真琴が来た。でもいつもとちがう。
わたしが仕事から帰って来ると、真琴がわたしの部屋の前に立っていた。
真琴はなにも言わなかった。だからわたしもなにも言わなかった。
わたしは黙って部屋の鍵を開けて、真琴を先に部屋に入らせる。
真琴が靴をゆっくりぬぐ。でもいつもみたいに、元気にぬぎちらかさない。
わたしは靴を脱ぎながら、奥にあがってゆく真琴の背中を見ていた。
真琴は明りをつけようともしない。自分の足許をみつめている。
わたしは真琴のあとにつき、部屋の明りを点けた。
真琴は上着も脱がずにぺたんとすわり、こたつにもぐりこむ。
わたしはコートを脱いで、それをハンガーにかけながら、はじめて口を開いた。
「ずっと待ってたの? 寒くなかった?」
「ううん」
あたりさわりのない会話。それはさぐりあいだ。
「ちょっとまっててね。ごはん、いっしょに食べていく?」
「ううん。いい。祐一が待ってるから」
いつもの会話だ。でもちがう。真琴はなにか言いたいことがある。
そして、わたしはきっと、それがなんなのか知っている。
いまの真琴はなにかを恐れている。
あの真琴が、内弁慶ではあるけれど、
根本的なところで決定的に天真爛漫なこの子が恐れるもの。
わたしにはきっとわかっている。
だからわたしはいつものようにすぐに台所には行かなかった。
わざと衣装だんすのなかの服を整えたりして、その時を待つ
そして、長い沈黙のあとに真琴は口を開いた。
「お金をね、貸してほしいの」
「おこづかいが足りないの?」
わたしはわざとそう言った。中心をわざとはずす。真琴は首をふる。
真琴が恐れているのと同じくらいに、わたしもそれを恐れている。
わたしは真琴に背を向けて、衣装だんすを探りつづける。
「あのね、……さいきん、ずっとなかったの」
「そう」
「それでね、きょう、病院に行ってみたの」
「そう」
「……3か月だって、言われたの」
わたしは目をつむった。ああ。ああ。神さま。
それは結婚生活の、健康な男女がひとつ屋根の下で、
合意のもとに暮らすことの当然の帰結。そして。
「そう。おめでとう」
わたしはやっと振り返って真琴を見下ろした。真琴はうつむいたままだけど。
「それでね、おろそうと思うの」
わたしはいま崖っぷちにいる。
「祐一にはないしょなの」
一歩も引くことはできない。
「だから、みしおにお金を貸して欲しいの」
ずっと考えていた。
「祐一はきっと反対するから。だからみしおに」
真琴が相沢さんと結婚をすることになったあの日から。
「この子供は、おろさなきゃいけないの」
この日が来ることを。たとえ妄想じみていても。
「生まれてきちゃ、いけない子なの」
ひとりでくりかえしてきたリハーサル。このときのためだ。
「だから、おねがい、みしお」
真琴はてのひらに顔をうずめた。
「わたしをたすけて……」
わたしはゆっくりと、自分を落ち着かせるために心のなかでみっつ数えた。
うまくいくかわからないけど。みんながしあわせになるために。
つづく