昭和18年3月、一式戦は連合軍側記録と一致する戦果だけでも26機を撃墜、
陸軍航空部隊のビルマ空戦史上、最大の勝利を収めた。64戦隊は空中戦で2名、
地上で1名の操縦者を失い、一式戦3機を喪失する一方、ハリケーン13機
(戦死9名)、ブレニム2機(戦死2名、捕虜1名)、ボーファイター1機
(戦死2名)、リベレーター3機(戦死23名、捕虜4名)を撃墜した。
50戦隊は、一式戦1機を失ったものの操縦者は1名も失わず、ハリケーン
6機(戦死3名)、モホーク1機を撃墜。日本陸軍航空部隊は、アラカン
戦域での局地的な航空優勢を実現し、マユ半島を南下、アキャブに向かう
地上の英印軍攻勢を空中から支援しようとしていた英印軍の企図を砕き、
同戦線での日本陸軍の反撃を成功に導いたのである。
梅本弘「ビルマ航空戦 上」より
昭和19年最初の月の空戦では、7機の一式戦が撃墜されて7名が戦死、その他、
各1機が不時着、あるいは胴体着陸し、司偵1機(戦死2名)も撃墜された。一方、
連合軍の損害記録と一致する一式戦の撃墜戦果は、スピットファイア4機(戦死3名)、
ハリケーン3機、ボーファイター1機(戦死2名)、F5写真偵察機1機(戦死1名)、
C47輸送機4機の計13機であった。
1月のビルマ方面の連合軍航空兵力は、英空軍532機、米陸軍航空隊287機
の計819機。その内訳は戦闘機576機、中型爆撃機70機、重場喜劇機79機、
偵察機10機、輸送機84機であった。連合軍は、同時期の日本陸軍航空部隊の兵力
を約250機、うち戦闘機100機と見積もっていた。
1月末の第5飛行師団の兵力は、50戦隊一式戦保有37機(可動27機)、操縦者
45名。64戦隊一式戦保有35機(可動20機)、81戦隊司偵保有20機(可動13機)の
計168機であった。教飛204戦隊の兵力は不明だが、他戦隊の例から推して
一式戦30機前後と思われるので、合算しても200機以下。連合軍による総兵力
250機の評価は過大だったが、戦闘機100機という見積もりは、概ね正確であっ
たということになる。一方、第5飛行師団も連合軍の航空兵力を約1000機と見積
もっていた。双方とも、相手側兵力をちょうど2割ほど過大に評価していたことになる。
梅本弘「ビルマ航空戦 下」より
ビルマの陸軍戦闘機隊は、12月後半、4回のP40との決闘で、爆撃機6機
に加え、11機の一式戦と、操縦者11名を失った。昭和18年6月から12月まで
の前半までに、ビルマで失われた陸軍の単座戦闘機の総数は16機、操縦者の
戦死は11名だった。P40との対決で、半年分にも値する損害を、わずか10日
で被ったのである。これに対し、日本側はP40撃墜総数30機を報じているが、
P40が被った実際の損害は、九七式重の防御放火で1機、双軽との空中衝突
で1機、隼が撃墜した可能性があるP40は1機のみだった。その他、爆撃で
6機が大破または破壊され、1機が離着陸時に足を破損、さらにP51が2機、
離陸時の衝突事故で失われてた。
<中略>
様々な欠点があるにせよ、P40は「タカ派、戦争扇動者」を意味する「ウォーホーク」
の名に恥じぬ獰猛な一流の戦闘機だった。でなければ、百戦錬磨の日本陸軍戦闘機隊が、
一般にずっと戦闘経験が乏しかった米陸軍航空隊のP40部隊に、こうまで一方的に叩か
れ続けてきたことが説明できない。
梅本弘「ビルマ航空戦 下」より