お前らのジーちゃんの戦争体験 その2

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49名無し三等兵
うちのじいさんは日中、太平洋戦争ともに参加したそうです。
日中戦争では決死隊に志願して、爆弾背負って橋を爆破しにいったそうです。
橋は重要拠点ですから文字通り、雨のような弾が飛んできたそうです。
「成功したの?」と聞いたら「今、生きてるのが証拠だ」と言ってました。
かなり格好よかったです。

その後上官に「下士官にならんか?」と言われた祖父は勉強を始めました。
なにしろ東北の農村出身の祖父は学がなかったそうで、トイレで勉強したと
言ってました。アンモニアの刺激臭によって、眠らないようにしたそうです。
また、目の前に針を置いて、頭が下がったら刺さるようにしていたそうです。
下士官となった祖父は後に人事の仕事を任されました。徴兵された兵士の
審査などをしていたそうです。
その後の太平洋戦争では南方作戦に参加してビルマに行って来たそうです。
高床式の家を見て感心したと言ってました。このへんの事はあまり詳しく
聞いてないんでわからないんですが、太平洋戦争初期から転戦していたそうです。
戦争が終わったときには、故郷の同期の兵はほとんど死んでしまったそうです。
祖父は一度も戦争反対とか賛成などとは言ったことがありませんでした。
ただ「しかたない時が世の中にある」とだけ聞きました。

私にはよくわからないんですが戦功もすごかったそうで、決死隊の時にもらった
勲章等を見せてもらいました。後、恩給もかなりもらっています。住んでいる
地区で一番もらっていると聞きました。現在、年金と恩給を両方もらっています。

祖父の話を聞いていると旧日本軍が完全悪とは思えませんでした。子供の頃から。