じ
に
なんじゃこりゃ
うちのじいちゃん元相撲取りで体格もよく甲種合格で陸軍へ
で、他の奴らは外地に行くもじいちゃんは内地で旗持ちをやっていた
そして本土決戦部隊に入るも戦争は終わり、で
千葉から栃木まで馬で帰ってきた、終わり
軍属でグラマンに追い回された
終わり
ある外地で慰安婦といつもチョメチョメしてた
終わり
結核で三日除隊
終わり
38式で同僚と射的で遊んでたらしい、牛缶賭けて!!
終わり
うちに爺ちゃんに言わせると、日本軍は中国大陸では連戦連勝、ゴロツキ中国軍を相手に
中国大陸を一刀両断、打通3千kmを成し遂げ、連戦連敗続きの太平洋を尻目に岡村大将
の支那派遣軍は決して負けなかった・・・と誇らしげに語っていたよ。
ボクは「へぇ、日本陸軍って強いんだ」って思った反面、勝てる海戦でも負けたヘタレ日本海軍
が情けなくなって来たよ。
まさに打通こそ日本陸軍が後生に残した輝かしい勝利の記録って奴だね。
10 :
名無し三等兵:02/04/08 23:02
>>4 うちのじいさんは千葉にいたぞ、物資不足で草鞋だったてさ。
終戦前に九十九里浜沖に潜水艦が浮上、艦砲射撃を受けて、もう終わりだと思ったそうだ
その爺も逝っちまったがな、
俺のばあちゃんは九州にいたんだけど、沖縄に向かう戦艦大和を
見送ったと死ぬまで俺に言い続けていた
12 :
ココリコの先輩:02/04/08 23:11
母方のじいさんは満鉄関係者。
開戦前に病死したんでばあさんは子供三人を連れて帰国。
もしじいさんが病死しなかったら多分
現地召集で戦死してばあさんは終戦時生きるか死ぬかの状態で
身一つで帰国。
という事はウチのオカンは中国残留孤児に・・・ (鬱
ちなみにひいじいさんは海軍軍人で
日本海海戦に東郷さんの揮下で水雷長かなんかだったとか。
退役時少将で昭和になる前に死んだらしい。
辞令のコピーを一度本家でみせてもらったよ
終わり
、
13 :
名無し三等兵:02/04/08 23:14
うちの〜じいちゃんツワモノだ〜
終わり
九州大分出身なのですが、樺太?に行っていたそうです。
抑留等は食らいませんでしたが、栄養失調で帰ってきたそうです。
**** 3年前に死んだバァチャンの話ですが何処まで正確かは不明 ****
父方の祖父は上海で商社員をやっていた。
現地妻に使用人を侍らせ、豪邸に住んでいたらしい。
終戦の日まで日本が負けているなんて夢にも思わなかったそうだ。
中国にイトコとか居るかも知れぬ。
父方のじいさんは開戦時すでに50過ぎでお呼びがかからず。
伯父貴が応召してビルマ戦線に従軍。
インパールでひどい目にあったようでかなりやつれて復員。
一年ぐらい体力が回復しなかったらしい
当時のことをあまりしゃべらんが唯一聞き出したエピソードは
復員船上から隠し持っていた南部十四年式を海に捨てたことのみ。
(何のために隠し持っていたのかなぜ捨てたのかは不明)
17 :
名無し三等兵:02/04/09 00:04
内地で見張り台の上で双眼鏡をのぞいてたらしい、
「敵機襲らーい」とか言ってるうちに終戦
終わり
じいさんは福岡の方で、食料関係の役人だったらしい。
随分前に死んでるが、本人に聞いても何も話してくれなかった。(ばあさんから聞いた)
19 :
名無し三等兵:02/04/09 00:18
ウチの爺ちゃんは南京にいた。
シナチク殺しまくりの犯しまくりだったって。まわりもみんな
やっていたってさ。
20 :
名無し三等兵:02/04/09 00:26
>19
うちのじいさんっていうかうちの地元で編成された部隊が
一番最初に南京に入城したって聞いたことがあります。
でもあんまりじいちゃんとそういう話はしなかったから詳しくは解らんが…
21 :
名無し三等兵:02/04/09 00:49
うちの爺様、ノモンハンとインパールに参加……
でも五体満足で今も元気。
思い出話は食い物中心(本場の中華料理は旨かったとか……etc)。
まぁ電信兵(電信第2連隊とか云う所に所属したらしい)とは云え、両方の
死傷率を考えると凄いなと思う次第。
22 :
名無し三等兵:02/04/09 00:50
うちのじいさまは、冬月に乗ってたそうな。
当然、大和特攻にも参加。
大和が沈んだあとも、呉に帰って艦を修理すれば、まだ空母も戦艦もある。
まだまだ、戦えると思っていたそうだ。
パイロットいないし、燃料無いから大和だけいかせたんじゃんと、小ざかしくいった俺に、
そうだねと頭をじいさんは、なでるだけだったが、今にして思うと恥ずかしいわ。
所詮、戦争をしらない子供たちなんだろうな・・・
PS
じいさまは、10年前になくなりました。
23 :
名無し三等兵:02/04/09 00:58
>22
そのじいさんに漢を感じるね。
22、23氏ありがと。
ついでにいうと、大和特攻は
「聯合艦隊の意地とか栄光のために犬死にさせにいかされた」
というが、じいさまに言わせると
「沖縄が米軍にやられている。それを助けるために大和と俺たちが行くんだ」
と本気で信じていたそうだ。
俺は当時、「所詮、下っ端いいようにだまされてるなぁ」と思っていたんだが
やはり、今にして思うとはずかしい。
23、24氏ね。(^^;;;;;
うちのじいさまの兄は特攻で死んだらしい。
じいさまは内地で飛行機などの整備をしていたらしいのだがその話をすると泣いてしまうので最後まで申し訳なくて聞けない。
現在肺がんで入院中。
1の期待に反してスレが転がってるな・・・・
可哀想な1・・・・
亡くなるまでに詳しいことは聞けなかったが、父方の祖父は
海軍の軍属で南方航路の輸送船に乗組んでいたそうです。
頼んで当時の話を聞き出したことがあって、敵潜の雷撃で
味方の船が轟沈する様等まるで面白い昔話をするかのように
話してくれたことがあったけど、最後は泣き笑いになって
いました。
...爺さん、本当に済まなかった。
30 :
名無し三等兵:02/04/09 02:06
前にじいちゃんにゲートルの巻き方を教わりました。
忘れました。
じいちゃんは1年前に・・・・・・・・・・・・
入れ歯を入れました
31 :
名無し三等兵:02/04/09 02:17
うちのじいちゃんの自慢は
台湾で名小曽根にピンポンで勝ったこと
ちなみに兵隊にはとられたけど、乗る船が片っ端から沈められて
台湾で敗戦を迎えたそうです
32 :
名無し三等兵:02/04/09 02:42
母方の祖父は満州で新兵の教育をしていたらしい、
散々ビンタやらパンチを浴びせ結局みんな死んでしまった
いつも笑顔のじーちゃんだったがこの時だけは涙目に・・・
幼房の頃に聞いたが、二度も聞けるような雰囲気ではなかった。
33 :
名無し三等兵:02/04/09 02:47
>>32 ネタだよね?
事実だとしたらじいちゃん殺人鬼じゃ・・・
34 :
名無し三等兵:02/04/09 02:51
俺の祖母はシベリアに抑留されて露助に犯されそうになったから、丸坊主にして
男装してたってさ、ちなみに露助はヒマワリの種をボリボリ食うそうだ。
35 :
名無し三等兵:02/04/09 03:35
靖国。陸軍。フィリピン。
36 :
名無し三等兵:02/04/09 04:36
うちのじいちゃんの話もよく食い物の話してた。
意外や意外、中国戦線ってのは結構いいモン食ってたのね。
本には南方戦線の飢餓の悲惨な話ばっかり出てるけど、じいちゃんの場合食いすぎで
本土にいたときより体重増えてたらしいw
連日豚肉食ってたから日本に戻ってからはしばらく豚肉は見るのもいやだったと。
ひいじいさま、満州でホテル経営。
現在でもその建物は図書館だか庁舎として使用中。
引き上げで無一文に。
戦死者なし。
死んだ家のじいちゃん時々犬を食ったとか言ってたからなあ
恐らく中国でやってたんだろう。惜しまれる事は消防の時に
死んでしまった事だシベリアに抑留された時に馬の糞をじゃがいも
と間違えてストーブで暖めた話はよく話してたんだがそれ以外
の話は全然しなかった。とゆうより俺が聞いても言わなかったよ
39 :
名無し三等兵:02/04/09 11:33
父方のじいちゃん&ばあちゃんの話しかしらないけど。
じいちゃん土木関係の人だったから呉で基地作ってたらしい。
広島に原爆が落ちた時の話もしてくれたよ。
突然窓の外がピカっと光ったと思ったら、凄い音がして窓が吹っ飛んだらしい。
外に出たら広島の方には超巨大なキノコ雲。 そりゃあビックリしたってさ。
最初は弾薬工場で事故でもあったんだと思ってたら敵に新型爆弾って話だそうだ。
じいちゃんの仲間が何人か広島に救助に向かったらしいよ。
救助に向かった人達は放射能に犯されてしまったらしい。
おばあちゃんは戦時に東京にいたらしいよ。 東京大空襲を経験したらしい。
空襲のあった後に勤め先(外務省だったか?)に向かうために駅に行ったけど、
電車なんか走ってないから、線路(山の手線?)を歩いていったそうな。
そしたら、線路の脇に死んだ人が壁の様に積んであったんだって。
当時は感覚が麻痺してて、死体が積んである中を歩くのも平気だったそうな。
40 :
名無し三等兵:02/04/09 11:42
ウチの死んだじいちゃんから聞いた話。
長谷川一夫(字が違うかも)が同じ部隊に居たって。
でも、俺は見たことないけど役柄通りナヨナヨしてて途中で帰国させられちゃったって。
41 :
名無し三等兵:02/04/09 12:51
うちのじいちゃん昭和18年から終戦までニューギニア。陸軍薬剤中尉。
自伝を書いている。私物のモーゼル自動拳銃で参謀を狙う蛇を撃ち殺したり、
内地で古兵からいじめられてる新兵をふんどしいっちょうのままたすけたり、もう大活躍。
42 :
名無し三等兵:02/04/09 14:33
ウチの死んだじさまは北京で公社を任されていたらしい
日本から瓦を取寄せ豪勢な家を建て
召使を大勢しつらえて
ゴージャスに暮していたらしい。
終戦、帰国して戦犯になり役職に付けず遊んでいた模様。
44 :
名無し三等兵:02/04/09 15:15
>>1-42 なに犯罪者を自慢げに語ってるの?
あたま変じゃあにの?
45 :
名無し三等兵:02/04/09 15:30
シナ人を何人も切ったと言っていました。
復員してから、一時期、基地外になってしまったそうです。
46 :
名無し三等兵:02/04/09 15:38
俺の爺さん戦争中既に50台。だから戦争中大阪で料亭してたが、客は
軍人と戦争商人ばかりだったそうだ。
47 :
名無し三等兵:02/04/09 15:46
49 :
名無し三等兵:02/04/09 15:48
だれか>44に戦争には法律が適用されない
と言うことを教えてやってくれ。
50 :
名無し三等兵:02/04/09 15:50
じいちゃん国鉄
兵隊さんと同じくらい偉かったんだぞ
煽りは無視が上策
52 :
名無し三等兵:02/04/09 16:35
>>49 へぇー残虐行為でも犯罪じゃないんだー
南京で300万人以上虐殺しても何もとわえないんだね・・勉強になったよ^^
じーさんにあたる人は衛生兵で、昭和18年に満州で
手当てした兵士の病気がうつって病没したらしい。
近所の友人のじーさんにあたる人は同じく満州にいたが、
ソ連侵攻の時に体中に銃弾浴びて蜂の巣のようになって
亡くなったということだ。
写真しか残ってないじーさんに可愛がられたかったなぁと
思うこともあったし今の自分より若くして亡くなったじーさん
のことを思うと切なくなるが、もし生きていても近所の友人の
じーさんのようになったり、シベリアに送られたかもしれない・・・
と考えると、うちのじーさんはまだ平穏さが残る時期に亡くなった
のでいい方だったのかなぁと・・・。
そうでも思わんとちょいとやりきれない年頃もあった。
┌───────────────┰───────────────┐
| ┌─────┐┃┌─────────────┐│
│ コイツラウゼェニダ .│早速..煽り .|┃│.ウリのレスが元で..荒れ始めた.││
| |レスするニダ。 .|..┃└─────┐ニダー・・・。 ││
| └‐v────┘┃ hehehe └‐v──────┘│
| __.∧ ∧__ .∧___∧ ニダニダ .┃ __∧ ∧_ .∧___∧ ヒヒヒ │
| /\<*`Д´>/)<ヽ`∀´> ットナ ┃ /\<`∀´>/)<ヽ`∀´> ツレタニダ ...|
| \/| ̄ ̄ ̄( つ__// ̄ ̄ ̄ ̄/ .┃ \/| ̄ ̄ ̄( つ__// ̄ ̄ ̄ ̄/ .│
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |\// エロ爺 ./ .┃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |\// エロ爺 ./ .|
| 旦~ \|| 三三三三:| @┃A 旦~ \|| 三三三三:| |
┝━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┥
|┌─────―――――――┐B┃C┌────────────┐│
││ヒヒヒ..常連コテハン.まで釣れた. └┐┃┌┘.こんな性癖のある連中を、 ..││
|└――――――┐. ニダー. !!.│┃│ まともに相手しても無駄! .||
| マンセー. マンセー! └‐v───―─┘┃| 当然、放置や無視が1番さ!.|│
| __.∧ ∧_ .∧_∧ モットモット .┃└――――――┐ ほっとこう ! │|
| /\<*`д´>/<ヽ`∀´> オドレニダ ..┃ ∧_∧ ワラタ └―‐v――――┘|
| \/| ̄ ̄ ̄( つ__// ̄ ̄ ̄ ̄/ .┃<ヽ`∀´> ワラタ ∧_∧ .│
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |\// エロ爺 / ..┃| ⊃⊂ヽ (・∀・ ,) |
| 旦~ \|| 三三三三:| ┠ ヽλ⌒>⌒>――‐.⊂、 ∪ )―───┤
└───────────────┸──────────―────┘
55 :
名無し三等兵:02/04/09 16:50
鑑定団の故渡辺包夫氏も、いっぱい殺しましたっていってたぞ
56 :
名無し三等兵:02/04/09 16:53
俺の爺ちゃんは海軍だったらしい。
戦地へ向かう途中の船上で終戦。
後ちょっとのズレで俺生まれてない(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
官給品の毛布じゃなくて寝袋で寝てて怒られたらしいw
後戦争に法が適用されないのは何でだったっけ?
正確な理由わすれたw
57 :
ふくうち ◆MGRLiAK2 :02/04/09 19:00
うちのじいちゃん(母方)は
戦争行くのが嫌なんで医学校(獣医系だが)に進学
日本本土内の学校は無理だったらしく、朝鮮のほうに行ったらしい。
卒業して、やれ百人針だ、万歳だやってるうちに終戦。
ばあちゃんのほうは、満州のハルビンの屋敷に住んでたそうな。
戦時中は兵隊さんが守ってくれてたらしいが、(ちなみにばあちゃんの母方は楠木家の末裔)
終戦と同時に兵隊がどっかいっちゃって露助将校が押しかけたそうな。
満州人の女中をかっさらったらすぐいなくなったらしいが、怖くて一ヶ月くらい床下で隠れてたらしい。
あと、ひいひいひいじいさんに当たる人が帝国海軍でバルチッ艦隊と戦ったそうな(詳細は不明)
うちのじいさんは陸軍の通信部隊の士官だった。最終の階級は知らぬが。
マラリアにかかってガダルカナルから帰ってくる時に輸送船上で米軍機の
機銃掃射を受けて左肩に被弾。摘出しなかったらしいんで亡くなって焼いた時
必死で探したんだけど見つからなかったな。
ちなみに広島の連隊所属だったんでばあさんとお袋は広島に居たんだが、たまたま
盆に大阪に帰ってる時に広島に例のブツが。このことを思い出す度に下手したら
今のオレはいなかったなと思うと冷や汗三斗だ。
煽りは虫が良いのは解ってるけど、
≫南京で300万人以上虐殺しても何もとわえないんだね・・勉強になったよ^^
白髪三千条の国の30万人が、私の知らぬ間に300万人。!!!
北京オリンピックマデには中国全土で1億人くらいになるかもシレン!!!!
勉強シトかんとイカンネ!!(w
あっ。そうだ。もうひとつエピソードを思い出したんで書いとこう。
それと階級は知らぬがってのはいかにも拙かったな「忘れたが」が正解。
今でも実家には二等兵から始まる辞令が残されてた筈。
大陸での面白かった話(戦闘は除く)は他のヤシが書くだろうからパスするとして、
オレが消防の時にテレビで「地球防衛軍」を見てたと思いねぇ。
で、クライマックスの敵味方入り乱れての攻防戦のシーンでマーカライトファープ
を見たじい様が
「むかし、軍隊で”殺人光線”ちゅうのを作っててなぁ…。」
と画面に写ってるような物がちっとも使えなかった話をしてオレをがっかりさせてくれたよ。
しかし何でじい様殺人光線なんて知ってたんだ。
あともうひとつ。じい様は
「早や飯、早や糞、早や走り」
を”死なない兵隊の三原則”としてオレに教えてくれた。死なないというキーワードを
変に思ったオレがそのことを聞くと死んだ兵隊は役に立たないからだとの事。
って言うかじい様の頭ん中には兵隊には「生きてて使える」と「死んでて使えない」の
2種類の状態しかないと思われ。(( ;゚Д゚))ブルブル
俺の母方の祖々父は、戦車隊にいたそうだ。
フィリピンのレイテへ送られて戦死したと言うけど、
戦車に乗ってたのかなあ? 燃料なくて、歩兵じゃないかと
思うだけど。
乗ってたとしても、97式じゃ想像できるし・・・・。
部隊が全滅で、どんな戦いをしたのかさえわからないんだ。
せめてどう戦ったのかくらい知りたいな。
じいさん俺が赤ん坊のときに亡くなってるんで婆さん経由の話だけど
「満州は寒くてすぐ凍傷になる」
「満州で夜中歩哨をしてると鼻が凍る」
「満州にいったせいで寒くて体調壊してかえってきた」
・・・なんか寒い関連の話ばっかりだった
63 :
名無し三等兵:02/04/09 20:50
うちのじいちゃん(父方)は満州で徴兵、その後シベリア抑留、そして
帰国してきた。
64 :
名無し三等兵:02/04/09 22:44
うちのじいちゃんの兄貴は潜水艦(詳しくは失念)に乗って南洋で戦死したらしい。
ちなみにじいちゃん本人は、川崎のほうで警官やってた。
敵機がきたら、その辺の屋根に登って機関銃ばらばら撃ってたらしい。(3発ずつ)
死ぬほど来て、死ぬほど登って、死ぬほど撃ったらしいが
当たった経験はないそうな(汗
65 :
名無し三等兵:02/04/09 23:08
うちのじいちゃんは米屋で
ヤミ米の取り締まりのあと、警察から安く買い上げて
儲けていました。
>>65 うちのじいちゃんからはそういう話きかないなぁ
もうボケ過ぎて聞く気も失せちゃったんだけどw
飢え、寒さ、暑さ、痛さ、ドキュソになる、熱病・・・
戦争ってやっぱ嫌だね。
68 :
名無し三等兵:02/04/09 23:20
別に汚職でもなんでもなく。
フツーに警察から電話がくるんだってさ。
捨てるわけにはいかんし、全部食えないし、まぁ当然の流れかと。
駅で艦載機の機銃掃射を浴びること二回。
艦載機が機銃掃射をする時は、エンジンを切ってグライダーのように滑空して
近づくので、爆音などで察知するのは難しく、いきなり殺されてしまうそうです。
>>60 開発してたらしいよ、今で言うレーザー兵器。
まあ、昔のことなんでえらい出力が弱かったようで。
ねずみ一匹殺すのに30分くらいかかってたそうな。
71 :
名無し三等兵:02/04/09 23:33
じっちゃんは水雷の技手やってたんだが明石に乗ってて
呉の工廠に配置替えになった直後明石がアボーン
そのままのってたらオレはいなかった。
72 :
名無し三等兵:02/04/09 23:47
・・・ふくうちがいる・・・
73 :
名無し三等兵:02/04/10 23:37
age
74 :
名無し三等兵:02/04/10 23:53
話聞く前に死んでしまった
75 :
名無し三等兵:02/04/11 00:58
兄経由で聞いた話ですが、うちのおじいちゃんの部隊が中国のどこかの丘の中腹で休憩していたとき
急に部隊長みたいな偉い人がうたたねから目を覚まして、いきなり有無を言わさず休憩を途中で中断して、
駆け足で移動という命令を下し、てってけ走り出したのでおじいちゃんはすごく疲れていたのでむかついて、
もっていた銃だか銃剣だかですぐ前を走っている隊長を殺そうかと思っていたらしいです。
そんで違う丘の洞窟みたいなところで改めて休憩になったとき、さっきまで自分たちがいたところが敵から
めちゃくちゃに攻撃されているのが見えたそうです。
なんでも隊長が夢でそこが攻撃される夢を見たらしいです。
おじいちゃんと一緒に生き残った仲間の人の子孫はここにはいないかなー。
ウチの爺様、満州で傅義の護衛やっておったそうな。
復員してからは、自分が直接・間接問わずに奪った満州人の御霊を
弔う供養塔を作っていたそうだ。
詳しい話を聞きたかったが、漏れが二歳の時に往ってしまった。
78 :
名無し三等兵:02/04/11 01:51
>>70 その技術が戦後電子レンジに生かされたって聞いたな。
マイクロ波だっけ?
79 :
名無し三等兵:02/04/11 02:13
肝心なところで噛んでしまった・・・。
81 :
名無し三等兵:02/04/11 02:31
/(>Д<) 81ゲットーと
82 :
名無し三等兵:02/04/11 14:55
>>78 へー、そうなんだ。
兵器の平和利用ってやつか?
83 :
名無し三等兵:02/04/11 15:03
>>78 その話「提督の決断U」の攻略本にも載ってましたよ。
84 :
名無し三等兵:02/04/11 15:23
日支事変だが・・・スワトー上陸に参加。
沼が土砂降りの時みたいに沸き立つ小銃弾の雨をくぐった時は
さすがに覚悟したそうな。
あと、川で戦友と飯盒洗ってたらバシャって水面真っ赤に
なって連れの頭が無くなってたとか(狙撃されたのね)
まあ、事変時だから、普段はのんびりしてたみたいだけど。
先遣で村に行くと饗応してくれて嬉しかったとか。土産の品もあるし‥
社会で歴史習った時はかなり疑ったね。
85 :
名無し三等兵:02/04/11 16:19
ウチのばぁさんは竹やりでB-29を撃墜してアメリカ軍に「東洋の魔女」と言われて恐れられていました。
ってビートたけしのネタであったね。
消防のころ聞いた話だから覚えてないところもあるけど、かーちゃんのとーさん(よーするにじっちゃん)の話をカキコする
なんかグラマン(敵機を機種関係なくそう呼ぶらしい)に機銃掃射されて田んぼにある藁をつんだやつの後ろに隠れて
バリバリバリと掃射されて向こうでUたーん。じっちゃんは藁の反対がわに隠れてまたバリバリバリ…が三回(6回かも)
ぐらい続いたらしい。12.7mmは藁の山ぐらい簡単に貫通しそうな気がするのだが…ネタか?じーちゃん。
漏れの親父の親父(じーちゃん)から聞いた話ではなんか街に夜間爆撃があった次の朝、
田んぼに落ちてた不発弾(焼夷弾か通常爆弾かは不明)を子供が見つけ引っ張りだしてて井戸でプロペラ(?)
に水をかけて回して遊んでたらあぼーん。指だったか腕だったかがあぼーんされたそうな。
なんかどっちもネタっぽいけどsageない。
長文乱筆乱文スマソ。
ageわすれ&書き忘れ。二重カキコなのでこれはsage。
自分のレスからDQNの香りがぷんぷんしてる(汗
↑はWW2の話
母方の爺さんはソ連と満州の国境で警備兵をしてたそうです。
ソ連側には女の兵隊さんがいたらしく(本当に兵隊か怪しいですけどね)双眼鏡
で覗いてハァハァしてたらしいです(w
ソ連が満州に侵攻するまえに満州の本隊が日本に移動してるという話を聞きほとんど寝ずに三日間行軍して本隊に合流、
高知県で本土決戦の準備をしていたところ終戦。
本隊からの連絡は好きにしろだったそうな^^;もし留まってたらシベリア行きでしたね(汗
ゾス
祖父は地方官吏でした
戦地行かず マンセー 戦後に母親が生まれる
助かった
ちなみに母親のほうが、ヘルメットをかぶった革命戦士でした
91 :
名無し三等兵:02/04/11 17:38
>>85 あれ、竹やりっつっても先っちょに爆弾つけたもので普通に使ってたらばあさまもあぼーんするはずだが・・・。
竹のバネ利用した発射機(器?)なら大丈夫だろうがw
90も越えたが、見たところ一番すげえのはおれのじいちゃんだな。
93 :
名無し三等兵:02/04/11 18:39
>>93 じいちゃんは7年前に亡くなっていまして。
自伝は知人、親類むけに個人でつくった物なので出版はされていません。
題名は「回想南海の業林」です。
昭和16年12月12日の応召から昭和18年から終戦までのニューギニアでの生活
そして、再びニューギニアに訪れたときのことが書かれています。
>92
いいや>76の爺ちゃんの部隊長だろw
俺の爺さんも終戦間近は呉にいて、
広島のキノコ雲だけは見えたっつってた。
弾薬庫でも吹き飛んだのかと思ったらしい。
この爺さん、船が撃沈されて泳いで逃げたって
よく話していたけど、当時(俺が子供の時分)はどうやって助かったのか
よく分からなかった。だって船が沈んだって話しなら
タイタニックみたいなのしか想像できなかったから。
今考えてみると、もはや内地で身動きのとれない
船だったんじゃないかって思う。泳いで陸にあがれる距離だったんだろな。
10人に9人はそのとき死んだって言うから、運が良かった。
その爺さんも3年前にガンで余命半年って言われたよ。
そう言われてから3年経ったんだけどね・・・。
98 :
名無し三等兵:02/04/11 21:42
何でなのかはよく覚えてないんだが、
戦地で逃げていたんだと、そりゃもうみんな必死で逃げていたんだよ。
ふといっしょに走ってるやつを見たら、首がなかったそうだ。
首のない状態で、惰性で100Mくらい走ったらしい。
ありゃーホントにビクーリした、といっていた。
俺には想像出来んがね...
99 :
名無し三等兵:02/04/11 21:58
うちの祖父は満州の歩兵。軍刀やらメットやらまだある。めしがなくトカゲ、ねずみを捕食。
三八式を撃ちすぎると肩が抜けるといっていた。とりあえず食べ物がなかったといっていた。
友達の祖父は 戦艦武蔵乗組員→沈没→捕虜→帰国
100 :
名無し三等兵:02/04/11 22:25
良スレ
>>70他
いや、殺人光線の開発がされてたって事はオレも知ってるんだよ。じい様に聞いたのを
始めとしてな。オレはマグネトロン真空管だのパラボラだのって単語をじい様の話で
初めて知った。
オレが疑問なのは、戦後軍事関係には関わらずにふつーのリーマンとして過ごしたじい様が
何でそんな秘密兵器のことを知ってたのかってことだ。逆にそんなものを知りえる立場に居た
しかも士官のじい様がなんで戦後はリーマンとして過ごしたのかってのも疑問では在るな。
102 :
名無し三等兵:02/04/12 00:54
<祖父>
珍しく職業軍人。
連隊の射撃大会で優勝して連隊長からブローニングをもらった事を自慢していた。
大陸から台湾方面の航空隊に異動。
航空隊では百式司偵の偵察員として勤務。
「グラマンを振り切ることができた」と1回だけ聞いたことがある。
途中1回エンジン故障による墜落を経験。このときは3人とも助かったが
無人島で蟹食って腹壊して大変だったとのこと。
103 :
名無し三等兵:02/04/12 02:20
>>101 戦後のドサクサでいろいろとあったんじゃない?
要領のいいやつはそのまま地位を保てたけど、たいていの人は...じゃないかな。
ベトナム戦争もそうだった見たいだけど、戦中は英雄だのなんだのおだてるけど
終わったとたん犯罪者扱いだからね、負けた場合は。
うちの婆ちゃんの叔父さんは山下奉文です。(マジです。)
財宝の地図くらい残して欲しかった、、、
105 :
名無し三等兵:02/04/12 10:07
オレの祖父は陸軍軍医中尉ドノで引き上げ時に患者に最後の注射をうったあと自分がマラリアになり死亡。享年31歳。
その患者さんの息子さんが親父を訪ねてきて熱くお礼を述べていったと父から聞いた。
で、ばーさんに「じいちゃんかっちょええ!」みたいな話をしたら
「なんの!ちゃんと還ってきたんだよ。でもそれから肝膿瘍になってよしゃあいいのに新米の医者に切らせて死んっじまったんだよ!」
…じいちゃん…。
ちなみに戦死扱いにしてもらえて恩給はきっちり頂いてたそうです。
で、25歳で子供2人抱えて未亡人となった祖母は今年3月31日、88歳で永眠しました。
>>106 以下、私の祖父の著述した戦記の冒頭部分です。
まえがき
戦記を書き残そうと、私が思ったのは可愛い孫たちの為だと言っても良い。
彼等が大きくなって私の戦記を読み、如何思うか、私は無駄な戦争は二度と
起こして貰い度く無いとの願いを込めたつもりだが、勿論君等の時代には全
てに様相も変わっているだろう。現に私の父、君たちの曾祖父も日露戦争へ
も出征していた。無論、勝ち負けの違いもあるが、父と私の場合戦争の様相
すっかり異なっていた。然し、人間の殺し合いと、莫大な物量の消耗が戦争
である事はいつの世でも変わりはあるまい。
このように、祖父は私達孫のために書き残してくれた物のようです。
内容的にも個人的な交友関係にふれるものも多々あるので、あまり万人向けとは言い難いかもしれません。
しかし、悲惨極まるニューギニア戦線での苦しみを語るのではなく、苦しさの中での
喜び、想い出、悲しみを軽妙に記す文面は、あの時代を生きた人間としての祖父の強さを強く感じさせます。
>>107 わざわざありがd
個人的な交友関係って地元の友人や戦友のことだろうなぁ。
>>107 なんか自分のおじいちゃんじゃないけど、ジーンと来るわー。
このスレ読むと、結構おじいさんが自分史をかいてるケースって多いねえ。
みんなのおじいさんの自分史を集めたサイトとか作ったらいいものできそうやね。
うちのじいさんは海軍航空学校?とかいうとこを出て、航空機の整備
をしとったと。開戦直前まで三隈乗船、11月に降りて整備関係の教官
しとったそーな。おかげでたいした怪我もせずすんだと。なんか地味
な話しでした。
>110
>おかげでたいした怪我もせずすんだと。なんか地味
>な話しでした。
それでいいのさ。国に尽くして死んでしまったジイちゃんは英雄として
感謝すればいいし、生き残ったジイちゃんは生きていて自分の親を生み
育ててくれたことを感謝すればいい。どちらも孫の自分から見れば
ありがたい存在にかわるまい。
でも生きていてくれたジイちゃんはお年玉をくれるという特典つきだけど。
重複。削除依頼出してきました
113 :
名無し三等兵 :02/04/14 19:21
うちのおじいちゃんは駆逐艦に乗っていたそうな。
ガダルカナルに補給しに行った時に一回沈められ(じいさんは無事)
マリアナでは敵機の爆撃から逃げ回り
信濃の沈没にも立ち会ったらしい
んで、佐世保で生きたまま終戦
↑大人になって思ったんですけどよく生き残りました・・・
うちの祖父さんは農家の四男坊。ものすごくオッカナイ曾祖父さんのいる家の
気が強いばあさん(存命)と結婚し入り婿に。
終戦の3ヶ月前、中国から本土に帰ってきた。29歳の1等輜重兵。
戦後、気の荒い婆さんの横で寡黙に働きつづけ俺のオヤジを含め四男一女を
そだてあげた。そして俺の息子が生まれた一月後の4年前の12月に、
パーキンソン病と病院内の院内感染の病気で死んだ。直接は見せられなかった
が俺と嫁さんと息子が写っている写真を病室で見せたら、吸入マスクに覆われた
小さな顔を頷かせていた。
115 :
名無し三等兵:02/04/14 21:19
何気にこのスレ、ものすごく歴史的価値があるんじゃないか?
庶民に伝わった戦争の生きた歴史。
41氏の自伝などもすごいことだと思う。
116 :
独立重機関銃隊:02/04/14 22:31
小生が僻地校に勤務していた頃,学期に1回の割合で『祖父母交流学習』という
活動を実施していた。
当該活動において,一度「地域のおじいちゃんに戦争の話を聞こう」という企画
が設定された。その,おじいちゃんは,職業軍人だったらしく自分は歩兵用の大
砲の開発に携わったことがあることを自慢していた。口径が70mmと云ってい
たので大隊砲のことかな,と思った。
それから,中国戦線で重機撃ちまくりの話。あげくの果ては「わしはね,10人
殺したんだよ。銃剣で突いてね。」とヒートアップするばかり。
校長の顔は引きつるは,子どもはびびって泣き出すはで,本来微笑ましいふれあ
いが展開されるであろう『祖父母交流学習』は,戦場さながらの修羅場と化した。
そのおじいちゃんは,地域のゲートボールでも爺・婆相手に戦時中と同じように
殴る蹴るのやりたい放題で顰蹙を買っていたなあ。
117 :
ココが先だよ日本人:02/04/14 23:19
自費出版の凡そ半分以上はこの手の話ですよね。
ウチにも一冊(勝手に送りつけられたのが)あります(南洋の一兵士の云々)。
このブームも凡そ筆マメな方々が鬼籍に入られつつあり、
まだご存命の方も社会的な表舞台から離れておられて下火になりつつありながら、
ホラ半分記憶違い半分交えながらでも思い出を語られておられるのはある意味貴重ですね。
こういう話を収集する真面目な所はどこかにあるのかな。
万一不真面目だったら老人コミケになっちゃうけど。
118 :
名無し三等兵:02/04/15 00:07
うちの父方の祖父は機銃手だったらしい。陸の。
んで、腹に弾を食らって負傷、内地で終戦を迎えたらしい。
自分が生まれる前に他界してしまったので詳しい話は聞けなかったが、
実家には祖父の古い戦史本が数多く残っている。もう誰にも読まれることはない
だろうし、すこしずつ貰っているのだが、学生の使う参考書みたいにところどころに
チェックが入っていて、アンダーラインが引いてあったりする。
じいちゃんなりにあの戦争を勉強していたんだなぁと思った。
俺の爺ちゃんは船大工だったらしい。潜水艦勤務。呉の基地。
訓練さえやってりゃ三食食べれて文句言われないから結構楽しかったらしいw。
当時の大工は儲かったらしくて大卒の初任給が数十円のころに
百円単位で稼いで出先から戻るたびに飲みに行ってたみたいだ。
ただ・・・・まだ女も知らないようなやつが
特攻隊として出撃していくの見て可愛そうだって言ってた。
そんな爺ちゃんも30年くらい前に酒の飲みすぎで肝臓壊して入院。
それから酒とタバコを完全にやめたらしい。
やはり昔の人は根性が違う(^^;
そのせいか、今も元気です。
そういえば賭けをすることを凄い怒ってたなぁ・・・・・・・・
120 :
名無し三等兵:02/04/17 04:37
うちの会社に居たEさんはとっても天然(笑)な方でした。
「大和はなぁ、でかいんでよく迷子になっちゃうんだよ」
てな感じで。ホント、憎めない人でした。
Eさんが海軍に配属になって、基地で集合がかかった。
ところがEさん、集合場所が解らない。
「海軍の基地は広いんだよ〜」(Eさん談)
オロオロしてる所に、向こうから偉そうな人が近づいてくる。
「あの〜、私何処へ行ったらいいんでしょうか?」
と聞いたら、
「馬鹿者!!この御方を誰だか解らないのか!!山本五十六元帥であるぞ!!」
と御付きの人に激しく怒られた。しかし、、山本元帥は
「まぁまぁ、いいから。君は新兵さんだね。それならあっちだよ」
と、優しく教えて下さったそうです。
次の日。Eさんは偶然山本元帥と遭遇しました。
「おや、君は昨日も会ったね」
山本元帥、覚えていました。
山本五十六元帥、ナイス!!良過ぎます!!
ちなみにEさんは大和に配属になったのだが特攻に行く寸前に配置換え
になったのでした。
Eさんは数年前に亡くなりました。
私ゃ、あのすっとぼけた様なEさんも、寛容な山本元帥も大好きです。
121 :
名無し三等兵:02/04/17 05:11
母方の実家は沖縄。爺さんは旧日本兵。
大戦初期、フィリピンへ輸送中に米潜水艦に雷撃を喰らい、脚に大怪我するも助かる。
その後、本土の病院へ移送された。そのまま終戦。
自立して歩けるけど、すこしフラフラしてる…。
爺さん死んでたら俺この世に居なかった…。
122 :
名無し三等兵:02/04/17 05:14
>>41 遅レスですがおじい様はどちらの連隊だったかご存知でしょうか?
私の祖父もニューギニアへ行っていて
二百三十七連隊、第三大隊で十二中隊→連隊本部の大尉で
上陸が18年の五月で終戦までニューギニアでした
現在、体験記をまとめようとしているのですが
ひょっとするとひょっとして戦友の方かもしれません、良かったら教えてください
>76
エスパー隊長!スゴー・・・
124 :
名無し三等兵:02/04/17 23:49
郵政省の職員として通信関係でした
125 :
名無し三等兵:02/04/18 00:16
うちのじいさん10数年前に亡くなったが終戦間際陸軍の特TL船?「しまね丸」(タンカーに飛行甲板を貼った船)
の近くで釣り(漁船で操業?)をしてたら英海軍の航空機(じいさんいわくかつお節みたいなやつ)おそらくシーファイア戦闘機に
銃撃を受け死にそうになったとか。
消防の頃に聞いたときは「P51−D」かと思っていたが、数年前の「丸」で攻撃したのは
英海軍航空隊と解った。
ちなみに英海軍に沈められた日本の空母?は「しまね丸」だけだそうだ。
126 :
名無し三等兵:02/04/18 00:17
祖母の話です。
祖母は戦時中、島原半島の橘湾に面したある街で女学生をしていました。
ある夏の暑い日、祖母がお使いを頼まれ、何か(←忘れた)
を買いに逝く途中のことでした。
ズガガガーン!!と凄まじい音!!
「敵襲!」と思い、祖母は目、耳、口を抑え、道端に伏せました。
・・・しかししばらくたっても何も起きないので、
祖母は音のした方向に目をむけました。
そこには!
そう巨大なきのこがニョキニョキとそびえたっていたそうです。
♥
127 :
名無し三等兵:02/04/18 00:30
じいちゃんは、サイパンで戦死
爆弾の直撃と聞かされたらしい。
俺は信じないけど。
私の父方の祖父は理系学生だったのですが、学徒動員で陸軍に
入隊し、関東軍の前線部隊に居たのですがソ連軍の満州侵攻の
どさくさに紛れて脱走し(手製のゲルマニウムラジオで海外の
放送を聞いていた)、しばらくはロシア人相手の時計修理
(3日位動く様にしておいた、との事)をした後に中共軍が管理
していたソーダ製造工場の技師を務めていました。
(仕事を取られない為に製造技術を容易に分からなくしていたとか)
祖母の方は大連で軍需工場を経営していて羽振りが良かったそうで
すが、それでも「勤労奉仕」という事で逓信隊の通信手を勤めていました。
ソ連軍が攻め込んできた時には恐怖心から自宅の2階に隠れていたそう
ですが、戦争が終わると次第に親交的になり、将校を迎えての親睦も
珍しくなかった(紳士的で礼儀正しかったとか)そうです。
あと、祖母はソ連軍の行進も見ているのですが「元気が地の底から涌き出て
来るような立派なものだった」という事でした。
結局は1950年に満州から九州(長崎)に引き揚げて来たのですが、
満州での体験からか「情報は色々な所から取り、決して鵜呑みにするな」
「確実に貯蓄するんだったら貨幣じゃなくて希少金属の方が安全だ」と
いった話を私によくします。
その話を聞いていると、逞しさでは戦後生まれでは到底かなわないと
思わされます。
129 :
名無し三等兵:02/04/18 06:12
>>122 私の祖父は最終的に第18軍直轄の第117兵站病院の所属となっています。
兵科士官ではなく予備の薬剤士官なので、特定の連隊に配属されたことはないようです。
しかし、終戦直前には切り込み隊の編成、訓練まで命じられていたようです。
122さんのおじいさんは、連隊におられたのならさぞかし大変な目にあわれただろうと思います。
どっかのスレでも書いたけど・・・
開戦前は警視庁の警官。
開戦一週間前にいきなり徴兵。わけも知らされず貨物に寿司詰めにされ横浜へ
船でどこぞの港に送られ満鉄の貨物に寿司詰めここで開戦を知らされる。
なんとか帰国して復職するも、東京大空襲。
当時本郷の警察署にいたがパニックで逆に火の勢いの強い方に進む何万もの群集に
5人で立ち向かうも川に投げ込まれる。
また徴兵。中国戦線に送られる。
終戦を迎え貨物で帰国の途につくが、あやうくシベリア送りになりそうになる。
また復職するもマッカッサーの警備の現場担当というハズレくじを引かされる。
#疑問なのは、2度も送られるのかということと
出来事と時間の整合性が取れているのか?ということ。
133 :
名無し三等兵:02/04/18 23:25
昔からフルートをやっているが、
最近、祖父になにか演奏してくれと頼まれたので、
「蘇洲夜曲」を演奏してみたら、神妙な顔をしていた。
祖父は、昔、満州に住んでいたと言っていた。
134 :
名無し三等兵:02/04/18 23:42
135 :
名無し三等兵:02/04/20 18:44
期待age
136 :
名無し三等兵:02/04/20 18:53
>134
神!!とまでは言わないけど、貴方そうとうにイイ人だ
それを教えてくれた135、貴方もイイ人
133のフルートで聞きたい曲だ
御免、何か心の琴線に来ちぃまって訳わからん駄文スマン
爺さんがもっていた「大叔父さんのレコード」にこの曲あったんだ
137 :
名無し三等兵:02/04/20 19:04
父方の祖父が、陸軍大学を出て工兵隊に(その親も工兵の軍曹で日露戦争へ)。
満州に家族で引っ越し。なんか大規模な工事をしている写真を見たことがあって、
「太陽の帝国」のワンシーンみたいなヤツだった。
しかーし42年に、大陸にて騎馬行軍中に眉間に一発狙撃で戦死。
戦死の模様が書かれた手紙を見たが、達筆すぎてほとんど読めん(w
しかしいい腕だな中国兵。爺ちゃんは爺ちゃんとして尊敬するが、
その中国兵も祖国のために戦って戦功を立てたのだから立派。
そんでもって、中佐で戦死して大佐に昇進。その後家族は満州から日本へ。
残留孤児免れました。
138 :
名無し三等兵:02/04/20 19:49
うちの父方の祖父は当時学生で予科連に配属され、
飛行訓練を受けていたそうです。戦争も末期の時代だったらしく、
自分も神風に志願して順番を待っていたときに終戦を迎えたそうです。
玉音放送を訓練場で聞いた時は雑音が酷く何を言っているのか分からず、
死ぬべきなのか生きて恥を晒すべきか迷ったそうです。
結局は生きることになったのですが、終戦直後広島に手伝いに行った時に
この世の地獄を見たと一度語っていました。
祖父にとってみれば、これらの事は今では良き思い出になっているらしく
『訓練機の名前は赤トンボとかいうやつで・・・』っていう話をよくしてくれます。
最近では軽くボケてきてしまってるが、
元気なうちに話を聞けるだけ聞いておこうと思ってます。
長文でスミマセン
139 :
名無し三等兵:02/04/21 03:19
age
140 :
133(文下手):02/04/21 03:22
「蘇洲夜曲」は、こんなこともあろうかと、以前から練習しておいたのです。
練習の甲斐あったなあ・・・
>>133 素晴らしいの一言です。
俺も2ちゃんで戦争の知識つけよーっと。
142 :
名無し三等兵:02/04/21 19:07
2chでかよ!?と一応つっこんでおきまふ。
>>142
そうですけど、何か?
と一応答えておきます。
>>130 そうでしたか、レスどうもです。
えと、じゃあ祖父の体験からひとつ。
祖父は宣撫として現地人との交渉などにあたっていたことがあったそうなのですが
交流も順調にいっていたある日、現地の方から鉄砲を貸してくれと頼まれたのだそう。
激しく困ったそうなのですがせっかく上手くいっているのに関係を悪くしたいなくという思いから
なんとか隊にはごまかして三日ほどで返却の約束で貸すことに。
現地の人たちは銃を携え意気揚々と狩りに出たものは良いものの約束を過ぎてもいっこうに帰ってこない・・。
銃を紛失したとあってはそのままでは隊に戻るに戻れず、かなり腹を括るところまで決意したそうですが
結局5日目にして獲物をたくさんもって帰ってきたそうです。
お礼にとこれでもかとご馳走になったそうですが心労で久しぶりの肉の味もさっぱりだったそうです
ついでに。
死にたての死体はひんやりして熱帯の夜には枕としてイイ!だったそうです。
>144
人じゃないよね・・・?
いやいやまさか〜動物とかですかね?
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
>144
ちょっとまて。死にたて?
ってことはしばらく経つと腐るから逆に暖かくなってしまうってこと?
>146
熱帯地域だから夜もしくは夕方あたりに死んだ死体は暑さで腐食してないからまだひんやりしてて良いんだと思われ(かなり推測
死体枕についてですが死にたてでないとまず腐臭がしてマズーなようです。
たぶんひんやりについても147氏の推測で当たりだと思われ
なんにしろ暑くて寝るのにも一苦労したのがつらかったらしいです
夜の1時頃ようやく気温が下がっても3時4時にはもう暑くなってくるのでかなり頭にキタと言っておりました
149 :
名無し三等兵:02/04/23 04:06
家のおじいちゃん、ビルマにいってた。
負けた後、オランダ人が、もどってきて、日本に戻るまで、ビルマ人が、
かくまってくれたらしい。
もう1人の祖父は、海軍で、船にはのれず、燃料にするため、松の根?
を、もやしてたんだって。
ビルマに行った祖父は、もう一度やったら、次は勝つって息巻いてる。
今日、実家に帰って爺ちゃんに話しを聞き直したら、
沈められたのは千葉県沖だったそうだ。
乗員700名で助かったのは40名ほど。
皮肉にも、救命具を着けていた上官達は、
全員が潮に流されて行方不明だってさ。
151 :
名無し三等兵:02/04/27 22:05
うちの爺さんはどっかの基地に配属されてから
別のところに飛ばされて、数日後もと居た基地がドカン!
とよく語ってくれたが、歳を計算するとつじつまが合わない。
今度は母方の祖父の話
陸軍の飛行将校としてジャワに赴任していたのですが、戦争初期の段階で
あったのと、輸送が殆ど無いのとで搭乗員が乗れる飛行機が全く無く、
迎撃には鹵獲したP-40やB-339(F2A)で揚がっていたそうでした。
(日本製の飛行機は連絡任務で来た海軍の零戦位であったらしい)
あと、擬装用のアンペラ(竹ひご)飛行機も作ったという話もしました。
実家に図嚢があり、中に小さなレンズが入っていたので尋ねてみると
戦地に写真機を持って行って写真を撮ったとの事で、アルバムを見せて貰う
と、シンガポールで撮影したであろう祖父のスナップ(曹長の階級)があり
ました。因みに、背景に鹵獲兵器らしきマーモンヘリントンが写ってました。
153 :
名無し三等兵:02/04/27 23:24
母方のおじいさんは若い頃言葉の勉強をかねて中国を数年間
放浪してたときに戦争が始まってしまいました。日本へ帰る旅費を
借りに大使館へ行ったらそれは無理とのこと。そこで上海語ができるなら
(北京と言葉が違うようです)仕事があるといわれ行った先が
軍の対諜報部門だったそうです。スパイと思われる人間の尋問の
手伝いをしていましたが、スパイだと自白したのは一人だけで
後はなかなか口を割らなかったとか。
でもその話になると普段やさしいおじいさんの顔がこわばり
目つきが鋭くなり般若の様な顔になるので当時消防の俺には怖かった。
154 :
名無し三等兵:02/04/27 23:26
父方のおじいさんは本土で砲兵でした。入隊の時にそろばんの試験が
一番良かったので砲術にまわされたそうです。丘の上で計算ばかり
してたといってました。アメリカが面制圧でこっちが点制圧だから
かなわんよ、と言ってました。でも実戦参加してないから余り話しに
迫力がなかったです。
155 :
名無し三等兵:02/04/28 00:06
母方の祖父(故人)
東北のある県北の町で国鉄に勤めていたそうです。
戦後勤続何十年かで、昭和天皇より叙勲されました。
でも徴兵はされなかったみたいです。(母の話では、
祖父は私同様、虫さされに異常に弱く、胸も漏斗胸
といって引っ込んでいたそうです、だからかな?)
戦争の話は一度もしませんでしたが、祖父の家には
開戦前夜から、珊瑚海海戦くらいまでの新聞のスクラップ
ブックがあります。もちろん当時のものです。生前に
見つけ、『これいつか頂戴』、と言うと『いいよ』
と言ってくれました。今度取りにいくつもりです。
珊瑚海まで位なら日本が勝利に次ぐ勝利を重ねていた
頃の記事ばかり、その後がないという事は・・・。
生きているいる間にお話聞きたかったなあ。
おじいさん、ごめんね。全然会いに行かなくて。
(仕事で大変だろうから葬式には来なくていい、
と言った気丈な母の立派な父親でした。)
156 :
名無し三等兵:02/04/28 03:24
私の祖父は列車に乗るのが恥ずかしかったそうだ。祖父はそのころの人にしては
背が高かった。175cmくらいあったそうなので、買出しの列車の中では自分の頭が
ぽっかりと浮き出てしまうんだと。 おしまい。
157 :
名無し三等兵:02/04/28 04:10
祖母の叔父さんは飛行機乗りで特攻隊にとられる前に故郷の町の上を飛行機で一回りしてから戦地へ赴いたそうだ
地元の人たちはそれを涙流しながら見てたとか・・・複葉機なので機種は旧式の練習機の類だと思う
158 :
名無し三等兵:02/04/28 07:43
オレの母方の祖父 京都の町屋の三男。
老舗(今もある)の和菓子屋に弟子入りするも修業中に最初の徴兵。
ガタイがよかったので重いものを担ぐ山砲部隊に配属。
シャバに帰ってきた後修行を続け、暖簾分けで自分の店を出すも日中戦争勃発。
2度目の徴兵で中国大陸に出征。店はあぼーん。万里の長城を触ってきたらしい。
戦闘の話しは聞かなかったが行軍のつらさを聞いた。
強行軍が続くと皆歩きながら寝てしまうらしい。前歩いてる人間の背嚢に頭ぶつけて目が覚める。
年期を勤めあげて帰ってくるも店があぼーんしているためか、徴用されて兵庫県の川西航空機へ。
家族とともに社宅に移り住み、工場で賄いをしていたが戦況悪化で三度目の徴兵。
この時点ですでにじいさん三十過ぎ(1910生まれ(汗。今度は南方へ。
東南アジアで連合軍に投降したが、「さらばラバウルよ」の歌を「さらばスマトラよ」と歌っていたらしい。
おかげで戦後ばあちゃんは長いことスマトラが正しい歌詞だと思っていた。
復員の時には大阪で住んでる場所を人に言うと「あの辺はみんなあぼーんしてしもたで」と
いわれたが、青くなって帰ってくると川西の社宅がそこだけ焼けずに残っていた。
戦後は大阪で和菓子屋に雇われ、職人を育てていた。
三年前に逝ってしまったが、棺桶には自分で店を出した時の暖簾を一緒に入れた。
葬式の後、写真を整理していると師団長殿や大隊の集合写真とともに
慰安婦さんたちとのマターリした写真が何枚も・・・(スケベ写真じゃないよ)
気のせいかばあちゃんの表情が険しかったような・・・
159 :
名無し三等兵:02/04/28 08:19
おお、結構あがってるなぁ、1よ、どこ逝った〜?
160 :
名無し三等兵:02/04/28 14:57
うちのばあさん、岐阜の商家。
メリケンヒコーキが来るってんで山奥に逃げたが、ばあさんの姉の嫁ぎ先があぼーんされたというので、
女友達と竹やりもって、飛行機を落としに嫁ぎ先に走って行ったら、あぼーんされた後だったらしい。
幸い姉とは戦後再会できたそうだが、あと一歩早かったらメリケンの飛行機全部落としてやったのにって
悔しがって息巻いてた。ばあさんは男に生まれたほうが良かったな、と祖父さんと喋った思い出がある。
161 :
名無し三等兵:02/04/28 17:05
何があろうととにかく逃げてばっかりだった、と。
味方の危機も無視して逃げた。
今となっては戦争経験者が嫌がる場所に平気で観光旅行。
しかも軍人年金で。
そんなDQN爺さん。
まぁ生き残った連中は臆病者だったんだろうな・・・
うちの爺さんみてるとそう思うよ
うちの母方のじいさん(85)は教育関係者だったので
徴兵は免れた。何度も空襲に遭って、一度山の中腹の
防空壕に避難してたら反対側の面に爆弾が落ちて、
その小山の形が変わってたって。
防空壕の側に爆撃されてたら俺はいなかっただろう
あと、空襲の後、体に火がついた馬が走り回ってて
ウザかったとさ。
164 :
名無し三等兵:02/04/29 15:31
爺ちゃんちの隣の爺ちゃんが
「俺は戦闘機を撃墜したことがあるんだ!」
と息巻いてたが、
隣のじいちゃんが帰ってから、うちの爺ちゃんが
「あいつが落としたのは中国機だ。」
だそうな。
爺ちゃんは満州で基地かなんかの警備やってたらしい
165 :
名無し三等兵:02/04/29 15:53
うちのじいちゃんシベリア帰り
当時のことはあまり話したがらない。
新聞はやっぱ赤旗
普段は優しい好々爺
でも時々見せる鋭い眼光が怖い。
肝っ玉もでかい。
死線をくぐり抜けた人はやはりちがうなあと。
長生きしてくれ。
166 :
名無し三等兵:02/04/29 16:29
漏れの自慰ちゃんは成東駅が攻撃された際
弾薬満載の貨車の消火活動に携わって死んだんよ
爺ちゃんではないのだが、我が親爺殿昭和5年生まれ。
TVで満鉄の画面が出た時「満鉄の枕木は本土のとはサイズが違う」と
言ってびっくりした記憶があります。親爺殿、営林署勤務で
その頃から山入って木切り出していたそうです。
その親爺殿も逝ってしもた。合掌。
下に優しかったから上等兵からあがれなかった
これ以外聞いたこと無い。興味を持った頃には既に・・・死んでしまった
A級戦犯で処刑されましたが、何か?
170 :
名無し三等兵:02/04/30 21:32
うちの爺ちゃんの弟はロケット特攻桜花に乗って19才でアポーンした。
図書館で桜花の本を発見し詳しく知るにつけ、あまりの貧弱な内容に泣けてきた。
171 :
名無し三等兵:02/04/30 21:45
うちの母方の祖母は戦時中看護婦で、軍医とともに
南方に送られる直前、祖母だけ伝染病にかかって
内地に送られたのですが、軍医たちは乗っていた船が潜水艦に
沈められて、帰らぬ人に・・・。
>あまりの貧弱な内容
ロケットエンジンしかない。もつのが30秒程度。飛び立つのは陸攻?に釣り下げられ
特攻する戦艦の近くまでいって切り離される。機体は材料不足でハリボテのよう。
成果は確かなしだったと思う。レーダーで待ち受けていたアメリカ戦闘機に目標艦につく前に
打ち落とされたようです。30秒しかもたない推進力では極めて不利。
173 :
名無し三等兵:02/04/30 23:23
真偽の程は確かではないが
父方の祖父(既に他界)は、徴兵前、料亭の板前だったのになぜかトラックの運転免許を持っていた為
海軍の整備士として徴兵されて台湾(台南空?)に送られた。(祖父曰く)
が、そこでフツーに整備に従事していたかと思えば、ひょんな事から偉いさ
ん等に板前だった事がバレて、整備の腕より、板前の腕を振るっていたそう
な。
そんな祖父の台湾でのエピソードは本土からの補給の螺旋は規定値で締める
と割れるか、日本軍のフォークロアとして有名な螺旋五角形話などをきかせて
くれました。
でも、さすがに酔うとかならず話した――
突然、敵機が降りてきて(じいさま曰く、赤色した米軍の戦闘機……そんな
のあったか?)銃を乱射してそのまま飛び去った
――という話。
ちなみに、バナナを食べ過ぎてコロコロ太って復員したため、祖母が最初判
らなかったそうで。
真偽の程は定かではないが、白い軍帽とかあったし、消防の頃のワシの前で
愛車のスーパーカブのエンジンをどんどんバラした記憶があるので、全くのウ
ソではないかも………………
でも赤色の敵機が突然降りてくるあたりなど、ちょっと誇張してないか? それに台湾の海軍航空隊基地って、台南空か?
などなど、今となっては詳しく聞かなかった事をちょっと後悔してます。
長文スマソ
175 :
名無し三等兵:02/05/01 06:22
父方、母方両方とも終戦時に20代半ば。
大学に行っていた訳でもないのに代わりに従軍経験も
無いらしい。
両方とも俺が生まれる10年以上前に氏んでるので
父母に話を求めると両方とも「知らん」の一言で片づけられた。
小学生の頃「戦争体験を聞いてこい」の宿題に参ったな・・・。
かわりにばあちゃん方に話聞いたら、
母方は「炭坑夫だったのでセーフ」だったらしい。
ただ、父方が判らない。
・戦争には逝って無い
・製紙会社(名前失念)に強いパイプがあって仕事と遊びで
飛び回っていて一年のうち1ヶ月家にいればいい方だった。
・家系自体が「半・渡世人」
・30年代の記述のある自筆メモが貼られたアフリカや
ニューギニアの民芸品が物置に。
素性はばーちゃん自体も良く分からない謎の人だったらしい。
ただ、未だに某ゼネコンから株主総会の案内が来る。
176 :
名無し三等兵:02/05/01 06:44
家の母方じいちゃんは、支那でスパイ活動
地下道で盗聴、軍服は着たことないと言っていた支那服で支那語をはなし
万里の長城を歩み、アルマジロ捕まえたとも言っていた
クーニャンとのラブロマンスあり、因にバーチャンは知っている
戦友が踵打たれたといたったが実は、靴の踵が打たれて飛んだとか
家のじいさん、片目を失ったのだが
目の前で炸裂した爆弾の鉄の破片をくらい頭蓋骨が陥没し
目玉が飛び出しても元に戻して戦った凄まじい人だった
元に戻しても出てきたらしい、義眼の中からっぽ穴でした
母親は中をみたことないって言っていた
復員するのがやな戦友は、醤油のんだとか
戦犯として捕まってはならんと、木を隠すなら森の中とばかりに
東京に逃げたりと下手な映画より面白い
一般ピープルのじいさんと戦友には、ヤクザの親びん
ど田舎に黒塗りの外国車、若い衆を連れた不思議な飲み会がアッタらしいが
バーさんはなに出したらいいのか判らなくて困ったそうな
消防のころ拾ったモデルガンの名前を教えてもらい、しかも激鉄のおこし方まで
教えてもらった、その銃はルガーだった思う
本人は本物もバラして戦後も持っていた、日本刀も出てきたし〔藁
因に死後、警察にもっていったので問題無し
階級は軍曹
隻眼のカコイイ人だった。孫には鬼のように優しかったが
母親達には、鬼だった。孫ができて人格変わったそうな
じいさんマンセー!
父方の祖父は海軍の技術将校で魚雷の開発してたけど空襲であぼーん。
母方は陸軍の情報部の将校。
プラモ作ってると説明書より詳しく解説してくれたっけ。
毎日夕飯時に祖母が本気で怒る鬼畜なエピソードを懐かしそうに笑いながら話してた。
大陸に派遣された時は階級がそこそこ高かったから待遇良くて、部隊が移動中に宿泊する
町や村では一番良い建物の住民を追い出し、飼ってる家畜殺して宴会開いて
毎日楽しかったらしい。
弟は海軍士官で駆逐艦乗ってたけど大和と共に最後の特攻であぼーん。
でもナチスが好きで大和よりビスマルクとティルピッツが撃沈された事を悔しがってた。
戦後は警察署長を勤め嗜好品は両切りのラッキーストライクとバドワイザー
高倉健そっくりの渋いじいちゃんだった。
家のじいちゃんは、年齢的にギリギリ戦争には行かなかったが、大牟田(福岡)で長崎の原爆雲を見たらしい
あと空襲のとき池に飛び込んで助かったとも言っていた(未だ元気に生きてます)
179 :
名無し三等兵:02/05/05 22:54
俺の爺ちゃん(母方)はガ島帰り。
三重で大工やってたんで、工兵になって南方の島々で橋作ってたりしているうちにガ島行き。
で、なんとか九死に一生を得て帰ってきたけど、
栄養失調で内蔵をやられて、その後何年かは半病人状態だったそうだ。
戦争中の資料とかが結構残してたそうだけど、津波で家が水浸しになっちゃって全部パー。
父方のほうは、盛岡に住んでたけど、
徴用で東京に行って、迫撃砲とか作ってたらしい。
どっちも10年以上前に死んじゃった。
もっといろんな話を聞いておけばよかったなぁ・・・・・。
180 :
名無し三等兵:02/05/05 23:20
なんかすげえ人ばかりだ、家の爺さん戦争中何してたのかが良くわからん
本人の話によると、戦争中犬を食ったと言っていたから多分中国に行ってる
と思う。家の犬を見てこういう犬は肉が硬いんだとか平気でほざいて
いた上に戦争前にバスの運転手をしていた人だから、当然のごとく
徴兵されて、軍のトラックの運転をしていたらしい。降伏した時はソ連軍
に包囲されていたと言ってたからなあ、その後シベリアに抑留されて
やっぱりトラックの運転をしていて、警備兵にひいきにされてたと
良く言ってたからなあ、ちなみに抑留から数年もたたない内に病気
になって日本に送還されたそうです。駄文ですいません
181 :
名無し三等兵:02/05/05 23:50
20年ほど前に逝ってしまった漏れの爺さまは、台湾の陸軍部隊にいたそうな。
着任早々、内地では貴重品だったらしいバナナの食いすぎでお腹をこわし、
隊長から大目玉をくらったことを楽しそうに話していたっけ・・・。
179の爺ちゃんは俺の爺ちゃん(故人)の知り合いかもなあ。
工兵隊の中隊長でガ島の生き残りだったよ。電車に乗るときに外の景色を
眺めているのが好きで、本を読んだり寝たりするのはもったいないって
言っていたけど、工兵隊だったために地形とかを観察するのが癖になって
たのかもなと最近思った。
183 :
名無し三等兵:02/05/09 10:39
良スレ救い上げ
184 :
名無し三等兵:02/05/09 11:38
実はなぁ〜、お前たちにはオバァチャン違いの従弟がいるのじゃ
若いころ、ワシも元気だったもんで、戦地で結構、悪サしょったもんだから
(スレ違いだった。別スレ悪いな、こつちが本スレ)
185 :
形見のネクタイピン:02/05/09 12:34
ウチの爺様(もう死んだ)、元海軍少尉。
海兵出・・・・なんだけど生徒じゃなくて専修科ってとこの
出身(海自でいうB幹?)。
開戦時は翔鶴に乗ってた(当時1等海曹)。
珊瑚海では右舷の一番後方の機銃郡の班長?だったそうな・・・。
この海戦の思い出として語ってくれたのは・・・
「艦長(城島高次)は敵機来襲時に腰が抜けてしまったのか
対空戦闘!!と号令すべきところがアワワワワ・・・・と声が出なくなり、
代わりに航海長が号令をかけた。」
「機銃はちっとも当たらん。」
「爆弾3発が命中してしまい、内一発は後部甲板やや右舷寄りに落ちた。
衝撃は物凄く、失神してしまった。」
「目をあけたら、自分の身体以外、機銃も部下も何もかも吹き飛ばされて
しまっていた。自分はケガ一つなく、これは運だと思う。」
「苦しんで死ぬ水兵がやりきれなかった。天皇陛下云々とか言う奴は、
大したケガではない。本当に死ぬ者は何も言わず黙って死んでいった。」
>185
海曹じゃないな、兵曹だ。当時は。
(元海自なもんでスイマセン)
187 :
名無し三等兵:02/05/09 12:56
城島高次はその後、あちこちの航空戦隊司令官などやって山本機撃墜時には
第11航戦の司令官で、長官の訪問予定などをGFが送信してるのを、危険に
つきやめるよう進言した人物だったけど、そんな腰抜けだったんだ
188 :
名無し三等兵:02/05/09 14:45
>>185素晴らしいなるほど翔鶴の艦長腰抜けだったのか
そりゃあこんな事戦史本には載らないなあ、艦長の指揮が
劣悪だったから大破したのね、
189 :
名無し三等兵:02/05/09 15:07
昔読んだ本に
イギリス人の母と日本人の父を持つ
ハーフの日本兵の自伝があったなー。
英語も喋れ、射撃の腕もピカ一。
で、たしか中国戦線に行っていた。
190 :
私の家族。:02/05/09 15:27
私のおばあちゃんから聞いた話のよると。。
家族の長男は家庭を支えるため中学出てすぐ働いた。で中国へ2等として。
次男はコックとしてパプアニューギニアへ出兵。
三女は無線でしたかな。。?何かの仕事で中国へ。出兵
三男は一番下なせいか、大学を出てたので憲兵としてビルマへ。
そして帰国。長男は帰国後すぐ一週間ぐらい寝こんだとか。。
次男は何もなく帰国。
三女は髪を切って。男の人のようになって帰国。
三男は体重を増やして。太って帰国。
おばあちゃんの夫の家族は原爆の被害に。。
191 :
名無し三等兵:02/05/09 16:04
俺のひいじいちゃんのお兄さんが戦争いって32歳で亡くなってるんだよな。
何でもラバウル航空隊に配属されてたそうだが、詳しい話は聞いたことない。
私の祖父は、徴兵を受けビルマで戦ったようです。
詳しく話を聞く前になくなってしまったので、断片的な内容しか覚えて
おりませんが、撤退中、馬と共に大河を一晩かけて泳いで渡った事を
よく話してくれたので、騎兵だったようですね。
それと、木の上に隠れている敵兵を99式で狙撃した話を一度だけしてく
れましたが、引き金を引いた瞬間に「ああ、こいつは死んだな」と感触
というか手ごたえがあったようです。その時の感触は何十年たっても
なくならないと、辛そうに語っておりました。
また、砲撃を受けたときに敵の砲弾の信管には数種類あり、地面に落ちた
途端にはぜるものと、空中ではぜるもの、それと、何かに触れた途端に
はぜるものとあり(触発信管って確か祖父は言っていたと思います)数人
で走って逃げて、気付いたら自分ひとりだけが生き残っていたとも言って
おりました。
その後、捕虜になり、英語が堪能だった祖父はイギリス軍将校に気に入ら
れ、捕虜との間の交渉役をまかせられたり、イギリス人と野球をしたりし
ながら復員までの期間を過したようです。
母に祖父の戦争時代の頃の話を聞くと「たくさんいた戦友は誰一人帰って
こなかった」とつぶやくばかりいた、との事でした。。。
193 :
名無し三等兵:02/05/09 19:30
父方の祖父(直系ってことね)は海軍の曹長で終戦で少尉になったらしい。
呉の基地で自動車や船の内燃機関の整備をしていたって言ってた。
大和の最後の出撃準備では、対空砲の増設をしたときから悲しかったって言ってたな。
ほかの船も帰ってこなくなって、戦争末期の出航準備はどの船もするのがつらかったけど
この時ばかりは出航で帽子を振る時、泣けて泣けて仕方なかったって言ってた。
対空砲っていえば、食事時になると空襲があって、頭にきて地上に設置したやつを
最初から来そうなほうに向けて待ち伏せて、艦載機を落としたって言ってた。
ただその後がいけなくて、後続機に爆撃されて3人即死、1人片腕飛ばされ、
本人も頬からこめかみにかけて傷があった。少し破片の角度が悪ければ死んでたって言ってた。
この話で印象に残っているのは、普段あんな当たらない対空砲が運悪く命中するから、
敵も部下も殺すことになった。黙って防空壕に逃げときゃよかったって言ってたことかな。
呉の自動車を扱う部隊だったんで、広島の救援にも行ったらしい。
自動車で行ったり来たりだったんで、影響は無なくすんだ見たいだけど、
そのときは次は自分達だなって覚悟したって言ってた。
爆撃は悲惨な話ばかりではなく、フク娘?とか言う酒造所が爆撃されたときは、
部隊の給水車をもっていって酒をもらってきたって言ってたな。
酒造所で酒が熱でだめになったからあげるっていったから、もらったけどちゃんとした酒だった
うまかったって言っていた。
随分一生懸命整備したけど出撃した船は皆帰ってこなかった、って言ってたのを良く覚えている。
194 :
名無し三等兵:02/05/09 20:20
わしのぢーちゃんは南方で左目落っことして帰って来た
195 :
名無し三等兵:02/05/10 09:11
父親の叔父 満州事変で出陣、除隊後 中島飛行機で爆撃機の日の丸書いていて
終戦 いい人だったんだけど 満州ではかなりの事やってきたらしいです。戦車
で死体を轢いて その上を歩いたそうです。戦争はやだよ どんなにいい人でも
性格が変わります。
196 :
名無し三等兵:02/05/10 09:21
私の母方の祖父は大島か何かで
大砲撃ってたそうな。誰か、この辺に展開していた
部隊知らない?大砲の種類は解らない
197 :
名無し三等兵:02/05/10 10:07
うちのおじいちゃんは、徴兵されて中国にいました。
ある日、腹痛で草ムラに野糞しにいったそうです・・・
そしたら、その最中に点呼があって、おじいちゃんがいないの
は、中国軍に連れ去られたと思った上官が抗議しにいたっそうです・・・
その後に戦闘・・・・
じいちゃんもう死んじゃいましたが・・・
それって、廬江橋(漢字あってる?)事件?
じいちゃんの野糞で歴史が動いた・・・・
198 :
名無し三等兵:02/05/10 12:20
197さん
あなたは
199 :
名無し三等兵:02/05/10 12:33
通りすがりだが。それ、どっかで聞いたネタだぞ。
200 :
198の続き:02/05/10 12:34
ホントに志村菊次郎二等兵のお孫さん?
この人東京下町(本所生まれ下谷育ち)の出身で、下谷竜泉寺小学校では
クラスで一、二位を争う成績だったが、生家が貧しかったため、小学校を
でると働きに出て、コック見習、製本所の配達員、興信所など、転々とした
みたいだ。その後、S19年1月31日、憲兵伍長としてビルマで戦死したけど
子孫はしっかり作ってたんだ? 字は 盧溝橋 ね
でもこないだなぁ・・・私の祖父がUボート乗りっていうネタあったしな〜
疑心暗鬼オレ・・・
本物だったらゴメソ
202 :
名無し三等兵:02/05/10 12:39
うちのおじいちゃんは陸軍で少尉でした。でも、ビルマで何度も死にかけたそうです。
そこで部下
4人を飢えで亡くしたそうです
うちのじいちゃんは台湾にいたから空襲なんて物は知らないらしい
厨房の頃に日本が負けたってことで現地でしばらくタダ働きさせられた
やっぱり部隊に所属していたらしく、射撃の腕は精密射撃の大会で
500人中上位5人に入ったらしい。そんでよく教官がいない時を見つけては
鳩を撃っていたらしい。飛んでいる鳥を撃つと羽が全部抜けるらしい
204 :
名無し三等兵:02/05/10 13:02
台湾も広いからいろいろあるみたいだよ
中曽根内閣の官房長官、後藤田正晴が以前日経新聞連載の自叙伝で、
陸軍大尉として台湾の指令部にいたころ空襲受けたことを書いてた
205 :
名無し三等兵:02/05/10 13:11
原爆落ちた後の後片付けにウチのじっさまも参加してたんだが
俺が聞いても何も答えてくれなかったなあ
舞鶴の海軍補給廠にいたらしい。
Midway海戦に参加した利根?なんかも生き残ってたので
葉っぱかなんかで入り江に隠したこともあったとか。
米軍の艦載機はよく機銃掃射に来たらしいが全然発見できなかったそうな。
終戦になった後も山奥に隠蔽した
膨大な量の艦砲弾や魚雷の処理にあたったとのこと。
信管抜いて沖合いに捨てるだけなんだが処理するのに
3ヶ月以上かかったらしい。1回だけ、信管抜いたはずなのに
爆発する事故があり、弾薬を満載していた艀は木っ端みじん。
人も艀もな〜んにも残らなかったって。
終戦の玉音放送を聞いても、一部将兵は納得せず、
数隻の潜水艦に乗り組んで勝手に出撃したらしい。
その際、日の丸を消して髑髏マークに書き換えて
出発したらしいが、偉い人の説得(無線でか?)を受けて
1週間くらいで全員帰還したとのこと。
うちの近所やじいさんばあさんの知人、親戚兄弟は、
シベリア抑留体験者ばかりなので、飲み会が始まると
毎回、ロシア人に対する恨みが爆発するのが、日課
だったが、そんなじっちゃん達もひとり、ふたりと
旅立っていったよ。
>>204 だが、うちのじいちゃんは人の家に生えているバナナをかっぱらって食って
マターリ過ごしていたらしいが?
>200
>ホントに志村菊次郎二等兵のお孫さん?
名字は合ってますが・・・名前があってません(涙
のこのこ帰ってきた、親父を問いつめたら
「じいちゃんの兄弟がって言わなかったけ?と、トボケられました・・・」
うちの親父は、志村けんは俺のいとこだと言い張ってます・・・・
210 :
名無し三等兵:02/05/11 13:16
慰問袋の中に入っていた、缶に入ったウィスキーの味が忘れられないと言ってました。
よく、袋の中身を他の兵隊さんと交換したり分けたりしてたそうです
211 :
名無し三等兵:02/05/12 22:12
これは昔、家のばあさんの葬式の時に来ていた同じ町の友人のじいさんの話。
なんか身内を亡くした俺を気遣ってかいろいろ話し掛けてきて、そのときの話で
戦争中の事を聞いた。
なんでも陸軍に所属していて、毎日掃除とかしていたらしいがどんなに完璧に
掃除をしても怠けても、仕事の結果がどのような場合でも必ず、結局上官に
散々に殴られた。んで、一生懸命しても結局殴られるんだから馬鹿らしくなって
サボって、腹が減ってたので食堂でうどんを食ってすごした。
部署に戻ると案の定上官に呼び出され、「貴様!何処で何をしていた!!」
との問いに「食堂でうどんを食っていました」
と答えると、やはりいつもどうりなぐられたらしい。
父方:×田島での水泳がきつかった というこぼれ話を16年ほど前に聞いたような
母方:詳細不明。確か上□・・(以下略
そのじいさん、後に南方に送られる事になったらしいが、輸送船で
送られる途中やはり米軍の潜水艦の襲撃を受けた(夜間)。護衛艦が輸送船団の
周りを警戒してグルグルまわっていたらしいが護衛艦船から離れるたびに
敵潜は接近してきたと。(この時、おそらく両者の間で戦闘とかしてたんだろうと俺は思う)
んで、輸送艦に乗ってる兵隊は(敵が )あっちに出たこっちに出たとパニックになり
一晩中神経をすり減らして眠れない夜をすごした。
しかしこのじいさん、肝がすわってたのか達観してたのか、もう死ぬなと思い、
最後の夜になるだろうにジタバタしてもしゃあないとばかりに友人と二人
月を見ながら酒を飲み。その夜はグッスリ眠ったとのこと。
翌日目を覚ますと仲間から「お前らよく酒なぞ飲めれたな。熟睡なぞできたな」と言われたとか
結局、敵潜は何回も船の側に現れ一晩中追いかけっこをしてたらしい。
214 :
名無し三等兵:02/05/12 22:40
漏れの母方のじいちゃんは鎌倉で医者をしていたが、横須賀から
軍医に見せたくない病気(わかりますね?)をもらった水兵が
診察してもらいにたくさん来たといってた。手土産に缶詰とかを
一杯持ってきたとか。母の兄は特攻隊で訓練中に搭乗していた
天山が墜落、クルーに一人を亡くした。終戦後「負けた!」と言って
泣きながら帰ってきて、軍刀を庭に埋めたと母が言っていた。
なお、関係ないけど漏れの友人に本庄という名の奴がいて、爺さんが
一式陸攻を設計していたと自慢していた。
逃げ足が遅くて、火達磨になりやすい奴だった。
本当だったたのかな。
215 :
名無し三等兵:02/05/12 22:52
>209
うちのクラブの後輩のお姉さんは志村けんと一時期つきあっていたとか友達だったとか。
関係なくてスマンです。
うちの親戚ほとんど戦争行ってないですが、おやじは終戦の時に
モーゼルミリタリーを川に捨てたと言ってましたな。勿体無い。
>>214なんで一式ライターの事を自慢したんだろう
飛龍のほうが優秀なのに、技術者の愛着かねえ
どうせなんで母方の祖父についても語っときます
こっちは全然大した事ないんだけど背が低かった
のが幸いしたのか本土に終戦までずっといたそうだ
直接は聞いてない。物心ついた時には糖尿病で植物状態
になってたからなあ。
217 :
名無し三等兵:02/05/14 00:21
じいさんは数年前になくなった。
遺品を整理すると銃剣がでてきた。
第五師団の山口連隊所属で満州にいたと聞いてる。
なぜ銃剣を?という疑問が頭にこびりついて離れない。
それに、武装解除をうけたのに、銃剣をもって帰ることなんて
可能だったのだろうか?事情に詳しい人、教えてくれませんか?
うちの祖父は南部式拳銃を持ってました。
小さい頃に見せてもらったのですが天皇陛下にもらったと言ってました。
それが特別に貰った物なのか、装備支給=天皇から貰ったって意味なのか
判断出来ませんが戦後も正式に所持する事を許されてたみたいです。
(警察署長していた祖父が違法所持していたとは思えませんし)
他にも戦争時に軍刀に改造して使用していた日本刀
(元は祖父の親が骨董品として集めていたもの)も何本かあります。
今も死後に国から貰った勲章と一緒に仏壇の奥にしまってると思います。
219 :
名無し三等兵:02/05/14 10:05
↑
銃刀法違反、刀剣は許可を貰えば所持できるが拳銃は不可
220 :
名無し三等兵:02/05/14 18:58
うちにも軍刀と憲兵の腕章あったなぁ
中国大陸で武装解除されたのは銃火器類だけで
軍刀とか銃剣は持ち帰れたのかな?
うちの父方の爺ちゃんはオランダ領ティモール島でまったく敵に会わずに終戦を迎えたってさ、ツマラン。
母方の爺ちゃんは16で少年義勇兵に志願して終戦時には本隊はさっさと逃げちゃって、夜中にロシア語が
飛び交う中をコソーリ逃げたんだってさ。(・∀・)カコイイ!
軍刀は基本的に支給品じゃ無く個人所有だったみたいで
元々美術品として持っていた物の鞘と鍔と柄を装飾用から
丈夫な実用品に変えて使ってたみたいです。
拳銃は菊紋入りの立派な専用ケースに入ってました。
危険だからとほとんど見せて貰えなかったけど銃が好きな弟は
粘って持たせてもらって、すごい重いって言ってた。
じいちゃん結構ヤバい人だったのかな(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
224 :
名無し三等兵:02/05/15 00:49
うちのじいちゃんは、憲兵隊にいたけど、軍刀は刀の握るところに菊の御紋が付いてたよ。
皮のケースの中に鞘が入ってた。でも、普通の刀より短かったよ。憲兵の腕章とか、制服とかは
みんな桐のたんすに入れてるよ。
225 :
名無し三等兵:02/05/15 23:48
どこだったかは忘れたけど、氏にかけた部下に「すまん・・・。すまん・・・」って何度も泣きながら
言った後に拳銃で楽にしてやったと、泣きながら話してた。今でも、毎年終戦記念日の日には
その部下達の好きな食べ物の団子とか饅頭を持ってお参りしに行ってるよ。この話聞いた時、
自分からは何も言えなかった。
226 :
名無し三等兵:02/05/18 14:20
爺様は本土で自分の近くにアメリカからのお手紙が落ちたとのこと。
戦車の泥除けぶっ壊したとのこと。
終戦間近にスゲェ戦車(多分三式)を見たとのこと。
戦後米兵にコーラもらって飲んだけど不味かったとのこと。
227 :
名無し三等兵:02/05/18 14:39
「ギブミーチョコ! 」
∧_∧ ∧∞∧
( ・∀・) ( *・∀・)
⊂ つ⊂ つ
.人 Y 人 Y
し'(_) し'(_)
「ギブミーガム! 」
∧_∧ ∧∞∧
(・∀・ ) (・∀・* )
⊂、 つ⊂、 つ
Y 人 Y 人
(_)'J (_)'J
「おくれよおくれよ」
∧_∧ ∧∞∧
( ・∀・ ) ( ・∀・ )
( つ⊂ ) ( つ⊂ )
ヽ ( ノ ヽ ( ノ
(_)し' (_)し'
「兵隊さん!ヘイ!」
∧_∧ ∧∞∧
∩ ・∀・)∩∩ ・∀・)∩
〉 _ノ 〉 _ノ
ノ ノ ノ ノ ノ ノ
し´(_) し´(_)
228 :
名無し三等兵:02/05/18 15:42
いいいですね、このスレ。大変興味深いです。
うちの祖父(故人)は体格が悪かったため本土にいたようですが
祖父の弟はビルマにいったようで
軍服姿の写真を見たことがあります
229 :
名無し三等兵:02/05/18 16:24
こないだ、戦争で重傷を追いながらも帰還してきて、88まで生きてた
おらっちの爺さんが、逝ってしまった。
まだ、聞いて無いことたくさんあったのに・・・・
2-26のときは、番兵としてたってたらしい。本人は、何で番してるか
わからなかったらしいけど。
戦時中は、大陸で満鉄(だとおもうんだがな〜。確認不能)沿いに千
キロもあるいたそうな。
そんなつわものも、トシにはかてんのだな〜
お爺ちゃんではなく、両親の話です。
親父は海軍志願で通信学校を卒業後、佐世保近郊は相浦の衛兵分隊に配属されて
ました。衛兵だったんで主計の人から煙草や食料なんかを融通してもらってたらしい。
近所の遊郭の見回りとかも衛兵の仕事だったそう。
書類を荷車に積んで運んでいた時米軍機に機銃掃射された時は、大変だったと話してます。
お袋は福岡空襲の時、市内に居て焼夷弾が振ってくる中命からがら逃げたそうです。回り中が
火の海で凄かったとの事。
叔父さんは陸軍歩兵で雲南省からビルマに転戦、敵弾を受けたけど水筒に当たったので助かった
そうです。
3人とも幸い健在です。
母方の4代前、祖母の祖母は明治生まれの私生児で苦労したはずだが、独学で数ヶ国語をマスター、
さらには看護婦資格も持つ女傑だったらしい。
その経験を買われたのか、結構な歳だったはずだが従軍看護婦としてジャワ島に出征したという。
そこで戦前からいたオランダ人医師と親しくなり、何を思ったか日に影に彼をかばい続けたとのこと。
その後敗戦。当然ながらそのばーちゃんは日本人ということでまずい立場になったわけだが、
今度はその医師が恩返しとばかりに「ここに居続けては危ない。私と一緒に本国へ帰ろう」と提案、
渡航制限をクリアするため彼と偽装結婚して、日本に家族を残したまま本当にオランダに行ってしまった。
そして10年後、現地で大往生。
初めて聞いたときはホントかよと思った(w
まぁ確かに、そのばーちゃんの墓はオランダにあるそうだが。
良スレ!!
まじ、ココで出た人たちは英雄ですわ・・・・・・・
うちのじっちゃんは、南京に行ってた・・・・・通信?衛星?
忘れたけど・・・ナンセ小さいころの話だから・・・・・
病気になって帰ってきて、数年前に逝去されました。
やさしかったです。
家のじいさんは満州で兵役ついてたって言ってた。
敗戦でシベリアに行ってたくさんの戦友の死を見てきたとか。
4年前に死んでしまったけど、たまに戦争の頃を思い出して寝むれない日もあったらしく
睡眠薬を飲んでたこともあった。
新聞社の人が取材に来るのも始めは嫌がってたし本当に辛い体験だったんだなって思う。
最近物置から軍刀や勲章、旗等が出てきてまたじいさんのこと思い出しちゃったよ。
うちの妹がいわゆる「総合的な学習の時間」で近所のお年寄りのうちを訪問したらしいが、
よく聞いてみると、そのおじいさんは近衛兵だったらしい。こんな田舎にこんなすごい人
がいたなんてびっくりした。
235 :
鉄道至上主義者:02/05/18 23:57
祖母の兄弟が、陸軍の南方航空輸送隊でしたっけ?
そこに所属していて何回も飛んだと言ってました。
時には高級将校のせたりしたって言ってました。
飛行中敵機と遭遇したことは無いが、友軍機とは何回か会ったそうです。
また、海上に輸送船が何隻もの小さな船を引っ張って
航行していたこともあったそうです。
船が不足していたのが原因だったと言ってました。
特攻については自分は免れたが、仲間が何人か散っていったといってました。
選ばれるのは必ずしも志願者全員ではなく、
下手な人や問題があった人優先で美談ばかりではないということを
強調して言ってました。
現在80歳を超えてますがまだまだ元気そうです。
戦争経験者には長生きしてもらいたいです。
そう言えば、中学受験のときに行っていた塾の国語の先生が、
『このえれんたいのきしゅ』だったといっていた。
という事はやっぱり、『近衛連隊の旗手』の事だよなぁ……。
237 :
名無し三等兵:02/05/19 00:26
詳しくは聞いてないけど母方の祖父は中国か南方かへ行って、
いざ戦闘がはじまるとすぐに逃げてしまったそうな。
それで買ったらまた戻って肩身の狭い思いをしてたんだって。
そんなことをしてるうちに戦争が終わってたと言ってたけど、
よく銃殺刑とかにならんかったなぁ。
238 :
名無し三等兵:02/05/23 15:34
良スレ救い上げ
239 :
名無し三等兵:02/05/23 16:53
散々ガイシュツのネタですが。
当時女学生だったウチのばあさんは広島の広(ひろ。広島と呉の間くらい?)で挺身隊として
砲弾磨きをしていた。昭和20年の夏になっても、神風が吹いて日本が勝つと信じる純朴な娘
(本人談)だった。
8月6日の朝、突然地響きのような音が聞こえた、工場にいた人たちは雷が落ちたと思ったらしい。
そのうち外が騒がしくなり、普段は厳しい作業監督まで工場の外へ出てしまった。女学生たちも、
ただならぬ雰囲気を感じて、次々に外へ出た。
そこで、例のきのこ雲を見たわけです。
その夜には、広島がアメリカの新型爆弾で壊滅したという噂が早くも広がり、作業どころでは
なくなった。
翌日には、その工場にいた兵隊さんたちも救援のために広島へ派遣され、工場の操業はストップ。
その間、女学生たちは、竹ヤリ訓練に励んでいたそうな。ばあちゃんの友達で、女学生の中でも
頭のよかったKさんは、「アメリカの爆弾にこんなものでかなうわけがない」と笑っていたという。
それでもばあちゃんは、「神風が吹いて日本が勝つ」と言い返したそうだ。
数日後、救援に行っていた兵隊さんが、一時工場に帰ってきた。
ばあちゃんたちは、自分たちの作業監督に、広島の様子を尋ねてみた。彼は、ただ一言「この世の
地獄じゃ・・・」とつぶやいた。それ以上たずねることはできなかった。厳しい中にもユーモアの
あったこの監督は、すっかり陰鬱な性格に変わってしまっていた。
このとき、はじめて「日本が負ける」という可能性をリアルに感じたそうです。
240 :
名無し三等兵:02/05/23 17:56
家のおばあも原爆食らった。出身は鹿児島だけど、女子挺身隊として長崎の
軍需工場で働いていて、被爆。そのときはトンネル内で作業をしていたため
外傷はなかったが、外にでるとまさに地獄絵図だったらしい。無駄だとわかっていながら、
かろうじて無傷の同士と供に救急箱を手に応急処置と看護に奔走したが、憲兵殿から
「瀕死の者には水を与えるな」と指導され、必死に水を求める重傷者たちを泣く泣く見殺しにしたそうです。
真夏なので傷口からは蛆がわき、それをピンセットでとってもとってもわいてくるという状態だったそうです。
幸い俺自身には原爆症の症状はありませんが・・・。
父方の祖父は視力の問題と体格の問題で徴兵されず。母方の祖父は海軍で零戦のパイロット。
ラバウルにいたらしい。
漏れの田舎は九州の山ん中だけど、じいちゃんの話だと
線路沿いに米軍機の空襲があり、被害が牛数頭だったらしい。
ウチのじいちゃん、ハルマヘラ島に行っていたとの事。
食料が無くて大蛇を捕らえて喰った話をよく聞かされた。
一度、当時の戦友の方々の集まりにビデオカメラ担いでついてった事がある。
孫ってことで、他のじいさま方に可愛がられたよ。
ウチのじいちゃんは14年前に他界。もっと色々聞いておくんだった・・・。
我が家の祖父は陸軍憲兵でありました。祖父の弟は陸軍軍曹でありました。
フィリピンにて弟は戦死したそうです。享年22歳。現在の私より若くして御国の為に命を落としました。
祖父の戦時中の話で、記憶に残っているのは以下の通りです。
祖父と同行していた隊は村から村への移動中にゲリラ襲撃に遭い、祖父を除く全隊員死亡。
定時連絡がないため不審に思った後続隊によって命を救われましたが、左足に被弾。
現在でもその傷は残っております。
また、祖父は憲兵であったため、慰安婦などを無理矢理提供しようとする業者などを取り締まったり、
無断で風俗店に遊びに行く兵を叱ったとも聞きました。日本軍兵士が地域住民を強制連行しないよう、
憲兵が指示していたということです。
我が祖父は最近ボケが始まってしまい、語る内容が前後したり重複したりと、戦時中の話を聞き出すのが
困難な状況になってきましたが、祖父が存命のうちに、なるべく話を聞き、メモを取り、自分なりに整理していこうと
思っています。
244 :
名無し三等兵:02/05/24 03:40
うちの爺ちゃんは召集されたと思ったら終戦で、3日で帰ってきました。
245 :
名無し三等兵:02/05/24 03:56
ウチの母方のじいさんは炭鉱夫のくせに地主のボンボンで、召集されなんだよ。
父方は満鉄の技術者、現場監督かなんかで「あじあ号を作った」そうな。
伊勢と日向の艦内に入ったことがあるらしく「あれはいきなり底から戻れって言われても迷うやつが多い」
てことはボイラー技師だった可能性が大。
自作のボイラーとかあったし…。
で、どっちもこの世にいないから詳細は不明。
246 :
名無し三等兵:02/05/24 04:24
半農半猟だったじいさんは狙撃手になったらしい。
んで、スコープ…じゃなくてなんかこう…照準合わせるヤツ?
を途中で落っことしたらしい(アフォですまそ)。
すると同じ部隊で同郷の知り合いが「俺にまかせろおおぉぉ!!」
とどこからかパチってきた。
当然二人ともばれてぼこされた。
ここまでなら笑い話だけど、防空壕にひそんでた時、
うちのじじが外側だったんだけど、そいつが「お前俺とかわれ」
と入れ替わって座った瞬間、爆弾が投げ込まれて、
ふとみたらその人の首が吹っ飛んでたんだと。
じじはその時の怪我で右耳が聞こえなくなって、半身にやけどを負い、
傷痍軍人として帰国しました。
毎年その人の墓参りはかかさなかったらしいっす。
じじはその後数年して亡くなりました。私の生まれるはるか前に。
父は子供の頃よく猟銃を撃たせてもらったそうです。こっそり。
普段軍板住民じゃないんで話ぐだぐだでスマソ。
247 :
名無し三等兵:
俺のじぃちゃんは、大卒の教師だったらしい。
最初は徴兵されなかったが、戦局悪化で軍へ。いきなり将校。
ビルマで偵察隊を指揮中に英軍と遭遇、戦死した。墓には陸軍大尉と書いてある。
残されたばーちゃんは田畑耕して父ちゃん達兄妹三人を大学まで行かせた。
遺族会幹部として戦死した場所も行ってきたらしい。
そんなばーちゃんは「正々堂々と戦ったから」と米英に恨みはないらしい。
その代わり、不意うち食らわしたソ連は大嫌いだそうだ