泣ける話@軍事板第4章

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87美汐
真琴が来た。でもいつもとちがう。
わたしが仕事から帰って来ると、真琴がわたしの部屋の前に立っていた。
真琴はなにも言わなかった。だからわたしもなにも言わなかった。
わたしは黙って部屋の鍵を開けて、真琴を先に部屋に入らせる。
真琴が靴をゆっくりぬぐ。でもいつもみたいに、元気にぬぎちらかさない。
わたしは靴を脱ぎながら、奥にあがってゆく真琴の背中を見ていた。
真琴は明りをつけようともしない。自分の足許をみつめている。
わたしは真琴のあとにつき、部屋の明りを点けた。
真琴は上着も脱がずにぺたんとすわり、こたつにもぐりこむ。
わたしはコートを脱いで、それをハンガーにかけながら、はじめて口を開いた。
「ずっと待ってたの? 寒くなかった?」
「ううん」
あたりさわりのない会話。それはさぐりあいだ。
「ちょっとまっててね。ごはん、いっしょに食べていく?」
「ううん。いい。祐一が待ってるから」
いつもの会話だ。でもちがう。真琴はなにか言いたいことがある。
そして、わたしはきっと、それがなんなのか知っている。
いまの真琴はなにかを恐れている。
あの真琴が、内弁慶ではあるけれど、
根本的なところで決定的に天真爛漫なこの子が恐れるもの。
わたしにはきっとわかっている。
だからわたしはいつものようにすぐに台所には行かなかった。
わざと衣装だんすのなかの服を整えたりして、その時を待つ
88美汐:02/03/20 23:37
そして、長い沈黙のあとに真琴は口を開いた。
「お金をね、貸してほしいの」
「おこづかいが足りないの?」
わたしはわざとそう言った。中心をわざとはずす。真琴は首をふる。
真琴が恐れているのと同じくらいに、わたしもそれを恐れている。
わたしは真琴に背を向けて、衣装だんすを探りつづける。
「あのね、……さいきん、ずっとなかったの」
「そう」
「それでね、きょう、病院に行ってみたの」
「そう」
「……3か月だって、言われたの」
わたしは目をつむった。ああ。ああ。神さま。
それは結婚生活の、健康な男女がひとつ屋根の下で、
合意のもとに暮らすことの当然の帰結。そして。
「そう。おめでとう」
わたしはやっと振り返って真琴を見下ろした。真琴はうつむいたままだけど。
「それでね、おろそうと思うの」
わたしはいま崖っぷちにいる。
「祐一にはないしょなの」
一歩も引くことはできない。
「だから、みしおにお金を貸して欲しいの」
ずっと考えていた。
「祐一はきっと反対するから。だからみしおに」
真琴が相沢さんと結婚をすることになったあの日から。
「この子供は、おろさなきゃいけないの」
この日が来ることを。たとえ妄想じみていても。
「生まれてきちゃ、いけない子なの」
ひとりでくりかえしてきたリハーサル。このときのためだ。
「だから、おねがい、みしお」
真琴はてのひらに顔をうずめた。
「わたしをたすけて……」
わたしはゆっくりと、自分を落ち着かせるために心のなかでみっつ数えた。
うまくいくかわからないけど。みんながしあわせになるために。


つづく