あの名将の意外な一面

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800名無し三等兵:03/02/15 14:19 ID:eqmk4QDh
>>795
その人と同人物かどうかはわからないが、
某柔道十段と井上成美は同じ中学校出身の同窓。

年が六歳違うから直接の面識があるかどうかは不明だが。
801772:03/02/17 11:28 ID:???
小沢が、「その後十段になる人」とケンカしたのは成城中学校時代の話です。
ついでに言えば、少年時代の小沢は非常にキレやすく、校長夫人の乗った人力車をひっくり返したり、日本刀を振り回したりして退学処分。
そのあとに成城中学に転入した、その時の話になります。
それから小沢は第七高等学校に入学し、その後兵学校に編入しました。

言い忘れましたが、その十段の名前は三船久蔵という人だとか。
802772:03/02/17 11:32 ID:???
角田覚治は大砲屋の例に漏れず、若い頃は相当な大艦巨砲主義者だった。
彼が兵学校教頭時代、生徒の前で源田実(当時少佐)が航空重視戦術を説いた事があった。
しかし、源田の話が終わるや、角田は源田を押しのけるように教壇に立ち、
「我々は飛行機なぞ無くとも闘わねばならぬ!」
と、源田の言を全否定するような反論をした。
後に源田は角田を指して「頭の堅いわからず屋の鉄砲屋!」とこぼしていたとか。

ただし、角田の偉いところは、しかるべき立場におけば、相応の努力をする事だった。
昭和14年、彼は何故か第三航空戦隊の司令として龍驤に着任する。
すると、それまでの主張はどこへやら・・・即、航空関係の猛勉強を始めたという。
その頃、同戦隊の航空参謀だった淵田美津雄は、「うちの司令官(角田)はよく航空のことを勉強した」と証言している。

もっとも、その後も龍驤で(笑)対艦砲撃をしているわけだけど・・・
803772:03/02/17 12:20 ID:???
目の前で海戦が行なわれているのに、部下だけ送って自分は戦場の外で見てたとか、
しかも向かわせた部下が、敵じゃなくて味方の船を沈めてしまったとか、
傷付いた味方を見捨てて逃亡し、見捨てた重巡が沈んでしまったとか、
東の戦場から逃げてくるはずなのに、逃げすぎて西から集合地点に現われたとか、
もちろん忘れちゃいけない「栗田ターン」などで知られる栗田健男中将。
戦後も後輩から「兵学校の校長程度で納まってりゃよかった」とか
「あの人は第一段階で既に前に出ようとしない。その時にはもう評判が悪かった」
「水雷戦隊で突っ走ってるから、中央では頼りになるように見えたのだろうけど・・・」
「酒飲んで突っ走ってるだけじゃ、頭が出来るはずが無い」
「彼を教育する機会が無かったのが、そもそもの原因」
などとボロクソに言われている栗田健男中将。そんな彼の、少しだけフォローが出来るエピソード。

この人は何故か太平洋戦争のキーになる場所に必ず出現するのだが、
戦艦利用法のコロンブスの卵である「対陸艦砲射撃」の第一号であるガダルカナル砲撃の時も、
任された金剛&榛名の所属する第三戦隊の司令は、運命の悪戯か(笑)栗田健男だった。
栗田が例によって「そんなこと出来ません!」と拒絶しようとしたら、
山本五十六が「じゃあ、俺が大和で行ってくる!」と言い出したため、やむなく了承。
ここまでは、みごとなまでに通説どおりの栗田像だが、問題はこの後。
栗田は決心を決めると、司令部に「では、陸戦用の武器を用意していただきたい」と言ったという。
万が一、金剛が帰還不能な状況になれば、陸に乗り上げて砲台となり、戦おうとしていたのだ。
なお、この当時は「艦と陸砲が戦った場合、沈むぶん艦が不利」という考えが一般的だったことを追記しておく。
804772:03/02/17 12:23 ID:???
海軍省の3階にあった軍令部総長室は、日当たりが良すぎる部屋であったため、
他の部屋より2.3度は室温が高く、夏場はとても居続けられる部屋ではなかったそうだ。
そんな部屋でも上着を一切脱がず、執務を行なっていたのが伏見宮博恭王。
そんな部屋で仕事もろくにせず、平気で居眠りしていたのが永野修身。
805名無し三等兵:03/02/19 00:51 ID:STiXAk/h
スレの主旨をもう一度確認しろ。あの”名将”の意外な一面だぞ。

 栗田中将の何処が名将なんだ?
806名無し三等兵:03/02/19 01:01 ID:???
>805
悲しいことにネタ切れだから・・・
ネタを提供できるものであればしたいが、ないものは出せないのです。
なので、栗田中将だろうが大牟田中将だろうがとにかく
何か意外な、もしくは面白いエピソードを持っている人物の話題にまでターゲットを
広げざるを得ないと思うわけです。それにそれもそれで面白いと思いませんか。
まあ、私はネタを持ち合わせていないのですが。
807名無し三等兵:03/02/19 01:07 ID:???
>>805
そんなこと云ったらこのスレの7割はすれ違いだと思う。
808名無し三等兵:03/02/19 01:22 ID:???
間違えた。すれ→スレ違い、と。
あとこれだけじゃなんだから小ネタ。

戦後、ラジオを聞きながら昼食を取っていた小沢夫妻。
(うろ覚え。ラジオじゃなくてテレビだったかも?でも労働拒否してた小沢がテレビ持ってるとは思えない)
ラジオから自衛隊の航空機が事故を起こしたと云うニュースが流れた途端、
「ゲッ!八郎のバカヤロー!」
叫ぶ小沢。
事故を起こしたパイロット二人の片方は、小沢の親戚だった。
「八郎の奴、戦争中に生き恥を晒しおって、今ごろ事故を起こしやがった!」
それを受けて、石蕗夫人、
「あなただってそうじゃありませんか」

809名無しトンボ釣り:03/02/19 02:41 ID:???
>>783は山本の逸話でしが、山下家絡みなのでそっちの方を…。

大正6年2月9日、山下源太郎佐鎮長官の令息・四郎君(10歳)が殺害されたでし。
下校のため学校の正門を出た途端、制服の士官からグサッと…。
犯人は即刻横須賀に移送され、以後消息不明。
離任にあたって山下は、殺害現場の土地を買い取って佐世保市に寄贈。
後日、有志によって「児童遊園」の石碑が建ったでし。
頑固一徹ぽくて近寄りがたそうな山下さんも、一介のおとーたんなのでし。合掌
810772:03/02/19 14:35 ID:???
>>809

その犯人てのが、恨みがある仲間が寝てるときに、
耳から硫酸流し込んで復讐したことがあるような奴だったそうです。
それで軍から追放されることになったとき、上司である山下を逆恨みして凶行に走ったようです。
本来ならこの事件は、佐鎮長官である山下自身が裁く立場にあったのですが、
「私では冷静に判決を下すことができない」といって横須賀に送ったとか。
811772:03/02/19 14:37 ID:???
日露戦争の裏側で、日本がロシア国内の革命分子を密かに援助していたのは余り知られていないが、
その援助されたグループの中には、のちにロシア革命を果たすレーニンの姿もあった。
そのころ、その工作活動を行なっていた明石元二郎が日本に送った書面には、
レーニンの事を「冷人」と書いている。

そして、明石が始めてレーニンと会ったとき、
レーニンは明石の差し出した高級品の煙草を断り、労働者用の安い煙草を吸った。
それ以後、明石はレーニンの事を「冷忍」と書くようになった。

その後、レーニンが日本の援助を受けいれると明石に言ったとき、
明石は「私がロシアに生まれていたら、貴方と同じ活動をしたでしょう」と言って誉めた。
しかしレーニンは「しかし、私が貴方の国に生まれても、軍人になったかはわかりません」と言った。
それ以後、明石はレーニンの事を「礼仁」と書くようになった。


実際にはこれほどうまく行ってないと思うけど、
寝言みたいな理想ばかり言う、自称社会主義者とは全然違うと感じていたのは確からしい。
812772:03/02/19 14:38 ID:???
統制派のボスであったゆえ、惨殺された永田鉄山。
彼は当時、満州国の経済指導まで介入していた関東軍を排除するため、
将来的な満州国の自立を見据えて「顧問部」と称する経済政策の最高指導部を設置しようとしていた。
が、永田がその顧問部のトップに据えようとしていたのは、
こともあろうに、満州事変を「帝国主義的侵略戦争!」と罵っていた左翼的財政学者の大内兵衛(当時東大助教授)だった。

あと、意外に知られていないが、永田は日産自動車の設立にも尽力しているなど、
日本の馬鹿陸軍の姿からはとても信じられないほど、優れた経済観念を持った人物だった。
同じヒゲメガネでも、どうしてここまで誰かさんと頭の中身が違うのだろうか?
813772:03/02/19 14:39 ID:???
昭和20年初頭のある記者会見。海軍次官、井上成美が姿を見せた。
当然日本の敗色は相当濃くなっている頃だ。記者の質問も自然、厳しくなる。
「次官、日本海軍はこの戦争をどうするおつもりですか?」
すると井上、即座にこう答えた。
「それは和平です!」
「・・・・・」
絶句する記者団。

もっとも、井上の身を思って、だれもこの事は記事にしなかったそうだが。
814名無し三等兵:03/02/19 14:42 ID:???
>>812
満州事変の立て役者である石原を参本に呼び戻したのも永田だったな。
石原の参本着任の日が、斬殺事件の当日だとは皮肉なもんだが…。

永田が健在で、石原がその片腕になっていたら、日支事変はなかったんじゃないかって妄想することしばしば…。
815名無し三等兵:03/02/19 16:29 ID:???
ソ連名将伝

コーニェフ元帥は酒を飲まなかった。
読書家で、プーシキンとかの本をいれた小さな書庫を戦場に携行した。
戦場視察するときにはコートで階級章を常に隠したが、
敵への秘匿だけではなく、味方部隊に余分な負担をかけないためだった。

ジューコフ元帥は徹夜で作戦計画を作るときは、ウォトカではなくコニャックを飲みながら徹夜した。
ウォトカは眠くなるそうである。
816名無し三等兵:03/02/19 17:34 ID:???
>812
東條英機は永田鉄山が暗殺された夜、軍務局長室で故人の外套を肩に掛けて一晩中慟哭していたそうだよ。
817名無し三等兵:03/02/19 18:38 ID:???
>>812
しかし、大内兵衛でマトモな経済政策が立案できたんだろうか?
818名無し三等兵:03/02/19 20:03 ID:???
当時は一部の経済官僚で密かに、ソヴィエトの統制経済と重工業化の成功が高く評価されていたんだよ。
819名無し三等兵:03/02/20 00:18 ID:wefOfsWa
池田純久は東京帝大の経済学部に通ってた
820名無し三等兵:03/02/20 00:54 ID:???
>>813
本人は「何で記事にしてくれないんだ」と思っていたに1000ナルミ
821ネルソン:03/02/20 12:28 ID:J53DvwAH
石原と東条の仲の悪さは有名。関東軍時代、訪ねて来た大川周明に対し、「ああ、東条二等兵殿はあちらの部屋におられます!」と、デカイ声で石原は言った。東条はブチ切れ。
822名無し三等兵:03/02/20 12:41 ID:???
>821
でも酒飲友達でもあったらしい。
よくわからん関係だな。
823ネルソン:03/02/20 14:05 ID:4w44RpBN
>>822→ナニ!?それは知らなかったぜ。ただ一方的に東条が敵意というかライバル視してただけで、石原の方は「ハイハイ…。」って程度だったとか読んだ事ある。ちなみに石原は東京裁判で「一番の戦犯はトルーマンだ。」と発言した。
824名無し三等兵:03/02/20 14:17 ID:???
825名無し三等兵:03/02/20 14:46 ID:bHxeSgxx
俺もあやふやなのだが。。。
>821 「東条上等兵」じゃなかったっけ?
>823 「東京裁判で」じゃなくて東京の病院に入院してたときに取材にきた記者に対してでわ?
826j:03/02/20 14:46 ID:+gt83rTj
★ピンクエンジェルは男の情報局★
http://bbs.1oku.com/bbs/bbs.phtml?id=rantyan
827772:03/02/20 15:21 ID:???
>>813
で、本気で大内を据えようと決意した永田だったが、
その時、秘密裏に大内への使者として遣わされたのが片倉哀(当時中佐)である。
さすがの大内も、この時ばかりは「何でこの私が軍の顧問に!」と絶句したとか。

ちなみに永田は、進歩的な財界人とか、革新派の官僚と仲が良かった事は知られているが、
同時に、親友の岩波茂雄に紹介され、寺田寅彦、和辻哲郎、三木清、安倍能成といった連中とも交遊を結んでいる。
おそらくそういった人からの入れ知恵と思われる。
828772:03/02/20 15:22 ID:???
山口多聞の私生活は、夫人の言葉を借りれば「無芸大食・平々凡々」だったらしい。
中でも「大食」はみごとなもので、夕食の前に饅頭か大福を二つほど食べてから酒を飲みはじめ、
酒を楽しみながらしっかりとご飯を二膳ほど平らげ、さらに食後にはケーキと果物をしっかり食べたそうである。
ついでに言えば、酔った山口は、何故か「ズイズイズッコロバッシ・・・」と始めるのが常だったらしい。

もう一つついでに言うと、山口のいびきは二階から階下まで届くほどうるさかったそうだ。
829772:03/02/20 15:24 ID:???
度重なる直言で最後には米内にもうるさがられ、子供や孫にも厳格一筋だった直情の男・井上成美。
その彼は兵学校時代、ジョークが上手い事で知られていた。

井上成美は嶋田繁太郎から「艦隊長官は不適当、兵学校校長程度が妥当」と酷評されていたが、
井上本人は、「私は用兵は下手だと思っていない。むしろ教育の方が不得手であった」と言い残している。

ついでに、井上自身が述べた珊瑚海海戦の言い訳。
「機動戦はサッと行ってサッと引き返すもんだ。だいたい後方に何があるか分からないではないか。
そもそも、当時出された連合艦隊の命令自体が無茶なものだったと、今日でも甚だ不満である!」
830名無し三等兵:03/02/20 17:05 ID:RQzJ5Z9C
そういえば、帝国海軍最後の大将も井上成美だね。
831名無し三等兵:03/02/20 17:25 ID:???
梅津は若いころ男前で、三宅坂のバス停には
梅津目当ての女子学生が列を成してたとか
832名無し三等兵:03/02/20 19:49 ID:???
>>822
で、その喧嘩を止めるのが板垣の仕事だったと。
833名無し三等兵:03/02/21 00:31 ID:???
井上成美は戦後、私塾を開いて英語を教えていた。
でやって来る子供たちをどう喜ばせるか考えた末
持ち前の器用さからクッキーを焼いておやつとして出していた。

ついでに教材は全部自分で作ってこんにゃく版で印刷
834772:03/02/21 14:42 ID:???
井上成美の母は伊達家に連なる一門の出身のお姫様で、その生涯一度も「お金」に触った事が無かったらしい。
835772:03/02/21 14:44 ID:???
米内光政と山本五十六が砲術学校の教官だった頃、校内のゴミ箱が再三破壊されるという事件が勃発した。
ところが、調べてみたら、なんと犯人は米内と山本だった。
そのころ二人は手裏剣投げにはまっていて、ゴミ箱を的として使っていたのだという。
が、おもちゃの手裏剣ごときでゴミ箱が破壊されるはずが無い。
スリルが欲しかった二人は、最後の頃は短刀を投げて楽しんでいたのだった。
二人がきつーいお仕置きをされたのは言うまでもない。
836名無し三等兵:03/02/23 00:44 ID:???
>>835
餓鬼のころ殿様から親父が拝領した短筒を
ぶっ放していた米内なら、やりかねんな。

注、近藤隆太ではありません。
837名無し三等兵:03/02/23 15:35 ID:???
>>834
>伊達家に連なる一門

確か、角田邑主石川義光の娘だったかと。
838772:03/02/24 12:48 ID:???
沖縄戦で第三十二軍参謀長を務めた長勇少将(死後中将)。
豪放磊落、傍若無人とか言われ、その豪傑笑いや堂々とした歩き方は、陸軍内でもモノマネのレパートリーとなっていた男である。
その彼が少尉時代、師団長に「貴様は将来何をやりたいのか?」と聞かれたときの返答。

「ハイ、浄瑠璃を習いたいであります!」
839772:03/02/24 12:50 ID:???
インパール作戦で撤退の殿を見事務めた宮崎繁三郎。彼はこの戦場に一匹の子猿を連れてきていた。
その猿は「チビ」と名付けられて、常に宮崎の肩に乗って愛嬌を振りまいていたという。
その「チビ」、進軍中に突然奇声を上げる事があった。すると宮崎は、即座に「伏せろ!」と叫ぶ。
すると数瞬後、彼らの居た場所を凄まじい銃弾の嵐が通り過ぎていった。
そしてコヒマ撤退直前、「チビ」は宮崎をかばうように負傷するが、それでも宮崎や兵隊達に愛嬌を振りまき続けた。
彼らはその姿に自らも元気付けられ、見事帰還に成功したという。

猿でさえこんなに懸命なのに、牟田口は(略

ちなみに、宮崎繁三郎の戦後の職業は「瀬戸物屋」。
840772:03/02/24 12:51 ID:???
大西瀧治郎は酒癖が悪い事で知られている。
一番有名なのは、海大受験前日に料亭で豪遊し、酔ってきたら芸者にサービスが悪いと因縁を付け、挙げ句ぶん殴った事件。
で、警察まで呼ばれて見事な新聞沙汰。彼の海大受験は当然停止されてしまった。
ついでに、英国留学中も酔っぱらってイギリス人をぶん殴るという事件を起こしている。
841772:03/02/24 12:52 ID:???
アッツ島玉砕の直前、東京にアッツの守備兵から訣別電が送られた。
杉山参謀総長からその話を聞いた昭和帝。涙をこらえながら
「部隊の将兵は最後まで良くやった。この事を伝えよ!」
と御下命。が、杉山は
「あのー・・守備隊は既に無線機を破壊しているので、陛下のお言葉を伝える事は出来ません・・」
などとボケた応えをする。
もちろん、「玉砕した」と報告を受けている以上、守備隊が全滅した事は昭和帝だってわかってる。
死んだから関係無い・・という杉山に怒りを込めながら、昭和帝はキッと睨みつけ、
「それでもよいから電波をだしてやれ!」
と強く言ったという。

瀬島龍三の回想より
842772:03/02/24 12:54 ID:???
海軍随一の勇将、吉川潔中佐(死後少将)。
彼の素顔は小柄で華奢、話しても凡庸としか思えない人物だったので、兵学校も最初の受験は不合格、二回目でギリギリ合格だったそうだ。
で、その一回目の受験は学科OKも体格で不合格。そこで吉川が肉体改造のために選んだバイト先は、なんと陸軍被服廠だった。

・・・本当にネタが無くなってきたな。
843名無し三等兵:03/02/24 23:54 ID:???
ネタが無いなら、牟田口の「意外ではない」一面でもヨイ。
844772:03/02/27 13:45 ID:???
陸軍の名パイロット加藤建夫は、射撃の名手としても知られていた。
彼が明野飛行学校の教官だった頃、吹き流しを目標として射撃訓練をした。
その時、加藤の持ち弾は30発だったのに、吹き流しの弾痕は何故か63個空いていたという。

ちなみに、この怪現象の原因は簡単。波打った吹き流しを二重に打ち抜いたから。
845772:03/02/27 13:46 ID:???
終戦後、今村均大将はバタビアで裁判にかけられた。
その時今村は、「日本がインドネシアで住民に対して行われた残虐行為の責任者」として、死刑を求刑された。
同じ頃、インドネシア独立の父であるスカルノとその一党は、
「インドネシアに自由と平和をもたらした貢献者」として、獄中の今村を救うための計画を練っていた。
結局今村は「部下を見捨てられない」と言って断ったらしいが。
846772:03/02/27 13:48 ID:???
岡田啓介海軍大将に大命が下った日。
彼はまず、宮中参内のため身を清めようとしたが、面倒くさいうえに腹が減っていたので、
白い豆腐を近所から買ってきて、それを冷奴のまま食べることで良しとした。

ついでに、
当時の彼はその地位に見合わぬビンボー暮らしで、その日も書記官長の迫水久常からシルクハットを借りて宮中に向かった。
が、岡田は小柄、迫水は大柄であったため、いざ被ろうとしたら首まで入ってしまった。
やむなく岡田は、ハットを被らず、ずーっと手で持ったまま宮中に入っていった。
彼がまわりから不審の目で見られたのは言うまでもない。
847772:03/02/27 13:49 ID:???
斉藤実海軍大将の本名は、実は「斉藤実」ではない。
斉藤富五郎というのがそれ。だが、その響きが町のチンピラか何かみたいで嫌っていた。
しかし、せっかく親が付けた名前。そう簡単には改名するような真似は出来ない。
が、兵学校時代に、たまたま同姓同名の水平と出くわし、
「将来大成すべき人物が、一水兵ごときと同じであって良い訳が無い!」
などと強引な理由を付け、ようやく「実」と改名したのである。
848772:03/02/27 13:51 ID:???
第一艦隊司令長官を務めた事もある吉松茂太郎大将。彼は「健康のため」と称し、真冬でも冷水摩擦に凝っていた。
が・・・それが原因で肺炎を併発し入院。それが直接の原因になったか知らないが、直後に没している。

>>847四行目 水平→水兵 ね。
849名無し三等兵
名前といえば、大井成元は、元の名前を菊太郎といったが、
中将になったとき、元帥に成りたいという思いで「成元」と改名した。
長閥の恩恵を受けてた人だけに、陰ではナリゲンと呼んで
馬鹿にする人もいたそうだ。
大正7年、東京衛戍総督となった柴五郎の後を襲って第十二師団長になった。
その直後に、第十二師団のシベリア出兵が決まったため、世間では、
長閥の大井に、武功を立てさせるための人事として騒がれた。