日本軍は”進駐”したのであって、”占領”はしていませんね。
断片的な情報しか持っていないのですが、どうもうま〜く日本軍
に協力していたそうですが・・・
どのようにフランス軍が日本軍に協力していたのか、を語って
くださいです。
>>1 進駐も占領もどっちも行っていると思うのですが・・・
ようは仏印政庁はあくまで下部組織であり、本国の情勢と指示に
概ね従っていましたので、欧州情勢に影響されることになります。
いわゆる仏印進駐というのは、
北部が1940(昭和15)年9月〜
南部が1941(昭和16)年7月28日〜であり、
フランス第三共和制は
1940(昭和15)年6月22日に
あっけなくドイツに降伏してますので、日本はドイツの衛星国と化した
ヴィシー・フランス政府と交渉を行い、
1940(昭和15)年8月30日 松岡・アンリ協定
によって、交渉の結果として進駐を行いました。
その後、ノルマンディー上陸からパリ開放によって
ヴィシー政府が崩壊しましたので、今度は連合国側と
なった仏印をそのまま押さえ込んで、現地にいた
仏軍を武装解除し、そのまま終戦まで占領下においていました。
間違っていたらすいません。
これは情報の少ないネタですね。
案外、世界史板の方が食い付きがいいかも(w
北部仏印進駐の際には交戦があったようです。
南部仏印進駐後にも、日本側の陸軍機がフランス軍機をイギリス軍機か何かと思いこんで、撃墜したこともあります
その後、互いの機体を見せ合うんだけど、一式戦だったか百式司偵だかは見せなかったというのを何かで読んだような。
大戦末期には「フランスは連合国側に寝返る」と考えていたようです。
で、フランスによる支配を防ぐため「仏印処理(明号作戦)」と呼ばれるフランス軍武装解除を行います。
これが後のインドシナ半島諸国の独立に大きく寄与することになったそうです。
終戦時、叔父が軍属(技術者)として仏印にいたけど、なんか聞いときゃよかった。
>>2-3 レスありがとうございました。
結局武装解除は行われたのですね・・・。
かなり昔にフランス人の外交上手な話を聞いているときふと耳にしたこと
だったので私自身は記憶が朧気です。すみませんm(__)m
戦史叢書に当時の仏印軍兵団の簡単な解説がありましたね。
本当に簡単すぎでしたけど、あれが通常日本語で読める唯一の資料かもしれない。
おお!ばばぼん♪氏と第一総軍氏が揃い踏みとは・・・良スレの予感。
1じゃないですが、私も仏印侵攻に付いては色々知りたいです。
最近のNHK番組なんかでも、仏印侵攻が太平洋戦争への
重要なポイントのように言われていますが、正直ほとんど知りませんでした。
やはり、資料とか少ないのでしょうか。
>>7 外務省関係で資料があったと記憶してます。
学者が書いたのでは、
吉沢南「戦争拡大の構図 日本軍の「仏印進駐」」青木書店
同 「私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」」朝日新聞社
という本もあります。
後者では、仏印進駐前の援蒋ルート監視団の話と明号作戦の話が、それぞれ
ちょろっと出てきます。
著者はちと左にバイアスかかっているので、読むのに抵抗あるかもしれませんが。
簡単なメモが出てきましたよ。
1945年仏印武力処理時の仏印軍部隊
トンキン師団 14個?大隊 砲兵9個中隊
アンナン−ラオス旅団
コーチシナ−カンボジア師団
※メモが殴り書きの為判読不明の文字がある為間違いがあるかもしれません。
兵力は大東亜戦争全史によれば約9万5千
太平洋戦争陸戦概史によれば約7万
これに対する日本軍は
第三十八軍
第二師団(主力)
第二十一師団
第二十二師団
第三十七師団
独立混成第三十四旅団
独立混成第七十旅団
海軍
第十一特別根拠地隊
但し、日本軍は対米戦備も同時に進めていたので実際の武力処理兵力は約3万とのこと。
3月10日に武力処理を開始。南部仏印では順調に進んだが、中部、北部では頑強な抵抗に遭い14日頃まで戦闘が続いた。
その後も数万の仏印軍が山地に逃げ込んで抗戦を継続、越盟軍も蜂起した為討伐は5月中旬まで続いたと手元資料にあります。
すみません。私に書けるのはこの程度です。
そう言えば、軽巡ラモットピケも確か仏印で米艦載機に撃沈されたんですよね。
ラモット・ピケは、日本海軍の艦艇と間違われて撃沈されますた(w
11 :
名無しの三等兵:02/05/01 00:32
フランス人は一方的に怒りまくって質問に一切答えなかったそうだ
12 :
名無し三等兵:02/05/01 03:56
南シナ海の大陸側で、安全なように見えて
実は結構いろいろ起こってますよね。
開戦初頭のPoWとレパルス沈めた一式陸攻も南部仏印からですし、
マッターホルン作戦とかで重慶からB29飛んできたりしてますし。
ハルゼー艦隊の襲来とかはあったんでしょうかね?
14 :
名無し三等兵:02/05/01 09:51
柳家小さんは仏印従軍
15 :
名無し調査員 ◆h2HByRZM :02/05/01 13:17
丸別冊「静かなる戦場 落日の東南アジア戦記」(潮書房)は総じて興味深いですよ。
明号作戦の記述もあり、日本軍が仏印武力処理に至る動機、三十八軍の兵力展開なども。
16 :
名無し三等兵:02/05/01 13:20
アメリカ軍もてこずったべトコンを、日本軍は上手く処理できたな。
「一億人の昭和史」に仏軍の解散式の写真がありました。
その写真をみると、ルノーFT戦車も装備していた様です。
18 :
名無し三等兵:02/05/01 13:46
あれ、パリ解放のフランス第2軍の将軍って、戦後はインドシナ派遣軍の司令官でしょ?
鹵獲したパンテル戦車を持っていったという噂は本当ですか?
>>18 ルクレルク将軍ですね。
パンテル云々はウソっぽいです。
20 :
名無し調査員 ◆h2HByRZM :02/05/01 13:47
>アメリカ軍もてこずったべトコンを、日本軍は上手く処理できたな。
処理できていません。ちなみに当時は越盟(ベトミン)と呼ばれていました。
正確にはコミンテルン極東局の指示を下に(異説あり)設立されたインドシナ共産党
の北部遊撃軍が主に日本軍に対しての抵抗活動をしました。ただ同党の第七回中央委
員会で北部諸省の部隊を温存すると言う決定をしており、また越盟遊撃軍が当時では
まだ微弱だったため大した戦果は上げませんでした。
しかし日本軍が仏印処理後、ハノイに司令部を移したのちも脅威であり続けアメリカ
OSSの活動や中国雲南・広西の軍部隊と協働することもありました。
>>18 スターリン対策にわざわざ1両運んだみたいですが、故障したのと
アメリカからM36が給与されたので結局は使われませんでした。
>19
でしょうなあ。戦後初期はかなりアメリカ軍スタイルになったし。
駐仏ドイツ軍が捕獲したルノーをはじめ仏軍戦車で武装したというのに
恩知らず(意味不明)ですね
>21
なんとねえ。あったんだ・・・
もっともヴェトミン戦争で戦車の運用というのは、どの程度のものか知りませんが。
ディエンビエンフー前後の野戦砲同士の砲撃戦はよくききますが
24 :
名無し調査員 ◆h2HByRZM :02/05/01 14:02
そういえば抗仏戦時にベトミン側もドイツのSdKfz251兵員輸送車(だっけか)を使ってました。
ベトミン兵士が山程乗ってファシストの兵器なのにちょっとソ連式。
25 :
名無し三等兵:02/05/01 14:08
>>12 ハルゼー艦隊による被害は甚大です。
1945年1月12日だけで、船舶33隻14万トン沈没。艦艇は練習巡洋艦1を含む13隻が沈没。
南方資源補給路は事実上絶たれることになりました。
>>20 ボー・グエン・ザップはOSSの支援で5,000人規模の軍隊を編成できたそうです。
ベトミンの1945年8月19日のハノイ蜂起後、ザップの軍隊は10万人にまで拡大。
以後、フランス軍を苦戦に追い込みます。
>>23 ドキュメンタリーにも使われている映像には、100人のベトコンが
鹵獲した105ミリ砲を引っ張って山頂へと運んでいるものがありました。
(山頂から直接仏軍陣地へ射撃していました)
>>24名無し調査員殿
本当だとしたら物凄く興味深い話です
実はコムソモーレツと一緒に供給されたOT180だったとか(藁
あ、正しくは「OT810」です
28 :
名無し調査員 ◆h2HByRZM :02/05/01 14:48
>25
初期のベトミン軍はアメリカよりOSS経由で供給されたトンプソン機関銃を
使ってたのは有名な話ですね。ただ弾丸が手に入り難くなった後はお蔵入り
したそうです。
>26名無し四等陸士 殿
問題の車両は85年頃ベトナム軍のアーカイブから出てきたフィルムからです。
タイトルは確か「パック・ボ、ラオス戦線での戦いの日々」。
装甲車両は詳しくないので断定は出来ませんが半装軌車両でした。
資料発掘できたらまた書きます。
これが日本製のハーフトラックだったりするとそれはそれで凄いんだが・・
30 :
名無し調査員 ◆h2HByRZM :02/05/01 15:00
あ、仏軍スレにベトミン持ち込んですんません。一応念為。
このまま「アメリカ介入以前のインドシナ半島スレ」にしてしまいましょう。
アメリカ介入以降も含めると、ベトナム戦争スレになっちゃうから。
>>21 1輌持ち込んでいたですか。故障して使えなかったなら記録が少ないのも頷けます。
ちゃんと動けば、M4やM24に混じって味のある話しになっていたかも知れなかったのに(笑)
>>24 ベトミン軍ではありませんが、当時のフランス外人部隊はドイツからの志願兵が多かったらしく、
MP40やKar.98等も使っています。
>>28名無し調査員殿
スレの主旨からしてベトミン関連情報は欠かせないと思います
ので是非お願い致します。
>>31 「ホルスト・ヴェセル・リード」歌いながら戦闘したんですよね。
>>31ばばぼん殿
当時は多くの元親衛隊員が戦犯の追及を逃れたり、職に就けないなどの
理由で外人部隊に職を求めていました。
戦闘能力は高かったので仏軍では歓迎されたそうで、スエズ動乱の時も
彼等は出動し、引き揚げの時に帽子をカイロ湾に投げ捨てたそうです。
>>34 戦犯訴追から逃れるための元ドイツ兵も多かったのですが、何故かイタリア兵も多かったそうです。
そしてそれでは足りなくなり、現地のベトナム人も外人部隊徴募の対象となります。
そういえば、帽子はおろかスエズ運河航行中のベトナム行き輸送船から仲間と共に身を投げて、岸まで泳いで、
そのままエジプトで軍事顧問になってしまったオスカー・ディルワインガーSS大将も外人部隊でしたね。
36 :
名無し三等兵:02/05/01 16:56
フランスでは第2次大戦の終戦記念の式典が5月7日(ドイツが降伏した日)に行われて
いるんだけど、日本軍との戦いで戦死したフランス軍兵士のために8月15日にも式典を
開催する、という記事がいつか新聞に出ていた。
日本軍とフランス軍はある程度交戦したのかな?
末期のフランス軍武装解除の際の明号作戦で交戦してますね。
そういえば以前家族の従軍体験を書くスレに、フランス軍将校に
撃たれた祖父のいる方がいたな。
>>35 ディルワインガーはてっきり大戦で戦死したとばかり思ってました。
ドイツ人はしぶといな〜。
明号作戦は戦史叢書に詳しいのでしょうが、自分の手元にある資料だと、
ハノイのシタデル兵営で激しい交戦、死傷者多数。
ハノイ南東のナムディンでは交戦なし。
ハノイ西方のソンラ省では、逃走した仏軍に対し21師団62聯隊が掃蕩作戦を展開。
若干の死傷者。聯隊は6月〜7月の間、ベトミンとも交戦。
ハイフォンでは37師団227聯隊第2大隊がハイフォン兵営を襲撃、激戦になった
そうです。
39 :
名無し三等兵:02/05/09 23:17
保存age
40 :
名無し調査員 ◆h2HByRZM :02/05/11 15:56
一応保全ageネタ
>ドキュメンタリーにも使われている映像には、100人のベトコンが
>鹵獲した105ミリ砲を引っ張って山頂へと運んでいるものがありました。
コレ有名なんですがシーンによっては戦後の再現映像なんです。要はヤラセです。
新旧フィルムを織り交ぜてドキュメンタリーに仕立てているのですが、上手く作って
あるのであまり違和感を感じさせません。
105mm砲を山頂へ引き上げるシーンは、NHKなどで使ったときには無音になっていま
したが原版には掛け声やらディエンビェンフーの戦いを称える歌やら入ってます。
戦後に付け足されたフィルムは結構長い物ですが砲架車輪に止め木材を噛ませたりす
る兵士、頂上でロープを巻く兵士など興味深い所も多いです。
フランス軍に対してのベトミン側の戦いは知恵と人力を使ったと言う事でしょう。
41 :
名無し三等兵:02/05/11 17:44
>>40 「知恵と人力を使った」なんてのは共産党が同情買うためいつもやってる大嘘のプロパガンダで
実際はソ連や中共、北鮮の機械化部隊が兵站・輜重を担当してたんだろ?
軽戦車や砲兵まで持ってた機動部隊(中核は世界最強の外人部隊!)相手に
原始的なべトコンのアタマと戦闘力で勝てるわけないと思われ
満足な砲兵だっていなかったろうから(直接照準射撃はできたかもしれんが)
砲もソ連から砲手ごと借りたんだろ
戦後フランス軍が日本陸軍が残して行った一式戦を使用したようだが。
評価はどんなものだったのだろう?
あぼーん
44 :
植民地空挺団:02/05/11 21:51
保存age
ディエン.ビエン.フーまで引っ張るぞ!
ボー・グエン・ザップのインタビューで、ディエンビエンフーの戦いで中国人軍事顧問が
立てた作戦が人海戦術と言うのに笑いますた
そんな軍事顧問いらないっつーの
47 :
名無し三等兵:02/05/12 00:26
ベトミンとベトコンは別組織でしょ?
民族独立運動と共産党のあれですな。
結局軍事顧問は 剣匪に赤旗持たせた程度の連中だった
のであろう。
国共内戦も賄賂で(やっぱヤクで金作ったんだろうか。)
勝ったようなもんだし。
インドチャイナ
>>41 >>49 結局、べトコンの主力部隊も大半が中共兵だっということ
ディエンビエンフー戦とはとどのつまり
フランス外人部隊VS中共、北鮮、ソ連のアジア人兵士の
戦いだということか
52 :
植民地空挺団:02/05/12 23:06
>>45 作戦中盤から被害が甚大すぎるという事で、トンネル作戦へと切り替えましたね。
>>49 フランスもアヘンで金作って、山岳民族の師団作ったけど負けました
>>51 外人部隊というか植民地兵が多いです、アルジェリア、セネガル、ヴェトナム、ラオス
地元タイ族、などがメインだったようです(当然指揮官はフランス人)
殖民兵は当然やる気が無いため、作戦後期になると崩壊した戦線が
投降と脱走が相次だ為、さらに崩壊しました、
あとベトコンじゃ無くベトミンね、似ていて非なる組織です
>>52 べトミンはべトコンの隠れ蓑、共産党ではないふりをしていた
そんで、べトコンの正体は中共兵
ベトナム人の兵士(正体は山賊)なんてものはほんのひと握りだった
ホー・チミンは本名が胡志明、ボーグエンザップは武元甲で
正体は支那人
毛沢東の命で大勢の工作員と共に派遣され、ベトナム人に化けて「独立運動」なるものをでっちあげた
仏印進駐の際、フランスからベトナムを解放した日本に「なぜか」立てついたのがべトコン
目的はあくまで支那の日本軍の背後をつくことだったからだ
胡も武も、昭和15年(仏印進駐の年)になって、はじめて登場した
それまでベトナム人は誰も、この2人の名前を知らなかった
54 :
ジュール・ロワ:02/05/13 20:08
>53
ネタか?黄金厨か?
ところどころ史実を混ぜてるのがネタ臭いが
つっこみどころ満載だが
つっこみは植民地空挺団氏にお任せ(はぁと)
55 :
植民地空挺団:02/05/13 23:57
>>ジュール.ロワ氏
え〜こんな電波の相手するんですか〜?
じゃあ軽く
>べトミンはべトコンの隠れ蓑、共産党ではないふりをしていた
ベトミンは「ヴェトナム、ドクラップ、ドンミン、ホイ」と言うヴェトナム語の略
ベトコンは「ヴェトナム、コミュニスト」と言う英語の略でベトミンという呼称は
ホー.チミンが考えたと言われています、一方ベトコンというのは単に蔑称、
1925年頃結成された「青年革命同士会」が1930年に「ベトナム共産党」となり
日本軍の進駐後、日本軍に対するヴェトナム共産党の軍事組織として結成したのが
ベトミン、隠れ蓑でも何でもない、共産党そのまんま
>べトコンの正体は中共兵
ついでに言っておくとヴェトナムはソ連寄りで中国とは歴史上の事も有り
実は大変仲が悪い!(実際ヴェトナム戦争後に戦争もしてるでしょ?)
第二次世界大戦後、ポツダム宣言により北緯16度以北を中国が管理したが
中国軍の横暴は日本軍よりひどっかったという有り様、更にハノイに居座って
あわよくばヴェトナム北部を占領しようとしていました。
>ホー・チミンは本名が胡志明、ボーグエンザップは武元甲
胡志明はホー.チミンと読みます
武元甲はボーグエンザップと読みます
ヴェトナムは元々漢字の国、仏の植民地支配が長かった為現在のようなローマ字
表記に成ってしまったのです(今でも漢字使ってますけど…)
当然二人ともヴェトナム人でフエ(ユエ)のクォクホク高校の同窓生でもあります、
>フランスからベトナムを解放した日本に「なぜか」立てついたのがべトコン
解放とは名ばかりでヴェトナムの物資と南方への補給基地としての「占領」
だったからです、一説には食料不足で200万人のヴェトナム人が餓死したと
云われています、(この数字は後に適当なものであったとヴェトナム側も認めていますが…)
>胡も武も、昭和15年(仏印進駐の年)になって、はじめて登場した
それまでベトナム人は誰も、この2人の名前を知らなかった
ボーゲンザップはともかくホーについては20代の頃から知られているぞ!
アメリカ船のコック→フランス留学→在仏ヴェトナム人新聞の記者→共産党入党
ソ連留学→中国経由でヴェトナム入国
渡仏後グエン,アイクォク名義で植民地批判のプロパガンダ活動をしていたので
(ちなみに風刺画も上手です)誰も知らなかったという事は無い、
ザップについては失念、教師をしていたと思ったが?誰かフォローして下さい〜
細かく言うともっとあるが、ざっとこんなトコかな?
>>41よ!まともな資料を読んだ方が良いぞ!
>ついでに言っておくとヴェトナムはソ連寄りで中国とは
>歴史上の事も有り 実は大変仲が悪い!(実際ヴェトナ
>ム戦争後に戦争もしてるでしょ?)
ここら辺考察した論文どっかで読んだ気がするが・・・
結構中国とずっぽしうまくやってた(文革のマネごとして
ご機嫌とったり)ような話だった。
結局中ソ対立の中でソビエトを選ぶわけだが
>55 植民地空挺団 殿
厨のお相手お疲れ様です。上げた私が悪かったと思います。
恐縮ながら細かく補足させて下さい。
>ベトミンは「ヴェトナム、ドクラップ、ドンミン、ホイ」と言うヴェトナム語の略
これは1930年代のベトナム独立同盟会と区別する意味も含ませて「ホイ(会)」は
抜いて表記した方が良いと思いますがいかがでしょう。
ベトナム側の書籍でも「〜Dong Minh」までで表記されています。
>アメリカ船のコック→フランス留学→在仏ヴェトナム人新聞の記者→共産党入党
>ソ連留学→中国経由でヴェトナム入国
ホー・チ・ミンの略歴を補足すると小学校の教師→フランス船籍のコック→在仏ヴ
ェトナム人新聞の記者(同時期に仏共産党結成、入党※第三インター派)ソ連留学
→中国(顧問団通訳)→中国経由でヴェトナム入国、こんな感じでしょうか。
まだまだありますが、細かくするとえらく長くなりますので。
>ザップについては失念、教師をしていたと思ったが?
簡単に書けば中学の歴史の先生でした。傍ら記者の仕事をしていて仏総督府警察に
民族主義の煽動家、共産党のシンパとしてマークされ中国へ脱出しました。
あと別ですが、
>フランスからベトナムを解放した日本
今日では、日本が解放したなどとは真面目な論議の対象になっていません(藁
まあ
>>41は単に煽っているだけのような気がしますが。
58 :
ジュール・ロワ:02/05/14 19:16
>植民地空挺団様
>56様
>57様
黄金厨の相手、ご苦労様でした
こいつはなんか、ネンチャクでしたね
蛇足ながら、べトミンの正式名称は
対外的には、ベトナム・ドクラップ・ドンミン・ホイですが
同盟員の間では、ホイ・ドンミン・ドクラップ・ベトナムです
これは、前者が中国語の語順でついた名前で、対外的に使ったものだそうで
ベトナム語の語順に直すと、後者になるわけです
これではなるほど、同盟員どころか、彼らの強力な味方である農民層も覚えにくいわけで
それを簡潔に「べトミン」で統一したのが、ホー翁だったそうです
ザップは1912年生まれですから、40年にタンチャウで解放宣伝隊を立ち上げたときは
まだ27か28歳の若僧
まあ、インドシナ共産党内でも有名ではなかったのは事実です
ただ、ゲティン・ソヴェートの敗北、人民戦線崩壊に伴う仏当局によるサイゴンでの大量検挙
チャン・フーの獄死など、共産党幹部の消滅で、彼や彼より6つ年上のファン・バン・ドンらが
後を担わざるを得なくなっていたわけです
ザップが教職を辞したあたりの事情(ある日放課後にそのまま蒸発して北部国境へ向ったらしい)は、
「忘れられない日々」という回顧録で振りかえっていました
さて、ディエンビエンフー戦直前の
カット・ビ飛行場襲撃について
詳しい方教えてください(教えてクンですみません)
あれは、陽動作戦だったのでしょうか
59 :
ジュール・ロワ:02/05/14 19:23
黄金厨クンに追加
ホー翁は、フランス共産党の創立メンバーの1人
社会党員として、ツール会議で第3インター合流に投票した1人だ
植民地出身者として最初の党員
植民地問題の責任者だったんだぞ
40年以前に誰も知らないなんてうそこくな
60 :
名無し三等兵:02/05/14 19:26
ここはレッドオーシャンだね
61 :
ジュール・ロワ:02/05/14 19:33
スマソ
ついのっちまった
ついでに、46年のハノイ戦あたりでは、仏軍装備は自由フランス軍と鹵獲ドイツ兵器
個人装備ではOSSの空中投下品なんてのまでまじってたが
ディエンビエンフーではさすがに、米式装備一色だね
ついベトミンスレにしてしまいスマソ。この辺で撤収します。
>ジュール・ロワ 殿
黄金厨クンはグエン・アイ・クォック→ホー・チ・ミン別人説を言いたかったのかも
しれませんね。説得力は全くありませんが。
越語ではまさにホイ・ドンミン・ドクラップ・ベトナムです。
語順はベトミン結成が中国と密接な関係があったことに由来してますね。
蛇足の蛇足ですがベトコンと通称されるものは越語順では「ベトナム南部を解放する民族戦線」ですね。
いまだ「ベトナム民族解放戦線」と誤ってされている向きが多いです。
63 :
植民地空挺団:02/05/19 23:56
月刊PANZERに仏印戦争時の仏軍装甲車両の特集が掲載されておりました。
まさか、M3中戦車(偽砲付の砲塔)を戦闘に投入していたとは…。
>>65殿
情報どうもです。
よりによって更にマイナーな車両だったとは…(藁)
M38(シャーマン改造)は割と有名なのですが、M31なんてのが
存在していた事すら知りませんでした。
うむ、仏印進駐以前の状況をまとめては貰えまいか、諸兄?
私を含めそもそも何であんなところに仏軍がいたのか、理解できない
厨房が多いと思うので。
んで、何で皇軍が仏印進駐したのかまでも解説してくれれば完璧だな
植民地だったから(という教科書で習う歴史以外に理由あった?)
>67
今期の「歴史群像」に仏印進駐にもついてあり。
次号からはインドシナ紛争史(4回掲載)らしい。期待sage