゃんは軽巡「神通」の主計長でした
よく聞かせてくれた話は夜間に魚雷戦の話
敵に向けて魚雷を発射すると発砲炎が見えちゃうから、一旦反対に向けて発射しておいてタイマーで反対を向くように舵を切らせたとか…
今思うと「魚雷の発射は圧搾空気じゃなかったか?」と思うのだが、昔は火薬で発射していたこともあったんだろう(と思う)
もう一つよく聞いた話は海軍に入ったばかりの頃、戦艦朝日に乗せられたときのこと
風呂場に行くと白人の幽霊がでるという噂があって怖かったと話していた
最近知ったのだけど戦艦「朝日」は日露戦争で捕獲されたロシアの戦艦だった(シャレにならん)
それからこの話はあんまり詳しく聞かせてくれなかったんだけど、
神通に乗ってたとき砲術長?(記憶不確か)と軍医長が実戦になると怖くなってどこかの部屋に逃げ込む事件があったそうだ
このことを上官に訴えたところ証拠不十分と上官侮辱で内地の刑務所に入れられたそうだ
そしてこの直後神通はソロモン海で撃沈される
結果としては助かった
さらにその後じーちゃんは仲良しのえらい人に助けてもらって無実を証明できたらしい
そのえらい人が誰なのかは最近までわからなかったのだが、最近遺品の中から源田実(中佐だっけ?)からの手紙がでてきた
ばーちゃんほか色々親戚から聞くとじーちゃんと源田さんは仲良しでよく一緒に酒を飲んでたとのこと
「えらい人」が源田実だった可能性が高いような気がしてきた…
>15
戦艦朝日はイギリス製です。日本海軍がイギリスに発注して建造された艦です。
捕獲されたロシア戦艦で日本海軍に編入されたのは、石見(旧アリョール)、丹後(旧ポルタヴァ)、相模(旧ペレスウェート)、周防(旧ポビエダ)、肥前(旧レトヴィザン)、壱岐(旧ニコライ一世)です。
17 :
メララ:03/02/27 16:02 ID:Pw7faUG8
スミマセン
記憶が混線しておりました。
「日露戦争を戦った」だったかな?
とにかく朝日の風呂場は死体置場に使われた心霊スポットだったそうです
>>12 そのホームステイはもう出たので、
さすがにもう聞く機会は無いと思われます。
あしからずおとりくださいです。
19 :
名無し三等兵:03/02/28 01:26 ID:DXo6Kg4n
>>15 主計長なら兵学校出?
源田氏と同期なのかな?
手紙があるなら、親しいんですね。ご冥福をお祈りいたします。
晩年の源田は、軍人に見えなかった。
議員も渋々やってるかんじで、
人のいいじーさんに見えた。
死線をさまよったからかな。
>死線をさまよったからかな。
単に老人力が付いた、に一票
父方の爺さんは堅気ではない商売をしていたらしく、なんだかの方法で徴兵を逃れて敗戦。
母方の爺さんは結核にかかった経験があるため、徴兵されたのが1945年の6月。当然訓練中に
敗戦。うちの母親が何故か爺さんが軍で使っていたという毛布を持っているが、酷く質が悪く
ゴワゴワ。なんかキルトの材料に使われてるぞ(w
22 :
メララ:03/02/28 10:47 ID:???
>>19 よくわかりませんが本当は身長が足らなくて入れなかったはずのところごまかして入ったとか…
今も残っている軍服のサイズからも小さかったことがよくわかります
兵学校のほかにも東京にある主計科の学校もでたそうです
源田氏のことはよく知りませんが、じーちゃんは空母龍驤にも乗っていたそうなのでその時に知り合ったのかもしれません
ちなみにもう一人のじーちゃんは徴兵されて大陸へ言ったそうです
香港へ泳いで上陸したときはふんどしを長くたらしてサメに食べられないようにしたそうです
また香港周辺は海に油がたくさん浮いているので泳ぐときは顔を常に水から出して泳がないといけないとか聞きました
ほかにも「敵地で建物に入るときは人間が入れそうなとこから入ったらいけない」とか「新兵からやられていくのは映画と一緒」とも言っていました
また輸送船が沈められた時は数日間海をさまよったそうですが、鰹節を持っていた為飢え死にせずに生還できたと話していました
23 :
名無し三等兵:03/03/01 02:14 ID:Li9jtic+
SSスレッドや眠い人はいなくなったのか。。。
彼らのレスコメント含蓄あって好きだった
24 :
名無し三等兵:03/03/01 12:56 ID://TJLm8D
私の父親は子供の頃(10歳位)実家(和歌山県御坊市)付近のあぜ道でP38
とF6Fに一回ずつ機銃掃射をうけたそうです。
特にP38の方は、母親と弟の親子三人でいたところを急襲されて水の枯れた
用水路に飛び込んで身を隠すまで執拗に追いかけてきたそうです。
銃弾が地面に着弾して砂柱がだんだんと自分達の方に近づいてくる様は、後年
に映画でよく見た場面と酷似していたと話してました。
P38の独特なスタイルは子供心に鮮明に焼き付いたようで、私が子供の頃P38
の模型を造っていたときに「昔、これに追いかけらて怖い思いした」と上記の
事を教えてくれたんですよ。
余談ですが大阪方面を爆撃しに行くB29の大編隊が放つ飛行機雲は不謹慎ながら
大変綺麗だったそうです。
25 :
1です:03/03/01 22:23 ID:AUEwqpFt
このスレのパート1の1です。受験生だったためここ半年ほど2ちゃんを見ていない間に
なんとこのスレがパート3までいっているとは・・・。
書き込んでくれた方ありがとうございます。パート2読ませてもらいます。
もうまったく、一応このスレを立ち上げた私とは関係ないスレになっているので今後「名無し三等兵」として書き込ませてもらいます。
よろしくお願いします。
私の家の本家なのですが、三人兄弟のうち長男と次男の方が特攻隊だったそうです。仏壇の上には使われた飛行機の写真が飾られています。
墓参りに行くときは、かなりしんみりとしますね…。
>>23 誤爆かな?
とりあえず、このスレは見てますよ。
>>24 漏れの親父が正にその状況で川西航空機を狙ったGrummanに追いかけられ、
機銃掃射を浴びたそうです。
間一髪で、橋の下に逃げ込み、事なきを得たようですが。
28 :
名無し三等兵:03/03/02 02:28 ID:XQEwpsp6
いつの時代になっても、いざ戦争になったら戦闘員・非戦闘員は関係ないね!
韓半島とやり合うことになったら、俺らも覚悟しとかないと・・・
うちの曽祖父は731部隊のえらい人だったみたいですが、
日本に帰ってからも家族には何も話さなかったそうです。
30 :
名無し三等兵:03/03/02 05:31 ID:X+fR3iLr
母方のじいさんは終戦当時17才、予科連にいたんだが。
嘘かほんとかしらないが、あと一週間でも戦争伸びてたら、特攻してたって言ってるよ。
下手したら俺は生まれて来なかったわけだな。
父方のじいさんはぼけちまってよく聞けないな。
1000の銃痕を自慢する祖父 「インパールの虎」と言われていたらしい
32 :
名無し三等兵:03/03/02 10:54 ID:ismamcen
>>30 17才とか、母方のじいさんとか、うちと全く一緒だ。
おれも危ういところで産まれてきた。
里帰りしているとき、予科連の時に2段ベッドの上と下の仲だった人から電話がかかってきて、今度会う約束してた。
五十数年越しの友情だなぁ。すごい。
うちの爺さん曰く「南京大虐殺は無かった」だそうです・・・
またシベリアが大変気に入ったらしく、未だに「もう一度行きたい」と言っています(´・ω・`)
34 :
名無し三等兵:03/03/02 15:14 ID:XQEwpsp6
>>33 日中戦争に限らず戦時においては少々の虐殺はつきものだからね(以下略
住めば都ってことだな(笑
しかし、元特攻隊員を名乗る爺にはドキュンが多いんだろうな
>33
うちのじいちゃんも南京攻略後、数日して入ったらしいけど「そんな様子は無かった」って言ってた
色々旧軍のわるさも教えてくれたりしたから、俺個人としては信じてまふ
37 :
ひみつの検疫さん:2024/12/25(水) 06:50:15 ID:MarkedRes
汚染を除去しました。
漏れのじーちゃん、ひいじーちゃんはちょうど年が微妙だったので戦争に行かなかったそうだ。
ひいじーちゃんは上越線の群馬と新潟のトンネル工事をしていたらしい。
あと、群馬の太田が近かったので空襲警報がちょっちゅう鳴り、狙いを外した弾が良く降ってきたそうだ。
39 :
33:03/03/02 15:57 ID:???
あと「満州はとても良い所だった」と酔っぱらって昔の話をするときに度々言うんだけど
「どう良かったのか」とは教えてくれない。なんか詳しく聞いちゃやばい気がして(^^;;
40 :
名無し三等兵:03/03/02 15:58 ID:OcgUaLSA
>>35 俺のじじいは特攻隊員だったが引き上げてきてから、立派に大学行ったぞ。
旧帝大じゃないけどね。
あんまり関係ないけど、学校の友人の祖母さんが東條首相の孫と
同じ学校で、友人だったそうな。
なんでも、凄くいい学校だったようで・・・。
冷房完備とか言っていたけどホントなのか?
>>40 当時は今みたいな高校全入、大学進学も当たり前って時代じゃないんだから
旧帝大じゃなくても十分立派だよ。
戦争に行ってない爺さんほど戦争の話ししたがるよな。母方のじいさんが
南方の話をよくしてくれたんだが、死後実は全部ウソだったと婆さんと母親に
言われてびっくり。父方のじいさんは中国へ行ってシベリアも行かされたが
婆さん以外にはまったく話さなかった。
44 :
名無し三等兵:03/03/02 22:59 ID:XXq5Hl7y
戦争で行った場所にもよるんじゃないかな。
インパールやガタルカナルとかの最激戦地と
戦闘を全くしていない場所に行ってるのとは、かなり違う。
戦闘をしてないくとも、補給の有無や現地の事情にもよるし。
ただ、中国に行った人は、あまり話しをしたくない印象がある。
俺が消防の頃、田舎のじいちゃんは帰省するたびにアルバム引っ張りだして武勇伝を聞かせてくれたけど
俺の母親には「戦争は二度と行きたくない」って言ってたらしい 消防心には、あの怖くて勇ましいじいちゃんが…って
薄っぺらい観念平和論より、はるかに説得力あったなぁ
46 :
丸めがね:03/03/03 15:03 ID:5d/KuBCv
俺の母方のじいちゃんは、十七のときに「このままじゃ、戦争になるなぁ。徴兵されたらキツイなぁ」
という理由で、志願それから三十まで海軍にいた。
中学の時、シンガポールに旅行して土産を持っていったら「なんもない、野っ原やったろう?」
とちょっとボケ気味なことを話した。なんとなく興味をもっていろいろ聞くと軍に入ってから終わるまでの一代記を
三時間に渡って聞くことになる。
>>46 おじいさんが元気なら、自伝を書くように進めたらどうですかね?
ボケ防止にちょうど良いかも。
48 :
丸めがね:03/03/03 15:48 ID:5d/KuBCv
今は、完全に駄目になりました。
49 :
名無し三等兵:03/03/03 16:22 ID:Tym6ZmvF
うちのじいちゃんは瑞鶴で整備長してて
S19年から予科錬で教官してた。
50 :
名無し三等兵:03/03/03 23:07 ID:C9xwPfyA
うちの爺ちゃんはソ満国境に行ってました。
なんでも関特演に参加したと言ってます。
その時に火事があったらしく、爺ちゃん曰
「ソ連の謀略だよ、あんな所で火が出る訳がない」
その他にも色んな話を聞いています。
51 :
名無し三等兵:03/03/03 23:17 ID:GaC9Z6NU
俺の爺ちゃんは、満州でスパイやってました。
52 :
名無し三等兵:03/03/03 23:18 ID:2WxB2CBl
>>44 漏れのじいさん、中国帰りだ・・(今は寝たきり)
戦争のことは、漏れが聞いても話してくれなかったよ。
オヤジが昔聞いてみたそうだが、「ひどいものであった」らしい。
住民を生きたまま井戸に突き落としたり、銃剣で刺殺、とか・・
(本人がやったかどうかは不明)
戦争はごめんだそうだがご真影は飾っていたな。
オチが無くてスマソ
>>51 うちのじいさんは反対の対諜。恐ろしい話をたくさん聞いた。
54 :
名無し三等兵:03/03/04 00:28 ID:UxBVGHl0
うちの爺さんは長野出身で、ソロモンの方へいっていたらしい(陸軍らしい)
爺さんの部隊は、生き残ったのは爺さんと他二人で
砲撃かなんかで、横にいた人が消し飛んだと聞いている
母親経由なので信頼性に欠けるが、どうでしょう?
ちなみに爺さんは、母親が20くらいの時に交通事故で死んだとさ
運がいいのか悪いのか・・・
父方の爺さんは長崎に住んでいて朝鮮に渡っている間に核爆して
大変だったとさ
55 :
44:03/03/04 00:30 ID:niA+4djo
>>52 漏れのおじさんも中国帰りなんだが。
全く語らなかったらしい。
もう鬼籍にはいってるので、詳しくはわからず。
実際、膨大な中国人に囲まれて、大陸に点でいるものだから、
いくらこっちが近代兵器を持ってても、こっちも怖いよ。
何かされないように、いろいろやってたんだろう。
本当は、施して民意を安らげれば良いんだろうけど、
そんなに余裕のある国じゃないしねえ。
中国帰りや最激戦地帰りの人は、戦争の目的などは別にして、
戦争自体はつくづくごめんだと言う印象はあります。
爺ちゃんが寝たきりで大変でしょうが、最晩年を安らいで暮らせるよう
大切にしてあげて下さいな。
56 :
名無し三等兵:03/03/04 00:41 ID:tpv3yOY4
うちの親の話によるとおじいさんは中国で
こうやったんだって刀を振り落とす手振りをしていた
その後、信じられないみたいなことも言ってた
娘としては自分の親が戦争とはいえ人を殺したことを
信じたくないんでしょね。
57 :
44:03/03/04 00:48 ID:niA+4djo
戦闘とは、人を殺すことだからね。
戦争とは、人が人でなくなることでしょう。
ただ、今の価値観で彼らを考えると間違うところがある。
当時の価値観で、彼らを考えてあげないとね。
爺ちゃんたちは、命令されて戦争に行ったんだから。
命令に反対なんてできる時代じゃなかった。
58 :
丸めがね:03/03/04 01:31 ID:ntS8kBcB
曖昧な記憶ですがもう少し、書いてみます。当初戦艦(艦の名前わからず)に乗っていたそうです。
その戦艦の艦底部分の掃除の時に錆びてボロボロなのを、ほったらかしにしてる事に恐怖し転属をねがいでます。
今の私達には恐怖の選択ですが、じいちゃんは補給部隊なら安全だろうと考え転属します。(艦種、艦名共に不明。聞いたはずなのですが
記憶が・・・)そこで偏差射撃をろくに理解してない士官の話や(「照準をちゃんとあわせろ!」と機関銃手に命令して
弾が飛行機に追いつかず「前のほうを狙えば?」とじいちゃんが言ってあたった話)対空射撃の準備が間に合わず艦砲(船用の弾でと言っていた
ので恐らく鉄鋼弾)撃つと飛行機から何かパラパラと銀色の物が散ったという話等を時間軸バラバラに
話なのでどの話がどの時代なのかわからないです。
ちなみに、乗った船は全部終戦までに沈み、終戦までの半年は佐世保で陣地構築に携わっていたそうです。
注)軍事関係の用語にあまり詳しくないのであちこち間違っているかもしれません
59 :
名無し三等兵:03/03/04 04:38 ID:tWjBSFsX
出兵した爺さんなんて少年兵でも今や80は過ぎてるよな〜
みんな長生きになったんだな
>>59 そだね、あと10年もすればほとんど聞けなくなるね。
そーいや、5年程前にバイクで北海道を回っていたら、
予科練の途中で終戦になったじいちゃんにあって話を聞いた。
この人、実践には行ってないけど、同期がしごきで体罰を受けて、
その傷で弱って下痢になって死って。
しかし、(じいちゃんの言葉そのまま。意味は間接的に)殺しておきながら
家族には「戦病死」って伝えられた。
あんな狂った事は二度としてはいけないと言っていた。
このじいちゃん、ものずこい嘘臭いが当時現役のバイク乗りだった。
当時で65位かな?
まだ元気でバイクのっているのかなー。
このスレ良スレだな
読んでるとなんで日本が負けたのかよく分かる(ワラ・・・エナイ
62 :
名無し三等兵:03/03/04 07:43 ID:u0Bgqd3i
ちょいあげ
63 :
名無し三等兵:03/03/04 09:20 ID:+OPvn/Z3
すいません、満州はどんな感じだったか教えてもらえますか?
私の父は祖母が周りの「置いていけ」という言葉を
振り切って死に物狂いで連れかえってきたらしいのです。
父は小さくてそんなに記憶がはっきりしてなかったようです。
おばあちゃんは黙って笑っていて言いたくなさそうだったので聞けませんでした。
おじいちゃんもいないけど戦死かどうか聞けませんでした。
親が小さな時に離婚して連絡を断ってしまったからもう聞けないのです。
おばあちゃんがどんな思いをしたか想像できる事ありましたら教えてください。
>>63 ああ、ここにも満州帰りのじいちゃんを持つ方がいらっしゃいましたか・・・。
前スレと前々スレに自分の祖父母・父・叔父の話が載っています。
読んでみてくださいです。
しかし、よく生きて帰れましたね。おばあさんは立派です。
自分の父の開拓団では40人(不確か)子供がいて、
その中で父と叔父だけが子供の生き残りだったそうです。
歯が生えていたので、なんとか助かったと聞きました。
祖母は収穫の終わったトウモロコシ畑の取り残しのカスを自分でかみ砕いて、
父と叔父に与えてなんとか飢えをしのいだそうです。
そういえば、亡くなった祖父は骨の半分は満州に埋めてくれとの希望でした。
あんなに辛い思いをしたはずなのに、やはり青春の地なのでしょうか・・・。
この心境は今となっては聞けませんね。
自分の祖父ではないのだけども、今年で定年の上司が大連の出身だそうです。
思い切って一昨年の忘年会の時に当時の大連はどんな様子だったのか聞いて
みたのですが、知り合いの中国人がかくまってくれたこと、毎日ソ連兵がやって
きては若い女性をさらい、そのほとんどが帰って来なかったこと、一緒に隠れて
いた日本兵がソ連兵に見つかり、引きずり出されて首を撃たれたのだけども、
運良く生き長らえたこと、父親より先に、体一つで母と妹とで朝鮮経由で引き
上げ船で博多に帰ってきたこと、母と妹は女だとばれないように頭を丸刈りに
してたこと、など、これまでにどこかで聞いたことのある話ばかりではありましたが、
いつもは能弁な上司がポツリ、ポツリと思い出すように話す様は、酒の席だったにも
かかわらずはっきりと脳裏に焼き付いてます。
もうすぐ退社してしまい、そんな話も聞けなくなるのだなぁ、と思うと寂しくもあります。
66 :
名無し三等兵:03/03/05 10:22 ID:jxqy9OkR
うちのじーちゃんは所属は鉄道第9連隊…と言うから、
泰緬(たいめん:タイ−ビルマ間)鉄道の敷設だった。
機関車を動かしていたと言うが、機関士の資格があったのか?それは疑問(笑)
最終階級は軍曹だと言ってた。
あと、メシの話では「しばらく米が続いたかと思えば、今度はモヤシばっかり…」と
連食のつらさ(それでも食えるだけマシだったが)を話してたり、
「38式歩兵銃は重かったけど、いい銃だった」とか…
英軍に投降した後、捕虜収容所で隣の房?の人が首吊ったりと
結構辛い目に合ったと言ってたな。
結構手先が器用な人だったらしく、現地の木材を使って折畳み式の枕を作って
それがまだ実家にある。(笑)
昭和21年だかに復員して、また消防士に。
勲七等を貰った。(感状を見ると佐藤栄作の時だな…)
そうそう、俺がリア厨の時、親父と自宅の車庫を整理したら
機関銃弾帯の弾同士をつなぐ金具?が出てきたな…
親父がそう言って、またしまったが。多分まだ存在する…はず…(笑)
じーちゃんは俺が小学生5年生の時、亡くなったのだが、
元気な頃はよく週末に泊まりに行って色々な話を聞いたなぁ…
戦争の話はあまりしたがらなかったが、俺がせがんだ様な気がする(ーー;)
こんな程度の話でスマソ。
だがこういうスレがあって感謝。
じーちゃんの話を思い出して供養だな。お彼岸も近いし…
67 :
名無し三等兵:03/03/05 13:24 ID:udc8wvm0
じーちゃんは確か満州事変から参加してたって言ってたな。
その時の満州出兵記念の写真集?みたいなのが今も家に残ってます。
そんで、じーちゃんは主に中国大陸に出兵してたみたい。
中国大陸の出兵時の船が「神風」(じんぷう)だって聞きました。
終戦間近に広島に帰って、原爆が落ちる前日に故郷に帰ってきたそうです。
じーちゃんは俺には戦争の話を色々してくれて、肩と腹部に残った銃弾の
貫通して出来た傷、写真もたくさん見せてくれた。
その話の中で、今も一番印象に残っているのは、
「たくさん人を殺し過ぎた、しかし自分が生きる為にはしかたなかった事なんだよ
、それに謝って済むのならいくらでも謝る。」と小学生の俺に話してくれた事だった。
そんなじーちゃんも俺が大学生の時に亡くなってしまいた。
それも、入院してたのに外泊してまで俺の成人式に駆けつけてくれた、
その一ヵ月後に・・・。
じーちゃんが病床で「孫の成人式に絶対に出る」と言ってたそうで
その話を葬式の時に聞いた俺は1年分泣きました。
途中でスレ違いになってごめんなさい。
いいおじいさんですね。
>それも、入院してたのに外泊してまで俺の成人式に駆けつけてくれた、
ここは、おじいさんのやりたい事をやってから亡くなったなら、本望だと思いますよ。
あなたの子供にも語り継げる、立派なおじいさんだと思います。
69 :
名無し三等兵:03/03/05 20:39 ID:bwJVwB2G
皆さんとは、毛色の違う話を少々。
私の祖父は、とある総本家(いわゆる庄屋さん)の次男坊で、戦前は、家にいるのが
堅苦しいからと東京に出て丁稚をしつつ気ままな生活をしていたそうです。
暫くして、曽祖父、曾祖母とも続けて亡くなり、兄までもが結核が酷くなり、
息子が生まれたその日に亡くなったそうです。
このような事情で、家を継いだ祖父は、庄屋をしていた事から、食べることには
困らず、戦後も「仕入れたものは全て売れた」と、戦後のそれなりの活気を懐かしむ
一幕もありました。
兵役は、兄の結核の影響と総本家の当主と言う理由で、免除されていたそうです。
いわゆる「有る所には有る」を甘受していた祖父でした。
そんな理由も有り、私自身幼かった事も有りますが、戦争の事は一切気にせずに
今まで過ごしておりました。
70 :
69:03/03/05 20:42 ID:bwJVwB2G
そんな祖父が亡くなって、もう15年程になりますが、その間色々な事を知りました。
戦後の「農地改革法」の為に殆どの土地を接収され、生活の為に「八百屋」を始めた事。
「仕入れたものは全て売れた」ってのは、そうせざる得なかったからだったようです。
また、手元に残した数少ない土地も、戦後暫くの間跋扈した共産党員と外国人に
二束三文で、強制的に買い取られた事も有ったそうです。
出かけるときは必ず帽子を被る、モダンながらも昔気質な祖父でしたが、この時だけは
母の前で涙を見せたそうです。
また、蔵を掃除していた所、鉄兜に拳銃や軍刀が出てきました。
調べてみると、東京に出ていた時代に志願して兵役に付いていたようです。
ですが、兄の病気と家の事情で、半ば強制的に退役させられたとの事。
また、出征杯が一組ずつ、大量に出てきました。
本来出征時に酒を酌み交わし、必ず全部割るはずの杯が一組ずつ大量にです。
近所の方々に聞いてみると、付近の方々が出征する際に、祖父がすべてお膳立てをして、
見送っていたそうです。
もう、知る事は出来ませんが、その時の祖父の気持ちは如何な物だったのでしょうか?
志願して兵役に付いた事のある祖父が、親類縁者や友人達を見送る事しか出来なかった
時の気持ちは・・・。
古い土地で、あまり大きくない町ですが、それでもコレほどの人が出征されたのだと
思うと、いたたまれない気持ちになります。
72 :
69:03/03/05 20:45 ID:bwJVwB2G
戦争と言うのは、後方を巻き込んで・・・いえ、後方有っての戦争だったんだろうと思う次第です。
>>72 貴重なお話ありがとうございました。
そういえば、69さんの戦後のお話で思い出したのですが、
母方の祖父は東京の焼け野原でクズ鉄回収業を営んでおり、
相当に儲かったと聞いております。
が、これは所有者のはっきりしない焼け野原から勝手に屑鉄を取ってくるので、
儲けすぎだった祖父は、まっとうにやっている同業者に怨まれて
警察に告発されて多額の罰金を払う事になりました。
凄いのが、この多額の罰金を現金で一括で払ったそうです。
それくらい儲けていたんですね。
この祖父は戦争に行っておらず、長男が何処かに出征し戦死したそうです。
遺影をみると、海軍の軍装だった様に思います。
母は戦後生まれなので、まったくこの兄とは面識が無く、
祖母からも何も聞いていないそうなので、残念ながら自分に情報は伝わっていません。
祖父は高校の時に高齢で亡くなりました。
みなさんどうやって爺様から話を聞きだします?
やっぱり思い出すのもつらい人もいる訳ですから、ストレートに聞きにくいこともあると思うんですけど。
ちなみに私は、初めは米のササニシキとササシグレの違いを聞いていたはずが何故か戦争直後の闇米摘発
を逃れる方法の話になり、そこからさらに戦争中の話へと向こうから勝手に喋っていきました(w。
75 :
名無し三等兵:03/03/10 02:14 ID:vncq0Me+
76 :
名無し三等兵:03/03/10 05:44 ID:9mRtQZox
>>76 ガキの頃TBSの昼メロ枠でドラマ化されてるのを観た記憶がある。
確か市原悦子が主役だったかと。
>>74 俺の場合は、まず煙草を1本差出し、火をつけてやる。
うつろにただよう煙の輪をため息でそっともてあそびながら、
「苦労したんだろうね…全部しゃべって楽になれよ…」と囁く。涙目。
「おーい、カツ丼いっちょうー!」
「うわーん!!」
ここで十中八、九自供を始めます。
この前耳鼻科逝って、丸読んでいたら、なぞのジーちゃんが現れ
「俺は日向に乗ってたぞ」と武勇伝をたくさん聞かせてくれた
徴兵されエンガノ沖海戦で日向に乗って、F6F1機落としたそうだ、後で
分隊長からなんか貰ったと・・・・・・・・・
うちの周りは元軍人多し
ウチの近所に住むイカレジジイは
「俺は戦争で何人も人を殺してきたんだ!だから人を殺しても何とも思わん
のだー!」と叫んでいて警察に連れて行かれた・・・
81 :
名無し三等兵:03/03/10 21:35 ID:KevQ9/nj
漏れの爺さん海軍伍長
↑ 敢えて釣られましょう。 帝国海軍に伍長はいねぇだろっヽ(゚Д゚ )ゴラァ
って、どこの海軍?
83 :
80:03/03/11 08:22 ID:T2V2/OFI
>>82 もちろん日本海軍でつ。
ワシは海軍伍長じゃったとよく言ってマスタ。
戦艦大和に乗り組んでいたことが自慢で、
沖縄特攻のとき、原爆2発食らっても
沈まなかったって言ってますた。
とんでもない食わせ者でつね。
84 :
81:03/03/11 08:38 ID:T2V2/OFI
↑
81ですた・・・
・・・・・・・・ネタ?(´・ω・`)
86 :
名無し三等兵:03/03/11 08:49 ID:7CeIvGt7
漏れのじーちゃんは金持ちのボンボンだったので陸軍入隊時に少尉。
満州でソ連の捕虜になった時に大尉ですた。
戦争よりも趣味の写真ばっかり撮ってますたとさ。
>>86 ネタじゃなかったら、写真アップしてくりー。
じいさんの墓前に供えたい。
88 :
名無し三等兵:03/03/13 04:12 ID:fifliBJw
age
うちのじいちゃんは五航艦の第721海軍航空隊の神雷部隊で桜花を懸架する
一式陸攻に乗ってた。
90 :
名無し三等兵:03/03/13 12:52 ID:DP0BKaL+
うちのオジーサンは天皇の側近?兵だったってよ。すごいらしい
戦争終わったらそのとき使ってた、馬もらったって。
91 :
名無し三等兵:03/03/13 13:02 ID:L8uXONos
>>90 んで喰っちまったのか!
なんて不敬な爺だ!
92 :
名無し三等兵:03/03/13 13:07 ID:22dr/kCX
陸軍上等兵ですた。アンダマンで英軍相手にスナイパーしてたらしいっす。落下傘部隊の連中が異様にでかかったのが印象に残ってるらしいです。
爺さんは徴兵され、金沢の第九師団に所属し、中国を転戦。終戦時は大尉。
小学生のころに聞いた話を箇条書きにしてみる。
・大陸はとにかく広い。
・基本的に中国軍(国民党軍)は撤退を繰り返し、たまに反撃をしてくる程度だった。
・中国軍が去った後の村は酷い状況だった。火をつけたり、井戸に毒を入れるのは毎度のこと。
・飯を食っているとすぐ隣の戦友が狙撃兵にやられた。
・一人で馬を引いて歩いていると、中国軍?の戦闘機?に銃撃された。
・捕らえたゲリラ?を命令により銃殺した。明確に敵兵を殺したのは後にも先にもそれっきり。
・中支のある村の村民は、戦争をしていること自体知らなかった。
・八路軍(共産党軍)なんて見たこともなかった。
・最後にはこんなところで戦をしていることが馬鹿馬鹿しくなった。
・せっかく貰った軍刀?を、進駐軍を恐れた兄に処分されてしまった。
・共産党かぶれは大嫌いだ(戦後、そういう連中に出会ったらしい)。
94 :
93:03/03/13 13:37 ID:???
訂正。大尉は爺さんの兄貴の階級だ。爺さんは曹長か准尉だ。
(^^)だろうか(苦笑
前にもどこかで書いたと思うけど、わが祖父母は
牛久沼に米の艦載機が落っこちた。ってんで
それやっちまえ!と竹ヤリや猟銃を手にして
村人総出で船を漕ぎ漕ぎたどり着いたら
「お〜い助けてくれ〜」と見事な日本語が響きわたり
見たら土浦の飛行場から飛び立った瞬間に撃墜された
子供のような年齢の搭乗員で、濡れ鼠になって救助しながら
「この戦争は負け」と初めて確信したそうです。
97 :
:03/03/14 11:52 ID:D0Xdh0iA
うちの爺さんは揚子江で砲艦に乗ってました。通信士だったそうです。
戦争中はけっこう危ない事もあったけど、一番くやしかったのは砲艦
の足が遅くて陸軍の「戦車の砲塔をつけたモータボート」(?)によく
追い抜かれた事だったそうです。
>97
すげえな、装甲艇じゃねえか
99 :
名無し三等兵:03/03/14 12:41 ID:60SUZCxp
幇間
100発上等兵
101 :
名無し三等兵:03/03/14 13:09 ID:5qFTPDAQ
おいらの大叔父さんは343航空隊の戦闘701航空隊の飛行隊長をしていた。
という話を聞きました。
おいらの母方の爺さんは戦争末期に小倉の高射砲隊にいたということです。
下手したらおいらはこの世にいなかったという罠。
漏れの爺さんはダスライヒ装甲師団で連隊長を務めていた。
満州の地で華々しく散っていったのは一族の誇りだ!
103 :
名無し三等兵:03/03/14 15:36 ID:KGeB7SdJ
家の爺さんは多分戦闘工兵、逃げる時に橋やら狭い道やらを爆破したらしいから。
わたくしの母方の祖父はガダルカナルの生き残り。
潜水艦に助けてもらったそうな。日曜日に会ったとき
大学合格をめちゃくちゃ喜んでて嬉しかった.
105 :
名無し三等兵:03/03/14 17:17 ID:R1E1DCem
おいらのおじいちゃんは泳げないくせに海軍だった。
体が弱かったので徴兵検査でひっかかり入隊が遅れたらしい。
でも軍隊で鍛えられて健康になったらしいw
戦艦「山城」に乗っていたと言っていたが、よく聞いてみたら
訓練艦時代に一度見学しただけだった。
おばあちゃんが差し入れたおはぎが仲間に好評だったこと。
その仲間も輸送船ごと沈められたこと。
その船に自分が乗らなかったのは、自分をかわいがってくれていた
上官のおかげらしいこと。
その上官も終戦の日に自決したこと。
以上、おいらが聞いたおじいちゃんの戦争体験でした。
エエ話や
漏れの伯父さん。夕雲型駆逐艦「玉波」の機銃員(水兵)とか。
連合艦隊に所属せず、輸送船護衛の途中、昭和19年7月7日、フィリピン沖にて
米潜水艦ミンゴー(戦後、自衛隊に編入)の雷撃により沈没。全員戦死とか。
末弟であるオヤジの記憶にある伯父の愚痴 「命令があるまで撃てなくって、撃てと
言われた時には、全然遅いんだよなぁ」
昔、同型艦のプラモを作ったときに、その(単装?)機銃配置に何かせつなくなった…。
伯父さん、あなたのお墓は立派にあります。ということで、供養age。
じいちゃんじゃなくってスマソ
108 :
名無し三等兵:03/03/15 02:16 ID:BRLSXE+U
じいちゃんはしんじゃってっからわかんねーけど
おじさんの話
終戦までニューギニアいて捕虜になったらしい
あ、じいさんは中国行ってたとか行ってたなぁ
109 :
107:03/03/15 02:24 ID:???
他の方に言われる前に自分で言っておこっと。
「駆逐艦が潜水艦に沈められるなよ〜」ヽ(`Д´)ノウワーン
110 :
名無し三等兵:03/03/15 03:46 ID:Ba9n2BvP
家のじっつぁまは中国で転戦。支那人
相手に38式でスナイプしてたそうな。
大隊で一番の腕だと自慢してたなー。
色々話してくれたな。鹵獲したチェコ
の銃器はよかったって言ってた。
あと、苦痛だと思ってないのか戦争の
暗い面もよくしてくれる。上官に命令
されて支那人を連行中、暴れたので撃
ち殺した。とか・・・
まぁアホみたいに元気で明るい爺だか
らかもしれないが・・・w
112 :
マジレスしてみる。:03/03/15 04:52 ID:Putugqua
中国の、徐州の戦いで、敵地に一番乗りして日の丸を振っている日本兵の
写真は、俺の爺さんです。ちなみに健在です。
113 :
名無し三等兵:03/03/15 05:30 ID:5Qv3sGi0
♪徐州う徐州うと、人馬は進む、 徐州いよーいか住みよーい か〜.♪
114 :
よくわからないが:03/03/15 05:30 ID:EHlcmhiB
うちのじいさんは鹿児島出身で、ノモンハン(どこ?)に行っていた(みたい)。
もう亡くなってしまいましたが、最近陸軍関係のアルバムがでてきました。
「おじいさんが死んだら、このアルバムは焼却してください」と書いた紙がはさんでありました。
もう片方のじいさんは、背が低くて戦争に行けなかったらしいです。
115 :
名無し三等兵:03/03/15 06:18 ID:5Qv3sGi0
おじさまは壊滅した23師団の貴重な生き残り(=英雄)でいらっしゃったのかも知れませんね
116 :
(´-ω-`):03/03/15 06:34 ID:Lia9zjxq
117 :
名無し三等兵:03/03/15 12:54 ID:IZeRruO+
家の仏壇に、童顔の陸軍士官の遺影があった。
大伯父は、百式司偵に乗っていて亡くなったときかされていた。
十年ぐらい前、渋谷大盛堂で「司令部偵察飛行隊」という本を読んでいたら、
その大伯父の名前が載っていた。驚いた。
118 :
名無し三等兵:03/03/15 15:21 ID:0hfviATx
漏れの爺さんは、薩摩示現流の達人だった。
軍曹で大陸に出征。
八路兵どもを猿叫とともに斬撃しまくったとのこと。
示現流の前に、連中は惨とした肉塊と化したと笑いながら
よく語ってくれたものだ。
ただ、軍刀がすぐ曲がって使い物にならなかったと
こぼしてもいた。
119 :
厨房:03/03/15 15:34 ID:roaDV7SS
俺の祖父の兄は、乗ってた艦が沈没して、泳いで逃げたって。
もう死んでしまったから、艦の名前も分からんし、何の海戦かも
分からん。父の話だと背中にすごい火傷の跡があったとさ。
うちの爺ちゃん(海軍一等兵曹)は「高雄」とかいう軍艦に乗ってたらしい。(同型艦かもしれん
それも沈められちゃって、その後ハルマヘラ島ってとこに行ったって言ってたな。
毎日、空襲があったり戦闘よりも食うものに困ったってよく話してくれたよ。
で、何故か陸軍中将から表彰状貰ってて、未だに我が家の居間に飾られてる。
(´-`)。oO(海軍でも陸軍から表彰される事ってあるんだろうか?)
じーチャンじゃないけど、サターンのアド大戦略で遊んでいたら、
戦闘シーンの音にばーちゃんが「若い頃を思い出すねェ」…って。
ドコに住んでいたんだ?
>>121 >118は、八路兵って書いてあるだろ。藻前みたいなのがいるから、中g<r
実際の話か与太ホラ話か分からんのがつらいな、、、
>>124 戦場譚は法螺と真実の綯い交ぜってのが相場
そういえば、散髪屋のじいさんが
「俺は中国で戦っていたんだが、山の方を見ると、共産党軍が鉄砲を撃ってきてるんだが
そこの共産党軍が全て女で驚いた。
軍隊は男だけだと思っていたので、おれはびっくりしたなぁー」
と言ってた。
続きは怖くて聞けなかった
127 :
名無し三等兵:03/03/16 10:47 ID:peHjQv+A
age
128 :
名無し三等兵:03/03/16 12:09 ID:F41c4yse
うちのじいさんはソ満(朝?)国境の警備隊にいたそうだ。
河を挟んでにらみ合ってるわけだが、
ソ連軍が馬匹用の干草を積み上げてると、夜中にこっそり河を渡って放火。
逆にソ連側もこちらの干草を放火してきたとかなんとか。
張鼓峰事件も体験してて、監視所かなんかでランプをつけたら
「ソ連が9サンチ砲を撃ってきた」って。
晩年はぼけてしまって、戦時の記憶がフラッシュバックしてたみたい。
窓の外を見ながら突然、「ソ連の落下傘部隊が来たぞ、大変だ」って言い始めたり。
元気だった時は、干草燃やしたりとかたわいのない話ばかり聞かされたけど、
ほんとは相当怖い経験をしてるんだなって。シベリアに2年抑留されてたし。
129 :
名無し三等兵:03/03/16 15:27 ID:SHMpXl3O
うちのじいさんもソ満国境の河にいたといっていた。
食いモンが少ないから河に入って網で魚をとっていた話をしてくれた。
河の真ん中が国境なんだが、うっかり仲間がそれを超えてしまいロスケにズドン。
仲間の死体を回収するにも国境を越えるわけにはいかないので
棒でつんつんしてなんとか手繰り寄せたと言っていた。
ちなみにうちのじいさんは運良くソ連軍の侵攻前に転属になったので
シベリアに抑留されずに済んだ。
転属先は沖縄。
130 :
ハ42太郎:03/03/16 15:29 ID:SeI3uY/c
>転属先は沖縄
だめぢゃん。
131 :
名無し三等兵:03/03/16 16:11 ID:u7XZd7Yr
うちのじいちゃんは板金工で軍艦を作っていたと言っていた。
畳十畳分位の鋼板を溶接する話を聞いたことがあります。
おかげで戦場には行かずに済んだのですが、兄弟が戦死しています。
船の名前を聞いておけばよかったと後悔しています
132 :
名無し三等兵:03/03/16 16:38 ID:SHMpXl3O
>>130 ちなみに、もう一方のじいさんは
マレー→インドネシア→ビルマ→インパール作戦
と転戦している。
もし歴史がちょっと違っていたら
俺って生まれてないんだなあと考えてしまうよ。
133 :
名無し三等兵:03/03/16 16:44 ID:xkyEfuAw
うちのじいちゃんは息子を殺されたくなかったので、
息子らを全員理系大学に入れて徴兵逃れさせましたとさ。
そりゃまあ当時は戦争マンセーに熱狂する香具師らもいたさ。
でも一般国民はけっこう戦争に対して冷めてたんだよなぁ。
先月無くなったうちのじいちゃんは、シベリアに抑留されてたって言ってた。
だからずっとロシアの事を露助って呼んでた。強制労働とかひどかったらしい。
ばあちゃんは終戦間際、生まれて間もない私の父を抱えて、
面白がって機銃掃射する戦闘機に追われて、必死で側溝に飛び込んで
やりすごしたって言ってた。
俺が生まれるかそれ位に逝った父方の祖父は、
夜間偵察機「月光」で、写真を担当してたそうです。
既に祖父が他界しているため詳しい事は解りませんが、
実家に返って祖父の写真を見ると、なんだか凄く悲しくなるよ…
136 :
名無し三等兵:03/03/16 18:17 ID:AcCIwbQE
友達の曾じいちゃんが陸軍少将だったらしい
72連隊だったような気がする。小林少将とか言うのいなかった?
137 :
名無し三等兵:03/03/16 18:25 ID:AcCIwbQE
>72連隊だったような気がする。
スマソ。日本語おかしい。
ノモンハンだかで指揮してたのが歩兵72連隊だったような気がする
138 :
名無し三等兵:03/03/16 18:26 ID:15JWZgBQ
うちの爺さまは、満州帰り。
運が悪ければ、親は残留孤児。
母親は日本に連れて買えってくれたことを
感謝しております。
勲六等、勲七等?貰ってたな。
>>136 小林姓の中将は6人、少将は8人いるけど
第23師団の歩兵団長だった小林恒一少将かな
歩兵第72連隊を指揮下において渡河攻撃を指揮、重傷を負ってる。
陸士22期卒、陸大34期卒ながらノモンハン戦に参加したことが祟って閑職に
最終階級は中将、満州国高等軍事学校長でソ連軍の捕虜、シベリアで死去
140 :
奈々氏:03/03/16 20:42 ID:y2Q5DTpa
うちのじいちゃん(父方)、フィリピンへ行ってたそうな。(ただの歩兵)
ジャングルに入った事、あとは飢えて飢えてネズミや木の根っこを食べてたらしい。
戦後に日本に帰ってきたらしいので恐らくはレイテ島にいた部隊か?
あとは驚いたことに、同じ部隊にト○タ自動車の経営者の息子?がいたらしい。
しかも同期。
じいちゃん曰く、そのト○タの息子は「へなへな」だったらしい・・・。
誰か、この部隊が第何師団か知ってる人いないですか?
母方のジイちゃんは将校。ただ当時20代だから少尉か中尉かと思われ。
戦争に負けて日本に帰る途中、軍刀を地面に埋めてきたらしい。
おそらくは大陸方面に行ってたのかと。
141 :
名無し三等兵:03/03/16 21:13 ID:QE6wrzJc
>>120 ハルマヘラ島は、陸軍が主戦場と考えていたため、
32師団をはじめ、かなりの兵力が投入されています。
しかし、隣のモロタイ島に米軍が上陸したので、
ハルマヘラ島は戦闘は、ほとんどなかったようです。
ただ、補給が途絶したので、食料とマラリアには苦労されたとのことです。
>>140 安易に愛知県周辺で編成された部隊と仮定して、フィリピンに展開した歩兵連隊
とすると…。知ったか御容赦 (w
第26師団独立歩兵第11連隊(津) 一部レイテ島で玉砕、主力はルソン島で全滅
第26師団独立歩兵第12連隊(岐阜) レイテ島でほぼ全滅
第26師団独立歩兵第13連隊(静岡) レイテ島ブラウエン飛行場で全滅
以下は考えにくいですが。
第16師団歩兵第33連隊 (津) フィリピン攻略、レイテ島で玉砕
143 :
奈々氏:03/03/16 22:12 ID:y2Q5DTpa
レスありがとうございます。
当方、福井県です。田舎なので(それどこにあるの?w)とかいわれそう;;
隣県は石川県、京都府、岐阜県です。
144 :
名無し三等兵:03/03/16 22:18 ID:XAVhi4EM
うちのじーさんは
駆逐艦に乗っていたと語っていた。
アバウトでボケも始まったので
それよかははからん^^;
145 :
奈々氏:03/03/16 22:35 ID:y2Q5DTpa
この際知ってる事全部書きます。^^
うちのじーちゃんは福井県の某所(日本海沿い)の生まれなのですが、
生まれた村は、当時村民がせいぜい100〜200人程度かと。ほとんど集落。
今だに「村」ですし。
しかも戦時中、夜中に明かりを付けていてもB29に無視されたほどですw
恐らくは
>>142さんの書き込みの岐阜で収集された軍隊かと思います。
人口少なすぎて、オマケで岐阜の収集にはいったんでしょうか。
じーちゃんの名前も公表しときます。故人ですし、僕が孫ですから
問題ないかと。名前は「下田 秀吉」です。
じーちゃんが南方で何を経験したか知りたいです。
第26師団独立歩兵第12連隊の可能性が高いので調べてみたいところ。
ただ、うちのじーちゃん、戦争行くまえの写真と帰ってきた写真を
見比べたらひどく目つきが怖いです・・・。
146 :
140:03/03/16 22:51 ID:hDRAOf1w
>>142 なぁんだ、私と同じ県じゃないですか ヽ(´ー`)
うーん、鯖江の36連隊や、敦賀の19,67,119,523連隊はいずれもフィリピンには
行っていないと思いますし、難しいな。(因みに私の伯父は36連隊で中国戦線って、
母方のお爺様と一緒?)
もし、嶺南の方でしたら
第16師団歩兵第 9連隊(京都)や第16師団歩兵第20連隊(福知山) 玉砕
あたりも考えられますけど。
>>145で日本海沿いの村とおっしゃてるから、それも
無理があるかな。
147 :
142:03/03/16 22:57 ID:???
ドジを踏みました。
>>146は142から140さん宛です。
激しく欝 ショボーン━━(´・ω・`)━━
148 :
142:03/03/16 23:13 ID:???
忘れていましたけど、召集される先は「本籍地」だったような…。
漏れのじいちゃんは、高崎15連隊 北支派遣軍 桐42xx部隊
ダイタイホウとか言ってました。(xxは失念しました)
>>113の歌をよく歌ってました。やっぱり徐州方面に行った部隊
なんでしょうか?
うちのひい爺さんは近衛師団にいた。生きてた頃の爺さんの話だとマレー作戦に
従軍して近衛第一師団参謀だったんだとさ。爺さんは立川陸軍第五研究所にいたそう
な。うちの親父が『B−29撃墜に最適なレシプロ戦闘機』にマジレスしてた。
なんか家中引っかきまわして資料探してた。結局、頼まれた写真は見つからず。
漏れも散々こき使われた。そして親父は空挺団にいた。いまは退官したけどよ。
うちの家系はみーんな軍人。漏れにもいけとうるさーい。やなこったあ。
151 :
名無し三等兵:03/03/16 23:44 ID:QE6wrzJc
召集される先は「本籍地」ですね。
>>ジャングルに入った事、あとは飢えて飢えてネズミや木の根っこを食べてたらしい。
戦後に日本に帰ってきたらしいので恐らくはレイテ島にいた部隊か?
これだと、激戦のレイテよりも、ルソン島などに思えるのだか、
フィリピンもいろいろあるし。
第35軍(レイテ他)は、
第1、16、30、100、102師団と第54、55独立混成旅団。
第14方面軍直轄(ルソン他)は、
第8、10、19、23、26、103、105師団、戦車第2師団、58独立混成旅団。
のようなのだが。
福井の師団ってある?
152 :
名無し三等兵:03/03/17 00:00 ID:gUZJthnc
家のおじいちゃん、戦艦武蔵の通信兵でした。まだ生きてますよ^^
>>151 >鯖江の36連隊や、敦賀の19,67,119,523連隊
順に第28,29,15,53,216師団ですから、いずれも該当せず、です。
独混旅団も、54)仙台、宇都宮、55)弘前、58)弘前で主編成されたと考えると。
154 :
151:03/03/17 00:13 ID:JMfwWgwe
レイテ戦に関心あるなら、
大岡昇平氏のレイテ戦記が必読でしょう。
鎮魂歌らしく、かなり詳しく書かれています。
155 :
ハ42太郎:03/03/17 00:17 ID:s4ZJcUcu
山本七平「私の中の日本軍」など軍隊物ははルソン島決戦の末期の状況について迫真のドキュメンタリーです。
156 :
151:03/03/17 00:19 ID:JMfwWgwe
>>153 レスサンクス。
手元の本を見て書いたんだけど、他にもあるかな。
召集が福井じゃないかも。でもかなりの田舎みたいだし。
特定するのは、案外むずかしいですなぁ。
157 :
151:03/03/17 00:24 ID:JMfwWgwe
>>155 山本氏もフィリピンで砲兵でしたからね。
一連の著作も当時の様子が、リアルに描かれてますね。
どちらかといえば、兵隊(氏は予備将校だか)から冷酷に見た軍隊ですね。
>>152 おじいちゃんの御迷惑にならない範囲で、お話を伺いたいものです。
159 :
名無し三等兵:03/03/17 01:26 ID:hRs4JSl2
50代で早死にし13回忌も済ませた父が陸軍航空隊の通信兵でした。
専ら重爆に乗っていて、台湾にも出撃したらしいです。
たまに聞いた話で良く覚えているのは「97重は全体の性能は悪くないけど
速度が遅い。呑龍は装甲が薄くて被弾すると燃え易い。その点飛龍は良かっ
た。あれがもっと生産されていたらな・・・」です。
被弾し浜松市北部に不時着した事があり、その跡を見に行きがてら2人で旅
行した事がありました。木の幹に黒っぽく削られた様な跡が残っていて、感
慨深げにしてたのを覚えてます。確か土地の方に案内してもらって行った筈
です。(私も良く覚えてない)
加古川の航空隊で終戦を迎えたはずです。父の死後、母が戦友会に出席する
ため何年かに1回加古川に行ってました。
160 :
名無し三等兵:03/03/17 06:55 ID:aBC6KgqW
横浜港って民間港だよね?
そこで事務やっていたって爺さんいってたけど
161 :
名無し三等兵:03/03/17 07:08 ID:uiDXvG0y
>>155 をぉ!厨房の頃よんだなー
今でも売ってるのかな
162 :
名無し三等兵:03/03/17 08:20 ID:929q6XYq
ちょっとだけ聞いた話によると・・・
父方の祖父が、戦争行ってたらしい。
祖父は次男で、他の兄弟も戦争行ったらしく、
長男・・・シベリアに拘留されるも、脱走し、何とか帰国。
次男(祖父)・・・工兵として、8年ほど、中国各地を転戦。
三男・・・フィリピンあたりで戦死。
祖父が生きてるうちに、詳しく聞いとけばよかった・・・
工兵は、出身地別に編成されたりするんですか?祖父は兵庫出身です。
163 :
奈々氏:03/03/17 20:16 ID:CoxWUOUv
>>140です。
よくよく考えてみたら、ここ福井県の福井市はみんなじーさん方、
バラバラに戦地いってます。うちのじーちゃんはフィリピン、
知り合いのじーちゃんは中国で衛生兵やってたし、あとは
福井市の足羽山にハワイやサイパンにいって戦死した人達の集合墓地があります。
想像ですが、おそらく周りの県(石川、京都)で収集した際の不足分などを、
田舎の人口少ない福井で割いて割り当てていたのではないでしょうか。
164 :
142:03/03/17 22:58 ID:???
>>163 うーん、福井県の方が員数合わせに使われたとは思いたくありませんが、
実際、どうなのでしょうね。少なくとも、
・歩兵などの召集先は「本籍地」で、他県の部隊からの召集も珍しくない
・将校や飛行戦隊などは転勤が少なくない
・海軍もほぼ同様として、更に戦場は千差万別
ということで(本当か?)、福井にそうした集合墓地があるのかもしれませんし。
特に、ハワイで陸軍の歩兵が戦死したとは思えませんから…。
なにかのきかっけで、どこで戦われたか、分かると良いですね。
165 :
151:03/03/17 23:48 ID:JMfwWgwe
>>140、163
員数合わせというのは、聞いたことないですね、、、?。
陸軍は、本籍地で召集→本籍地の連隊で教育→部隊編成で戦地投入
の流れと思うのですが。
郷土の連隊、対抗意識を利用することも考えているはずですし、
所属の師団は、該当地域の連隊で編成されているのが基本でしょう。
但し、独立混成旅団は、師団を超えて、直接、大隊レベルで編成したりしていて、
所属地域がバラバラなケースもあるようです。
あと、ハワイは海軍でしょうね。サイパンも海軍の艦隊の可能性があります。
サイパンの地上部隊は、
陸軍:第43師団、独立混成47旅団
海軍:第5根拠地隊
のようです。
くぐってみましたが、所属部隊の詳細はわからなかったです。
県や市の図書館には、地域の部隊の歴史本があると思うのですが。
あと、古本屋に、戦友会の記録とか売っていることがあります。
部隊が把握できれば、戦友会の記録など見ると、部隊の歩みがわかりますよ
166 :
151:03/03/17 23:56 ID:JMfwWgwe
>>ここ福井県の福井市はみんなじーさん方、
バラバラに戦地いってます
陸軍の同じ召集先でも、召集のタイミングや、召集が同じ時期でも
所属した部隊により、戦地が異なることはあります。
↑
書き忘れた
167 :
142:03/03/18 01:03 ID:???
>>151 いつもフォローありがとうございます。
第43師団は、名古屋を中心とした連隊で編成されているようですので?なのですが、
独混47旅団はサイパンで編成、補充担当:大阪とまでしか判りませんでした。
私も改めて地元の資料を探してみようかな。
フィリピンなら補充隊の滞留員をはじめ負傷で還送されて来たり
ポカチン食らって上がってきたのもいるから、
一概に出身地が○○だからここにいるわけがないとは
言えないんですよね。あと特科の独立部隊もありますし。
でも歩兵ですし・・・・
手元の資料漁ってみます
169 :
奈々氏:03/03/18 03:35 ID:YtRcXB/w
俺の母方のおじさんは、今死にそう。だから思い出したから、書く。
おじいさんは、戦争に行きたくないので、理系大学へ進学。
大学2年の途中で、特別措置撤廃で海軍へ入隊。
訓練で先輩にいじめられるのが嫌だったから、戦地往きを上官へ懇願したが、
「行きたければ、自分で艦作って行け。海軍には艦は無い」と言われた。
結局半水艇に乗ったそうだ。
終戦間際に敵に撃沈されるのではないかと言う体験をしたらしいが、その話は詳しく話してくれなかった。
おじいさんの家の和室には、ビルマで死んだお父さんの軍服着てる写真が飾ってある。
服の感じからは将校だと思うけど、どんな事してたのかは不明。
隣に弟が出征する時に家族親類で撮影した記念写真が飾ってある。
弟も海軍で、駆逐艦に乗っていたらしいんだけど、潜水艦の魚雷攻撃を必死に避けようとして、右往左往してたら艦が僚艦とぶつかって、
そりゃ大変だったらしい。
その後高射砲の射手やってた時に敵機に機銃掃射されてに死んだってさ。
認識票と軍服しか帰ってこなかったらしい。
俺の爺さん防空監視員だった。
東京大空襲のとき、はじめ自分が担当する地域に爆撃しにきたと思って、
空襲警報!って叫んだり、空襲警報の「う〜」って言うサイレン鳴らしたりしていたんだけど、
結局B-29は通過して東京へ。
東京が赤く見えたそうです。
その時、戦争は終わったと思ったって言ってた。
でも、あの赤い炎が同じ日本人の血を燃やしているのならって終戦まで必死に防空監視の仕事したそうです。
防空音頭とか言う曲をよく歌ってた。
172 :
名無し:03/03/18 06:31 ID:GTtJlnAe
私の母方の祖父(7年前天国へ逝きました)は何軍だか知
りませんが、南の方に行っていたようです。
祖父自身からその話を聞いた事はないのですが、やたらそ
の時の写真が残っているので、熱帯雨林の地域というのだ
けは分かります。またその写真を見る限り戦いが激しい地
域ではなかったようです。
写真は、祖父がチンパージーを抱き上げて写っているもの
、森の中を移動する部隊の後ろ姿、兵隊同志で雑談をして
いるもの等です。
因に、祖父は茨城県日立市の人です。
父方の祖父は陸軍だった様その部隊で記念撮影した写真が
居間に飾ってある。これまで話を聞いた事がないので聞い
てみないと。
173 :
名無し三等兵:03/03/18 07:05 ID:1jSRtUT2
>>172 比較的日本寄りの地域もしくは日本が占領した後の維持部隊か若しくは大戦序盤の快進撃を繰り広げている頃。
若しくは将官であった。
上のどれかかな?
174 :
名無し三等兵:03/03/18 18:40 ID:2yA21MO/
>写真は、祖父がチンパージーを抱き上げて写っているもの
コンゴ動乱とかでアフリカに傭兵しに逝ったのか?
>>170 「行きたければ、自分で艦作って行け。海軍には艦は無い」
名言の予感・・・
176 :
名無し三等兵:03/03/18 22:57 ID:8Y3FxHBR
韓国空母スレに少し書いたら、こっちに書きたい気分になったので。
漏れの母方のじーちゃんは、19年になってから2度目の召集をうけたそうです。
神雷部隊だと言っていましたが、さすがに桜花のパイロットなどではなく、
整備をやっていたそうです。
2度目なんで、年齢は三十半ばだったそうで、子供も居たりしたので、
手当が着いたりして、かなりいい給料だったそうです。
このじーちゃんはまだ元気なので毎年盆と正月に遊びに行って、一緒に酒飲んでます。
九十超えているのに漏れより酒強いかも知れんです。
父方のじーちゃんも海軍で、潜水艦に乗っていたそうですが、
開戦時には病気を煩っていたそうで、間もなく亡くなったそうです。
数年前、墓を新しくしたときじーちゃんの骨を移したんだけど、
何十年も経ってたんでほとんど何も無くなってました。
掘り出した骨やなんかは漏れが運んで新しい墓に納めたんだけど、少しは孝行になったかな。
177 :
151 :03/03/18 23:36 ID:zsMLGhge
>>164=142
>>・将校や飛行戦隊などは転勤が少なくない
士官学校出の将校は、転勤があたりまえですね。職業軍人ですから。
予備士官の将校は、すでに戦局が逼迫していたため、
転勤させるほどの余裕もあまりなかったでしょう。
飛行戦隊でも、兵隊はあんまり、転勤はないでしょう。
>>・海軍もほぼ同様として、更に戦場は千差万別
海軍は、建前として志願制でなかったですか?
平時の水兵は、鎮守府に所属。おそらく本籍地の鎮守府ですかね?
鎮守府に所属する艦船に乗り込む。
雪風は、海戦から終戦まで、水兵はほとんど変わらんかったと
聞いたこともある。(かなり曖昧な記憶)
沈没後は、補充か新船に配属、また、根拠地部隊の陸上部隊のこともあるし。
結局、最後は、170のように、船がなくなり、
内地部隊は、モーターボート?の特攻隊勤務のようでしたが。
168さんが書いている通り、部隊の解散?や艦船の沈没になれば、
どこかに補充されてしまうこともありますしねぇ。
178 :
名無し三等兵:03/03/19 12:58 ID:u3Z2xNk0
ジーちゃんじゃないけど、うちのおじさんは陸大出てるらしい。
ところが、日々の行状を見てると、とてもじゃないがそんなエリートには
思えないのです。
真偽の程を確かめたいのですが、陸大卒業生の氏名などが一覧できる資料、
またはHPを知らないでしょうか?
ちなみにそのおじさん、B級戦犯にも名を連ねたと自称しています。
そちらが調べられるものでもいいです。どなたか教えてもらえないでしょうか。
>>178 国会図書館
係員はあまりに暇で聞くと嬉しがって探してくれる。
180 :
名無し三等兵:03/03/19 19:40 ID:QwvsZt/m
神風特攻隊はドキュンage
181 :
名無し三等兵:03/03/19 20:08 ID:O9poVe+g
漏れの爺さんは7年兵隊行ってたそうだ。
母づてで聞いた話だと満州〜ビルマまで行ってたそうで。
その頃の話は殆どしてくれないので分からないけど、
沖縄には行きたくない、と言ってた。
そんな爺さんも遂にというか、先月沖縄旅行へ行った。
ここ数年、中国だの台湾だの旅行してるんで、
何か思うところがあったのかな、と思う。
>>181 俺の爺さんも自分が戦った所が今どうなってるのか、当時の人は居るのか?
居たら話が聞きたい。
と言って死ぬ1年前に旅行しまくってた。
帰ってきたら、自分が入っていた即席陣地の跡がまだ残ってて、写真大量に取ってきて、
「ここで少尉殿が狙撃された」とか指差しながら懐かしげに語ってた。
183 :
名無し三等兵:03/03/19 22:51 ID:Pkmnm7N7
>>178 >>陸大卒業生の氏名などが一覧できる資料、
>>またはHPを知らないでしょうか?
「大東亜戦争研究室」で、クグッてみたらあるかも。
BC級戦犯の氏名までわかるものは知らない。
5千人以上あるし、かなり冤罪があると言われているので、
全員の氏名まで特定すると、本人さんに迷惑かかったりするんでは。
もう亡くなったけど、海軍の上等兵曹だった。
バーちゃんは「海軍さん」という理由だけで結婚した(らしい)
高雄にのってたことがあることと、終戦時、九州にいたこと以外
知らない。
「いつか、戦時中の話をしてやる」といっていたが、聞く前に
亡くなってしまった。
>>184 当時は海軍というだけでもてたみたいだね。
うちのばあさんも海軍には好意的だった。
女学校のときに軍艦に乗ったらしくそのことをよく自慢してた。
でも、女学生が軍艦乗れるのかな。
>>185 うちの祖母も、長門か比叡だかに乗ったらしいです。
昭和5年の神戸沖観艦式の時に、女学校の生徒が海軍将官(司令部員
らしい)の接待係を仰せつかり、それが終わり、観艦式が無事終わった後に
女学校の生徒を司令長官が招待してくれて、戦艦に乗せて貰ったとか。
アイスクリームが美味かったなどと宣っておりました。
188 :
名無し三等兵:03/03/19 23:42 ID:TvUO8wSw
ワシの爺さんとはちゃうねんけど、お仕事上の付き合いのあった人の話。
福岡県出身者の人でビルマに行ったようなので多分”菊”と思うんですが、たま
たまその人は英語が出来たので英軍捕虜の尋問をする時等通訳に駆り出されて
いたそうです。
ただし、菊兵団に捕まった英兵は殴る蹴る(博多弁でぼてくりかえす)
された後に尋問に掛けられた為、非常に反抗的だったそうです、その反面京都の
師団に捕まった英兵は紳士的な扱いを受けた為か、友好的で何でも話してくれ、
仕事が楽だったそうで、田舎と都会の人の気性の違いをまざまざと感じたと
言ってました。
戦場では悲惨な光景をいやと言うほど見た為か、晩年はギデオン協会にて
聖書の布教(?)をされていました、もっと詳しく聞いておけばよかった。
189 :
185:03/03/19 23:50 ID:???
>>187 うちのばあさん、大正3年生まれだからあなたのおばあさんと似た年代かな。
うちは艦種とかはわかりません。
とにかく「海軍さんはカッコよかった」「今の若いもんはなっとらん」
だけです。(w
私の祖父は応召の陸軍歩兵だが、海軍は格好つけばっかや、と言って嫌っておりましたが。
>>189 うちの祖母は大正2年生まれですから、本当に同世代。
今は惚けて見る影もありませんが。
192 :
190:03/03/20 00:37 ID:???
>191
そうですか。
大事になさってください。
うちは4年前に別れました。
浅草生まれで、関東大震災で焼け出され関西へ。
その後、空襲、伊勢湾台風を全部経験した、やたら気の強いばあさんでした。
軍艦に乗ったのも呉らしいですから、ひょっとしたらあなたのおばあさんと
お会いしていたかもしれませんね。
長生きされることをお祈りいたします。
193 :
189:03/03/20 00:39 ID:???
すみません。
↑は189でした。
194 :
151:03/03/20 00:50 ID:6691BSxV
>>188 菊兵団でつか。手元に本があった。
菊と龍〜祖国への栄光の戦い
相良 俊輔 光人社NF文庫
菊兵団〜第18師団、久留米で現役兵を編成
龍兵団〜第56師団、福岡で菊兵団出身者を編成
兄弟師団と呼ばれ、北ビルマと雲南で激烈な戦闘を強いられた。
フーコン→ミートキーナ→拉孟
フーコン当時の菊師団長は、田中新一中将(開戦時、大本営作戦部長)
ミートキーナでの〔水上少将は死守すべし〕の命令も有名です。
あと、火野葦平氏の原隊が、菊兵団で、フーコンでは司令部に合流したらしい。
こんなところてすかね。
詳細に書かれた本ですので、関心あれば、入手されたし。
俺の曽祖父は豪華客船を改造した空母で電探兵やってますた。
艦名は言ってなかったけど、終戦まで沈まなかったって言ってたから、たぶん隼鷹。
元が豪華客船だったからとても乗り心地のいい艦だったそうです。
肝心の電探はへっぽこで使い物にならなかったらすぃですが。
うちの婆ちゃんは当時としては裕福だったみたいで少しだけ話を聞いてます。
家でモーツァルトとかベートベンのレコードを聴いていたら憲兵に「敵性音楽を(ry」と言われたので
「同盟国の音楽でも聴いちゃいかんのか!」と言い返したが憲兵が馬鹿だったので没収された事を
今でもあんなのばっかだから負けたんだと笑いながら話してくれます。
>>196 そのエピソードイイ!ナイス婆ちゃん。
アフォ憲兵めw
海パンのヒモは固結びにすると取れませ〜ん。
父方の祖父母が満州移民。
戦争が終わる前までは、中ソ国境近くの開拓地で畑を耕しながらマターリと暮らしていたそうだが、
戦争が終わって引き揚げる最中に、祖父はハルピンの難民収容所で妻子を亡くし、
(なんか伝染病だったらしい。相次いで亡くなったようだ。時期は12月。)
祖母はコレラ(と聞いたような)で病院送りになりながらも、伯母の手をひいて引き揚げた。
でも、祖母もシベリア抑留(と聞いた)で夫を亡くしてしまった。
戦後、二人が結婚して生まれたのがうちの父親。
ちなみに二人とも80歳超えています。(祖母のほうが年上)
一日でも長く生きて欲しいと思います。
ちなみに伯母の家には戦争体験ものの児童書が多数あったのを覚える。
>>199 補足:(誤)覚える →(正)覚えてる
最後の部分。
201 :
名無し三等兵:03/03/20 23:47 ID:iO7ZRl4z
第一次湾岸戦争のとき、夜中にテレビの音が。
今は亡きじーさまがずっとテレビ見てる。
「行けッ!」
「ヤレッ!」
テレビに向かって掛け声かけてるよ・・・。
そんときゃ戦争大好きなのか?とも思ったが、
よっぽど日米戦争での体験がくやしかったんだろうなぁ。
202 :
名無し三等兵:03/03/22 14:35 ID:WONHmquL
>>201 当時は生きてたってことね。最初読んだ時幽霊が見てるってハナシかと思った。
203 :
名無し三等兵:03/03/22 18:46 ID:euw0fsAk
あげ
>>201 俺んちのじいさん。
湾岸時、高射砲の打ち方教えてくれた。
何で知ってるのと聴くと、終戦間際、在郷軍人、第109防空隊とか言う急遽作られた隊で、爆撃進入してくるB-29に護衛(?)についてくる戦闘機が高度を落として、遊び半分に機銃掃射してくる敵機相手に高射砲を撃ってたそうだ。
なんか、東京の高いビルには、軍から民間に貸し出されてた高射砲が設置してあって、軍事訓練受けた民間人が運用してたとか言ってたけど本当かな・・・と思う。
205 :
厨房:03/03/22 22:45 ID:+nqljLBf
今日、じいちゃんちにいきました。聞きにくかったのですが、ついに戦争の事を聞きました。
そしたら、なんと潜水艦に乗ってたと言ってました。驚きです。
聞く所によると、自分のじいちゃんは伊112潜に乗ってて、食料輸送をしていたそうです。
艦隊の援護もしていたといいますが、金剛とか榛名とかがみんなやられたから
撤退したといっていました。何でも伊112潜は100人乗れたと言っていましたが、
本当でしょうか?最近戦争に興味を持ち始めたのでまだまだ無知です。
だれか教えてください。
>>205 該当艦はありませんが、甲型と言う潜水艦なら、100名前後乗り込んでいます。
伊12だとすれば、処女航海で海の藻屑ですし。
>>205 私の資料でも該当艦(伊11x)がないんです。が、一応、参考資料までに。
金剛 昭和19年11月21日 台湾沖にて沈没
榛名 昭和19年10月のレイテ沖海戦の帰路損傷、昭和20年 7月28日
江田島沖合いにて大破着底
呂112 ニューギニア方面の作戦に従事、昭和20年 2月11日フィリピン北方にて沈没
なので、呂112(海中T型)かなぁとも思うのですが、定員の確認が取れません。
>207
呂112は38名ですね。
詰め込めば、100名前後は入ったかも知れないですけど。
209 :
厨房:03/03/22 23:56 ID:bsnz/+53
ほお。どうもありがとうございます。
どうやらじいちゃんの記憶はいい加減のようですね。
聞いた時もミッドウェーがどうのといってる最中、台湾でどうのと語りだしたり、
栗田と南雲を混同してたりで。潜水艦のアンテナ?を上げていたら照明弾を
落とされて危なかった事くらいしか話しません。
じいちゃんは志願兵で、十八の時海軍に入ったというそうで、終戦後は警察官として
頑張っていたそうです。
210 :
207:03/03/22 23:57 ID:???
>>208 ありがとうございます。
とすると伊121かな?って昭和18年以降外洋に行っていないようですし。うーん。
祖父の家に行って片付けを手伝ってきたら、ゲートルが出てきた。
これを巻いて出征し、中国戦線を生き抜き、シベリアから帰ってきたのかと思うと
なんとも言えない気持ちになった。
ぜひとも欲しかったのだが、伯母にもっていかれてしまったのが残念だ…
そのうち軍隊手帳あたりが出てきそうな予感。
212 :
名無し三等兵:03/03/23 23:53 ID:gyQ8OdAl
age
213 :
名無し三等兵:03/03/24 09:56 ID:Xrv0fVrH
ジーちゃんではなく、ヒージーちゃんの話だが…
日露戦争に近衛師団の騎兵として参戦。近衛は弱兵と他の部隊から馬鹿にされてた(近衛は少数精鋭、とヒージーちゃんは言ってたが)らしいが、ミシチェンコ騎兵集団を見事撃破。
ヒージーちゃんはこの時に勲章をもらったそうだが、これで人生の運を使い果たしたのか帰国後にあっけなく病気で逝っちまった。
214 :
名無し三等兵:03/03/24 14:47 ID:N1iVLMCi
自分の祖父の知り合いの話だが、
その人は近衛兵をやっていたそうだ。
大正天皇に仕えていたらしいが、その人曰く、
大正天皇はちょっと「アレ」な方で、
書状を丸めて覗いて「おお、よく見える」と言っていたそうだ・・・
>>214 それは明治帝と昭和帝を持ち上げる人達が流したデマ。
現実の大正帝は臣民に交わるのを好む繊細かつ聡明なお人柄で、
国家主義化の推進に伴う「天皇らしさ」を過重に担わされた可哀想な人だった。
じーちゃんではないが、知り合いの話。
その人は陸軍の工兵で、中国の黒龍江省にいたんだって。
んで、現地の住人のとこに水をもらいに行ったりすると
「殺さないでくれ」と言われたりしたってさ。
まぁ、中には酷いヤシもいたってのは本当みたいね。
そんで、現地で道路の整備とかをしてたら、その道路を通って
ロシア軍が進軍してきたそうな。
あやうくシベリア抑留されるとこだったそうだよ。
217 :
215:03/03/24 15:07 ID:???
ちなみに漏れの婆ちゃんも同じようなことを言っていた。
「帝国議会の開会式で開会宣言の紙を丸めてぐる〜っと場内を見回したそうな」
「誰も口には出さんかったけど、みんな知っとった」
まあ漏れも信じてたけどね。
実際神経衰弱だったらしいけど、大正帝を神経衰弱に追いやった周囲の人間達が居たわけで。
おいたわしや。
218 :
名無し三等兵:03/03/25 14:56 ID:gJRlxbuq
じいさんの話(本人の体験ではない) 米空母に魚雷だか爆弾だかをくらわせようとしたけど、
対空砲火にやられて海面に墜落・・・じゃなくてその空母に見事着艦しちゃったそうな。
特攻に失敗して着艦しちゃったのか本気で着艦を狙ったのかは不明。
>>218 空母は爆弾(太平洋戦争の頃の機載のもの)じゃ沈まん。実話なら魚雷だろう。
特攻なら別だが。
うちの母方の爺ちゃんは中国で新月の日に夜間行軍してた時の話
何とか関という所を攻撃する時に街を回り込んで行軍してたら
先に出撃したはずの小隊の足が遅くて追いついたんだそうな。
仕方が無いので部隊全員が前を歩く部隊のすぐ後ろにぴたりと張り付いて歩いていた時
急に先頭の連中が中国語で話し始めたそうです。
そのときやっとじいちゃんたちの部隊は先に出撃した部隊ではなくシナ軍の真後ろを行軍していたのに気づいて
あわてて距離を開けたそうです。
あと新月の日は真っ暗で何も見えないから全員が前の奴の肩に手を置いて進軍していたそうです。
>>220 ウエー、ハッハッハッハ
チャルムスコンパエルンス
イヤー、ハッハッハ
>>219 >空母は爆弾(太平洋戦争の頃の機載のもの)じゃ沈まん。実話なら魚雷だろう。
なんか、この言い方だと「ふつー空母に爆撃なんかしねーyo!」って聞こえるんだけど…
じゃぁ艦爆は何のためにある?ミッドウエーの赤城は?
正規空母なら、数発程度は問題無いでしょう。
改装・戦時型小型空母なら、話は変わってくると思う。
「赤城、加賀、蒼龍、飛龍」は、換装中の爆弾、魚雷ゴロゴロ…
無念ながら、状況が普通では無かった。
今更書くまででもないと…
>>217 アルツハイマーだったみたいですね。
当時からすでに陛下自身に自覚症状があって、
手が震える等があったみたいです。
そこで、書状を読み上げた後に、紙を丸めてリボンで縛った。
が、巻きかたが変で無いか巻いた紙を透かして確認した。
これが真相みたいですね。
ウチのジーちゃんは赤紙をもらったそうだ。特攻隊だったのかどうかはわからないが。
しかし戦地に行く前に終戦を迎え、従軍することはなかった。
その後に結婚し、数年後に俺の母が生まれた。
もし終戦を迎えるのがもっと遅かったら、そして特攻隊としての招集だったとしたら
俺は生まれていなかったかもしれない。運命ってのはわからんもんだなぁ…
>>226 錬度0の奴に大切な飛行機乗らせるはず無い。
本土決戦用に爆弾腹に巻いて、「敵戦車に向かえ!貴様は肉弾兵となるのだ!」って言われて、海岸線に穴掘って体を小さくして居るんだよ。
終戦間際の徴兵者に小銃など与えられなかったし、軍服すら貰えなかった。
228 :
名無し三等兵:03/03/26 13:00 ID:yXzDDwC0
わはは、↑のは岡本喜八映画「肉弾」だな、あれはいい映画だ。俺も特攻隊なんて無理だと思うよ。彼らエリートだもん。一般市民はほんとーにみじめな扱いだよ
229 :
828:03/03/26 22:39 ID:1d/MyGSp
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけのもっともらしさ(偽善)に騙されるな!!)
●とにかく神経質で気が小さい、了見が狭い(臆病、二言目には「世間」(「世間」と言っても、一部のA型を中心とした一部の人間の動向に過ぎない))
●他人に異常に干渉して自分たちの古いシキタリを押し付け、それから少しでも外れる奴に対しては好戦的でファイト満々な態度をとり、かなりキモイ(自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙に気位が高く、自分が馬鹿にされるとカッと怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはたいてい、内面的・実質的に負けていることが多い)
●権力・強者には平身低頭だが、弱者に対しては八つ当たり等していじめる(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる(特に人が見ていない場合))
●あら探しだけは名人級でウザく、とにかく否定的(例え10の長所があっても褒めることをせず、たった1つの短所を見つけては貶す)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格が鬱陶しい(根暗)
●何でも「右へ習え」で、単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質・異文化を理解しようとせず、あるいは理解を示さず、排斥する(差別主義者、狭量、視野が狭い、多数派=正しい と信じて疑わない)
●集団によるいじめのリーダーとなり皆を先導する(陰湿かつ陰険で狡猾)
●他人の悪口・陰口を好むと同時に、自分は他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(自分がそうだから容易に他人を信用できない、ポーズだけで中身を伴っていない、世間体命)
●たとえ友達が多くても、いずれも浅い付き合いでしかなく、心の友達はおらず孤独(心の感度が低く、包容力がなく、冷酷だから)
●頭が硬く融通が利かないためストレスを溜め込みやすく、また短気で、地雷持ちが多い(不合理な馬鹿)
●たとえ後で自分の誤りに気づいても、素直に謝れず強引に筋を通し、こじつけの言い訳ばかりする(もう腹を切るしかない!)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
>>227=228
言っている事は正しいが、そういう言い方もないだろう…。
特別攻撃隊となるも、肉弾となるも十死に零生には変わりはないのだから。
確かに映画の「肉弾」の主人公ははみじめなものだが、あのドラム缶と靖国にある
回天のデキと大して違いはないのではないか?
このスレの本旨がジーちゃんを笑うものではなく、労うものであると思いたい。
232 :
名無し三等兵:03/03/27 01:32 ID:+7nIQVXr
鹿屋の一式陸攻にのっていました。当然マレー海戦にも参加しています。
タイヤ不足の為、ジャングルに不時着した陸攻のタイヤを拾いにいった話が
印象的でした。
234 :
名無し三等兵:03/03/27 04:12 ID:21DdV6nK
うちの死んだじいさんは陸軍の第29歩兵連隊で
満州に行っていたんだけど(昭和一桁の頃)
この隊って何してたのかな?知ってる人います?
あと手元にその頃の写真があるんだけど、珍しい
写真なんで驚いたよ。
先日遠く離れた祖父に会いに行って話ちょっとだけ聞きました。
父と兄と従兄弟が話を聞いているので、ストレートの直球で聞いてみますた。
「ねーじいちゃんは戦争行ったんだよね?赤紙来たの?」
「行った行った。赤紙だ。もう歳だからほとんど覚えてないし忘れた」
「どこ行ったの?」
「ニューギニアニューギニア!
ここんとこを刺されて(と鎖骨の上、首の付け根部分を指す)息がそこから漏れてて
とにかく死ぬとこだった。それで病院に一年おった」
「それって向こうに行ってすぐのこと?」
「はぁ?」 ←耳が遠い
「向 こ う に 行 っ て す ぐ だ っ た の ?」
「違う違う、すぐじゃなかった。けど突撃してきたのに刺されて向こうで病院に1年おった」
「そうなんだー大変だったねぇ…。それって幾つぐらいの時?」
「36! 今から…60年まえじゃ」
「それって家の父ちゃんの生まれる前?」
「そう」
「じゃあじいちゃんが帰ってこなかったら父ちゃんも私も生まれてないねぇ」
「生まれてなかっただろうなあ。
──兵隊行ったときの写真とかがたくさんあったけど、焼かれてしまった」
「全部?勿体ないねえ、いかんねぇ」
「勿体ない。いかんいかん」
その後じいちゃん相撲に夢中になっちゃったから、それ以上何も聞けませんでした。
じいちゃん96歳。「もう生きてる内には会えないから元気でやれや」っていわれました。
まだまだ元気だが洒落にならんですよ、じいちゃん…。
じいさんじゃなくて父なんですけど、当時学生だった父は、
学徒動員で兵器工場にいたらしいです。
母が言うには、父は学歴的には超エリートでしかも理系
(造兵学科、今の機械工学科)だったから大事にされ、
戦地にかりだされなかったとか。
で、その工場ではレーダーとかを作っていたんだけど、
表向きは缶詰工場になっていたそうです。
場所は安全な地方で、父達はイモ食ってのほほんと過ごしてたそうです。
終戦後、要領のいい連中が工場にあった真空管とかを
全部持っていってしまったって。父は生真面目で要領悪いんで、
そういう真似ができなかったそうな。
238 :
名無し三等兵:03/03/27 22:47 ID:U4hijYuy
じいさん(明治39年生まれ)
八百屋の主人だったが、徴用受けて山形県から浦賀ドックに連れて行かれ青函連絡船(W級車両渡船、後の青函丸型連絡船)の建造
に携わっていたそうだ。最後に建造した船の試運転が8月15日だったが翌日に延期され、試運転したら沿岸で「米軍が来た!」と大騒ぎになったらしいと
語っていました。
うちの元同級生のじいちゃん零戦の搭乗員だった。
とはいっても訓練中に終戦になって実戦には出てないらしいが
でうちのじいちゃんは名古屋で航空隊の世話をしてたらしい。
タバコの火をつけるのに走りまわらされたそうだ
東海震災の時は兵隊に呼び出されて外に出たときに起きて難を逃れたんだって
名古屋に陸軍の航空隊なんかあったかな?清洲の第五戦隊のこと?
240 :
名無し三等兵:03/03/27 23:32 ID:U/D13v53
うちの爺さんは中国戦線では16師団で南京に、
除隊後再召集を受けたあとはミンダナオのブツアン
(従軍慰安婦の記録のあるところ)にいたんだよなあ。
色々、話を聞いたら興味深かろうと思うんだが、
思い出すのが嫌なことが随分あるそうだ。
南京正面の追撃戦の話は凄い迫力だったなあ。
242 :
名無し三等兵:03/03/28 00:35 ID:bUS/8p6H
俺がガキの頃に氏んじゃったけど
家族で遊びに逝くとニワトリをサクっとシメて鶏鍋にしてくれたり、
音を立てずに歩くやり方を教わったり、(俺にはマスターできず。)
地震で停電になった時、暗闇の中で空き缶をハサミで切って燭台を
作ってくれたときは「じーちゃんすげー!」と素直に感動してますた。
んで、漏れは軍事に関しては素人なんだが、じーちゃんは南の島のほうで
味方が撤退した後の島に数人で残って兵舎に火つけたり飛行場燃やしたりする
部隊にいたらしい。
そんな漫画みたいな任務ってほんとにあったの?
つーかそんな部隊にほんとにあっても生きては帰れないだろ普通。
>242
陸軍中野学校の残置諜報員と言うケースもあるでつ。
小野田少尉などもそれにあたります。
ただ、敗戦後も活動して米兵やら英兵などに、殺されるケースも多々
あったようです。
遠い親戚の人が特攻隊に任命されたそうです。土下座してまでなんとか免れたらしい
それで今日の私がいるみたいらしいです。人生って判らないもんですね。
>>236 たぶん覚えてますよ うちの祖父はなくなりましたが
それぐらい忘れないくらいの戦争体験らしいです。とうとう語ってくれませんでした。
かなり階級的にも上だったみたいです。
あまりにつらすぎて思い出すことさえ苦痛な人もいるらしいです。
245 :
名無し三等兵:03/03/28 02:47 ID:IeX4D6uk
235
>>240>>ありがとう
出身は福島、戦争に行ったあとは東京にある
軍事工場を転々としたみたい戦時中何度か
召集されたみたいだけど上官が手放さなかったようだ
当時の写真を見ると軍服の左胸に勲章がたくさん
ぶらさがってた、でもその勲章は子供たちが
戦争ごっこをしてなくしてしまったようだ。
あ〜もったいない。
祖母が昔、動員されてた話はちらっと聞いてたが
実は風船爆弾を作っていたらしい。
臭いが酷いので、女学生達には甚だ不評だったそうな。
247 :
名無し三等兵:03/03/28 07:00 ID:7x191mWE
中国戦線で機関銃の役で、まっさきに攻撃されたらしい。
負傷して、砂漠の中を病院まで歩いて帰った。
なぜか中国人の首が並べられた写真があって怖かった。
原爆の日には広島に居たんだが、トイレでに逝ってたらなぜか助かった。
>244
レスありがとうございます。確かに極限まで異常な状態に置かれるわけですから
そうそう忘れない物なのでしょうね。
語りたくないこと…そうなのかもしれないですけど、そうでないかもしれないです。
従兄弟と兄と、別の従姉妹も知ってるみたいだし、勿論息子である父も知ってる
辺りから考えると、話すのが面倒な面もあるのかもしれませんね。
じいちゃん耳が遠いし、喋るのに言葉が出てこないんだって言ってましたから。
戦争大好きで今度のイラク攻撃も、口では「戦争はいかんいかん」と言いながらも
新聞見て「戦争が始まった!」と顔が輝いていたからなあ…。
なんにしても、じいちゃんが元気で生きてる間にもう一回行って聞いてみるのが一番なんでしょうね。
頑固さんだから言いたくなかったら言ってくれないでしょうし。
249 :
神奈:03/03/28 19:41 ID:vDPYEnvp
はじめまして。
自分は鳶職で、今日のお茶の時に、お客さんのお爺さんが、
シベリアに抑留されていた経験がある、という話しを聞きました。
以前から少し興味を持っていた自分は、所属していた部隊を聞いた所、
陸軍の35連隊、220師団、東部隊で、本当はもう少し長い名前があったらしいですが、ちょっと思い出せないようです。
旭川に集まってから出発したらしいです。
どんな部隊で、何処から何処まで行ったのか。
何もかも、自分は解らないので、ご存知の方はお願いいたします。
じいちゃんは硫黄島で玉砕。ちいさい頃、知覧に運ばれて来たての零戦から、かなりパーツをぱくった。
俺の爺ちゃん、陸軍航空隊で整備兵をしてたらしい。
ちょっと信じ難いんだけど終戦間際まで特攻の事を知らなかったそうで、沖縄戦が激化し
ていた頃、何も知らないままに九州の知覧(沖縄特攻の基地だった場所)に行く飛行機の
整備をやってたらしい。
毎日のように「コイツも知覧行きだ」と上官に言われて、「沖縄の航空戦も厳しい事にな
って来てるんだなぁ」って実感したって言ってた。
何しろ、エンジンオイルがダダ漏れ状態の97戦やら、「ホントに沖縄まで行けるのか?」
って疑問になるような複葉機とかでも「これも知覧に行く」と言われたそうな。
で、終戦間際になって真実を知って、「自分はあのパイロット達を死なす為に整備してた
んか!?」とショックを受けて職場を放棄したら、あっさりと憲兵にとっ捕まって重営巣
(字、合ってる?)に放りこまれた次の日、警報無しの空襲があって格納庫に居た人は全
滅、自分だけ生き残ったんだって。
・・・それが無ければ俺も生まれて無かった、って事だな。(((((((;゚д゚)))))))
252 :
:03/03/28 21:02 ID:???
営倉
営巣は巣を営んで夫婦の営みを(ry
>>249 第220師団に第35連隊という部隊は存在しません。
そもそも第220師団自体存在しません。
第35師団歩兵第220連隊というのがありこれは通称号「東」なので
恐らくこれのことだと思うのですが、この部隊の派遣先は西部ニューギニア。
しかも甲府編成。
結論としては、その爺さんがニューギニアとシベリアと間違えてるか、
>>249がその爺さんにからかわれたと思われ
学徒出陣組いないなぁ。
じいさんではないけど、もうたいぶ前に亡くなった親戚のじいさんが、南方で暗号解読をしてたらしい。
法科の学生だったらしいが、出陣前にテストがあったらしくて、数学か?幾何の点数が良かったので、
暗号解読の仕事となったらしい。
軍隊時代の話しをほとんどしなかったが、死ぬ前にポロッと話していた。
子供の時に聞いた話だから、うる覚えで間違っている部分があるかもしれない。スマソ
255 :
249:03/03/29 19:57 ID:CoQFUEvo
>253
レスありがとうございます。
師団と連隊は、自分が聞き違えたのかもしれません。
でも、通称の〔東〕まで合っているとは驚きです。
でも、南方ではシベリアに行く訳無いですものね。
そのお爺さんには、また会う機会があると思いますので、また聞いてみます。
ありがとうございました。
256 :
名無し三等兵:03/03/30 00:04 ID:18FGqOvM
俺の爺ちゃんは、アリューシャン列島のアッツ島海戦から従軍し、その後赤道直下の
メレオン島で医療兵をやり終戦を迎えた。メレオン島は、部隊の1割しか生きて帰国
できないくらい激しい戦いだったらしい。そんな爺ちゃんは戦後、農協の組合長をやり、
1995年に92歳で他界した。
メレヨン島での死因は戦病死(餓死)では…。
漏れのじいちゃんは高射砲部隊だったらしいでつ。
シンガポール戦の後山下将軍に観閲されたっていってますた。
洩れの父方のじ〜ちゃんは、海軍で日露戦争に征った。
今でも実家にその当時の写真が残ってるはず。ただ、どの艦かは
だれも知らないん。どの艦に誰が(どの部隊)がのってたか調べる
方法ってないっすかね?
ちなみに、じ〜ちゃんの本籍は今の神戸市兵庫区。
ガキのころ子供会の面倒を見てくれた近所の爺様。
実家に帰ったとき10年ぶりぐらいに会ったんで色々と聞いてみた。
開戦時は長門でボイラーを見ていたそうで、山本長官の姿を見かけることもあったという。
しばらくしてシンガポールで降りたが、船が来なくて一ヶ月ぐらいブラブラしてとのこと。やがて「となん丸っちゅう8ノットしか出ない捕鯨船?」が来て内地へ。
で、配属されたのが小笠原の父島。「特攻艇に乗ることになった」というから震洋隊か?
硫黄島が陥落して「次は父島か」という空気になり、爺様は最後の時のために隠匿しておいた酒とタバコを皆に配ったという。どうも主計のような事をやっていたようだ。
結局米軍は沖縄に向かい、上陸戦にはならなかったが、それでも敵機の攻撃は激しかったそうで、ある夕方に爺様が海岸でドラム缶風呂に入っていたら敵機が
飛来して、目の前に停泊していた何隻かの大発を掃射。爺様は逃げることもできず風呂に入りっぱなしだったが、幸い無傷だったという。
「敵機の銃火がえらく綺麗だった」と話してくれた。
で、あるとき爺様の隊に米軍の捕虜がつれてこられた。
撃墜されたパイロットで、各隊を引き回されていたようだ。
当然敵愾心があるものだから、爺様は痛い目にあわせてやろうと
バリカンを片手に「髪を刈ってやる」と言った。するとまだ若い捕虜は
まったく素直に「サンキュー」と礼を言ったものだから
爺様も毒気を抜かれてしまって、ふつーに髪を刈ってやり、その晩は
出来る範囲で親切にもてなしたとのこと。
「でも、そいつが次に回された隊は、学校出のピリピリした連中ばかりで
すぐ斬られちまってな。
そいつは斬られるときも『サンキュー』って頭下げて、たいしたもんだった
らしいな。
そんで、その肉を食ったっていうんで、斬った奴と、的場隊長と、それに
司令官も、なんにも知らねえのに責任とらされて、死刑になっちまった」
重いなぁ
263 :
名無し三等兵:03/04/03 01:23 ID:hvGDSv7D
あけ
266 :
名無し三等兵:03/04/03 14:53 ID:XLUUnzyZ
うちのじーさんは陸軍中佐だったらしい。
ジーさんの実家になんか賞状みたいなんが額に入ってた。
今度話しを聞きに行ってくるか。元気でいろよジーちゃん。
俺の爺さん、提督の世話係だったらしい。
俗に言う軍属って奴なのかな?
へんな銅メダルみたいなの貰ったらしいが、15年前に死んで、詳しいことも解らず。
惜しいことした
藻前等の爺さんはいいなあ・・。
漏れの爺さんなんて、配属されたのが支那で、
戦闘すらたいしてやらないうちに、露助に連れてかれましたヽ(`Д´)ノ。
爺さんの戦争はそこからさ・・・。10年近く帰ってこれなかったのだからな。
シベリアから帰ってきた爺さん歯が全部無くなってた。
爺さんが死ぬ前によくいってた。南部にいって玉砕したほうが良かった・・って。
露助め((;゚Д゚)ガクガクブルブル。
ウエー、の刑務所で訳の解らん思想を叩き込まれるよりかはマシかもな
184の祖父は漏れの祖父と同じ船に乗ってたのか。
世代を超えて出会えるなんてなんだか嬉しいYo!
271 :
名無し三等兵:03/04/03 19:51 ID:wah0JV00
随分前に死んだ祖父は「中支」で、
鉄道を直していたらしいです。
昼間に人足としてやとった現地人たちが、
夜にゲリラとしてやってきて、
次の朝また、けろっとして働きにくるそうです。
私のなかでは中国の兵隊は、
どこからか、突然パラパラと鉄砲を撃ってきて、
から傘とかヤカンを背負って遠くの方を逃げてゆく、
そんなイメージです。
272 :
名無し三等兵:03/04/03 19:53 ID:wah0JV00
↑あ、ゲリラとして、昼間直したやつを
壊しにやってくるんです。
質問です。オマイらのじーちゃんは何人いるんですか?20人くらい?
>>271 ふと思ったのだが、この行為はゲリラ行為ではなくて、雇用喪失を防ぐための
行為だったのではないだろうか。
というのはやっぱり穿ちすぎ?
275 :
名無し三等兵:03/04/04 01:09 ID:41rIGM98
↑
はい
276 :
名無し三等兵:03/04/04 01:35 ID:BQ2zh9wb
天皇近衛隊について詳しいサイトを教えて欲しいんですが、
出来れば名前も載っていると良いんですが、出版されている本などでも構いません。
祖父が言うには、家の家系は天皇近衛隊にみんな入隊したんだと言うんです。
事実が知りたいんです。
277 :
名無し三等兵:03/04/04 01:50 ID:uyQoPkhA
うちの婆ちゃんは2597/8/16にヒトラーユーゲントが来日した際、
横浜港での歓迎式典か何かで「独逸青少年歓迎の歌」を歌ったそうです。
確か2584生まれ。
>>274 そんな感じだろうね。
一般人にしてみれば、イデオロギーなんてどうでも良い訳で。
日本兵に逆らえば食べていけないので働く、
夜は指リーダーが「破壊しに行くぞ」って、
参加しないと今度は中国人社会でハブくらうから参加する。
本音は「どうでもいいよ」って所だろうね。
うちのひいじいちゃんは飛行機製造用の機械を作ってたようだけど、
戦争の道具を作るのに使われるのは嫌だって引退しちゃった。
でその息子はうちのじいちゃんだけど上海行って何事も無く遊んで帰ってきた。
>>277 「西なる盟友〜」って歌ったのか。それは素晴らしい。
因みに家の曾爺さんは、軍歌を作曲してます。
余り有名ではありませんが、地元の公民館には石碑が建ってます。
>>281 その歌を作詞したのは北原白秋だったりする。
うちのじいさんが満州から
本土に帰ってくるとき(時期はちとわからんが)
知り合いの中国人に、
「ソ連が攻めてきたらかくまってやるから、いつでも逃げて来い」
といわれたそうだ。
あと、内蒙古の人間はいい奴等ばかりだと、事あるたびに言っている。
うちのジーさんは、インドネシアで終戦後、日本軍開放作戦(たしかゲリラに乗っ取られた)
に参加した言って、ゲリラを数名撃ち殺して(たぶん嘘)が中の虐殺された日本兵を見て
涙を流したといっていた、その後地元住民から優遇され、帰国後すぐ仕事につけた
ラッキーマンだったそのくせ終戦後零戦とか飛燕のパーツを持って帰った・・
>>283 ウチのじいさんもまったく同じ事言ってた。
現地人を満人(まんじん)って言ってたよ。
ロシアは露助。
うちの父方の祖父は国鉄・母方の祖父は電電公社職員だったので
どちらも戦争には出なかった。
母方の大叔父はビルマあたりの南方で、船団4隻中2つが沈められ
たが運良く生き残った2つの方に乗ってたらしい。
うちの爺さん、香港で捕虜にしたイギリスかカナダの女性兵士を
手篭めにした。「乳がでかかった、乳がでかかった。」といつも言っていた。
俺はその血筋をついでりっぱなオッパイ星人だ。スケベ爺さんに乾杯。
>>289 それって捕虜虐待にあたるC級戦犯行為なのでは・・・とか一瞬思ったが
合意の上なら単なるじいちゃんの「男の甲斐性」ってやつだな。
>>290 手篭めてのは強姦のことだろ、普通。
戦時だし今更問題だとも思わないけどさ。
なんでもかんでも美化すんなよ。
香港なら一大拠点だし、兵士はともかく軍属としてならいたんじゃなかろうか
ただ、手篭めじゃあんまり誉められたことじゃないな…。
294 :
名無し三等兵:03/04/08 01:28 ID:axJp3xge
僕のお父さんは将軍様なんだ。
南京が落ちたとき、戦争が終わると思ったそうだ。
イラク戦争の報道を見ていたばあさん。昭和元年生まれ。
「女性や子供が犠牲に〜」
とお決まりのセリフを聞いて
「戦争なんだから、当たり前じゃない」
総力戦経験した世代は違うな・・・
父の兄が駆逐艦に乗っていてレイテ沖の海戦で死んだそうだ。
陸軍の何かの学校に行きたかったが軍刀などをそろえる金が
家にないので断念した、陸軍に行ってれば戦死することもなかった
ろうという愚痴を聞いたことがある(ということは主計学校かな)。
自分の兄がどうやって死んだか気になっていたのだろう、父は
レイテ沖の海戦に関する本をいろいろ買い集めていた。しかし所詮
駆逐艦などはほとんど一般の図書の戦記には出てこない。つい最近
インターネットで検索したら詳しい沈没の様子が出てきたが、父も
もうこの世にはいない。
墓石や位牌を見ると、父の兄の戒名は“院”“居士”になっている。
お寺も戦死した仏に敬意をはらってくれたんだと思う。こういうのを
「軍国主義」と短絡的に考えるのが左翼なんだろうな。
>>298 >>「軍国主義」と短絡的に考えるのが左翼なんだろうな。
そんな奴は只の馬鹿です。他国では左翼といえども英霊を非難するものはおりません。
>>299 日教組教徒の担任に学び、共産シンパの両親に育てられ、
ネットに氾濫する情報に心揺らいでも「クソ与党より遥かにマシ」と今でも
共産推薦議員に投票する。
こんな折れでも先祖の英霊は素直に尊敬するよ。
「国を守る」心根にイデオロギーの左右など関係なし。
300がいい事言った!
302 :
名無し三等兵:03/04/09 01:16 ID:msbeB0u8
惡しき國家体制を糾し、より良き國を作らんとする心、それが真の愛國心だ!
でも日本共産党、、うーん、、
確かに、
>>300の言うとおり。特に共産系とか経済的イデオロギーについては
そうだな。昔のソ連を見てもそれはわかる。
だが、今の日本では「国が滅びようとも、反戦。いわゆる英霊は犬死」という
政治的イデオロギーがあるんだな。それを左翼と呼称するからややこしい。
もちろん、共産系が治安維持法以来の恨みから、そちらに傾くことも理解は
できるつもりだが。
政党に関する批判・論議はここではやらない方が・・・。
私自身、共産党なんてだいっ嫌いだし、言いたい事山程あるけどさ。(w
305 :
名無し三等兵:03/04/10 00:37 ID:KiN7Xfdn
>>288 電電公社職員って・・・・・
当時は逓信省だろ?
以前陸軍なのに潜水艦乗ったじいちゃんの話をしたものですけど、
また話を聞いてきました
将校が死ぬと身包み全部剥がれるとか、
空襲で火の海から抜け出すときに、
風呂に入って身体を濡らしてから脱出したそうですが
出るころには身体が完全に乾いてしまったと申してました
18年に石川から徴兵され、赤坂に居たそうです
同じクラスからも何人も徴兵されて死んだといってました
「日本は軍隊を持たないといったのに
もしなんかが攻めてきたときになんもないと都合が悪いので
いつの間にか戦車やら戦闘機やら軍艦やら
まったくどうなってるんだ」
という話を聞いたときになんとなく
、反戦平和を叫ぶ人の気持ちが少しだけ理解できたような気がしました
戦争体験はしていませんが、従軍体験ということでご勘弁を
たった今、昭和一桁生まれの父と飲んでいた。
昭和19年春に田舎から上京、航空工学校に入学。
デフレで、昨日3銭の鉛筆が今日は5銭、次の日8銭と。
そんでもって連日空襲警報で、気付けば東京大空襲っと。
今のイラク空爆から首都陥落もあっというまだけど、
当時の東京も空襲が始まってから三ヶ月くらいで焼け野原だ、って。
高台に逃げて見下ろした街は真っ赤だったとか。
学校も本部棟残し焼けて、(隣の小学校が消火が半端だったからだっていってる)
頼っていた兄(新婚)も戦争にもってかれ、しかたなく田舎戻り終戦。
戦争に行かずにすんだけどなあ……と、その先の感情は俺には読みとれませんでした。
戦後、大学行ってシェークスピアやって、英語教師になって。
でも、ここで言うような組合とか頭でっかちの同僚とかは軽蔑してたようす。
広い世界を!己が道を行け!とばかりな教育方針にはホント感謝。
俺自身は小さい人間だけどね。(ちょっと酔っぱらってるな、スマン)
そんな親父、今は俳句と旅が趣味の爺さんです。
308 :
名無し三等兵:03/04/10 01:19 ID:paPhZx/v
>307
インフレ、だよ
309 :
名無し三等兵:03/04/10 01:21 ID:EFTJ4pLt
俺の祖父はインパール作戦に参加して帰ってきた
衛生兵だったんだけど
かなりひどかったみたいで、イギリス軍の戦闘機?の機銃で(7,7ミリ?)
すぐ隣の戦友が弾にあたって死んだとか
(うつ伏せで動かないのでひっくりかえしたら内蔵がぼろっと落ちたと
いってた、背中は無傷に見えたらしいが・・衝撃波?)
撤退のときはそこら中、日本兵の腐乱死体があって臭かったとか言ってた。
自分のいた部隊(軍医のいる救護部隊)
も終戦の時には半分もいなかったらしい
>308
失礼!指摘ありがと!
>>306 スレ違いなので一言だけ。「反戦平和」もいいでしょう。でも、「平和」を
望んで、戦に赴いた人々もいるはずです。
これまで、書物等を呼んだ限り「好戦」な人は少ないと思っています。
312 :
厨房:03/04/10 23:52 ID:cRa5gx0u
俺のじいちゃんは>>205でも話した通り
潜水艦乗組員だったのですが、ひいじいちゃんは乃木将軍の伝令やってた
らしい・・・。意外に戦争した家系のようだ・・・。
>>309 人が銃で撃たれるとそんなもんらしいです。
ルソン戦記だったかな?
似たような事が書いてありました。
入り口は穴が開いているかないか解らない位だけど、
抜けた所は大穴が開いていたと書いてありました。
私も、海外で実銃を撃った経験では、コーラ缶でもカボチャ(w でも、
射入口は窪んで小さく、射出口は弾けていましたね。
法医学では常識らしいですが。詳しい方の説明キボンヌ。
弾は回転してるわけので
身体に命中>貫通するまでに筋肉やらなんやらを
巻き込んで弾丸が回転>射出口はグロ
316 :
309:03/04/12 00:56 ID:???
機関銃は機関砲ほどではないけど以外にパワーがあるんですね
317 :
名無し三等兵:03/04/13 01:52 ID:2zCEW1kx
爺さんの話ではないので恐縮だが、オレの叔父さんが前に空自にいてさ、
叔父さんは地上勤務だったんだけど、ある夜スクランブルでF-4が2機
で出たんだって。で、事故でスクランブルで出たF-4は2機とも帰らず。
パイロットとナビの4人は殉職したそうだ。
パイロットは空自の花形だけど、1度飛ぶと帰ってこられるかどうかって
言ってたな。
平時でもパイロットは命がけなんだね。
318 :
名無し三等兵:03/04/13 01:54 ID:RZoSB0ma
F4が東シナ海で行方不明になって、遺体が数ヶ月後に漂着した事件?
>>318 その時、墜落したのは1機だけ。2機墜落のケースはいつあったっけ?
320 :
名無し三等兵:03/04/13 02:13 ID:2zCEW1kx
317だけど318、319スマソ。
事故の詳しい内容までは聞いてなかったんよ。
ただ叔父さんが宮崎方面の基地で勤務してた時の話なんだけど。
前スレにて工兵で中国戦線行き、しかし丙種合格ゆえか
体を壊して内地帰還、実戦には出ていない…という祖父の話をした者ですが、
先日、墓参りに田舎に行って祖父に話を聞いたところどうも話が違う。
偵察に出て次々に戦友が撃たれ、結局自分一人だけ生き残った話、
味方の死体が浮いている河の「ほとりで、死体を脇に除けながら
水を汲んだ話…
ばあちゃんはボケてないので真偽を確認したところ、どうやら今回の
話が真実らしく、正月のときは酒が入ってていたので記憶違いが
あったのだろうとのこと。記憶がちゃんとしているうちに聞いておくべきだった…。
本人曰く、「中国は観光で一度は行ってみたいが、戦地だけは今でも
もう二度と行きたくない。」だそうです。
」
>>321 取材、お疲れさんです。
なるへそ、そうやって情報が歪んでいくんですね、やっぱり。
このスレに出て来るつじつまが合わなくてネタと追求された中にも、
そういうのがかなり混じっているでしょうね。
323 :
名無し三等兵:03/04/14 03:31 ID:pT3E53j5
うちの父方のじいさん、19年に39歳の高齢で徴兵。
なぜか海軍へ。歳のためか、飯炊き、洗濯などの雑用。
船には殆ど乗らなかったらしい。平成まで生きていたが
そのころの俺は軍事に興味がなかったため、詳しい
ことは聞かずじまい。
母方、パラオで戦死。詳細は不明。
324 :
名無し三等兵:03/04/14 05:11 ID:VDDEqrU2
前つとめていた会社のおじいちゃん、俺のおやじと同い年のことがわかり(大正13年生)、
けっこう可愛がってもらった。対戦前に満鉄につとめていたという。
「(終戦のとき)露助が攻めてきてみんな逃げ散らかした」「おうほうのていでやっとプサンににげてきた」
と語ってくれました。
325 :
名無し三等兵:03/04/14 09:41 ID:TXUY3aRt
うちの爺は目が悪かったので、開戦当初は赤紙が来なかった。しかし終戦
頃になって、多少の弱者にも赤紙が来るようになった。うちの爺も例外なく
召集され、駐屯地に向かった。しかし、乗り継ぎの駅で玉音放送が流れ、
基礎訓練も受けることなく終戦を迎えた。
昨日5年ぶりに母方の爺さんと会って、酒飲んだ。
今まで全然しらなんだが、ノモンハン事件の時に暗号員として参戦していた
らしい。なぜかうちの爺さんロシア語できるな、と思っていたらそんな経験
してたのか。とにかくソ連の機甲師団はすごかったと何度も酔っ払っていってた。
草原で隠れるところもなく弾がビュンビュン飛んできて生きた心地がしなかったと。
当時の陣地の様子なんか詳細に覚えていて、丘の名前、渓谷の名前、川の名前
も交えて1時間ぐらいボソボソと話しとった。
その爺さんの父親、漏れのひい爺さんは203高地というのはしっとったが、
なんかものすごいもんやな。身内が誰でも知ってる激戦地に立っとったちゅうのは。
父方祖父
戦艦山城が棺桶になりますた。
瀬戸内海では、きっと毎晩バッターされてたと思われ
母方祖父
軍艦建造に従事って聞いたけど、四国にある極小規模の造船所では、
せいぜい艦載水雷艇程度と思われ
終戦間際に、グラマンから機銃掃射されたと言ってますた。
他、B29が気まぐれに機銃掃射した時、飯場が燃えたとか言ってますた。
328 :
名無し三等兵:03/04/14 17:26 ID:GWk4AyUx
母方の爺様は車の免許を持っていたので、大陸でトラックを運転していたそうです。満州の原野には、子供の死体が転がっていたそうです。トラックを停車させておく時、前輪をまっすぐにして止めておかないと、上官に怒鳴らたそうです。
うちの祖父は陸軍伍長で、ミャンマ−・ビルマに上陸したそうです。
軽機関銃を撃つ係りで、草むらに隠れていたら、敵兵が撃ってきて、
弾が鉄帽の端の方に当たり鉄棒がぐるぐる回転したそうです。
で、そのまま銃弾が後ろの人の(おそらく部下)のど仏に当たって、その方は戦死されてそうです。
生存率が三分の一以下のなか、よく生き残ったなと感心するばかりです。
330 :
名無し三等兵:03/04/14 21:00 ID:GntOXR2G
>>323 みたいに徴兵で海軍に行くなんて事
ありえんの?怪しいな。
うちの母方の祖父の兄弟(たしか兄だったと思います)が
知り合いの紹介か何かで10代のときに海軍に入れてもらい軍艦に乗船していたらしいのですが
何回目の出航なのかは聞いていませんが出航してすぐに撃沈されてしまって
2日3日かけて泳いで帰ってきたといっていました。
その軍艦の名前は尋ねたことがないのですがそのように泳いで2日3日の距離で撃沈された
軍艦というのはあるのでしょうか?
333 :
名無し三等兵:03/04/15 23:06 ID:0hGYWYW0
俺のオヤジは当時小学生だったが、日本軍機がB-29に突っ込んで1機は爆発、
その近くのもう1機がフワフワ墜落したのを目撃した話を時々語ってくれた。
空襲の翌日、墜落したB-29は陣の原あたり落ちた、とウワサを聞いたオヤジは
自転車に三角乗りして見に行った。機体はグジャグジャに溶けていて回りは黒山
の人だかり、憲兵が警備していたそうだ。
でっ、以下のサイトの「北九州 空の戦い」というページ
ttp://www.yamamotokozo.com/ 第30話
...
離脱して、もう一度攻撃をやり直すか、それとも体当たりしてでも敵機の八幡進入
を阻止するか。
決意は一瞬である。
後部座席の高木兵長に「行くぞ!」と声をかけ、基地指揮所に
「野辺、体当たり!折尾上空!」と無線電話で叫ぶように報告した。
そしてB29の一番機を目指して正面から一直線に突っ込んだ。
...
俺の育った街は戦場でした。泣きますた(T_T)
上官からそいつのナニを舐めろと言われたそうだ。
従わず凹られたらしい。
335 :
名無し三等兵:03/04/16 01:38 ID:7kihMAlz
↑324です
会社の爺さんの話、続き。
そのころ従軍慰安婦モンダイがマスコミで大きく扱われていて、
(平成6年頃)
「日本だけやない、よそのくにどこでもやっとたんや(九州弁)」
なんで?他の国のことわかるの?と思ったが、だまっていた。
満州(大連)から逃げ散らかしてきたあと、福岡でトラックの運転手を
やっとったそうだ。結局軍隊は経験しなかったのかもね。そういう話しなかったから。
昨年80になったはずだけどどうしてるかな
」
>>331 >その軍艦の名前は尋ねたことがないのですがそのように泳いで2日3日の距離で撃沈された
>軍艦というのはあるのでしょうか?
いっぱいあるでしょ。
信濃なんかも近海で撃沈されたからそうだと言えますし。
どこの港から出港と解らないとちょっと難しいかなと思います。
337 :
名無し三等兵:03/04/16 05:21 ID:bt31HEzo
あんまり詳しくないんで恐縮ですが・・・
うちの爺ちゃんは(もう死んだ)ソ連の方にいってたらしい。
ある日倉庫に肉の缶詰が一杯あるのを見つけて
お腹ペコペコだったので誘惑に勝てず同僚と一緒に盗み食いしてたんだって。
ある時上官に見つかってしまって 怒られる と思ったんだけど
何故か「もうするな」って言われただけで御咎め無しだったんだって。
戦争も終わりに近づいた頃 帰還命令がでて輸送船3隻で出発したんだけど
2隻はソ連の魚雷に沈められてしまって戦友が一杯死んだっていってたなぁ。
福井に帰ってきたら街は焼け焦げで 日が暮れてきたからバラックの門を叩いて
一晩泊めて欲しいって頼んだら 出てきた婆さまが「お前等のせいでこんなんなってしもたんじゃ!!」
って凄い剣幕で怒って追い返されたって言ってた。
爺ちゃんの弟さんはビルマで戦死した。
オイラの曾ばあちゃん(爺ちゃんのおっかあ)は 弟さんの戦死通知が来る前日に
弟さんが帰ってくる夢みたんだって。
家の前に松ノ木があるんだけど それに弟さんがのぼって「いまかえったぞー」
って叫んでる夢だったって。(夢だから行動が意味不明w)
書いてたら爺ちゃんの事が思い出されて涙がでてきた。
338 :
331:03/04/16 19:17 ID:???
>>336 いっぱいあるんですか・・・
どこの港から出たのかとかは聞いたことないので
こんどあったときにいろいろ聞いてみます
ありがとうございました
339 :
山崎渉:03/04/17 10:53 ID:???
(^^)
hoshu
>>337 >弟さんが帰ってくる夢みたんだって。
これと似たような話はよく聞きますよね。
母親ってわかるのかな。
342 :
名無し三等兵:03/04/18 20:18 ID:zqgKH82n
343 :
名無し三等兵:03/04/18 23:19 ID:wNzXA2Rv
おいらの爺様は、陸軍の上等兵で、中国の司令部の門番をやっていたらしい。
シベリアへ抑留されることも無く、終戦から数年後、舞鶴へ帰国。
ゲートルの中に、しこたま金平糖を隠し持ってきたらしい。
関係ないけど、会社の上司(某一部上場企業の部長)は、あの南雲中将の親戚らしい。
344 :
名無し三等兵:03/04/19 23:29 ID:6hLwrxog
うちのじい様のはなし
中国軍との戦闘で、河の土手を駆け上がったところ、ずっこけて大コケして
しまい重い背嚢に引きづられ土手下へ、、、
勇猛に土手上に出たの戦友たちは、土手向こうにいた機関銃で瞬殺されたそうです。ほんの一瞬違いで、生死を分けた戦いでした。
その後、左足大腿部貫通銃創で、内地で終戦を迎えたようです。
345 :
名無し三等兵:03/04/20 00:03 ID:VVxtHZ6+
漏れの爺さんは江田島でグラマンに追っかけまわされて
終戦を迎えたそうでつ。
『わしは勇敢じゃったから空襲ん時いつも防空壕の入り口んとこにおった』
と自慢していたもののホントはただみんなより足が遅かっただけという罠。
俺の爺ちゃんは二人とも戦争に行ってないんだよね。
だから祖父から実戦の話を聞ける人がちょと羨ましい。
>>345 生きてりゃそれが幸せ。
本当にいっちゃって、戦死して話がきけないなんて事もあるよ。
南方だって聞いているけど、
いまだに伯父さんが何処で亡くなったか解らないです。
347 :
山崎渉:03/04/20 05:15 ID:???
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
348 :
名無し三等兵:03/04/23 21:03 ID:cgKoTadD
age なきゃ消える
>>330 おれのじいさんも大正元年生まれだが、昭和19年に海軍に徴兵されている。
もっとも、九州で陸上勤務だがね。
あのなあのな徴兵って本籍地の陸軍聯隊か海軍の海兵団の選択が出来たねん。
351 :
名無し三等兵:03/04/23 22:12 ID:k5lKQ21E
まったくのスレ違いだがこないだテレビでアイディア商品の女社長を紹介してたんだが
そのおばあさんの名前が南雲さんで会社の名前がアカギだったんだがなんか関係がるのだろうか?
>>349 若いころ、現役で海軍にいたのではないですか。
>>353 それはないと思う。
病気がちだったみたいだし。
生前、「オレみたいなもんが兵隊にとられるようでは
日本も負けるはずだ。」
が口グセでしたから。
355 :
名無し三等兵:03/04/23 23:24 ID:lOGh0YVL
ウチのじーさんの墓って寺で一番大きい。後ろには中国で戦死した
状況が劇画チックな文章で刻まれてる。でもな…27才で戦没ってのも欝。
祖父は消防にいました。だから焼死体はた〜くさん見ました。
>>352 多分、初めの頃だけだと思うけど、
圧倒的に陸軍の方に人員が必要だから。
しかし、350さんの言いたいのは、たまにある
「徴兵なのに海軍!?それは無いよ」と言う人の為だと思う。
358 :
名無し三等兵:03/04/24 15:38 ID:kPKfLDmi
うちの祖母の弟が社会主義者の医者と友人だから「お前怪しい」と役場の人に言われた。
その後それが原因なのか知らないが満州で演習中に自殺した。
遺書には違うといった旨の事が書かれていて役場の人間を責めないで欲しいとか書いてあったみたいだ。
真相はなんだったのか。
うちのおじいさん近衛兵だったの自慢してたけど階級低いならそんなにたいした事じゃないですよね?
あとおじいさんの兄弟が潜水艦に乗ってて戦死したらしいのですが、当時は
常に潜ってるわけではなさそうなので、普通の船みたいに海上で沈められたのか気になってます。
ビルマでマラリアかかって死んだってのはインパールだろうか。
うちの祖母の友人の話。今日風邪で休んだので、聞けた。聞いたことそのままかくね。
その人は終戦時19歳で夫の働いている、朝鮮に1945年の7月に新潟からの船で行ったそうだ。
朝鮮の京城に向かうため平壌にまず向かったが、電車が1日に1本しか走らなかったり、乗り換えが多くて、
大変だったが、駅に一人しかいない日本人の駅長さんに聞いていって、なんとかいけたらしい。
それから京城に向かおうとしたが、戦況が悪くなって、いけなくなりそこで終戦を迎えた。
終戦後2日ぐらいしたらロスケがもうき始めて、それで終戦を知ったそうだ。それから朝鮮人が神社とかを焼いて
暴動みたいなのがおきていて、日本人は憲兵の人に先導されて一箇所に集められたそうだ。
その時のロスケの横暴も酷くなっていて家とか防空壕から出て行くときはいくらかお金や貴重品を少しおいていかないと
ヤバかったそうだ。あと助けてくれた憲兵の人や男の人はみんなシベリア送りにされたそうだ。ここまできて
日本に帰ろうとしたが南北分断が始まっていて鉄道ではもう南にいけなくてしばらく平壌ちかくで衣類をぬっていてお金を
ためていたそうだ。食べ物とかは朝鮮人からの闇市でなんとか買えたらしい。それから帰るような機会があって帰ろう
とした時、朝鮮人やロスケの追い剥ぎがあって、危険なところはロスケのジープ?に乗せてもらって難を逃れたそうで、
どうしても歩かなきゃいけないときはお金や貴重品をおいていけば助かったらしい。持ってないひとは体ごともっていかれたんだそうで。
それでも船の近くまで行った時は、もう靴と服しかないほど取られたそうだ。そこで船になんとかのれたらしい、
船の中で出産しそうな人がいてそれを手伝っていて赤ん坊が生まれたが、その人がへその緒を結ぶのを忘れていて、
その子は出血多量で死んでしまったそうだ。そのことはいまでも後悔している。それから日本に帰って、
夫に会えたが朝鮮で財産を全て失ったのでものすごく大変だったらしく語ってくれなかった。
ここまで
多少間違っているかもしれないけどそのまま書いたつもり。
スレ違い、板違いだったらスマソ
家の爺さんではないが親戚筋で戦死した人がいる。
その人の墓には「昭和20年8月20日ビルマで戦死」とある。
何で終戦後に戦死したのかよくわからない。
厨房のころ聞いた話なので詳しく覚えとらんが
爺さんではなく大叔父(婆さんの兄弟)は、海軍の機関科少尉だったそうな。
ってなわけで持ち場は水面下。確か「衣笠」だったと思う。
ソロモン沖海戦で浸水が止まらないが何も命令が出ないので部下を伝令に出したところ
「艦橋がありません」
と帰ってきて報告したそうな。
独自判断で部下たちとともに脱出したらしい。
何時間も泳いだそうだが、「明け方だったからよかった。夜だったら・・・」と言ってた。
ここまでは本当らしいが、
「泳いでるとサメが来るのが見えるんだ。足でけっぱりながら救出を待った」
ってのはジョークなんだろなぁ。
>>360 いろいろと考えられるけど、終戦を知らなくてまだ戦っていて戦死、
地元ゲリラに襲われて戦死、弱ってきて戦病死など。
はたまた、終戦をその時期に知って自決も考えられます。
戦病死の可能性が一番高いかな。
>>361 >「泳いでるとサメが来るのが見えるんだ。足でけっぱりながら救出を待った」
>ってのはジョークなんだろなぁ。
これって、サメが出たときのセオリーです。
意外にサメって、ゆっくり噛んでくるし、反撃を予測していないから
これで撃退できる事が多いそうだとダイバーの友人が言っていました。
ソイツも蹴った事は無いけどね。
おれのバアさんの弟も徴兵で海軍。
しかもニューギニアで戦病死??というんだけど。
だけど、仏壇の上の写真はまぎれもなくセーラー服。
親戚のみんながそういうんだからウソでもないみたい。
徴兵事務は陸軍の管轄だし徴兵されて陸軍送りというのが
ほとんどだったけど、志願兵だけで員数が確保できなければ徴兵分で補充。
ちなみに家の死んだ祖父は徴兵で佐世保。そしてすぐに終戦。
仕事で行った家での話。
農家の爺さん達が茶飲み話をしていてその内容が、
隼の機銃とプロペラの回転数の関係とクランクの形状云々。
内地勤務の航空整備だったようだ。
この人達が帝都を守っていたんだね…と、なんとなく実感。
俺のばーちゃんの弟は山城勤務
そして今スリガオ海峡に眠っている
遺影は一等水兵の制服
「可愛い弟だったのに・・・」と言ってたばーちゃんは
昨年夏 天に召された
ヲイ!!
>>327のお祖父さんよ!!
俺の大伯父と仲良くしてくれ!!
そして、俺が大好きだったばーちゃんが山城に来た時は、
やさしく迎えてくれ・・・
頼みます・・・
368 :
364:03/04/25 00:38 ID:???
>>365 ありがとう。
でも、そうすると徴兵で海軍行きとなった人は、
陸軍で不要と言うことなのでしょうか。
大戦末期はどうでもよかったのかもしれませんが。
>>364 海軍陸戦隊もあれば、基地設営・防衛部隊などもあるから、特段、変に
思われることはないですよ。(合掌
うん、陸軍には悪いけど、戦前・戦中(戦後もか)は海軍の方が
ステータスは高かったと思う。
特に女性には。
だけど、当時、陸軍にいた人に言わせると、
「海軍はカッコつけばかりで国のことを本当に考えてたのは陸軍だ」
って言うんだけどね。
あくまで、ぼくの知ってる人の範囲での話しだから誤解しないでね。
ジーちゃんでも戦争体験でもないけど、今日知り合いが高砂族のクヲーターだって知った。
372 :
365:03/04/25 01:23 ID:???
>>368 それは当時の関係者に聞かないと解らない模様。
誤解を恐れずに言うと、ウチのハイカラばあさんは、
「ええ人が海軍で、どうでもいいのが陸軍」が主張だった。
けど、結婚したのは陸軍下士官。
それでも亡くなるまで海軍マンセーだったなぁ。
母方の祖父(故人)は支那事変のおり大陸で参戦。軍曹だったとか。
戦闘中銃弾に倒れる戦友はみな母親の名を呼びながら死んでいったそうです。
約一名、天皇陛下万歳といった人もいたそうです。
そのとき内地で生まれた私の母は戦時色も豊かに「勇子」と名付けられました。
375 :
名無し三等兵:03/04/25 13:55 ID:/EZxmWsy
俺の母方ジーさんは陸士卒で恩賜の銀時計もらいました。
中国の関東軍に5年間いたそうですが、終戦は大本営で迎えたそうです。
本人の成績と身体的障害(軽い色覚異常)で前線に赴いたことはあまりないようです(聞く限り)
最近聞いたエピソード
「中国のある町で夜中に部下5人で移動してる最中、道に迷ったんだよ。
目の前にものすごい大きな湖があったんだが、地図には載っていない・・・・
そこで近くの中国人を叩きおこして、聞いてみたんだ。そしたらそいつは
『あれは湖じゃなくて、水溜りです。昨日雨降ったでしょ』と言ったんだ。
大陸ってのはスケールが違うな。がははは』
実家に陸軍伍長だった爺様のアルバムが2冊残ってる。
練兵場や大陸で撮った着飾った支那人達の写真だけで構成されてたと思う。
これって、退役記念アルバムかな?個人で撮った写真とは思えんし。
当人は親父が高校の時に、親父も7年くらい前に逝っちゃった。
>>373 うちもまったくおんなじ。
おれが高校生のとき、「女と遊んでもええが、病気には
気をつけよ。」とか言っていたハイカラ?ばあさん。
結局は陸軍下士官(つまりじいさん)と結婚したんだが、
「じいさんと見合いする前、軍艦に乗っとった海軍さん
(階級不明)とちょこっとだけつきあっとったことがある。
海軍さんやぞ、海軍。じいさんには内緒やけどな。」
が自慢の種だった。
シベリアに抑留されたのですがミシンが踏めてアコーディオンが弾けたので重宝されたそうです。
>>378 カメラ屋ハケーン
撤退したんじゃなかったのかよ?
380 :
名無し三等兵:03/04/25 21:58 ID:ioedNZp+
僕の父方の祖父は宮崎県都城出身の機関銃部隊。上等兵。
中国戦線で二度負傷して無事(?)帰還。
二人一組のバディシステム(そうはいわなかった
だろうが)だったそうだが、機関銃主は狙われるので
相方が重症を負うことが多く、貫通重症後、
「水をくれーー・・・」の懇願に負けて
何度も水を飲ませてやったそうだ。
祖父曰く
「水を飲ませたらみんなスーっと息を引き取った」
何人祖父が死に水を取ってやったか数知れないらしい・・・
そう言っていた祖父も去年85歳で息を引き取った。
381 :
名無し三等兵:03/04/25 22:55 ID:RiLgbBIa
徴兵されても、身体が弱く、みそっかす扱いだったじーちゃんは、
部隊が出征したときも、使い物にならないと言われて内地に残された。
もし、出征していれば、じーちゃんの部隊はインパールに行ったそうだから、
多分、俺もこの世にいなかっただろう。
内地の駐屯地で、弾薬庫警備をやっていて終戦の詔勅を聞いたじーちゃんは、
戦争が終わった、と、銃も弾も放り出して家に帰り、
終戦の日の晩飯は、家で食っていたそうだ。
そんなじーちゃんだが、戦後の商売には勇士だった、売って売って、商売で戦って、
老後の楽しみにあちこち海外旅行ができるぐらいの貯えを作り、
幸せだった、と言い残して、出入国のハンコがいっぱいのパスポートを、
棺桶に入れてこの世を去った。
あの世の入国管理官は、あのパスポートにはびっくりしているだろう。
382 :
名無し三等兵:03/04/25 23:07 ID:mWyhBl3x
俺のじじいは第160特殊作戦航空連隊
にいますた
384 :
名無し三等兵:03/04/27 10:13 ID:X3nhndSO
うちのじーちゃんは、伊勢に乗ってた。
兵曹長で戦死。
俺のじいちゃんは特攻隊だったらしい。
でも特攻する前日に空港で敵の機銃掃射にあって、仲間がほとんど死傷しちゃって、
待機しているうちに終戦になったってさ。
大戦中、
群馬に住んでいたじいさんは、
中島飛行機工場を低高度で空襲に来たB−29に対して、
防空隊が体当たり攻撃を敢行する瞬間を目撃したらしい。
じいさんによれば、
航空燃料を積載した貨物列車が太田駅に到着すると、
その日、その時間にピタリと合わせてB-29が飛んできたという。
どうやら、
チョソのスパイが情報を
387 :
386:03/04/27 12:43 ID:???
(続き)発信していたらしい。
388 :
鮫牙:03/04/27 12:52 ID:???
俺の爺さんは虎頭配備の国境守備隊だった。
でも何処其処?激戦地だったの?って感じ。
390 :
名無し三等兵:03/04/27 14:53 ID:XtoJvX8N
私の爺ちゃんは中国戦線の補給部隊にいました。
人手が足りず、現地の中国人苦力を雇ってましたが、証拠隠滅の為、苦力全員焼き殺したそうです。
現在の爺ちゃんの好々爺ぶりを見るとマジで怖い。
北方戦線は、太平洋戦線に比べて省みられることが少ないかも。
以下、樺太の真岡電話局(栃木じゃないよ)の「九人の乙女の碑」。既出スマソ
「戦いは終わった それから五日 昭和二十年八月二十日 ソ連軍が樺太真岡に
上陸を開始しようとした その時突如日本軍との間に戦いが始まった 戦火と化し
た真岡の町 その中で交換台に向った九人の乙女らは 死を以って己の職場を
守った 窓越しに見る砲弾の炸裂 刻々迫る身の危険 今はこれまでと死の交換
台に向かい 「皆さんこれが最後ですさようなら さようなら」の言葉を残して静か
に青酸カリをのみ 夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争はふたたび
くりかえすまじ 平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む」
↑ あ、誤爆(スレ違い)スマソ
393 :
名無し三等兵:03/04/27 15:40 ID:Kmihh0Yb
うちの祖父は台湾の南の方にいたそうだが、
何でも特殊部隊?みたいなものだったらしく(本人は殆ど特攻隊と同じようなもので、敵が来たら真っ先に死ぬ役だと言っていた)
いわゆる一等給与を貰っていたそうだ。
んでサイパン・カダルガナルにあと少しで行くところだったとか、飛行機に乗る予定だったとか、戦車の乗り心地は最悪だとか、
現地の人は幼児でさえも皆日本語で話すので結局言葉は覚えられなかったとか、
そういう繋がりのあるのか無いのか微妙な話をされた。
あと笑ったのは高砂族?に話しかけると日本語で「おいコラ!」と返ってきたという話で、
なんでも現地の警官がよく「おい、コラ!」と呼び止めるので、それが挨拶だと思ってしまい、
日本語でなにか話しかけると「おいコラ!」と帰ってくるようになってしまったそうだ。
戦後の話になると日本の指導者は大馬鹿だったとか、蒋介石のお陰で自分たちは帰ってくることが出来たとか、
ヨーロッパは道のつくり一つにも先見性があるとか、台湾は今でも好きだが朝鮮は嫌いだとか、
そういう話をされた。
>>390 おじい様のお話にケチをつけるわけではありませんが。
「わしはチャンを〜人やった」というようなお話はきちんと
裏をとったほうがよいと思います。
けっこう伝聞や法螺が多いようなので。
自分が聞いた話では雇用した苦力はそれ以降のこともあり、
殺害するようなことはなかったようです。
>>338 終戦時に、虎頭にいたのなら… 心から乙カレーと言いたい。
396 :
鮫牙:03/04/27 16:18 ID:???
389サンクス。一応虎頭がどういう場所だったかは、爺さんが
持っていた資料のお陰で知っています。
395その後、シベリアに抑留されたんだけどね。
悪運の強い爺さんを持ってよかったです。
田んぼで農作業してる時グラマンに追いかけられて機関銃で撃たれたが
なんとか川に飛び込んでかわしたんだって。
その後機関銃の空弾を役場に届けたらしい。
今はその空弾を届けずに家宝にしときゃ良かったって悔やんでるよ。
>>393 >あと笑ったのは高砂族?に話しかけると
>日本語で「おいコラ!」と返ってきたという話で、
ああ、これ、どっかで聞いた話だけど、
台湾での話だったんですね。
>>394 >自分が聞いた話では雇用した苦力はそれ以降のこともあり、
>殺害するようなことはなかったようです。
これは中国戦線だと、大抵、遠くにつれて来てから
お金を渡して開放したみたいですね。
近くで開放すると、クーリーが日本軍協力者として
罰せられる恐れがあったからとどこかの戦争体験の本で読みました。
また、開放したクーリーの扱いが酷いと、共産軍に逃げ込んで
仕返しをしてもらうなんて話もあったみたいですね。
400 :
394:03/04/28 13:31 ID:???
>>399 漏れのじいさんは下士官でいわゆる蝶ちょトンボの輜重関係だったそうです。日華事変に従軍、
太平洋戦争時は民間で土方の親方をやっていたそうです。もうとっくになくなりましたが。
>>399 兵站関係で苦力を使役する場合、人入れの親方がいて、それなりの待遇を受けていたそうです。
怠ける苦力をひっぱたく位ならいいけど、わざと負傷させたり、殺したりしようものなら,さあ大変。
たちまち日常業務に支障が出るので気をつかったそうです。
平和教育教材に苦力虐殺のような話があったのでたずねたところ、
「そんなことしてみろ、噂が広まって翌日から人が集まらなくなる」と鼻で笑ってました。
中国大陸に居た漏れのじーちゃんに聞いたら、陣地構築に使った中国人を完成後に防諜ために始末する事が
本当にあったってさ。
理由をほかの戦友に聞いたら彼らは便衣隊(容疑者?)だったからだそうで。
「捕虜ならともかくゲリラだからしょうがねーだろ」と言っていました。
>>402 それはもともと死刑予定の人間をクーリーにつかっていたんだろうね。
一般人を集めて、殺すと、たしかに後が怖い。
404 :
ななし:03/04/29 18:05 ID:MHbW0whS
あげ
>>401 あれは無茶苦茶言われていたからね。
誰が見たって、戦意高揚の為の捏造記事だって解るのに、
それを書いた毎日新聞記者は保身の為に、捏造と証言せず、
朝日新聞と本多勝一がキャンペーン張って叩きまくって、
遺族の娘さんはそれが原因で離婚、一家離散したそうです。
マスコミが一般人の一生を不幸にした例です。
遺族の方はしばらく前まで、「もう関わりたくない、ほっておいてくれ」
と言っていたのですが、それ以後も捏造で叩きまくっていたので、
遺族の方は仕方なく提訴したみたいですね。
この死刑になった少尉さんも、戦後、日本に帰ってきて、
駐在さんから逮捕されるよと情報をリークされたにも関わらず、
「んなもん、まともに取る人間がいない」と判断して
逃げなかった様子ですね。
とりあえず、本多勝一はこれで記者生命をただれるべきだと思います。
このスレを読んで思ったのですが…。
一部の好戦論者は別にして、うちらの(ひぃ)ジーちゃんは、往きたくって往った訳でも、
殺したくて殺した訳でも、逝きたくって逝った訳でもない…
でも、それが必要だった「時代」だったのかな?と。今回のイラク戦のアメリカ軍の兵士
インタビューを見ていてそう思いました。「イラクの民主化のため」と語る兵士と「八紘一宇」
を信じたひぃジーちゃんとどこが違うのかと。
そういう気持ちがあるからこそ、
じいちゃん達は自分たちの経験を語るんだろうね。
前スレだったけど、じいちゃんが戦争の話をした時、
子供心に「じいちゃんは人殺ししたの?」と聞いて
怒られたと言う話がありました。
あと、アメリカ人も口ではかっこいい事を言っているけど、
絶対に望んで殺し合いをしたいとは思わないと思う。
このスレの体験談も仕方なく戦争をしている気がしている。
ああ、上手くいえないけど、こんな感じ。
だから、このスレは好きだ。
408 :
名無し三等兵:03/05/03 14:19 ID:/UAsMYvw
age
誤解を恐れずに言えば。ジーちゃんには今でも誇り高き皇軍でいて欲しい。
410 :
名無し三等兵:03/05/04 01:54 ID:75LAPPqz
身内でもなんでもないんですが、中学のときの社会の先生が
大和に乗っていたそうです。この先生もあまり話をしてくれ
なかったのですが、吉田少尉の書いた「戦艦大和の最後」の
世界そのままの体験をしたそうです。ホント酷いものだった
そうで・・。本人は駆逐艦冬月(だったかな?)に助けられ
て、命からがら戻ってきたとか。冬月の艦内も地獄絵図だっ
たようです。
おおお、貴重な話を・・・。
412 :
PEN2nd:03/05/04 06:07 ID:62by5Ry8
俺のじいちゃんは今でもすげぇ元気で毎日プール行ったりしてますが
海軍で水偵の操縦員をしていたらしいです。
予科練で教育を受けたみたいで
七つボタンの制服着てる写真がありました。
軍刀を持ってる写真もあって、今でも軍刀はあるのかと聞いたら
その軍刀は写真用に上官に借りたものだったらしいですw
アルバムには他にも航空機の前で撮った写真がたくさんあって
多いので20人くらいが写ってましたが写真一杯に写った航空機はかなり大きく見えました。
単発のレシプロ機はもっと小さいイメージがあったのですがすごく大きかったです。
「零式水偵にはドラム缶6本分のガソリンが入った。」
と言ってましたが、それにもびっくりしました。
小型の水偵によくそんなにつめたものだと感心します。
あと、パイロットは飛行時に「航空弁当」なるものを持たされるそうで
巻き寿司が多かったといっていました。具とか聞いとけばよかった。
水偵乗りだと聞いたときは、巡洋艦以上に乗ったことがあるのかと思いましたが
ずっと基地航空隊配属だったらしいです。
任務はおもに夜間偵察だったらしく、計器だけを見て飛ぶことも出来たと言ってました。
南洋の島の航空隊にいたときなどは水偵はかなり雑用に使われていたらしいです。
人員輸送とか、機関銃のパーツ運び(操縦席の中にパーツ詰め込んだらしい)
までやらされたとか・・・
基地にはゼロ戦の木製の増槽がたくさんあったけど、出撃のたびにガバガバ使うから
すぐなくなるって言ってました。燃料もすごく使ったらしいです。
413 :
PEN2nd:03/05/04 06:07 ID:62by5Ry8
その後内地の航空隊に配属されたらしいのですが、機種転換訓練とかいいうのを受け
(確か紫電改)に乗ったこともあるそうです。結局水偵乗りのままだったらしいのですが
機種転換訓練といってもいい加減なもので、マニュアル渡されて数日後
いきなり上官に「乗れ」とかいわれたらしいです。どうも戦争後期に入ると
教える人間もあまりいなかったらしく、教える側の上官もほとんど素人だったようです。
じいちゃんはこの無茶言う上官に腹が立ったといっておりました。
(いきなり水偵から戦闘機じゃねぇ・・・)
しかし、一応着陸も出来るようになったらしいのですが、水偵は着水の時転覆しないように
機首をかなり上げるらしいのですが、戦闘機でもそれをやってしまい怒られたそうです。
本人は「水偵なら満点の着水なんだがなぁ」みたいに言ってました。
陸奥が沈んだ時に、何でか知らないけど水偵の新人パイロットが結構乗り込んでいたらしく
(ナゼ?聞き違いかなぁ)水偵のパイロットが足りなくなり、じいちゃんも、
もう数少ない夜間飛行が出来るパイロットということで、教官として新人に水偵の乗り方を教えたそうです。
ほとんどが自分より年上だったそうでしたが、あまりやりにくさは無かったそうです。
終戦間際には高知航空隊にいたらしいですが、その前にいた基地(どこだろ?忘れたが有名なところ)
から来たと言う事で一目置かれていたそうです。
終戦があと1週間遅かったら自分も特攻に逝っていただろうと語っていました。
今日から帰省で田舎に帰るのでまたじいちゃんの話を聞きたいと思います。
あ、そういえばじいちゃんの部屋に昔あったプラモデルは今思うと一式陸攻・・・
紫電改と水偵のプラモでも買って帰ったら?で一緒に作るとか
あ、換気には注意せんといかんけど
415 :
名無し三等兵:03/05/04 07:22 ID:Y3fIGTVe
や、やばい・・・。
俺のじーちゃんはフィリピンに行ってたんだけど、なぜか詳しい事は
じーちゃんは悲しい顔して話してくれなかった。親に聞いてもなぜか話してくれない。
仕方なく、自力で調べていくと、大変な事がわかった・・・。(汗)
俺のじーちゃんは補充兵として、第十六師団に入った。恐らく三十三連隊。
フィリピンのレイテ島に到着後、しばらくして米軍上陸。
ほとんどの日本兵が死んだが、実は俺のじーちゃんは兄貴と行動していて、
(ちょうど日本兵がカンギポット山へ集まりだす頃ね)なんとじーちゃんの兄は
現地のフィリピンゲリラに射殺される。当然じーちゃんは逆上するわな。
当時24歳だったじーちゃんはその後フィリピンゲリラ、または非ゲリラ?も
(ゲリラと一般人の見分けはつかない。)多数殺したようである。
具体的に何人、何十人殺したかは僕はわからないが、じーちゃんの事は
フィリピンでは今も語り継がれるほどの有名人らしい・・・。
他に住民を人質にとってゲリラのリーダーを射殺した例があり、
その指揮をとった「キャプテン・ワタナベ」も有名だが、俺のじーちゃんも
同じくらい有名らしい・・・。本名までバレてる様子。
どなたか、フィリピンで兄を殺され、その仇をとった日本兵(俺のじーちゃん)の
話をご存知ないですか?
フィリピンの人には申し訳ないが、じーちゃんの秘密を知ってしまった俺と
しては、このことは歴史の闇に葬ります。
じーちゃんも兄の仇を取ったんだから、殺された人はかわいそうだけど
じーちゃんが悪いとは思いません。
続きます。
416 :
名無し三等兵:03/05/04 07:40 ID:Y3fIGTVe
続き
俺はじーちゃんの内孫で、じーちゃんが生きて帰って来なかったら
生まれてないわけで、じーちゃんが戦争で生き抜くためにやったことは
全て「よし」とするしかありません。
また俺にはフィリピン人の知り合いが6人くらいいて、
必ず聞かれるんです。俺の名字とじーちゃんの名字同じだから、
「○○さん、あなたのおじいちゃんは戦争いった?」
「戦争で何処にいったの?」
「おじいちゃんは、お兄さんはいた?」
「お兄さんはどうしたの?死んだの?何で?」
「おじいさんのフルネームは?」
かなり真剣な表情でフィリピンの人に質問されます。
戦後60年経ってもフィリピン人に恨まれてるのかと思うとこれは
相当ヤバイ事したかと・・・。(汗)当然俺はしらばっくれますが。
俺のじーちゃん、戦争で何があったのかと調べたら、
わが一族の秘密に突き当たってしまいました。(涙)この話は俺の
親の兄弟間のみでの秘密とされています。フィリピン人の報復を恐れての
事だと思います。
続く
417 :
名無し三等兵:03/05/04 07:55 ID:Y3fIGTVe
これを読んでる人でフィリピン人の知り合いがいる人は話してあげて
ください。
兄を殺され、逆上して暴れた日本兵は戦後捕虜として日本に帰り、
たくさんの子供や孫に囲まれて1991年に亡くなりました。
ただし戦後50年、つまり死ぬまでずっと、毎日のように
夜中にうなされていました。 戦争中の事が夢に出てくるそうです。
昼間もよく頭を抱えてなにか悩んでいる様子でした。
また必ず毎日、南方に向かって手を合わせ、線香をあげていました。
これは戦死した仲間や兄、そしてフィリピン人に拝んでいたんだと
思います。
戦争は悲劇です。一発の弾丸が悲劇を生み、その悲劇がさらに大きな
悲劇を生んだのだと思います。
日本兵の孫として、今後の日本とフィリピンの友好、発展を
心より希望します。
終わり
漏れの曾じいちゃんの話だけど…
漏れの曾じいちゃんは満州で国境警備隊をやってたんだ。
家族(曾ばあちゃんや、じいちゃん)も一緒に満州で暮らしてた。
1942年ごろかな?日本が次第に劣勢になると、危険だと思って
曾じいちゃんは家族を内地へ帰したんだ。
で、結局ソ連が侵攻してその後は行方不明になってしまい、現在に至る。
国境警備隊であって軍隊ではないから恩給もでなかったそうです。
ちなみに爺ちゃんは航空隊に志願したんだけど、懸垂が出来なくて
落とされたそうです。で、その時受かった隣の人はガ島でお亡くなり
になったそうで…なんとも。
419 :
名無し三等兵:03/05/04 11:23 ID:TU9r/+Lo
うちの曾おじいちゃんは日露戦争で遼東半島に上陸直後戦病死しちゃったそうです。
そのため、その娘のおばあちゃんはお父さんの顔を知りません。
で、そのおばちゃんも関西に縁故疎開している娘(つまり私の母)に会いに東海道線で浜松通過している時に
浜松大空襲に遭遇して、列車の下に隠れていて危うく、グラマンの機銃掃射の餌食に...
でも、なんとか助かりましたが...
その。おばあちゃんも亡くなってずいぶんたちますが、さすがに明治の女の人は強いと思います。
(スペイン風邪とか関東大震災でも生き残ってるんだから...)
ちなみに昭和生まれの疎開していた母は、東京大空襲を東京の東のはずれで見ていて、
「上から上がる花火みたいで綺麗だった」と、昭和生まれらしい事をのたまっていますが...
420 :
名無し三等兵:03/05/04 17:28 ID:SiRYDhT0
俺の爺さんは千葉の九十九里で陣地構築などに参加したらしい
九十九里方面は第147師団で、北海道において編成されたものであり、九十九里への移動はかなりの日数を要し、主力の房総半島進出は5月の下旬となった。
さらに、その装備はかなり劣悪であり、編成人員、馬匹はもちろん、兵器にいたっては特にひどく、銃剣は旭川市電のレ−ルをはずし、国鉄旭川工場で作成したものを使用していたそうである。
小銃は七人に一銃程度、水筒も竹製といったありさまで、食器も竹製だったそうだ
しかも、軍靴は全員に無く、草鞋を履く兵もいたと聞いた
行軍で歩調をを取ると、足音ではなく、砂埃が上がったと言う
それを見て、「こんなみすぼらしい軍隊は、始めた見た。日本はもうだめだ」と思ったと聞いた
付近の学校などを兵舎としたらしいが、寝具なども無く、近所の住民が持っていったそうだ
しかし、食糧不足は深刻で、乾パンとコンペイ糖ぐらいで塹壕を掘っていたので、付近の住人の家に行っては、食い物をねだったそうだ
421 :
420:03/05/04 17:35 ID:SiRYDhT0
今日はいい話が読めた。
ありがとう。
423 :
420:03/05/05 00:54 ID:B/CX9b0l
九十九里に面する松尾町では、組長会議で、義勇隊組織についての協議があり、国民義勇隊員の名簿が作成され結成されている。
7月には、軍の命令により、村民総出で山中にタコ穴堀りが行われた。
家族の数だけタコ穴を掘り、親が死んでも子が残れるように、親子は同じ穴に入らないよう言い渡されたという。
そして、「10歳の子供が親を離れていったいどうして生きられるかと思い、その時から青酸カリを常に携帯するようになったと聞いた。
425 :
名無し三等兵:03/05/05 03:00 ID:Kda3f+d5
age
426 :
名無し三等兵:03/05/07 03:05 ID:sRWJiqhn
保守AGE
427 :
名無し三等兵:03/05/07 03:14 ID:QZm6KddX
428 :
394:03/05/07 17:16 ID:???
>>415 ゲリラは同胞を巻き添えにすること覚悟で戦ったんですから。現地人もそれをを覚悟で
荷担するわけですから。
もちろん、そんなことないと思いますが、決して心の重荷になさいませんように。
輜重部隊も抗日ゲリラには悩まされたようです。
とくに前線部隊が暴れすぎると、現地人の恨みを買い、そのとばっちりはあとから進む
じいさんたちにきたようで。
ですから例の「三光作戦」などとんでもない、匪賊上がりの国府軍のやったことが
日本軍に押し付けられたんだというのはじいさんの主張です。
429 :
394:03/05/07 17:20 ID:???
あと、共産ゲリラの所業もひどかったようで。
コツコツと努力して土地を広げた農民や、穏健で貧農思いだった地主もひとっくくりに人民裁判・・・
解放区?が解放されたあとは人間関係ずたずたで報復もあり、大変だったとのこと。
一方的に共産軍が成人の軍隊だったとはいえないようです。
長文スマソ。
430 :
440:03/05/07 18:17 ID:J9ECwa7i
20年程前の友人にK君っていうのがいた。ある冬にK君の家に遊びにいくこと
になったんだが、漏れの着てたボマージャケットを指さして、「家に入る時は
それ脱いでね」と何度も念を押された。「お婆さんが進駐軍を思い出す」との
理由だった。お婆さんから聞いた話では、K君のお祖父さんは満州警察の元幹
部。引き上げ後、戦犯の容疑がかかりお寺の屋根裏等に潜伏してたのこと。
お婆さんも何度も変装しながら食料等を差し入れたらしい。
引き上げ船の船尾から押収してたルーブル紙幣をバラまいたが、あれだけキレ
イな光景は今だかつて見たことない、とも語っていたな。
431 :
名無し三等兵:03/05/08 00:24 ID:fmIGA6lu
>>420って俺の爺さんの話もパクってるね
爺さんのが千葉の九十九里でって話を前レス1あたりでしたぞ
そこの町史に終戦時の話が出てるから、捜して見る。
432 :
報国尽忠ノ志:03/05/08 01:23 ID:INiKAH9c
私の祖父は南方戦線へ行く途中、乗船していた輸送船が米潜水艦からの雷撃を受け沈没
沈没地点から島影が見えたらしいが、
泳げない祖父は海の真ん中で輸送船の残骸に約2日間しがみ付いて漂流していた所、
救助されました。
輸送船沈没時に水練達者の方は島影に向かって泳いで行ったのですが、ほぼ全員近くが
途中力尽きて亡くなられたそうです。
泳ぎに自信が無く輸送船の残骸にしがみ付いていた方も途中力尽き、遂には海へと沈み亡くなられた方が多くおられたそうです。
また、その海域は鮫が多く生息していた為、救援が来るまでは緊張の連続だったそうです。
(幸い鮫とは遭遇しなかったとの事)
救助された祖父はその後、台湾へ送られ、そのままビルマへと進軍して重慶への補給路遮断の為ビルマ国境近くまで、度々爆撃に合いながらも進軍。
しかしある日突然爆撃が無くなり、祖父と一緒に進軍されていた故・三木先生が祖父に
「これは戦争が終わったな・・・」と語られました。
事実その時日本はポツダム宣言を受諾して終戦となっていましたが、作戦中止命令がまだ届いていなかった為、その後2〜3日行軍を続けました。
国境付近で上空より英航空機による終戦の通達が部隊に届き、
今度は水と食料の欠乏の中行軍してきた道を引き返す事になりました。
来た道を何も援助も無く引き返す・・・・
それは正に地獄の行軍だったそうです。
皆衰弱しきった中で引き返す行軍・・・
勿論前述のように食料は一切ありません。
433 :
報国尽忠ノ志:03/05/08 01:23 ID:INiKAH9c
行軍中、一人が倒れ、又一人が倒れと・・・
後備行軍していた祖父と故・三木先生が目にしたのは、
道の真ん中で亡くなられている多くの戦友の屍でした。
祖父も三木先生も衰弱し切っていましたが三木先生が祖父に
「せめて道の横に眠らせてあげよう。」と仰られました。
祖父は「自分も、先生も衰弱しきっている上まだ目的地までは遠いです。」
と三木先生に言いましたが三木先生は
「同邦が道端で屍を晒すなんて、あまりにも惨めじゃないか。
せめて道の端で彼等を供養しよう。」
三木先生の御言葉に深く感銘を受け祖父も決心して
一人一人道端へ移して拝みながら目的地へと進み奇跡的にも、
亡くなった英霊の御加護もあり生きて辿り付けたそうです。
戦後、三木先生は某大学の教授になられ、
祖父も三木先生を慕い、三木先生が亡くなるまで親交を続けました。
※蛇足
祖父が大阪の実家に帰ってきた時には土地、財産は某半島人が
略奪していたそうです。
434 :
名無し三等兵:03/05/10 02:25 ID:pHObZwOy
重複スレ立ててしまったものです.
おれの祖父は終戦時の階級は軍曹だったらしい.
「戦争初期は北支那方面軍に所属してて,けっこう楽しかった.
それから数年してフィリピンに回されて,全く雰囲気が違って,
それはひどいもんだった.足に弾があたって内地に帰れたことが
うれしかった」らしい.
詳しいことは後ほど
435 :
宣伝です。すいません。:03/05/10 12:01 ID:fafM8IUj
436 :
名無し三等兵:03/05/10 14:11 ID:GUgnyRiG
漏れのじーさんは満州で飛行場の通信兵やってたそうです
仕事は通信というより、調子の悪い無線の修理ばっかり
下っ端のころは上官に殴られたりもしたそうですがフケ弁で報復
軍曹になってからは飯も風呂も部下が用意してるれるし
飛行場の周りは安全で、訓練扱いにして鉄砲と馬を借りて
ノラ(現地の鹿らしい)狩りをしたり、
夜こっそり農家の畑にスイカをもらいにいったりと
貧乏農家の三男坊のじーさんとしては軍隊は天国で
部下と一緒に結構楽しくやっていたそうです
そんなじーさんも一回だけやばかったことがあったらしく
残飯をあげる代わりに雑用をやってるれる現地の子供と仲がよくなり
せがまれたので鉄砲を貸してやったら暴発したらしく、
あの時事故で子供が死んでたら軍法会議で死刑になっていたに違いないと
いってました
あと、じーさん曰く軍隊で旨くやっていくにはいんすう合わせがポイント
他の班に備品を盗まれないように注意することと、仲間が備品を壊したり
無くしたりしたら、どっからか調達してくると尊敬されるらしい
437 :
名無し三等兵:03/05/10 16:51 ID:koAaT/p3
うちの曽祖父は朝鮮にいたと生前に言っていた。(おそらく半島の北部)
そして曽祖父の兄は陸軍中尉であり、
とある名家の養子になっていて、家が凄い豪華であったそうな。
祖母は地元が岐阜なもんで、岐阜市や各務ヶ原が夜真っ赤に燃え上がっていた
と話してくれた。
>>436 >あと、じーさん曰く軍隊で旨くやっていくにはいんすう合わせがポイント
>他の班に備品を盗まれないように注意することと、仲間が備品を壊したり
>無くしたりしたら、どっからか調達してくると尊敬されるらしい
これは皆言うね。
軍隊では何か盗んでくるのが習慣になっていて、
このスレだったかな?どこかで読んだけど、
復員列車の中で、一般人のいりもしない
飯ごうか何かを癖で盗んできて、
後で「ああ、かわいそうなことをした」と思ったとどこかにありました。
これ位、軍隊の中では盗難が当たり前だったみたいですね。
439 :
名無し三等兵:03/05/10 23:20 ID:pR1mbeH9
まぁ、貧乏な国だからねぇ。
440 :
名無し三等兵:03/05/11 01:00 ID:fNejSvm2
このような場があるとはぞんじませんでした。
私が幼稚園の頃、近所に私をかわいがってくれたおじさんが
住んでおり、そのお宅に遊びに行った際、今思えば何を考えて何故私に見せたのか、
分かりませんが何点かの写真を見せていただきました。
そのおじさんが得意?そうに見せたのは、写真でした。
そのおじさんは中国に軍人として出兵しており、見せられた物は皆モノクロ写真で、すでに黄ばんでいる
ものでしたが、その写真に写っている光景は、35年経っていても今も忘れることができません。
日本兵の得意げに、中国の人の首を掲げている姿。
後ろで腕を縛られ、ひざまずかされ、まさに今切り落とされようとしている瞬間の様子。
その後、振り下ろされた刀が体を通り過ぎ、まさに胴体から切り離された首が宙を舞っている様子。
刀でなく、紙を切る裁断機の大きいもので切り落とされている様子。
見せられた晩、その事など家族に話す事など出来るはずもありませんでした。
また、見せられた当時、見てはいけないものを見たとゆう気持ちでした。
今も、時々思い出します。
体験談を記したかったものであり、戦争そのものに対する批判をこの場でするつもりはありません。
ただ、なんとなくこの件は家族、家内にも話せない。話したくないと思ったものですから。
この場を通じ無礼かと思いましたが、書かせていただきました。すこし、罪悪感が薄らぎました。
この文を読み不快に思われた方がいらっしゃいましたら、お詫び申し上げます。
441 :
名無し三等兵:03/05/11 01:41 ID:SubXjlsv
>>439 員数合わせは貧乏といより間抜けを直す訓練みたいなものらしいですよ
ソ連国境で騎兵やってた祖父の話。
ノロを狩って(鹿の亜種か)駐屯地の食堂に持っていくと、
血抜きした後、臭みがなくなるまで寝かせ、
1日か2日して食べごろになると料理してくれたそうです。
一回で10mくらい跳ねるので追い込むのが難しいようです。
他には、歩兵から曹長に間違われたこともあったみたいです。
剣と長靴を履いてたからだけど、おっちょこちょいな人も
いるもんですね。お互い上等兵だったけど、真剣に敬礼されて
可笑しかったと言ってました。
>>440 うん、当時はそういう事があったようになっているね。
朝日新聞と、何かの反戦漫画と、
この前スレにも似たようなと言うか、まったく同じ話があったよ。
やっぱ、日常的にやられている事なんだろうね。
一度だけ祖父さんに戦争の時の話を聞いた。
聞いて良いのかどうかは正直迷った。
辛い時もあっただろうし、わざわざ思い出させるのは良くないと思ったから。
案に相違して、終戦間際までは比較的楽な所での勤務だったそうで笑い話になりそう
なことばかり聞かせてもらったが。
最近になって死んでしまったから、もっと祖父さんの体験を聞いて祖父さんを知りた
かった、とちょっと後悔してる。
>>439 あと、装備はすべて天皇陛下から預かったものだから、
たとえ布きれ一枚でもなくしてはいけないって教育していたからね。
八甲田山で最後まで捜索されたのが、小銃だって話を聞いたよ。
結局、雪解けで見つかったってさ。
これは良いのか悪いのか解らないです。
日露戦争当時からの伝統だからね。
446 :
名無し三等兵:03/05/11 07:29 ID:qS64cP1N
うーむ。いろいろあるんですねえ。
私のじいさんは予備仕官で台湾にいって終戦時には中尉でした。
なんか部下に高砂族が多かったらしく。高砂族の話をよくしてくれます。
沖縄戦の時に、祖父の部隊が沖縄に行くことになって高雄からさあいくぞ
と思ったら、出航前日に高砂族が逃げ出し、その上空襲で船がすべて沈められて
行けれなくなったそうです。
しかし、終戦時には高砂族の人たちが魚をもって祖父のもとに
きて「隊長さん、立ってるだけでいいから網元になってくれよ、日本に帰らないで
くれ」と言われたそうです。そのときは連隊長(祖父の上司、存命。現在100歳)
に兵隊が逃げたのを咎められ殴られたことも忘れ、泣いたそうです。なんか、米軍が台湾に上陸してくる
ときのために高砂族などの原住民族の部落を調べて渡っていたため高砂族と関係が深かったようです。
447 :
名無し三等兵:03/05/11 07:36 ID:qS64cP1N
あと、戦後台湾にいた日本軍が満州にいた人たちより楽に帰国でき、
戦後も帰国時まで平和でいられたのは、
安藤大将(?飛行機の中で自殺したとかしないとか)の陸軍士官学校時
の後輩にあたる「チンギ」が国民党の台湾統治の担当で
安藤大将に頭が上がらなくて、結局終戦後しばらくは旧軍が「チンギ」とやらに
命令をだしていたからだとか言ってましたけどね。
そういえば、演習時には沖縄の人にも通訳が要ったそうです。
448 :
名無し三等兵:03/05/11 08:55 ID:asG+6m33
漏れのじじいは海軍航空隊ですよ
空に憧れて志願した奴が、周りにも数多くいたんだって
でも一度志願すると、どんなに訓練が辛くても受け続けなくてはならなくて、
訓練でも誰か手抜いたりすると、連帯責任でけっこう酷い事があったそうだ
詳しくは話さなかったけど。
知り合いが逃げ出そうとして、見つかって
教官に殴られて、意識が消えると冷水ぶっかけてまた殴るとか
結局、3階の脱出未遂の上、朝トイレへ行ったら吊ってたそうだ
でじじいは、晴れてゼロ戦パイロットとなって、
何機かは撃墜した事もあるんだって。
銃弾の嵐で、機体に被弾しまくりでも、自分の体自身には傷1つ付かなかった(で、生還)
これが最後の飛行と話してた。そのせいで、今だとこの奇跡的な事のせいで
自分でも解っているそうだけど、現在は仏教に強くのめり込むようになってる
ちなみに、あと17日、終戦が遅かったら、特攻隊で帰らぬ人となる予定だったんだって
ちゃんと名簿にも書かれて、遺書も書いたと伝えられた。
449 :
名無し三等兵:03/05/11 14:48 ID:wJ4S57ug
>449は二重スパイ。
452 :
名無し三等兵:03/05/12 01:00 ID:QW6ll2Cf
>>448
創価は仏教じゃありませんよ おとうさん
453 :
名無し三等兵:03/05/13 00:03 ID:+jqZKnAA
>>449 禿同
俺のかみさん、フィリピン人だけどな、終戦時のばあさんが日本兵かくまってたってさ。
本当は違うんだよ!!!
454 :
名無し三等兵:03/05/13 04:13 ID:LXcypNm7
将校も多すぎだね〜。少尉、中尉だらけじゃんか・・・あと航空兵も
一、二等兵の方が少なすぎる気がするが・・・構成比率から考えるとね
カキコするおまいらの親の親が従軍体験してるんでしょ?そんな昔の話じゃない
気がするから、釣りはやめろよ。その世代の方々に失礼じゃないか
455 :
名無し三等兵:03/05/13 04:18 ID:HKyvzEn/
417のジーサンって牟田口か辻の手下あるいは共産主義者だね。
全く最低な奴だ。
ところで日本海軍の飛行機乗りだった村田って奴知ってる人いる?
真珠湾の時に少佐だった奴。
こいつってアメリカの砲艦パネー号を誤爆したバカってマジですか?
鼻糞攻撃隊長ってか(ブッ
アメリカの誤爆を批判できねぇよなぁ。
小便色の糞っ垂れニップスさんよ。
あんたらエラ野郎並みだぜ。
俺のじいさんはどっちもこの鼻糞日本に喰いもんにされたぜ。
牟田口とアカのバカ野郎!
>>454 終戦間際になると少尉殿は大量に量産されたんだよ
458 :
名無し三等兵:03/05/13 23:46 ID:qsJMZmp5
フィリピンは地域によって日本に対する評価が違う。
特攻隊を記念碑まで建てて崇めている村があるかと思えば
日本兵を殺した投槍を自慢げに見せびらかしてくる爺さんもいる。
外務省の調査だとどちらかというと親日だそうだけどな。
459 :
名無し三等兵:03/05/14 00:16 ID:0UPZK1Jo
貧富の差が極端にあって、いまでも共産ゲリラやイスラム過激派がいて、
マフィアと地主と最下層に別れていて、中流層がほとんど無かったのでは?>フィリッピン
460 :
名無し三等兵:03/05/14 01:33 ID:S1mHB36F
俺の祖母の姉の夫(つまり義兄)は、インパール作戦に参加していた。一割の生還兵の一人なわけだ。「白骨街道なんて一言では片付けられん!」と言ってたな。詳しくは話したがらないから俺も聞かなかったけど。
>>454>>457 そうそう。成人男性全員が兵士になったら、それを統率する立場の香具師も
それなりの数が必要だろ?
といいつつ俺のじっちゃんも隊長だった。当時部下だった人からときどき手紙が届く。
462 :
名無し三等兵:03/05/14 22:03 ID:P2ekcYY6
つい最近知ったことなのだが、漏れの大伯父は海軍下士官で、金剛をイギリスに取りにいったんだそうだ。
死んだ漏れの爺様は、満州で負傷してそのまま退役。
友達の爺様は、長門の船員だった。
464 :
名無し三等兵:03/05/14 23:01 ID:IOwluosP
昔、家の親父の友人が、ハルマヘラかどこかで数人の部下を引き連れて山の
中を逃げ回っていた時のこと。山中で別の日本兵と出会ったがどうも様子が
おかしい。目つきもおかしく、口の周りが真っ黒になっていたんだと。その
上あんまり痩せてない。
不穏な気配をとっさに感じて、兎に角部下が離れ離れになって一人っきりに
ならないよう厳命した、とのこと。そのおじさんいわく「あいつらは絶対人
を喰っているに違いない」とおもったんだって。そんな事本当にあったんだ
ろうか?
>>464 ひとり食べると封印が解除されるそうだ「それ、飯ごう22杯分だ〜」って感じらしい
467 :
454:03/05/15 03:42 ID:PUgJZHSO
>>457>>461 いわれる通り末期は大量増員で将校が増えたのは分かるよ。
だけど俺はこのスレでの兵種・階級構成の不釣合いを言っているのだ。
兵員増加しても組織はピラミッド型そのままなはずだよね?
それなら必然的に1、2等兵関係のカキコが多くならないとおかしくない?
それと旧軍兵員構成から推測すると(陸軍関係7割)(海軍関係2割)(陸海航空関連兵1割)
のカキコが妥当だと思った。だから捏造してるカキコも少なくないと言いたいだけです。
>>467 君は大事な事を忘れている。
じいちゃんはだいたい、階級をサバを読んで言うものさ。
もちろん、捏造もあるだろうけど、こっちの確立の方が多いと思うよ。
あと、目立ないけど、南方で戦死、よくワカランと言うのも多いはず。
これは書くことが無いから書かないだけだと思う。
自分の伯父も南方で戦死、詳細はよく解らないという人がいます。
あ、ちなみに自分のじいちゃんは
前スレで書いた満州で終戦二週間前に徴兵という奴です。
すぐに部隊は解散でした。
>>468 ポツダム昇進もあるしね。
あと、階級が上だった人の方が戦争のことをよく語る。
うちの祖父は現役初年兵でビルマ行き。
運よく帰還出来たが、帰って来てからは戦争の話も一切せず
戦友会にも一切行かなかったようだ。
でも赤紙や軍隊手帳や当時の写真は捨てずに持っていて、
たまに祖父が一人で見ながら泣いていたのを見かけた記憶がある。
471 :
470:03/05/15 05:25 ID:???
現役初年兵でビルマ行きというのは祖父の死後遺品を整理して知った。
祖父の軍隊手帳や写真は家族が見てはならないという
暗黙の了解があったんで、生前は親も含めて全く知らなかった。