>>1 一瞬、意味を取り違えてしまった。すまぬ。
名言やな。
俺も早く、自分の命を捧げたい大切な人が( ゚д゚)ホスィ。
昭和19年、マレー半島ペナンに司令部を置く高須四郎中将麾下の南西方面艦隊
は、インド洋に於いて通商破壊戦を立案し、左近允尚正少将を司令官とする重巡
青葉以下の第16戦隊に出動を命じた。
3月9日、臨時に第16戦隊に派遣された重巡「利根」が、豪州から肉、小麦などの
食料を満載してインドへ向かう英国商船ビハール号を発見、停船を命じたが、逃走
を企てたので砲撃して撃沈した。
その際、一旦救助した捕虜80名のうち65名を利根艦上で処刑したと言う容疑で、
左近允中将と、当時の利根艦長黛大佐が香港法廷で戦犯として裁かれ、左近允
中将は絞首刑、黛大佐は懲役7年に処せられた。
その左近允中将は昭和23年1月21日、「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」
と言うすさまじい辞世を残して刑場の露と消えた。
遺骨はもとより遺品も帰らなかったという。
20年後、香港をインドネシアに赴任する防衛駐在官が訪れた。
香港領事が観光案内をしようとするが、スタンレー刑務所の死刑囚監房と絞首台を
一目見たいという。
その人こそ、左近允中将の一人生き残った息子、尚敏二佐であった。
領事は意気に打たれて、様々な策を弄し、法務官と言うことにして、その刑務所と
内部の死刑囚監房、絞首台の見学を認めさせた。
彼は絞首台を見学した後、所長と喋っている間に、左近允二佐を絞首台に戻し、霊に
手を合わすように配慮までした。
左近允二佐は思いを遂げることが出来、感無量であったが、ゲートで所長に別れを
告げたとき、所長の一言に驚愕し、感動した。
「ミスター・サコンジョウ、お別れのお祈り、十分為さいましたか?
ご満足頂けましたか?」
彼は騙されたふりをして、左近允二佐の鎮魂の手伝いをしてくれたのであった。
なんで捕虜を虐殺したの?
理由もなしに殺すようなことはないだろうさすがに。
なぜ殺したの?
>>5 うぜーんだよ、チョン。
てめえで殺しまくる奴にそんなこといわれたくねんだよ
>>6 はあ?なんだいきなり。
なぜチョン?ちょっと危ないぞこいつ
確かに日本軍の事だとすら書かれていないのに朝鮮人と言い出すのは
わけわからんな。
>>5はもっとわけわからんが。
じゃあ理由もなしに殺したということなのか?
俺は純粋に理由が知りたいだけだったんだけど
>>10 何時何処で誰が何をどうやって殺したのか書いてないから回答不可
13 :
名無し三等兵:02/03/10 00:07
最近軍事版すぐ荒れるな
せめてこの板だけはマターリできないもんかね
>12
とりあえず、ビハール号事件については、左近允中将が命じたとしか
言えないけどね。
(黛大佐は猛抗議して15名の婦女子とインド人を解放させたと言っている。
なので、7年で済んだと言えるかも)
ただでさえ当時の日本の軍隊にとって捕虜なんて言うのは、意味のない
存在なのですよ。
ジュネーブ条約なんて無視無視。
それに、捕虜なんて無為徒食の輩で食糧事情の悪い折りに、80名もの
捕虜を連れて帰ったら、ペナンの司令部からは何を言われるか判らない。
なので、いっそのこと全員殺してしまえということじゃないのかな。
酷い見方かもしれんが、詳しい資料がなかったもんでな。
気になるなら、質問スレに行くことで、回答が得られるかも知れんぞ。
>>14 そうなんですか・・・
帝国海軍は理由もなく捕虜を虐殺するような組織じゃないと思ってたんですが
まあそういうこともあったんですね。
>>15 >食糧事情の悪い折り
強いて言うならこれが理由ですかね
17 :
ニュース議論板より:02/03/11 14:26
日本海軍は北洋警備−北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊(定数四隻 司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました
國民性なのでせうか、蘇聯は昔から露骨な國で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務に就くや、日頃横暴なる蘇聯艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました
だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、戦隊若くは艦隊を神速に
派遣することも行はれたやうです
父の友人に「ひうらさん」といふ越後人がありました
生きて居られればゆうに百歳超えませう
明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終へられました
この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話です
氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩に聯行、
抑留されました
此処までは今日と同じです
取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるかと思った程ださうですありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました
いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、捜査は打切り、無罪放免
露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました
天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けているものです、半信半疑の儘、ともかくも港へ向はむとふらつく脚を海へ向けました
その瞬間、何故、助かったかが判りました
18 :
ニュース議論板より:02/03/11 14:29
293 名前: :02/03/11 14:09 ID:kcn5pK1X
沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ
陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです
旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう
皆、感泣しました
鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥
ひうらさんは無事、日本に帰りました
取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の戦争をも辞せず、
瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に大往生を遂げられました
勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ張替へ張替へして
生涯穿き続けました
「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」
(以上の話には良く判らない点もありますが、今となっては確かめやうも無く、聞い
た侭に記しました)
http://village.infoweb.ne.jp/~navy/toukou/001.htm 拉致問題への今の政府の対応なんかを見ると、つくづく泣けるね。
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/news2/1015471063/l50
>>17-18 (;´ー`)y-~~ん〜、チョンだの在日だの言ってるのがバカらしくなるね。
久々に泣ける話だ・・・・・・
まったくだな、なぜ国会では大言するのに
国からでると、おっかなびっくりなのか? 内輪弁慶とは
こーゆ事だな
亡国害務官僚どもの耳かっぽじって、流し込んでやりたい話だな。
どうもこの頃、日本は現在よりも戦前の方がよっぽどマトモな国だったのではないかと思えてきたよ。
22 :
現代こそ泣きっぱなしだよ!!:02/03/11 20:28
>>20 違〜う!!
日本は近年は経済力が軍事力程モノをいっていたのじゃよ。
だから、弱腰でもなんでもカネを握れればこその弱腰外交です。
テメェらだけ(一部の日本人)がカネを握って、国のステイタスはボロボロだけど。
でもさ、もうカネもないからナメられっぱなし。
ワールドカップだってKOREA JAPANじゃん
足蹴にされてもわかんない方が・・・
今日仕事中にタクシーに乗ったら、たぶんムネオ話を聞いていたのかNHKラジオが
付いていたんだわな、午後だけど。
で、なんか年金関係の視聴者からの電話相談に答えるという番組をやっていて、その中
に84歳のオバァちゃんからの軍人恩給のことを話していた。このオバァちゃんの夫は
結婚して2ヶ月で南方の海に散ったらしい。しかしその後もこのオバァちゃんは籍を抜く
訳でもなく有髪の尼のように生きてきたようだった。
金銭関係の話になった時、アナウンサーが「御子さんはどうしてらっしゃいますか?」
と聞くと「いないんです。結婚して2ヶ月でしたから・・・」と消え入るように言った
のがかわいそうだった。
ただ今は別に暮らしているが養女がいるとのことだった。どういう事情が知らないが
このオバァちゃんの健康を祈らずにはいられなかった。
24 :
名無し三等兵:02/03/11 22:04
>22
いってないぞ。
いっているなら、なんで漁民が拿捕されて帰ってくるのに大変な労苦がかかる。
帝國海軍が展開すれば、あっというまに開放されたのと、どうしておなじなんだ?
なんで、北朝鮮に拉致された国民を助けられないんだ?
日本は手をださないと、なめられてるからじゃないか!
ペルーの人質の時はなんなんだ?
イイ戦争の時、旅客機すらおくれない弱気なのはなんなんだ?
所詮世界は弱肉強食、強ければ正義。
理想と現実は違う。
金じゃねえ。所詮は軍事力と、それを行使できるかどうかだ。
帝國時代は、少数の漁民のために大国と戦争も辞さずという姿勢があった。
だから、恐れられたしモノをいった。
金をもととした弱腰外交なんて、なめられて、さらに馬鹿にされるだけじゃないか。
>23
きっと旦那さんは、いつまでも若いまんまなんでしょうなぁ。
もう、はや60年もたつのですか。
>24
>ペルーの人質の時はなんなんだ?
加えて言うなら、あんとき殉職したペルー軍の兵隊そっちのけで
「無事です、無事です」騒いでたバカマスコミには、ほんとに泣けたよ。
>>25 (;´ー`)y-~~それだけじゃねぇよ
海自の掃海艇湾岸派遣の時に命がけの任務に発つ時
自衛官が家族との一時の別れをしてる時に
横で”軍国主義〜云々”ぬかしてた時もホント泣けたよ
昭和30年代後半、まだ、日本が貧乏だった頃…。
世界各地の防衛駐在官の実情を視察するため、防衛庁の事務次官が
各国を回って歩いていた。
彼は交際費も情報収集費も不十分で他国の武官のように胸に付ける
勲章も略綬もなく、外務省の情報一元化の厳しいルールに縛られて
本庁との直接連絡も禁じられている防衛駐在官たちの不遇な立場に
痛く同情した。
そのために規程に基づく次官の出張旅費から50ドルずつ寸志として置いて
きた。
しかも、その間、彼は各地の防衛産業のテイクケアは全て断っていた。
そんなわけで、最後の訪問国でも買い物もしなかった。
そして、最後の50ドルになったとき初めて、空港の免税店で洋酒を買って
帰国していったという。
>>27 (;´ー`)y-~~泣ける話じゃないが、なにげに胸が熱くなる話だ・・・・・
今の日本にもこんな漢がいるんだな
その心意気を見習いたいよ
>>28 27の話がS30年代後半であり、それから40年ほどの年月が
たっていることから、今の日本ではより希少種になっている
であろうことがさらに泣ける話だよな。
>>25 兵隊なんていう人殺しは人間ではないからいいのです。
>>22 >ワールドカップだってKOREA JAPANじゃん
決勝戦を日本でやるかわりにKORIA JAPAN
にするという約束が事前になされていたようですよ。
スレと関係無いのでsage
>>31 最初はアルファベット順でJAPAN-KOREAだったし、決勝も日本だった。
それ以前に、JAPAN単独開催だったはずなのに、突然割り込んできた。
日本ってほんとに外交ベタ。我を出すことはみっともない、
恨みを持つことは粘着だ、という考え方が根本にあるから
勝ってる時でも手心を加えて、相手を追い詰めない。そうすることで
後での和解の道を残している・・・つもりになってる。
そんなことをしても相手は感謝してないし、恨みを持った人間を逆に
量産するだけ。やる時はやる・やらない時はやらない、という
ケジメをつけれない国民性なのかね・・・。少し鬱らしい。氏脳。
33 :
名無し三等兵:02/03/12 08:40
age
>31
あれは日本のサッカー協会の連中に外交能力が無いからああいう事に成った。
本来は日本の単独開催だったのに、韓国の駄々を押さえ込めなかったのね。
しかも、いつのまにか日本が韓国に割り込んだ事にされているし。
別に事前に約束していた訳ではなく、後からFIFAの鄭矛盾、
とか言う韓国人が自分の韓国大統領戦の為に割り込んできた。
はっきり言って、ワールドカップの歴史に残る一大汚点の一つ。
35 :
名無し三等兵:02/03/12 10:33
>>34 >しかも、いつのまにか日本が韓国に割り込んだ事にされているし。
え?マジ?
36 :
名無し三等兵:02/03/12 12:07
>35
剣道をウリナラ起源にできてしまう国ですからそんなもん朝飯前のオイキムチでしょ。
スレが荒れる原因なので、サッカーとチョソの話題はこれにて終了して下さい。
38 :
名無し三等兵:02/03/12 12:29
スポーツを政治の道具にされなければいいが、
ボイコットなんてありえないので日本政府はいいなりでしょう。
>>37 いわんとすることは良くわかるが、その臭いものにはフタの姿勢が
外交ベタに通じてるのではなろうかと、何となくオモタ
こりあ−じゃぱん
これ、右翼団体がこうすることによりこりあを懐柔しようとしたという噂あり
>>41 大渦氏のいうとおりならまったく融和されてないじゃん
43 :
名無し三等兵:02/03/13 08:17
右も左も意識せざる中華思想だか神州不滅思想に毒されているモナ
到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった.
鉛筆をとるのも涙。どうしてまともにこの書が綴られよう!
病床生活永くして一年三ヶ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、
思った事の何分の一も書き表せないのが何よりも残念。
皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを
一体どうして筆で現すことができようか。
唯、無言の涙、握手によって辛うじてその一部を表し得るに過ぎないであらうが、
ここは日本を去る数千粁、どうしてそれが出来ようぞ。
唯一つ、何よりもあなた方にお願ひしたいのは、
私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく意気ますます旺盛に振起して、
病気せざるやう
怪我をしないやう
細心の注意を健康に払って、丈夫に生き永らへて貰ひたい。といふことである。
健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。
決して無理をしてはいけない。
少しでもおかしいと思ったら、身体の具合を予め病気を防止すること。
帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して来たが、
それが実現できないのは残念、無念。
この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら寂光浄土へ行くより他に仕方が無い。
私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して
社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち
そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。
どうか皆さん幸福に暮らして下さい。これこそが、私の最大の重要な遺言です。
「お母様!」
「お母様!」
何といふ私は親不孝だったでせう
あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんと呼びませう)
ご苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副ふことなく、
一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、
親不孝を重ねて来たこの私は何といふ罰当たりでせう。
お母さんどうぞ存分この私を怒って叱り飛ばして下さい。
この度の私の重病も、私はむしろ親不孝の罰だ、業の報いだとさへ思ってゐる位です
誰も恨むべきすべもありません。皆自分の罪を自分で償ふだけなんです
。だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しくは思ひませぬ。
唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本当に親孝行したいーーと思ひ、
楽しんでゐた私の希望が空しくなったことを残念、無念に思ってゐるだけです。
お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。
来る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで、
居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。
唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。
お母さんと一言、二言交すだけで、どれだけ私は満足したことでせう。
十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられたお母さんに
先立って逝く私の不孝を、どうかお母さん許して下さい。
お父さんと弟の勉と、妹のキサ子と四人で、
あの世に会ふ日が来れば、お母さんの事を話し合ひ、
お母さんが安らかな成仏を遂げられる日を共に待つことに致しませう。
あの世では、お母さんにきっと楽に生きていただかうと思ってゐます。
しかし、お母さん、私が亡くなっても決して悲観せず
決して涙に溺れることなく
雄々しく生きて下さい。
だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘って来たのです。
その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間闘っていただきたいのです
その後は少し楽にもらりませう。
私がこの幡男が本当に可愛いと思はれるなら
どうか私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために倍旧の努力を以て生きて戴きたいのです。
やさしい、不運な、かあいさうなお母さん、さやうなら
どれだけお母さんに逢ひたかったことか!
しかし、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、
モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。お願いします。
「子供等へ」
子供らへ。
山本顕一 厚生 誠之 はるか 君たちに会へずに死ぬることが一番悲しい。
成長した姿が、写真ではなく、実際に一目みたかった。
お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・あゝ何といふ可愛い子供の時代!
君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思ってゐたが、
到頭永久に別れねばならなくなったことは、何といっても残念だ。
第一、君たちに対してまことに済まないと思ふ。
さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、
君たちはどんな辛い日があらうとも
光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。
日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、
東洋のすぐれたる道義の文化――人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。
この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。
また君達はどんなに辛い日があらうとも、
人類の文化創造に参加し、
人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。
偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。
どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。
最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。
友だちと交際する場合にも
社会的に活動する場合にも
生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。
人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。
但し、無意味な虚栄はよせ。
人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無いーといふ覚悟で、強い能力音ある人間になれ。
自分を鍛へて行け!聖心も肉体も鍛へて、健康にすることだ。
強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。
四人の子供達よ。
お互いに団結し、協力せよ。
君等が立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。
どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。
一九五四年七月二日
山本 幡男(同年8月25日、ハバロフスク強制収容所にて病没)
過日放送された知ってるつもりですな。
あれは正直泣けました。
紙に出来ないから、分割してみんなが覚えて帰って、帰還したら山本さんの
家を訪ねて、その遺書の内容を口伝えで伝える話でしたね。
ちなみに、劇団四季が「異国の丘」というタイトルで上演中の作品に
山本さんをモデルにしている役がある。
ミュージカルに拒否感がなければ見てみるとよろし。
かなり歴史認識がしっかりとした作品だ。
作品はシベリア抑留について触れている。
主人公は近衛文隆(近衛首相の息子)がモデルの架空の人物。
架空の人物といってもはっきり言って境遇は近衛文隆そのもの。
ちなみに四季板にいってスレを見てると、シベリア出兵の話と混同して
勘違いしてるヴァカがいるのも泣ける話だが(w
シベリアならなんでもごっちゃかいな……
そのうち「シベリア超特急」とかとごっちゃにされないか、心配だよぅ(w
52 :
名無し三等兵:02/03/13 22:58
>>17-18 蟹工船の人たちに
見回りの駆逐艦などが大変感謝されていたのは事実
なのに
どっかの馬鹿作家は「蟹工船」なんつうものを書き
見回りのはずの駆逐艦を悪の権化のように書いた。
これこそ最低の行為では
っていうか小林多喜二ってソ連のスパイ?
53 :
名無し三等兵:02/03/13 23:03
>>45 泣きました。無念さがにじみ出てくるような文章に心を打たれた。
54 :
名無し三等兵:02/03/13 23:05
>52
とりあえず、昭和8年特高に治安維持法違反で逮捕され、転向を拒否した
ために、拷問死してますな。
一応日共の党員だった訳で、そう言う意味ではスパイかもね。
しかし、思うのだが、彼が昭和20年まで生きていたらどう思ったのかねぇ。
矢張り、ソ連マンセーになっとったんじゃろか。
みんな貧乏がわるいんや‥
58 :
名無し三等兵:02/03/14 22:19
>55
日本共産党は終戦直後進駐してきた米軍を『解放軍』と呼んでましたが何か?
>56
「苦虫を噛み潰す」とはこの事か(w
彼らなりに頑張ったんだよ。。。
「蟹工船」その他のプロレタリア文学をまともに読んでもいないコヴァがほざいてるよ!
サガ、恐いよー!
62 :
名無し三等兵:02/03/15 03:00
>60
社会主義や共産主義が間違いとわかった現在「批判するなら読んでから」という
論法は成り立たないのでは?その論法が正しいならナチスを批判するなら我が闘争
を読まなければならないし、オウムを批判するにはオウムの教義や本を読まなければ
ならなくなる。
>63
ナチスを批判するために「我が闘争」を読まないで批判するの?
批判対象を知るのは理性的な判断の第一歩だろうに、何を言ってるんだか。
ただ、プロレタリア文学ってのはあくまでも「共産主義流布のための文学」だから
(そうでなきゃプロレタリア文学なんて自称しない)、
その目標たる共産主義の価値が失われれば同時に無価値とされても仕方ない。
>64
俺は「我が闘争」は読んだけどね、高校時代。正直面倒な本だなーと思った。
>>63 何かを知ったり批判するために、原典にあたらなくちゃいけない
ことはない。そんなことをする必要があるのは学者。
我々は学者が書いた書籍や論文でまとめられたものを読めばいい。
そうでなければ、「教科書」なるものは存在しない。学者だって
教科書は読んでるよ。何が何でも原典以外は信用しちゃいけない、
ってわけじゃないでしょ。
>プロレタリア文学ってのはあくまでも「共産主義流布のための文学」
ホンマ?
なんら知識的なバックボーンがない素人が無理やり原典を読んだって
意味していることを正確には理解できないし、誤解・曲解して
始末の悪い粘着になるのがオチ。
すでに俺も粘着かな?失礼。
70 :
名無し三等兵:02/03/15 12:48
>>44 いや、右の方にも「まあ、コリアの言うことも聞いてやるか、アコリャコリャ」
なんていい気になって
「懐柔したつもり」
になってるのんきなのがいると聞いたから。
71 :
名無し三等兵:02/03/16 00:01
原典がどうであろうと現実に共産主義国家は失敗したじゃん。
>>71 共産主義国家って存在した事があるか?
社会主義国家じゃないのか?
厨な質問でスマソ。
民主主義国家って存在した事があるか?
資本主義国家じゃないのか?
DQNな質問でスマソ。
>>72 共産主義国はないが、社会主義は共産主義を目指す過程の姿。
よって社会主義の失敗は共産主義の失敗でもある。
>>73 よく現代国家に民主主義国なんて存在しない、なんて言うけれど
国民が主権者であれば民主主義。それが理想の姿と違うのは
主権者の意識と責任の欠如の問題だ。
社会主義というのは、19世紀前半のヨーロッパ(特にフランス)では、「社会を少しでも改善しようとする考え方の全て」を指しました。たとえば恵まれない子供たちのための募金運動とかも。
19世紀後半になると資本主義がノシてきたんで、この資本主義の弊害部分を改善するための試みがもっぱら社会主義と呼ばれるようになりました。これにはすごく乱暴に言って3つの潮流がありました。
1)オーエン主義……労働者が組合をつくって皆で経営者と交渉することで、労働者が食えるようにしようという考え。この嫡子が労働組合であり、庶子が生協です。
(従ってアメリカ合衆国は世界で最も社会主義勢力が強い国の一つです)
2)フーリエ主義……議会に労働者の代表を送りこもうという考え。この嫡子が社会民主主義であり、庶子がマルクス主義です。
3)サン・シモン主義……社会主義者が寄り合って小さな共同体を作って暮そうという考え。この嫡子がイスラエルのキブツや日本の「新しい村」であり、庶子が無政府主義です。
で、共産主義という言葉は、本来は私有財産の否定(財「産」の「共」有)を意味する言葉だったですが、そのうち「社会主義のうち、私有財産の否定まで踏みこもうと考えている思想」を指すようになり、さらにそのうち、もっぱらマルクス主義を指すようになったです。
このマルクス主義と言うのがどんなシロモノだったかというと。
パリ・コミューンというものがありました。 フランスが戦争に負けたドサクサにまぎれて、「いろいろな」社会主義者が中心になってパリに社会主義政府を作ったですな。
しかし「どこまで社会主義政策をやっていいか」というのを議論しているうち、軍隊に鎮圧されてしまった、と。
これを見とったマルクスという人がおりました。ドイツ生れのヒゲ男で、よく下手くそな詩を書いたり、女性関係でモメゴトをおこしては友人のエンゲルスに尻ぬぐいをさせたりしてました。
マル「こらいかん。わしゃ昔から思うとったが、普通に社会主義政権を作ろうとしても、『何が正しいか』を議論しとるうちに軍隊にツブされるで」
エン「だったらどうするかのお」
マル「わしゃ昔から思うとったが、やっぱり『何が正しいか』は上のもんが決めてしまうことにして、秘密結社でやるしかないで」
エン「なんか軍隊か初期キリスト教会みたいじゃのお」
マル「背に腹はかえられんけえのお」
エン「いいんかのお」
これがつまりマルクス主義でありまして、その後このマルクスさんの書いた本がむちゃくちゃな翻訳で(「ニヒト」を故意に訳し抜かしたりして)ロシヤに入りました。
これをレーニンの兄が読みました。
レーニン本人は兄のかたわらでツルゲーネフの恋愛小説を読んどりました。しかし兄が警察につかまって殺されると、レーニンがかわってマルクス主義をとなえはじめました。
これがつまりマルクス・レーニン主義のおこりであります。
コピペ。
泣ける話じゃなくて申し訳ない。
>78
いあ、こんなののせいで人類の半分が1世紀近くも奴隷のくびきに
つながれていたのかと思うと泣けてくる。
>>76-77 社会主義というのは色んな流れがあって、もの凄く漠然とした概念
なのは
>>76-77の通り。オーエンなんかは当初「機械を動かす時に
油をさすでしょ?労働者にもキチンとした報酬を与えてやれば、
その前よりももっと効率的な働きをして利益も実は大きくなりますよ」
なんて言って、資本家階層のなかでも天才的経営者なんて呼ばれて
もてはやされた。
そういった19世紀後半の頃の社会主義は、初期社会主義運動と
呼ばれるもので、20世紀の社会主義とは区別されるもの。
>>79 ひょっとして世界史板の奴隷スレにも書いたりしてる?
ああいうのは奴隷じゃないよ。
それに、初期のソ連を見ていれば負の部分もあったにせよ、
それ以前の状態からすれば改善された階層も多かった。
現代のサラリーマンなんかも奴隷だ、なんて呼んでいる人もいるけど
いつの時代でも、より良い生活に憧れる普遍的な感情論。
マルクス主義には色々な問題がありすぎだが、当時の資本社会も
問題ありすぎ。ハレムでトイレの数を増やそう、と言っただけで
共産主義者よばわりされ、撲殺された人もいる。
82 :
名無し三等兵:02/03/18 12:45
>>81 まあ奴隷、ちゅうことばの使用の適切さちゅうのは難しいの。
個人てきには 移動や職業選択や婚姻の自由があれば奴隷ではない、
ともいえるが、それ言ったらカースト制ってなんじゃいな、てなこともあるしなあ・・・
まあしかし悲惨自慢してもしょうがないがな。
それいうたら、ファシストだっておなじようにほめてあげなきゃ、
だいたい「ハレム」ってどこのはなしだ。
ある程度進んだ世の中でどれだけのことをなしえたか、
ちゅうところでくらべんとなあ・・・ 資本主義と社会主義(とファシズム?)
メし食ったあとのだぼらですまん。
ところで、「泣ける話がどっかにいって床屋政談で埋め尽くされつつある」
スレの現状はけっこう 泣けんるんではないか?
>82
>81の「ハレム」って、ニューヨークの方のハーレムの事じゃないの?
後宮じゃなくて。
今度HP作るのですがこのスレ転載してもいいですか?
真琴が来た。でもいつもとちがう。
わたしが仕事から帰って来ると、真琴がわたしの部屋の前に立っていた。
真琴はなにも言わなかった。だからわたしもなにも言わなかった。
わたしは黙って部屋の鍵を開けて、真琴を先に部屋に入らせる。
真琴が靴をゆっくりぬぐ。でもいつもみたいに、元気にぬぎちらかさない。
わたしは靴を脱ぎながら、奥にあがってゆく真琴の背中を見ていた。
真琴は明りをつけようともしない。自分の足許をみつめている。
わたしは真琴のあとにつき、部屋の明りを点けた。
真琴は上着も脱がずにぺたんとすわり、こたつにもぐりこむ。
わたしはコートを脱いで、それをハンガーにかけながら、はじめて口を開いた。
「ずっと待ってたの? 寒くなかった?」
「ううん」
あたりさわりのない会話。それはさぐりあいだ。
「ちょっとまっててね。ごはん、いっしょに食べていく?」
「ううん。いい。祐一が待ってるから」
いつもの会話だ。でもちがう。真琴はなにか言いたいことがある。
そして、わたしはきっと、それがなんなのか知っている。
いまの真琴はなにかを恐れている。
あの真琴が、内弁慶ではあるけれど、
根本的なところで決定的に天真爛漫なこの子が恐れるもの。
わたしにはきっとわかっている。
だからわたしはいつものようにすぐに台所には行かなかった。
わざと衣装だんすのなかの服を整えたりして、その時を待つ
そして、長い沈黙のあとに真琴は口を開いた。
「お金をね、貸してほしいの」
「おこづかいが足りないの?」
わたしはわざとそう言った。中心をわざとはずす。真琴は首をふる。
真琴が恐れているのと同じくらいに、わたしもそれを恐れている。
わたしは真琴に背を向けて、衣装だんすを探りつづける。
「あのね、……さいきん、ずっとなかったの」
「そう」
「それでね、きょう、病院に行ってみたの」
「そう」
「……3か月だって、言われたの」
わたしは目をつむった。ああ。ああ。神さま。
それは結婚生活の、健康な男女がひとつ屋根の下で、
合意のもとに暮らすことの当然の帰結。そして。
「そう。おめでとう」
わたしはやっと振り返って真琴を見下ろした。真琴はうつむいたままだけど。
「それでね、おろそうと思うの」
わたしはいま崖っぷちにいる。
「祐一にはないしょなの」
一歩も引くことはできない。
「だから、みしおにお金を貸して欲しいの」
ずっと考えていた。
「祐一はきっと反対するから。だからみしおに」
真琴が相沢さんと結婚をすることになったあの日から。
「この子供は、おろさなきゃいけないの」
この日が来ることを。たとえ妄想じみていても。
「生まれてきちゃ、いけない子なの」
ひとりでくりかえしてきたリハーサル。このときのためだ。
「だから、おねがい、みしお」
真琴はてのひらに顔をうずめた。
「わたしをたすけて……」
わたしはゆっくりと、自分を落ち着かせるために心のなかでみっつ数えた。
うまくいくかわからないけど。みんながしあわせになるために。
つづく
89 :
名無し三等兵:02/03/20 23:39
∧_∧
< `∀´>
>>87 _¢___⊂) む、誤爆かね?
/旦/三/./| 共に葉鍵板に帰ろうではないか。
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | 私としては軍事板にRRを是非とも定着させたいが。
|超誰彼発売|/
サンクス。
まあ恥じないようにしますわ。
∧_∧
< `ш´> 本来ならばこっちの口なのだろうが。
_¢___⊂) あいにく私は「∀」の方が気に入っていてね。
/旦/三/./| だが軍事板ではニダに良く間違えられてしまうのが
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | 哀しいところだが。
|阿鼻様沈没|/
95 :
名無し三等兵:02/03/20 23:59
>>94 つーか∀じゃあニダーその物ですぜ先生・・・
∧_∧
< `ш´> そうか、では軍事板ではこちらに統一しよう。
_¢___⊂)
/旦/三/./|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
|阿鼻様沈没|/
97 :
名無し三等兵:02/03/21 00:14
昔読んだ話。細部は自信がないが概要ね。どちらかというと感動したはなしかな?
終戦直後GHQは日本のトラック生産を禁じていた。
曰く、トラックは軍用に転用が可能で、非武装であるべき日本は
生産してならない。
日本の運輸担当のある官僚は産業の復興にはトラックが必要であると
考え、GHQ担当者の所へ交渉に行った。
両者の主張は平行線をたどり、交渉は決裂するかに見えた。
そのとき官僚はそばにあったペンをつかみ自分の手の甲に刺した。
官僚は言った。「ペンだってこのように武器にもなれば本来の機能も果たす」
官僚はペンを抜いて紙に何かを書き始めた。その紙にはこう書かれていた。
Sorry, I want peace.
官僚の心に動かされた担当者は規制の再検討を約束し、後日その約束は果たされた。
マッカーサーは後にこう語ったという。
「敗戦国日本には、まだすごい男がいる」と。
98 :
うううう・・:02/03/21 00:23
>>87-88 敢えて言わせてもらう 板違いだ・・・
たのむから このスレから去ってくれ・・
ここはそういう話を披露する場所じゃない
102 :
お茶っぴき:02/03/21 14:26
>>97 昔の官僚の中には、真に国を思うあまり、
敵役となる者も(何百人あるいは何十人か)居た。
今の官僚の中には、そういった人間は
両手で数えられる位(あるいはそれ以下)しかいないのでは?
「自衛隊に誇りを 志方俊之著」小学館より
「最近でも、埼玉県の入間基地の近くで航空自衛隊のジェット機が河原に墜落した事がある。
あの飛行機を操縦していたパイロットは、あの後二階級特進して国から表彰をもらっている。
というのも、彼はそれまで三〇〇〇時間も飛行時間があるベテランパイロットで、
自分が助かろうと思えばいくらでも助かる事が出来たにもかかわらず、
飛行機の墜落で絶対に一般人を傷つけてはいけないと
安全な河原まで飛行機を飛ばし続けたのである。
そのため、飛行機の高度が低くなりすぎ、脱出できずに亡くなった。
つまり、彼は一般人を巻き添えにしないために、自らの命を犠牲にしたのだ。」
104 :
フンガ――――――!!!:02/03/21 21:53
>>87-88 アフォかあああああああああああああああああ!!!!!!1
だから続きを見せろってんだろ糞カス野郎!!!!!!!
うあああああああああああああああ
106 :
名無し三等兵:02/03/22 21:34
目覚めたら、堅いベッドの上だった。
起き上がろうとするが、ずきずきと頭が痛む。
何故?
お母さんが退院したので、お祝いをしようと皆で集まっていた
ことは覚えている。
頭の痛みを堪えながらなんとか上体を起こし、周囲を確認する。
薄暗い部屋。コンクリートの打ちっぱなしで、部屋の中には
作り付けの堅いベッドだけ。扉は見たことも無いような鉄製だった。
両隣に倒れているのは香里と北川君だろう。
そのむこうに、祐一が黙ってこちらを見ていた。
「祐一・・・ここはどこ?」
問い掛けてみたが、祐一の返事はない。
「祐一ぃ〜〜なにがあったのか説明してよ〜」
祐一は黙っている。
「……祐一!」
「名雪」
祐一が、やっと口を開いた。
「名雪、お前は売り飛ばされたんだ。この傭兵部隊にな。」
つづく
もう薬が切れたのか?
すばらしいスレを発見し、徹夜で読んで号泣しました。
更に今晩もこの様な時間となってしまいました。
ここしばらくの書き込みはいささか場違いのものも含まれて残念です。
ご存じの方も大勢いらっしゃるでしょうが
日経「私の履歴書」に中曽根康弘元首相が書かれた話で、記憶に頼っているため
詳細は後ほど書き込もうかと存じますが以下のような話があります。
中曽根氏が海軍主計士官として南方に航空基地を建設する事になった時、彼が
指揮したのは鉄火肌の集団であった。この集団を統率するため、集団のボス的
性格の男にこう話した。「おれは士官ではあるが生まれは上州、国定忠治の親戚みたいな
ものだ。今回おまえらを仕切るような事になったが、一つ宜しく頼む。」
こうして基地建設は成功し、くだんのボスとは義兄弟の様になったが残念ながら
彼の人は戦死なさったとのこと。
以上の話は上でも述べたとおりあやふやな記憶に頼ったものですが、記事を読んだ
当時の私は感動しました。
中曽根氏をこの場に挙げましたが、他意はありません。
ここで彼個人の事を議論するつもりは毛頭ございませんので念のため。
109 :
名無し三等兵:02/03/24 19:54
>>106 だから続きを書けってんだよアフォオオオオオオオオオオオオオオオオ
違う奴見せんじゃねえええええええええええええ
ボケェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ
軍事板って本当に鍵っ子多いね。
それは違う。ヤツらはどこにでもいる。
日の丸を元にしたパラオの国旗
パラオの国旗は,どうして日の丸とデザインが似ているのか.それには深いわけがある.パラオはドイツの植民地だったが,第一次大戦下,
この地域の戦争でドイツに勝った日本は,戦後,国際連盟からパラオを含むミクロネシア地域を委任統治することを求められた.日本はたく
さんの移民をこの地に送り,産業,教育,文化の発展に大きな功績を残した.第二次世界大戦後,この地域を占領したアメリカは,日本文化
の影響を徹底的に破壊した.南洋神社は取りつぶされた.校庭の二宮金次郎の銅像は引きずり降ろされた.
しかし,パラオ人は,心の中では勤勉の精神を教えてくれた日本人を敬い,日本統治時代を懐かしんでいる.その証拠にパラオ人の8割は,
その姓名のどちらかに,日本式の名前を付けているといわれる.私がお目にかかったれっきとしたパラオ人の上院議員のなかに,ウメタロウ
さんという方がいる.私は最初,この名前を,姓名の「名」のほう,つまりファースト・ネームだろうと思っていた.実際は,この方はスティーブ・
ウメタロウさんという.ウメタロウは,この方の「姓」だったのである.おそらく,身近にウメタロウという名前の尊敬すべき日本人がいたに違いない.
1994年,パラオはアメリカから独立した.独立にあたり国旗を制定することになり,国民の間から一般公募した結果,日の丸をもじった今のデザ
インに決まったというわけである.ただし,パラオの国旗の満月は,日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレている.日本に失礼だからと,
わざと中心をはずしたのだそうだ.これはパラオの人たちの慎み深い態度をよく表している.
パラオの国旗は,日の丸は侵略のシンボルなどではないこと,かつて日本の統治下にあった国で,日本の日の丸を模した国旗がつくられるほど,
戦前の日本と日本人はアジアの人たちから尊敬されていたことを教える実物教材である.
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20010503.html
日本人誇りの日
2002年1月11日は日本人にとって忘れられない日になった。
所は南洋の国パラオ共和国、時、午前10時。教会合唱隊が大声で行進曲調のパラオ共和国の国歌を合唱し始めると、
夜の大海原に浮かぶ月をあしらった青地に黄色い○印の国旗が掲揚された。
続いて荘厳な「君が代」のメロディーが流れはじめると観客の中に静かな動揺がおこった。
伴奏だけで歌が無いからだ。すると突然隣の席の妻眞理子が声高らかに歌いだした。
「君がーよーおーはー」。思わず私も従った。すると私たちの後方にいた、
もう八十を超えたリケリケさんが「千代にーいー八千代にさざれー、、、」と歌いだした。
リケリケさんは日本軍へ志願して米軍と戦った「斬込隊」の生き残りだ。背中に軍刀を
背負い米軍機に見つからないように夜の海を島伝いに激戦地ぺリリュー島へたどり着き
米軍に斬り込みをかけようとしたのであった。正に日本のために命を張ってくれたパラオ人特攻隊員である。
私が彼の声の方へ振り向いて感謝の会釈をすると、直立不動のまま「、、、苔のむーーすーーまーーーで」
と声を一段と高めた。演奏は終わり、私たちの周りだけであったが君が代の斉唱が終わると、
周りから大きな拍手と歓声か起こった。大空に輝く太陽の「日の丸」と、深夜の大海原に浮かぶお月様の
パラオの国旗がへんぽんとたなびく中でトミー・レメンゲソウ、パラオ共和国大統領の祝辞が始まった。
http://www.luvnet.com/~sunraworld2/jiji-chokugen/jiji_151.htm
7 :バーチャバカ一代 ◆3iCOYKds :02/02/24 21:39 ID:YQKmSjL8
ウズベキスタン
ウズベキスタンでは(日本人)抑留者の方々のうち約千人が、ナボイ劇場という国立劇場の建設に従事させられた。
しかし、その日本の抑留者たちは、実に勤勉で、ていねいな仕事をするため、ウズベク人を驚かせたのだ。
当時の建設状況を記録映画にしていたカユモフ監督は、
「捕虜なのに何故あんなに真面目に働くのだろう。しかも、高い危険な場所に登って亡くなった人もいたんです」といまもその感銘は忘れないという。
その後、タシケントでは2度の大地震に見舞われ、多くの建物が崩壊したが、ナボイ劇場だけはビクともしなかった。
このため一層、日本人の仕事ぶりに感心し、そんなこともあってタシケントの人々は、
その地で亡くなった抑留者のお墓を作って霊を慰めたのである。
■ 「バャ・コン・ディオス (神とともに行け) 」杉原千畝の言葉 ■
1939年(昭和十四年)九月一日、ヨーロッパではヒットラー率いるナチス・ドイツがポーラン
ドへ侵攻し、第二次世界大戦の火ぶたが切られた。
同年十一月、リトアニアの首都カウナスの日本領事館に、領事代理としてソ連専門の外交官
であった杉原千畝が赴任して来ました。
次の年には、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害は周辺諸国では周知の事実であったが、アメリカ
は移民法に拘束されビザ発給には極めて消極的だった。また、イギリス・ソ連も含めヨーロッパ
諸国がユダヤ人に冷たかったのである。
日本政府としては昭和十三年十二月、五相会議が開かれた『猶太人対策要領』が決まっており、
ユダヤ人に対しても他の外国人同様、基本的には差別しないということが決まっていた。
これは「八紘一宇」の国是のもと、日本は一貫してユダヤ人に対して差別をしないことを明らか
にしていた。
リトアニアがソ連に併合されて以来、日本領事館の外にはユダヤ人難民から陳情を山ほど受け
ており、ここ何日も難民が押しかけてきた。日本としては、領事館を八月末までに閉鎖することに
なっているため杉原にできることは、時間的にも限られていることを知っていた。
しかし、外務省からの訓令では無条件ビザ発行には「ノー」であり上層部の指示にそむいて行動
するわけにいかなっかた。彼は、ビザ発給について悩み苦しんだ。
たくさんの人間の生死がかかっていた。
八月一日の早朝、杉原は日本領事館の外へ出て、彼は大声で叫んだ。
「みなさま方に、日本の通過ビザを発行することになりました」
外では、大きなどよめきが起こり、抱き合う人達もいました。
当時少年だったソリー・ガノールさんは、「日本人に救われたユダヤ人の手記」の中で杉原の言葉
をこう書いている。
帰り際、杉原領事と私は握手した。そして彼はひとこと、
「バャ・コン・ディオス (神とともに行け) 」 と言った。
当時のソリー・ガノールさんは、杉原がスペイン語の別れのあいさつを口にしたため意味がわから
なかった。しかし、心のこもったこの言葉は、彼の中に深い感動を思い起こす。
杉原は八月二八日まで、ビザを出し続けた。外務省からは 「カウナスの領事館を閉鎖し、ただちに
ベルリンへ行け」 という至急電報が届いたため、杉原はビザ発行を打ち切るほかなく、引き上げを決
意しました。
杉原幸子夫人の著書「六千人の命のビザ」の中で、当時の状況をこう書いている。
領事館を出て車の窓から見ると、数人の人達が茫然と佇んで私達を見ている光景は忘れることが
出来ませんでした。
「許してください。できるだけのことはしました」
心の中でその人影に詫びながら、私の目には涙が溢れてきました。
九月一日の早朝、カウナス駅でベルリン国際列車を待っている時にも、ビザを求めて何人かの人が
来ていました。
汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して杉原は許可書を書き続けた。しかし、汽車が走り出し彼
はもう書くことができなかった。
「私はもう書けない、許してください。みなさんのご無事を祈っています」
杉原は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深々とあたまを下げました。
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、
「スギハラー。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いします」と 私達の姿が見えな
くなるまで何度も叫び続けていました。
昭和二十二年四月、杉原と家族は日本の土を再び踏むことができた。それから三ヵ月ほどした頃、
外務省から手紙で出省するようにと通知があった。外務省から、戻ってきた杉原は顔が暗く沈んでい
た。心配した、幸子夫人が尋ねると彼は
「ああ、外務次官の岡崎さんに呼ばれて『君のポストはもうないのです。退職して頂きたい』と言われた」
と答えると、黙り込んでしまった。
杉原はビザ発行の時、訓令違反にあたるため覚悟の上での行動だったが、やはりこの仕打ちにはが
っかりした様子だった。
しかし、あれから二十八年も経った、昭和四十三年八月、突然イスラエル大使館から電話があり、杉
原は呼ばれ出かけました。
そこには、カウナスでビザを発行した中の一人でニシュリという人が、大使館の参事官として赴任して
きました。彼は一枚のボロボロになった紙を見せて「これを覚えていますか」と杉原に聞いたそうです。
それは当時、杉原が発行したビザが握られていた。そのビザにより、無事脱出したユダヤ人たちは、
戦後、杉原の行方へを探し続けていたのだと聞かされた。ニシュリ氏は幸子夫人の顔を見るなり、手を
取り固く握って涙を流し喜んだ。
そして、昭和六十年(1985年)1月、イスラエルの外務大臣、イサク・シャミ−ルが来日し、東京のユ
ダヤ人協会センターで歓迎会が開かれた。その席には、杉原千畝は賞を受賞すべく招待されていた。
そこでは 〔諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)〕 が杉原千畝に授与されました。この賞はイ
スラエル建国に尽くした外国人に与える勲章で、日本人としては初めてだった。その年の十一月に、イス
ラエルのエルサレムの丘に、杉原の顕賞碑が建てられました。杉原は病気のために、出席できずイス
ラエルのヘブライ大学に留学していた四男の伸生が代理で出席しました。
杉原はその様子を手紙で知った。
「今日は僕にとって一番美しい日でした。澄んだ青い空に日の丸とダビデの星(イスラエルの国旗)が掲
げられ、杉原林苑の植樹祭はエルサレム郊外のベイトシュウメッシュで行われた。
・・・(中略)・・・この丘はイスラエル独立戦争で一番戦いが激しかった拠点で、イスラエル兵が多く命を落
とした所です。そこに集まったユダヤ人は約七十人から九十人だと思いますが、ひとりひとりやって来て
“私たち夫婦は杉原さんに救われ、孫はもう三十人います” “リトアニアでのユダヤ人は本当に悲惨
でした” ある金髪の美しい老婦人は “私は日本領事館の塀の外で待っていた唯一の女性だったが、
あなたのお父さんが 「大変ですから査証は明日までに作っておきますので帰って休んでなさい」 と言って
くれ本当に紳士だと思いました” “あの時のビザは大事にもっています”
握手する手も休めない程で、皆、本当に心から感謝をしている目を見ると、僕はこんなに立派な両親を持
って幸せだとあらためて思いました。
(中略)
GOLDEN JERUSALEM 黄金のエルサレムと言われるように。 伸生
昭和六十一年七月三十一日に、杉原千畝は八十一歳でひっそりと息を引き取った。彼はマスコミの前
でこう話した事がある。
「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの
人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは正しい行動だった・・・」
「私の行為は歴史が審判してくれるだろう」
杉原千畝の行動により、ロシアを経由して満州〜神戸についたユダヤ人たちを、多くの日本人が暖かく
迎えたという事実が日本国の歴史にある。
私たちが、学校で子供たちに戦争の悲惨さばかりを教えるのではなく日本人にも尊い命を救った人物が
いたことを、大きな歴史の視点から教えていくべきだろう。
参考文献
「杉原千畝と外務省」杉原誠四郎/大正出版
「教科書が教えない歴史」藤岡信勝/自由主義史観研究会・扶桑社
「6千人の命のビザ」杉原幸子/朝日ソノラマ
「日本人に救われたユダヤ人の手記」ソリー・ガノール/講談社
(文 加藤 光治)
81 :コロネル・シバ :02/02/26 22:25 ID:4/5a+OCu
ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英
同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナ
ルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに
帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日
本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側
の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、
イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例の
スピードで同盟締結の運びとなった。
イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐとい
う点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギ
リスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半
年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日
本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景には
マグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。
1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる
獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列
強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉
により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあ
げ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり
とる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威
海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香
港島対岸の九龍をとった。
こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の
結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても
傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を
滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒
を襲うようになっていった。
82 :コロネル・シバ :02/02/26 22:26 ID:4/5a+OCu
5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅
を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外
交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に
停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを
北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加
した。今風に言えば多国籍軍である。
6月4日、北京?天津間の鉄道が、義和団によって破壊され
た。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間
がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。
北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メート
ルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス
公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。
日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であ
った。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参
していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力
を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論を
リードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得てい
た。
柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合
う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示
し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、
別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、とい
う形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持って
いった。
83 :コロネル・シバ :02/02/26 22:27 ID:4/5a+OCu
6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部
隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備
部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上さ
れた。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国
人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。
13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト
教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲
鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千
人を数えた。
15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグ
ドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救
出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、
柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を
提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価してい
た。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。
この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地
域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいてい
た柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、
日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつ
き、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍
と共に自衛に立ち上がった。
84 :コロネル・シバ :02/02/26 22:28 ID:4/5a+OCu
6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京
退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵
にいきなり銃撃され、即死した。
20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と
攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲ま
で持ち出して、公使館区域を砲撃した。
最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリー
とベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正
面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻
撃を受けると、そちらに移動してしまった。
北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間
が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北
辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下
ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてき
た。
区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、
粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オース
トリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵
達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、
「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保
護に帰ってしまった。
85 :コロネル・シバ :02/02/26 22:30 ID:4/5a+OCu
王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人
義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。
数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍
は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこま
でも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵
を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵ま
れていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シ
バ(柴中佐)である。・・・
この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、
前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをす
べてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒し
ていることを感じる
この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津
からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は
3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退す
るという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使
は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタ
リア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス
人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。
86 :コロネル・シバ :02/02/26 22:31 ID:4/5a+OCu
6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃
が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げ
ながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待っ
てから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は2
0余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大
いに鼓舞した。
イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次の
ように記している。
王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援
軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中
佐である。・・・
日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士
官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇
気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
87 :コロネル・シバ :02/02/26 22:32 ID:4/5a+OCu
王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼
りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が
激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵
との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦
が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こ
うということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、
今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめてい
た軍議はすぐにまとまった。
イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が
乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容さ
れていたのである。
安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、
たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き
刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出し
た。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、3
0余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に
避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは
讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。
89 :コロネル・シバ :02/02/26 22:33 ID:4/5a+OCu
後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ
上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。
戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバ
ックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮
した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあっ
たばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、
この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生
として、みなの目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の
賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接
的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。
90 :コロネル・シバ :02/02/26 22:36 ID:4/5a+OCu
救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京
にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千
の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、
ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城し
ていた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。
14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、
北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナル
ド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、
守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そ
して公使は最後にこう付け加えた。
北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰す
べきものである。
柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、
嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々から
も認められた誇らしい感情を味わっていた。
柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪
を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍
の間でも評判となった。
柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズ
の記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広
く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めた
マグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し
進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりか
ら、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したので
あろう。
130 :
名無し三等兵:02/03/26 21:05
日本マンセー太郎の連続コピペ、ウゼエ。
>>130 だったら上げるな,ヴォケ!!
sageでやってるだけオマエよりマシだ,ヴァカ!!
アフォか。荒れてんじゃねーYo!
133 :
名無し三等兵:02/03/27 13:05
ちゃんころ登場
>>131 どうでも良いけど、コピペするなら元スレURLもつけといてくれ
アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書より抜粋。
「要するに日本という国は本質的には小国で、輸入原料に依存する産業構造を
持てる貧弱な国であって、あらゆる型の近代的攻撃に対して無防備だった。
手から口への、全くその日暮らしの日本経済には余力というものが無く、緊急
事態に対する術がなかった…その経済は合衆国の半分の強さを持つ敵との
長期戦であっても、支えることが出来なかったのである。」
うむぅ、反論し難いだけに泣けるなあ…
137 :
名無し三等兵:02/03/28 22:58
>133
君みたいなのが同じ日本人なのが泣ける
昭和20年8月14日の御前会議での昭和天皇の御言葉
「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えはこの前言ったことに変わりはない。
私は、国内の事情と世界の現状を充分考えて、これ以上戦争を継続することは
無理と考える。
国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意を
持って書かれた物とは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると
思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。
陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことである
ことも良くわかる。
国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持も良くわかるが、しかし、私自身はいかに
なろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。
この上戦争を続けては、結局我が国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛を
なめさせることは、私として忍びない。
この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおき難いことは
当然であるが、日本が全くなくなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえ
すれば、さらにまた復興という光明も考えられる。
私は、明治天皇が三国干渉のときの苦しい御心持ちをしのび、堪えがたきを堪え、
忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。
これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことで
あり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力
すれば、必ずできると思う。私も国民とともに努力する。
今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものや
その遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を
失ったものの今後の生活については、私は心配に堪えない。
この際、私のできることはなんでもする。
国民は今なにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、私が国民に
呼びかけることが良ければ、いつでもマイクの前に立つ。
陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、
相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく
説きさとしてもよい。
内閣では至急に終戦に関する詔書を用意してほしい。」
大宅壮一編 日本のいちばん長い日より
終戦の詔書がこの時の天皇の御言葉に基いて起草されたのが良く分かる
気がします。
話ではないですが、
「救国の偉人 米内光政之墓」
米内光政の墓碑銘。
泣ける話の書き込みが減ってしまって寂しいな。
私も書き込むので、皆で泣き合いましょう!!
「私は27年間にわたって軍人として戦い続けてきましたが、
その間に平和を実現することはできませんでした。
しかし、今、その機会が訪れたことは間違いありません。
だからこそ私は、平和にチャンスを与えることに決めたのです。
今日ここに集まっておられるみなさんは、ここに来なかった人々と共に、
国民は心から和平を望み、暴力に反対しているのだという事を、身をもって示してくれました。
暴力は、イスラエルの民主主義を根底から蝕むものです。
暴力は非難され、排除されなければなりません。
暴力に蝕まれた姿は、イスラエル国家が歩む道ではありません。
和平への道は、様々な困難と痛みを伴う道だというのが実状です。
イスラエルにとって、痛みを伴わない道は皆無です。
しかし、戦争の道よりは和平の道を望みます。
今日、国防相の立場からイスラエル国防軍兵士の家族の痛みを見ている人間として、
こう言いたいのです。
彼らのために、私達の子供のために、そして私達の孫達のために、
この政府が包括的な和平の推進と達成のために、
あらゆる糸口、あらゆる可能性を探り尽くすように、願ってやみません。
1995.11.4 当時のイスラエル首相兼国防相ラビン。
テルアビブ市庁舎前で開かれていた平和祈念集会でのスピーチ。
演説の後、ラビン首相が車へ向かおうとした時、狂信的なユダヤ教徒の凶弾に倒れる。
死の直前、彼は集会の壇上で隣にいた元テルアビブ市長にこう漏らしていた。
「私の生涯で最も幸福な時を味わっている気がするよ」
この時期限定な、泣ける話ですかね。
今のパレスチナ情勢を見てると、どうにもやりきれませんな。
をとめらの ひなまつる日に いくさをば
とどめしいさほ おもひてにけり
昭和天皇御製
上海事件3/3停戦の折りの功績を嘉し、
白川大将の死後未亡人に送られし歌です。
白川大将の心意気が素敵だと思いますし、
昭和天皇のお心も素敵だと思いました。
また独白録の中にありましたが、
御前会議と云ふもの の項に述べられている、
「所謂御前会議といふものは、おかしなものである。
枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議疾に於て、
意見一致の上、出席してゐるので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の
者は枢密院議長只一人であつて、多勢に無勢、如何ともなし難い。
全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない」
これ、今は別としてちょっと前までこうじゃありませんか?
先に決めてあったとおりつらつら文章を読んで、書面通りに質疑応答をして・・・
お父様、フミちゃん。太一は本日、回天特別攻撃隊の一員として出撃します。
最後のお別れを充分にして来るようにと家に帰して戴いたとき、実のところは
もっともっと苦しいものだろうと予想して居ったのであります。
しかしこの攻撃をかけるのが、決して特別のものでなく、日本の今日としては
当り前のことであると信じている私には何等悲壮な感じも起らず、あの様な
楽しい時をもちました。
何も申上げられなかったこと申訳ないこととも思いますが、これだけはお許し
下さい。
お父様、フミちゃんのその淋しい生活を考えると、何も言へなくなります。
フミちゃん立派な日本の娘になって幸福に暮して下さい。
これ以上に私の望みはありません。お父様のことよろしくお願い致します。
お父様泣いて下さいますな、太一はこんなにも幸福にその死所を得て征った
のでありますから、そしてやがてお母様と一緒になれる喜びを胸に秘めながら、
軍艦旗高く大空に翻るところ菊水の紋章もあざやかに出撃する私達の心の中
何と申上げればよいのでせう。
回天特別攻撃隊菊水隊 今西太一 唯今出撃致します。
回天特別攻撃隊 菊水隊 海軍大尉 慶応大学出身 26才
今西太一様の御遺書
この御遺書を読むと涙と共に胸が、躍り、高鳴るのも覚えます。
146 :
名無し三等兵:02/04/06 18:36
乱れきった政治、風俗。
自分の都合で好き勝手にやるのが「自由」「個性」。
弱きをくじき、強きになびき、誰しも「金、金、金」。
50年以上前、「平和な国」をつくる礎として捨て石になった人達は
今の平和な日本を見てなんと言うだろう。
>146
戦前も大して変わらん。
今日ね、遅まきながら花見と思って靖国神社行ったんですよ。
そしたらね、人がいっぱいいるんですよ、すごい数!
この時期に花見かな?と思って進んでいくとあの『火吹きダルマ』
の像の下に張り紙が張ってるんですよ
「第18回 靖国の桜の下で同期の桜を歌う会」
約500人ぐらいの元軍属の方があちらこちらで再会の敬礼してるんですよ。
自分の所属する旗を持ち出してね「ビルマ歩兵会」「第八予科練会」
「戦車??会」「関東軍??会」
はっきり言って感動したよ。
嗚呼、ここにいる人たちは日本のために一生懸命戦ってきたんだなと、
この人達が今の日本をみてなんて思ってるんだろうな・・・とね
関係ない話なのでsageです。
>146
むしろ、毎日々々空襲におびえたり、配給でその日食べるものにも事欠いたり
あるいは同期で江田島や海兵団で別れた戦友が虫けらのように毎日死んで
いったりすることの決してない今の日本をみたら、きっと自分たちが死んでいった
意味もあったと喜んでくれるでしょう。
自分の偏屈な価値観による現代社会への悲憤慷慨を正当化するために、
文句も言わずに国のために殉じていった人たちをダシにして語るのはいかが
かと思います。
150 :
名無し三等兵:02/04/06 19:52
自分の娘を売って暮らすよりか、自分で売りをして遊んだほうがまだ(周りも)
幸せに決まってるだろうが!!!!!!しかも、娘を売るのも、他に選択肢が無いから
しかたなく売ってたんだよ!!!!!!!自分の進退を自分で決めれるだけ十分
今のほうがマシだよ!!!!理想主義を語るんじゃないぞ!!!!
げ!
>17-18の話は@niftyのネット老人にして経歴詐称コヴァ『南十字星(北斗星、石田某)』では
ないか。
どうせ嘘バナだよ。泣くな。
152 :
名無し三等兵:02/04/06 21:40
>>149 146です。あなたの指摘した
「自分の偏屈な価値観による現代社会への悲憤慷慨を正当化するために、・・」
は、たしかにそうかもしれません。
言いたいことを言っても何の不安を感じずに済む時代に生まれたことを感謝します。
スレ違い申し訳ない。
153 :
日本はまもなく終了いたします:02/04/06 23:13
しかし50年前の日本人にとって日本は自分が死んでも守る価値の
ある国だったのに、今の日本人は自分の国を守る価値があるとは
全く思っていない辺りが泣ける噺とオモワレ(w
この差は最期の土壇場ではっきりと出て来るだろうね
みなさん長らくのご愛顧誠にありがとうございました。
日本はまもなく終了いたします。
>153
みたいのが一通り出て行った後、頑張りましょう。
あの、別に煽るつもりで書いたわけじゃなくて
、単に日本の現状を嘲笑っただけなんですが。
コラムE●英国の「空の墓標」
英陸軍のダンケルク撤退にあたって、英空軍は戦闘機を延べ2739機、
爆撃機を延べ651機、偵察機を延べ171機出撃させて掩護したが、陸軍兵士
には襲い掛かるドイツ機しか目に入らなかった。ほうほうの態で逃げ帰った
彼らはドーヴァーの街頭で空の勇士を吊るし上げ、メディアにも空軍の
不甲斐なさを声高に訴える。英本土決戦に備えるダヴディング大将が
16個飛行中隊しか使わせなかったのも確かに不十分な掩護の一因であった。
救出作戦の真っ最中である5月31日、第213中隊のハリケーン搭乗員
R・D・G・ワイト中尉は母親へこう書き送った。
「お母さん、もし誰かが空軍の不甲斐なさをなじったら、もっと掩護したかった
んだと僕がいっていたと伝えて!飛行機がなかったから、あれ以上はして
やれなかった。あれで最善だった、それでもドイツ野郎の最善の50倍は
やったんだよ。でも心配しないで、お母さん。
最後の一機、最後のパイロットまで僕たちは戦い抜いてみせるから」
「この撤退の成功は空軍のお陰である。」とチャーチルが下院で
謝辞を述べて間もなく、ワイト中尉は祖国の空に散華する。
(;´ー`)y-~~光人社FN文庫
著:徳田八郎衛「間に合った兵器」より抜粋
>153
そうやって他人を嘲笑うのは、社会を変革させようと
少しでも努力してから言いな、坊や
なんか変な風に誤解されてるようですが。
今の様な我々の情けない現状は笑い話にしかならないな
と嘆いてるだけなんですが。別に誰かを見下して書き込んだ
訳ではありません。見下すとすれば我々自身だと思っていま
すので。
>>158 俺の目にはおまえは荒らしの厨房程度にしか映らない
粛々と進むこのスレの内容をよく読んだ上で
自分の書いた文章をもう一度読み返してみな
今の日本にも真面目に働いて、
家族や子供の未来のために一生懸命な人も居るのですが?
その人たちの存在を、君は完全に忘れ去ってないか?
それとも今の日本はあなたが仰るような腐った連中大多数で
構成されていると思っているのですか?
阿呆は無視しましょう
と言ってみるテスト
153は荒氏ではないと思うが・・・。
ヤシが言いたい事に共感する面はある。
まあ マタ〜リと行こう。
殺伐とするのは吉野家のU字テーブルでやれば良い。
若者たちの戦場アメリカ日系二世第442部隊の生と死。ドロシーマツオ著。新庄哲夫訳。
第二次世界大戦時、アメリカ本土で収容所に入れられていた日系人、収容所に入れられることはなかったが屈辱的な仕打ちを受けたハワイ日系移民。
その若者たちが志願してアメリカ兵として欧州戦線で戦っていく。
JAPとして差別されていた彼等が、勇猛かつ献身的な戦いぶりにより次第に賞賛されていくのだ。
特にこのエピソードには泣けた。
フランス、ビフォンティーヌ東方で日系人から構成される第442部隊は休暇を取る間もなくドイツ軍によって包囲された大隊の救出を命じられた。テキサスからやってきたこの大隊は深入りしすぎたのだ。そして、多大なる犠牲を払い作戦に成功する。
それで師団長の将軍はじきじきにねぎらいとお褒めの言葉をかけようと、連隊長に命令した。一件も外出許可を出すな。全員足止めさせておけ。激戦の後でうっぷんを晴らしたいのはやまやまだろうが、と。
当日、各中隊の点呼結果が報告された。E中隊がその日連隊最大の中隊だった。整列した隊員42名。中隊の定員は197名だった。I中隊はわずか十数名しか残っておらず、たった一人の二等軍曹が指揮を執っていた。
将軍は連隊長を叱り、こうたしなめた。「連隊全員を集めろと言ったはずだぞ。外出許可を出したようだな」
連隊長は答えた。「連隊全員であります。残りは負傷、もしくは戦死しました」
―――この救出作戦は国防総省の米国陸軍十大重要戦闘の一つに指定されている。
しかし、たった一つの汚点として、師団長が442部隊を投入したのは、日系人を無茶な戦場で損耗しても構わない、という人種差別感情からか、無茶な戦場で任務を達成できるためには勇猛で精強な442部隊が存在していたからなのか。
兵士は言う。「指揮官は最もよく任務を達成できる兵を選ばなくてはいけないのだが、この場合は442部隊がそれに当たったのだ」と。
大隊の故郷テキサスで442部隊の兵士は名誉テキサス人に選ばれ、今でも再会すると助けられた者と助けた者は涙を流して抱擁するという。50年前の光景と同じように。
163 :
名無し屯田兵:02/04/08 08:38
TVでイスラエル兵が、自爆テロのことを「カミカゼ」って言ってた。
特攻隊はそれだけ、世界中に知れ渡っているんだろう。
そんなことする連中と戦争はゴメンだと、思わせていれば無駄では
なかったと思いたい。
Q:「ベトナム戦争でアメリカの猛爆撃からベトナムを奇跡的な勝利に導いた、
勝利の秘訣は?」
A:「勝利の秘訣はモラルです。高いモラルがあってこそ、才能が生きるのです。
モラルを失えば害になるだけです」
元北ベトナム国防相・ボー・グエン・ザップ将軍がインタビューに答えて
165 :
名無し三等兵:02/04/08 21:54
暗愚な杉原千畝の為に多数のパレスチナ人が犠牲になった。泣ける。
166 :
名無し三等兵:02/04/08 22:50
>>165 わが国は鎖国をして、どこにも迷惑をかけずに生きてきた。
それを無理やり武力で開国させたのは誰か?
日清日露が戦争犯罪にあたるというのなら、よろしい。
墓からペリーをつれてこい!
陸軍中将 石原莞爾
あんたの言い方からすると、鎖国していた日本を無理やり開国させた米国がすべての元凶です。
168 :
名無し屯田兵:02/04/09 09:24
>>146 日本に、元々性規範なんかありません。
乱れようがないのです。
風俗の乱れ等と思うのは、欧米の考え方です。
嘆くのは的外れです。
169 :
名無し三等兵:02/04/09 20:50
>>168 同意だねえ。いまの状況はきっと帰り着くべき場所に
帰り着いたということではないかな。
花園メリーゴーランドの世界って、明治や、田舎では
昭和戦前あたりまで普通だったのよ。
いろいろ議論があるが、こうやって気にかけている連中はまだましだ
兵隊=幽霊などど、とんでもない思い違いをしている連中は救いようがないよ
>168
どっちかというと欧米の倫理というより大陸渡来の朱子学じゃないかな。
>171
朱子学は江戸期には官学とされてましたが、それでも一般人には大して浸透しなかったのは>169のいうとおり。
一般階層における性規範の変化はむしろ戦後の変化のほうが大きいか、と。
第二次世界大戦、枢軸国として参戦したイタリアは植民地のリビアからエジプトに侵攻した。
領内200キロまで進撃したが、イギリス軍の反撃にあって800キロ後退。
リビア失陥の危機におちいり、イタリアはドイツに援軍を求めた。
……こんなスゴイ国を盟邦としてWW2を戦った日本。
>173
大事な落ちが抜けてるぞ・・・
「その」イタリアが、三国同盟唯一の戦勝国になった
独自技術に基づいた当時の最新兵器が欧州で猛威を奮った第三帝国、
技術屋と現場の創意工夫で貧乏を補い太平洋を席巻した皇国・・・
軍事の上手さと政治の上手さは全くの別物というのが泣けてくる
俺、数年前半年デスマーチが続いて死にたくなった事があったよ。
毎日会社行ったらクライアントが来て職場の椅子に座ってんのね。
そん時向かいの席の先輩が客先に人質になってて、席が空いてたのよ。
でね、俺のクライアントがその空いた席に座ってノート広げて
向かいの席で報告用の書類作ってんのよ。その状態が半年。そう半年。
職場の上司もそのお客さんには頭が上がらないから、俺に押し付けてる。
フォローもしてくんない。職場は禁煙でそのお客さんは喫煙者だから、
しょっちゅう喫煙室に行くわけよ。で、帰ってきたらまた不機嫌そうに
向かいの席でわざと視線合わさないでプレッシャーかけてくんの。
息抜きもできない状態で休日も1日も無い状態で、さすがに精神が
参っちゃって、ある日朝家を出て、駅まで歩く途中で突然、
そうホント突然、死のうと考えたわけよ。
でね、職場は千葉の柏だったんだけど、なぜか俺神奈川の関内に行ったわけよ。
何で関内かっつーと、今まで一番好きだった子と学生時代によくデートした
町なんだ。そこから1日中歩いた。風が強い秋の日だったよ。知らない間に
猛暑の夏も終わってて、そんな事も気付かずに半年も働き詰めたのに初めて
気付いて、それもショックだった。
その子とも別れて1年、新しい彼女ができるでもなく、そういう感覚も忘れてた。
そんな事を考えながらふらふら桜木町まで歩いて、名物のガード下の落書き
眺めながら横浜まで歩いて、一緒によく朝まで過ごしたファミレスの近くまで
歩いた。
もう夕方になってた。そのファミレスの前に大きな歩道橋が掛かってて、
下には車がぶんぶん。でね、ここだ!って決めたわけよ。
でもね、不思議な事にそういう時ってなぜか人目を気にしちゃうんだよね。
歩道橋を通る人がなかなか途切れてくれなくて、踏み出せないのよ。
ずぅ〜っと待ってて、やっと途切れて、今だ!って手すりに乗り出そうと
した瞬間、そのファミレスの店員さんと目が合っちゃったんだ。
店員さんは凍りついた感じでこっち見てた。
何故か俺走って逃げちゃったんだよね。
でね、またふらふら歩いてそのまま何故か伊勢崎町。横浜の人なら地理
解ると思うけど、一日かけて関内〜横浜を往復しちゃってたの。
でね、ずーっと歩いて京急日の出町の駅まで来ちゃった。
そこね、俺がその子に告白した場所だったんだ。
その瞬間、その日一日デートコースを一人で歩きながら
一度も思い出せなかったその子の顔や表情、しぐさ、声を急に
はっきりと思い出しちゃって、一人で泣いちゃったんだ。
あの頃は輝いてたのに。俺今何やってんだろう、って。
ひとしきり泣いて、泣きつかれて、そのまま藤沢の実家に帰ったよ。
実家に着いたのはもう深夜。俺が帰ったらお袋が泣きながら
俺に抱きついてきた。会社から電話が掛かってきてたらしい。
朝寮を出て出社してない、彼の勤務が最近厳しかったので疲れている
んじゃないか、会社としても非常に心配している、何かあったら
すぐに連絡して欲しい、との事だった。
警察からも連絡があったらしい。関内の駅で捨てた鞄が警察に
届けられてて、中の携帯から実家に連絡が行っていたそうだ。
親父が受け取ってきたその携帯には上司や先輩や同僚や後輩から
バカみたいに沢山着信が入ってた。
普段口うるさい親父が一言、「よく生きて帰って来た、今日は安め」
って言ってくれたのを憶えている。
結局死ななかったけど、その夜は眠れなかった。
一晩じゅう「俺の幸せってなんだろう?」って自問自答してた。
翌日昼から出社して、上司に全部話した。
上司も何も文句を言わなかった。
結局その案件は先輩が引き継いでくれた。
クライアントはもう来なくなってた。担当も替わってた。
引き継いだ後、1週間休みを貰った。
1週間、横浜の大桟橋の脇の船着場の浮き桟橋で波に揺られて
毎日ぼぉ〜っとした。「俺の幸せってなんだろう?」って。
俺はやっぱりこの板のみんなと同じでコンピュータが好きだ。
プログラミングが好きだ。誰かとその事で議論するのも好きだ。
後輩に教えるのも好きだし、先輩から昔の話を聞くのも好きだ。
お客さんがすっげえ喜んでくれるのも好きだ。
でね、1週間の長い休みが明けて会社に行って、上司に「やっぱり
この仕事が好きなので続けます」って言ったら喜んでくれた。
こんな事があって、絶対辞めると思ってたらしい。
それから、適当に息を抜く技を身に付けた。
お客さんのアオリのかわし方もうまくなった(と思う)。
それから数年、今のカミさんには話した事無いけど、
カミさんとその脇で寝ているガキの顔を見て、
つくづくあの時死ななくて良かったと思う。
>>1 耐えれば幸せになれる訳じゃない。
でも、死んでしまうとその後の幸せにも出会えなくなっちゃうよ。
上手く言えないけど、俺は君に生きていて欲しい。
君なりの幸せがどこかに必ずあるはずだよ。
180 :
プログラマ板より転載・おしまい:02/04/10 17:08
軍事とは関係ないです。スマソ
ただ、自分も某M銀行関係SEなもんで、この戦友のレスみて泣いちゃったんだよね。
仕事で厳しい時ってのは誰にでもある。
>>180 私はネットワークエンジニアだが少しはわかる。死ぬなよ戦友。
いざとなったら精神病院に駆け込め。恥じゃないぞ。
危ないところで医者に救けられたヤシも多い。
スレ違いスマソ。
誰にでもあるが、それを乗り越えられるのは誰にでも出来るとは限らない。
そしてその辛さもまた千差万別、他人の経験を軽んじることなぞ誰にも出来はしない。
>>180 う、同業者なり。
私の場合、日頃から上司に文句言ってストレス解消してるけど、
これって上司にストレスがたまってるんじゃないかなーっと思う最近。
でもまぁその分高給なんだしと割り切って生きてます。
関係ないんでsage
PGじゃないがシステム系在宅。不規則出勤。
税務署に社員じゃない扱いされて危なく首切られる処だった。
社長と二人泣きそうになったよ・・・
インパール作戦時、ただ一人、部下将兵を餓死させずに、しかも全軍総崩れの中を最後尾を守りつつ、部隊の建制を維持して戻って来た部隊があった。
宮崎繁三郎少将率いる、歩兵第58連隊を基幹とする宮崎支隊だった。
続いて宮崎少将は第53師団長となるが、ここで末期のビルマ戦線を支える矢面に立った。
かくして第53師団を含む第15軍は敵中に孤立し、方面軍に置き去りにされる格好になったが、軍は突破を試み、雨季のチンドウィン川を渡河する。
ここでも宮崎師団長は、インパールのように味方の最後を守って激流を渡った。そして、最後の中隊を掌握してようやく河畔を離れた。
だが、その宮崎師団長を軍司令官桜井省三中将は、近くの村で待っていたのである。
軍司令官は師団長を信頼し、師団長は中隊長を信頼していた。だからこそ、敵中突破も成功したのである。
不敗の最前線指揮官、宮崎中将は、戦後は都内で雑貨店を営み、つつましい余生を送った。
多くの犠牲者から出したにも関らず、戦後も「支隊長殿」「師団長閣下」と懐かしそうに訪ねて来る部下が絶えなかったという。
開戦時、インドネシアを攻略した第16軍司令官、今村均中将は、昭和18年悪化する南太平洋の戦局を支える第8方面軍司令官に親補され、ラバウルに向った。
参謀副長が本土に出張する時には、新島壌の記したキリスト教の研究書を探させたが、出版元にも在庫がなかった。
そこで副長は噂を頼りに高名な作家を尋ね、その亡子の蔵書を譲ってもらえないかと頼んだ。
作家は快く応じ、新島の全集は空路ラバウルに向った。しかし、この輸送機は海に墜落し、参謀副長も運命を共にした。
戦後、帰国した今村大将はウイスキーを携えて、礼に訪れた。息子の思い出の品を失ったと言うのに、この作家は、
「陣中でキリストの教えを学ぼうとした人物だからこそ、8万の将兵を玉砕から救い、無事に連れ帰れたのだ。私は息子の遺品を惜しむものではない」
とその志を尊び、遂に終生、将軍から贈られたウイスキーを開けなかったという。この作家とは、「銭形平次」の著者、野村胡堂である。
復員までのある日、ラバウルに入港した復員船に将軍の子息が船医として乗組んで来た。だが、将軍は会いに行かなかった。
「皆、家族と会いたいのだ。自分だけ、家族に会うわけには行かない」というのが理由だった。
188 :
名無し三等兵:02/04/11 02:47
第二次大戦時、日本はイタリアとドイツと同盟を結んだが、
これは、理想(独逸)と同類(イタリア)の同盟である
と書いた本があった。
ナルホド。
>>180 2ch来て半年。これ程泣ける話は無かった。
俺はまだ学生だがこれのお陰でこれから先辛い事があった時も少しだけ頑張れる気がする
上田 貢(うえだ みつぐ)
富山県出身。
比島セブ派遣憲兵隊所属。
憲兵曹長。
昭和21年6月6日
フィリピン・ルバウにて刑死。
30歳。
(一)
最愛なりし愛子へ
1余と結び、日時短少なりといへども、よく余につかへ、命征きし後、恵子の養育に
これ務めたるを、心より感謝に堪へず、然るに余、君を遇するに足らざるありを恥づ。
2尚、我逝きし後、君に対する苦難の道多々あるを思ふ。ねがはくは大和撫子の真髄を
発揮し、君が希望せらるる道を邁進せられん事を。
3君が処世上、若し恵子、重荷となる事あらば、我が両親にこれを托せよ。
(二)
未だ見ざりし恵子へ
1お前の父さんは、国に忠義な立派な人だよ。
2お前の祖父母さんや母さんも立派な日本人です。父さんか無くても、祖父母や母さんの
お教へを良く守り、立派な人になるのだよ。
3お前が学校へ行く頃は、アメリカ流の教育になつてゐると思ふが、アメリカ流でも、
良いところは進んで習ひ、人に負けてはいけないが、日本人だといふ事を寸時も忘れ
てはいけないよ。
お父さんは永い間外国に居て、外国の女は偉いとは思はなかつた。やはり女の人は、
日本の女が世界第一立派であつたと思ひます。
だから大きくなつたら、立派なお母さんになつて、りっぱな日本男子をたくさん生んで、
父さんがアメリカと戦つて、立派な戦死をした事を伝へて下さい。
昭和二十一年四月二十三日 於マニラ
191 :
お茶っぴき:02/04/11 23:37
>>久しぶりにきました。ここしばらくのレスを見ました。
功名を狙って、戦をした者はいるが、
戦犯と云われる者になりたくて戦をした人はいない。
人の世の情けと不条理に揉まれながら漂う人の
悲しみがここにはある。
俺も所謂IT業界、今となっては思い出話になるが、
その時はマジで然るべき処置をしようと考えたこともある。
泣ける話ですね。
でも、涙から何かを得なくては...。
192 :
名無し三等兵:02/04/12 00:53
知り合いのおばあさんに聞いた話
昭和20年の4月頃
おばあさんがある夜、子供と家で寝ていた。
すると誰かが扉を叩いている音がする。
風でゆれたのだろう・・・と思っていると
上の子が「お父さんが帰ってきた!」と騒ぎ出し、
まさか・・・と思い、玄関に行き、「どちらさんですか?」と尋ねたが、
返事がない。しかし人の気配はする。子供は「お父さんだ!」と大騒ぎ
そして玄関を開けてみると、
スゥーっと、1個の人魂が消えていったという・・・。
詳しく話を聞いたり、頼んで昔の写真を見せてもらった。
するとおばあさんの夫は第二水雷戦隊所属だった
オレは、「おおっ!すげえ!」と思うのと同時に、
「・・・・」とも思いました。
193 :
名無し三等兵:02/04/12 01:06
知覧に行ったときは泣きそうになったが、人が多かったので必死でこらえた。
それにしても、見学客が多いが、ほとんどの連中が
「フ〜ン」てな感じで、適当に眺めて、通りすぎていくのが腹立たしかった。
あと、三角兵舎の中にタバコポイすてして、その後にピース!で写真とってたバカっぽいカップル!
お前ら、マジで死んでくれ。
>193
>泣かない人間を非難する前に、自らの涙に恥じぬ振る舞いをせよ。
初代スレ756氏
>>180 不覚にも泣いてしまった…ちくしょうめ。
スレ違いスマン。
>>186の続き
ある参謀は、宮崎中将の臨終に間に合った。
元師団長が死の床で発した最後の言葉は、「参謀、敵中突破でバラバラになった部隊を、確かに掌握したか」であった。
遂に死ぬまで、宮崎中将は師団長であり続けたのである。豪雨の中でのチンドウィン川渡河が、脳裏から離れなかったに違いない。
これが指揮官というものであろう。
コピペで申し訳無いが乃木将軍の話を・・・。
■1."Father Nogi"■
1913(大正2)年2月、ニューヨークで "NOGI"と題する本が
出版された。そのわずか5ヶ月前、明治天皇の崩御(ほうぎょ、
亡くなること)とともに、自刃した乃木大将を描いた本である。
自刃と共に、一気に書き上げ、急いで出版したものである。
著者はスタンレー・ウォシュバン。日露戦争中、シカゴ・ニ
ュースの記者として乃木大将の第3軍に付き添った人物である。
乃木大将の参謀長を務めた一戸(いちのへ)少将は後にこの本
の存在を知って、涙を流さんばかりに喜んで、こう語ったという。
ウォシュバンという男は当時27,8歳の愉快な青年であった。
非常に乃木さんを崇拝したばかりでない。Father Nogi と呼んで、
父のごとくに思っていたようだが、果たしてこういうものを書いていてくれたか。
後に軍神として祀られた乃木大将は、米国青年の眼にどう写ったのだろうか?
■2.毎朝手元に届けられる死傷者の名簿■
明治37年8月19日、乃木希典大将率いる第3軍は、旅順要塞への総攻撃を開始した。
バルチック艦隊が到着する前に、港内に逃げ込んだ敵艦を撃滅しなければならない。
しかし最新の技術をもって築城した要塞は、第3軍決死の総攻撃にもびくともせず、
戦死者累々の有様であった。この時の乃木大将の様子をウォシュバンは次のように描く。
しかし毎朝手元に届けられる死傷者の名簿を見て、
将軍がどれ程心胸の疵(きず)を深めたかは疑うべくもない。
一週は一週、一月は一月と、この恐怖の月日が長引いて行く間に、
将軍の変化は非常なものであつた。
心労痛苦の皺が、縫い目のように顔面に刻まれ、気色悠揚とした時でも、
新しい皺が創痕のように深く目立っていた。
・・・新任長官として第九師団を編成した時には、
下士官の姓名までいちいち覚えてしまったという人である。
手ずから撫育して多年統率の任に当っていた、我が児のごとき第九師団は、
今や旅順ロ攻撃軍の中心となって、難戦苦闘を極めた点においては、
出征軍中恐らくその右に出づるものはあるまい。
乃木の長男・勝典(かつすけ)は第2軍に属し、5月27日、
遼東半島上陸直後の戦いで戦死。次男・保典(やすすけ)も11月30日、
第3軍の歩兵少尉として戦死してしまった。
■3.祝賀の陰の涙■
旅順要塞が陥落したのは、ようやく翌38年1月1日であった。
日本軍の犠牲は死者1万5千、負傷者4万4千人に上った。
将軍はたちまち全世界の視聴を一身に集める人となった。
文明国民として、将軍に賛美を呈せぬものはなく、新聞という新聞は、
ことごとく将軍の肖像を掲げ、でたらめの伝記までも書き立てた。
ドイツ皇帝は祝電を送り、勲章を贈った。
しかし、乃木大将はこれにどう応えたか。一副官はウォシュバンにこう語った。
旅順口が陥落して、私たち幕僚が皆祝賀に耽(ふけ)っていると、
いつの間にか閣下の姿が見えない。
もう退席してしまわれたのだ。行って見ると、小舎の中の薄暗いランプの前に、
両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。
閣下の頬には涙が見えた。 そして私を見るとこういわれた。
今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。
降将ステッセルとの水師営(すいしえい)の会見は有名である。
各国特派員が写真撮影を求めたが、敵将に恥をかかせることは日本の武士道が許さないとして、
「会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」
といい、ステッセル以下と肩を並べて写真に収まった。
■4.「午後は少し忙しい。」■
5月、第3軍は満州に進出し、司令部は人口5万の町・法庫門に居を構えた。
従軍記者はウォシュバンを含め、3名に減っていた。
石と泥土で建てられた、何の飾りもない小さな家を乃木大将は住居としており、
門に歩哨が立っているのと、将軍達がときおり内庭を行き来しているのを除けば、
他の同じような住宅と区別はつかなかった。
ある日の午後、ウォシュバンはコリヤズ週刊新聞記者のバリーとともに乃木大将の住居を訪れた。
いつものように閑談を伺ったり、一服の茶をふるまってもらうためであった。将軍は大
長靴を脱ぎ、大きな腕椅子に正座して、茶をすすり煙草を喫して、
法庫門の生活などを4,50分ほど語り合った。
ウォシュバンには、この時ほど、将軍がくつろいで見えた時はなかった。
やがて、将軍はこう言った。「今日はこれで失礼します。
午後は少し忙しい。ミスチェンコの兵が、我が軍の連絡を絶つために、
襲撃しようとしていますから。」
ウォシュバンが後で知ったことだが、この時、
わずか1千人しか防御のいない第3軍司令部にミスチェンコ少将率いるコサック騎兵約1万が接近していた。
乃木大将が「少し忙しい」と言ったのは、大至急、味方の兵力を集めることであった。
夕刻には万全の準備が整った。
私たち二人が乃木大将の許に悠々と茶を喫していた時は、
あに図らん、ちょうどこの戦闘準備の最中であったのだ。
■5.忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。■
東郷提督率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅した翌日、
夕刻7時に司令部において祝杯を上げることとなり、ウォシュバンも招待された。
乃木大将が「万歳」を叫ぶと、満座これに応じて、
たちまち野砲斉発のような轟きとなって、「万歳」の声が四壁を揺るがした。
乃木大将は微笑を浮べて冷ややかに見渡す。
その微笑もやがては消えて、なかば厳粛になかば悲痛の面持となる。
将軍は右手を挙げる。満堂再び沈静する。
一同体を傾けて将軍の一語をも聴き漏らさじとする。
将軍の言葉は、翻訳によると大要左のごとくである。
我が聯合艦隊のため、我が勇敢な海軍軍人と、東郷提督のために、
祝盃を挙げるのはこの上ないことだ。
天皇陛下の御稜威(みいつ)によって、我が海軍は大勝を得た。
しかし忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。
我が戦勝を祝すると同時に、又我々は敵軍の苦境に在るのを忘れないようにしたい。
彼らは強いて不義の戦をさせられて死に就いた、
りっばな敵であることを認めてやらねばならない。
それから更に我が軍の戦死者に敬意を表し、敵軍の戦死者に同情を表して、
盃を重ねることとしよう。
乃木大将の本色実にここに在る。・・・
■6.乃木大将のアキレス腱■
ウォシュバンらが、乃木大将の戦功を語るにシーザーやナポレオンなど
歴史上の偉人に比較しようとすると、
将軍はいつも迷惑そうな面持ちで、「アメリカの諸君は大変お上手だから」
と言って、直ちに話題を転じてしまうのが常であった。
しかし、遂に乃木大将のアキレス腱を見つけた。それは詩歌であった。
バリーは、通訳が英語に訳した将軍の詩歌の詩情と典雅な表現に動かされて、
適当な英語の韻律を与えようと、苦心を続けた。
他の手段によってその名誉心に訴えようとしても、
将軍は毫(すこ)しも動ずることがないが、作詩の讃評を聞く時のみは、
小児のように夢中になっていた。
バリー君が翻訳して、しかも佳作となったものを齎(もたら)して、
原詩の情調に適する韻律選択の苦心を語る時、
恍惚(こうこつ)として両眼を閉じて傾聴する将軍の面影が、
髣髴(ほうふつ)として今なお眼前に浮んでくる。
バリー君は将軍の著想を表すのに、シェークスピアの韻律が適するか、
又はスウィンバンのが適するか、それを決めるのが困難だと言って説明した。
・・・そして彼が将軍の作品を論評する時、
将軍は始終ポンチ(漫画)人形のように嬉しそうに見えた。
■7.暁天の星■
9月、日露講和が成立してウォシュバンらは帰国することとなった。
出発の前夜、送別の小宴が開かれた。乃木大将は体調が悪く、欠席とのことであった。
宴が終りに近づいた時、にわかに入ロの戸が開いた。
一同起立して不動の姿勢をとったと思うと、戸ロの方に乃木大将が立っている。
覆いがたい憂愁に打ち曇ったその時の顔色は、忘れようとしても忘れることはできない。
・・・将軍は微笑だにも漏らさず、しずしずと食卓の上座まで来て、
私たちと握手を交換し、切れるような日本語で従卒を呼んでシャンペンの盃を取った。
再ぴ私たちに向って、淋しいながらも温和な色を浮べて、左のような意味を述べた。
「・・・今諸君の我が軍を去られるに当って、一言を呈せずにはいられない。
しかし訣別の辞を呈しようとするのではない。願わくはお互いの友情を、
永久に黎明(れいめい、夜明け)の空に消ゆる星のごとくにあらしめたい。
暁天(ぎょうてん、夜明けの空)の星は次第に眼には見えなくなる。
しかし消えてなくなることはない。我々は諸君に会わず、
諸君も我々に逢うことがないにしても、各々何処かに健在して、
互いに思いを馳せることであろう」
言い終って将軍は盃を揚げる。一同もまた黙々として盃を揚げた。
やがて将軍は幕僚をふり返って、少しく意気を起して「万歳」を叫んだ。
人々例によってこれに応じた。
この懐かしい叫びは三度鳴り渡った。
将軍は再び握手を交換して、またしずしずと入口の方へ去った。
振り返って一座を見渡し、微笑を浮べて型のごとき挙手を行い、急に転じて出て行ってしまった。
これが我々の親愛なる老将軍乃木の見納めであった。
■8.別れ■
翌朝、ウォシュバンらは、一戸少将以下、6名の幕僚に見送られて、法庫門を出発した。
行くこと一マイル、郊外に出ると、一戸少将は馬を停め、こう言った。
「日本人は、友人と袂(たもと)を分かつことを好まない。
私も今告別の詞(ことば)などは申さない。
ただ私たちは此処(ここ)に馬を駐めているから、
諸君は途の曲るところまで行ったら、振り返ってこちらを見て下さい。
私が手をふったら諸君も手をふって下さい。
それをお互いの別れとしましょう」
私たちはそのまま馬を進めたが、胸迫って涙を抑えることができなかつた。
永い間生活を共にしてきた軍人たち、今は友愛の情切なるものもできているのである。
法庫門からの奉天街道が、渓(たに)の細路に通ずる地点に達するまで一マイルは十分あって、
そこから細路が東へ東ヘと迂回して行く。
その地点に達した時、かねての注意に随って振り返って見た。
遥か彼方に騎馬の群が見えていた。私たちは手をふった。
肥えた黒馬に跨(またが)った姿に白くひらめくものが見える。
それは一戸老の手巾(ハンカチ)を振っているのである。
これがいよいよ日本帝国の第三軍との別れとなったのだ。
■9.過去数百年伝来した理想の実現のために生きた人■
明治天皇崩御の後を追って、乃木大将自刃の報がアメリカに達した時、
この事件がアメリカの国民の間で実にわけの解らぬ事件とされているのを見て、
ウォシュバンは憤り、一気呵成にこの本を書き上げた。
吾人(われら)遠く欧米に在るものよりみれば、
這般(しゃはん、このたび)の行為は聞いてだに戦慄すべきことであろう。
しかし乃木大将を知って、いささか将軍の理想を解し、
先帝(明治天皇)に対する崇拝の赤心(まごころ)を解するものよりみれば、
何ら怪しむべきことに非(あら)ず、ほとんど自然の進退とするほかはない。
乃木大将にとっては、天皇は日本帝国の権化(ごんげ、象徴)であり、
最後に生命を天皇に捧げるのは、すなわち、日本帝国に捧げることであった。
将軍既に自己の事業の終われるを感じ、
疾(はや)くにも平安静寂の境に入るべきことであったとして、
その機会を熱望していたのである。
見地かくのごとしとすれば、必ずまず将軍の絶対無二の立脚地を認めなければならぬ。
そは、旅順口の戦勝者としてに非ず、奉天戦の英雄としてでもない。
ただ本務遂行のために生き、過去数百年伝来した理想の実現のために生きた、
単なる人としてである。
乃木大将はかくのごとき人であった。
(文責:伊勢雅臣)
で、私の過去レス。
乃木希典
諸外国の歴史教科書にも記述されている「海軍元師 東郷平八郎」
彼が大日本帝国海軍艦隊を指揮し、奇跡の勝利と言われ、
世界三大海戦の一つに数えられるあの「日本海海戦」
これの最も大きな勝因は無論「旅順攻略」
その熾烈な攻防で乃木は多くの日本国民を失う。
その中、実子戦死の報を受けた乃木は
たった一言「よくぞ死んでくれた」と。
心中いかばかりか・・・。
「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」
で、平八殿の過去レスコピペ (勘弁ね>平八殿)
日露戦争後のある年、乃木は私用で長野に赴いた。
秘密にしていたのだが結局そうはいかずつかまってしまい、長野師範学校で
講演を行うよう頼まれた。
講堂に満場の生徒を前にして、校長が乃木の赫々たる武勲を紹介し、
登壇を促したのだが、乃木はどうしても承知しない。
それでも無理強いされるので、乃木は止む無くその場に起立し、たった一言
「諸君、私は諸君の兄弟を大勢殺した乃木であります」
と述べ、あとは言葉もなくただむせび泣いた。これを見た満場の教師・学生も皆泣いた。
(長野県は東京第一師団の管区で、同師団は乃木第三軍に属して多数の犠牲を出している)
乃木のこのたった一言の講演は、長く感動を以って同地に伝えられたという。
乃木将軍の戦死者に対する憐れみとか言動の慎ましさっていうのは、
上品で全てを知リ尽くした上での戦争に対する悲しみを感じる。
それに比べて戦争の事を考えない考えようともしない「戦争は悲惨だ、
戦争反対!話し合えば判る」と言うしか能の無い連中の言葉のいかに
空虚なことか。そういった連中に限って非常時には「麻原なんかさっさと
殺してしまえばいい」とか簡単に言い出す。
乃木大将は色々言われる事の多い人だけど、
こうして見るとやはり明治の将帥の一人と
よく分かりますなあ・・・・。
何年か前まで乃木大将=無能な自殺愛好家と
考えていたのが恥ずかしい・・・・
スマトラのラハトに駐留していた第九錬成飛行隊には、連絡、航法訓練用に
オランダ軍から鹵獲したCW-22Bを使用していた。
1944年9月24日、連絡飛行のため同機で飛び立った第九錬成飛行隊の
隊長勝村五郎少佐は、用務飛行から戻る途中、P-38に撃墜され、同乗の
玉垣宗治少尉共々戦死した。
隊長は厳格だがユーモアも良く解し、部下の面倒見も良かった。
撃墜された機体の残骸には部下のために買い求めたのであろう、大量の
チョコレートが発見されたのだ。
部下達は部下思いの隊長を失って皆泣いたという。
212 :
名無し三等兵:02/04/15 11:21
214 :
名無し三等兵:02/04/15 14:07
>>213 自分には一番楽だけどね。親戚友人にとっては最悪の選択だな
某スレの2が此処に刻まれない事を祈る
日中戦争中、支那派遣軍参謀辻政信は三笠宮の示唆によって、蒋介石の母堂の命日に、その墓前で盛大な慰霊祭を行った。
このことは重慶側にも報道され、たまたま重大会議に出席中、その電報を受け取った蒋介石は、中座して自室に入り、鳴咽の声が洩れ聞こえたという。
218 :
名無し三等兵:02/04/16 20:04
>218
辻タンちがい・・・
ののタン・・・マーくん・・・ハアハア
前田萬右エ門
萬右エ門さんは彦根商高を卒業して教師となった。
昭和12年、すゑさんと結婚、その直後にサイパンの実業学校に転勤、長男の義光さん
が誕生した。しかし、義光さんは2歳のときにテング熱を患い、聴力を失う。
昭和19年、萬右エ門さんは陸軍司令官として出征。その前後、和綴のノートに筆で
長男への遺書を認めた。
蹴和21年、「戦死広報」が入るが、詳細はわからなかった。後に戦友の手紙により、
戦死の状況が判明。それによると、昭和20年7月、インパール作戦中、ビルマのコン
クリークで英軍の至近弾を大腿部に受け、戦友が背負って脱出を図った直後に敵部隊
が侵入、自決したという。
義光君
義チヤンの不幸に付いてはもう書かないことにします。思へば思ふ程目の前が真暗に
なつて来て断腸の思ひに身が切られる程苦しくなつてきます。何卒父チヤンを堪忍し
て下さいね。
父チヤンが死ぬ時には何卒この父チヤンの耳と口を義チヤンにやつて下さる様、一生
懸命神様に御祈り致します。若し神様が御聞き届け下さつたら此れ以上嬉しいことは
ありません。必ず神様が御聞き届け下さる様一生懸命お祈りします。義チヤンの将来
に付いては暮々も母チヤンによろしく御願ひして置きました。母チヤンの御言付けを
よく守り立派な人間になつて父チヤンや母チヤンを喜ばす様にして下さいね。
父チヤンが居無くなつても決つして淋しがつては駄目だよ。義チヤンは男だもの、
それに目に見へなくても父チヤンは何時も母チヤンや義チヤンや美子チヤンの側に居
て皆様を御守りしてゐます。淋しがらず安心して、母チヤンの御言付けをよく守り、
美子チヤンと仲よく御暮らしなさい。そして将来何でも結構ですから必ず一人立ちの
出来る様に努力して下さいね。
身体を大切にして病気にならない様、そして何時も元気に御暮らしなさいね。
では失敬
昭和十九年九月九日 父より
息子の義光さんは、父の遺書を励みに障害を乗り越え
草津で理容店を開店したそうです。
乃木将軍と辻占売り
ご来場なる皆さん方へ平にご免をこうむりまして
何か一席うかがい(読み上げ)まする
かかる外題は何か(を)と聞けば
乃木の将軍辻占売りをうまいわけにはいかないけれど
さらばこれから読み上げまする
明治三十七、八年の日露戦争開戦以来苦戦悪戦いたされまして
我が子二人は戦死をすれどうまずたやまず奮闘いたし
ついに落城いたされまして御旗旅順にひるがえされた
兵の指揮官乃木大将は戦死なさった我が兵卒の
遺族訪問いたされまして謝罪なさったその一席は
頃は二月の如月時よ武士の育ちの乃木将軍は
どこへ行くにも質素な支度今日はおだやか散歩をしようと
家を出かけて梅林にはここに立派な売店ありて
腰をおろして眺めをいたす梅の香りはまた格別で
ついに夜更けて十一時ごろ通りかかった両国橋の
水の面に月ありありて波にゆらるるその風景に
寒さ忘れてたたずむ折りに二人連れなる辻占売りが
破れ袷を身にまとわれて弟手を引き寒げな声で
恋の辻占あの早判り買ってください皆さま方と
客を呼ぶ声さも愛らしや兄は一人で心配いたす。
なぜか今夜は少しも売れぬそんなこととは弟知らず
これさ兄ちゃん寒くてならぬ
早く帰って母ちゃんのそばでだっこいたして寝んねがしたい
言えば兄貴の申することにさぞや寒かろ我慢をおしよ
兄は弟いたわりながら涙声して客呼ぶ声に
乃木将軍と辻占売り2
乃木は近寄り子供に向かい
お前ら兄弟いずくの者で年はいくつで名はなんという
言えば子供は涙をふいてわたしゃ十二で弟五つ林善太郎弟勇
父は善吉母ちゃんお里それに一人の婆さんがいて
一家五人で貧しいながら仲むつまじく暮らしていたが
父は戦地へ行かれたままで未だ一度の便りもないよ
どうか様子が聞きたいものと思う折からお役場からの
林善吉ゃ名誉の戦死
これを聞いたる私の婆は力落として病気になりて
熱にうかされうわごとばかりそこで母親途方にくれて
日にち毎日ただ泣くばかりわしはこうして辻占売りで
学校休みに近所の人の
使いいたしてわずかなかね銭をあちらこちらで恵んでもらい
聞いて将軍びっくりいたすわしは乃木じゃがお前の家へ
用があるから案内頼む言えば子供の申することに
勇行こうと弟つれて急ぎ来たのが浅草田町
九尺二間の裏店住まい家は曲がって瓦が落ちる
月はさしこむ風吹きとおす見るもあわれな生活ぶりよ
お待ちください雨戸を開けて坊はただ今帰られました
お里聞くよりニッコリ笑いさぞや寒かろおあたりなさい
なんのご用か知らないけれど乃木の将軍参られました
聞いてお里はビックリいたす
奥に寝ていた老婆も聞いて乃木と聞いてはうらめしそうに
床の中からはいだしながら可愛い倅を殺した乃木よ
たとえ恨みの一言なりと言ってやらんと座を改める
それと聞くより乃木将軍は
婆や御免と腰うちかけて乃木というのはお前にとって
どういうわけにて仇となるか人に話してよいことなれば
一部始終を聞かしておくれ言えば老婆が申することに
聞いてください私の話
わしにゃ可愛い倅があって徴兵検査に合格いたす
しかも陸軍歩兵となりて満期除隊もめでたく済んで
嫁ももらって二人の中に可愛い孫めが二人もできて
うれし喜びわずかの間
日露戦争が開かれまして旅順港なる苦戦に向かい
決死隊にと志願をいたし死する命は惜しまぬけれど
後に残った二人の孫が親のない子と遊んでくれぬ
坊はよけれど勇がふびん
父がこの世にあることなれば人目なりとも逢わせておくれ
せがむ子供の顔見るたびに胸に釘をば打たるる思い
金鵄勲章白木の位牌見せて泣き出すそのありさまを
そばで見ている私のつらさ
こんなときには倅がいたらこんな苦労はさせないものと
どうぞお察しくださりませと
乃木将軍と辻占売り3
聞いて将軍涙をふいて
わしも二人殺しておると片手おがみに懐中よりも
金子取り出し紙にと包み
これはわずかの香典なりとあげて将軍我が家へ帰る
お聞きくださる皆さん方へもっとこの先読みたいけれど
名残り惜しゅうはござそうらえどまずはここらでとめおきまして
ご縁あるならまたこの次だがオーイサネ
八木節です。
続いて「招集令」
ところ小倉の町はずれにてその日暮らしの村上清次
さても清次は六十三の年をとったる老婆を抱え
妻のお峰は三年越しの重き病に閉じこめられて
畑の仕事や水田の仕事それも多くは子供のために
休みがちにてますます困る三つ広次は生まれて以来
お乳なければ初めのうちは近所近辺広次を抱いて
もらい乳して育ててきたがそれも他人の親切なれば
そうそ永くは続きはしないそこで近ごろ重湯や飯の
つゆを飲ませて育ててきたがやせおとろえてただ骨と皮
実にあわれな姿となりてある日清次はその広次をば
背におぶうて定一つれて鍬をかついで畑の仕事
通りはたなる木陰の下で広次寝かせて兄定一は
そばで広次の守りをばすれど腹がへったか広次が泣けば
兄の定一父にと向かい広次泣くから帰ろうちゃんと
言えば広次は舌打ひとつ実に子供はがんぜがないと
たった半日またもや清次広次おぶって定一つれて
鍬をかついで我が家をさして帰る途中で
召集令2
これこれ清次
声がするのであと振り向けば近所近辺貧乏人に
金を貸し付け非道の利子を取って喜ぶ権兵衛でござる
それと知るより清次はとまり礼儀正しく権兵衛に向かい
聞いてくださいこれひととおり妻のお峯は三年越しの
重き病に閉じこめられて軽いまくらも次第に重く
母は年寄り役には立たずそしてこのように子供がいれば
返すお金は忘れはせぬが元利合わせて五両の金を
つくるどころか晩食う粥をどうしたらよかろと気をもむ始末
どうか暫くお待ちのほどを聞いて鬼権目に角たてて
今日は如何なる言訳しょうと金を取らねば承知はできぬ
ダメだダメだとかぶりを振ってどうしても金がよこせぬならば
それをよこせと清次の肩にかつぎ持ったる鍬をば取って
取ってそのまま行かんとすれば清次その手にしっかとすがり
待ってくだされこれ旦那さまそれが私の品物なれば
なんのいやおう申しませんがそれは私のお得意先の
鍬でござんすそればっかりはどうぞ返してくださいませと
すがる清次を突きころがせばあッと倒れて背中におぶう
広次はひたいを打ったるものかワッと泣きだす流るる血潮
それを見ていた兄定一は子供ながらも健気なものよ
鍬にすがってこれおじちゃんよ持って行かれちゃ仕事ができぬ
どうぞ返してくださいませとすがる定一ふみころがせば
アッと倒れる哀れなものよ道を行く人また帰る人
かわいそうだと思って見るがたれぞ口添えする人はなし
かかるところへ靴音高く村を受け持つ駐在巡査
金子春吉その人なるぞそれと知るより鬼権兵衛は
悪いところへ金子のやつめ来るものよと行かんとすれば
力いっぱい引き戻されて待てというのになぜ待たぬのか
話しゃうしろで残らず聞いた無理な催促したその上で
ひと他人のものだと頼んでいるに持って行くとはそりゃ何事だ
持って行くなら持たしてやろうお前そのような了見ならば
きっと処分で戒めてやるわしの言うことよく聞け権兵衛
召集令3
他人はかまわぬおのれの欲を足せばよいとは不埒なやつと
意見されれば鬼権兵衛はそら空吹く風よと耳には入れず
口の中にて不平を言うて人を押しわけすごすご去れば
これを眺めた人々はみなざまを見よとてあと後見て笑う
されば清次は金子に向かい涙ながらに感謝をすれば
金子巡査は清次の右手グッとにぎってこれ村上よ
四百四病のあの病より貧の病はなおさら辛い
母は老後で女房は床に二人子供を抱えた君の
心中察するこれ村上よこれは他人からもらったミルク
家にミルクを飲む子はないで持って帰って背中の坊に
飲ませたまえと一つのミルク出して清次に与えしゆえに
それを受け取り清次はワッと男泣きして押しいただいて
厚く礼のべ立ち去るけるがうしろ姿を打ち見やりたる
金子巡査もハラハラこぼす思いやったる男子の涙
今も今とて巡回ついで役場に立ち寄り話を聞けば
小倉師団に動員くだり清次のもとにも召集令状
きたということまだ知るまいが家に帰れば村上清次
老いし母親病の妻やがんぜなき子の二人を残し
遠い戦地に行かねばならぬまこと哀れじゃふびんでならぬ
しばし涙にかきくれながら清次親子のうしろ姿が
見えなくなるまで見送りましたこちら清次は金子の情
胸に感じてうれし涙を流しながらに戻って母や
妻に金子の温情継げる母は眼をしばたたきつつ
そっと清次を一間に呼んでこれさ清次よお前の留守に
こんな二品届いたけれど嫁に話せば心配すると
思い黙っていましたけれどこれを見たならお前もすでに
わかるでしょうと差し出されて見ればこれこそ召集令状
国を守るのつわもの兵なりとしるす肩から真っ赤なタスキ
さすが清次もびっくりいたしハッととどろく胸をば押さえ
心しずめて両手をつかえ召集令状この赤タスキ
召集令4
届きましたるその上からはとても猶予はしておられねば
あとのところはあの母さまへ頼みますると言うのを聞いて
我が子ながらもあっぱれなるぞあとのことなど心配するな
たとえ私や女房や子供飢えて死のうとお国のためじゃ
あとに心を残すでないぞ見事りっぱな働きなして
死んでおくれよ必ずともに生きて帰ると思うでないぞ
言えば清次は涙をはらいほんによう言うてくだされました
敵をなぎ伏せまた斬り倒し死んで骨をばアノ送ります
いかに心を残すなとてもわしが出征したそのあとは
年をとられたあなたと妻と子供ばかりでありますゆえに
村長さまのところへ行ってあとのことをば頼んでこよう
またも広次を背中に負うて兄の定一手を引きながら
来るところが村長宅の勝手もとから入った清次
実は今日これこのとおり招集令状やアノ赤ダスキ
届きましたるその上からはすぐに出発しなけりゃならぬ
わしが行ったるその留守宅は知ってのとおりの事情であれば
熱いものとは申しませんが冷たいご飯のアノ残りでも
うまいものとは申しませんがにがいタクアンの切れ端なりと
どうぞ恵んでくださいませと頼みますればこなたの村長
お前一人をそのようにまで世話をしたならヤレ誰彼と
みんな同じに世話せにゃならぬ慈悲や情のカケラも見せず
はねつけられたよ村上清次神や仏はおろかなことよ
人の情があずれにあるか坊や帰ろとあの定一の
手をばにぎって外にと出たが帰る道なき掛茶屋前で
弁当ひろげた旅人ひとりそばに駈け寄り兄定一が
おじさん白いそのおまんまはうまいか坊も食べたいものと
言うを聞いたる村上清次さても子供はいやしいものよ
今も今とて家出る前にたんとご飯を食べたるくせに
こっちへ来いと兄定一の頭たたいて手を引っぱって
連れて来たった人ない木陰打った我が子の頭をなでて
引いた我が子の手をもにながら人の手前があったればこそ
叱りましたぞたたきもしたがさぞやいたかろ許してくれよ
そちは子供じゃ無理ないことじゃ今に母ちゃん治ったならば
白いご飯やおいしい魚お腹いっぱい食べさせてやる
さあさ帰ろと倅をなだめ我が家をさして帰られまする
召集令5
家に帰ればはや日も暮れて燈なければ不思議に思い
母を呼べども答えもあらず妻よお峯よいま帰ったと
呼べど答えぬさて不思議なと急ぎ入って二分芯ランプ
火をばともして眺むるならば母と妻とはのど咽喉を突いて
紅に染まって倒れていればアッと驚きよくよく見れば
生地ににじんだ書置一通取る手遅しと開いてみれば
今日ぞ届いた招集令状それと知ってはおったるけれど
老いし母上この私に心配させじとおかくしなされ
あなた諫めてこの母上があればかえって勇気をくじく
もと原因と母上自害をなさるされば私も母上さまの
あとを慕うてあの世へまいる君のおんためお国のために
残る二人の子供は殺しどうか出征してくだされよ
そして戦地に行かれた上はあっぱれ働きなされた上で
死んでくだされ吾がつま夫さまとつたなけれどもひともじ一文字ごとに
誠こもりた哀れなかきおき遺書これを眺めた清次は遺書を
ぐっとにぎって死骸に向かい母よ、これ妻ようこそ死んだ
清次の未練なくしてやろと命捨ててのそのおぼしめし
かわいそうではありますけれど二人の子供はいま刺し殺し
出征しましょうこれ倅たち君のおんためじゃお国のためじゃ
死んでくれよと心を鬼にせな背の広次を前にとおろし
妻が死んだる出刃包丁を取るとみるよりはやぶっつりと
刺さんとしましたその一刹那飛び込み来たった巡査の金子
待ったこれ待て村上君よ君は子供を殺してまでも
出征いたして忠義と思うか子供二人は及ばずながら
わしが金子が引き受けました心残さず出征いたせ
母や女房のとむらい葬式までもきっと誓って引き受けました
折りも折りとて入りくる一人昼間いじめた鬼権兵衛よ
昼の勢いいまどこへやらあがりがまちに両の手ついて
許してください金子の旦那かんべんしてくれ村上君よ
やっと悪夢がいま覚めましたあとのところは引き受けました
心置きなくお国のためにりっぱな働きしてくだされと
人の性こそ善なるものか鬼といわれたあの権兵衛も
ここにすっかり改心いたすその夜は三人通夜をばいたし
明けてよくちょう翌朝村上清次母や女房の葬式よそに
遅れてならぬとはや出発のほかの出征軍人たちは
旗を押し立て数多の人の見送り人はありますけれど
こちら村上清次の方は貧のつらさでただ一本の
旗もなければ送ってくれる人もないゆえ寂しき門出
かかるところえ鬼権兵衛と金子巡査が駆けつけまして
これよ村上僕たち二人君を送ってやろうと思う
たった人数は二人じゃけれど幾万人の人にも勝る
言えば清次はあの男泣きご恩報じはお国のために
きっと立派な働きしますほんに未練なようではあるが
子供二人の身の行く末をどうかよろしくお願いします
坊や父さん行ったるのちはおじさま二人のいうこと聞いて
言えば二人の幼子たりはもみじ葉のよな手を上げまして
父さん万歳万々歳と呼ばわる声をば後にといたし
急ぎまするがあの兵営よ聞くも語るも涙のタネの
召集令状のこの一くさり国の護りの軍人たちや
母や妻子のよい亀鑑ぞといつの世までも語り継がれる
オーイサネー
井上三等兵様
良いお話を聞かせて頂き、本当に有難う御座いました。
先の二話はどんな風に歌われ発表せられたものなのでしょうか。
八木節と書かれて有ったので八木節に乗せて歌われた物なのですか。
宜しければお教え下さい。
233 :
名無し三等兵:02/04/18 07:05
パレスチナ侵攻調停交渉うまくいかなかったようですね。
ブッシュ政権の中で一番現実的・冷静で、話し合い姿勢を大事にしているように
見えるのが、軍人出身のパウエル国務長官というのも皮肉なものです。
>233
つーか、「軍人」という言葉は別に本人の人格や思考回路を示すものではありませんから……
シャロン叩きに良く使われる「軍人出身で武力行使しか頭にないシャロン」という言い回しにしたって、
それを言うならオスロ合意を成立させつつも凶弾に倒れたラビンだって軍人出身です。
「軍人」という言葉と暴力的だの権威主義だのという表現をイコールで結び付けてしまう
「戦後ヘイワ主義」とはいいかげんおさらばして、
平和な環境を自分のために、そして子孫のために残すために
何ができるか、何をしなくちゃならないか、をマジメに考えるべき時代が来ているわけで……
じゃあそれが人類に出来るのかというと、むにゃむにゃ……
>232
名無し三等兵様
参考の文献をお教え頂きどうも有り難う御座いました。
インターネットの威力をまざまざと感ずることが出来ました。
今後共どうか宜しくお願い申し上げます。
一寸以前に話題になった『涼月』菊水作戦時のエピソードですが、
先日古本屋で『壮烈!水雷戦隊』を発見・購入したので、当該箇所を
ご紹介させてください。
爆弾が命中、艦首をもぎ取られた涼月は、必死の応急作業を行いつつ、
後進で佐世保に帰投しようとします。
(前略)
佐世保まで9ノットで18時間。その間を、後進で、逆向きに、人力で舵を操りながら、
爆弾の破口からは、まだ煙を出しながら、すこしもくじけず、元気な360人が、
「フネを沈めるな」を合いことばに、がんばった。
とうとう涼月は、佐世保に着いた。
「入港用意」のラッパが涼月で鳴った。先着の冬月、雪風、初霜がそこにいた。
再び見ることはあるまいと覚悟を決めていた故郷の春の緑が、涼月の乗員達の目にしみた。
しかし彼らには、それを見つめる余裕はなかった。ブイにつなごうとしたとき、
急に、船脚が深くなりはじめたのに気付いた。艦が沈みかかっている!
港務部や、工廠から、曳船が、サイレンを吹き鳴らしながら、全速力で駆けつけてきた。
そのうちの一隻は、Uターンして、ドックの扉をあけに戻った。
一分一秒が貴重だった。船が精根つきかけていた。3隻の曳船が、1隻は艦尾を、
2隻は両舷から涼月を横抱きにして、強引に、扉を開けたドックに引っぱりこんだ。
涼月がドックにはいるやいなや、すぐ扉をしめ、急いでドックの水を排水しはじめたが、
涼月は、もうそのときには、ズズズズとドックの底にすわりこんだ。水がかい出される
わずかな時間が待ちきれず、ドックのなかで、がっくりと沈没したのだ。
「感動しました。われわれもがんばったが、フネもがんばってくれたんです。
フネも生きているんです。われわれのなかまなんです。われわれ駆逐艦乗りにとって、
フネと人は、一体なんです。
やったなあ、涼月。すごかったぞ。水がかい出されたあと、私は、ドックの底に降りていって、
フネの横腹を手でたたきました。下士官が4、5人、同じようなことをやっていました。
きっと、私と同じことをいっていたのでしょう――」
鴫之沢砲術長が、目をうるませて、そういった。
砲術長はそのあと、艦内を調べていたとき、一番砲の弾薬通路の左舷側、水線下にある
一へやに、下士官、兵長、兵の3人がたおれているのを発見した。
見ると、そのへやは、丸太で隔壁をささえ、カスガイを打ち、完全に海水を防ぎとめてあった。
砲術長は、電気にうたれたように、その3人の遺体にむかって、頭をたれた。
涼月は、前に10度傾いていた。それ以上、前部が沈下すれば、沈没はまぬがれなかった。
この3人は、最後までこのへやの空間を守って、浮力がそれ以上減るのを、身をもって
防いでくれていたのだ。
アメリカ海軍は、田中司令官を、負けじ魂の駆逐艦乗りとたたえた。しかし
駆逐艦乗りの負けじ魂は、人だけのものではなかった。
人も艦も一体だった。涼月が、それを証拠立てた。そしてそれは、涼月のこの3人の
乗員たちのような、駆逐艦乗りらしいめいめいの判断と献身とでささえられていたのであった。
238 :
名無し三等兵:02/04/19 15:22
30代以上板で見つけた。スレ違いだけど。
おい
>>1 よ 聞いてくれ
昨日、母の葬式に出たんです。享年54歳。
そしたらなんか自分、涙が一滴もこぼれないんです。
で、よく見たら会ったこともないような親戚のおばさんですら泣いているんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
俺な、親の死を目の前にして放心してんじゃねーよ、ボケが。
目の前に人が死んでるんだよ、母親が。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で葬式か。ほんとありがとう。
パパは息子さんに挨拶してくるから車で待ってなさい、とか言ってるの。いい親父だな。
俺な、親が死んでんだからもっと泣けと。
葬式ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
死に化粧をみた瞬間いつ涙があふれてきてもおかしくない、
泣くか叫ぶか、そんな雰囲気が普通なんじゃねーか。オレ、なんなんだよ。
で、やっと葬式が終わったかと思ったら、なんか次々と母のことが思い出されるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、今さら思い出したところで意味ねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、今度の休みには帰るよ、だ。
俺は本当に休みに帰るつもりだったのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
俺、適当に親との距離をとりたかっただけちゃうんかと。
親不孝者の俺から言わせてもらえば今、若者の間での最新流行はやっぱり、
反抗期、これだね。
親ってのはいつまでも生きているもんだと思っている。これがガキの考え方。
親の期待をかなえたつもりで一人暮らし。そん代わりコミュニケーション少なくなる。これ。
で、「少しだけ仕送りいれといたから」 「ああ、無理すんなよ」。これ最期の会話。
今になって後悔ばかりが思い出される、諸刃の剣
まあお前ら若いもんは、ほんの少しでもいいから親孝行しなさいってこった。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/middle/1014807248/190
>>238 ・・・・・・
・・・・・・・・・
久しぶりに帰ってみるか・・・
びっくりするほど良スレですた>238
うちの親も肝炎見つかってるんだよなぁ。
オカンで、50代後半で、C型で、手遅れってほど進んでる訳じゃ
ないけど、俺離れて暮らしてて、まだ子供居ないから親孝行な
んてゼンゼン。身につまされちったよ。ちょと泣いた。
そしてGWは帰ろうと心に決めた。
親が元気な奴は里帰りして「元気? こっちは元気でやってるよ」
って顔見せて安心させれ。どうせ暇なんだろ? な?
>>240 ・・・今朝方亡くなったそうだよ・・・
軍板住人として遠い空に敬礼してご冥福を祈ろう。
泣きますた。涙も枯れよとばかりに。
スレ保存sage
テスト
「私は日本へ帰ったと時、新彊偵察に同行した今田新太郎少将を訪ねた。すると彼は正直者だから、アメリカに頼んで私の命乞いをしようと思いついたらしい。キーナン検事の助言者となった某少将に、そのことを頼みに行った。
ところが、某少将は直ちにアメリカ側に密告して、『辻が帰った。あれは東條以上の戦犯だから捕まえろ』と。
それを聴いたのがオニール・フランク大佐という検事だが、言葉の途中で耳に蓋をして、『そんなことは聴きたくない。日本人が日本人を密告するとは何事か、僕が辻だったら、同じ行動をとったろう』と言ったそうである。
このことはずっと後になってわかった。二十六年八月、私が悪質の胃潰瘍で日赤病院に入り重態に陥ったころ、突然知らぬアメリカ人の見舞いを受けた。その米人はていねいに見舞ってくれた後、当時の真相を話して去った。
その人こそ、私を捕らえる立場にあった戦犯主任のオニール検事であった。私はアメリカ人は大嫌いだが、中にはこういう例外もあるらしい」
(文春増刊号「沈潜忍苦の十年」より)
下がり過ぎ
まれに見る、良スレ。
久しぶりに感動しました…。
247 :
名無し三等兵:02/04/26 18:29
>>244 これは検事の職務怠慢だと思う。
なぜ辻を戦後のさばらせておいた!
このレスだけは泣けるどころか怒りがこみ上げてくる・・・
248 :
名無し三等兵:02/04/26 19:52
最近買ったのですが、土井全次郎ー兵士の沈黙はいいです。 元朝日の記者ってのは
気に入らないが、泣ける話の宝庫ですよ。 ただあまり売ってないし、買えない人の為
要約して書きます、皆さんは陸軍が潜水艦を持っていたのを知ってましたか?
補給用に急造した300トンクラスのものです。 ただ陸軍が海軍に内緒で作った為
司令塔に目立つ日の丸。 昼間堂々と浮上航行し、船尾には日章旗を掲げて、目立つ事
この上なし、米潜がコレを発見して、あまりの無防備ぶりに困惑しとうとう攻撃をしかけ
られなかった代物でした、海軍の艦艇から、潜行可能ナリヤとからかわれたり、砲撃されたり
と散々でした。 ある日瀬戸内海で訓練航行中に前方より山のような巨大な物が接近してきた
戦艦大和である。 陸兵と言えどもその艦名は知っていた、岡田さんは以前から一度
登舷令をやってみたくてしょうがなかったので、これは良い機会と思い、手空きの者を
総員上甲板にあげて、軍刀を抜き、頭右ーを号令した。 岡田さんはしてやったりと満足だった
しかし、大和を見てもっと驚いた、向こうも甲板に100名位が整列して頭右をやっている
しかも最上級のラッパの演奏つきである。 高々300トンのオモチャのような潜水艦に7万トンの
巨艦が最上級の令を尽くして去っていた。 岡田も感激のあまりに涙がてできた。
時は昭和20年4月6日。くしく大和最後の出撃の日でもありました。
251 :
空冷發動機:02/04/26 22:25
>>250 光人社から単行本ででてる。
1900円ナリ。
252 :
名無し三等兵:02/04/26 22:27
動物モノ、人と軍馬の話や人と犬なんか、まじで泣けるから
人前で読むと大変な事になってしまうかも、捕虜物語も泣けたよ
登舷礼上げ
上野動物園の戦時中餓死した象の話はわたしのトラウマです
>253
コーネリアス・ライアンのベルリン攻防戦のNFでもティアガルテンの動物園の
飼育係とコウノトリの話でてくるけど涙滂沱
では・・・。
上野の動物園は、桜の花盛りです。風にぱっと散る花。
お日様に光り輝いて咲く花。
お花見の人たちがどっと押し寄せて、動物園は、砂埃を巻き上げて混み合っていました。
象の檻の前の広場では、今、2頭の象が、芸当の真っ最中です。
長い鼻を、天に向けて、日の丸の旗を振ったり、カラランランと鈴を振り鳴らしたり、
よたよたと、丸太渡りをしたりして、大勢の見物人を、わあわあと喜ばせています。
その賑やかな広場から、少し離れた所に、一つの石のお墓があります。
あまり気の付く人はありませんが、動物園で死んだ動物たちを、お祭りしてあるお墓です。
お天気の良い日は、いつも、暖かそうに、お日様の光を浴びています。
ある日。
動物園の人が、その石のお墓をしみじみと撫で回して、
わたくしに、哀しい象の物語を聞かせてくれました。
今、動物園には、三頭の象がいます。
名前を、インデラ、ジャンポー、メナムといいます。
けれども、その前にも、やはり三頭の象がいました。
名前を、ジョン、トンキー、ワンリーといいました。
その頃、日本は、アメリカと戦争をしていました。
戦争がだんだん激しくなって、東京の街には、毎日毎晩、
爆弾が雨のように振り落とされてきました。
その爆弾が、もしも、動物園に落ちたら、どうなることでしょう。
檻が壊されて、恐ろしい動物たちが街へ暴れ出したら、大変なことになります。
そこで、ライオンも、トラも、ヒョウも、クマも大蛇も、
毒を飲ませて殺したのです。
三頭の象も、いよいよ殺されることになりました。
まず第一に、いつも暴れん坊で、言う事を聞かない、
ジョンから始めることに成りました。
ジョンは、ジャガイモが大好きでした。ですから、毒薬を入れたジャガイモを、
普通のジャガイモに混ぜて、食べさせました。けれども、利口なジョンは、
毒のジャガイモを口まで持っていくのですが、すぐに長い鼻で、
ポンポンと、遠くへ投げ返してしまうのです。
仕方なく、毒薬を身体へ注射することになりました。
馬に使う、とても大きな注射の道具と、太い注射の針が支度されました。
ところが、象の身体は、大変皮が厚くて、
太い針は、どれもぽきぽきと折れてしまうのでした。
仕方なく食べ物を一つもやらずにいますと、可愛そうに、十七日目に死にました。
続いて、トンキーと、ワンリーの番です。
この二頭の象は、いつも、可愛い目をじっと見張った、心の優しい象でした。
ですから、動物園の人たちは、この二頭を、何とかして助けたいと考えて、
遠い仙台の動物園へ、送ることに決めました。
けれども、仙台の町に、爆弾が落とされたらどうなるでしょう。
仙台の街へ、象が暴れ出たら、東京の人たちがいくらごめんなさいと謝っても、
もうだめです。そこで、やはり、上野の動物園で殺すことになりました。
毎日、餌をやらない日が続きました。トンキーも、ワンリーも、
だんだん痩せ細って、元気が無くなっていきました。
時々、見回りに行く人を見ると、よたよたと立ち上がって、
「餌をください。」
「食べ物をください。」
と、細い声を出して、せがむのでした。
そのうちに、げっそりと痩せこけた顔に、あの可愛い目が、
ゴムまりのようにぐっと飛び出してきました。
耳ばかりが物凄く大きく見える哀しい姿に変わりました。
今まで、どの象も、自分の子供のように可愛がってきた象係の人は、
「可哀相に。可愛そうに。」と、
檻の前を行ったり来たりして、うろうろするばかりでした。
すると、トンキーと、ワンリーは、ひょろひょろと身体を起して、
象係の前に進み出たのでした。
お互いにぐったりとした身体を、背中で凭れ合って、芸当を始めたのです。
後ろ足で立ち上がりました。
前足を折り曲げました。
鼻を高く上げて、万歳をしました。
萎び切った身体中の力を振り絞って、芸当を見せるのでした。
芸当をすれば、昔のように、餌がもらえると思ったのです。
トンキーも、ワンリーも、よろけながら一生懸命です。
象係の人は、もう我慢できません。
「ああ、ワンリーや、トンキーや。」
と、餌のある小屋へ飛び込みました。そこから走り出て、水を運びました。
餌を抱えて、象の脚に抱きすがりました。
動物園の人たちは、みんなこれを見てみないふりをしていました。
園長さんも、唇を噛み締めて、じっと机の上ばかり見つめていました。
象に餌をやってはいけないのです。水を飲ませてはならないのです。
どうしても、この二頭の象を殺さなければならないのです。
けれども、こうして、一日でも長く生かしておけば、戦争も終わって、
助かるのではないかと、どの人も心の中で、神様にお願いをしていました。
けれども、トンキーも、ワンリーも、ついに動けなくなってしまいました。
じっと身体を横にしたまま、動物園の空に流れる雲を見つめているのがやっとでした。
すいません。お話の途中ですが、もうわたし泣き死にます
こうなると、象係の人も、もう胸が張り裂けるほどつらくなって、象を見に行く元気がありません。
他の人も苦しくなって、象の檻から遠く離れていました。
ついに、ワンリーは十幾日目に、トンキーは二十幾日目に、どちらも、
鉄の檻にもたれながら、やせこけた鼻を高く伸ばして、
万歳の芸当をしたまま死んでしまいました。
「象が死んだあ。象が死んだあ。」
象係の人が、叫びながら、事務所に飛び込んで飛び込んできました。
拳骨で机を叩いて、泣き伏しました。
動物園の人たちは、象の檻に駆け集まって、みんなどっと檻の中へ転がり込みました。
象の身体にとりすがりました。象の身体を揺さぶりました。
みんな、おいおいと声をあげて泣き出しました。その頭の上を、
またも爆弾を積んだ敵の飛行機が、ごうごうと東京の空に攻め寄せてきました。
どの人も、象に抱きついたまま、こぶしを振り上げて叫びました。
「戦争をやめろ。」
「戦争をやめてくれえ。やめてくれえ。」
後で調べますと、盥位もある大きな象の胃袋には、
一滴の水さえも入っていなかったのです。
その三頭の象も、今は、このお墓の下に、静かに眠っているのです。
動物園の人は、目を潤ませて、私にこの話をしてくれました。
そして、吹雪のように、桜の花びらが散り掛かってくる石のお墓を、
いつまでも撫でていました。
いや泣いた泣いた。「かわいそうなぞう」いう絵本を幼稚園で読み、
スミレ組園児全員がわんわん泣いた太古の記憶がよみがえりました(w
戦争の惨禍にまきこまれる女子供動物にはかないませんや。
266 :
名無し三等兵:02/04/27 19:04
267 :
名無し三等兵:02/04/27 19:21
(;´ー`)y-~~社会科教師スレからのコピペなのだが
イイ先生や・・・・・
ウチの高校は、日本史の教師がウヨ(国士舘出の若いの)で、
世界史の教師がサヨ(全共闘)でした。
・・・もう、お互い意識しまくり(w
で、物理の臨時講師のジイさんはシベリア抑留帰り(収容所で凍傷で指二本無くしてた)。
定期試験の答案を返したあとで戦争体験を話してくれました。
ロシアの戦車に爆弾もって特攻しようとしたらポツダム宣言とか、
朝鮮の弾薬庫で爆弾解体したとか、収容所で凍傷で腐った指を引きずり出した
話とか。
「日本史と世界史の先生は戦争をいろいろ言っているようだけど、
実際はこんなもんです。コレでもまだマシなほうです」と
指の三本しかない右手をかざして語られたら、うわべだけの言葉なんて
霞んでしまいました。
…カンノ先生は今でもお元気だろうか…
失礼なことを承知で書かせて頂くと。
俺は思想的にウヨだが、そういう実体験の迫力に圧倒されるだけだと
思考停止で終ってしまうのだが。
「戦場で戦ってる軍人」という現実に物を言えず、結局は崩壊に
たどり着いた戦前とかわんないんじゃないの。
戦争すると怪我をする、ってことで話はおしまい?
あげだよ
>269
たしかに思考停止はいかんと思うが、本人には何も言わなくて良いと思うよ。
俺たちが批判できる存在じゃないと思う。
批判したくても自分の心の中に留めておくのがよいかと。
>269
「戦場で戦ってる軍人」ほど良識派が多く、
後方で政治ゴッコやってた軍官僚ほど戦争を玩具にする傾向もあったがね。
まあ、某辻ーんのように煮ても焼いても食えない男もいるが(w
>>272 何事も体験しないと分からんちゅ〜こったね。
>>238 遅レスだが。
吉野屋の改変レス見るたんびに、
「お前、ほんとに受けると思ってんのかと問い(略」
と思っていたが、これはしんみりきたよ。
>>268 似たような話。
東京駅の東口にある居酒屋で、友達と飲んでいたら、年取った主人が割り込んで来た。
関東軍の元憲兵少尉で、シベリア帰りだったそうである。
当然のように、シベリアでは厳しい洗脳教育に遭った。それでも節を曲げず、帰国して舞鶴に上陸した日には、アカに魂を売ったアクチブを、片端から半殺しにしたそうである。
終戦間際、負傷した戦友が、飲んだら食中毒になって死ぬようなクリークの水を飲みに行くことをどうしても止められなかったとも語った。
で、話の途中から泣き出して、
「“天皇陛下の命令”だけで、誰が戦場に行くものか。国に残して来た妻子がいるから、それを守るために兵隊は戦ったんですよ」
多くの将兵を戦わせたもの、それを否定したら日本という国は消滅するだろう。
又、兵士の沈黙からひと話、ほとんどの軍オタ諸氏も日赤の従軍看護婦について
興味はないでしょう。 いつか靖国周遊館で展示展をしていたが、自分はもちろん
殆どの人が素どうりしてましたから・・・花田さん(当時26歳)は開戦間際に
極秘に召集された、日華事変で2度大陸にわたっていたが、今回は極秘の召集だった
過去二回、それなりに戦場の血のにおいかいだつもりだが、それでも英米との戦争
が噂されているだけに、体の震えがとまらなかったという、そして12月8日、病院船
のうえで、開戦を知る。 婦長として、部下の看護婦に、どんな事があっても絶対に
あわてないで。と話している。 十代、二十歳そこそこの看護婦が、覚悟はできています
と言ってくれる。 思わず涙している。 看護婦は全員、救命胴衣、腰にはロープ
呼子笛、そしてフカと闘うためにナイフ下げていたと言う、しかも救命ボートは子持ち
看護婦と重傷者だけ、独身看護婦は泳ぐとの前提であったと言う。 戦争が激しくなると
結局、病院船でも物資や兵員を運んでしまう。 それで米潜に撃沈されたり、飛行機が
からかい半分に至近弾を落としていったりする。 それに病院船といえでも不審な動きが
あれば照明弾の嵐で物資でも下ろそうモノなら爆撃されてしまう。 まったくたまらない
夜光虫の輝く美しい海だった、南十字星が南天にあった。 双眼鏡で見張りをしながら
同僚の看護婦がつぶやいた、星は美しいね、でも、いま、私たち地獄を見ているのね
動因された看護婦は三万人、公式な戦死者は1000名とされてるが、戦地で終戦を迎えたり
その混乱や病気で亡くなった人がもっといたはずだと言う。 あまりにも日の目を
みない彼女達に 何と言ってあげてよいのか悩みます。
>>276 うちのバァちゃん(91)は内地だけど従軍看護婦だった。
まだ生きてるけど、危険な所でも命令とあらば行かざるをえないって言っていた。
開戦当時ばぁちゃんは32歳。助産婦ですらこうだったのだから・・・276の
看護婦さんたちは女神です。
あ、今年で94だった。
279 :
名無し三等兵:02/05/03 04:06
うう。像の話には泣けた。
今度上野動物園に行って手を合わせてくるよ。
>>277 うちのばあちゃんも看護婦だったよ。
千葉の佐倉にある病院に勤めてたとか言ってた。
東京大空襲のころは都内にいたけど離れてて助かったとか。
何か当時の福岡県知事とかの話がいっぱい出てくるの。
経緯は分からないけど皆死んじゃったって言ってた。
福岡市近郊の芦屋だったらしい。
ばぁちゃん、女学校も出ず、小学校で出で独学で勉強して
免許取ったって言ってたから看護学校や女学校系列での招集が
なかったのかもしれない。
282 :
名無し三等兵:02/05/03 13:01
大学のアルバイトで、九段坂の駅前で入試の道案内をやってたんですけど、一
人のおじいさんが話しかけてきたんです。
「あんた、二松(にしょう)の学生さん?」
「ええ。そうですけど」
「学徒出陣で一緒に行った連中は、とってもいい奴ばっかりだったよ。皆、
帰ってこれなかったが。」
わたしは、なんと答えていいか解りませんでした。
「…」
「いや、邪魔してすまなかった。」
と、おじいさんは行ってしまいました。靖国神社の目の前の出来事でした。
283 :
名無し三等兵:02/05/03 19:57
従軍看護婦の孫さん、あんたいいばあさん持ってて
幸せだな、なんかうまく言えないが、よいなー
284 :
名無し三等兵:02/05/03 22:03
>>275 >“天皇陛下の命令”だけで、誰が戦場に行くものか...
友達のおじいちゃんもそういう話をしてくれたよ。
それだけに「皆天皇陛下万歳を叫んで死んだ」とかほざいてる
バカ右翼の連中には本当にムカつく。
それこそ命をかけて戦った人達を
冒涜してるんじゃないかと思えてならない。
>>284 右翼の一部のバカ、と訂正してください(泣)
286 :
名無し三等兵:02/05/04 04:28
新新右翼主義が必要だ。旧式はダメだ
287 :
名無し三等兵:02/05/04 11:28
問題は893の隠れ蓑だったり、なぜか日本人以外が構成員であることだ<右翼の一部
288 :
名無し三等兵:02/05/05 16:03
過去スレに目は通したが、出てないようなので…
もし漏れが見落としてるだけで、既出だったらスマソ。
佐藤源治陸軍曹長
昭和二十三年九月二十二日 ジャワ島ツビナンにて法務死 岩手県出身 三十二歳。
僕は唱歌が下手でした。
一、僕は唱歌が下手でした。
通信簿の乙一つ
いまいましさに 人知れず
お稽古すると 母さんが
優しく教へてくれました
二、きょうだいみんな 下手でした。
僕も 弟も 妹も
唱歌の時間は 泣きながら
歌へば皆も 先生も
笑って「止め」と言ひました
三、故郷を出てから十二年
冷たい風の 獄の窓
虫の音聞いて 月を見て
母さん恋しと 歌ったら
皆が 泣いて 聞きました
四、僕のこの歌 聞いたなら
頬すり寄せて 抱き寄せて
「上手になった良い子だ」と
賞めて下さる ことでせう
289 :
名無し三等兵:02/05/05 19:50
こんな歌があったなんて知りませんでした。
長らく「よいとまけの歌」を封印し続けたマスコミ
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/mass/1020355927/51 51 名前:文責:名無しさん 投稿日:02/05/04 01:00 ID:4FHri/zS
美輪明宏 - 祖国と女達(従軍慰安婦の唄)1975
北は青森から 南は沖縄
売られ買われて 今日も旅行く
違うお国訛りで 慰め合いながら
捕虜の女囚も 同じ仲間さ
荒れ涯てた肌に やせこけた頬
今日も覚悟の 最後の化粧
バンザイ バンザイ
毎日百から二百 兵隊相手に
朝日が昇り 月が落ちるまで
いずれ死んでゆくことが 決っている男
虚ろに空を 見つめる女
涙も渇れはて痛みもないさ
そこには神も仏もいない
バンザイ バンザイ
誰の子かわからぬ 赤子残して
死んだ女やら 銃を片手に
愛する若い兵士と散った女やら
歌える女は 子守唄を唄う
あまりの怖さに狂った女
嫌な将校に斬られた女
バンザイ バンザイ
男はなんていいんだろう 羨ましいじゃないか
勲章をもらえて 恩給もつくさ
死ねば死んだで 名誉の戦死とやらで
立派な社に奉られるんだろ
私も男に生まれていたら
今ごろきっと勲章だらけ
バンザイ バンザイ
戦に負けて帰れば 国の人たちに
勲章のかわりに 唾をかけられ
うしろ指さされて 陰口きかれて
抱いた男たちも 今は知らん顔
祖国の為だと死んだ仲間の
幻だいて 今日も街に立つ
バンザイ バンザイ
ニッポン バンザイ
大日本帝国バンザイ バンザイ バンザイ
290 :
名無し三等兵:02/05/05 21:58
男はいつまで勝手をつづけるのかね。 テロよりエロをしみじみと
女が政治やったって結局同じことだよ。 サッチャー見てみ?
たまたま女が権利も責任も問われない場所にいるだけに過ぎない
292 :
名無し三等兵:02/05/06 19:13
でもいつも喜ぶのは、為政者と武器商人さ
為政者は負けたら戦犯よばわりで死刑だからちと違う。
常に喜ぶのは武器屋と、そして他人を煽る煽動屋だね。
294 :
名無し三等兵:02/05/06 20:26
>290-293
スレ違いage
296 :
名無し三等兵:02/05/06 20:48
私が還ってきた時、皆は私が一人で戦ったと言った。
一人で戦い抜いたと言った。
しかしホントはそうじゃないんですよ。
共に戦った仲間が居た。内地で軍服を作ってくれた人、鉄砲を作ってくれた人も居た。
一人なんかで戦えるわけないんですよ。
人は一人じゃ戦えない。そのことを君たちに良く考えて欲しい。
-小野田自然塾 塾長小野田寛郎
自然塾にて子供達を前に-
わしが自然塾塾長 小野田寛郎であーる!!
298 :
名無し三等兵:02/05/06 23:55
連休の終わりに、兵士の沈黙からも・1本いきます。 陸軍一等兵の面子ー
中国河北省でのおはなし、秋葉さんは警備隊所属だった、たかが20人の隊で
村に駐屯しているが、警備隊同士はまったくの点と点で、実際、住民に寝返られたら
ひとたまりもなかったとある、そんなんで村人には気を使い、簡単な医療行為などして
住民に溶け込むように努力していた。 秋葉さんは、2年兵の一等兵、 隊はまったく
ふざけた構成で、隊長は兵長、あとは4年兵、2年兵は秋葉さんひとりだったという
当然、罰直やイジメ、雑用はかれに集中する。 ある日麻のロープで散々殴られ
気を失いそうになった、すると日ごろは黙っている、中国人の警備隊班長が、血相を変えて
先輩兵に食ってかかった、『やめろ、ここは兵舎ではない、中国人が見ている、アキバの
面子はどうなるんだ!!』『どんな事があっても、中国人の前でなぐってはダメだ』
あまりにも意外な抗議と剣幕に、古参兵は去っていた。 『今までも止めようと思ったが日本軍
内部の事だから我慢していたと言う』 班長の仲間も仲間で、日本人用の卵を盗んできて
卵7個入りのオムレツを作ってくれる。 『このチータン(オムレツ)を食って力を付けろ』
とか『アキバ大人、頑張るんだ、いま病気になったら死んじゃうぞ』なんて励ましてくれる
実はこの話はここで終わる、秋葉さん本人が何故かこれ以上はなしたがらないからだ
中国人が真っ先に口にした面子と言う言葉、そして日本人のイジメ体質・・・・
両国の国民性が出る話でもある。
299 :
日本もここまで来たか・・・涙:02/05/06 23:58
>>295 975 名前:名無し三等兵 投稿日:02/05/06 23:53
人人人人人人人人人人人
,ィミ,  ̄ ̄ ̄ ̄ヽ,ィミ, ┃
彡 ミ __★_|彡 ミ ━╋━┓┃┃
,,彡 ミ____|彡 ミ, ┃ ┃
彡;:;: ミ, ┃
〜三;:;::::: 彡 ┃
~~三:;:;:;::::: ∪ ◎ ◎ 三~~ ┃
~~彡::;:;:;:;∪ ___ ,三~~ ━ ┃
~~彡;:;:;:;:;:;:;:. | | ,ミ~~ ┃
~~彡:;:;:;:;:;:;:;:;. ノ――| ---彡 ━━┛
<< ウッ! なんだこれは >>
<< 胸に穴があるのか、それとも >>
http://www.sanspo.com/geino/g_top/gt200205/g_top2002050402.html
>>299 日本もようやく欧米並みの
立派な国になれたんだね。
よかった、よかった。。。
| △ |
| 〔(´ー`)〕 |
(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒)
|⌒⌒⌒ <⌒ヽ o 。 うああぁぁ...
| <_ ヽ。
| o とノ ノつ
| 。 | 〜つ
>299
つーかわざと合わないブラつけて必要以上に大きく見せてるのはいけませんね
こんなうわべだけの西洋化では国を滅ぼしますよ
>>296 泣ける話スレ初代からで一番泣けた・・・。
こういう漢があの時代にはおおぜい居たんだなあ。
こういう漢達が家族、故郷、日本国のために
身を投げ出して「国交交渉」をしていた時代がつい半世紀前にあったというのに
スパイ船調べるのに強酸の顔色うかがう政権体制に怒りを覚える。
(軍板の中ではイデオロギー色の少ないこのスレで私の個人的感情のカキコは
申し訳無いと思います。すみません)
303 :
名無し三等兵:02/05/07 10:50
>>302 小野田さんか・・・最初江田島平八だと思って真面目に読んでなかった(w
306 :
名無し三等兵:02/05/08 02:24
子供「おとう、あれ」
農夫「特攻さんじゃあ」
子供「神風っしょ」
農夫「お国のために死にに往きなさるんたい」
子供「なして、あげん低う飛びよるん?」
農夫「こんちかくにあん人の家ばあるとよ、最後の別ればしちょると」
子供「それじゃ、こん家の上ば旋回しちょると」
農夫「なんと、校長んとこの忠士しゃんかあ?」
父親「かあさん、みんしゃい、忠士だ」
母親「…」
父親「やっぱり今日だったとよ、あげん低うとびよって
翼ばふりよる、かあさん、みてやりんしゃい。」
母親「…」
父親「戦闘機がバクダンつりよって、ばかなこつ」
父親「忠士よお前はまだわしの半分もいきちょらんのに
叶うことならかわってやりたかとよ、わしら大人がはじめた
こん戦になしておぬしらわかいもんが死ににいかねばならんと。」
父さんは無念で仕方なか.」
忠士「母さん…」
遺書
お母さん、どうか泣かないでください。ボクは少しも悲しんでは
いないから
死ぬことを少しも怖いとはおもっていないから、
だから泣かないでください。
お母さんに泣かれると、ボクはあの世に行ってからどうしていいのか
わからなくなります。 どうぞいつまでもお元気で。
さようなら。
海軍空少尉 速志 忠士
母は頭上を旋回する息子の機の爆音にじっと耐えるように顔をふせて、
泣いていた とうとう最後まで顔をあげなかった。
父親「速志忠士くん、ばんざーい」
忠士は、もう一度故郷の上を低く旋回した、
さきほこる満開の桜が目にしみて、上空から見る村は
箱庭のように美しく、なつかしかった、
忠士の目に ふいに涙があふれた。
小澤さとる 黄色い零戦 より
>農夫「こんちかくにあん人の家ばあるとよ、最後の別ればしちょると」
これって、「こんちかくにあん人の家のあっとよ、最後の別ればしちょると」
と思われ
「〜ば」は、「〜を」と考えよう
良く見る誤用
あぼーん
今さらですが>18のリンク先にある、「帝國海軍は断じて同胞を救ふ」を
読ませていただき、目頭が熱くなりました。。
310 :
名無し三等兵:02/05/09 00:21
会社の同僚と俺の幼馴染の家に行った。
そこのじい様がもう寝たきりで、離れにいるとか言う話を友人が話した。
で、軍人だったじい様の語った自慢話やらほら話を友人がしゃべっていた。
その話を興味深く聞いたり笑ったりして聞いていたのだが、じい様が乗っていた船が大和と一緒に沈められたと聞いたとき、同僚の顔が変わった。
同僚は立ち上がり、「じいさんに挨拶させてくれ」と、友人に。
戸惑いながらも友人がじい様の離れに案内した。
同僚は枕もとに正座して、起きているか寝ているのか解らないじい様に語りかけた。
「自分は**君(じい様の孫)の友人で、沖縄出身のXXといいます・・・。みんなを助けに来ていただいて、ありがとうございました。」
別段気負うことなく言い切り、同僚は深々と一礼。
じい様がかすかにうなずいたように見えた。
そのじい様は、どうやら「矢矧」乗り組みだったらしい。
半年後そのじい様は亡くなった。
お通夜には、あの時と変わらず自然体で焼香をする同僚がいた。
カッコよかった。
10年前の出来事です。
おゲ
312 :
名無し三等兵:02/05/11 20:56
>>288さんが挙げられていた佐藤源治曹長の、執行直前の遺書より
(検事たちに向かって)「俺は死刑の執行を受けるが、心に何一つやましい
ところはない。君がいつたような死者もけが人もつくつたことはない。
しかし、今助かることを考へてゐるのではないから誤解するな。
…われわれがいかに最期を遂げるか、その死に臨む様、死の様をよく見ておけ!」
検事にいひ終つてから、ニッコリ笑つてやつたら、彼は泣きそうな大分困った
顔をしてゐた…
便所用水に顔を映して眺める。これが自分の顔の見納めかと思つて見ると、
父の顔に似てゐるなアーと思ふ。笑つてみたり、しかめて見たり、百面相を
やってみた。マタハリの花が枯れるので、その水にさしてやつた。
明日まで咲いてくれと祈りながら。
鉄道路線・車両板よりコピペ。
なので、sage。
61 名前:名無し野電車区 投稿日:02/05/12 20:27 ID:pb8ZfVON
樺太・豊原駅では大きな白旗を駅舎に掲げ
駅前では赤十字のテントが出て避難民でごった返す中、
ソ連軍に銃爆撃され、多くの避難民が犠牲になったそうな。
当時の北三松駅長は
「少し前まで逃避行で疲労困憊している親の苦労を知らずに遊んでいた
子供が、次の時には白いシャツを真っ赤に染めて体を動かすことは無かった」
と述べていたそうな。
ちなみにこの時は駅舎は半壊し、樺太鉄道局が焼失し、
構内の機関車が爆撃で吹っ飛んでボイラーが地面に突き刺さり、
転車台がひっくり返ったと言われている。
終戦直後の昭和20年8月22日の出来事。
いくさに負けるとはむごいことですなぁ・・・。
>>313 わかってるとは思うけど、日本の正式な降伏日は9/2。
8/15はポツダム宣言受諾を表明した日。日本にとっては
敗戦が決定したメモリアルな日であり、戦闘行為の事実上
終結日だが、「終戦」はまだ。
勝ちも決まったし、相手は敗北決まって撃ち返してこないし
憂さ晴らしでもしてやろう、ぐらいの心境だったんだろうね、
そのソ連軍の指揮官は。戦争はやはり負けちゃダメだね・・・。
316 :
じゃがいも:02/05/14 00:21
317 :
名無し三等兵:02/05/14 03:44
>313
ロシアに負けるとこうなんだ。アメリカにかけると精神的に骨ぬきにされ
中国や韓国に負けたら永久にヴァカ呼ばわりされる・・・あれ?目の前に涙が?
こんな時代に生まれた自分に涙が・・・ご先祖様たちが一所懸命に戦って
作ってくれた世界を日本を故郷を凱旋右翼や震災被災者の国民を見殺し
にして祝杯をあげるるような社民党を存続させていてすみません・・・ウワァーン・・・
マジデ号泣ニナッテキタ。
>317
安心しろ、社会党を存続させてきたのはむしろ戦中を経験してきたひとたちだ。
経済成長が進むにつれ、社会党への支持は相対的に落ちてきてるのは
戦後史を通しての一貫した流れだよん
もっとも最近はそうしたジジイ連中とその直接教育を受けた労組貴族から見放されたせいで
主婦を相手にするようになってるがね
スレ違い板違い、失礼
317−心配いらぬ、明治維新前、長州は幕府派と、反幕府とに分かれいてた
反幕府の高杉晋作が、圧倒的不利の中、まず長州藩の幕府派に対して挙兵した
これが、明治維新への引きがけになったとも言えなくもない、従うものわずか
八十四名、ほとんどが侍ではなく、一般市民兵からの男達でありました。
320 :
名無し三等兵:02/05/15 04:11
ウワァーンそういえば小泉首相もありえないと言われた首相就任したし
日露戦争ではありえないと言われた勝利、大戦ではあめりかを苦しめまくった
あの底力が有れば・・・いつか僕達の世代が泣ける話に載れるように頑張らないと
今の日本人で変人(少数精鋭)で居る為にはキチガイ呼ばわりされても意志を貫き通す
強い心が必要なのに、そんなの居るのかな泣けてきたウァ-ン
>320
とりあえず社会に出ろ、そして現場を見よ。
戦後日本においても幾多の仕事人たちが世間から石を投げられても己の信念を貫いた、
だからこそ「本土決算」(@志野靖史)は一定の成果を収めたのである。
困ったことは、政治の分野においてそうした人物が
岸信介あたりを最後に見あたらないように見えることだけ。
追記、後の総理大臣、伊藤俊介(博文)もシッカリいましたけどね
ウヨサヨ論評抜きで…。
ごきげんやう 日々 きびしい暑さですが おさはりもなく お元気におすごしのこと おめでたく
およろこびします 長い間 おたづねしませんでした この度は 天皇陛下のおみ声をおうかがひに
なったことゝ思ひますが 皆 国民一同 涙をながして伺ひ 恐れ入ったことゝ思ひます
おもうさま 日々 大そうご心配遊しましたが これで 日本は 永遠に救はれたのです
二重橋には毎日 大勢の人が お礼やら おわびやら 涙をながしては 大きな聲で申し
上げてゐます 東宮さんも(中略)…大詔に仰せになったことを よくよく頭に入れて まち
がひのないやうに しのぶべからざることを よくよくしのんで なほ一層一生懸命に勉強をし
体を丈夫にして わさわひを福にかへて りつぱなりつぱな国家をつくりあげなければなり
ません
(中略)
おひるねもありますか 昨年はできないで おこまりでしたね
こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに大きな音を立てて
朝から晩まで飛びまはつてゐます B29は残念ながらりっぱです
お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいの
がとほつたか わかりません しつきりなしです
ではではくれぐれもお大事に さよなら
三十日午前九時半たゝより
東宮へ
手紙をありがたう しつかりした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしな
ければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふ
ことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ
我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には
山縣 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次
大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らな
かつたからです
戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつた
ので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ
寒くなるから 心体を大切に勉強なさい
九月九日 父より
明仁へ
これが公開されて公式に認められたら超一級の一次史料だね。
326 :
名無し三等兵:02/05/18 02:16
>325
世界史をひっくり返すと思われ
>324
山縣は名将なのか?
328 :
名無し三等兵:02/05/18 02:53
軍人としては名将、政治家としては独裁者。
一応、>323-324は今月発行の角川文庫、高橋紘著「象徴天皇の誕生」
より抜粋したものですよ。
興味があれば、ご一読など。
でも、明治の名将に自らの師たる乃木将軍が例示されていないのが
興味深い。
330 :
お茶っぴき:02/05/18 13:57
>>眠い人さん
晩年、艦隊派の尻馬に乗った東宮御学問所総裁の名前もありませんね。
公人としての能力をドライというか合理的に見ていたのでしょうか?
331 :
レド公路の水上少将:02/05/22 11:38
全滅したと見られていた摺鉢山守備隊でしたが、地下壕には生存者がいました。
戦闘が終結した後の5月中旬、摺鉢山地下壕入り口の木に日本陸軍中尉から米
軍のスプルアンス司令官にあてた手紙が発見されました。
書をしたためた浅田中尉は東大卒、混成第2旅団工兵隊第2中隊小隊長をつと
め、戦闘中に米軍戦車の射撃を受けて重傷を負い、地下壕に残されていました。
手紙を紹介します。
「閣下のわたし等に対する御親切なる御厚意誠に感謝感激に堪へません。閣下
よりいただきました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。御奨めによ
る降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。もはや水もなく
食もなければ13日午前4時を期して全員自決して天国に参ります。
終りに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。
軍事板に来るととセンチになってしまうな
初めてこのスレ読みましたので記念カキコさせてください。
>>4の話に関連してですが、
現代の話ですが、タンカー等の大きな船で密航者が見つかった場合、
船乗りたちの間では海に捨てるのが普通です。
と言うのも、密航者を見つけた場合、船長が密航者の保護を手厚くせねばいけません。
また、最寄りの港まで送って行かなければならなくなります。
その後に船は当事国の取り調べの為に拘束されます。
すると、莫大な費用がかかる訳です。
そんな面倒な手続きは出来ないので、海に投げ捨てる事が当たり前です。
友人の船大工から聞いた話で、ある日本人船長が密航者を発見して、
海に投げ捨てるのは可哀相だから、海岸の近くまで運んであげて
(タンカーだから、相当な水深が無いと港に入れない)
筏を作ってあげて、そこで密航者を降ろしました。
すると、後になってその密航者がその日本人船長を訴えて、
裁判では「国際法にもとずいた責任を果たさなかった」と当事国に入国禁止になったそうです。
その船長は「助けなきゃヨカッタ」と言っていたと言います。
スレ違い失礼しました。
>>313 そんな中を僕のおばあちゃんと母さんは
命からがら逃げてきたんだ…。
今でも当時のことは全然話してくれないけど
そんなに凄まじかったとは知らなかった。
まめに実家に顔出すようにしようかな。
今更って感じもするけど。
337 :
見回下士官:02/05/24 08:45
保守上ゲ
死んだ母子はまことに気の毒だが、かといって生きるか死ぬかの状況で
ベイルアウトした事を責められるとでも?
>103は賞賛すべきことではあるが、パイロット全員に要求すべきことじゃないし、
できないだろう。出来もしないことを偉そうに言うな
皆さん、煽りは無視でマターリと。
341 :
名無し三等兵:02/05/24 23:18
414とは下がりすぎ。よってage
342 :
名無し三等兵:02/05/24 23:42
うーん確かに、非公式に空自では機が民家に
墜落しそうな場合、自分が脱出できずとも
民家への墜落を回避する、って聞いたことがあるが・・・。
>>339 オマエみたいな奴が入隊しなくて本当に良かったよ。
344 :
名無し三等兵:02/05/24 23:53
>>339 事故原因ウヤムヤなんだから責めて当然。
とばっちりで死んだ民間人が3人で済んだのが奇跡に近い話。
故障だろうが人為ミスだろうが、非敵対国の民間人死なせるくらいなら
基地まで取って返して落ちて死ねっての。
345 :
名無し三等兵:02/05/24 23:56
>>339 アフォか?
正規の軍人が民間人を(以下略)
>>340 煽りというか、真性厨房そのままでは?
346 :
名無し三等兵:02/05/24 23:59
>>344 禿堂。
確か補償関係もひどかったよな、あの話。
347 :
名無し三等兵:02/05/25 00:01
>>339 まあ、自分の家にF-4が落ちて、
家族が死んだ時もパイロットに責は無いと
仰るんでしょうな。(w
348 :
名無し三等兵:02/05/25 00:10
>>346 あの補償は酷かった。殺され損の見本といえる。
P-47の試作機がオイル周りのトラブルで危険な状態(コクピットに煙が充満)になった時の
パイロットの話:
『もちろん、当たり前の人間ならこの現象を“火事”と判断して、さっさと脱出したと
思うよ。(中略)心配だったのはロングアイランドは住宅が密集していることだ。こんな
ところで機体を放り出すことは出来ない。そこでとにかく機体を洋上まで持っていこうと
決心したんだ。(後略)』
出典は丸メカ。
ファントムの件は、こんな感じで心を決めてる余裕も無しに咄嗟に脱出してしまったの
かもしれんなあ。
生きて帰ったんだったら事故当時の機内の状況とかはちゃんと語ったのかな?
んで2名はその後どうなったんだろ? 仲間内での扱いなんかは?
地下鉄サリンも無罪主張…松本被告側
オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫被告(47)の公判は23日午後も東京地裁で
弁護側の冒頭陳述が続けられ、弁護側は「弟子たちとの共謀はなかった」などとして、
起訴されている計13事件すべてについて無罪を主張した。
弁護側は冒頭陳述で、坂本堤弁護士一家殺害事件については「松本被告は反対したが、
故村井秀夫幹部が、『やらせて下さい』と強く主張した」、松本サリン事件については
「村井幹部が松本被告に無断で行った」、地下鉄サリン事件については「村井幹部と
井上嘉浩被告(32)が企画、実行した」などと主張した。 (5月23日15:40)
--------------------
なんてぇ、裁判をやって、裏では、
--------------------
国選弁護費4億4000万円 被害者給付金6600万円
東京地裁が一連のオウム真理教事件の裁判の中で、被告の国選弁護費用として支払った
金額が4億4000万円に上る一方、一連の事件の被害者に支払った犯罪被害者給付金は
6600万円にとどまっていることが18日の衆院法務委員会で明らかになった。
菅義偉議員(自民)の質問に、最高裁と警察庁が答弁した。
東京地裁が支払ったのは、95年8月以降に行われた一連のオウム真理教事件の被告計67人
について135人の国選弁護人分の費用。犯罪被害者給付金を受けた被害者の遺族は14人
だったという。
351 :
名無し三等兵:02/05/25 13:03
>>350 確かに泣ける話・・・。
この国の逝く先はやはり不安。
352 :
名無し三等兵:02/05/25 13:24
沖縄でF100が学校に突っ込んだ事件も遭ったような・・・
米空軍ってそういうところなのか?
353 :
名無し三等兵:02/05/25 13:25
>>353 在日米軍は日本を防衛しているわけじゃないっていう、
極々当たり前の事実が確認できる話ですな・・・。
返還前の沖縄での米軍の沖縄の人々への振舞いは相当にひどかったらしいけど
それがよくうかがえるお話ですなぁ
356 :
レド公路の水上少将:02/05/27 11:48
戦時中、慰問団で活躍し東条英機から、軍国乙女の賞状をもらったという我が母親は、
今年6月で80歳になる。日本人は凛々しかったといまだに呟く。戦後草月流一級師範を
45年務めており、サッチャー大統領来日の際は前家元と壮大な創作生け花を提供したこともある。
後継ぎ家元の脱税が発覚し、草月流は衰退。母も見切りをつけ自宅で生け花教室を今でも開いている。
その生徒の中に高見さんという初老のご婦人がいる。
なんでもご主人は警察官で殉職されたと聞いていた。
その高見さんがあの高見さんとは、、、、、。
まだ見ていないが、「突入せよっ、あさま山荘」の原作本は2月頃に読んだ。
新聞広告にもあるように、警察が警察であった頃の話し。ただ、今日様々な
不祥事があろうとも、同じ事件が起これば、名もなき一人の女性を守るために
警察は命を賭けて救出に向かう。その壮絶な臨場感は原作で十分に伝わるが、
早く映画も見てみたい。
その原作で高見警部補という人が頻繁に登場する。あとがきの紹介で、ご遺族は
西東京市在住と書かれてある。
早速母に聞いてみたら、その高見さんは「ご遺族の高見さん」であった。
「お国のために命を捧げたということね」と母はポツリと言った。
あの事件はお国のためだった。赤軍派の実態が解明できただけではなく、「潜伏兵」
の存在はもうないと判断できた。犯人を生け捕りにしたことで、それが実現したのである。
射殺していたら、日本はいまだに潜伏兵の恐怖に恐れおののく状態であったと思う。
まさに国家を救ったのだ。
※坂東国男はその後超法規的措置で釈放され、犯人の多くは社会復帰している。
警察官の家族ともなると、危険な事件で帰らぬ主の留守中は、身を清め、
新しい下着を見に付け、帰りを待つものだという。家族とはそういうものかもしれない。
※10日の産経新聞佐々淳行氏の講演内容も是非ご一読いただきたい。
国家を背負っている人々の表情には魅力がある。日本総領事館問題で中国武装警察官が
映し出されるたびに思ってしまうのだが、悔しいが、あいつ等、、、、、、、、、、
凛々しい。
357 :
名無し三等兵:02/05/29 21:26
976 :名無し三等兵 :02/05/28 23:05
昭和19年7月4804輸送船団は父島より帰還中に米機動部隊に襲われた。
残ったのは輸送艦1隻海防艦1隻そして護衛旗艦であった駆逐艦松。
米艦隊は軽巡洋艦部隊を追撃に回し全力で追跡を開始した。
足ののろい輸送艦は時期に追いつかれてしまうのは明白である。
松は海防艦に”輸送艦を守って内地へ戻れ”の発光信号を送り、
たった1艦で突撃すべく艦首を米艦隊へと向けた。
松が袋叩きにあっている間に輸送艦を逃がそうとしたのだ。
しばらくすると遠くに激しい砲火が見えた。それが松の最後だった。
358 :
名無し三等兵:02/05/29 21:54
大和が攻撃されている映像を見たとき。真珠湾よりも卑怯だ。
なかなか職が見つからず落ち込んでいたとき祖父が
「このぐらいでなんだ!俺の親友は爆撃で足無くしても諦めなかったぞ!
大体バブル崩壊がなんだ!日本は焦土から復興したんだぞ!」
いかにも「今の若いもんは・・・」って説教だけど(笑
>358
なぶり殺しになると分かって出撃したんだ、
望みどおりなぶり殺しにしてやるのが礼儀ってもんだろ。
>>358 卑怯とはちょっと違う。
現在では航空機の船に対する優勢が定説となったけど、
当時はハリネズミの様な対空放火を備えた戦艦に攻撃する事は
自分も死ぬ覚悟が無ければ出来ない。
その上、当時の制新鋭巨大戦艦だ。
攻撃する方も生半可な気持ちでは攻撃しないだろう。
ある戦闘機乗りの話を読んだのだけど、
ゼロ戦が出てきた当初の米軍パイロットは凄かったって。
ゼロ戦と古い米軍機では全く歯が立たないにも関わらず、
勇敢に立ち向かってきて恐かったって。
これには敬意を表していた。
これは、米軍パイロットが大東亜戦争末期の日本軍パイロットに対して思っていた事だと思う。
363 :
名無し三等兵:02/05/30 17:12
「……この戦争、偉い人たちが言うように絶対不敗ということはないんだ。戦争は
もう負けている。そういう戦争に我々は出かける。……しかし、我々は生きて還ろ
うじゃないか。……そして、あの桜山を、皆で見ようじゃないか。……きっと見よ
うじゃないか」
独立混成第44旅団第1大隊(伊江島守備隊)指揮官 井川少佐
(伊江島守備隊は、45年4月23日に玉砕)
コマンドマガジン第44号「沖縄 勝者なき戦場」より
364 :
レド公路の水上少将:02/05/30 19:28
憂国の烈士・三島由紀夫は『行動学入門』の中に、“行動の美の典型”として
「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようと
したときに、月の明るい夜のことであったがハッチの扉をあけて日本刀を持った将校が
そこから現れ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が伝えられ
ているが、このような場合にその行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、
それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美
は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」
と記した。
この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(当時大尉)
その人なのである。中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、遠くシドニー港
の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。
中佐は壮途につく直前(昭和17年3月29日)、両親と兄姉を呉(広島県)に招き一夕を
共にすごす。この時、父から贈られたのが前記の『行動学入門』に「日本刀をふりかざし‥‥‥」
と記された伝家の菊池千本槍(短刀に柄のついたもの)である。
365 :
レド公路の水上少将:02/05/30 19:28
その夜、中佐は「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床に就く。二十四年
育て上げ、唯一筋に国に捧げまつろうとする吾が子の肌の温もりに、今宵が最後の夜を
予感、春寒を遮るようにその五体をわが胸に引き寄せる母であった。
昭和17年6月5日の大本営発表によれば「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、5月31日夜、
濠州東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、湾内突入ニ成功、敵軍艦一雙ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル
我特殊潜航艇中三雙未ダ帰還セズ」と。この大胆不敵な作戦は濠州の人々の心胆を寒からしめ
たが、日本海軍軍人の忠勇武烈に深く感銘した濠州海軍は6月4日、松尾艇、翌5日に中馬艇
(海軍中佐中馬兼四)を引き揚げると共に、艇内から収容した四勇士を6月9日、海軍葬の礼
を以って弔ってくれた。
この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー地区海軍司令官
ムアーヘッド・グールド少将は
「勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示された
勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである。これら鉄の棺桶
に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の
犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか」
と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのである。
戦後、濠州海軍は松尾艇、中島艇を切半して一艇とし、首都キャンベラの
オーストラリア連邦戦争記念館に安置、御遺品と共に丁重に展示している。
「この勇気を見よ!」
と説明が特筆大書され、内外の参観者に大きな感銘を与えているとのことである。
J・B・コーヘン著「戦時戦後の日本経済」より
「日本の戦争経済の最も基本的な制約要素は鉄鋼生産の貧弱さにある。
太平洋戦争中の造船や軍需品の生産計画も終始鉄鋼の生産で抑えられた。
1930年代の末、大規模な建艦計画に着手したときには、商船の建造を縮小
しなければならなかった。
両方の要求を充たすだけの鋼材がなかったからである。
戦争末期なって何をおいても商船の補充が必要になった際には、艦艇の建造
を圧縮し、基礎産業の維持補給用の鋼材さえ削減して、かろうじて商船に回す
ことが出来た。
航空兵器を増加するには重砲と装甲車両の生産を削減しなければならなかった。
不十分な鋼材の補給を、各方面の急迫した需要に割り当てなければならない事情
から、行政上の困難や紛糾が続いた。
戦争の必要という点からすれば、その需要は概して重要であり、必須であり、正当な
ものであって、しかもその全てに応ずることは出来なかった。
日本の鉄鋼生産はその頂点においても、米国の13分の1に過ぎなかった」
とりあえず、全ての太郎に捧げようか。
>>367 こんな状況で開戦しなくちゃいけなかった当時の人々の事を考えると泣けるかも・・・。
二進も三進も逝かなくなったということか。
とりあえず漏れは何もできないから一生懸命働くとでもしよう。
今やってる石油備蓄のように、粗鋼も備蓄していれば状況は多少異なったのかも。
まあ予算がないだろうけど…
戦前、日本は米国から石油を輸入していた。
戦前、日本は米国から屑鉄を輸入していた。
「(戦争に)勝てる見込みはありません。大体、日本の海軍は米英を
向うにまわして戦争するように建造されてません。」
米内光政海軍大臣談
J・B・コーヘン著「戦時戦後の日本経済」より 再び引用。
「飛行士の訓練も1944年には30時間、即ち従来必要とされた時間の半分以下に
切られた。
(中略)
自殺飛行(特攻攻撃)が行われた基本的理由の一つには、それが片道だけの
燃料で済むからでもあった。
戦闘出撃の損害は70%に上った。
飛行機はテスト無しに引き渡しが行われた。
ガソリンの質は92オクタンから87オクタン乃至それ以下に落とされ、中には相当
量のアルコールが混用されたものもある。
訓練飛行には1944年でも50%のアルコールが使われ、1945年にはそれが80%
に引き上げられた。
訓練の不十分な飛行士と、正規のテストを経ない飛行機と、劣等な燃料と、こう
した悪条件が揃ったので、戦闘でもない輸送途上の損害が40%にも上った。
また、偵察飛行や対潜水艦哨戒飛行は削減された」
で、燃料事情はと言うと…。
「大豆油、落花生油、椰子油、及びひまし油が産業用に使用された。
メタノール、エタノール及びアセトンがガソリンに代用された。
ブタノールはイソオクタン原料としても使われ、また直接ガソリンに混用された。
潤滑油は各種の植物油又は脂肪から造られた。
民間の馬鈴薯、砂糖、酒等のストックはアルコール燃料として引き上げられた。
生ゴムから油を採ることも行われた。
絶望的になった海軍は夢想的な松根油計画に着手した。
『二百の松根は一機を一時間飛ばすことが出来る』というスローガンの下に全国民を
松根堀に駆り出した。
約34,000の釜や蒸留器や小さな蒸留装置が準備され、各一日3〜4ガロンの粗油を
出すように計画された。
これに要する労力は驚くべきものであった。
松根油1ガロンの生産に2.5日の労力が要った。
この計画の絶頂では一日当たり12,000バレルの粗油を予定していたから、一日当たり
125万人を要するはずであった。
1945年6月には、松根粗油の月産は70,000バレルに達していたが、精製上の難点は解決
されていなかった。
終戦時までに航空機用の予定で生産されたガソリンは3,000バレルに過ぎず、それも実際
に飛行機に実用した形跡は無かった。
合衆国陸軍が試験的にジープで使ってみると、数日にしてエンジンが止まって使い物に
ならなくなった。」
毛沢東の村営溶鉱炉を我々は笑えんです。
374 :
名無し三等兵:02/06/02 11:44
世界の艦船 2002年7月号
田中知之「八重の潮路の果てに 第1期海軍兵科予備学生の記録<19>」より引用
チモール島の海軍第4警備隊の野中大尉、堀大尉が終戦でオーストラリア軍の
捕虜になったときの話。
ただ一つ救いだったことは、彼らの収容所に現地人の襲撃がただの一度もなかった
ことであった。そればかりか夕暮れ時になると、鉄条網越しにバナナやマンゴーや
鶏までも差し入れて力づけてくれる村人たちも少なくなかった。この村人たちと
隊員たちとは、占領軍と被占領地の住民の関係ではなかったのである。石を投げられ、
罵声を浴びせられ、唾を吐きかけられることまでも覚悟していたほどなのに、予期
しない村人からの差し入れを受けて、髭づらの下士官が大急ぎで兵舎に戻って役に
立ちそうな新しい衣類などをお礼に渡しながら眼をうるませている光景を、野中大尉
はしばしば目にした。
「オーストラリア軍に見つかると大変だぞ」
と注意しても、村人たちは聞かなかった。
「私はね、トアン(旦那)、インドネシア人です。豪州軍とは何の関係も無いんで……
奴らが文句を言うのは筋違いでしょう。私の心でやってることだから、だれにも
止められやしません」
と、彼らは言うのだった。
「日本のトアンたちはオランダと違って、私たちを友達扱いしてくれた、今でも
それが嬉しいんですよ」
とも、彼らは言った。野中大尉は以前にも、あるカンボン(部落)のラジャー
(村長)から、同じような意味のことを聞いたことがあった。
「ジャンカルトアン(海軍さん)は村の連中を本当に人間として扱ってくれました。
道路を歩いていても、挨拶すればどんな身なりをした村の者にも、にこにこと手を
挙げてくれます。どこかの人のように、車で通るときは道路の下におりて、しゃがんで
いなければならなかった時代に比べると、夢のようですから」
こういう村人の姿に接すると、敗戦という事実に動転して己を失い、卑屈になって
いるのは自分ではないかと、野中大尉はしみじみ思い知らされたという。
375 :
名無し三等兵:02/06/02 16:07
私の友人が陸上自衛隊、レンジャー訓練に参加した時の話。
こっそり隠し持っていた食料を事前の検査で取り上げられ、
腕立て伏せの罰則を食らって、訓練に参加した。
人一倍食い意地の張った友人、許可された携帯食料も食い尽くしてしまい、
野草や蛇の類の「現地調達」も追いつかない、
体力も消耗しつくし、もはやこれまで・・・と思った時、
黙ってバディが、最後の缶メシを差し出してくれた。
ただただ、泣きながら食ったとか・・・。
タカラの回答 age
ttp://www.takaratoys.co.jp/what/giko.html ■商標出願取下のお知らせ
商標出願「ギコ猫」について
平素はタカラ商品をご愛顧賜りまして誠にありがとうございます。
さて、弊社にて平成14年3月12日付に特許庁へ商標出願の手続を致しました
商願2002−19166「ギコ猫」につきましては、本日、出願取下の手続を致しました。
お客様並びにお取引先様に多大なるご迷惑をお掛けしておりますことをお詫び申し上げます。
平成14年6月3日 株式会社タカラ
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/army/1023108858/24 うちの祖父は生前に厚生省主催のフィリピン慰霊巡拝に参加した事があります。
そこで祖父の部隊が大勢戦死した激戦地にある慰霊碑を巡拝した時、手を合わせると
祖父の肩が妙に重い、なんかこう人が肩に手を乗せている様な感覚に襲われたそうです。
それで「そうか、こいつら俺と一緒に日本に帰りたいんだな、そうか、いいだろう、
みんな俺と一緒に日本に帰ろう」そう言って一緒に日本に帰って来たんだそうです。
そして帰国してから靖国神社に参ったそうなんですが、そしたら体がすうっと軽くなった
んだそうです。
「ああ、やっとお前らも靖国に帰れたんだなあ、良かったなあ。俺ももうすぐお前らの所
に行くからなあ、あの世で元気にやっておれよ」
と声をかけて帰ったそうです。
お盆に帰省した時、テレビの前でみんなで話しをしていた時にたまたまガ島の慰霊の
ニュースが流れて、その時に酒を飲みながらしてくれた内容です。
>378
激泣
高木惣吉(元海軍少将)著「自伝的日本海軍始末記」より
兵学校に高木が学んでいたとき、教頭がやった愚行を書いている。
何とその教頭は「生徒に赤い者を見せるのは有害」だとして、校庭のツツジを
全部引っこ抜いて隠したのである。
「白砂青松の形容詞そのままの生徒館(旧)前と、行動への道脇のキリシマ、
サツキなど、とりどりのツツジの花は、初夏の頃目を喜ばすこと、松林の間の
桜と共に代え難いものであった。修道院のような離れ小島に閉じこめられ、
体はヘトヘトになるまで鍛えられ、息もつかせぬ学科に追われ、箸の上げ下ろ
しまで一号生徒にニラまれ、何かと因縁をつけて殴り飛ばされる生活では、
とても青春の夢とか、異性への慕情などはいりこむ余地は無かった。その生徒
の想像もしないことを想像して、ツツジを引き抜いた教頭は天下の野暮天と
思われた。」
直接関係無い話だからsageるね
俺のじいさんの話になるんだけど、先の大戦で将校として戦ってたそうなんだ
南方で食料も無く1個のキャラメルを4等分して食べたりもしたそうなんだ。
戦争が終わって農業をしながら生活してたそうだが警察予備隊だったかな
発足して、もと将校だったせいかお誘いがあったそうだが
自分の部下を殺してしまって、生きて帰ってきた自分はもう戦争には
かかわらないと断ったそうだ。
んで戦後に生まれた漏れのお袋にかえりみるの一文字を名前につけたそうだ
俺が生まれた前年亡くなってしまって婆さんはじいさんの生まれ変わりだって
俺のこと本当にかわいがってくれたよ。
その話をDQNだった工房のころ聞いたのだが婆さんの家に遊びに行ったとき線香
上げながらじいさんの遺影を見たんだが軍服姿で軍刀を持ち立ってる姿を見ながら
じいさんみたいにはなれんなぁとつくずく思ったよ・・
あれから何年も経つけど
じいさん、ばあちゃんはあんな風に言ってくれたけどやっぱりハズレたみたいね・・
>381
元気に育ってくれりゃ、それでいいやね。
>380
階級章には、そいつの人間的な価値の表示はありませんからなぁ。
In minutes UNRYU already was listing more than 30 degrees
to starboard and planes sliding overboard. There was little
time to lose. Her skipper gave the order to Abandon Ship.
For his part, the captain made no attempt to escape.
Looking out, Captain Kaname could still find a few moments for pride
in his untested crew in these last minutes of his life.
They gathered without panic on the canting flight deck, and shouted
"Banzai! Long Live the Emperor!" three times, before trying to save
themselves; while some gunners stayed at their posts, pumping shells
to the very last minute at the hated periscope.
384 :
名無し三等兵:02/06/09 02:27
385 :
名無し三等兵:02/06/09 02:41
>>383 読めん・・誰か翻訳ソフトでやってくれ!
386 :
名無し三等兵:02/06/09 03:17
雲龍は右舷へ30度傾き、航空機は海へ滑り落ちていました。
失われる(沈没のこと?)までに、少しの時間もなかった。
彼女の艦長は、艦を捨てることを決意した。彼自身は、脱出することを試みなかった。
艦長カナメは、彼の人生で最後の時間において、彼の若い乗組員の誇りのために、少しの時間を見つけ出した。
彼らは脱出を試みる前に、混乱を起こさずに傾いた飛行甲板に集まり、「天皇陛下万歳!」と3回叫んだ。
その時、何人かの砲手は彼らの配置に留まり、憎たらしい潜望鏡のために、最後の瞬間まで砲弾を揚げていた。
下手糞な訳でスマソ。
"Banzai! Long Live the Emperor!"は、直訳すれば「万歳!天皇陛下に長命を!」に
なるのだろうが、なんか変なので「天皇陛下万歳!」にしました。
なお、雲龍の艦長は小西要人大佐(こにし=かなめ 海兵44期)です。
>"Banzai! Long Live the Emperor!"は、直訳すれば「万歳!天皇陛下に長命を!」に
>なるのだろうが
音のバンザイとその英訳を併記してあるということなので、あなたの訳出で正解でしょう。
艦の傾斜は30度にも達さんとす。艦上の機は総て海へ滑り落ち、最後の時は迫れじ。
艦長は総員退艦を下命するも、彼自身の腹はあくまで艦と運命を共にするにあり。
小西艦長は彼の人生の最後の瞬間においてもなお、彼の部下達が帝国軍人らしさを保つ方策を模索す。
部下達はすぐ避難に入らず、傾いた飛行甲板に整然と整列し「天皇陛下万歳!」を三唱す。
いまだ幾つかの可動砲塔に其の担当兵士が留まり、最後の瞬間迄敵潜の潜望鏡を求めて射撃の手を緩めじ。
このスレの趣旨に合うように変えてみました。
添削して下さい。
390 :
◆9L0znSkw :02/06/09 22:30
今までROM専門でしたが先日父の法事の時にシベリア抑留経験のある親戚のおじさんに話を聞けたので紹介します。
当時、捕虜はソビエト国内の犯罪者と一緒に労働に従事していた。
ある時、おじさんは労働者の中に日本人らしき人物を見つけ、声をかけようとした。
しかし、日本語で話し掛けるとスパイの嫌疑をかけられ、酷い目にあわされる。
おじさんは一計を案じて、ロシア語で話し掛けた。
「あなたの故郷はどこですか?」
たわいの無い会話だが、この答えをきけば日本人かどうかがわかる。
話し掛けられた人物は一瞬驚きの表情でおじさんを見つめ、わずかな沈黙の後、ロシア語でこう答えた。
「私は39年に将校だった」
おじさんはそれで全てを察した。
39年といえばノモンハン事変の年、その時に将校であったならば自決しているはず。
理由はわからないが、死にきれず「生きて虜囚の辱めを受け」ているのだ。
この人は生きて日本に帰ることは出来ないんだ、そう悟ったおじさんは続いてこう尋ねた。
「何か伝えたいことはないか?」
日本に帰れないのなら、せめて家族に消息を伝えてやりたいと思ったのだ。
しかし帰ってきた答えは
「その必要は無い」
おじさんは一兵卒で、3年の抑留の後日本に帰ることができたが、
家族に無事であることすら伝えられない、その将校を気持ちを思うと今だにつらい、と言っていた。
おお、たった今、日本がロシア戦でW杯初勝利。
涙ぽろり。。。ぽろぽろ・・・
>>390 ×その将校を気持ちを
○その将校の気持ちを
スマソ
このお話は8年ほど前、九州の西日本新聞に掲載され映画かもされました。
ご存じの方も多いはずです。特繰出身の学徒兵のお話です。
当時東京にいた私は銀座の東映に軽い気持ちで見に行きましたが、
そこには数多くの老紳士が・・・いました・・・。
突入シーン後、エンドロールで私の横に座っていた一組の老夫婦のおじいさんが
突然起立して臆面もなく「拍手」し出したのには驚きました。
例に漏れず、当時21だった私は一緒に拍手することが出来ませんでした。。。
最後のコンサート
特攻と言えば、大東亜戦争においては、約4千人のパイロットが
若い命を散らした。その一つの実話を紹介しよう。
すでに米軍が沖縄に侵攻していた昭和20年5月のある日、二人
の童顔の陸軍将校が、佐賀県の鳥栖小学校を突然訪ねてきた。上野
歌子先生が応対すると、二人は言った。
自分たちは上野音楽学校(現・芸術大)ピアノ科出身の学徒
出身兵です。明日、特攻出撃することになりましたが、学校を
出て今日まで演奏会でピアノを弾く機会がありませんでした。
もちろん祖国のために命を捧げる事は本懐ですが、今生の思
い出に思いきりピアノを弾いて二人だけの演奏会をやりたいの
です。今日は目達原の基地から、あちらこちらとピアノを求め
歩いて、やっとこの小学校にたどりつきましたが、どうぞお願
いいたします。
上野先生の胸中には灼きつく熱いものがこみあげてきた。
どうぞ兵隊さん、時間のある限り弾いて下さい。私もここで
聴かせていただきます。
静かな放課後の音楽教室で、二人の少尉は、代わる代わるピアノ
に向ってベートーベンの「月光」などの曲を奏でた。その一時間程
の間に、どこから聞きつけたのか二十人程の学童達がいつの間にか
集ってきて、一緒にピアノの演奏に耳を傾けた。
やがて帰隊の時刻も迫ってきた時、上野先生は二人に向って言った。
有難うございました。こんな素晴らしいピアノを何年ぶりか
で聴かせていただきました。この子供達もあなた方のお姿と一緒に
永遠に今日のピアノ演奏を忘れることはないでしょう。
明日は愈々ご出発とのことですが、心からご武運を祈らせていただきます。
お別れにこの子供達と『海行かば』を合唱させていただきます。
教室一杯に静かに『海行かば』が流れた。送られる二人の少尉も
いつしか声をあわせて一緒に合唱していた。
帰り際、二人の少尉は「この戦争はいつかは終わります。しかし
今自分達が死ななければ、この国を君たちに残すことはできません」
といって、子供たちの頭をなで、満足の微笑みをたたえながら去って行った。
翌日の午前、鳥栖小学校の上空に一機の飛行機が現われ、二度、
三度と翼を大きく振りながら南の空へ飛び去っていったという。こ
の時のピアノは今も、鳥栖小学校に保存されているそうだ。
395 :
名無し三等兵:02/06/12 21:18
「まじめな自衛官は暴走する。
本気でまじめに仕事をしているのが問題とならないよう、より注意しないといけない」
自民党国防関係3部会にて小林興起氏の発言。
六十三年前に軍人が彼の定義で「本気でまじめに仕事をした」結果。
第二次ノモンハン事件で第六軍は出動人員五万八九二五人中、
戦死七七二〇人、戦傷八六六四人、戦病二三六三人、生死不明一○二一人、
計一万九七六八人、死傷率三二%の損害を出した。
また第二十三師団は出動人員一万五九七五人中一万二二三〇人、実に七六%の損耗率を記録した。
包囲下を部下を伴い脱出した連隊長三人が無断撤退の責を負わされ自決、師団参謀長は加療入院中に精神錯乱で入院中の将校に惨殺。
戦場で自決した連隊長は四人、戦場で戦死、あるいは部隊ぐるみ全滅した連隊長は他に五人。
生き残った連隊長は負傷後送された一人を含めて三人のみ。
---------数字は「ノモンハンの夏」(半藤一利)より
無能で仕事熱心な軍人は銃殺
397 :
名無し三等兵:02/06/12 23:02
前スレの入間川に墜落した自衛隊機の話は泣いたっす
学校を避けるために川原に落ちたことを知らずに生きてきた
自分の無知に恥じ入るばかりです。
おなくなりになった二人の自衛官のご冥福をお祈りします
同じ3佐とは思えないよなー。
年齢的にも近いでしょ、たしか。
ちゅうか、
やっぱり幕僚勤務のやつは
苦労というモンを知らんのかな?
現場で一生懸命やっているやつを
高見の見物しているようなとこがあるようだ。
>「まじめな自衛官は暴走する。
>本気でまじめに仕事をしているのが問題とならないよう、より注意しないといけない」
>自民党国防関係3部会にて小林興起氏の発言。
バカヤロー!!!!
暴走した戦闘機から住民を命をはって守った人こそ
本気で真面目に仕事をしている自衛官なんだ!!!!
泣けてきたよ。
僅かばかりでもこんなクズを食わせてやっているかと思うと・・・。
>395
どういう文脈で出された発言なのかを明らかにしないとねえ。
今の自衛隊員がマジメに職務に取り組んだら、
どうしてもどれかの法を破らないと任務遂行できない、有事法制を造らないと、って文脈で為された発言だと思うが?
勝手に他人の「軍人の定義」などを決めつける態度、サイテーです。
ノモンハン云々を招いた軍人は「マジメな軍人」じゃない。
何の権利も技能も能力もないくせに、「俺は政治の天才でもあるんだ」と勘違いした気違い。
大戦直前の日本軍にはこの手の連中がごろごろしてました、
軍人として以外はまったく無能であるにも関わらず、
政治に平気で首をつっこんで国を荒らし
そのくせ軍の近代化にはまったく不熱心なクズのような連中が。
ああいう連中はこの板では蛇蠍のごとく嫌われてますよ。
それこそ2ちゃんのすべての板の中で、もっとも。
>>400 言っている事はわかるし間違っていないと思うが、書き方が厭味だな。
嫌われているぞ
402 :
名無し三等兵:02/06/15 01:27
現場の制服組が築き上げていた国民の信頼を、制服組でも後方の事務屋や
私服組が崩していく、、。賽の河原を見てるようで泣けてくる現状だよな。
駐屯地のイベントでにっこり笑って無反動砲搭載ジープにつきっきりだった
オジサンの隊員さん「これでいざという時は戦車撃ちます」って答えてくれ
た。多分彼はもしその瞬間がきたらそうするだろう。有効射程1千m程度の
砲で文字どうり命をはって。
そんな小さな信頼の積み重ねを一気につき崩すバカは本当に腹立たしい。
>>403 激しく同意。上は自分の利益しか考えてねぇ。
できることったら選挙にさぼらず行くことぐらいなもんなのだが…
405 :
名無し三等兵:02/06/16 00:02
406 :
ペルー大使館に突入した特殊部隊の遺書:02/06/16 05:13
「この手紙が読まれるということは、私はもう生きていないということです。
私はペルーを愛し、この国のためならいかなる犠牲を払うことも辞しません。
私の使命は国を守ることであり、私たちが築き上げた平和を傷つける行為に対しては
いかなる措置をも取ります。私は誇りを持って作戦に加わり死んでいきました。皆さん
愛する士官学校で学び、一緒に戦ったことを思い出してください。私は心平静にして任務につきます」
神風特別攻撃隊の遺書
www.arkworld.co.jp/requiem/indexIE.html
終戦の詔勅
www.interq.or.jp/ox/satake/multi/history/gyokuon.mp3
>>406 確かに犠牲は数人といえど死んだ人はいるんだよな…
409 :
名無し三等兵:02/06/16 22:19
410 :
名無し三等兵:02/06/16 22:42
ペルー事件についてテリー伊藤の本を読むと
なんか・・・
411 :
名無し三等兵:02/06/16 23:10
海自が荒天で遭難した韓国漁船を救助した
話だれか詳しくしらん?
指揮官先頭ーそれができなきゃ男じゃないね
413 :
事実上辞任:02/06/17 00:08
自衛隊の雑誌修身に連載されている「13人だけの区隊長」生徒13期の少年13人の殉死者を
慰霊する区隊長の話・・・
小工校の事故死は有名だな
>410
あんなドキュソの本に読む価値があるんだろうか…
まだあるはずですよ
417 :
名無し三等兵:02/06/22 20:04
陸戦訓練最後の渡河訓練中に生徒が多数溺死
420 :
名無し3等陸士:02/06/23 02:33
421 :
名無し三等兵:02/06/23 03:33
422 :
名無し三等兵:02/06/23 22:39
このレスを読んで泣けました。
>泣かない人間を非難する前に、自らの涙に恥じぬ振る舞いをせよ
この言葉にも感動しました。何か動かされるものがあります。
そして今の日本の礎を築くために犠牲になった将兵、また、
私達に日本人の誇りというものを教えてくれた者たちに、敬礼!
軍人じゃないが、触雷で沈没し、割腹自殺した菅船長の遺書。
東亜海運長崎支店長宛の遺書
「船と運命を共にする能はず船体沈下と共に海中に入りながら浮び上るに
任せ生き延びたるは不覚に候へども数日間の謡命を借りて事後の処理に
営るを得たるは必ずしも恥ずべきことにあらぎるかと自ら慰め居り候。
今回は県知事閣下始め中略…言語に絶する御迷惑を相掛け何とも御詫び
の申し上げやうも御座なく候…中略…また本日は店内を汚し申訳御座無く候
…中略…追而小生妻子三名昨夜特急にて神戸出発すべき旨入電有之多分
本日当地着のことゝ存じ候何分よろしく御引廻し願上候」
一等航海士宛の遺書
「…前略…小生刀も短剣も失ひ剃刀にて決行甚だ不体裁なれども何事も代用
品の時節致方なく候…中略…小生例の引伸写真昨日入手亀屋の部屋に有
之候貯金通帳再度交附手続は別封御面倒乍ら御持参可然御願申上候」
夫人と息子宛の遺書
「御前達に対しては如何にも不憫に堪へず真に断陽の思ひがするけれ共…中略…
父は潔く日本海員道の為に一身を捨てる・・・(中略)・・・お前たちの為には生きて
居てやりたいのは山々なれどそれでは我が日本帝国の海員道が相立たぬ・・・
(中略)・・・殊に祐吉(菅氏の一人息子であります)は学業半ばなれど一層気の毒
に堪へぬ、さりながら何とかして卒業して呉れ、そして母や姉妹の将来を父に代り
て扶けて呉れ四人共一時は悲歎にくれるだらろうが 【ママ】かと気をとり直し互に相
慰め相励まして奮闘努力し我が家の再興を計つて呉れ……中路……この事件に
ついては当地に於て高橋支店長外各位竝に軍部や県当局の諸官に対し多大の
迷惑をかけたるにも拘らず深く御同情に預り感謝に堪へぬ」
ttp://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19420513nagasaki/2501ngsk-umitiosora.htm
んでもって、この人の夫人が夫の伝記を書きたいと言ってきた雑誌記者
に対して答えた話。
「主人は伝記を世に残すやうな立沢な人ではありませんでした。
ことにこの度のことは、全く主人の過失のいたすところで、御国の為には
大切な船を沈め更に多数の人命まで失つてをります。その方々の英霊に
申しわけがないばかりでなくその遺族の方々を思ふと身も世もありません
……中略……私達も主人の心を心として世を忍び生きてをるのであります。
況して主人の伝記を出すといふやうなことは、故人の生前の考へから申し
ましても相反することであります。」
425 :
名無し三等兵:02/06/24 21:32
期待を込めてアゲ!煽り禁止!
426 :
名無し三等兵:02/06/25 20:00
平成14年の四月三日、見なれない民族衣装を纏って靖国神社に参拝する一行があった。
一行の先頭には「高砂挺身報国隊」と右から左へ記された日の丸の旗があった。
彼らは当時高砂族と呼ばれた台湾先住民族で、靖国神社に奉られている
戦友や父・兄に会いに遥々やって来たのだ。
高砂義勇隊の戦士達は勇敢にして純真、そして責任感が強かったという。
ジャングルでは方向感覚抜群で聴力に優れ、夜目も利く。潜入攻撃はお手のものだったらしい。
最後の皇軍兵士こと中村輝夫一等兵(スニヨン氏)という存在もあった。
一行の一人、回天特攻隊の生き残り、日本名古田栄一氏はこう話す。
「なぁ〜に 回天10隻もあれば、アメリカの空母もやってみせますよ。
私ね、ただ一つだけ・・・靖国神社に入ることが出来なかった事、其れが残念でなりません。
今からでも、私が死んだら靖国神社に入れますか?」
真剣な眼差しで問い掛ける氏の目には泪が溢れていた。
「太平洋には私の戦友が眠っとるんです。私が死んだら遺灰を海にまいて欲しい。私は海の男だからね。
けれど魂だけは、靖国神社に・・・。」
声を詰まらせた氏はもはや其れ以上を言葉に出来ずこみ上げる泪を腕で拭うのみ・・・・・。
戦後は日本国籍を持たない彼ら元皇軍に、日本政府は冷たい。
軍人恩給がつかない事は、反日運動の材料とされる事もある。
・・・・・そんなことはどうでも良い。
俺は、彼らを最敬礼で迎え入れる事が出来ない「日本の社会」を恥じる。
うちはじーちゃんがビルマでくたばってるんよ。
だからなのか俺の親は「首相が靖国へ参拝するのはあたりまえや。」とノタマウ。
其れが健全なのかどうかは知らないが、俺は決して恥じては居ない。
427 :
名無し三等兵:02/06/26 00:39
>>426 なんかジーンと来るね。
今の日本社会は、彼らに対する対応はヒドイと思う。
だからこそ、言葉と事実に動かされた者だけでも、
彼らに対して敬礼をしよう!
敬礼!
私はアメリカで生まれた日本人。
そのお陰でアメリカ寄りの歴史教育を受けてきたわけなんだけど、
このスレ読んで自分が日本人なんだって自覚したよ。
何かと言えばシンジュワンと、一方的に日本の卑怯さを強調されてきたけど、
これからは「私は日本人。私の国には強く優しい男たちがいた。
彼らは私の誇りだ。軽んじてくれるなよ。」って胸を張って言える。
429 :
名無し三等兵:02/07/04 01:48 ID:/p9yTLdP
浮上!
430 :
名無し三等兵:02/07/04 03:05 ID:wi7qe4SB
>428
プロパガンダをプロパガンダと見分ける能力が無いとアメリカで
日本人を名乗るのは難しい。CNNをBSで見てて思う今日この頃。
目が潤む話が多いな
泣ける話では無いが
引越しの時、ジイサンの戦地からの手紙とアルバム出てきた。
初めて見たアルバムには萌えたが
泥だらけの便箋は・・・
遺書じゃないけど泣けた。
久留米師団だからおそらく常に最前線だったろう。
S12年北支へS19年ビルマで戦死・・・
一介の百姓だったが・・・
みんなも、特に祖母さんが存命の人は、戦地からの手紙は必読!!
432 :
名無し三等兵:02/07/06 12:45 ID:OI243N3q
想像をはるかに絶する状況のなかで、
皆様がみせてくれた真心に心うたれました。
合掌
水野広徳元海軍大佐の1943年7月の清沢洌宛書簡。
「老骨に加ふるに栄養物絶無の折柄にて体力の回復遅々として捗らぬには
自烈度くてなりません。生めよ殖やせよの赤ん坊第一時代の事とて、我々
老骨は一合の牛乳を得るにも医者、隣組、町会、区役所の証明を得て漸く
三日に一度か、五日に一度の配給さへも、三度に一度は腐敗しているという
有様にて、全く以て生ける印のある世の中に候。
時局の前途もいよいよ以て益々暗澹、嗚呼。日本は何処へ行く?開戦当時の…
国家の異端者か、非国民かの如く感情的に白眼視したる高等学生に対する
軍当局の媚態こそ、腕力に対する知性の勝利であり科学に対する大和魂の
降伏であります。人類は暗黙の間にも一歩一歩前進しつつあることを感ぜられ
ます。
目先の利くムソリーニの逃げ出しこそ桐一葉の感なくんはあらずではありませ
んか、鼎足今や一を欠く。三国同盟危いかな。
老生等最早幾くもなく、此のまま朽ち果てるこそ、国のためではありますが、
貴兄等は尚春秋に富まれる身とて更生日本の為御奮励有らんことを。」
434 :
名無し三等兵:02/07/06 21:57 ID:x/NAXVVp
336 名前:WF :02/07/06 21:11 ID:z7tTBDHa
もうすぐ、ミートキーナで死んだ叔父の命日なのでアゲ。
今年92になる従軍看護婦だった祖母。
家系のご多分に漏れず霊感が強かった。
でもその忙しさは忙しすぎて終戦の玉音放送も働き詰めで聞き逃したくらい。
そんな祖母。昭和20年7月19日(日付は定かではない)の夜。
祖母が寝ていた部屋の戸を叩く人がいる。
祖母は「明らかに霊が来た」と思って無視した。
そして再び眠りにつくと・・・
そこには件の叔父が怪我をして苦しんでいた。
そこで祖母は痛み止めの注射をしてあげた。
けれども、助からずに手の中で死んでいったそうだ。
そこで目がさめた。
・・・後に、ちょうどその時刻にインドのミッチーナで叔父は戦死したと言う。
インパールで亡くなられた全ての方々の、ご冥福を御祈り申し上げます。
・・・おそらく、昭和20年は昭和19年の間違いでしょう。
・・・しかし、48年前の夢を覚えているWF殿の祖母殿に、敬礼。
435 :
無名兵士:02/07/06 23:23 ID:QYNjsHQX
なんでも日本人の間でも恩給には差別があり、いまだ未解決。 忘れたが軍在籍
何年以上のみ支給されたとか・・・あとで問題となり、なぜか公務員の者のみ
それよりも少ない年数でも支給された。 まさに官の腐った恥知らずなやり方で
とうてい恥ずかしくて、英霊に顔むけできない
俺、このスレ見て
お国のためフィリピン行くこと決めました。
さようなら
何をどう考えたらそういう結論になるのかよく分かりませんが、
あなたがそれでいいと思うならそれでいいのではないでしょうか。
438 :
無名兵士:02/07/07 22:42 ID:t/8gBe0+
フィリッピンは広いぞ島ばっかりだし大変だ。 あとフリピーナの身の上話は
いちいち信用していたらキリがないぞ
泣ける話が製造されないように・・・
440 :
名無し三等兵:02/07/08 22:16 ID:9D2xKkiQ
>>428 真珠湾のことで因縁つけてくる輩がいたら言ってやりなさい。
「Remember Pearl Harbor!」
(あんまり日本人舐めてると痛い目見るぞゴルア)
441 :
名無し三等兵:02/07/09 22:09 ID:PBgS3L3F
あげ
442 :
無名兵士:02/07/09 23:13 ID:z80eC1wj
なーに良識あるアメリカ人もいいかげん気がついているさ
ハル・ルーズベルトの汚さにね。 ただ口にできないだけさ
443 :
名無し三等兵:02/07/09 23:21 ID:Q90Bs5Nt
,,--'''""`ヽ' -/"~  ̄`ヽ、
/ ヾ''" ~`ヽ
/ _,,,... ヽ;: /""ヽ ヽ
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/ /::::::::-'''''"~ ヽ, .|
/ |;:" ヽ !
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i i:: ::::: | ,;| ぶズヴふ・・・
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| 人:.. /ニニニヽ ; | |
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445 :
自衛隊もお役所なので:02/07/10 01:17 ID:igWPgsEL
>413
そりゃ・・反省もするわな・・。
自分が訳分からん命令出したわけやし。
完全武装でまっすぐ歩け!とでその先に池があって溺死。
なんでこうなったか、ここは原因と因果関係はっきさせんと・・。
こういうめに合う不幸な人が増えるばっかし。
アメリカとかドイツ、イスラエルあたりじゃ、確実不名誉除隊だわな。
区隊長ドノ。
確かに、駄スレだらけの現状は泣ける・・・
447 :
>:02/07/10 20:46 ID:???
>セーラームーンは天下無敵なのだ
正に大泣き。
448 :
名無し三等兵:02/07/11 16:37 ID:EdIlAVeS
このスレ好きなんですが・・・
そろそろネタ切れですかね
449 :
名無し三等兵:02/07/11 20:59 ID:DRepljoy
真珠湾攻撃の声明は攻撃は事前にアメリカに通告される予定だったが、
翻訳が遅れたため、奇襲という形になってしまったと聞いたけど。
450 :
名無しの退役軍曹:02/07/11 21:49 ID:ynCPl85J
>449
そんなのここじゃ〜常識じゃ。
451 :
名無し三等兵:02/07/11 22:00 ID:SNHcxNMk
(´ )
,,-―ー-、 (´ )
γ" ゙ヽ (´ ゙)
ノノ;; ノノハ ヾ,ヽ.. .| ̄ ̄|
ノ,, |" ノ(● ●)|゙|つ| 茶 |<ジサクジエンデシタ!!
ルハレ'___∀_ノレ' ヽ― ´
452 :
名無し三等兵:02/07/14 12:29 ID:aJ9L3ExB
パールハーバーを見たけれど、これって、日本人を馬鹿にしているな。
453 :
名無し三等兵:02/07/14 12:37 ID:wVmcJpEO
そんなこたあない。日本人が馬鹿なだけだ(泣)。
>453
同意(泪)。
455 :
名無し三等兵:02/07/14 13:14 ID:+6iuyTkx
456 :
名無し三等兵:02/07/16 01:38 ID:nHBOKj5d
昔の人って頭イイね。遺書とか難しい言い回しで自分全然意味分からず
感情移入もできぬ。 恥ずかしい。
口語訳を誰かにやってもらうべし。
あの時代は文語と口語を別でやるのが礼儀だったから。
言い回しの難しさを除けば、普通に「死にゆく者の言葉」として今でも通じるものが多いです。
あまりに通じすぎて、某泣きゲーの世界か何かと一瞬勘違いしそうになった自分に欝。
でも忘れちゃいけない、これは都合よく神の手が介入してハッピーエンドになるえろげの世界じゃなくて
現実に、そう間違いなく現実に、下手したら自分がたどったかもしれない、そういう人生の記録なんだ。
そういうことを思いました。
三年前、真夏の誕生日、靖国神社にて。
458 :
名無し政治士官 ◆jfJDqXec :02/07/16 02:35 ID:3qDn/sZS
もう随分経ったな。
こないだ私の祖父が漏らした台詞だ。
私は色々聞きたかったが、それしか答えてくれなかった。
祖父はもっと何か言いたそうだった。
私ももっと色々聞きたかった。
しかし、話は祖父のその一言だけで終わってしまった。
泣ける話でも何でもないが、戦争とはかくの如きものか、と思った瞬間だった。
459 :
確か15連隊@高崎:02/07/16 04:08 ID:aYvppfGJ
漏れの祖父は対照的な二人であった。
母方の祖父は南方へ逝った。
漏れが幼いときに死んでしまったのであまり詳しい話は知らない。
お酒を飲んでよく戦争の話をしてくれた。
「おじいちゃんはね、戦争に行って闘ったんだ。
機関銃の弾帯をね、隣で送っていたんだ。
最後の戦闘の時に、米軍の弾がお尻に当たったんだ。
撤退の時、負傷したおじいちゃんを戦友が担いで海岸まで運んでくれた。
輸送の潜水艦が着くまで砂浜で休んでいたんだけど、あまりにも苦しかった。
戦友の遺体が埋められている砂山を、枕代わりにして休んでいたんだ。
敵の攻撃のさなか、やっと潜水艦が到着した。
おじいちゃんは戦友に『俺は置いていけ、早く乗り込め』と言ったんだけど
戦友は『そんなこと出来るか』と言って、最後に残ったおじいちゃんを潜水艦に乗せてくれた。
おじいちゃんやおまえがいるのはその戦友のおかげなんだよ。」
その後、その戦友が亡くなるまで、彼のふるさとから「高菜茶漬け」が送られてきた。
未だに俺はその高菜茶漬けを食っている。
460 :
確か15連隊@高崎:02/07/16 04:16 ID:aYvppfGJ
その母方の爺ちゃんが死んだ。戦後は自分で商売を始め、
食肉協会の幹部にまでなった。勲五等瑞宝章ももらった。
納骨の時に、青銅色の固まりがお骨に混じってあった。
体の中に残された銃弾だ。親戚のおじさんが
「これがおじいちゃんを苦しめたんだよ」と言って握りつぶした。
祖父の、兵隊式のせかせかした歩き方、陸式の敬礼、繋いだ手のぬくもりが忘れられない。
一方父方の祖父は獣医だった。
赤紙が来て検査に行った日、家族がもうお別れかと思って居間を除くと
軍隊にいるはずの祖父がコタツに当たっていた。
「落ちちゃったよ。」
どうやら肺が悪かったので検査で落とされたらしい。
戦後、自分の趣味的な事業(?)を展開し、特に当たることもなく
胃ガンで死んだ。その時に作ったペットショップが母の鶏肉屋の近くで、
(別ルートの紹介で)父と母は結婚した。
以上長文スマソ。
P.S.うちの婆ちゃんは風船爆弾作ってたんだって。
たかな たかな たかな たかなを食べると
なみだ なみだ なみだ 涙が出てくる
たかな たかな たかな たかなを食べると
からだ からだ からだ からだにいいのさ
462 :
名無し三等兵:02/07/16 15:55 ID:fDw2gKrz
私は見た。愛国心と死ぬこと!
最近、勇ましい戦争論や愛国心を鼓舞する話が多く聞こえるようになった。しかしそんな戦争論や愛国心を語る前に、私が体験したある事実を聞いて頂きたい。私が国家と戦争、自分は何のために死ぬかと考える原点になった出来事である。
私が陸上自衛隊少年工科学校の2年生で7月の頃だった。年齢はまだ16歳である。私は足の病気で横須賀の自衛隊病院(当時は海上自衛隊 地区病院)に入院した。そのときの話だ。
(本文が長すぎるので以下略)
軍事アナリスト神浦元彰氏のHPからです。本文が長すぎるので続きが知りたい人は神浦氏のHPへ行ってください。
ttp://www.kamiura.com/coffee3.html 既出だったらごめんなさい。
忘れ難い物の一つの中に、
靖国神社の境内に据えられていた高射砲があります。
この事は「今日われ生きてあり」の「第十話 雲ながれゆく」に
浦和の秀才、平柳四兄弟の話として書きましたが、
その次男の平柳三郎少尉は、地獄の戦場と言われた
ニューギニアのウェワクで六門の高射砲がたった一門となるまで戦い、戦死。
第十八軍野戦高射砲隊第六十二大隊 の生存者は、
将校、下士、兵を含めて僅か三十二人。
その生存者の一人で、横浜で呉服卸商を営んでいる
Y元二等兵は、慰霊巡拝団の一員としてウェワクを訪れた時、
今も木一本生えていないと言う高射砲陣地跡で、
彼らが最後まで死守したあの 高射砲が一門、天を睨んでいたそうです。
それを見た瞬間、Yさんは赤錆びた砲身に抱きついて
「日本へ帰ろう!みんなのところへ、靖国神社へ行こう!」
と声を叫げて哭いたといいます。
その高射砲を、Yさんたちはとうとう靖国神社へ持って帰って来た。
そうした人たちの心のよりどころというものを
一般からシャットアウトして、 何が国政か、と言いたい。
アーリントン墓地や外国の 無名戦士の墓に参拝する閣僚が、
自国の靖国神社に 参拝しないというのは、
戦没者への大きな裏切りではないですか。
語らざれば憂いなきに似たり、だから言いますが、
いま、日本の政府が真っ先にしなければならないのは、
無念のうらみを抱いて亡くなった
国民の犠牲者に 詫びる事ではないですか。
その反省から初めて "戦後"が始まるのと違いますか。
―以上、神坂次郎氏著「特攻隊員の命の声が聞こえる」より
464 :
名無し三等兵:02/07/17 02:53 ID:gsOarMdE
上げときます
ところで、日本とトルコのフラッシュはもう見ましたよね?
466 :
名無し三等兵:02/07/20 01:26 ID:P8pQJgEu
467 :
465:02/07/21 01:16 ID:IvNegx+6
湾岸戦争時、日本人を救う為にトルコ政府が特別輸送機を出しました。
なぜ、トルコが日本人を救ってくれたのか、その経緯を紹介したフラッシュ
です。かなり、話題になったのですが知りませんか?
現在、残念ながら公開中止のようですが・・・。
ホッシュ
470 :
名無し三等兵:02/07/29 20:25 ID:qSPuBYjC
帝國海軍は断じて同胞を救ふ
取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるかと思った程ださうです
ありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、
再び鐵格子の中から引き出されました
いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、
捜査は打切り、無罪放免。露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか
解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました
天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けているものです、
半信半疑の儘、ともかくも港へ向はむとふらつく脚を海へ向けました。
その瞬間、何故、助かったかが判りました
沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、
砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ
陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの
圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです
旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう
皆、感泣しました
鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥
http://village.infoweb.ne.jp/~navy/toukou/001.htm
471 :
名無し三等兵:02/07/29 20:30 ID:qSPuBYjC
ひうらさんは無事、日本に帰りました
取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の戦争をも辞せず、
瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本の親心に酬いる為にも、なほ一層
仕事に励み、三代の御代を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に
大往生を遂げられました
勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ張替へ張替へして
生涯穿き続けました
「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」
472 :
:02/07/29 21:24 ID:OdkRtGa+
( ・∀・)ホッシュ
474 :
名無し三等兵:02/08/05 22:30 ID:H1f0mJpq
復興への3万3千キロ
「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の
声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog136.html イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声
望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に
対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊
された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位し
たが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日
本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。
475 :
名無し三等兵:02/08/05 23:14 ID:gf+XwN4D
28 :おさかなくわえた名無しさん :01/12/10 13:37 ID:Rd3fMM0P
小学校に上がるまえに祖父が亡くなった。
祖父は戦争中に列車事故にあい、片足を切断していたけど
今のように高品質な義足のない時代に
重たい義足をつけて杖をつきながら、私や弟を可愛がってくれていた。
何時の頃からか家の仏壇の前には
祖父の命日頃になる高価なお線香と共に一通の手紙が添えられていた。
やがて祖父が亡くなってから25年は過ぎ、私も結婚し子供も出来た頃
長年同じように仏壇に供えられる手紙の疑問を母に尋ねてみた。
その手紙とお線香は祖父の戦友であった人からの毎年の贈り物だったそうだ。
添えられる手紙もその人がまるで祖父が生きているかの如く語りかけているような
読む人が涙を流さずにはおれないほどに、切々と心情を達筆な字で
便箋にびっしりと書き綴ってあった。
母も毎年そうやって頂く手紙は祖父も待ち望んでいると思い
毎年お仏壇に供え、またその手紙の主が少しでも長生きしてくれることを祈っていた。
結婚して実家から離れた場所に住んでも
実家に帰るたび、僭越ながらも祖父の代わりに読ませてもらい
祖父の分も長生きをしてくれる事を私も祈っていた。
そしてとうとう祖父の戦友であった人のご子息から訃報が届いた。
祖父の命日に手紙とお線香が届き出して30年は経っていた。
戦地で生死を共にした祖父とその友人は今頃はあの世と言われる場所で
きっと酒でも酌み交わしているに違いないと思う。
亡くなってからも30年経っても一向に友情が薄れることのなかった祖父達。
今はもうお仏壇に供えられる手紙はないけれども
そんな祖父を持った事を誇らしく思う。
子供達にも必ず話して聞かせようと決めている。
既出だったらごめん。生活板からの転載っす。
476 :
レド公路の水上少将:02/08/05 23:41 ID:kvrw2Hxc
昭和20年3月26日0515頃
栗林中将が指揮する日本軍反撃部隊は、硫黄島西部にある米海兵隊・
陸軍航空部隊の露営地を奇襲しました。
同地は約3時間にわたり修羅場と化し、日本軍部隊は
米兵員約170名を殺傷。一部部隊は元山・千鳥飛行場(島中部)
に突入しました。
しかし、時間の経過と共に将兵の死傷者が続出し、部隊は同地付近で
天皇陛下万歳を三唱し、大部分が玉砕し、硫黄島における組織的戦闘
はこれで終結しました。
栗林は攻撃前進中に右大腿部に重傷を負い、司令部付曹長が背負って
前進しましたが、「兵団長の屍は敵に渡してはならない」との最後の
言葉を残して、高石参謀長、中根参謀と共に拳銃で自決しました。
米海兵隊史「硫黄島」にはこの日の攻撃について次のように記されています。
「3月26日早朝における日本軍の攻撃は、万歳突撃ではなく
最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった。0515ごろ、
2〜300名の日本兵は島の北側に沿って北方から来攻し、
平岩湾南方(西部落)の海兵隊および陸軍露営地を襲撃。3時間
にわたる混戦が続き、第7戦闘機部隊(硫黄島基地を使用中の陸軍
飛行隊)は戦死44、負傷88、第5工兵大隊は戦死9、負傷31の
損害を受けたが、日本軍196名を倒した。日本軍は日米両方の火器
で良く武装されていた」
477 :
レド公路の水上少将:02/08/05 23:42 ID:kvrw2Hxc
硫黄島において米軍に収容された日本兵は例外なく失神状態であったと
いうことです。
「最後の最後まで戦い抜く」
この栗林の精神が末端兵士にまで浸透していた事のあらわれでしょう。
水もなく、補給もない高温の島で約1ヶ月にわたり米軍を苦しめつづ
けた硫黄島守備隊。指揮官・栗林忠道の存在があってこそ成し遂げら
れた成果であると思います。
戦いの場での勇猛さばかりに目を奪われがちですが、彼の真価は、
米軍上陸前の「持久出血」戦術の決定とその準備作業の過程に
あったように思います。
厳しい作業に明け暮れる部下たちを思い、絶対に彼らと同じもの
以外は口にしませんでした。本土から土産が届くと、必ず全員に
行き渡るようにしました。あるとき、参謀本部から派遣されてきた
人がパパイヤを持ってきました。栗林はパパイヤの実をそれは細か
く切り分け、全員に行き渡るように手配したそうです。
部下の労苦に真摯に報いる上官。
部下はその思いに全力で応えました。
軍人の仕事は戦闘だけではないのです。栗林をみているとつくづく
そう感じました。
追伸
硫黄島海軍部隊最高指揮官・市丸利之助少将の「ルーズベルトニ与フル書」を
HP上で公開しています。興味のある方はどうぞ。
http://www51.tok2.com/home/okigunnji/ichimaru.htm (おわり)
引用(エンリケ航海王子)さんメルマガより
478 :
名無し三等兵:02/08/10 02:35 ID:R+MUimJc
8月15日も近づいたしage
479 :
名無し三等兵:02/08/10 02:50 ID:ZLsGZ7Da
「ユダヤ人諸君。いよいよ、立ち上がる時が来た。
ただ一人のユダヤ人も貨車に乗るな。敵に立ち向かえない者は、
身を隠して抵抗しようではないか。
合言葉は一つ。人間らしく死んでいこう」
ワルシャワ・ゲットー蜂起の際のユダヤ人抵抗組織ZOBの出した宣言より。
日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとか
言って戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由
からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼等は味わっている
のだ。だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なの
ではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼等は戦争の
英雄的であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなければならぬ。それから婦人
の地位を上げることも必要だ。
日本で最大の不自由は、国際問題に於いて、相手の立場を説明することが出来ない一事だ。
日本には自分の立場しかない。この心的態度を変える教育をしなければ、日本は断じて世界
一等国となることは出来ぬ。全ての問題はここから出発しなくてはならぬ。
日本が、どうぞして健全に進歩するように−それが心から願望される。この国に生まれ、この
国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。今までのように、蛮力が国家を偉大にすると
いう考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものである事をこの国民が覚るように…。
「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国に見込みはない。
(清沢列 昭和20年1月1日の日記より)
>だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なの
>ではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼等は戦争の
>英雄的であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
……どーやら戦後日本は完全に失敗で終わったようで。
60年前の方、済みません。 あなたの言葉、今の日本にとっても必要性これっぽっちも減ってません。
482 :
名無し三等兵:02/08/15 20:48 ID:OO1uHXBq
現実に侵略を受けているのになんら有効な手段を打てないばかりか、
その相手に援助をしていまうようなヘタレ政治家が実在するのは、
泣けるを通り越して笑えます。
>482
現実に侵略の危機にも直面していないにも関わらず
勝算も何もないままに世界秩序再構築だのなんだのとわめきまくった先人と足して二で割ればちょうどいいのです
484 :
名無し三等兵:02/08/20 11:13 ID:Zyb795es
「回顧録」を十冊ほど読んだ。「神風特攻隊」の記述を読んだとき、
涙が止まらなかった。・・。レーダーに「点々」が現れる。神風はまだ
肉眼では見えない。しかし、その点々の方向に全ての機関銃を、全ての
対空砲を、撃ち始める。十機ぐらいの神風が肉眼に見える。まっすぐ
航空母艦に突っ込んでくる。水兵たちは、気が狂いそうな恐怖に震え
ながら、機関銃を撃ち捲る。ほとんど三十分ぐらいで撃ち落とす。
だが、時折、一機だけがいくら機関銃弾を浴びせても落ちない。
銃弾の波間を潜り、近づいてきては逃げ、そしてまた突っ込んでくる。
日の丸の鉢巻きが見える。祖国のために死を覚悟し、己の誇りと勇気に
支えられ、横殴りの嵐のような機関銃の弾雨を見事な操縦技術で避け、
航空母艦に体当たりし撃沈しようとする恐るべき敵に、水兵たちは、
深い畏敬と凍りつくような恐怖とが入り交じった「感動」に似た感情を持つ。
命を懸けた死闘が続く。ついに、神風は燃料が尽き、突っ込んでくる。
そのとき撃ち落とす。その瞬間、どっと大歓声がわき上がる。その直後、
耳が裂けるような轟音を発していた甲板上がシーンとした静寂に覆われる。
水兵たちはその素晴らしい敵日本人に、「なぜ落ちたのだ?」「なぜ
死んだのだ?」「これだけ見事に闘ったのだから、引き分けにして、
基地に帰ってくれればよかったのに!」と言う。アメリカ水兵たちの
感情は、愛国心に燃えた一人の勇敢な戦死が、同じ心をもって闘った
戦士に感じる真の「人間性」であろう。それは、悲惨な戦争の美化では
なく、激戦の後、生き残った者たちが心の奥深く感じる戦争への虚しさだ。
あの静寂は、生きるため、殺さなければならない人間の性への「鎮魂の黙祷」
であったのだ。 (『國破れてマッカーサー』西 鋭夫著p24)
485 :
既出かな?:02/08/21 21:54 ID:YVcclzT3
「泣ける」かどうかはわからないけど…
前線へ出発する前日、
「電報により大阪から駆け付けた母と、最後の昼食をキ61の翼の下でとった。
いかにもすごそうなキ61をさすりながら、
『どうか私の息子を頼みます』と、人間にでも言うごとく涙ながらに言って
いた母の姿を、いまでも忘れることはできない。」
(小山進「あゝ飛燕戦闘隊」)
(本屋でぱらぱらとめくっていて、不覚にも涙ぐみそうになりました。)
>485
あー、わかるわかる。
感情伝えるのにモノが介在してるとなおさら泣けるねぇ。
……その話が伝わってるってことは、
飛燕に母親の願いは通じたってことでいいのかな。
487 :
485:02/08/21 22:35 ID:???
このときの愛機は失ったものの、約半年間のニューギニアでの空戦を経て
内地に転任し終戦に至る、ということだそうです。
母の「祈るような思い」は通じたということですね。
私が買ったのは2001年発行の文庫版ですが、80近いお年にも関わらず、
ジャケットの紹介文では「民間航空教官として活躍中」とのことです。
(ちなみに、引用したのは小山氏ご自身の回想記です。)
お前がツマラン
490 :
名無し三等兵:02/08/25 19:57 ID:Fv73Op/W
スレ違いかも知れないが創作文芸板から短編を一つ
その飛行艇は花束を運んでいた、その花束は
機に乗り合わせた者達の悲しみを乗せていた
ただ、ひたすらに青く広い海原を行く飛行艇の目的地は
やはり、ただ、波立つ海の一切れに過ぎなかった。
機長は機内を見返した。
婦人達の花束は愛する人への思いや共に暮らした記憶が
込められているように見え、それらの丁重さな造りと共に
一つ一つが比べ様も無く貴重に感じられた。
それに比べて、子供達の花束は十人十色、その子が秘めた
性格をそのまま写したように創造的だ。
最寄の女の子の花束等などまるで父の日の贈り物の様に
似顔絵や手紙が添えられていた。父親に会いに行く
とでも聞いているのだろう、無邪気な表情が心に痛い。
「皆様、間も無く目的地です、ご準備を、
投下に使うハッチは危険ですのでお子様が近づかないよう・・・」
機長はそう言うと座標や時計を確認し
「あと10分程余裕がありますので、家族に届く事の無かった
一人の機関士の言伝を聞いてあげてください」
子供達さえも周りの空気を読みとって機内は静まり返った。
機長がポケットから元の手紙を一部要約した紙を取り出す。
「愛する君へ、私は君達に2度と逢う事が出来ないかも知れない。
ずっと、君達の事が頭から離れない。
家が恋しい、2度戻れないかもしれない家が。
無事、戻れる事を祈ってくれ。でも、もし戻れなくくても
一生、私の事を背負いこまないでくれ。君には他誰かと一緒
になってでも幸せに暮らし、子供達を立派に育て・・・」
491 :
名無し三等兵:02/08/25 19:57 ID:Fv73Op/W
操縦士の飛行眼鏡が濡れている、機長も昨日つけた紙の染みが
無ければ責務をまっとうできなかったかもしれないと思った。
「間も無く。沈没地点です」
機長の合図でハッチが開かれ、男達の守ろうとした数だけの
花束達は飛行艇から離れ特別であって特別でない只の海原に降りていった。
乗客達は窓という窓からその光景を眺め見えなくなった後も目を離そうと
しなかった。皆、涙を流しながらも今を生きぬく為過去との決別をはかって
いるように見えた。尤も、事情を飲み込みきれていない幼子の目には既に
新たな世界ヘの好奇心があふれていると感じた。
飛行艇は飛びつづけた未来へ向かって。
ラエ作戦輸送の任務を帯びた伊176潜は薄暮に乗じて海岸から約四百mの予定揚陸
地点に浮上。やってきた大発が横付けされ、積荷はよどみなく積み込まれていく。
作業が半ばほど進んだとき、突如信号所から赤い火線が空に走り、機銃の連続音
が響いた。「潜航」の号令も時既に遅く、山陰から中型爆撃機3機が踊りかかり、
敵襲と同時に四散待避した大発乗員の目の前で、潜水艦は一瞬のうちに敵機の銃爆
撃の水煙と閃光に包まれた。後甲板に命中した爆弾は真っ赤な火柱を上げ、潜水艦
はみるみる左に傾きつつ沈んでいった。
…
敵は「駆逐艦撃沈」を報じたが、艦はまだ沈んではいなかった。重傷を負った艦
長に代わり、先任将校が指揮を執り、海岸に乗り上げて応急修理をはじめた。爆弾
は米を詰めたドラム缶の上で瞬発したらしい。
潜水艦を捜しまわっていた大発が、やがて舷側に近寄ってきた。沈んだと思って
いた艦が陸岩にのし上げているのをみて驚いている相手に、「まだ糧食弾薬が残っ
ているから急いで大発を寄越して下さい」と依頼。やがてやってきた四隻の大発に
残存の兵器、弾薬、糧食を全て搭載し、ついに輸送任務は果たされた。大発指揮官
は、先任将校の手を固く握り、「無事ラバウルに帰られる事を祈ります」と言い残
して去っていった。
…
(その後応急修理を終えた伊176潜は、1日の沈座試験の後、敵襲をうけつつも辛う
じてラバウルに帰還したそうです。)「伊58潜帰投せり」より。
494 :
名無し三等兵:02/08/31 17:29 ID:4uNviAUm
アーミテージ国務次官(補?)の養子の話は少しホロリとさせられました。
大瀧中将の影に隠れがちかもしれないが、第6艦隊司令長官醍醐中将が
回天部隊に送った言葉
謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ
去る八月十五日終戦の大詔下り皇国は鉾を収めポツダム宣言受諾の已むなきに
至れり 真に痛恨の極にして何を以ってか之に喩へん 特に諸子の忠魂を
偲びては哀々切々の情胸に迫り五内為に裂けんとす
顧みるに諸子志を海軍に立て勇躍大東亜戦争に臨みしが戦中途より利あらず
為に憂国義に就かんとして回天特別攻撃隊員となり以って戦勢を挽回せんとす
其の闘魂真に鬼神をも泣かしむ
而して克く秋霜烈日の訓練に従事し 一度出撃するや死必殺の体当り攻撃を
以て敵艦船を轟沈するの偉功を樹て 以て悠久の大義に殉ず 真に其の忠烈
万世に燦たるべし 然れども諸子の武勲赫々たりしにも拘らず戦利あらず
遂に今日の悲運に遭う 誰人か之を予期せんや 我等諸子の期待に副ひ得ず
英魂を慰むるに由なし 嗚呼又何をか言はん されど諸子が誠忠遺烈は万古
国民の精髄たるべく 必ずや諸子の七生報国の精神は脈々として永へに皇国を護らん
今や皇国は有志以来最大の苦難に直面し 今後に於ける荊棘の路は実に計り
知るべからざるものあり されど我等諸子の特攻精神を継承し 堪え難きを
堪え忍び難きを忍び以て新日本建設に邁進せんとす
願わくば冥せよ 茲に恭しく弔意の誠を捧げ諸子の英霊に申す
496 :
495:02/09/03 14:43 ID:???
ちなみに、醍醐中将は終戦直後、第六艦隊で保管する約5万円の
機密費の使途について、1円たりとも私せず有効に使用したいとの
意向を示し、昭和21年初から春にかけ、幕僚達の手により、或いは
郵送で、中将の弔辞、香料とともに回天特攻隊員の霊前に捧げられたそうです。
外交機密費やらなにやらで豪遊している売国役人どもは、半万回死んで
あの世で醍醐中将に詫びてこい、と言ってみるテスト
1960年アフターバーナと呼ばれていた当時の横田基地新聞に次のような記事が載っていた。
素朴な善意に基地司令官も感激/墜落事故に町民の献身的協力
9月8日未明、北方定期気象観測に向かった横田基地の第56気象観測中隊所属ボーイングWB-50型機は40分後の午前3時頃突然
濃霧の中でエンジンから火をふき、福島県石川町近くのスギ山(標高500m)の山頂付近に墜落、爆発して一瞬のうちに乗務員11名の
生命を奪った。
石川町は東北本線白川駅より東へバスで一時間あまり、福島県のずっと南よりの方角にある素朴な農村の一つである。
事故発生と同時にこの平和な町の人々の示した活躍にはめざましいものがあった。
二百人あまりの消防団員が総出で遺体の収容から現場の整理に全力をあげ、町中の人々は炊き出しをして消防団を応援した。機は
四散、わずかに右の主翼が9メートルばかり原型をとどめているのみで、黒焦げになった四個のエンジンから時折小さな爆発音が
聞こえ惨たんたるものであった。
午前10時に基地から調査のヘリコプターが到着した時、ヘリコプターは同僚の安否を気づかう将兵たちを一刻も早く現場へ届ける
つもりが、土地不案内のためいたずらに旋回を繰り返すばかりだった。
これを知った人々はさっそく中学校生徒で人文字をつくり校庭へ無事着陸させた。
通訳も必要だろうと数里離れた古殿町の英語教師を朝の5時に起こして連れてきた。
以来第56中隊の将兵は連日のように石川町を訪れて調査、整理に従事しているが全員異口同音に町民の人々の示す国境を越えた
善意を賞賛している。
また、山頂には町民が建てた白木の墓標に、秋の草花が供えられ線香の煙が絶えない。
9月15日午後第56気象観測中隊司令部で司令ウォーレス中佐以下幕僚たちが緊張した空気の中に3人の日本人を待っていた。
福島県下の石川町から消防団長の酒井勝美、同副団長の小川弘一、同町庶務部長の有賀猶賀の三氏がはるばるやって来ると言うのである。
定刻、八時間を越す自動車旅行にもかかわらず元気に到着した三氏はずらっと並ぶ同中隊幹部将校の儀礼を受けてびっくり、会議の後司令
自らの案内で飛行場内のWB−50型気象観測機を見学した。
一行は大きな機体を見て、今更ながらに墜落事故がいかに激しかったかを思い起こしていた。
一行は将校クラブで夕食に招待され、金一封とWB-50型の模型機が贈られた。
5時第一ゲート前に整列した司令以下幕僚の挙手に送られて帰路についたが、美しい心をもった石川町の三人の代表にいつまでも手を振って
いる将校たちが印象的であった。
ウォーレス中佐は「本当に町の人にはお世話になった。不幸な事故で隊員を失ったのは残念だが石川町の美しい心に接して感激した」と話した。
その後、「異国で尊い生命を失った米軍人のために碑を建て慰めよう」という話しが持ち上がり、地元の人が発起人となって募金運動を始めた。
この人類愛に満ちた碑の建設計画に基地はもちろん、仙台調達局、福島県当局など各方面からも好意の基金が寄せられた。それに応えるかの
ように町の人々は数キロ離れた河原からこの山の麓まで大きな碑石を運び上げた。
こうして岸信介前首相の筆になる「米軍機殉職慰霊碑」の文字も鮮やかな高さ3メートルの黒ミカゲ石の立派な碑が事故現場の山の麓に建て
られたのである。
この石碑は現在も石川町に現存し、木立の中で静かに佇んでいるという。
俺、戦車も戦闘機も戦艦も大好きなんだけど
このスレと過去スレを読んだら、戸惑いを感じた
歴史も知らずに兵器を好きになっていた自分が恥ずかしく思えた
なんか機械音痴の母がデジカメを買った。
どうやら嬉しいらしく、はしゃぎながらいろいろと写してた。
何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく
「どうすればいいの?」って聞いてきたが
「忙しいから説明書読め!」とつい怒鳴ってしまった。
さらに「つまらないものばかり写してるからだろ!」とも言ってしまった。
そしたら「・・・ごめんね」と一言。
そんな母が先日亡くなった。
遺品整理してたらデジカメが出てきて、何撮ってたのかなあと中身を見たら
俺の寝顔が写ってた・・・涙が止まらなかった。
>>501 何度読んでもこみ上げてくるものがあるコピペなのだが…
一応ここは軍事板であることを認識願う。
水師営の会見 (明治38年1月5日)
これが有名な「水師営の会見」です。皆さん見てお気づきになると思いますが、
全員が武装をしています。この時、負けた方が丸腰会見といいまして、
武器・武装の全てを相手に差し出すということで、戦いに敗れたステッセル将軍は、
自らの武装を解き乃木将軍に差し出したところ、
乃木将軍は「武装は軍人の魂である。差し出す必要はない。」と、
武士の情けを示され、世界中に高く賞賛されたそうです。
その後、ステッセル将軍は、ロシアに帰り軍法会議にかけられ死刑の判決を受けます。
それを知った乃木将軍は、ロシア政府に6度にもわたり助命嘆願書を提出します。
その助命嘆願書の内容といいますのが、「この戦争は国と国との戦いであって、決してステッセル将軍が悪いのではない。」
というものだったそうです。
このことがロシア政府にも認められ、死刑から無期懲役に減刑されます。
しかしながら、ステッセル将軍が刑を受けるようになって、
ステッセル将軍の家族は犯罪者の家族ということで国からの援助が一切絶たれ、
生活は日増しに苦しくなっていきます。それを聞いた乃木将軍は、毎年ご自分の給料の一部をさいて、
ステッセル夫人の元へ送金されていたそうです。その後、明治天皇御大葬のおり、
乃木将軍は静子夫人と共に後を追われ殉死されるのですが、そのことを知ったステッセル夫人は、大変深く悲しまれ、
今まで送られ一銭も手を付けなかったお金を差し出し、「これを乃木将軍へお供え下さい。御恩は一生忘れません。」と、
最大級の弔辞を述べられご香典として御霊前に届けられたそうです。
乃木に子どもを殺されたと広言していたおかみの店で、
その悪評を聞きながら黙って茶を飲み、大金を置いていった老人がおり、
あれは乃木さんではなかったかと、後で評判になった。
505 :
名無し三等兵:02/09/09 00:52 ID:OGxM6Gq3
さらにこれは戦争中のことですが、昭和天皇が胸にいだいてをられた「肉親の情」をさらに痛切に思はしめら
る、お話がございますので御伝ヘしておきませう。それは昭和十八年の五月のことでした。太平洋のずつと
北のアリューシャン列島にアッツといふ島がありますが、その島にアメリカの軍隊一万一千が上陸してきます。守
る日本兵は僅かに二千六百、先ほどの硫黄島の時と同じですが、五月十二日に戦がはじまつて、激戦の末、
遂に五月二十九日我が軍は玉砕する。その愈々最後の時、守備隊の山崎部隊長から大本営あてに電報がはひるので
す。それにはこの電報を発信したあと、暗号書は焼却し、すべての無線機も破壊して、最後の夜襲攻撃に
移るといふ内でした。その時の参謀総長は杉山大将でしたが、翌三十日参内して陛下に御報告申し上げた、その時の
ことを杉山大将は次のやうに語つてをられます。「陛下は静かに奏上をお聞きになり、何も御下問はなか
つた。アッツ島部隊の将兵を追悼されてゐる様に拝した」。ところが陛下はそのあと「部隊の将兵は最後までよく
やつた。この事を伝ヘよ」と仰言つたのです。それで大将は「畏れながら、只今奏上いたしました如く、無
線機は既に破壊してしまつてをりますので、お伝へすることはできません」と申し上げた。――ところが陛下は何と
仰せられたか。それは「それでもいいから電報を出してやれ」といふお言葉だつたのです。このことは
昭和天皇崩御のあと出版された『文芸春秋』の特別号「大いなる昭和」の中の、瀬島龍三氏の文章で知つたのです
が、そこで瀬島氏も言つてをられるやうに、まさに我が子の最後を看取つてゐる母親が、すでにこと切れて
しまつて、もうだめだとわかつてゐても、まだ子供の名を呼びつゞける母親のやうなおもひではないか。今度のあの
激しい戦争のたゞ中に、さういふ場面があつたことを私達は決して忘れてはならないと思ふのです。かう
いふ天皇の御存在、そこにこそ何千年と続いた日本の天皇の御本質があると思ふのです。
┌───────────────────────┐
│ 離 氏 テ 木 │
│ シ. ン キ 口 │
│ _,,,,,_ マ デ ノ 小平 │
│ γ__o_| セ モ 弾 ハ │
│ ▽ /」;´Д`)∩ ン. ニ │
│ =$⊂ ( ∴::・ デ ラ 当 │
│● ′ 〉 〉\ \ シ. ツ タ │
│ (__) (__) _,,,,,_ タ パ リ │
│二 γ_o _| ヲ マ │
│テン /(゚Д゚;) シ │
│ / つ≠∩ヨ===┯ タ. │
│ /~'/_,,つ  ̄ ̄ ̄ ガ . │
│ (ミ/' │
└───────────────────────┘
杉野は何処!杉野は居ずや?
| __ ||
|ヽ=v=ノ ||
゚ | (;゚Д゚) ||
\⊂” 。 / ]つю||
(__-、゚/ ゜。 | |
〜 ノノU ゚。 〃||。゚
〜〜〜〜〜〜〜 "〜
「広瀬中佐」 文部省唱歌 (大正元年十二月)
轟く砲音 飛び来る彈丸 荒波洗ふ デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び 「杉野は何處 杉野は居ずや」
508 :
無名兵士:02/09/09 15:09 ID:JiGGe33l
グァムかサイパンでの海軍陸戦隊の話、米軍に上陸されてねゲリラ的な戦法に
なっていた陸戦隊だが、軽機どころか小銃すら5人に一丁というありさま
ある日、決死の切り込み命令が出された。 3人の下士官、兵に出されたのは
米兵の宿舎爆発の命令だつた、爆弾箱ひとつ、小銃一丁の装備だつた、そろりそろりと
米宿舎に近づこうとしたとたん、暗闇から機銃掃射を受ける、しばらくじっとしていたが
又ね移動しようとしたら、機銃掃射をうけてしまい、爆弾を背負った兵士が倒れてしまった
その瞬間轟爆、彼は下半身と頭だけの無残な姿になってしまった。 残りの二人も瀕死の
重症である。 『もうどうにでもなれ!』とおもったふたりは、ハッキリと銃口がみえる距離
にもかかわらず、ひとりは頭、ひとりは下半身をひきづって、米兵の前をとうりすぎた
白人の指揮官がひとり、小銃をもった黒人兵数名と軽機がはっきりとこちらに標準をつけていた
しかし、彼らは撃ってこなかった、よく見ると白人の指揮官がね手をあげて制している
理由はわからないが、撃ってこなかった。 ふたりは生還した。
>502
それコピペだぞ、以前も見た事が有る。
>509
>502の文面を読めば「コピペである」と認識してることは一目瞭然だと思われ
28 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:02/08/30 12:54
戦時中、沖縄でのこと。
叔父さん(当時12歳)は自然の洞穴を利用して作った壕の中にいた。
他の住民、部隊からはぐれた大怪我を負った兵隊たちも隠れていた。
息を潜めていたのだが、どうやら米軍に居場所をみつかったらしい。
「ハヤクデテキナサーイ」と、マイクをつかって投降を促す。
当時、米軍は住民・軍人区別なく虐殺するものと思われていた。
中の住人のほとんどがその時点で死を覚悟していたが、そのうちの一人が
「ずーっと壕のなかにいたから、せめて一目太陽を見てから死にたいサー」
といいだした。
そうしたら他の人も「そうサー」とか「どうせ殺されるならそうしたいサー」とか
言い出した。
米軍に投降するといった時点で、日本軍の軍人は「ふざけるな」といって怒ったり
スパイ扱いして住民を殺したりするものだが(他の壕では実際かなり行われていた。)
そこでは物資の少ない中、できるだけの手厚い看護をした住民と軍人の間で信頼関係ができあがっており
軍人達はあえてとめようとしなかった。
少年だった叔父に、横になりながら地面に文字を書いて漢詩の講義をしてくれた
若い将校は、「俺たちもあとからいくからな、しっかり死んでこい!」といって笑顔で敬礼をした。
叔父も敬礼で返して、覚悟をきめた他の住民たちと外に出た。
外に出た住民達は一箇所に集められて、壕の入り口から離れるようにいわれた。
指示に従うと、すぐさま数人の米兵が火炎放射器で壕内を焼き払った。
もちろん、中に残った人間は誰も助からなかった。
叔父は未だに酒が入ると涙ぐむ。
のうのうと生きていて申し訳ない、と。
53 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:02/08/30 14:19
>37,40
後日談だけどスレ違いなのでsage
叔父さんは戦後何年経ってもその将校のことが忘れられなかった。
沖縄県民を馬鹿にしたりする軍人の多かった中、その将校は違っていた。
乏しい食料なのに子供と妊婦に優先してわけるよう、他の兵隊に指示してくれた。
自分は固い××の実(名前忘れた。とても硬い木の実で、毒ではないけれども普通食用にはされないようなもの)
を齧っては「やけに硬いな。」といってニコニコしていた。
部下が弱音を吐くと「貴様、たるんでいるぞ。ここにいる沖縄臣民を守らないで一体どうする。」と、
明るく叱った。
夜ともなるとわずかな光も差さない全くの闇の中、
遠くに聞こえる銃撃やその合間のおそろしいほどの静寂の中、
誰も発狂しなかったのは、その将校がおられたからこそだろう。
ずっとそう思っていた叔父はどうしても遺族の方に会って、お礼やその最後を伝えたくなった。
経済的に余裕のできた数十年後遺族探しをはじめて、やっと会うことが出来た。
遺族の方は叔父の話に「実に親父らしい。」といって泣きながら笑ったそうだ。
513 :
亀レス:02/09/11 22:02 ID:???
514 :
名無し三等兵:02/09/18 23:09 ID:OBjQWqor
脱兎落ちしそうになっていたのであげておく。
515 :
名無し三等兵:02/09/18 23:14 ID:OBjQWqor
516 :
名無し三等兵:02/09/25 18:17 ID:ynAoZoGs
インドネシアで独立記念日に50年間歌い継がれてきた
「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」の歌詞。
メロディは日本の「軍艦マーチ」!
“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る ← ・゚・(ノД`)・゚・。
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…”
>516
日本に敬意を払ってくれるのはうれしいのだけど、その歌を歌いつつインドネシアと
東チモールの関係を考えると、ちょっと複雑な気分(・_・)
『卿等は辞職さえすれば責任を逃れられるが、朕にはその道が無い』
519 :
名無し三等兵:02/09/28 18:52 ID:rySxPmBX
20年前、浜松で墜落したブルーインパルスのことでこんな話を聞いた。
下方空中開花で降下に入る前からその機体には異常が発生したらしい。
降下に入って、淡々と操縦不能を伝える搭乗員。
僚機の搭乗員達は、引き起こしながら敬礼を送ることしか出来なかった、という。
520 :
名無し三等兵:02/10/01 10:50 ID:bxsTyi9i
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
521 :
:02/10/01 11:19 ID:/+7OGdhw
とりあえず北海道まもった占守島守備隊は、とんでもないことしてくれた!
地獄に逝っとけ。
>>520 ほえ〜、そんなお話もあるんですな(涙)
よろしければ出典を御教授願います∠(`∧´)
>>521 占守島守備隊が何をしたのだ?
上陸してきた赤軍を撃退したことしか知らん。
ていうか死者に鞭打つような真似は(以下略
524 :
世が世なら彼らも・・・・:02/10/02 14:05 ID:AuMEx4U1
占守島守備隊はおそらく帝国陸軍で唯一まともな戦車決戦してるが何か?
それが何って意見もあるけどさ
>525
マレー戦に投入された戦車隊は無視ですか?(涙
527 :
名無し三等兵:02/10/02 19:13 ID:fPuG+kvD
2ちゃんねらーごときが感動などとほざくなよw
529 :
名無し三等兵:02/10/02 20:37 ID:tdpkw30Y
先日、元自衛官と、酒を飲むことがあった。
「私は、正直に言って、サラリーマン自衛官でした。
国のため、というより、倒産のない就職だったんです。
けどね、最低でも、妻や子供、故郷を守ろうとする気概はあったつもりです。
退官して、一般企業に就職しましたが、
みんな自分のことばかり、妻や子供でさえ、他人なんですね。
守るものがないんですよ、それでいいんですか?」
酔いつぶれる寸前の言葉ではあるが、酔っ払いの言葉と聞き逃せず、
彼がタクシーで帰ったあと、もう一軒、キツい酒を飲みに行った・・・。
ネタはないが、色んな人に読んでもらいたいage
531 :
名無し三等兵:02/10/03 14:22 ID:foVDFgBw
>306 >307
>>農夫「こんちかくにあん人の家ばあるとよ、最後の別ればしちょると」
>これって、「こんちかくにあん人の家のあっとよ、最後の別ればしちょると」
原本は知らんが、前述の記述の方が、博多弁らしいように思える。
その当時のしゃべりがどうかまではしらんので、断定はできんが。
私の家族(親戚)には戦争にいった人がいなく、唯一、かみさんの実家に
一人陸軍に所属して、中国へ出兵したおじがいる。
おじは肺がんで、先は長くない。そのまえに、そのころの話を聞いておきたい
のだが、おじはとっても寡黙な人なうえ、話の接点がなく、聞けないでおります。
ここで涙を流す人達なら、私の気持ちはわかってもらえるかな。
532 :
:02/10/04 06:22 ID:???
>>500 貴殿みたいな謙虚な方が、一人でも多く増えますように。
保守
hoshu-
536 :
神聖な靖国神社を護れ!:02/10/14 22:49 ID:Guz/lbz0
>>531 「ば」の使いかたが間違っている。
よく知りもせん方言のことを印象で語るな、ボケ。
538 :
:02/10/15 21:58 ID:Tl+nqt/4
いつぞや、台湾の高地民族・高砂族の、例の高砂義勇隊の生き残りのじーさんの
トコにプロ市民が出かけて行って、「あなたたちは日本政府に「恩給」を要求すべきだ」
と焚き付けるドキュメンタリーが放送されていた。
そのじーさん、当時の帝国陸軍から貰った勲章を宝物として、素朴に旧帝国軍だった
事を誇りにしてるような素朴な人だったんだけど、プロ市民のある事無い事無いような嘘
(日本政府があなたたちに恩給を支給しないのは土人扱いしてサベツしているからだ云々)に
よって、日本政府を憎むように煽って仕向けていた。
そのプロ市民本人はマジで「善意」でやっているのかも知れないが、最後にそのじーさんが
「こんな勲章なんか何にもならない!俺たちは騙されていたのか」と、吐き捨てるように言った
のを見てほくそ笑んでいるプロ市民の顔を見ると本気で殺意が沸いた。
じーさん方は素朴に生きてきた、旧帝国軍に属していた事を誇りに思ってきたのに、その良き
思い出を「嘘偽り」によって破壊し、日本人を憎むように「仕向ける」・・・。
この国の為にも、そして、大東亜戦争への参加をよき思い出としてくれているアジアの友人達の
為にも、やつらの日本国外での反日活動をこれ以上野放しにしてはいけない。
539 :
名無し三等兵:02/10/15 22:01 ID:Wfr62ZT3
>>538 どうでもいいけど
そのドキュメンタリー、どういう意図で撮ってンの?
540 :
名無し三等兵:02/10/15 22:07 ID:ieG4KGEw
>>539 台湾の帰属問題に関して
ひとつの中国を浸透させる為の作戦(w
>538
おいおい、「じーさん方は素朴に生きてきた」のをいいことに、日本政府が恩給
も払わずにほっぽりだしたのは、誰がどう言い訳しようが事実だろうが。
なんでもアカ連中のせいにすりゃいい、ってもんじゃない。
おまえの言い分は、要するに「黙ってりゃいいのに、寝た子をわざわざ起こし
やがって」以上のものじゃないぞ。
542 :
541:02/10/15 23:33 ID:???
538のいう番組は見てないんで、内容にはコメントできない。実見していれば同じ
ように不快感を禁じ得ない内容だったのかもしれないとは思う。
また、戦後、他国(それも旧敵国)人となったということもあるから、恩給問題が
一筋縄で片付くような問題でなく、下手を打てば彼等自身が迫害されかねない微妙
な問題すらはらんでいるんだろうとは思う。
ただ、だからといって、戦中に日本軍の一員として戦った人に報いるものが、昔の
勲章と思い出だけ、というのも、あまりにも空虚な話ではないだろうか。
一方では、「ダメ将軍」スレを賑わしているような連中が、戦後ものうのうとして
いたというのに…。
(まあ、感傷論で語れる話ではないし、スレ違いなんで、ここでは差控えたい。)
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/today.html#001 【「再会」願い続け…拉致「死亡」増元るみ子さんの父逝く 】
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に一九七八年八月、鹿児島県吹上町の吹上浜海岸で拉致され、
北朝鮮で死亡したとされる鹿児島市の会社員増元るみ子さん=当時(24)=の父
増元正一(ますもと・しょういち)さんが十七日午前一時四十六分、肺がんのため鹿児島市内の病院で
死去した。七十九歳だった。
事件から二十四年、娘の生存を信じ「ひと目でいいから、るみ子に会いたい。この手で抱きしめたい」
と話していたが、再会はかなわなかった。
正一さんは一九九七年から鹿児島市内で拉致疑惑の解明を求める街頭署名活動を行うなど、
るみ子さんの救出を願い続けたが、今年三月に体調を崩し、八月下旬から入院していた。
るみ子さんの兄信一さん(51)によると、病室でもテレビのニュースを気にし、死亡が確認されたと
報じられたときも、妻信子さん(74)と「るみ子は死んどらん」と励まし合ったという。
十六日夜は、一時帰国を果たした被害者五人との面会を済ませて東京から駆け付けた、るみ子さんの
弟照明さん(47)や姉平野フミ子さん(52)ら家族が病室で見守った。息を引き取る直前には、
るみ子さんの写真を収めたデジタルカメラのモニターを正一さんの枕元に置き「るみ子もいるよ」と
呼びかけたという。
信一さんは「るみ子は生きている。天国では捜さないで、と話したら、うなずいたようだった。
意識がなくなってから六日間も頑張ったのは、最後までるみ子の帰りを待っていたからだろう」と話した。
544 :
名無し三等兵:02/10/17 22:01 ID:iNe5DUuR
世界は面白い方へ向かってる。
日露戦争の戦傷兵のうち、両手を失った物は、たばこも吸えないので、何とかならないかと、軍医らと研究し、画期的な義手を発明した。
価格は当時1個50円と、極めて高価であったが、乃木大将は、これを自費で作らせ、戦傷兵を巡って一人一人手渡したと言う。
乃木大将の遺産が僅か1000円と極めて少ないのは、この義手の購入に相当額をかけたものとされている。
保守
【亜細亜の撃墜王】林眞彪
陸士の竜(瀬島龍三)虎と称された優秀生徒であったが陸軍大学へは進ま(め)なかった。
技量甲の搭乗士官として蘭印仏印を転戦、昭和19年からは北部九州の防空戦闘に従事、
大東亜戦争を通し単戦(2式戦→3式戦→5式戦)で戦い抜き総撃墜数は47機。
B29の撃墜数5機は将校としては歴代2位であり、被弾撃墜され生還した回数は
不時着陸2回・落下傘降下3回の計5回歴代1位である。この事で某参謀から差別発言を含む
糾弾が起きたが、軍内部の良識派は林擁護派が大多数を占めており揉消された。
終戦後帰省、中華民国士官として対共産党戦に参加、中共軍機56機撃墜を記録し
「飛虎将軍」と称えられた。蒋介石と共に台湾へ脱出後中華民国空軍指令長となった。
個人としての総撃墜数は103機、撃墜した相手国は蘭仏英豪米加中蘇と多岐に渡る。
学校長就任後は、生徒達に乞われ「空の超要塞」の落とし方を微細に語り
「私の戦果と日本人であったことは美国には軍機密」と笑って締める名物校長であった。
ぐぐってもまったくヒットしないのですが、実在の人物でしょうか。
中華民国空軍林真彪大校と日本陸軍中佐林田真太郎の記録は別物として切り離して考えたほうがいいよ。
国共戦闘に参加してからの撃墜56機(64とする本もある)の内訳は殆ど輸送機か偵察・連絡機、
対戦闘機戦闘や護衛戦闘機付の爆撃機迎撃も殆ど無かったはずです。
連合軍相手の47機撃墜(陸軍は海軍ほど下駄は履かせてない)の方が堂々と誇れると思うのだが、如何?
林真虎は貸与P−51に乗って射的の的状態の旧式ソヴィエト製飛行機撃ち。
「マリアナの七面鳥撃ち」よりも楽して数かせぎ、さすが元陸軍(藁
世界的にもNisizawaやSakaiの方が評価されているよ。
551 :
名無し三等兵:02/10/28 23:02 ID:7L+FIW6s
552 :
☆:02/10/28 23:03 ID:w8NDNLPs
553 :
疾風:02/10/28 23:08 ID:???
>549
禿同、前半の素晴らしい記録(47機確実)を
後半の大量水増し(56機不確か)で泥まみれにした感があるね。
「世界エース列伝」も中国・韓国・台湾編ないから出てないし(w
光文社の本読むまで知らなかったよ、台湾じゃ有名?
554 :
名無し三等兵:02/10/28 23:18 ID:1oyU+Lwl
まあ、彼らの信念にかけて戦ったことは事実だし、
中華民国空軍としてのスコアも認めてやっとけ。
(蒋介石の信念? 銭か? という突っ込みは却下)
でもそれで日本人より多く落としたと威張られるのは「泣ける話」だ。
自己の存在意義や命を捧げる「祖国」について
悩みながら大空を戦い抜いた青年士官の心を考えると
「泣ける」
某国の元海兵隊員が、
「特攻隊パイロットの大半は朝鮮人だった」
と力説、決して自説を曲げようとしないのも泣ける話だったが・・・・
終戦時生存していた陸軍飛行将校の中で一番連合軍航空機を落とした搭乗員は
戦後日本人ではなくなったという悲しい事実。
● 金貞烈(初代大韓民国空軍参謀総長)
開戦時、飛行第64戦隊の士官であり、加藤戦隊長の右腕と言われた。
3式戦闘機飛燕のパイロットとして戦い抜き越南で終戦を迎えた。
終戦時の飛行時間は日本歴代第2位、総撃墜数59機(共同含む)
韓国軍誕生と共に帰国入隊、参謀総長として韓国近代空軍の土台を築いた。
別に何人でもいいよ。いちばん落としたのはドイツ人だから。
muhahaha
561 :
426:02/10/29 08:31 ID:???
>513
これまた亀れすだが、ありがとう。
>559 色々限定すると誰でも「一番」になれるよー。
563 :
名無し三等兵:02/10/30 22:52 ID:z//VrABs
>>559 帝国陸軍のエースパイロットが戦後韓国人になったって?
つまり、わが国を守るために必死になった韓国人がいたって
ことじゃないか。
いい話じゃん。
そして彼に感謝を。
↑感謝。
しかし、色々な思惑や規制があるのだろうが
金子貞一や宋瑛男や林真太郎らの撃墜記録を
削除(無視)してる書籍(日本のエース云々)
発行者の心根が悲しい、てか本当に寂しい。
>553
その光文社の書籍のタイトルを教えていただけないでしょうか。
hoshu
何もこのスレに貼らんでも・・・・・
569 :
名無し三等兵:02/11/06 21:08 ID:/PiUBIbf
早っ! パトロールの人ですか?
570 :
名無し三等兵 :02/11/06 21:23 ID:y08R9vQw
米軍にテロをでっちあげられて殺された無実の人たちには
泣ける。。。
>>541 遅レスだが、それは中華民国が恩給及び貯金の精算をつい最近まで
拒否していた為にそうなった筈なんだが。
台湾放棄の問題はかなり微妙な問題を含んでいるのは事実だが、
かといって日本政府を責め立てるだけでは解決しない事も忘れて
はならないと思うが。
このスレは落としちゃいけない。
保守します。
保守。
保守
575 :
名無し三等兵:02/11/15 14:23 ID:yWhC3zgl
関 行男
昭和19年10月25日 出撃、米空母セント・ローに体当り、散華(享年23歳)
戦後、ご母堂サカエさんは日々の生活にも困窮し草餅を作って売り歩いたが、
昨日までサカエさんを「軍神の母」と神様扱いした人々は冷たかった。
その後中学校の用務員となったが、昭和28年「せめて行男の墓を…」との
遺言を残し、用務員室でその生涯を淋しく閉じた。ここに関家は断絶した。
戦後の世相は、祖国を護るために散華した軍神の墓を建てることさえも許さ
なかったのである。
・・・これが日本人の本性か?煽るだけ煽って、利用できなくなったら見捨てるのか?
戦後の混乱期とはいえ悲しすぎる。
その時の社会党は戦犯の名誉回復の為に戦っておったんじゃよ〜
577 :
名無し三等兵:02/11/16 19:02 ID:g4z4RJjU
唐揚げしてる香具師ら、保守はsageで十分だ。
579 :
541:02/11/16 22:25 ID:???
>571
そうですか?恩給法の「国籍条項」が最大の原因だと思いますが。
実際、十年ほど前の裁判でも、「国籍条項は合憲である」として台湾人の補償
請求を棄却しています。
意図的に煽っている連中は不快だけれども、だからといって放置するのがいい
とは思えないですね。
(恩給法)
第9条 年金タル恩給ヲ受クルノ権利ヲ有スル者左ノ各号ノ一ニ該当スルトキ
ハ其ノ権利消滅ス
1.死亡シタルトキ
2.死刑又ハ無期若ハ3年ヲ超ユル懲役若ハ禁錮ノ刑ニ処セラレタルトキ
3.国籍ヲ失ヒタルトキ
sage
保守age
友達は電話の交換をやったらすこしは眠気もさめるかもしれないし、夜はあまり仕事も多くないから、やってごらんよといってくれました。
ぱあっと赤いランプがつくとその同じ色のランプの課へつなぎます。話の内容は聞けませんが、おわるとまたランプがつくので簡単でした。いくらか気分も変わりつかれや眠気も忘れたようでした。
と、突然外部からの連絡です。男の人の声で一人の声ではありません。「変な連絡よ」私はすぐ友だちにかわってもらいました。普通は話は交換では聞かないのですが、友だちはどこへもつながずに、だまって聞いています。
そして私に早くそばへきて聞いてという合図をします。私は何かさっぱりわからないままに耳にその声を受けてみました。
どこからかしら、なぜかしら、と不審顔で、でも聞こえてくる声は非常に若々しく元気な声です。しかも何人かの声です。
「聞いてください。聞いてください。
ぼくたちの最後の声を、聞いてください。
だれか知りませんが、聞いてください。
ぼくたちのわかれのことばを
祖国よさらば、元気にいきます。
ぼくたちは明日の朝、敵艦に体当りします。
ぼくたちは進んでこの任務を果します。
ぼくたちは国のためよろこんでいきます。
あすの朝、敵艦に体当りしたラジオでも聞いたら、ばんざいといってください。」
口々にそう云って、最後にみんなで歌をうたってくれました。
それは当時はやっていた歌だったと思います。
“さらば元気でいてくれよ
ながの別れが明日となる
恋の豊橋 あとにして
ゆめは 爆音に
ああ 消えてゆく”
そして「さらば さらば さらば」と口々にいい、「がんばってくださいね。最後の声を聞いてくださってありがとう。」
もうそれっきり再び何も聞えてはきませんでした。
友だちと二人で聞いていたその声は何と元気な声だったでしょう。少しの悲しさも、さびしさも感じられませんでした。
それなのに友だちと私は涙をぽろぽろ流しながら「さよなら」と唯それだけしかいえませんでした。
583 :
名無し三等兵:02/11/24 00:42 ID:HlRi55Bg
このスレを全部読みましたけど、泣けると言うより物凄く鬱に成る....
戦争の話で鬱になるのは
とても真っ直ぐな心を持っている証拠だ。
その心をいつまでも失わないで。
585 :
名無し三等兵:02/11/24 16:40 ID:AAjF9OEJ
>>559 バカ言うなよ。
戦後参謀総長になった奴ならいるが、そんな名前の撃墜王はいねえぞ。
ほしゅ
587 :
名無し三等兵:02/11/26 13:50 ID:pM4KxJA3
今日は有給休暇で家に居るんでヒマだから徹子の部屋を見ているんだけど、これを見ていてふと昔の事を思い出したよ。
今を去る事20年ほど前、小学生の俺は熱を出して家で休んでいたんだけど、その時も徹子の部屋を見ていたんだけど、
その時のゲストの俳優に玉葱オババが父親の話を振ったんだよね。
その俳優、父は戦時中は水上機の設計を・・・・と言ったんだけど、その話を最後まで聞かずに玉葱オババ、
戦争中は随分"楽"をしたんですねと言ったんですよ。
当時の俺って、別に先生の言う事を何ら疑う事を知らなかったし、朝日子供新聞を読んでいたぐらいだから、
無邪気にそうだ!そうだ!と感じたんだけど、今思えば顔色一つ変えずに人を晒し上げた玉葱オババって
恐ろしいと思うし、それに同調していた俺も恥ずかしいと思う。
その俳優が誰だったか今も分からないけど、よく我慢したなって思います。
ほしゅ
age
590 :
新潟県人:02/12/01 20:24 ID:GGgidKpA
>591
良い物を教えて頂き、有難うございました。
知覧や鹿屋やその他へ是非一度ゆっくり時間をかけて詣でたいと
改めて決意しなおした所存です。
593 :
名無し三等兵:02/12/02 23:03 ID:Qy4w6D5I
おまえ等今すぐNHKを見てください。。
>593
教育でしょ。間違えて総合つけちゃったよ
595 :
名無し三等兵:02/12/03 12:17 ID:UY2q0b8T
スレ違いで申し訳ないんですが・・・
>>591 を保存したいんですが、どうやったらいいのですか?
597 :
名無し三等兵:02/12/03 12:34 ID:OoK7iaLo
>596
窓使いなら右クリック→対象をファイルに保存。
マカーだったら誰か他の人に聞いとくれ。
>>597 それができないんっす。(泣
パソがオカシイのかな。
スレ違いスマソ。他行って聞いてきまふ。
航空関係(特に防空戦とか)で泣ける話ってないすか?
602 :
名無し三等兵:02/12/04 23:57 ID:fQzhM9+c
>>591 当方マカーなのですが、再生しようとしても真っ白で
なにも出てきません。
環境はMacOS8.6+IE5.0+Flashプラグイン6.0 r47です。
他のマカーの方で再生できている方いらっしゃいますか?
件の自由主義者少尉殿の遺書、芸大生の遺書やら絵やら、知ってるつもりみたいな話はなあ・・・。
そういう人もいたと言う事で。
開戦記念日ですね、英霊に黙祷いたします。
保守
606 :
新潟県民:02/12/12 03:27 ID:IbZQO7L4
あい速攻で消えました(泣
あれ、まだ残ってますけど…。
すいません、本当に消えてますね…。
610 :
名無し三等兵:02/12/15 06:17 ID:Gy2qn5Z2
所感、せつないな…違う意味で。
こういう人ばかりだったら泣ける話は少なかっただろうな。
でもご苦労様、ありがとうございました。と言わせていただきます。
>609
あるぞ。
>>609 DLしてから見て味噌。見れるぞよ。
それにしてもこんな知性の持ち主まで誘導爆弾の制御装置として使い潰さねばならんかったなんて
愚劣な話しだ。
>>612 誘導爆弾の制御装置云々はどうだろうね。
エリートの特攻隊員だってやまほどいて、自分が死ぬことで日本の講和条件が少しでも良くなってくれれば、
未来の子孫のために、って死んでくれた人もイパーイいるんだから。
特攻隊の散華を無意味なものにすることこそ失礼なことかもしれませんよ。
非常にもったいないこととはおもいますが。
「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいったことも確かです」
特攻隊のパイロットは誘導爆弾の制御装置だった。
これはまぎれもない事実。
その残酷な真実を受け止めることから
彼らの自己犠牲の尊さの理解が始まる。
散華などと美しく飾ってはいけない。
>613
>誘導爆弾の制御装置云々
どこかの部隊の参謀が、戦後書いた特攻隊の回想記のような本(光人社文庫に
なっていた。書名、著者名は不快なので記憶しなかったが。)の中に、「ミサ
イル」という節をわざわざ建てて、
「要するにミサイルというのは、特攻と同じなのだ。単に有人か無人かの違い
だけだ」
という趣旨の事を堂々とかいていた。
ようするに当時のスタッフ連中の頭の中では、搭乗員なんてのは当時も使い捨
ての「誘導爆弾の制御装置」でしかなかったし、戦後もそうとしか考えてなか
ったんだろう。
616 :
592:02/12/28 11:35 ID:???
>614
>その残酷な真実を受け止めることから
>彼らの自己犠牲の尊さの理解が始まる。
>散華などと美しく飾ってはいけない。
我ガ意ヲ得タリ
>615
不愉快だろうが書名著者名を思い出してくれ。
俺も読んでみて、くそったれの頭の中を覗いてみたい。
まぁ、別の意味で泣ける話だ罠。<特攻と同じなのだ
漏れの爺さんは陸軍パイロットだった。
一式戦にずっと乗っており、いちおうベテランだったせいか何なのか、特攻隊に回されることはなかった。
が、戦争は突如終結。
爺さんたちの部隊は自決しようという話になった。
しかし、爺さんは結婚したばかりだった。
何でも戦時下だというのに、いちおう士官だったためにカーキ色の車が花嫁のすむ町に何両も現れ、そこそこできる範囲で盛大な式を挙げたらしい。
そこで、爺さんだけは「お前は逃げろ」との話になり、助かった(祖母・談)
戦後はふつうのサラリーマンになり、そのまま基地のあった近くに居をかまえて家を営んでいた。
残念なのは、軍刀や拳銃は提出したというのはいいのだが、当時の写真や日記を証拠になるのをおそれて焼いてしまったことですか。
>>615 俺もそのクソ野郎の名前をきぼん。
どんな馬鹿だかこの目で確かめてやりたい。
619 :
名無し三等兵:03/01/04 00:00 ID:U4jlLu3x
298 名前:聞いた話 投稿日:02/12/31 01:00 ID:6SUejUpe
私は戦時の中、幼少時代をすごしました。
物心ついたときには母親はおらず、父は兵隊に取られ
祖父と2人田舎で暮らしていました。
家のすぐ脇には河が流れており、200mほど河を下ったところには
捕らえられた米兵を収容している建物がありました。
とある日のこと、私が芋を河で洗っていると誤って
手を放してしまいその芋を河に流してしまいました。
その芋はたまたま下流で水浴びをしていた米兵達によって
拾われました。
米兵は自分達に向かって流してくれたものだと思い
喜んで私に手を振って芋を持って帰りました。
きっとひどい扱いを受けていたのでしょう。
299 名前:聞いた話 投稿日:02/12/31 01:01 ID:6SUejUpe
それから私は定期的に川下にいる米兵達に回りには
分からないように、野菜を河に流して渡すようになりました。
やがて戦果も悪化して日本軍が不利な状況になるにつれて
食糧事情は厳しいものとなりました。
もともと私と祖父の2人暮らしだったため食料で困ることは
ありませんでしたが、米兵達に食料を分け与えることは
出来なくなりました。
申し訳ない気持ちになりながらもいつも食料を流している
時間私はいつものように川岸まで行きました。
いつものように200m川下では米兵達が待っています。
近づくのは禁止されていたため当然話をすることも出来ません。
ジェスチャーで分け与える食料が無いことを伝えようと、
手を大きく振ってバツマークを作って食料が無いことを伝えます。
しかし上手く伝わらず米兵達は手を振り帰してきます。
そんな私が流す食料を楽しみにしている米兵に
何もして上げられない無力な自分に腹がたち河の水を
蹴り上げると米兵も同じように真似をします。
今度は河の中で飛び上がってみるとやはり米兵達は
私の真似をします。
何とかしてあげたい。そう思いました。
私は自分の家の畑から祖父の目を盗み少しですが
スイカやかぼちゃを取り今までと同じように河に流して
米兵に渡しました。
301 名前:聞いた話 投稿日:02/12/31 01:03 ID:6SUejUpe
しかし数日後スイカを取っているところを祖父に見つかり
理由を聞かれました。
私は正直にこれまでのいきさつを話しました。
すると祖父はこう言いました。
「なるほど。お前は非国民だが非人間ではないな。」
そう言うとそれ以降畑から取った野菜を河に流して
米兵に渡すことを許してくれました。
やがて終戦を迎えたある日のこと、家の上空を数機の
戦闘機が飛来してきました。
米兵を収容していた建物があったためひどい扱いを
受けていた米兵が仕返しに空襲に来たに違いない。
祖父はそう言いました。
しかし私はそんなこと無いよ。そんなこと無いよ。
と言いました。
あの米兵たちがそんなことをするとは思えなかったのです。
やがて戦闘機からたくさんの金色や銀色の小石くらいの
大きさの物が振ってきました。
爆弾だ!
祖父は言いました。
しかし何も爆発しません。
空から振ってきたものは金銀色の紙に包まれた
チョコレートでした。
なおもチョコが降り続きました。
星のように。
体と何も関係ない話で恐縮です。
聞いたのが結構前のことなので上手く伝えられず申し訳ないです。
WWU当時は煙草やチョコが凄い貴重品で、ノンフィクション小説の
「急降下爆撃機」でも、ドイツ空軍のパイロットが陸軍に一寸した勝利の
お祝いに、手紙とチョコを投下筒に入れて届けたって書いて有った。
幾ら物資が多かったアメリカと言えど、一パイロットがチョコを集め
飛行機まで調達して民間に送り届けるなんてのは、矢張り大変な苦労だった
事だろうに。
粋な話だ。
626 :
名無し三等兵:03/01/11 02:01 ID:UMnAp7/c
私の趣味事のお師匠様のはなしです。
大学生の頃同級生にいつもビンボで腹すかしていた
ベトナム人留学生がいたそうな。
面倒見のいいお師匠様はなんどか自宅に食事に呼んだり
してあげたそうな。
時は移りベトナム戦争が後半戦に入った頃
お師匠様は米軍の軍属として駐屯地で働いていた。
あるときお師匠様はボスにベトナムの基地に一月
出張を命ぜられた。
後方のキャンプでボーナスもはずんでもらったので
のんびりと仕事ができたそうな。
で、オフの日一緒にきた軍属仲間と近所の川に釣りで
でた。釣果はたいしたことはなかったが
戦争中とは思えないのんびりしたところだったので
そのままつい昼寝をしてしまった。
すると草むらがガサガサいうのでヤバイと思ったが
時既に遅く、ベトコンに周りを囲まれてしまい
そのまま連行されてしまった。
627 :
名無し三等兵:03/01/11 02:07 ID:UMnAp7/c
そしてベトコンの指揮官の元に連れ出されて尋問が始まった。
しかし質問が妙なのだ
「おまえは日本人か?」 yes
「名前はxxか?」 yes (なんで知ってんの??)
「お前はXX市の出身か?」 yes (なんで知ってんの??)
「X大の卒業生か?」 yes (なんで知ってんの??)
「同級生にベトナム人はいたか?」 yes (なんで知ってんの??)
はっとなって正面を向きなおすと
そこにはあの「ビンボな留学生」がたっていた。
「お久しぶりです。ご母堂様はご健在ですか?あのときのご飯はおいしゅうございました」
そして彼は状況を簡単に説明してくれた。
今すぐにでも開放してあげたいが大きな作戦を控えているので
暫くは部隊に同行してもらう。戻りたい場所の希望はあるか?
「ユエ」と答えると、
「そこはもうすぐ陥落します。べつの街にしましょう」
と言われた。そのときはこの大法螺吹きと思ったそうな。
10日ほどたった日、目隠しをされて車に乗せられ
とある米軍キャンプ近くで開放された。
そして彼は大法螺吹きでないことを知った。
628 :
山崎渉:03/01/13 04:10 ID:???
(^^)
629 :
山崎渉:03/01/13 05:35 ID:???
(^^)
首相が靖国参拝を無事すませたようで。何よりです。
「有難う。」と伝えたいけどややこしい場所にカキコはしたくないのでここに。
TVのニュースを見ていると、とある方のコメントが「残念です」と。
其れを見ていた親が、「何が残念やねん!」と悪態をつく。
更に否定派のコメントが続く。
親は、「戦争がどんなもんか知らんからや!」
更に「ああ云う事言う人は、死んでもらわなしゃーないな。」
最後に遺族会関連の人が安心したと云う意味の言葉を話す。
親、無言でうつむく。俺は其の場に居辛く成り、自室へ移動したよ。
しばらくして仏壇の部屋から「チーン」と云う音が響いてきた。
戦争指導者と、1兵卒の立場の違いもわからず、
三文小説書いてる630がキモい。
632 :
:03/01/15 00:29 ID:/Oanlsqm
>>631 勘違いするな
キモイんじゃなくて痛いんだ
泣かない人間を非難する前に、自らの涙に恥じぬ振る舞いをせよ。
↑
意味わかってるのかねぇ?
普通に
>>631-633の言ってる意味が分からんのだが。
あ、漏れは630ではないですけど。
何が戦争指導者と、一兵卒の立場の違いなの?
>>636 わからないとしたら、たんに、あたまがわるいだけだとおもいます。
じぶんなりのかんがえがあるのに、とぼけてるとしたら、
せいかくがわるいだけだとおもいます。
>630
ageで書くなんてあほじゃない?
>>630 首相が靖国参拝を無事すませたようで。何よりです。
「有難う。」と伝えたいけどややこしい場所にカキコはしたくないのでこ
こに。
そんな理由でこの良スレをageで汚せるあなたの頭の中がわかりません
激しくスレ違い。
とどのつまり、そろそろネタ切れか?
ほろりとできるのでもいいから書きこめや! 631〜640(ワラ)
明日は神戸の震災の日でしたね。
お亡くなりになった方に。
被害を最小限にとどめようとして奮闘した消防・警察・自衛隊の方に。
全国から駆け付けたボランティアの方に。
敬礼!
642 :
名無し三等兵:03/01/17 20:29 ID:Oi6j/npG
>641
被災者のひとりとして改めて感謝!
夕方、自衛隊の車両が避難していた中学校に到着した時は
避難者全員が「あぁ、これでもう大丈夫」と思いました。
あの時の隊員さん「もっと早く来たかったんですが…」
涙ぐまれましたが気にされなくてもいいんですよ、来て貰っただけで
十分でしたから。
DEで横須賀からいったよ。缶飯配った。
「所感」拝見したいんでけどみれないでつ。
がリア戦記は見れたんだけどな・・・。
645 :
644:03/01/17 21:39 ID:???
名前大間違い。場を荒らして申し訳ありません。
>641
校庭で手術可能な施設を展開させてくれと頼んだら「人殺しの自衛隊は帰れ!」
と脳の芯まで真っ赤な教師に追い返されたという、別の意味で泣ける話もあった
らしいですなぁ…
ともかく、犠牲者の方々に黙祷&ボランティアその他の支援者の方々に敬礼。
647 :
山崎渉:03/01/22 11:27 ID:???
(^^;
フォッシュ
649 :
名無し三等兵:03/01/24 23:52 ID:WAcwVKQa
聞いた話なんだが、
うちの親父の若かった頃、冬に街に出た帰りに、
ポツンと焼き芋を売っている爺さんがいたんだと。
まあ、人通りも多かったんだが、皆がその爺さんの前を素通りしていくわけだ。
折りしも寒風が厳しい季節、寒そうに体をゆすりながら、目の前を通りすぎていく客を眺めていたらしいんだが。
で、うちの親父は同情心から「芋の一つも買ってやるか」と爺さんの焼き芋屋台に行き、
「一つくれ」と言ったんだ。爺さんは嬉しそうな顔をして、早速芋の選別を始めた。
で、その作業途中でうちの親父は気付いたんだ、
「この爺さん、隻腕だ」ってね。勿論、そんなこと口にしやしないが、当時、ときたま見かけたらしいんだ。
傷痍軍人って奴を。まあ、その爺さんが傷痍軍人かはわからない。事故で失っただけかも知れない。
そんなことを考えているうちに爺さんが、
「今日は寒いから、おじさんがおまけしてやろう」っていって、芋を二つくれたんだ。
親父は喜ぶと同時に少し、悪い気がしてね。
「いいよ、一つぶんのお金しか持ってないし」って断った。でも、
「何言ってるんだ。別に二つぶんの金なんかとりゃせん。持っていきな。」って怒鳴られて、渋々貰い受けた。
おじさんに親父はすっかり押し切られて、まあ二つもらうことになった。
んで、金を払って、ほかほかの焼き芋を受け取って、
「ありがとう」って一言言うと親父は店を後にした。
爺さんは最後までにこにこして、「あったかいうちに食えよ」なんてこと言ったりして・・・
恐らく爺さんは、年齢的に戦争に行ったことには違いない。
戦争から帰ってきて、どうして今の職業になったかなんてのは知る由も無いけど、
ああやって色んな職について、戦後の復興に一役も二役もかってきた爺さんや婆さんたちには、
感謝しても仕切れないとオモタ。
板違いだったかも、スマソ
去年の8月、NHKでやってた戦争特集で見たんですが、
沈没する船から赤ちゃんを抱いて海に飛び込んだお母さんがいらして、
必死で泳いでなんとか船から離れ、ふと気が付くと、
腕に抱いていたはずの赤ちゃんが居なかったという話がありました。
彼女の、その時の絶望を思うと涙が止まりませんでした。
腕を放してしまった自分を彼女はどれだけ責めたか、
私が思う以上に深い後悔と自責の念であったと思います。
愛しいお子さんの死に涙を見せることも憚られたお母様達がいらした、
その事を思うと辛く悲しくなります。
私には結婚もしていなけば子供居ないけれど、
出来れば私が変わりに死ぬから、どうか子供だけは連れていかないで欲しいと思う。
ああ、スレ違いっぽい話になってしまってすいません…
652 :
名無し三等兵:03/01/28 15:24 ID:99Ersre1
断固、保守。
2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。
3章か・・ 懐かしいなぁ・・
655 :
名無し三等兵:03/02/05 02:43 ID:hPk11PH7
ちょと前の話でスマソ。
突発OFF板「きりしま」応援オフスレより転載でつ。
前半だけにしようと思ったけど、一応全文コピペ。
じ〜んときますた。
901 名前:GONG00 メェル:sage 投稿日:03/01/03 21:51 ID:qGqfmcRJ
本日、呉の護衛艦「さみだれ」、補給艦「とわだ」無事帰還しました。
そして信号旗の「UW3」(お帰りなさい)を掲揚してのお出迎えを実施してきました。
返答はもちろんありまして、発光信号による「anthr」(了解したの意)と、マイクにより
「右舷、陸より旗りゅう信号『UW3』を掲揚している者がいる。総員帽振れ!!」
「お出迎え、ありがとうございます!!」とのお言葉まで頂きました。(^_^)v
その後、2隻は一端呉港沖に停泊。13:00予定で接岸しましたが、地元反戦平和団体が、帰港阻止
運動を展開。近くにいた一般人は呆れた表情で眺めてました。
ひとまず、「きりしま」を含めた現在インド洋に展開している艦隊とPKOで活動している無事任務完遂と
帰還を祈るものであります。
657 :
名無し三等兵:03/02/08 06:54 ID:+L6yT51l
このスレの2or3にバレンタイン戦車にまつわる話があったと思うのですが探しても見当たらないのです
消えちゃったのでしょうか?
もしまだあったらURLキボンヌ
658 :
名無し三等兵:03/02/08 06:56 ID:PeDeDL0f
戦地に行っている間に、女房が他の男と・・・(泣
659 :
名無し三等兵:03/02/08 16:04 ID:lvUfEJB+
>>658それはそれで泣けるな(つД`)
がんばれ
661 :
名無し三等兵:03/02/08 20:34 ID:B+VRvm3S
本日、東京大学病院を退院される天皇陛下のお見送りをしてきました。
100人近くの老若男女+SPらが東大病院前に集っていたでしょうか。
お車が通り過ぎる時、若い方が「天皇陛下、万歳!」と叫んで両手を振り上げていました。私はと
りあえず拍手しながらお見送りしました。
薬学部、医学部図書館の向い側の付属病院の車両出入り口から2台の白バイに先導された3ー4両の黒塗り
セダンのまん中の車の後部に天皇皇后両陛下が
座乗しておられました。
待ち受ける見送りの人々の中には実験の手を休めて様子を見に来た東大院生か
研究者とおぼしき若いひとたちや御殿下グラウンドからサッカー着姿の人なども見えました。
後部座席右側にお座りになられた天皇陛下は龍岡門につながる道の左右に立つの退院を見送りに来た
人々にゆっくりお手を振り、にこやかに軽く会釈しておられました
天皇陛下を待ち受けるかなりの方がデヂカメを構えていたのが印象的でした。
ある若い女性はさっと通り過ぎる陛下の車に向けてデジカメを構えるのに気をとられて「天皇の顔が
ぜんぜん見えなかった!残念!」とか叫んでいました。
/ l、 i
,| | i!l、
,| ゙| .i| | ヽ、
,| |,i :| |.
_,、l-、 1| .:| |,
-'‐'"1i !、'i゛ヽ| |
l:::|| | /' _,.| |
ヽ|i!r'//,,,,,,,,/
W'""''''''
陛下の一日も早い回復をお祈り致します。
>>661 DQNばっかりで泣けてくらァ、という解釈でよろしいでしょうか。
663 :
名無し三等兵:03/02/09 04:22 ID:U/GDGIpf
同志>660殿
感謝感激雨霰!
664 :
名無し三等兵:03/02/09 11:28 ID:a8kalAVn
アメリカ南北戦争1864年、グラントはリー将軍の軍を相手に大損害をおいながらも進撃をつづけた。
しかしリーもよく守り、国力のない南部は相対的にそれ以上の深手をうけつつも首都リッチモンドを守り続けた。
これ以上の迂回は地形の障害が大きい。
コールドハーバーにおいて、グラントは攻撃を決意した。
グランドの北軍は6月2日、雨の中を翌日の攻撃準備を費やした。
すでに南北戦争は塹壕戦となり、戦術的な攻撃側が大損害を受けるのは常であった。
しかしグラントはこの攻撃が成功すると確信していた。
一方の兵士達は、現実を良く知っていた。家族に手紙を書き、上着に自分の住所と名前を貼り付けていた。
6月3日。攻撃は長くは続かなかった。わずか8分間の間に8000人の北軍が倒れた。
彼らは経験から守られた塹壕に突撃することがどういうことか知っていた。
しかし彼らはそれでも突撃した。
ある北軍の兵士のポケットから日記が見つかった。それには前日、こう書かれていた。
「6月3日、コールドハーバー、僕は戦死した」
665 :
別の意味で泣ける話を:03/02/09 12:05 ID:RLQHcG+l
沖縄戦での牛島第32軍司令部では、長勇参謀長と八原博通高級参謀の2つの方針の違いが、
がことあるごとに対立していた。
長はかつて軍事クーデターを画策した人物でもあり、首里撤退戦では等身大の女優の写真を
弾雨の中部下に取りに生かせた人物である。一方の八原は変人扱いされており、後に捕虜になる。
長は積極攻勢策、八原は戦略持久策をたたかわせたが、人物的に一見豪快な長が人気を集めていた。
これは、決戦の場を求めた大本営と戦略持久を目指した現地との軋轢でもある。
(それにしては、決戦の前に台湾に第9師団を抽出させておきながら大陸打通作戦を行っているのだが)
4月12日の攻勢の攻勢は部分的な成功を見せ、大本営には顔は立ったはずだった。
しかし、長は天長節(29日)の会議でまたも攻勢案をぶちあげ、結局5月11日、攻勢は開始された。
長は翌12日、自分を慕う参謀を集め、涙を流しながらこう語った。
「ワシが悪かった。堪忍してくれ」
見込みがないにもかかわらず体面のために行われた構成はわずか2日で中止を余儀なくされ、
この結果、緒戦からの消耗を含め、60%にまで消耗した第24師団と25%にまで消耗した
上陸以来前線にありつづけた第62師団が残った。
損害率が25%ではない。残存兵力が25%である。
長は「南京で俺は30万人をことごとくぶった斬った」などと放言するような人物であった。
>665
これだから桜会は…
全員まとめてインド国民軍に逝って良し。
>665
俺の伯父は残存兵力25%には入ったようだが、その数日後敵と10m程の距離で
手榴弾を投げ合い塹壕の中で爆発したそれにやられて戦死した。
最期の言葉は「残念だ」だったと戦後祖父に最期の様子を報告しに着てくれた上
官が語ってくれたそうな。
668 :
:03/02/13 15:14 ID:VU4OAEl0
age
・・・大田少将の決別電には自軍の戦果報告も「皇軍のいやさか」という言葉もなく
ただ淡々と沖縄の惨状について語り、最後に、もはや沖縄は一木一草もない焼け野に
なってしまったと嘆き「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世格別のご高配を賜らんことを」
と結ばれている。
〜中略〜
彼は沖縄初夏の炎天下の中サトウキビ畑を歩き回り、季節外れの刈り取りを
強いられる住民に対し「非常時とはいえご迷惑をおかけしております。申し訳ありません」と
頭を下げて回っていた・・
浅田次郎氏のエッセイの中にありました。
大田中将のお子さんの落合将補も海上自衛隊では名将の誉れ高い。
木造小型艇からなる掃海部隊を率いて公式には戦後初の海外派遣を無事故で
やりぬき、出遅れた日本国の名誉を救った。
掃海派遣部隊解散の辞(抜粋)聞き書きのため細部不同はご容赦。
「・・諸官は功を誇ってはならない。諸官が功名を鼻ツラにぶら下げれば
諸官の胸に光る誇りの防衛記念章はたちどころに塵芥のホコリに堕してしまう。
掃海部隊は精強であらねばならない。また厳正でなければならない。
諸官はこの命題によく挑み果敢にこれを成し遂げてくれた。
本職は諸官を誇りに思う。ありがとうございました。
郷里で無事の帰りを待っているであろうご家族によろしく伝えて欲しい。
本日ただ今をもって、ペルシャ湾掃海派遣部隊を解散する。
諸官らの母港への航海の無事を祈る」
671 :
名無し三等兵:03/02/14 00:18 ID:/mRI5bEg
皇国の守り神
航空戦艦伊勢という艦、そしてエンガノ岬沖海戦という戦いのことは、
軍オタか太平洋戦争に詳しい方しかご存じないだろう。
レイテに突入する第一、第二艦隊を援護する為、
あえて囮になった小沢提督率いる機動艦隊の戦いである。
事実上、このレイテ戦(捷一号作戦)が大日本帝國海軍の終焉と言えるのです。
雲霞のごとく押し寄せる米軍機の攻撃を跳ね除け、
満身創痍になりながらも内地に帰りついた艦があります。
戦艦「伊勢」。
しかし、かの艦も昭和20年7月28日の空襲で、百機に近い艦載機の攻撃を受けました。
命中団14発、至近弾無数。
呉にて大破着底、その命運を終えたのですが・・・・・・
2番砲塔に1発の3式弾が装填されたまま仰角43度を指していました。
普通なら砲口から入って信管を抜き、発射薬、砲弾の順に抜き出すのですが、
水圧不良、電圧不良のためそのままなんとか湾外方向に向け発射したのです。
やっと砲塔を中心線まで戻すも、そこで全ての動力が尽き、
最大仰角に砲身を振り上げたままもう2度と動くことはありませんでした。
太平洋戦争最後の主砲弾発射を終えながらなお、
伊勢は戦いを続けるかのように36センチ砲を高々と天に向けていたのです。
結局、艦は放棄することとなり、軍艦旗を卸そうとしましたが、
どうしたことか、旗索を引いてもなかなか旗が降りてこなかったのです。
「そうだろう。伊勢は、まだ戦うつもりなんだ……」
その傍にいた士官が、死してなお皇国を守らんとする伊勢に、声 をつまらせた。
艦なぞ、言ってしまえばただの鉄の塊にすぎない。
しかし、こういうエピソードを見ると、艦に宿る『魂』というものを感じずにはいられない。
ttp://kyogoku.hp.infoseek.co.jp/kakusi.html
673 :
漣:03/02/20 14:31 ID:RqOnE+jH
age
674 :
漣:03/02/20 15:16 ID:RqOnE+jH
我の曽祖父は呉で公務員をしていて、戦後もそのまま残っていれば出世できたのに
米兵が進駐してくるというので退職し、家族を連れて今の土地に引っ越してきました
675 :
漣:03/02/20 15:19 ID:RqOnE+jH
誤爆です、文章の途中だったのですがここに書くつもりは
まったくありませんでした。
どうもご迷惑をおかけしました。すいません。
謝罪します。
676 :
名無し三等兵:03/02/21 15:03 ID:aCZ457+O
善く戦いたり 深謝す
最後の勝利を信じつつ 肉弾として散華せり
然れども其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾 死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを想い
自重忍苦するの戒めともならば幸い也
隠忍すれども日本人たるの矜持を失う勿れ
諸氏は国の宝なり
平時に処し猶克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為
最善を尽くせよ
海軍中将 大西瀧二郎氏、遺書より
678 :
名無しさん@3周年:03/02/26 23:12 ID:nT7OhZu6
作戦会議を終え署長室に戻ろうとすると「局付さん」と高見警部が寄ってきた。「どうも
警備会議では私を支持してくださって有難うございました」と言う。当たり前の事だ。「君の
質問の意義の重要性は経験がないと分からないからね。気を悪くしなさんな」と言うと、高見
警部は「ではあす、また」とニッコリ笑って別れて行く。
神ならぬ身の私は、これが高見警部との永遠の別れになろうとは露知らなかったのである。
それから私は内田二機隊長の部屋を訪ねた。ジョニーウォーカーの黒ラベルを一瓶、陣中見
舞いにもって行き、内田隊長に渡す。
「ご苦労様、皆で一杯やってよ」内田隊長はニコニコしながら差し入れのウィスキーを受け取り、
「有難く頂戴します。明日警備を終えたら打ち上げの時に封を切りますわ」と答える。
中略
「内田隊長、これが最後のご奉公だね、頑張ってください」帰りがけに私は内田隊長に声をかける。
後日私はあの時一体なんと言うことを言ってしまったのかと唇を噛んだ。
今でも思い出すたびに悔やまれる痛恨の失言だった。
679 :
名無しさん@3周年:03/02/26 23:28 ID:nT7OhZu6
第二次反安保闘争の嵐が吹き荒れた頃、内田警視を公安部から"是非貰い"として
警備部第二機動隊長にしたのは実は当時警備第1課長だったこの私だ。
そして長期に亘る、文字どおり命がけの機動隊長の任務もそろそろ満期除隊というこ
とで、この「あさま山荘」警備が終わったら彼は三階(警備部)から元の古巣の四階(公
安部)の故郷に錦を飾って栄転し、晴れの公安第1課長に就任する事に内定していた
のだ。最後のご奉公とはそう言う意味だったのだ。
中略
ヘルメットに巻いた指揮官表示をとる、とらないで一悶着があった。指揮官が次々と狙撃
され、「大尉の墓場」といわれたベトナム戦争の米軍の戦訓にならって、私は指揮官は指
揮官表示を剥いではと提案した。
警視庁機動隊の指揮官たち、とくに内田二機隊長が強くそれに反対した。
「そんな事をしたら士気に関ります」という。「機動隊は指揮官先頭が光栄ある伝統であり
ます」
「それは分かるが、敵に知らせる必要はないでしょう。ヘルメット後部に指揮官表示をしては
どうですか」
「いや、このままやらせて頂きます」
それも立派な哲学だ。私も自説を固執せず隊長たちの意向を尊重することにした。
中略
十一時二十七分頃、山荘正面道路上で見を銃撃に曝しながらクレーン車と二輌の放水車を
指揮していた特科車輛隊の高見繁光警部が、現場情報班の宇田川警視の目の前約四メー
トルの地点で「わあッ」と叫び声を上げて大の字にぶっ倒れた。
特車隊員三名が走り寄り、大盾に乗せて引き摺ろうとするが。ビクとも動かない。
高見警部の顔面はみるみる朱に染まる。頭部や顔面の傷は出血が烈しい。みれば全額部に
大きな射入口を開け、鮮血がどくどくと吹き出している。
680 :
名無しさん@3周年:03/02/27 00:01 ID:CNvB+NpG
中略
丸山参事官と石川統轄の了承を得たので、内田隊長のいる土塁南東端の地点に戻る
と、そこは阿鼻叫喚の修羅場と化していた。内田隊長が撃たれたのである。
十一時五十六分、山荘三階屋根裏の銃座から22口径ライフルが発射され、土塁端の
大盾の胸壁の隅から敵情を偵察していた内田隊長はずるずるとしゃがみこむように倒
れた。同隊長のかたわらにいた宇田川警視は「マフラーで止血しろッ」と叫び、西田清
警備主任が素早く担架の手配をする。
私がかけつけた時は大盾に乗せられた内田隊長が白い雪を点々と血で染ながら、隊
員の手送りで後送されてくるところだった。
UW10の無線手今西弥一巡査部長、隊長無線の古賀めぐむ巡査部長、伝令の小出明
比古隊員が私の顔を見ると涙と鼻水でグチャグチャの顔をあげ、顔中を口にして「隊長が
・・・・隊長がやられたぁッ」と絶叫している。目を吊り上げ、父親の死を伯父か誰かに訴え
る少年のように身も世もない悲しみをぶちまけて、声の限り叫んでいる。
中略
(警備解除後)
眠りから覚めた私は、その日の夕暮れ、まず遠い方の高見家の弔問に向った。自宅は保
谷市だが高見家の菩提寺は杉並区の最勝寺である。無言の帰宅をした高見繁光警視正
(殉職により二階級特進、勲四等)の御遺体の枕辺に端座する未亡人久子さん(41)と高
校生で大学受験勉強中ときく長男敏明君(18)と中学生の次男・真明君(15)の三人は、
実に毅然として私達のお悔やみを受けている。
やはり男の子は違う、シッカリしてる・・・・とやや救われた感じだ。私も昭和二十三年(一九
四八年)父親・弘雄が若くして他界した時、高校三年の十七歳、丁度敏明君と真明君の中
間の年だった。
「私も十七歳で父を亡くしてね、君らお母さんを大事にしてシッカリやるんだよ」
と早く父親を失った先輩として激励し、やがて退出する。
681 :
名無しさん@3周年:03/02/27 00:07 ID:CNvB+NpG
それから目黒区五本木の内田邸を弔問した私は、昭和元禄の戦後日本ではめったに見る
ことのできない光景を目撃して粛然と襟を正した。
畳敷きの八畳間に北を枕に安置され、白布を顔にかけ、武家の作法どおりの鯉口を切った
短刀を胸にのせた御遺体の傍らで、未亡人くらさん(42)と長女の高校生尚子さん(17)と
次女の中学生の孝子さん(14)の三人が、身も世もあらぬ悲しみに抱き合って号泣している。
よほど内田尚孝警視長(殉職により二階級特進、勲三等)が生前二人のお嬢さんを可愛がっ
ておられたのだろう。その純粋な悲しみようは正視に耐えない。
その三人を、なんと端然と正座した白髪の切り下げ髪の老母が、「尚孝はお国のために死ん
だのです。泣いてはいけません」と気丈にもたしなめているではないか。
いまや日本で絶滅に瀕している武士と言う種族の最後の母親たちの一人がそこに坐っている。
息子を返せと恨み、悲しみをぶつけてきてくれる方がどれほど楽か。
立派な警察幹部を死なせてしまったという喪失感が胸に迫り、刀自と呼ぶにふさわしい品のいい
御母堂への慰めの言葉が見つからず、私たちは俯いて畳の目をジッと凝視しているばかりだった。
警察上層部をふくめてほとんどの人にとって、内田、高見という殉職者の名は新聞の活字に過ぎな
いが、共に戦った者にとってはこういう遺族との身を切られる思いの出会いが待っているのだ。
以上佐々淳行著「連合赤軍「あさま山荘」事件」より
682 :
名無しさん@3周年:03/02/27 00:14 ID:CNvB+NpG
ついでにこの事件について語った有名な政治家の言葉を、あるHPから転載して添える
田英夫【社会党参議院議員】
「赤軍派を非難する声があるが、幕末明治維新を御覧なさい。正義のための殺人もあれ
ば暗殺もある。水戸の天狗党は維新に先駆けて決起し、結局幕府のために死刑になった
が、全ては歴史が審判する。」
出典元:1972年3月16日「金原二郎ショー」より
社会党・・・・・・・・・・
テロリズムを肯定し、忠良な警察官の死を冒涜するとは・・・・・
売国奴なのは昔からだったんだな、万死に値する。
捨民党なる売国組織の存在こそ許すまじ。
自らの組織の存続のため、国民を独裁国家へ
売り飛ばすような不逞の輩を、今こそわが国よfり
駆逐すべし。
686 :
名無し三等兵:03/03/01 22:04 ID:MiA84LXR
今も昔もろくなもんじゃねーな>社会党=社民党
漏れは駅で社民の奴らが演説してる脇を通り過ぎるとき、
唾をひっかけて通る。
当事者と野次馬の違いでしか無いよ
アメリカの9.11事件の際にも、テロリストの側にも5分の理が有ると説いた
日本人がアメリカ人の吊し上げを食ったと聞いた事が有る。パックスアメリカーナの
独善やグローバルスタンダードの問題点が確かに有ろうと、言うべき時と言わざる時
が有るが、当事者意識の無い「外人」にはそこまで気を配る事が出来無かったんだろう。
688 :
名無し三等兵:03/03/02 21:42 ID:4fWcU2zi
いつも読んでいるメルマガより転載。
蛙の子は蛙(?)、という話です。
おおっ!と思いました。
--------------------------------------------
【おばさんの心意気】
「自衛隊の活動の結果として日本の国益と安定が守ら
れていることは事実。それだけに彼らの命を懸けて
の任務を支える法律を整え、制定することは急務」
大石尚子衆院議員(民主党)
インド洋に展開する護衛艦隊を訪問して
(産経新聞H15.1.14)
--------------------------------------------
※うまく表現できないので、続きはこちらを読んでください。
↓
ttp://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200302260000000000013290000
>>688 良い意味で絶句してしまった(w
どこの党にもいるんだね、マトモな人って。
少数派だけど。
>>688 まさに「おばさんの心意気」
・・・いや、褒め言葉ですよ、念のため。
691 :
名無し三等兵:03/03/06 11:49 ID:EoDm3+2C
保全age
なんと・・・
秋山真之の娘さんだったとは・・
血は争えないということですかね(いい意味で
「腹へった」誰が漏したのがその声で、それまで瞑想に見えた兵士が口を開く「何かたベたいな」
「何が良いかな」「ぼた餅たべたらいつ死んでも良い」と子供の時の無邪気な姿を思出して
話しかける者が出た。「俺は餅が一番だ、毎日でも良いぞ」こんな気休めの会話に、
他の分隊からも声がかかる「処でこのくらいの餅が天から降って来ないかな」
と両手で一辺が三〇センチ程の四角い餅を説明している。
賽子のような餅とは見た事もない。彼は疲れて内地の餅を忘却したかぼけたとは思われないが、
話としては面白い、「何日でくえるかな」と質問するのが居る、空腹集団の話題は、
こんな冗談で明るさを開発する。
一辺が三〇で、三センチに切れば千個出来て、一日に何個食べるかなと、絵に言いた餅は
所詮夢に等しい、計算をするのも馬鹿らしい。
「出発準備」の声が伝わって、会話に参加せずに家庭の事や、戦況を案じた兵と共に立上り、
前進を開始した。今夜の露営地が定ったのか速力が早くなって来た。
戦後三十五年も過ぎて、元重機中隊生存者の会合があり、翌日は鳥海山にバスで登る事になった。
鶴岡で乗ったマイクロバスは、左に日本海が見えて快調な速力、「山道に危険な処がないのか」
と聞く者が居て「今さら男だけで死ぬのは早すぎる」と本心を披露する者が出て「その通り」
とばかりと、皆が首をふる。その時幹事の一人から声がかかった。
「比島の山の中でよ、餅たべたらいつ死んでも良いと言ったのは誰だ。あれは嘘だったのか」
途端にバス内は大笑い。
そうだ、そのような話をした事もあるが、どこの中隊も似た会話を交していた事を知る。
転進中の密林を思出し、一立方尺の餅どころか一食のぼた餅も食えずに、戦没した戦友が
哀れに思われた。
>>692 娘さんではなく孫娘さんね。秋山真之中将が嘗て第一次大戦の折、
唯一対英援助と大規模参戦へ賛成したのを思い出すねえ。
しかし三党の幹事長や民主党の阿呆議員はどうしようもないねえ。
日本が戦後、以下にエリート教育に大失敗したかの証じゃないか。
こりゃ政治家が官僚集団を統制できなくなっても当たり前。
こんな連中よりは国民もまだ役人集団の方を信じちまうよ。
>>692 第一、娘さんだったら何歳なんだと小一時間(略
>>694 しかし民主党もわけわからん党やね、玉石が混ざりすぎ。
696 :
名無し三等兵:03/03/08 14:29 ID:AQpgne+T
>>695 ほとんど石だ罠
まさに「掃き溜めの鶴」>尚子たん
(現在、写真を捜しています)
文月の現役当時の勇姿
--------------------------------------------------------------------------------
水深40mに沈むこの船は左舷に少し傾いている。内部へ入るには細身のダイバーでなければ困難であろうと思われる。主砲が今も凛々しく、まるで敵を睨んでいるかの如く整然と鎮座している。この主砲砲台にあった金色に輝く見事なプレートも盗難にあっている。
1997年末から1998年初頭に掛けて渡航し、本船を訪れたときに遺骨を発見した。それは大腿骨と思われるもので、船の内部の誰も触れることの出来ない場所に隠してきた。今、それを顕にすることは出来ないが遺骨収集で回収されるまでは、そこで安眠して戴きたいものである。
以前から心配していた船体の前後に付いている菊の御紋章、後部部分はやはり盗まれていた。幸い船前方先端にはカキジャコがびっしり付着し、それがあることすら隠してくれている。
http://www.takedive.net/chuuk/wreck/fumitsuki.html
>船体の前後に付いている菊の御紋章
って駆逐艦に御紋章がついてたっけ?
699 :
名無し三等兵:03/03/09 10:43 ID:67I2WhSh
志賀の艦首に御紋章が、、、
志賀は海防艦
701 :
名無し三等兵:03/03/09 12:01 ID:v8drWqAX
菊水マークは巡洋艦以上の艦にしかついてない
海防艦や砲艦にも昭和十七年ごろまでは付いていました。
704 :
名無し三等兵:03/03/09 12:44 ID:filOITkr
俺のパスポートにも菊の御紋章が、、、
漏れのおちりにも菊の御紋章が、、、
お約束ということで。
∧ ∧
〜′ ̄ ̄( ゚Д゚)
>>705 逝ってよし
UU ̄ ̄ U U
707 :
名無し三等兵:03/03/09 15:40 ID:jofsRwPu
これガイシュツだろうか・・・?
2年前、旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女は涙を拭こうともせず、しっかりとした足取りで堂々と門をくぐった。
門の両脇に立っていた二人の守衛さんは直立不動のまま最敬礼していた。
708 :
名無し三等兵:03/03/09 15:42 ID:jofsRwPu
↑なぜかお笑い板の笑った文章を貼り付けるスレにコピペしてあった。
>>707 ガイシュツだが、(・∀・)イイ話だよね!
サヨは氏んでほしいと思うよ。
なんか一時期無駄にあっちこっちにコピペされてたよな・・・
>>707 正直、実話だとは思えない。
711 :
名無し三等兵:03/03/09 18:33 ID:x+TWwtAF
>>710 俺もそう思う。プロ市民の見境ない抗議活動、被災者の自衛隊に対する感謝と理解
ってのはあると思うが。
つうか、
あの時は共産系の市民団体、組合と自衛隊が一緒に救助活動してたんだけどね・・・
追記。社会党系の組合はさっぱり使えなかった
714 :
名無し三等兵:03/03/10 00:03 ID:VGB4UAHU
旧日本軍は郷土編成といって、出身地方によって部隊や派遣先をまとめていたそうだ。
道教の人間がそろっていれば士気が上がるし、助け合いの精神も出るかららしい。
だから部隊によって地方の性格が出ていた。
博多の人間は勇敢で何者も恐れない戦いをするので最前線の重要な地域に送られ、
北海道の人間は長期の拠点防衛など。
で、大阪の人間は・・・なかなか配置されなかったそうだ。
なにせ、出動命令が出たとたんに病気や怪我で待機するものが続出。
博多部隊が6日で行軍する距離を2週間かかる始末。
脱落者続出で何とかたどり着いたときには博多部隊の奮闘で戦闘は終了して、
丘の上でバンザーイの写真だけ撮って帰ってきたとさ。
もう、イタリア軍もビックリ。
商人の町だから、お上のために死ぬなんてアホなことしたくなかったのかもな。
博多の部隊って言うと、福岡城跡にあった歩兵第二十四連隊のことだろうか。
「にじゅうよん」ではなく「にじゅうし」と読むんだそうだ。
大阪出の部隊で連戦連敗の部隊なかったっけ。
大阪歩兵第八連隊ですか。
またも負けたか八連隊、それじゃ勲章九連隊。
っていう戯れ歌もあるし(w
大阪に負けず劣らずなのが京都。
大阪の八連隊って、都々逸でバカにされた割には、結構奮戦していたはずだけど。
関係あるかどうか知らないけど、昔から尾張・畿内の兵は弱いって言うらしいね。
逆に強いのが薩摩、肥後、奥州。
で、明治以後も東北と九州の兵は精兵だったらしい。
大昔はまつろわぬ民だったのが精兵か
おもろいなあ
うちの爺さん、滋賀だから九連隊。昔は大津にあったんだっけ。
722 :
名無し三等兵:03/03/11 13:19 ID:SzGZ3njN
保守age
724 :
山崎渉:03/03/13 14:56 ID:???
(^^)
725 :
名無し三等兵:03/03/15 09:40 ID:0hfviATx
日帝と戦い続け勝利をおさめた、
朝鮮人民の英雄的行動には、
感涙を禁じ得ない。
726 :
:03/03/15 11:38 ID:IZeRruO+
>>723 ロシア軍って、チェチェンで戦闘してるんじゃないの?
ロシアは全軍でチェチェン攻めてんのかい
728 :
:03/03/15 12:27 ID:IZeRruO+
自衛隊だったら、たとえばゴラン高原で死傷者をだした、
なんてことがあったら、お祭りごとは中止だろ
ゴラン高原をみてごらん
>>728 ロシア軍と自衛隊を比べることは
ヤプール人とケムール人を比べるようなものではないか?
>>730 ケムール人はともかくヤプールはマイナーすぎるよw
語呂はいいけど。
732 :
:03/03/16 22:09 ID:1aeAfgDZ
確かに8連隊は
西南戦争とかはあんまり評判よくなかった(そのころは8連隊じゃなかったけど大阪兵は弱かったらしい)
でも
日露戦争では激戦の南山の戦いで形勢変えたのは大阪の第4師団だし
奉天一番乗りも第4師団
そんなに弱いわけでもないと思うんだけど
基準が泣く子も黙る帝国陸軍で
その中で比較的「弱い」ですからねぇ…
734 :
ハ42太郎:03/03/16 22:36 ID:SeI3uY/c
南方の前線水上機基地から発進したゼロ観が米海軍F4Fと格闘戦となり、
速度や火力の違いから、ほうほうの呈でなんとか帰還して、基地桟橋に
到着するころにはフロートに空いた弾孔からの進水でゼロ観がどんどん
沈み出すほどだった。
パイロットがピストに戻ると、先輩のゼロ観操縦士が「弾孔の数を数えてこい!」と云うので、愛機に戻って弾孔の数を数えて、先輩に報告すると
弾孔の数だけ、殴られた。
「敵の銃弾を避けようとしただろ!避けるから当たるんだ!次からは弾に向かっていけっ!」
納得逝かなかったが、そういうもんか想って次から回避運動時に敵弾に向かうことにした。
敵弾に向かっていきゃ、ざっくり墜とされるか
運良く無傷でいられるかのどっちかだからな…
736 :
ハ42太郎:03/03/16 23:14 ID:SeI3uY/c
敵は曳光弾を使って見越し射撃をするわけだけど、
外れた時に次に修正を加えるし、ゼロ観パイロットが曳光弾を見て
通常は回避運動を取ると予測して、敵機は次の機動を行うはず。
だから曳光弾の火線を見て、ゼロ観をその方向に横滑りさせれば
敵機は意表を突かれる、ということではないかな?
坂井三郎はゼロ戦より速い敵機を後ろから追うときは敵機の前方に向けて
曳光弾を撃ち、敵機にわざと回避旋回を強いて速度を低下させて追い付いている。
敵機を背にして弾をよけ続ければ、敵は弾切れになるまで
後ろから永遠と撃ち続けることができるけど、ここで弾の飛
んでくる方向(敵機の方向)に旋回すれば、敵機とすれ違う
のでしきり直しになる。
巡回保全
739 :
名無し三等兵:03/03/19 21:42 ID:EN71zPIJ
名前: 名無し三等兵 投稿日: 2001/07/29(日) 04:54
コピスレだけれども、泣ける話なので(ネタかもしれないけど・・・)
ガキの時分に、鍼灸師のジジイから聞いた話。ちょっと変わった幽霊談です。
ニューギニアのあたりのある戦場でのこと。
大規模な戦闘をした部隊があって、その後、その部隊の前線基地に、
夜な夜な、死んだ兵隊たちが現われるようになったそうです。
彼らはいずれも、足がちゃんとあり、懐かしそうに
「よお!」とか言いながら、現われるのだそうです。
いずれも確かに戦死した連中ばかり。
神主の息子の兵士がまじないをやったり、お経をよめる兵士がお経を詠んだりしても、まったく効き目無し。
そのうち、ズカズカ上がり込んできて、貴重な飯をバクバク食う始末。
しかも、いきなり手がスルスルっと伸びて、木の実を取ったりして、明らかに化け物化している様子。
怖いやら迷惑やらで困っていたのですが、なんとも手の施しようが無い。
見るに見かねた中尉だか大尉だかの隊長さんが、幽霊たちが集まっているところへ、
ツカツカと歩いていって、いきなり大声で、
「全員、整列!」
と言うと、素直に整列したそう。そして、
「貴様らは、全員戦死した兵隊である。よってこの世にいてはならん。
全員あの世へ行って成仏するように。これは命令である!」
隊長が涙を流しながら言うと、幽霊たちは、しばらく呆然とした顔で佇んでいたが、
そのうち全員が泣き始め、やがてボロボロと土人形のように崩れていったそう。
あとにはその土だけが残り、彼らは二度と現われることはなかった。
兵隊たちはその土の大部分は現地に埋め、残りを少しづつ日本に持って帰って、供養したそうです。
「へんな幽霊だね」と僕が言うと、ジジイは、
「日本人の幽霊でも、死んだ場所が変わると、ちょいと変わるんじゃい」
と言っておりました。
「八甲田山 死の彷徨」の単行本後書きにも同じようなのがありましたね。
夜な夜な青森第5連隊の営門に向かって行軍してくる遭難者の御霊に
歩哨が怯えていたところ、ある夜、連隊長が軍刀を抜いて一喝、
「雪中行軍隊、廻れ右、前へ進めっ!」
爾後、御霊が現れることはなかったという…。
死んでも上官の命令に従うというのが、むしろ切ない。
741 :
感動をありがとう:03/03/22 03:50 ID:tXnaH5ZI
保守age
742 :
名無し三等兵:03/03/22 04:04 ID:UTJckch5
>>739 黒沢明の映画「夢」で似たような話を映画化していたな。
寺尾聡が隊長役を演じていた。なかなか良い映画だった。
>>739 確かにがいしゅつではあるんだけど、その話好きなんで産休
はじめて知った。ありがとう。
作り話かどうかなど無意味。
泣けたよ。
魂魄となりても御国を守護したてまつらん。
やっぱ、引導を渡す、ってのは大切なこともあるんだな…。
泣ける話といえば、靖国神社発行の「英霊の言乃葉」
に満載なのだけれど、戦犯と言われた方々が、昔、法
務死だったのが、最近は殉難死と表現されていますね。
せめて、少しは御遺族のお慰めになっているのかな。
外出でしたらすみません。
747 :
名無し三等兵:03/03/25 00:19 ID:aFfle6Js
>>746 自称市民団体が「戦犯=非人」扱いを毎年連呼しているから、全く慰めになっていないと思う。
748 :
感動をありがとう:03/03/27 10:59 ID:wuJ85k5u
支援age
750 :
七誌:03/03/29 23:26 ID:???
...いかん。
涙が止まらん。
753 :
名無し三等兵:03/04/01 19:45 ID:wnNX30yV
>>682 ちなみにその田英夫は田嶋陽子の失職に伴って
ゾンビのごとく再び参議院議員に返り咲く
彼がテロリスト容認であることをよく覚えておくよ
754 :
感動をありがとう:03/04/04 13:04 ID:n4GC5PAr
保守age
755 :
名無し三等兵:03/04/04 23:29 ID:EIw8f++K
>泣ける話ではないかもしれませんが… 私がホテル勤めをしていた頃の話。
>ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
>披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
>一通りの祝いの言葉の後に、
>自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
>自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
>掛けていると思う事。
>たとたどしくですが話されました。
>同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
>神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」
>と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
>それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
>おじいさんも見事な答礼を返されました。
>私はその後は仕事になりませんでした。
>ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
・・・これって本当なの?
最初見た時、恥ずかしながら泣いてしまったのですが。
軍板の全員!
このスレを見ろ!
こんなに泣いたのは初めてだ!
うわああああああああ
758 :
名無し三等兵:03/04/05 03:57 ID:WlN4Oex0
>755
真偽はどうのなんて野暮言うな何はともあれ
俺も泣いた(つД`)
759 :
戦艦大和ノ最期:03/04/05 07:52 ID:JwPwP0sx
訓練休憩中「桜、桜」と叫ぶ声 見れば三番見張員なり。
見張用の定置双眼鏡を陸岸に向け、目を当てしまま手を上げたり
早咲きの花ならん
先を争って双眼鏡に取附き、こまやかなる花弁のひとひらひとひらを眼底に灼きつけんとす
霞む「グラス」の視野一杯に絶え間なく揺れ、われを誘う如き花影の耀き
桜、内地の桜よ、さようなら
全ては五八年前の今日の午後にあった話。
桜のニュースを見ると切なくなります。
ガイシュツですが、スマソ。
760 :
名無し三等兵:03/04/05 09:05 ID:OgEQw9Rt
戦艦武蔵、上下、を読んで泣きました。
水を差す気はないが
例えば祖父殿が大和以外の艦に乗ってたと言ったらどういう反応を示すのか
つうか、直立不動で敬礼なんてのはウケ狙いの脚色だろ〜
>>755 泣いた。・゚・(ノд`)・゚・。
茶茶を入れる奴は日本人の誇りを解っとらんのです。
( ̄- ̄)ゝ
゜゜・(´д⊂)・゜゜・
( ̄- ̄)ゝ←日本人の誇りを解っとらんのです。
>>755 同じ話がどっかの過去ログにあったような…。
768 :
名無し三等兵:03/04/06 21:31 ID:YyGeJmKW
軍人精神ですねぇ!
昔の人は偉かった!
769 :
名無し三等兵:03/04/06 21:34 ID:RLP571cR
軍人精神ですねぇ!
昔の人は偉かった!
平和精神ですねぇ!
昔の人は偉かった!
と半世紀後、戦乱に巻き込まれた日本国の人は言いました
>>672 着底してなお天をにらむ伊勢の主砲。
あの写真は有名(丸の表紙になったりして)だけど、
そういうストーリーがあったんですね。
私は、伊勢が大好きです。
772 :
名無し三等兵:03/04/07 11:02 ID:S94AmBRN
773 :
甲種幹部候補生:03/04/08 21:43 ID:mXT/v7Gv
八聯隊弱くないですよ
日清戦争からこのかた、戦場で遅れをとったことは有りません
774 :
名無し三等兵:03/04/08 22:27 ID:jGLFR8xu
大した話ではないが。
うちの祖父が徴兵されたのは大正年間だったので戦争には従軍してない。
内務班で苛められると聞いていあたが、そのようなことはなかった。
大震災前の大正デモクラシーの時代で、衛生兵に回されたせいもあるが、
中隊長の人柄が大きかったようだ。その山崎という中隊長は温厚なとても
優しい人で、中隊は和気あいあいとしていたらしい。
祖父は医者となってからも自分を可愛がってくれた山崎中隊長のことを非
常に慕っていた。
後に第二次大戦中、アッツ島玉砕のニュースをラジオで知った祖父は、鬼
神も哭く万歳突撃を敢行した指揮官の名を聞いた瞬間、真っ青になりぼろ
ぼろ落涙したそうだ。
>767
>同じ話がどっかの過去ログにあったような…。
最初に読んだのは
“復刻★泣ける話”の827 :名無し三等兵 :02/02/16 02:09
なんだが、これの他にですかね…。
これのすぐ後(839)には
>実は私は事前に知っておりました。新郎から司会者に「御じい
>さんに華をを持たせるために為に挨拶が終わったら大和に乗っ
>ていた事を上手く聞き出すか、コメントしてして欲しい」と希
>望が有ったのです。
てな書き込みがあるんで、あらかじめ前の方の人に頼んでいたと
すれば
>直立不動で敬礼
も有り得なくはないかなと。
まあ、「詮索するだけ野暮」ってもんでしょうが。
>>775 そういやそんなレスもあったね。
新郎と友人達の手による演出だったにせよ、
>孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
>自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
>掛けていると思う事、
という、おじいちゃんの述懐に嘘はないだろう。
新郎にとっても誇りなんだと思うよ、おじいちゃんが。
だから艦乗りになったんだって、おじいちゃんも胸はって欲しいって。
だからこその演出、おじいちゃんに対するね。
てなのはどうでしょう?好意的に見過ぎかな?
ま、確かに詮索はヤボだね。
777 :
レイプ元帥:03/04/10 18:45 ID:WnuDPBVV
空にはヤーボ、ヤーボ・・・そしてヤーボしかいなかった。
落合将補いわく
「35歳まではまず家庭のことを考えなさい。それが結局は仕事のためにつながる。
35歳からはまず仕事のことを考えなさい。それが家族のためになるんです」
だそうです。
以上、参考になれば。
↑落合将補 こんなこというから幕で嫌われ 部下に慕われた
779 :
名無し三等兵:03/04/11 08:55 ID:0RCRT0Pu
《私は以前、台湾旅行のおり知り合いの祖父の高砂族のおじいさんに
お会いしましが、「我々は陛下の赤子として生まれ、誇 りを持って兵隊として戦いました。
仲間も死にました。それが日本が戦争に負けたことによって陛下と日本という親を失いまし た。信じていた親に捨てられた、それがつらいのです。」
と流暢な日本語でおっしゃられているのを聞き複雑になりました。
それまでアジアの人は日本の戦争を恨んでばかりいるとおもってましたから。
又、その友人の話では酔うとよく日本語で軍歌をうたっていたそうです。》
某左翼系掲示板にて。
780 :
779ツ?ツ?ユ?モレ:03/04/11 20:26 ID:0RCRT0Pu
《台湾のおじいちゃんはたぶん戦争中の日本の教育勅語を叩き込まれた人でしょう。これは、
サダムフセインが正しいと思っ ている
イラクの人々と基本的に同じです。これが教育の怖さです。
インドネシアにはいましたし、オランダからの独立戦争に
関わった残留日本兵の方々のお世話をしたのでその方たちが立派な方たちで
尊敬されていることも知っています。でも、その方たちは一等兵や二等兵と言った下っ端の兵士の方々で、戦争 のリーダー達ではありません。
彼らは今日本政府からもインドネシア政府からも支援を受けず、貧困で苦しんでいます。私は 彼らを尊敬しています。
でも、それは本の一部の事で、それが日本の太平洋戦争を
正当化することには繋がらないと考えます。チホちゃん、この掲示板は僕にとっても勉強の場です。遠慮せずにどんどん意見 を言って下さい。皆で考えましょう!》
ttp://www.champloose.co.jp/bbs/index.cgi どうすれば・・・
自分にとって不利な情報は全て切り捨てるところが凄いな
782 :
おまえら、:03/04/11 21:02 ID:0RCRT0Pu
チホちゃんを救え!!
泣ける話@極東版が倉庫行きに…
落としてしまって申し訳ありません
786 :
名無し三等兵:03/04/13 01:07 ID:QNX2cICB
昭和19年4月28日、松は舞鶴工廠で竣工、第11水雷戦隊に
配備されました。そして創設された海上護衛司令部に貸与され、
第3次イ号作戦に参加、硫黄島と小笠原の父島に陸軍部隊を送
る4804船団の護衛に旗艦としてあたったのです。部隊や資材を
無事に届けた船団は、8月4日、父島の二見港から横須賀へ向け
て帰途につきました。しかし小笠原爆撃に飛来したアメリカ第38機
動部隊の飛行隊に発見され、3回にわたって激しい攻撃を受けて
しまうのです。この攻撃で船団は商船の大半を失い、松は残りの
船団を率いて日本を目指しますが、さらに15隻のアメリカ巡洋艦隊
の追撃を受けたのです。松は船団を逃すためにただ一艦、反転して
敵艦隊に向かい、果敢な戦いの末に4日夜、その姿を波間に没した
のです。
田宮の松の説明書だな。
テスト
789 :
名無し三等兵:03/04/13 09:16 ID:9P38CAEd
>>786 泣ける話だねえ・・・
船団を守るため、圧倒的な敵艦隊に向けて反転するとは。
男の艦だな、「松」
それにしては資料が少ない
>>778 確か沖縄に赴任したとき、サヨに囲まれて
「おまえのお父さんは沖縄のために尽くしてくれたのに、おまえは自衛隊なんかに入りやがって」
とか罵声を浴びされたそうですな。
その後仲良くなったそうですが。
>>789 光人社NF文庫「駆逐艦入門」の「松・橘クラス かく戦えり」の項の中で、
約1ページ半にわたって、もう少し詳しく書いてある。ここでは砲戦で
沈んだように書かれているが、別の記録では空母艦載機によって
英雄的な最後を遂げたとの事。
792 :
789:03/04/13 10:11 ID:???
>>791 ありがとう。
さっそく読んでみます。
こういう話は、どんどん後世に伝えていかないといけませんね。
>>789 4804船団は度重なる空襲を受け全滅寸前となった。夕刻になって
航空攻撃が難しくなると敵は15隻もの巡洋艦部隊でとどめを刺そう
と追跡を開始する。
旗艦松以外に残る船団はわずか輸送艦1隻と4号海防艦のみ。
松は足ののろい輸送艦を逃がそうと4号海防艦へ”輸送艦を守り
内地へ帰島せよ”の信号を送りただ1艦反転していったのだそうだ。
護衛艦隊旗艦として自分が袋叩きにあっている間にたった1隻の輸
送船でも無事に内地に帰したかったんでしょうね。
全速で逃げる輸送艦と海防艦は遠くに激しく明滅する光を見たといい
ます。
それが松の最後だったのでしょう。
794 :
名無し三等兵:03/04/13 13:34 ID:RZoSB0ma
昭和20年6月の父島を発進した海軍魚雷艇隊による北硫黄島守備隊救出作戦の帰途に遭った米駆逐艦との遭遇戦も泣ける、、、、
(TAT)正直泣いた・・・
板違いとは思うが「宇宙戦艦ヤマト」の第1話で、
古代(藤堂ではなく)守の指揮する宇宙駆逐艦ゆきかぜが
レーザー動力が停止し戦闘能力を失った旗艦を逃がす為に反転し
ただ1隻で敵ガミラス艦隊へ突入していくという展開は、
シナリオライターが「松」の最期をどこか念頭に置いていたのかもしれない。
おい。あれは自分の誇りのためだけに反転したんだろ。部下のことなど
省みずに。うわべの格好良さしか見ないから、アニヲタっていわれるん
だよ。
松の指揮官が、私と同じ感覚なら、そんな安っぽく反転したとは思えない。
って、釣られたかな?(w
>>798 君のような別の価値観を認めないような香具師がいる限り
戦争はなくならんよ。
そしてその中で泣ける話は増えていくんだろうが
>>798 少し古代艦長の為に弁護させて頂ければ、
あの時点では帰還しても放射能汚染で滅亡する以外の道が無かったわけで、
(イスカンダルからの連絡は未だ届いていなかったし)
どの道滅びるならと敵と刺し違える決意をしたとしても止むを得なかったのではないかと…。
802 :
名無し三等兵:03/04/13 23:52 ID:HoNnxFZl
ここはアニオタのスレじゃありません。アニメ板でやってください。
804 :
名無し三等兵:03/04/14 00:02 ID:PgZ0JYyl
>>790 素朴な疑問なんだが……
>「おまえのお父さんは沖縄のために尽くしてくれたのに、おまえは自衛隊なんかに入りやがって」
でも、そのお父さんは海軍なわけで、親の職業を継いだ息子に対して
父親を引き合いに出して非難するのはえらい違和感を感じるというか…
いっそ「親子共々の軍国主義者め!!」とでも言った方が、
良し悪しはともかくかえって一貫性はあるよね。
しかし、その手の左翼の人も大田少将は評価しているのか。ちと意外。
805 :
北斗星:03/04/14 09:25 ID:Zi3ADZ6f
小生は誰も來ないスレッドを一人でやってゐる者ですが、偶には他
スレに書いて見やうと思ひます
以下は某誌に掲載された拙稿です
806 :
北斗星:03/04/14 09:32 ID:Zi3ADZ6f
ひうらさんの思ひ出
北鮮による邦人誘拐問題はさっぱり進展しませんが、この点でも昔の日本の方がしっかりして
ゐたものです。
日本海軍は北洋警備−北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊(定数
四隻 司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました。
民族性なのでせうか、蘇聯は昔から露骨な國で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務を開
始するや、日頃横暴なる蘇聯艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました。だから駆逐隊は毎度
漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、大艦隊を神速に派遣することも行はれ
たやうです。
父の友人に樋浦丈作さんといふ越後人がありました。明治の御代に雪の越後を後にして、数多
辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、総武線沿線に櫻湯とふ銭湯八店舗など経営して世を終へられ
ました。この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話
です。
氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に謂れ無く拿捕され、乗組員一同、
浦塩に聯行、抑留されました。此処までは今日と同じです。
取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるか、と思った程ださうです。ありもせ
ぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました。
いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、捜
査は打切り、無罪放免、露西亜紅茶まで振舞ってにこやかに釈放するではありませんか.
807 :
北斗星:03/04/14 09:35 ID:Zi3ADZ6f
解き放たれた樋浦さん達は警察署だか獄舎だかの外へ出まし
た。
天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺
望が開けているものです 半信半疑の儘、ともかくも港へ向は
うとふらつく脚を海へ向けました。その瞬間、何故、助かった
かが判りました。
沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以
下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎
分幾百幾千發ぞ。陛下の赤子にかすり傷だに負はせなば、ウラ
ジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て
ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです。
旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったこ
とでせう。皆、感泣しました。鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひ
で‥‥
舳(みよし)に菊の御紋を戴いた日之本の國の鎮(しずめ)
に護られて、樋浦さんは無事、日本に帰りました。取るにも足
らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の戦争をも
辞せず、瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本の
親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を生き
抜いて、二十年ほど前に亡くなりました。
勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底
だけ張替へ張替へして生涯穿き続けた一生でした。
「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」
國家國民が心から一体感を抱き、同胞愛に燃えてゐた時代の
想ひ出を、聞いたままに記した次第です。
808 :
名無し三等兵:03/04/14 10:07 ID:Q+JaaGNq
過去スレでみたなこれ
つうかネタを書き込むなら笑心者へ逝け
810 :
旗:03/04/14 11:19 ID:???
812 :
名無し三等兵:03/04/14 16:08 ID:jxRpH/HV
>>806-807 何度見てもイイ話だ。
力というものはこうやって使うものなんだよな。
今の日本は力を使うことに腰引けすぎ。
まぁ、くされ憲法が悪いんだけど。
具体的な名前が出てくるのは樋浦丈作さんだけ。何年何月のどういった出来事だとか、具体的な情報がゼロだもんな。
こういう話だから確かな裏づけとか求めないけど、いくらなんでもこれは信じられないでしょ。
814 :
名無し三等兵:03/04/14 19:54 ID:PgZ0JYyl
>>813 「漁民返さなきゃ艦隊出してもいいんだぞゴルァ」
とソ連外交官呼びつけて威嚇するまでなら、軍事力の正しい使い方だと思う。
が、実際にウラジオ港内で艦砲射撃態勢に入っていたらマジで戦争起きます。
というか、ウラジオ港内まで侵入できたってことは、
途中で警告を加えたであろうソ連の海防艦なんかを蹴散らして来てるってことか……?
>>804 意外なことに、(当時の)サヨなかたがたも、大田中将には敬意を払っていたようですね。
もう一人の息子さんが教師なのも、この板では常識でしょうからこれ以上述べませんが。
>>814 言われてみれば、ペリーの時代じゃないよなぁ。
817 :
名無し三等兵:03/04/14 23:27 ID:PgZ0JYyl
>>815 落合海将補は映画化できそうな気がする。
父は沖縄戦の英雄。
兄は教師となって平和活動に身を投じ、
弟は海上自衛隊に入り、上層部から睨まれつつも提督にまでのぼる。
兄弟の葛藤、反発、そして和解。
…なんか素でドラマみたいな筋書きだ。
818 :
名無し三等兵:03/04/14 23:33 ID:vZ5tfB51
兄の方は下品なおじいさんになっちゃいましたね
悲しいな
819 :
北斗星:03/04/15 21:37 ID:dXdnGxGn
〉813-4
それは誤解ですな
戦前、支那や沿海州にはパスポートコントロールも国境経緯も無かったのです
海軍力も事実上存在しませんでした
820 :
北斗星:03/04/15 22:01 ID:XrURppDw
経緯は警備の間違ひ
それぞれ辛亥革命、露西亜革命の混乱が尾を引き、国家の体をなしてゐない
ことが多々有りました
821 :
名無し三等兵:03/04/15 22:10 ID:V3de+P0m
駆逐艦「松」の話、泣ける・・
かっこよすぎるよ、男だよ、オイ
ヽ(;´ω`)ノ.
>>821 そうだな。
戦時急造の小型駆逐艦1隻で15隻の巡洋艦に立ち向かったなんて(涙
松型駆逐艦って、今まで興味なかったけど見直したよ。
イギリスの特設巡洋艦「ジャービス・ベイ」もまた、輸送船団を守るため圧倒的な敵(ドイツ装甲艦)に立ち向かった。
フェーゲン艦長は砲撃により足を吹き飛ばされてもなお、指揮を取り続けたと言う。
824 :
名無し三等兵:03/04/16 12:24 ID:T9iALxlG
超遅レスでスマソ
>>40 この硫黄島HPの中にアメリカからの遺品返還の記事があるんだけど
返還してきたアメリカ軍人の息子の手紙に泣けた。
「私は長吉さんのこと、この旗、そして彼の名誉を忘れません」
かつての敵であっても戦没者には敬意を払うべきだな、やっぱ。
松型駆逐艦をプラモで作ってみることをお勧めする。
俺は松を作ってから泣きそうになったよ。
>>825 烈しく胴衣
俺も説明書見て泣きそうになった。
あんなちっぽけな駆逐艦1隻でな・・・。
828 :
山崎渉:03/04/17 10:40 ID:???
(^^)
829 :
アゴハ:03/04/17 10:55 ID:ydiUx/RM
>>815 過去スレだとおもうんですがが、落合将補が沖縄で
講演(たぶん湾岸派遣の)の最中に、左翼の乱入をうけたのですが
会場にいらっしゃった御老体の、太田さんの息子さんだ、の
一言で、諌められたとの話がありましたね。
うろ覚えでスマソ。
「湊川だぜ!」 海軍少佐 野中五郎
泣けました・・・。
>>829 落合海将補 御自身が、太田実少将の御子息なのでは?
↑ 失策。スレ汚しスマソ
834 :
名無し三等兵:03/04/18 20:20 ID:zqgKH82n
835 :
山崎渉:03/04/20 05:24 ID:???
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
836 :
名無し三等兵:03/04/23 23:48 ID:7eHNkqhr
御次男です
御長男は日教組の活動家
素晴らしい朝鮮人も過去にいたもんだ。
(インドネシアでオランダ軍に無実の罪で刑死させられた朝鮮人少年兵)
再度インドネシアを植民地にしようとするオランダ軍によって不当極まりない
軍事裁判の中に朝鮮人兵士朴成根少年が無実の捕虜虐待の罪で被告席に立たされていた。
裁判とは程遠いものだった。馬渕逸男司令官代理が気の毒に思い裁判の合間に面会に行った。
「真に気の毒な結末となって相すまぬ」というと「なあに運命ですよ。ここでは正邪曲直は
通りません。覚悟は決めていますから平気です。堂々と戦います」ときっぱり答えたという。
単なる復讐劇だからまともな判決が出るはずもなく朴少年も死刑の判決を受けた。
父親の代理ということで馬渕少将が死刑の直前朴少年に面会した。
「戦争が負けたばかりに君にこんな目にあわせて何とも申し訳ない」と云うと少年は
「何、仇に裁かれては仕方ない。しかし、アジアは独立しますよ。日本の勝ちですよ。
おかげで朝鮮も独立できます」最後に愛国行進曲を歌うといって少年は歌い始めた。
少将は聞いていて涙がこぼれたという。そして少年は
「私は一人息子で姉一人妹一人。親にかわいがられて育った。父は亡くなり姉は嫁いだ。
母は私の死を悲しむだろう。妹に私に代わって孝行して呉れと、(少将に同行した朝鮮の
友人に)遺言を頼みました」と云った。
制限時間はとっくにすぎたので千万無量の手を握り合って訣れたが。彼の瞳は澄み、
「もう、これで思い残すことはない」と云った。
処刑にあたっては卑劣なオランダ人の兵士達の前で威風堂々とした態度であったという。
刑木に縛られる前に見物人を一わたり見渡し、
「大韓国独立万歳、万歳、万歳」と偉大なる祈りを三唱した。
ときに昭和二十二年一月、朴成根少年享年十九歳。
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産
して母体を損なったが、生まれた子供はすくすく育っている。今日、東南アジア
の諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日
は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心を
された日である。我々はこの日を忘れてはならない。」
新聞記者 ククリツト・プラモート(後のタイ国首相)
*「十二月八日− 日本が米英に宣戦布告した1941年、昭和十六年十二月八日
大東亜戦争勃発の日(後世、太平洋戦争と呼称されている)
有難う御座います、先人の方々・・・
>837,>838
このスレは、いつからコヴァ板出張スレになったんだ?
840 :
名無し三等兵:03/04/24 13:03 ID:cK7cudvB
>839
あんたいい人だとは思うけど、最近風紀委員っぽくなってるような気はする。
840みたいなコヴァもうざいが目くじら立てすぎてもナニだと思うけど。
>>837 コヴァ云々は抜かして・・・・・合掌。
しかし19歳の若年兵まで軍事裁判にかけるとは、何とも惨い話だ・・・・。
いいから、さっさと失せろコヴァども。
海の人以外はこの書き込みをスルーしてくれ。
>>843 お前は少しもちつけ。
このスレが違う意味で泣ける話になったらお前も困るだろうが。俺だって困る。
>>837の冒頭や文面、そして
>>838はともかく、
>>837そのものは泣ける話だと思うぞ。
俺は朴少年を立派な男だと思った。
大韓国独立万歳と叫んだから、朝鮮人なのに日本の勝ちと
言ったから、そう思ったのではない。
内心の葛藤もあったろうに、彼を気の毒に思う人間を逆に慰め、そして死んでいった
若干19歳の少年を、俺は立派な男だと思った。同時に泣けた。
コヴァとかそういうのはこのスレではどうでもいい。
コヴァ風味に飾られた文面であっても、泣ける話には泣けるだろう?
膿の人キモっ!!(藁
>>837 今でも、尊敬に値する朝鮮の方はいらっしゃいますよ。ドキュソな香具師
の方が、声が大きい分、不快に思うことが多いだけかと…。
いつまでも良スレでいて欲しいので苦言を申し上げます。
>>「大韓国独立万歳、万歳、万歳」と偉大なる祈りを三唱した。
いや、いい話だけに考えさせられたよ。
だいたい、本物のコヴァは間違ってもこんな朝鮮人を誉めるような話は書かない。
>>848 激しく同意
つーか、この話のキモは「いいチョンは死んだチョンだ」って事じゃないのか?
隣国の人間を蔑称で呼ぶような国の国民であることは、正直泣ける。
彼らが行っていること、行ってきたことの是非は別として、誠意ある姿勢を示せる
日本人でありたい。
>彼らが行っていること、行ってきたことの是非は別として、誠意ある姿勢を示せる
>日本人でありたい。
ハァ?
是に対しては誠意ある姿勢が必要だが、何で非に対してまで誠意ある姿勢が必要なんだよ。
馬鹿じゃねーの?
>>851 は、非に対しても良識ある言動を望む、という趣旨ことじゃないかな。露骨に
馬鹿にしたり、罵ったりせずに…。非に対して拒絶することは絶対必要だけど。
ちょんは屠殺するに限る。
漏れは >851 じゃないけど、同じ日本人として >854 こそ屠りたいよ…
雑魚しか釣れなかったけど、これで満足かな? >854
誇り高き精神、他人に灯そうと画策してもうまくいくものではない。
己の精神を磨き晒せば、おのずと燃え拡がっていくもの。
国境も時代も超えてナー
857 :
名無し三等兵:03/04/27 00:56 ID:g2DrIFE0
軍事オタの、妙に勇ましくて国士気取りな文章ほど、この板に不似合いなものはない
大人のスレだね。
859 :
taryo:03/04/27 03:06 ID:ij11/VEg
>859
ありゃ、修正視力でもだめだったの?
>860
修正で0,6以上
裸眼視力で0,1以上って決まりがあるんだわい
ニ士の試験ならコンタクト+めがねって裏技も使えるんだけどな
さすがに防衛大学じゃあダメみたいだな
>>860 オマエはこのスレに書き込むな。
邪魔だ。
863 :
名無し三等兵:03/04/27 10:39 ID:voONGgBc
あら、21までボウダイ受けれたんだね・・・
大学辞めて受ければよかったかナ。
もう無理だけど
>861
そか、それは残念でしたなぁ。
何か資格とって技術幹部っつー手もなきにしもあらずだったり。
>861
あぁ、すまん。俺は859じゃないただの通りすがりだ。
視力で二士落ちちまった経験持ちだけどな……
地連のおっちゃんが
「○○くん、目悪かったんだ……」って青ざめた顔してたのを今でも思い出すよ
>861=>865だけど865は間違い。
>864が正解
867 :
保守:03/04/28 11:12 ID:???
スレ違いウセロ
>865
む〜、わしなんかの頃は、これからバブル真っ盛りというかんじで募集に苦労して
いたせいか先天性の骨変形で跛行してるのとかいたくらいなんですけど、最近は
ずいぶんと厳しくなってきたんですねぇ。
海の人●海の砒素及びその係累へ
オマエラいい加減にしろよ。
雑談したけりゃ雑談スレに逝け。
たまに、英霊の遺書の追伸に見かけるのだが…
一 吾に金銭貸借なし
一 吾に婦女子関係なし
一 吾に罪なし
後に残る者に、死人に口なしとばかりに付け入る者がないようにと、
きちんと言い残す。漏れは読む度に泣けてしかたがない。
871 :
870:03/04/29 16:34 ID:???
↑ は、帝国海軍 高橋少尉の遺書より。
神風特別攻撃隊神雷部隊第9建武隊 昭和20年4月29日、
沖縄本島東方会場にて戦死。
それと知らず、なにげに引用したのだが…。マジデスガ ダソクカモ。
872 :
名無し三等兵:03/04/30 00:06 ID:C/ROccIm
>872
怪我もせずに済んで、本当に良かったですなぁ。
>>872 泣ける。ものすごく泣ける。
ありがとうと言うことしか出来ないけど。
っていうかモナサルさん・・・・モナサル・・・・
ごめん。少しだけ笑った(w
>872
こういう人たちのために外交機密費を使って御礼をするべきだろう。
でも現金渡すのはやーらしいので日本旅行ご招待くらいで。
>>876 同意。
少なくとも外務官僚のアフォ達が私腹を肥やすより有意義と思ふ。
大した手柄もなく職務を淡々とこなしただけの官僚にくれてやるよりは
こういう人として立派な方々にこそ勲章をさしあげるべき。
880 :
879:03/04/30 13:59 ID:???
ageてしまった・・・。逝って来ます。
泣ける戦場での犬猫話をリクエストしまつ
だいぶ前の話しにレススマソ
>>519 その話は漏れも聞いたことがある。
たしか、トヨタかどっかの車両保管所(工場で出来た新車を
置いておく場所)に落ちた(落とした)ヤツだよね?
パイロットが最後の最後まで機体を操ったおかげで街の真ん中に墜落して
死者1名(パイロットのみ)だったって親父が教えてくれた。
いつぞやのパラシュートが開くまでに地面に叩きつけられることが分かっていながらも
事故後に整備員が射出座席が故障したんじゃないかと気に病まないようにあえて飛び出したT−38の話といい
つくづく立派だよね。
>872
うわーんマジで泣いたじゃねーかこんちくしょー
「ベイル・アウト」を二度叫んだパイロットもいたね。
一旦はベイルアウトを叫んだが、機体をより安全なところまで持っていこうとして
もうしばらく操縦をつづけ、結果として二度目のベイルアウトは間に合わなかった、
っていう。機体は川原に落ちて民間人の死傷者はなかった。
なけるかどうかは知らないが、スペースシャトル・チャレンジャー号の
引き上げられた残骸を調べたら、操縦席のレバーが非常事態の位置になっていたそうだ。
燃料タンクが爆発し、機体が海面に叩きつけられて粉々になるまでの僅かな時間、
宇宙飛行士たちは緊急時の手順を踏んで最後まで任務に忠実だったという・・・
( ´Д⊂ヽ
>>872 道義面もさる事ながら、こういう人々へ感謝をきちんと示し、恩義を返すのは国益にも繋がる。
外務省には是非ともきちんとした形で謝罪と賠償、ではなく感謝と御礼を示して欲しいもので。
889 :
名無し三等兵:03/05/02 20:31 ID:lEkNvy2j
>>872 パソコン4台とエアコン1台は
実は彼らがかっぱらったんじゃないのw
>>889 ま、どうかな?煽りとも思えんが、このスレにいる意義を問われる発言だな。
PCに機密データがはいってなければ良いんだが‥
大使館員が事前の手続きに従いデータ破壊していれば‥
外務省の連中に最低限の危機管理能力を期待するが間違いなんだが。
892 :
名無し三等兵:03/05/03 03:03 ID:lAAYnZ5m
889が真実語ったせいで、すっかり熱がさめちまったな・・・・
ここまで幼稚な自作自演も珍しいな。
894 :
名無し三等兵:03/05/03 11:07 ID:zGZza3tC
やっぱり自作自演か>日本大使館美談
佐久間艇長の話を目にしてふと思い出したことなので
多少の記憶違いがあるかもしれません。
確か潜水艦四方山話に書かれていたような。
トラック島で鎮座中の事故により沈没した伊169潜、
戦後に調査団が入った時の報告によると
脱出命令を受けた信号長が軍艦旗をたすきがけに
ハッチを握った状態で絶命されていたそうです。
目が曇って続きが読めなかった・・・(´Д⊂
897 :
名無し三等兵:03/05/03 12:59 ID:2NKhXofZ
896。
帰れ。
898 :
:03/05/03 13:38 ID:tmgEsEMT
>>889 漏れならもっとかっぱらう
かっぱらい放題だったんだし
誰でもそうだと思う
それができなかったのは邪魔する奴がいたからじゃない?
899 :
職場は戦場:03/05/03 13:42 ID:LciNQ8f5
>>898 守ってやった駄賃代わりにかっぱらったんだろ。
あんまり沢山だと後に美談にしずらいからセーブしたんだ。
>>900 GWで暇を持て余しているのは判るが…。自分以外の人間に好意をもてないなら
ここで瘴気を撒き散らさずに、黙って引きこもってろよ。
それとも、構って欲しいクンなの?
>>900 もっと素直な目で見ようぜ。
露骨な自作自演だったら新聞だって書かんだろ。
素直っていうか証拠もないのに
よくそこまで酷い想像ができるもんだ
普通じゃねーわさ
寂れたな。
在イラク日本大使館美談疑惑が尾を引いてるのか・・・・
905 :
七誌:03/05/05 01:48 ID:???
いや。
皆が、アンタをいじるのに飽きただけかと。
907 :
北斗星:03/05/05 22:37 ID:1VWtqiJZ
小兵はたったひとりでスレを死守してゐるものですが、友軍支援の為、けふは出戦してみませう
以下は拙稿の載ったMMです
----------
_/ _/ _/ 軍人精神未だ滅びず
_/ _/ _/_/_/ _/_/_/
_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/
_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ H11.12.08 2,826部
_/ _/ _/ _/ _/ _/_/_/ JOG Wing No.0103
_/ 国際派日本人の情報ファイル
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
投稿 北斗星様より
狭山の墜落事故には、色々思ふ所が有ります。偶々小生、近くの女子大で週一回、教鞭を執っており、
墜落現場の川原も、通勤路の川上、新富士見橋上から指呼の間に在ります。あの辺りは航空自衛隊入間
基地の發着誘導コースらしく、頭上、手を伸ばせば届きさうな低高度をC−1輸送機やT−33練習機
が、青空に日の丸を輝かし、ジェットの爆音高らかに航過して行きます。
陸軍航空揺籃の地、所澤飛行學校(大正八年開校)以來八十年の傳統故か、地元も好意的に眺めてゐ
るやうです。軍用機の勇姿を仰ぐキャンパスも中々良いもので、校内からだと、機体を横から至近距離
で見るやうな感じです。
凡そ初期報道は乱れ勝ちですから、もう少し時の経過を待たねば事故の精確な詳細は判明しますまい。
其を承知で、なほ、現時点で以下の如く観(変換ミスに非ず)じて居ります。
搭乗員が民家に被害を及ぼさざる可く、燃える乗機を操縦し続けて遂に市街地を避るを得、為に自ら
は脱出の機に遅れ、殉職したとは天っ晴れ、見事な軍人精神と感服致します。
908 :
北斗星:03/05/05 22:45 ID:1VWtqiJZ
戦前の軍人には當然の事でした。古い話故詳細は記憶しませんが、昭和初年、英國勤務の我帝國
海軍搭乗員小林淑人大尉が、倫敦上空で操縦中に空中火災に遭遇し、全身に大火傷を負ひながら郊
外迄飛行して遂に英國に被害を及ぼさず、辛うじて生還した事がありました。
此は外國人の目には一際見事に映じたらしく、英國の母親達は子供の道徳教材に用ひたさうです。
母「あなたは日本の小林淑人大尉を知ってゐますか」
子「はい、知ってゐます」
母「何をした人ですか」
子「燃える飛行機を操縦して倫敦市民を救ひ、自らは大火傷を負った人です」
母「あなたは其を聞いてどう思ひますか」
子「僕も日本人に恥ぢぬ立派な人に成り度いと思います」
母「大尉の國、日本は我英國にとって如何なる存在ですか」
子「はい、我等の誇とする同盟國でした」
母「あなたは英國の少年として、英國の友・日本を見て、何を感じますか」
子「日本の友人に恥ぢぬ英國であり、英國人であり度いと思ひます」
母「では、励みなさい」
子「はい、お母様 僕は恵まれてゐます 幾ら励んでも焼け死にはしないのですから」
斯様な次第ですから、戦前、日本人の評判は甚だ良好でした。悪くなったのは戦時の對敵宣傳戦
以降の事です。
此も英國の話。或青年士官が下宿先を求めて新聞廣告を出した所、早速申出があった。行って見
ると、到底庶民とは思へぬ豪壮な館で、城か宮殿と言った趣である。間違ひかと思ったが、為念、
來意を告げると、貴族の風格漂ふ何とかの間へ案内された。貴婦人が出て來て言ふには、間違ひで
は御座いません。如何にも當家は下宿屋では御座いませんが、幼い子供達が居ります。此子供達を
立派な紳士に育て上げるのが妾の望みで御座います。日本海軍の士官に住んで頂けば、子弟の教育
上さぞ好影響が有らうと存じまして、僭越ながら申出ました次第です。何卒御屋敷同様に思し召し
て御住まひ下さいませ。
「海軍士官たる者、戦時には戦闘の第一線に立ち、平時には道徳の第一線に立たざる可からず」
此理念を具現してゐた父祖の、高徳の程が偲ばれます。
909 :
北斗星:03/05/05 22:55 ID:1VWtqiJZ
斯くの如き日本武士道の傳統の、核心部分を航空自衛隊が受け継いでゐるなら、今更に
何をか言はんや。武士道未だ死せず、軍人精神未だ滅びず。今次航空自衛隊の殉職將校は、
誰にも褒められず黙々と住民を護って死んで行かれました。自衛隊への日頃の風當りから、
命を捨てて住民を救った所で誰も褒めて呉れないことも、残される家族に碌な遺族年金が
払はれないことも知って居られたでせうに、誰も褒めずとも黙々と職務に殉じ死んで行か
れました。燃えるジェット機を操縦して・・・
勇戦敢闘戦場の花と散らんも、平時民間の被害を避け黙々と墜死するも、軍人精神に甲
乙無し。
赤誠奉公唯信念 献身殉國唯本分
定めし彼岸にて 先帝陛下より御嘉賞有らん。小林淑人大尉の後進たるに恥ぢぬ軍人精
神は、まさに古の烈丈夫の為せる所、眞に我が及ばざるなり。
誰も褒めないなら、せめて小生だけでも其高風を欣慕し、賛嘆顕彰せんとする次第。明
日の出講に際しては、惜しみても余り有る武夫と心から黙祷を捧げ、天翔ける銀翼を完爾
と見上げる事が出來さうです。
■編集長・伊勢雅臣より■
11月29日産経新聞讀者投稿欄「談話室」には、小林淑「夫」大尉のことが紹介され
ていましたが、元海軍中尉の方から北斗星様に連絡があり、小林淑「人」大尉が正しいと
の事です。
国民を守ろうというのは「公」、自分が助かりたいというのが「私」とすれば、軍人精
神とは「公」を重んずる精神の典型と言えます。現代日本の政治家や経営者の汚職も、青
少年の礼儀知らずも「公」の精神があまりにも無視され続けてきた事の現れでせう。「陸
海空軍その他の戦力はこれを保持しない」という日本国憲法の影響がこんな所にも窺われます。
購読申込・既刊閲覧:
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[email protected] Japan on the Globe 国際派日本人養成講座
http://come.to/jog
宣伝されてもね。
わりと不偏的65点
911 :
北斗星:03/05/06 01:55 ID:Z+LX92yP
そりゃ失敬
再入力の手間を省いただけなのですが、今後は、宣伝と誤解されぬやう注意します
毎日の記者ゴミの爆弾事件の話だが、この事件で殉職した警備員は
咄嗟に爆弾の上に覆い被さるようにしたらしい。
そのため、周囲の警備員の命が救われた。
しかし、上半身は粉々に飛び散ってしまった。
残された婚約者は死に顔を見ようとしたが、死体の状況を知る
まわりの人間に止められ、とうとう見せてもらえなかった。
913 :
名無し三等兵:03/05/07 00:10 ID:qKVQUE8k
>>912 泣けるな・・・( ´Д⊂ヽ
相乗効果で毎日糞汽車への怒りが沸々とわきあがる・・・・
>>912 クラスター爆弾を非人道的と喚く毎日の記者が、クラスターの不発弾で人に大迷惑をかけたんだからな、皮肉っつ〜か。(苦笑
潔く切腹してください。>毎日記者
ビスマルク特番から。
この声は、水中マイクを通してビスマルクに届いた。
ヴァルター・ウエィンツ(ビスマルク生存者):
ふるさとに帰れなかった人たちにあいさつを送りたいと思います。
61年間、彼らの家は海の底でした。
安らかに眠ってください。
仲間たちよ。決して忘れはしない。
平和な日々の中で、いつも君たちの事を思っている。
(「仲間たちよ」の部分は「戦友たちよ:カメラーデン」って原語で
言ってるんだけど、NHKの訳のほうがしっくりきたんで、そのまま聞き書きしました)
軍人精神は良い。然し乍ら、武士道を云々とは如何なものだらうか。元々「武士」等と云う存在は、江戸期の人口に比して三厘程度しか居なかつた訳であるから、其の殆どが市井の出であるところの兵逹に武士道を実践させやうと云ふ亊自体が間違つているのでは無いだらうか。
>>912 殉職したAli Sarhan氏には最大限の敬意を表するが、
>咄嗟に爆弾の上に覆い被さるようにしたらしい。
・・についてはソースが無い上に、なにしろ何時爆発するか分からない不発弾の事。
さすがに瞬間的に行動できたとは思えないんだよな。
919 :
名無し三等兵:03/05/07 12:26 ID:OYwO+a8h
>>918 先進国製の兵器の場合、市民の誤爆を防ぐために
爆発する数秒前に警告を発する機能があるとか?
いや、しかしそれじゃ兵器として意味ないか。
920 :
名無し三等兵:03/05/07 14:15 ID:uEYNV0W+
リーマン辞めて、必死で作ったWebショップが潰れた。
退職金も使い果たし、もうダメぽ
>>920 それは・・軍板的にどうなんだろか。
派遣とかバイトでもして食いつなげ。明日があるさ。
922 :
__:03/05/07 14:35 ID:???
>>918 しかしながら、アレが爆発して犠牲者があの程度で済んだのだから、何かが「壁」になったのは確かだよね。
その「壁」が「何」でどうなったかを考えると(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
924 :
名無し三等兵:03/05/07 14:57 ID:QosBtraa
2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女が門をくぐった時、守衛さんは彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。
>>887 操縦室後方にある、非常用の空気取り入れ口が、
誰かの手で開けられていた、という話も聞いたことがあります。
(ソースは天文誌「天文ガイド」)
NASAは公式な見解として、
「乗員は衝撃で一瞬で意識を失ったはず。恐怖や苦痛は感じなかったろう」
としていますが……。
>925
こんな散々ガイシュツな、ソースもなければ具体的でもないコピペで泣けるようでしたら
このスレでなくとも感動するネタに困ることはないと思うが・・?
928 :
名無し三等兵:03/05/08 02:11 ID:q/tvLGXa
俺のおじいちゃんは日記をほぼ毎日つけてた。
そんなじいちゃんも病気で亡くなってから30年以上たってるんだけど、
死ぬ数日の前の日記にこう書いてあった:(現物は手元にないからうろ覚えだが)
あす、兄が帰ってくるそうだ。翌昭和19年夏にビルマにむけ出兵してからずっと会ってない。
家の増築などしてかなり変わったものだから兄が帰り道で迷わないか心配だ。
インパール作戦を戦った兄の武勇伝。英軍を蹴散らした話、
イラワジ河南岸での戦闘の話、現地の娘と結婚した話・・
聞くの楽しみでしょうがない
今日も高熱が出ているようで家内が心配してくれているが、
それよりあすが待ち遠しい。兄が帰ってくる。
こんな感じの内容だった。
ちなみにじいちゃんの兄は昭和20年に中国で戦死している・・
妄想日記かよ!じいちゃん(泣
おじいちゃん・・・・・。・゚・(ノд`)・゚・。
>>928 じいちゃん・・・(涙)
私の父
自衛隊を定年退職後 64歳で他界
最後はガンとの戦いに負け点滴でモルヒネ漬け
その数ヶ月間に何度か、たまになんだけど
「おい!○○がくるぞ!鉄砲もってこい!拳銃でもいいぞ!」
父ちゃん・・・・
931 :
930:03/05/08 15:42 ID:???
スレ違いですな、失礼しました
932 :
名無し三等兵:03/05/08 19:24 ID:TUeRYXvi
>>931 いえいえ、でも〇〇の内容が気になるぅ!!
露助?
支那とみた。じいちゃんは未来を見たんだきっと。
前スレご存知の方おられませんか?
936 :
名無し三等兵 :03/05/09 06:30 ID:CrBy5Nz/
>>936 「JAL123便」でぐぐると二番目に「自衛隊に撃墜された」って出てくる。
一部の人の間では無関係ではないな。
938 :
ちょと:03/05/09 10:06 ID:???
南太平洋海戦当時、瑞鶴艦爆隊第三中隊長 石丸 豊大尉の話。
「彼は出撃する直前に、二ヶ月前結婚したばかりの妻の実家を訪れ、義父と談笑した。
庭は鉄砲ユリの花盛りで、彼はそれをしばらくみつめていたが、
「お父さん、この花が今度花をつけるまできっと帰ってきますから、それまで治子を
いまのままでお願いします」
治子は当時十九歳であった若妻の名である。いまのままで、という意味をつかみかねて
父親はけげんな表情をした。その日の二日前、石丸大尉は戦闘機乗りの弟邦雄少尉にも
同じような遺言をつたえている。霞ヶ浦航空隊の教官室で、弟に向かって彼はこういった。
「今度の戦闘で、ふたたびおれは生きて帰れるとは思えない。どうだ、おれが戦死したら
治子を貰ってやってくれんか。そのためにまだ肉体上の結婚をしていない。彼女はまだ処女
なんだ」(海空戦 空母・瑞鶴より)
石丸 豊大尉は、同海戦で戦死。
939 :
け:03/05/09 10:42 ID:???
940 :
名無し三等兵 :03/05/09 13:41 ID:U5zs+hcr
941 :
名無し三等兵 :03/05/09 13:42 ID:U5zs+hcr
当時の航空情勢を知っている人間で撃墜されたと言う話を信じているヤツはどれくらいいるんだろう……。
>>942 某白装束並の、電波(レーダー波)感知能力を持っている人がいるんだろうな。
うちの父親は「米軍が落とした」と言っておりました。
945 :
名無し三等兵:03/05/10 08:25 ID:Vv5+CPX3
臨場しました。当時も今も、「機密」扱いでした。除隊した今も語れません。
ただ、眠るような顔の子供の遺体が今も夢で見ます。
夏がまたやってきます。
946 :
ちょと:03/05/10 08:57 ID:???
菊水作戦での駆逐艦涼月の佐世保帰投の話
涼月は途中で沈んだのだろう。(中略)そう考えていたとき、(八日)午後2時
20分、涼月は後ろ向きのまま、9ノットのスピードで、佐世保に帰ってきた。
(中略)かま室の前の隔壁は、全部にあいた大穴から海水がでたりはいったりして
いて、水圧をまともにうけていた。
そのうえ、船体は前に10度傾いていて、前進をかけると、(中略)薄いかま室の隔壁
はたちまち破られ、(中略)一瞬に沈没するだろうことが目に見えていた。
(中略)涼月の乗組員たちは、そろそろと、後進をかけた。あぶないところには、
補強材を運んで、つっかい棒をした。(中略)
一分一秒が貴重だった。フネガ精魂つきかけていた。三隻のえい船が、1隻は艦尾を、
2隻は両舷から涼月を横抱きにして、強引に、扉をあけたドックに引っぱりこんだ。
涼月がドックにはいるやいなや、すぐに扉をしめ、急いでドックの水を排水しはじめ
たが、涼月は、もうそのときは、ズズズズとドックの底にすわりこんだ。水がかい出される
わずかの時間が待ちきれず、ドックのなかで、がっくりと沈没したのだ。
「感動しました。われわれもがんばったが、フネもがんばってくれたんです。(中略)
やったなあ、涼月。すごかったぞ。水がかいだされたあと、私は、ドックの底に降りて
いって、フネの横腹を手でたたきました。(中略)」
鴫之砲術長が、目をうるませてそういった。
砲術長はそのあと、艦内を調べていたとき、一番砲の弾薬通路の左舷側、水線下にある
一へやに、下士官、砲長、兵の3人がたおれているのを発見した。
見ると、そのへやは、丸太で隔壁をささえ、カスガイを打ち、完全に海水を防ぎとめ
てあった。
砲術長は、電気にうたれたように、その3人の遺体にむかって、頭をたれた。涼月は、
前に10度傾いていた。それ以上、全部が沈下すれば、沈没はまぬがれなかった。この3人
は、最後までこの空間を守って、浮力がそれ以上減るのを身をもって防いでいてくれたのだ。
(中略)人も艦も一体だった。涼月がそれを証拠立てた。そしてそれは、涼月のこの3人の
乗員たちのような、駆逐艦乗りらしいめいめいの判断と献身でささえられていたのである。
「壮烈!水雷戦隊」より
947 :
名無し三等兵:03/05/10 10:43 ID:3tvHF+Rr
呉の雪風、佐世保の時雨
948 :
名無し三等兵:03/05/10 11:20 ID:TjQMeszB
>>719 農村出身の田舎もんの方が兵隊向きだったってこった。
>>946 漏れが知っている話とだいたいは同じだが、細部がなんか違う…
写真で見る太平洋戦争シリーズ壮烈水雷戦隊は持っているがそれとはまた違う駆逐艦の本だったが…なんだっけ?
ちょっとソース探すわ
ところで次スレの季節ですね。どなたが立てるんでしょ
950 :
名無し三等兵:03/05/11 12:10 ID:5ZvD08kn
≫939 元々笑うような話ではないよ
952 :
名無し三等兵:03/05/11 13:26 ID:uuzbRDDj
壮烈!水雷戦隊か。
焼亡の頃読んだ覚えがあるなぁ。
953 :
:03/05/11 14:49 ID:???
>>949 前スレの終わりの方に書いてあった
「激闘駆逐艦隊」か「第41防空駆逐隊戦記」?
954 :
コヴァ:03/05/11 15:41 ID:TE62QqEn
歴史群像のバックナンバーで読んだ、シナ戦線のカレー秘話。
戦後帝国ホテル総料理長になった村上信夫氏は、当時歩兵連隊の歩兵砲中隊にいたが、激戦を前にした夕方、
中隊長から「兵隊たちにうまい物を食わせてやってくれ」と頼まれ、とっておきのC&Bのカレー粉を使って、
帝国ホテル流本格カレーを調理。香ばしいにおいに、たちまち兵隊たちの歓声が上がった。
そこに通りかかった、上級部隊の少佐が、「誰だ、こんなときにカレーを作っている奴は!」と大激怒。
うっかり美味い匂いを出そうものなら、敵に何かしら感づかれかねない。村上氏はビンタを覚悟したが、
形だけ叱って少佐は去っていた。
激戦で死ぬかも知れない兵たちに、最後に美味い夕食を食わせてやりたいという中隊長の親心を察した
からだろう。
もちろん、村上氏は後でこの少佐のところにもこっそりカレーを「出前」した。
こういうウィットな、いかにも日本陸軍ならではの話がカレーにもあった。
「真空地帯」や「人間の条件」には絶対に出てこないが、日本人らしさ丸出しの日本陸軍のエピソードである。
955 :
sage:03/05/11 16:29 ID:+zCn0nc0
吉田 満 著 「戦艦大和ノ最期」より
忽忙ノ間、第五波、前方ヨリ急襲 百機以上
時に「矢矧」、本艦前方三千米ニ停止シ、
「磯風」ヲ横附ケセントシツツアリ
(中略)
「矢矧」魚雷数本ノ巣ト化シ、タダ薄黒キ飛沫トナッテ四散
「磯風」モ停止、黒煙ヲ吐キツツアリ
辛ウジテ轟沈ヲ免レタルモ、爆弾数発命中セルカ
右ニ「冬月」、左ニ「雪風」、ソノ身ニ数倍スル水柱ノ幕帯ヲ
突破疾走シツツ、「大和」宛発信シキタル
−「ワレ異常ナシ」
屈強ニ艦、ソノ名ヲ賭シテノ力闘ナリ
956 :
955:03/05/11 16:39 ID:???
スンマソン sageヲ書クトコロ間違エタ
>>955 「戦艦大和ノ最期」はもう全部が泣ける話だもんな・・・
いいよ、sage間違いなんか気にすんなよ・・・
960 :
:03/05/12 21:08 ID:KGu/ZddO
>>959 ペリリューも地上戦で日本軍よりアメリカ軍の損害が多いぞ
という話はおいといて
第2次世界大戦の名将を戦ったときの敵味方の戦力比率で見てランキングをつけたら
日本軍で入るのは硫黄島の栗林中将と沖縄の牛島中将だけなんだってね
極東板の出張スレはここですか?
カレーと言えば…
市場でカレー粉を売っていたので
「カレーキター!」としこたま買い込んだ主計兵。
作ってみると、なるほどカレーのにおいがする。
他の兵隊も「カレーキター! おかわりケテーイ!」と大喜びしたが
いつまでたっても誰もおかわりに来ない。聞いてみると
「いやカレーは美味しかった。ところで飯とお新香のおかわりをくれ」
ここでようやくおかしいのに気づいた彼はカレーを味見してみる。
苦くて食えたものじゃなかった。
カレーとは複数の香辛料を調合して作るもので、
日本生まれの彼はカレーの色と香りを出すウコンをカレー粉と思い込み
それだけを使ってカレーを作ってしまったのである…
という話をどっかで読んだな。
954で思い出した話。
シベリアの収容所での話。
調理兵だった男が、死の床に居る上官に「何か食べたい物はありませんか?」と聞くと
彼は「パイナップルが食べたい」と言った。
こんな酷寒の地でパイナップルなど手に入るはずも無いが、彼は熱にうなされ正常な判断力が無いらしい。
しかし、そんな彼への最後のたむけに、と、男は試行錯誤の末、
リンゴを輪切りにしてレモン汁などで煮詰める方法で、パイナップルもどきを作る事が出来た。
それを彼に食べさせると、彼は「美味い、美味い、ありがとう」と涙を流しながら感謝し、間もなく旅立っていった。
数年前にテレビで見たうろ覚えの話なので細かい所が違ったら申し訳ない。
男はどうにか帰国し、テレビ放映当時には大きなホテルの料理長になっておりました。
>>963 自分が知ってる話だと、上官は「こんなうまい物があるのに死ねるかっ!!!!」
って復活したと聞きました。
>男はどうにか帰国し、テレビ放映当時には大きなホテルの料理長になっておりました。
多分自分も同じテレビ番組を見たと思います。
>>963 自分の見たのでは、パイナップルもどきを食った上官は死なず、
見事に復活を遂げていたよ。
たしかアンビリーバボー
>963
初代か二代目かのスレでがいしゅつ。
モナ板の職人さんがAAにしてくれてたよ。
967 :
963:03/05/14 15:12 ID:???
>964-965
別の話と混ざって覚えていたようですね。ご指摘に感謝。
>966
そうでしたか。申し訳ありません。これから過去スレも見てみます。
遅レス失礼。
>804
>その手の左翼の人
たぶん言動から判断するに、本土系サヨじゃなく地元サヨかと。
日本から見れば「親の職業を継いだ息子」だけど、
沖縄から見れば「本土人なのに沖縄の将来を案じてくれた人」の息子が
自衛隊−沖縄の側からしたら、米軍に加えてさらなる基地かよっていう問題になる−に
入って沖縄に来るというのは、父親の(沖縄側から見た)行為を裏切ることに思えてしまうのだろうね。
沖縄ってトコはちょっと特殊な地方で、
たとえば岸信介の安保改正に当時の沖縄サヨはほぼ賛成してたりする。
当初の改正案にあった「沖縄を日米共同防衛範囲に加える」という文言が、
沖縄を本土の平和を守るための捨て石にしない(WW2のときはまさにそういうことだ)
という意味で理解されたのが原因だとか。
いろいろ、難しい。
一旦浮上
970 :
コヴァ:03/05/14 23:38 ID:COCzq5b2
>>963 >男はどうにか帰国し、テレビ放映当時には大きなホテルの料理長になっておりました。
村上信夫氏は、2年間のシベリア抑留を経験。
971 :
名無し三等兵:03/05/14 23:41 ID:My9uvlN5
村上信夫っていうと、帝国ホテルか。
彼が従軍中カレーを作ったら、兵隊たちは大喜び。
士官は「臭いで敵に居場所がばれる!」と怒鳴りつけたらしい。
でも、その後その士官がコソーリと「後でお代わりを持ってきてくれ、旨かった」と
言いにきたとか、こないとか。
972 :
名無し三等兵:03/05/14 23:43 ID:xVu5GFui
>971
東京オリンピックのときの選手村の総料理長ぢゃんか!
>970
村上シェフの話と記憶してます。
なんか聞いた話と思ったら、歴史群像に載ってた話か
パインといえば、映画「連合艦隊」のパンフにとある話があったなぁ
(詳しくは映画「連合艦隊」スレにどうぞ)