長篠の戦いの三段打ちは大うそか。

このエントリーをはてなブックマークに追加
1次郎
信長が武田を破った長篠の戦いでの3000挺の鉄砲の三段打ちは大うそ
であり、当時武田の騎馬軍団なるものも存在しなかったと鈴木眞哉
氏の『謎とき日本合戦史』(講談社現代新書)に書かれていますが
軍事板の方のご意見をおきかせください。
2名無し三等兵:02/02/07 22:21
2get
3名無し三等兵:02/02/07 22:22
何を今更。
お嘘だよ。
板違いにつき終了ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4名無し三等兵:02/02/07 22:25
嘘です。
武田軍はボックス陣地に誘導され殲滅されました。
5名無し三等兵:02/02/07 22:25
でも司馬リョン以降、信じ切っている人も多い。
6名無し三等兵:02/02/07 22:27
うわ・・
前装銃スレ立てようかと思ってたら先を越された・・・・
7某研究者:02/02/07 22:31
しかし歩兵が用いる銃弾を止める為の車竹束や竹束の盾(此れは武田信玄考案か)は使用されたのか
反れと騎兵を連動させ至近で下馬戦闘させれば
(遠距離の銃弾は当世具足で止め馬は歩兵の竹束で防護するか)
損害はかなり押さえられた様な気もするが
まあ矢張り柵を盾越しに破壊出来ず其処で銃撃を受け壊滅したと言う事なのか
8名無し三等兵:02/02/07 22:31
メチャメチャ本当だよ。なんてったって俺はこの目で見たんだから
ウソだウソだという奴、根拠を言え!
9名無し三等兵:02/02/07 22:33
>>7
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!
10名無し三等兵:02/02/07 22:34
つーか迂回部隊に後方遮断されて緊急撤退時に大半の損害出したと思ったが。
11某研究者:02/02/07 22:35
まあしかし欧州には銃弾を止める盾は存在した訳なのだろうか
(或いは盾は無く当世具足よりは鉄板の厚みの有るパイクマンアーマーを使用したと言う事なのか)

まあ車竹束・竹束の盾も大筒や大砲は止められぬ訳だろうが
長篠では大砲や大筒は用いられた訳なのだろうか
12名無し三等兵:02/02/07 22:37
>>7
あ、あの、猊下は長篠の種子島三千丁〜という説を信じてらっしゃるのでしょうか?
13名無し三等兵:02/02/07 22:38
その本こそうそだね!!
たまに居るんだよ、定説をくつがえして
めだとうとする奴が。
14名無し三等兵:02/02/07 22:54
武田軍には鹵獲した61式戦車やM3ハーフトラックがあったので
前装式滑腔銃では太刀打ちできません。一部の武将は64式小銃を装備し
火力の差は歴然としていました。三段打ちどころではなかったようです。
15 :02/02/07 22:55
>>14
戦国自衛隊?違うか…
16巨大ネコ ◆rpNEKO/A :02/02/07 22:56
 まあいくら天下統一寸前の信長といえども鉄砲三千丁を買い集める程の経済力
 があるとは思えず矢張り是れは夢物語な訳だろうか(苦笑
 だとすれば一体どういった経緯でこの様な俗説が誕生した訳なのか
\______ ___________________________/
          |/
         ∧_∧
  (○)   (∀・  )
  ヽ|〃    (∩∩  )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
17名無し三等兵:02/02/07 22:58
「三段打ち」って、一本足打法や振り子打法に続く新しい打法ですか?
18名無し三等兵:02/02/07 22:58
そりゃ弱い尾張兵にまけた武田が鉄砲のせいにしたんだろ
19某研究者:02/02/07 23:01
>まあいくら天下統一寸前の信長といえども鉄砲三千丁を買い集める程の経済力
>があるとは思えず矢張り是れは夢物語な訳だろうか(苦笑

まあしかし弓や槍・刀より鉄砲の方がコストが安いと聞いたし
数を揃えるのは難しい事な訳だろうか
20某研究者:02/02/07 23:03
故に槍3000或いは弓3000揃えるより安いなら
配備は可能だと思うがどうだろうか
21名無し三等兵:02/02/07 23:05
板違い。
総員退艦。
22名無し三等兵:02/02/07 23:05
>>20
松永久秀(だっけ)に鉄砲を借りたらしい
23名無し三等兵:02/02/07 23:06
>>19
銃のコストが剣や弓(石弓)より安くなったのは、16世紀の西欧の現象で
あって、信長のころの日本戦国時代には当てはまらないかと思われます。
当時の堺製の筒の値段など調べてくるので少々お待ちを・・・・
24名無し三等兵:02/02/07 23:07
>20
つーかどう考えても種子島の方が初期費用も維持費もかかると思いますが。猊下。
25兵八:02/02/07 23:10
>1
つーか、生火を使う上に火皿が剥き出しの種子島は、一歩間違うと飛んできた火の粉で
暴発事故を起こすから、密集隊形を取って矢継早に撃ちまくるなんて使用法は不可能だったそうだよ。
日本の銃兵は、戦国時代から散開しての狙撃戦術が基本だった。
(「軍学考」より)
「戦国時代の日本は、西欧は目じゃない位、銃の保有量が高かった」
っていうのをどっかで見たんですが、ほんとけ?
27名無し三等兵:02/02/07 23:16
確か長篠近辺の丘陵を陣地化したんだよな。
んで柵を何層も作って多層防御化して鉄砲部隊は分散配置して集中射だっけか。
28名無し三等兵:02/02/07 23:17
でも、当時の合戦の絵なんか見ると
鉄砲足軽は隊列組んで射撃してるよね
29名無し三等兵:02/02/07 23:21
結局、量で優勢な上に陣地防御してる織田軍に
武田軍が正面攻撃して撃退されたってことじゃないの?
種子島が大きな役割を果たしたことは否定しないけど
30名無し三等兵:02/02/07 23:25
おそらく信長はフロイスあたりの宣教師から、西欧の
火器防衛戦術の情報を仕入れていたのでは?
31巨大ネコ ◆rpNEKO/A :02/02/07 23:30
>>19
 わーい猊下にレスもらっちゃった♪男子の本懐ここに極まれりであります。

 たしか同時代のスペイン方陣って、この三段打ちと結構似てるんじゃないで
 せうか?防御と攻撃の違いこそありますが。
\______ ___________________________/
          |/
         ∧_∧
  (○)   (∀・  )
  ヽ|〃    (∩∩  )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
32名無し三等兵:02/02/07 23:31
どいつも憶測で書いてからに
誰か見た奴はおらんのか
33巨大ネコ ◆rpNEKO/A :02/02/07 23:32
 >>32 んな奴おらんわヴォケー!
\______ ________/
          |/
         ∧_∧
  (○)   (∀・  )
  ヽ|〃    (∩∩  )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
34名無し三等兵:02/02/07 23:35
テルシオは防御メインだが
35名無し三等兵:02/02/07 23:38
そーいえば安土城の構造とバスクの城がクリソツって話もあったな。
実際、西洋の戦略・戦術はどこまで日本人に伝わったんだろ?
南蛮鎧や兜が急速に普及したことを考えればそーした物が作られた背景も
伝わってこよーものなんだが。
36某研究者:02/02/07 23:39
>テルシオは防御メインだが

まあ射撃能力を増すだけなら横隊の方が良く
主に騎兵突撃に対する防御力を持たせたと言う事なのか
(まあ傭兵の逃走防止の為に密集方陣を用いたとの意見も有る訳だろうが)
37名無し三等兵:02/02/07 23:41
うんうん
相当研究してたんではないだろうか
戦争やってるんだから、連中にとって宇宙人みたいな外人がきたら、まず軍事関係の質問を
するよなあ、絶対
38巨大ネコ ◆rpNEKO/A :02/02/07 23:42
>>34
 確かに自分のレス読み直すと「防御と攻撃の違いこそありますが。」この部分は
 ちょっとおかしい。逝ってきます。。。
\______ ___________________________/
          |/
         ∧_∧
  (○)   (∀・  )
  ヽ|〃    (∩∩  )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
39名無し三等兵:02/02/07 23:42
テルシオは全周囲への火力・防御力発揮が目的では?
40名無し三等兵:02/02/07 23:43
信長勢の中に、千葉ちゃん率いる一個小隊が加勢してたよ!
41名無し三等兵:02/02/07 23:45
大友の國崩しもアレか。(フランキ砲だっけ?)
>>33 400返せ、ウワーン
       ∧_∧ 
      (  iДi)
      ⊂  ._つ
      人 Y
       し'(_)
よくいるよね、クラスに一人は歴史の授業で三段撃ちの戦法を
熱弁する奴。おい、シュマイザーをよこせ。GEVOVOVOVOVOVO!!
43名無し三等兵:02/02/07 23:52
テルシオの槍兵は、身も蓋もなく言えば野戦陣地で銃兵を防護する障害物の代用品です
銃兵の小さなボックスを槍兵の横長のボックスの四隅に配置するフォーメーションはあくまで基本型です
銃兵は、射撃戦の際には基本型から射撃方向に配置転換して射撃を行います
白兵戦の際には槍兵の後方に退避します
テルシオの槍兵と銃兵の比率は編制定数で2:1ですが、
実際の編成では1:1に近いケースもありました
44兵八:02/02/07 23:53
>>32
 私の知り合いに武田家臣の子孫の方が居ます。
 その人の家に伝わる話によると、武田方の兵は膝まで浸かる泥濘の中を這うように前進し、
ようやく織田軍陣地に取り付こうとした刹那、至近距離から種子島の狙撃を喰らって
アポーンされたそうです。
 だから少なくとも、騎馬隊の突撃だの三段撃ちだのはデマだと言っておりましたな。
45名無し三等兵:02/02/08 00:04
そういや、武田の遺臣はたしか徳川家(とくに井伊だっけ?)に
召し抱えられたんだよね。
江戸時代は体制側なんだから、そういう「伝説」が出てきたら
すぐに否定できたんじゃないのかな。
三段撃ちの話はいつ頃成立したの?
46巨大ネコ ◆rpNEKO/A :02/02/08 00:05
>>42
 ふはははははははははは☆またの勝負を楽しみにしておりますぞ大尉殿!

 テルシオの特徴のひとつとして、「弾込めに時間のかかるマスケット銃の欠点
 を克服する為、銃兵を数段の隊列として交代しながら連続射撃」つーのを何か
 の本で読んだ記憶があるのですが、これは正しいのでしょうか?
 つーか、いつからテルシオを語る擦れになったのだ?
 ・・・私のせいでした。もう寝ます・・・。
\______ ___________________________/
          |/
         ∧_∧
  (○)   (∀・  )
  ヽ|〃    (∩∩  )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
47次郎:02/02/08 00:12
貴重なご意見の数々ありがとうございました。
歴史学者は戦争オンチ(軍事オンチ)の傾向が
強く、軍記物の記述や旧陸軍参謀本部編纂の
『日本戦史』の記載をそのまま信用してしまう
ことが多々あります。軍事板の皆さんの視点から
しておかしなことを言う歴史家がいればどんどん
注意してやってください。
48名無し三等兵:02/02/08 00:37
たしか日本も朝鮮出兵のころには、テルシオらしきものを
つかっていたらしいから、信長あたりが長篠でつかった可能性もあるのでは?
49角川春樹:02/02/08 00:38
三段打ちは川中島の合戦だよ。
50名無し三等兵:02/02/08 00:45
>>49
春樹ちゃんは御薬飲んで(打って)
塀の中でおねんねしててね
51名無し三等兵:02/02/08 03:44
長篠の戦の屏風に鉄砲隊が描かれてるけど、
あいつら何故か馬止め柵の前に居ない? 漏れの気のせい?
52 :02/02/08 04:40
>>51
いるな。一つ目の柵の前、一つ目の直ぐ後ろ、もう少し後ろ(当然射線はずらす
って感じでばらけて構え、交互に撃ったのかな?
53名無し三等兵:02/02/08 09:25
な〜んか昔にNHKの歴史番組で、実証してなかったっけ?従来の説通りだと全然
役に立たたないって結論(突破される)。直前まで大規模な土木工事をした記録と
現場を掘り起こして調査したら、土塁をこしらえて(トーチカ)射撃手1名と弾込
めの足軽5名に火縄銃5丁を1セットにして連射したような結論!!
これならかなりの早さで打てる・・。
54名無し三等兵:02/02/08 09:53
>>51-52
これだね。
ttp://asao20.hoops.ne.jp/nagashino.htm
これじゃ、三段撃ちでもないなぁ。(w
かなり絵師の創作が入ってしまっているのかな。
55名無し三等兵:02/02/08 10:28
そろそろ武田騎馬軍団vs織田鉄砲三段撃ちスレッドが立つとか言ってみるテスト
56名無し三等兵:02/02/08 10:39
>54
あの〜この絵って江戸時代中期の作で、当時流行っていた軍記ものを題材に
書かれた奴ではありませんでしたっけ?
つまり長篠の合戦に対する資料的な価値は0です。
53の言っているNHKは見ました。堂々日本史だったかな。
あと、信長は野戦築城の名手だったようです。
相手の城の周りに付城を幾つも築いて、線で包囲し相手の領土の支配を
遮断する戦略は、秀吉をはじめとする配下の武将に受け継がれています。
詳しくは戦国・三国板に言って聞いたほうがいいと思いますよ。
57参暴総長:02/02/08 10:50
>>53
それ見た記憶がある たしかトーチカというよりは歴史上
初めての塹壕戦とかって解説してなかったっけ?
58 某S :02/02/08 11:03
おれもNHKで見たんだが、
部隊は、双方の鉄砲の音が聞こえないほど遠距離に分散配置されてたようだ、
現地は、山と谷つらなる田舎の風景で、
1000丁の銃が横に並べるような平地は無かったよ。
攻める方も、騎馬兵が役立つような地形ではないな。
59 某S :02/02/08 11:06

織田軍にしても、
敵がどの谷を通ってくるかわからないのに、一箇所に3000丁の銃を集中
させて、陣地を構築するなんて事はできなよ
60名無し三等兵:02/02/08 11:08
長篠城にいったことがある人はいないのかな?
合戦が行われたのは城から数キロ下ったあたりで山間ではあるけど
幅1キロくらいの平坦なところだよ
61七資産:02/02/08 11:14
俺はNHKじゃないんだけど、昔(十年ぐらいか?)にテレ朝でやってた時代考証番組
(タイトル忘れた)でも三段撃ちのことをやっていたけど、「はやごう」を使えば三人でも
問題なく連射ができていたのを記憶している。
62 某S :02/02/08 11:16
>幅1キロくらいの平坦なところだよ

堂々日本史の現地映像とは明らかに違う場所だな。

63シロツグ・ラーダット:02/02/08 11:35
先月だかの「歴史群像」で、一応、誰かが最新の長篠合戦研究のダイジェスト
書いてたじゃん。
戦死者の数が両軍多くて、おそらく混戦で、武田軍が撤退したのは、織田かどこかの
遊撃に後方兵站線を脅かされたからに過ぎない・・・

とか。
うろ覚え、すまん。
各部門、応答しろ!
64電圧:02/02/08 11:36
いける!

・・・隊長、いくらなんでも迷惑なのでやめましょう
65シロツグ・ラーダット :02/02/08 11:37
だね。テルシオにいくまえに、長篠の戦闘棋譜再現すべきだな。失礼
66メビウス1 :02/02/08 11:43
>>60
長篠城、五年程前に行きました。
川のスグそばで 面積は狭かった。飯田線も目の前走ってるし、駅からも近く駐車場完備だ。
67名無し三等兵:02/02/08 11:46
>66
その川が当時は小川でしかも泥濘状態で天然の堀だったってことか?
68名無し三等兵:02/02/08 11:47
戦国時代の各国の鉄砲保有量を比べた場合、
世界一は日本だった。

と書いてあるアメリカの教科書がある。
と聞いたことがある。
69名無し三等兵:02/02/08 11:51
戦三の馬鹿どもと同じ視点で語るなよ・・・軍事板のつわものどもよ。
戦術のみに脳内肥大した近視眼的な馬鹿どもと同じ土俵で語るな・・・
長篠の合戦は一つの要因でしかないんだって。
それ以前に軍事を支える埋めようの無い経済力の格差が、
既に信長と勝頼の間には存在したんだって。
70 某S :02/02/08 11:51
長篠合戦で注目すべきは、
武田軍の死者の多さだろう。わずか数時間の戦闘で名だたる武将をはじめ、
大勢の人が死んでいる。
やはり、鉄砲の打撃力あっての戦果ではないか。
71 某S :02/02/08 11:53

織田vs武田スレではないずら。
72メビウス1 :02/02/08 12:00
>>70
長篠合戦では、鉄砲隊の攻撃より、追撃戦での戦死者の方が多かったと聞いたけど
>72
それは当時のどんな合戦でも言える事だと思う。
隊形が崩れちゃうともう駄目なんだって。
74花右京冥土隊:02/02/08 12:54
武田の死者の9割は総崩れになった後の追撃時に発生したそうだね。
その前の段階で同数の織田・徳川兵が戦死してるから、そっちの方が怖い。
(まあ織田・徳川は雑魚ばかりだけど)
75名無し三等兵:02/02/08 13:08
国内火縄銃サイト
ttp://www.japaneseweapons.com/hinawajyu/index.htm

ヨーロッパでの前装式フリントロック銃についてはここが詳しい。
ttp://www.sanynet.ne.jp/~imperial/Napoleon/weapon.html
実戦での発射速度や死傷者あたりの弾薬消費量など興味深いデータ有り。
直接種子島と比較できるわけではないが、参考までに
(火縄銃についてはデータ見つからず。確か鈴木氏の「鉄砲と日本人」で
詳しく述べていたと思うけど)
76名無し三等兵:02/02/08 13:32
>>74
統制を失ない混乱したまま逃走を図った武田勢構成員が
織田・徳川勢の追撃をうけ各個撃破されたということですか。
いわゆる潰走という戦術敗北の一形態でしょうか。
77名無し三等兵:02/02/08 13:47
鉄砲の三段うちを、1000人の横隊が「一斉に射撃」したとは
どんな史料にもない。
しかし1000人が一斉にではなく個別に射撃したと言えなくもない。
三段うち否定論が真っ先に出した疑問は、
「一斉射撃のための統一指揮(電信のない時代に数キロにわたった横隊が
同時に同じ行動を起せるわけがない)」
というものだったが、自作自演もいいところの論法。
3列が個別に射撃すれば射弾数は同じとなる。

これに刺激されたNHKが歴史番組でいかにもそれらしく
三段うち否定論を演出して見せたが、
下手な芝居に見えた。

3000丁の鉄砲をそろえたことへの異論も、
「学問的手柄」を狙った奇論的匂いなきにしもあらず。
78名無し三等兵:02/02/08 13:55
>>68
「鉄砲を捨てた日本人」
という書物ではなかったですか?
それを必死に否定して回っている日本人の
学者がいるようですね。
79名無し三等兵:02/02/08 14:31
>69
>それ以前に軍事を支える埋めようの無い経済力の格差が、
>既に信長と勝頼の間には存在したんだって。
どれくらいあったの?桶狭間の例もあるから単純には比較出来ないかもしれんけど。
80名無し三等兵:02/02/08 14:39
なかなかの良スレで御座いますな
81ヒッスラー:02/02/08 14:58
多分、本当でしょう。
82 某S :02/02/08 16:14
火縄銃隊を、3〜5人セットで運用する戦法は、特別なものではなく、
むしろ一般的な、戦法だった。
信長はそれを防衛戦に大量投入することで強力な打撃力になった。
と思ってたら、

>武田の死者の9割は総崩れになった後の追撃時に発生したそうだね。
>その前の段階で同数の織田・徳川兵が戦死してるから、そっちの方が怖い。

ということが事実であれば、鉄砲の存在はさして重要ではなく、
勝敗を分けたのは、3万人VS1.5万人の戦力差という単純な理由になる。
83名無し三等兵:02/02/08 16:34
時間的に見ると酒井忠次4000の迂回部隊が武田軍の長篠城攻囲部隊3000を撃破、
篭城していた奥平部隊と共同で退路遮断に出たため武田軍は敵陣を正面突破する
しかなかったらしい。(島津の正面突破退却と同じですな)
84名無し三等兵:02/02/08 16:43
防衛戦じゃなくて、篭城救出作戦じゃなかった?
85 某S :02/02/08 16:49
長篠合戦三段撃ちは、陣地防衛戦だよ。戦術のハナシ
86名無し三等兵:02/02/08 17:35
NHKの「その時歴史は動いた」で鉄砲三段撃ちを否定してたよ。
87名無し三等兵:02/02/08 17:50
そもそも3000挺じゃなくて1000挺なんだけど(「信長公記」には、一千と書いてあるところに斜線が引いてあって、その脇に三千と書いてある)
88名無し三等兵:02/02/08 18:28
>84
だから正面に敵主力を引き止めておいて救出部隊を迂回させて付城急襲させたの。
決戦前に長篠城が落ちてればこんな惨敗は無かったんだが。
89名無し三等兵:02/02/08 18:37
>>1
三千挺の一斉射撃はなかったけど、3段撃ちはあったっていう
NHKの番組は見たことあるな。
90名無し三等兵:02/02/08 18:37
>>88
陥落寸前までは追い込んだのだが・・・。
鉄砲は役割を示したが、しかしながら通説のようには効果は示さなかった
ってところか。。。
91名無し三等兵:02/02/08 18:47
だからこそ、長篠の籠城組が勲功第一となったのか。
92名無し三等兵:02/02/08 18:49
「信長公記」では、信長はまだ鉄砲の威力については、それほど過信していなく
むしろ銃声によって騎馬の足止めを考えていたように記述されている。

信長勢が完勝したのは>>74の通りであって、鉄砲のお陰ではない。

また、3000挺と言う数字は、まったく根拠がない。
1000挺程度だろうが、実際は1000挺もあったかどうかも怪しいところ。
無理して急造させたため、5挺の銃が暴発して死傷したと言う記述もある、
故に戦力となり得た銃は、1000挺未満だろう。
93 某S :02/02/08 18:52
信長は、身の丈の倍もある長いヤリを好んだというハナシがある。
長槍部隊を密集させ、敵の刀や槍が届かない位置から敵を攻撃する。
このハナシが後世の作り話でないなら、
信長は、アウトレンジ戦法が大好きだった。ということで、
彼が鉄砲に執着したのも、わからないでもない。
94名無し三等兵:02/02/08 18:55
>>92
当時の鉄砲はいしつぶての雨のように相手を叩いて
陣列を乱すのがもくてきだら、鉄砲の威力で陣列を
乱したところを攻撃して>>74のような状態を作ったんじゃ
ないの?
鉄砲のお陰とも言えると思うけど。
95名無し三等兵:02/02/08 18:57
>92
要するに原爆によって日本は降伏した。
最新科学技術の持つ民主国家の前に旧弊の軍国主義国家は滅びて当然なのだ!
といってるのと同じな感覚なわけね。
96名無し三等兵:02/02/08 18:59
長柄槍は信長個人の発想ではなく地域的な趨勢だった筈だが・・・・
97名無し三等兵:02/02/08 19:06
織田・徳川勢にも多数の死者が出ているのがミソ
98名無し三等兵:02/02/08 19:12
織田の鉄砲足軽が種子島を逆さに握って馬防柵を押し倒した敵兵と
殴り合ったって話もある位だから、武田軍が陣前で撃破された訳では
ないだろう
陣前でも突撃する武田を陣前に拘束するために白兵戦が生起したかもしれない
織田の逆襲と武田の対逆襲による陣内戦の末、数で優る織田が武田を押し返し、
攻撃が失敗した武田が退却の途中で追撃されて大損害が発生したんだと思う
99名無し三等兵:02/02/08 19:17
>>98
裏崩れを起こしたそう
100名無し三等兵:02/02/08 19:26
>98
三層の馬防柵を突破して陣内に突入した部隊もあったみたいだしね。
しかし「攻者三倍の法則」が厳然と立ちはだかったわけだ。
101 某S :02/02/08 19:29
現地を想像すれ
雑木が生い茂る、山と谷の戦場だ。
図上で、駒を動かすようにはいかんさ。


102名無し三等兵:02/02/08 20:12
どうも勝手な想像ばかりがはびこっているようですね。
史料というものをどう批判されているのでしょう。
鉄砲3000丁があやしくて1000丁もどうだか、とおっしゃっている方さえいます。
笑止ですね。その理由が知りたいものです。
一体、3000丁の数の出典は何ですか。「信長公記」でしょう。
そして、1000丁といっているのも原典は「信長公記」でしょう。
この二つの情報はいずれも著者が手を加えているので正誤を言うわけには
いきません。
議論で矛盾を感じるのは、一方で信長公記「武田の突撃」の疑問を
言いながら
一方では鉄砲の数を信じたようなことを言う。
勝手な解釈とはこういう事ではないですか。

数については3000丁あったか1000丁あったか今となっては分かりません。
しかし歴史を客観的に創造した場合、3000の鉄砲を当時の信長がそろえる
ことは十分に可能でした。すでにほどなく信長は安土城を立てるほどの
経済力を備えていました。全国のどんな大名よりも経済力を蓄え、
その視点ははるか遠謀を見ていたと評しているのは秋山駿氏です。
また「武功夜話」という「信長公記」よりも早く成立した史料では
信長は朝倉攻めのときに早くも鉄砲の二段打ちをしていると書いているのです。

通説の想像どおりだとしても(3000丁の三段打ち)を完全に否定することも
信長公記の武田の4派にわたる突撃も、現在の段階では誰もできないのが
事実です。
103訂正:02/02/08 20:14
「武功夜話」は「信長公記」同時期ですか(成立時期)
104名無し三等兵:02/02/08 20:20
>織田の鉄砲足軽が種子島を逆さに握って馬防柵を押し倒した敵兵と
>殴り合ったって話もある位だから、武田軍が陣前で撃破された訳では
>ないだろう

これは一体、出典は何ですか。
105名無し三等兵:02/02/08 20:29
>>104
103ではないけれども山縣隊の突撃で一部穴が空いたと言われている
ところからしても陣前撃滅ではなく陣内決戦といえるのでは
106名無し三等兵:02/02/08 20:36
>>102
「武功夜話」って偽書とする説が有力じゃなかった?
107名無し三等兵:02/02/08 21:11
>106
そうです
108名無し三等兵:02/02/08 21:20
NHK「その時歴史は動いた」では
長篠の戦いの前夜に雨が降ったといってました。
その雨でぬかるんだ地面で鉄砲の三段撃ちをやるのは
難しいと言ってました。
109名無し三等兵:02/02/08 21:24
3000丁くらいは織田は持ってたと思うんだけどな。
その十年後には、日本全国で数千丁の銃が撃ち合っていたらしいからな。
110次郎:02/02/08 21:29
長篠の戦いの前夜に雨が降り地面がぬかるんだという点は前出の44の人
の記載と符合しますね。
111名無し三等兵:02/02/08 23:25
長篠の戦いの主戦場は、設楽ヶ原でしたっけ?
112某研究者:02/02/08 23:35
まあ鉄砲が少数でも泥濘地では移動速度が落ち
竹束でも無い限り射撃を受ける時間は増える訳だろうし
仮に辿り着いても疲労により近接戦で容易に撃破されると言う事だろうか
113名無し三等兵:02/02/08 23:41
>111
そう。長篠城から3km程三河寄りの場所。
とゆーか設楽ヶ原の丘陵(茶臼山)に織田・徳川連合軍が陣をしいたから
必然的にそこが主戦場となったの。
もっと密集して五段打ち、六段打ちにすれば・・・Gevovovovovo!!って・・・



あっ、流してください(w
115名無し三等兵:02/02/09 01:28
もう十年くらいまえで、リアル厨房だった時。
三段撃ちは無かったとか言ったけど、周りが信じてくれなかったんだよな。

当時の射程100メートル強。
タマ込めから発射までに30秒弱。
2段以上の構えで突っ込んだら、三段撃ちでは防げない。
って言ったのに、誰も信じてくれなった。
116名無し三等兵:02/02/09 07:14
>>115
それは、あなたが周囲の人の目には無粋に映っただけのことでしょう。
実際無粋です。
つまらないのですよ、そんな知識は。
軽薄な学者がどうとでも解釈できることをさも学問的に言い広めたから
といって簡単に納得する精神がおかしいと思いますね。
三段打ち、3000丁の鉄砲。それで江戸時代300年日本人は語り継いできて
今にそれを伝えている。そっちのほうがずっと重要なことだと思いますよ。
歴史の事実など今となっては分からないのです。どうにでも想像できるのです。
時流に迎合しやすい学説よりも、たとえば

http://game.2ch.net/test/read.cgi/tanka/1011963793/l50

のようなも身近なものの力を信じたほうがいいとオレは思ったりする。

117名無し三等兵:02/02/09 07:35
。雑賀衆の鉄砲の射撃の仕方は優秀な射手に装填役がどんどん
鉄砲を渡していくというやり方。(はやごう)雑賀衆との戦いで得た鉄砲と
その戦法を活用したんでしょ。
118名無し三等兵:02/02/09 07:41
あと今では武器は一振りしか持たないイメージがありますが、昔の
刀、鉄砲は信頼に欠けていたので当然予備を持っていたと考えても
おかしくはありません。刀でも下手な人間が切れば直ぐにボロボロに
なる。鉄砲も直ぐに暴発したことから、予備を何丁か用意させて
いたと考えてもおかしくは無い。 
 武田勢はその予備の数が少なかったのでは?だから射撃訓練も
織田方のようには行かなかった。
119名無し三等兵:02/02/09 10:48
当時のヨーロッパで間断無い弾幕を構成するには6〜10列必要だった。
命中精度に拘ってヨーロッパ製より発射速度が低い種子島が、
3列で弾幕を構成できたとはとても思えんな。
仮に3000挺だとしても、全軍に占める鉄砲足軽の割合は1割程度だから、
種子島だけで勝ったとするのもちょっと疑わしい。
ま、無粋でつまらん知識かもしれんが、疑問を持つのはいいんじゃないのかな?
昔から言われているからって無批判に受け容れるのは思考停止だ

関係ないが、装填した銃を次々手渡しするやり方は暴発の危険があるんで
織田の鉄砲足軽では禁止されてた筈だが
銃の固癖もあるしな
120名無し三等兵:02/02/09 11:00
狙撃しようとしても100mでも種子島じゃ辛いんじゃないだろうか?
121名無し三等兵:02/02/09 11:06
三段空母は実在しなかった!
122名無し三等兵:02/02/09 11:50
>>109
問題は、長篠以降その部隊がどこへ消えてしまったかだ
>>108
雨でぬかるんでいたら、武田勢も騎馬突撃が出来なくなる(下がぬかるんでいるから、脚をとられて転倒する)
123名無し三等兵:02/02/09 11:52
>>121
赤城や加賀の写真は当局によって修正されたものだ!
124名無し三等兵:02/02/09 11:57
>>122
ありゃ集成編成部隊だから、配属を解かれて原所属に復帰したんだよ
125名無し三等兵:02/02/09 12:44
>>108
「その時」では三段撃ちを否定してたくせに、武田方の乗馬突撃は史実であるように扱っていた。
松平アナはアホやね。
126名無し三等兵:02/02/09 12:50
今までの意見でちょっと抜けがある。
射撃部隊は鉄砲だけで構成されていない。弓隊との混成になっている。
装填中は弓隊がフォローするのが基本戦術。

>>122
逆にどこの大名も鉄砲を持つようになって、目立たなくなったのかも。
127名無し三等兵:02/02/09 12:55
井沢氏の著作によると、鉄砲隊の発砲音で騎馬隊の馬が驚き、
騎馬隊は戦闘どころじゃなくなるそうな。
128名無し三等兵:02/02/09 12:57
>>127
馬は結構臆病な動物だ、と聞いたことがありますね。
そう言うこともあるんじゃないでしょうか。
129名無し三等兵:02/02/09 13:00
いや、驚かないようにちゃんと訓練してただろ、普通

130名無し三等兵:02/02/09 13:00
>>127
そりゃ多分調教次第だろう。井沢さんの言うとおりなら、伊達の騎馬鉄砲隊なんかはどーなるんだ。
131名無し三等兵:02/02/09 13:01
つーか馬防柵の手前に連吾川があるから騎馬突撃は無理だろに。
当日雨も降ってたし。
132名無し三等兵:02/02/09 13:03
徒歩突撃であることは間違いないだろうな
133130:02/02/09 13:04
>129
くそ、同時刻なのにマケター!
134山野野衾:02/02/09 13:08
近代までわが国では馬を去勢したり焼き鏝をあてる様な技術・感覚が無く、
すぐに馬が暴れるので騎馬隊など活用出来なかったそうです。
それどころか暴れ馬をのりこなすという個人の武勇の方が評価されて来まし
たから、馬を集団で活用するのは無理。
そもそも「武田騎馬隊」自体が存在しませんでしたし、騎乗の兵ばかりを活
用したのは(数十騎とはいえ)義経ぐらいだったそうです。
135名無し三等兵:02/02/09 13:11
>134
それなら130に出てる伊達家の騎馬鉄砲隊はヨタか?
義経だって騎兵だけって訳じゃないぞ
ちゃんと歩兵が随伴してた
136名無し三等兵:02/02/09 13:15
ネイティブ・アメリカンも野生馬に乗り、馬上で銃を扱っていた。
未去勢馬でも訓練次第だろう。
それとも日本の馬だけ特別だったのか?
137名無し三等兵:02/02/09 13:28
馬は侍の乗る単なる移動手段。従者数人が従って一つの戦闘単位になる。
だから速度は徒歩に合わせるわけね。
138名無し三等兵:02/02/09 13:31
鉄砲の音を訓練されていない馬は、鉄砲の音に驚いて戦闘不能となります。
もちろんこれは訓練可能です。
軍馬として訓練する過程で、鉄砲の音や大砲の音に慣らせます。

139名無し三等兵:02/02/09 13:33
というか、武田は長篠城攻撃にかなりの鉄砲を使ってる。
140山野野衾:02/02/09 13:42
>135
それがよくわからないのですよ。ルイス・フロイスは「馬から下りて戦う」
と書いていたはずですし。
よほど訓練されたものに新しく活用したのでしょうか。
義経云々については、「平家物語」の屋島の段を読むとそういった印象を受
けたもので。まあ資料の信用性や読み方に問題はありますが、参考に。
141111:02/02/09 13:48
>>113
ありがとう。
国土地理院の地図では良くわかんなかった。
あのあたりを記した良い地図ってないですかね。
142名無し三等兵:02/02/09 13:48
雑兵下記だか足軽下記ってどこから出てましたっけ?
143名無し三等兵:02/02/09 13:51
武田の騎馬隊は長篠が初陣というわけでもあるまいに井沢の構想力もその程度か
144名無し三等兵:02/02/09 13:57
だから騎馬隊じゃなくて「歩騎混成」でしょ?
145名無し三等兵:02/02/09 13:59
146名無し三等兵:02/02/09 14:00
>140
例え騎乗しての白兵戦闘は無理でも、前線指揮官たちは騎乗していた
兵士に自分たちの指揮官の位置を示すことは重要なことだったし、
指揮官の最も重要な仕事は自ら槍を振り回すことではない
指揮官の乗った馬が鉄砲の発射音や喚声などの戦争騒音に驚いて竿立ちになり、
騎乗者を振り落としたりしたら仕事にならない
伊達の鉄砲騎兵が特別だったと断定するのはちと無理があるな
147山野野衾:02/02/09 14:06
>146
ドラマや映画に出て来る様な白兵戦を否定しただけで、騎乗自体を否定した
訳ではありません。
しかし伊達家に関する良い資料が思いつきません。何か無いのでしょうか。
そもそも情けない事に騎馬鉄砲隊について記した史料が分かりません。
148名無し三等兵:02/02/09 14:19
日本にいた馬って、ロバみたいな鈍くさいやつだって聞いたけど…。
149名無し三等兵:02/02/09 15:18
>当時のヨーロッパで間断無い弾幕を構成するには6〜10列必要だった。
>命中精度に拘ってヨーロッパ製より発射速度が低い種子島が、

??????
時代を間違ってないか?
150名無し三等兵:02/02/09 15:22
>>148
木曽馬の牧場逝って突撃されてみな。一発で考え変わるから。
151名無し三等兵:02/02/09 15:33
>>150
実際は鎧武者乗せて、おまけに長距離行軍の後のはずだよ
長槍持った足軽集団で迎え撃てば、恐ろしくないかも
152名無し三等兵:02/02/09 15:43
鉄砲は四肢以外に当たれば致命傷。四肢でもかなりな確率で死にいたる。
矢はキズですむ。
負傷者リストを挙げて鉄砲キズの比率が少ないという
某学者の眼は節穴。
長篠では膨大な数の鉄砲が武田の大軍を殲滅した、
この話を信長公記で読んで知る。それが唯一信頼できる事実。
153名無し三等兵:02/02/09 16:08
すいませんが質問です
この時代の日本の騎馬武者は
兵士一人に対して軍馬一頭なんですか?
154フェチ:02/02/09 16:12
国や国力にもよりますが、信玄・勝頼の所は騎馬1人につき徒4〜5人です。
つまり足軽大将が30騎率いていると、約1000人になる。・・・・ようです。
155フェチ:02/02/09 16:13
失礼。本部を含めて、約1000人です。
156鉄板住人:02/02/09 16:17
<井伊の赤備え>って甲州軍法がかなり入ってますよね?
その井伊家の戦時動員中の騎馬武者の割合って、他の部隊と
違いはあったのでしょうか?
もし多めに騎馬武者がいるのなら、騎馬軍団信奉者にとって
みれば追い風かも(W

名前と装具だけ借りて三河の軍法そのままだったりして・・・
157名無し三等兵:02/02/09 16:20
>155
よく理解できませんが。
30×5=150人という計算ではないのですか?
158名無し三等兵:02/02/09 16:26
>156
一般に、東国のほうが騎馬保有率が高く、
西国のほうが火器保有率が高い
159名無し三等兵:02/02/09 16:31
岡山辺りから南西は火器はそれほどでもなかったし
茨城から静岡の間は火器も騎馬もそこそこだったと思うが。
160名無し三等兵:02/02/09 16:32
おいおい、九州の火器保有率はダントツだぞ
161名無し三等兵:02/02/09 16:35
しかし、地図もソースもなしにグネグネ頭の中だけで
語るのはいみあるのかね?
162フェチ:02/02/09 16:35
>157
すまん マジすまんです。酔ってました。
300騎ひきいて 大体1000人です。
163名無し三等兵:02/02/09 16:36
毛利もかなりあったのじゃないか。
当時の交通の要路は東海道ではなくて瀬戸内海。
堺の主要輸送ルートは瀬戸内海を抜きにして語れない。
164フェチ:02/02/09 16:37
>156
徳川家は武田の残党を好んで召抱えたそうですので、多分そうだと思います。
165159:02/02/09 16:37
>160
わざと書かなかった。
ようは虫食い型に分布してて一般論で語っていいのかと。
166名無し三等兵:02/02/09 16:38
足軽大将が300率いて合計1000ってことは、
本部要員が700名か・・・・

俺も酒飲んでから考えるとしよう・・・・
167名無し三等兵:02/02/09 16:40
九州は鉄砲もそうだが、東国と違って異常に弓矢の使用率も高い。
島津が竜造寺を破った戦いでの武勇談がイイ。<弓の運用
168名無し三等兵:02/02/09 16:42
岡山から南西って、毛利、大友、龍造寺、島津・・・・
みんな鉄砲たくさん持ってたんじゃないのか?
169名無し三等兵:02/02/09 16:43
現在の長篠古戦場が田んぼだから当時も田んぼだったとは
限らないでしょう。
なのに「田植えの時期だからぬかるんでいた」なんてことを
書く人がいますが、田んぼであったと言う証拠はあるのですか?
川があって開けていたから田んぼだったとは限りません。
170フェチ:02/02/09 16:44
>166
 もう、ゆるして下さい(泪)。
171名無し三等兵:02/02/09 16:45
毛利は織田と戦った時点では少なかった。
(朝鮮征伐までには戦訓として充実させた)
四国はかなり低い。
172名無し三等兵:02/02/09 16:48
>>169
同意だ。
さすがにおかしいだろう。
173名無し三等兵:02/02/09 17:53
>>58
>>59
などは基本的な知識不足と思われ。
長篠合戦の地図を良く見て戦跡をもう一度歩き、初歩的なパンフレットを
熟読することだ。
結論として信長公記その他の歴史書に書かれていることや、
現地の地図、状況から把握して、
1が疑っているようなことを否定する確たる根拠は見当たらない。
概略通説で正しいと思う。
174名無し三等兵:02/02/09 18:03
ここでの長篠の戦いの解釈はどうですかね?

ttp://village.infoweb.ne.jp/~fwht5110/Hbn1.htm
175名無し三等兵:02/02/09 18:19
ウチは伊達家の鉄砲隊の1番だか5番の隊長(興味がなかったので正しい名称も覚えてないw)の子孫らしいが
騎馬鉄砲隊については全然知らない・・・
伊達家の家来といっても今で16代目だから500年程度だけどさ
ウチの爺さん詳しそうだから聞いてみようか?

当時の鉄砲はすぐ壊れたとこのスレにあるがウチには一丁しかなかったなぁ
5〜6丁あれば一丁位もらえたのに残念
書いてて思い出したが兜じゃなくて陣笠っぽいのだったな
所詮一万石クラスじゃその程度か(苦笑
176名無し三等兵:02/02/09 18:24
騎馬鉄砲ってのは、馬上で取り扱い易いように銃身を短くした
「馬上筒」を使っていたんじゃないの?
177名無し三等兵:02/02/09 18:36
>174
イってますね。
前が田んぼで田植えだったから突撃できない。
通りやすい道が二本あるからそこを通ったに違いない。
せっかく立ち上げたHPもこれだけでパーですね。
178名無し三等兵:02/02/09 18:42
>177
んじゃ、矢張り>>44の証言が正しいのかな?
179名無し三等兵:02/02/09 18:51
>>178
どうしてそうなるの?
180名無し三等兵:02/02/09 19:28
>>175
というか、伊達では実は「騎馬鉄砲」なる兵科がなかったと聞くが?「歴史群像」シリーズによると
181名無し三等兵:02/02/09 19:54
三段撃ちやってる様子が描かれた屏風は江戸時代の作らしいね。
オランダのマウリッツが多弾撃ちを考案したのが1600年頃らしいから
オランダ人から当時最新の戦術を聞いて描き込んだ、ってことは無いの?
182名無し三等兵:02/02/09 20:23
>>181
探せ、材料を探すのだ!
コジツケでも良いから点と点をつぐものを!
世紀の発見になるぞ!
本も出せる!
たちまち有名人だ!
183  :02/02/09 20:23
>>152
>>1-1000

つまりクソDQNにゃ至近距離で7ハン弾で散弾銃ぶち込めってことだろ!!
184題して『坂の上のホモ』:02/02/09 22:01
江戸と世界の係わり合いについては、タイモン・スクリーチないし田中優子の名で
検索かけると、もしかしたら面白そうな本でてくるかもよ。
>>181
江戸屏風ネタですかぁ。いい着眼点ですね
185名無し三等兵:02/02/09 22:07
>>181
「長篠合戦図屏風」のことかな…。
あれ、三段撃ちをやってる場面は描かれていたっけ?
柵の後ろ(一部は前)で数人が横一線にならんで撃ってるような。
186名無し三等兵:02/02/09 22:11
>長篠合戦図屏風

柵の前で撃ってるのは、史実よりも絵としての効果を重視したからじゃないの。
たぶん、全体的にも屏風絵としての完成度を優先した構図だと思うよ。
187ほい:02/02/09 22:17
暗いけど長篠合戦図屏風
http://asao20.hoops.ne.jp/nagashino.htm
マニアが撮った現地写真
http://village.infoweb.ne.jp/~fwht5110/H81.htm
ちょっと面白げなディスカッション
http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/wforum-collection.htm
188ほい:02/02/09 22:19
ルネサンス期の最大の人文主義者(ヒューマニスト)といわれるオ
ランダのエラスムスから名づけられた「エラスムス号」は、のちに
「リーフデ号」という船名になり、アジア貿易開拓のために他の5隻
の船とともに航行中、嵐にあって船団は離散します。

 そして、オランダ船リーフデ号は豊後国、今の大分県の臼杵湾佐志
生に漂着します。1600年3月16日のことでした。
 110人の乗組員のうち、生存者はわずか24人でした。

 彼らは大坂に回航され、翌4月、当時豊臣政権の五大老・徳川家康
(関ヶ原の合戦の5か月)は航海長のイギリス人ウィリアム=アダム
ズを引見します。これがきっかけで、アダムズとオランダ人航海士ヤ
ン=ヨーステンは家康の外交顧問となり、厚遇されます
 それぞれ日本名として三浦按針(あんじん)、耶揚子(やようす)
を名乗ります。なお、東京駅の八重洲(やえす)は耶揚子の居宅がこ
の地にあったことが名の由来です。
 
 1609年7月、大御所家康は、国王(総督マウリッツ)の国書を
携えてやってきたオランダ使節に通商を許可し、渡航証明の朱印状を
与えます。

 ここにわが国とオランダとの貿易が正式にはじまります。

 1613年8月、同じく家康は、イギリス東インド会社から派遣さ
れた社員で国王(ジェームズ1世)の国書を提出したジョン=セーリ
スに通商許可、渡航証明の朱印状を与えます。

 この2国がそれぞれの東インド会社日本支店として開いたのが、肥
前の平戸です。日本人はこの2国の人々の毛髪が金髪であることから、
「紅毛人(こうもうじん)」とよびました。
189名無し三等兵:02/02/09 22:21
ま、なんでも言えるってことは幸せなことで…
190名無し三等兵:02/02/09 22:23
2chでハスにかまえて発言止めると、末路は荒しになるよ
191名無し三等兵:02/02/09 22:25
>>190
ほっとけって、本人は気の利いたこと言ってる積もりなんだよ
192ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 20:11
>伊達家騎馬鉄砲隊
 こんなHPみっけてきた。
ttp://www.m-network.com/sengoku/senpou.html
193名無し三等兵:02/02/10 20:18
具体的にどのような運用だったのかについて一言も書かれてませんが・・・・
194ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 20:33
 ええ、ネットで検索しても、
『道明寺の戦いで後藤基次、薄田兼相の軍勢を打ち破った』
 その後、
『真田幸村にボコられた』
 ぐらいしか書かれてません。

 有名なワリには、具体的には不明っす。
 そんなに有効な戦術なら、戊辰戦争時に騎馬鉄砲隊を運用した藩があって良いとは
思うんですがねぇ……
 誰か、幕末で騎馬鉄砲隊を使ったって話知りませんか?
195名無し三等兵:02/02/10 20:44
龍騎兵みたいなもんじゃないのか?
要は足の速い銃兵みたいなもんだろ?
合戦場での本領発揮は正面切っての火力戦よりも機動力を活かした不意急襲射だろうな
馬上筒ではまともな鉄砲足軽には火力で負ける

マッチロックだから馬上での射撃よりも下馬しての射撃のほうがメインだろうが、
有効だったかどうか疑わしいな
ヨーロッパの龍騎兵は平民上がりが多かったから
泥仕事も嫌がらなかったみたいだが、こいつら全員士分だろ?
戦術的な価値は余りなかったんじゃないかな
196ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 20:46
>>169 さま
>現在の長篠古戦場が田んぼだから当時も田んぼだったとは
>限らないでしょう。

 ん〜 当時は田んぼじゃなくても、湿地とか水はけの悪い土地だったんじゃないかな?
 現在、田んぼになってるぐらいだし。
197名無し三等兵:02/02/10 20:57
>>196
水はけが悪いところに田んぼを作るのじゃないですよ。
灌漑という人工施設(作業)を要します。だから田んぼができる。
開墾前は関係ありません。

それに連子川という川の蛇行、形状についても現在と同一と
想像してはいけない。
今の姿はあくまで人工の土手を築いたもの。自然流路ではないです。
198名無し三等兵:02/02/10 20:58
とりあえず見てないのに推測はいかん
199名無し三等兵:02/02/10 21:01
あるサイトに「昔も今も田んぼだった」と書いているところがありますが、
昔とはいつのことを指すのか書いていない。
そのへんのおばあちゃんが言った「昔」なのか、何かの史料に基づくもの
なのか。
文脈から言うと、限りなく前者に近い。
200名無し三等兵:02/02/10 21:02
当時の戦場を見た人間なんて一人もいないから推測するしかないと思うがな
201ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 21:02
>>197 さま
 それもそうですね。
 古地図を見るのが一番ですね。
202ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 21:06
「その時〜」のHPで見つけた話。

>設楽原の様子を表した古地図
>竹広公民館(愛知県新城市)保管。古地図の年代は江戸末期。郷土史家の
>夏目利美さんが地元に残る検地帳と照合した結果、戦国時代の土地の状況
>そのままだという。

 やっぱし、田んぼだったんだって。
203ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 21:06
「その時〜」の問題のHP
http://cgi2.nhk.or.jp/sonotoki/syoukai/s35.html
204名無し三等兵:02/02/10 21:07
おまえもライアンみろ。田んぼはもういいから(笑)
205名無し三等兵:02/02/10 21:12
>202
なるほど。ありがとう!

江戸末期!
そんなものが証拠になりますかね。

いったい何百年経っているというのでしょうね?
そんな証拠で「昔も今」もと言っているとすれば、
ますます疑わしい。

ちなみに、江戸初期以降は日本の大開墾期。
2倍近くに耕作面積は広がったらしい。
長篠合戦当時はそれをさかのぼること30年。
当時の人口は江戸末期の1/3。

証明するには掘り起こして精密な年代調査をするべきでしょう。
206ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 21:12
 ライアン見ると、昔壮絶に酷い別れ方した、二代目の彼女の事、思い出しそう
になるから…… 最初の30分だけ見るかな?(w
207名無し三等兵:02/02/10 21:13
合戦は12月だから乾田か?
208ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 21:41
>>207 さま
 前日は大雨だったって話しよ。
 冬場でも、雨降ると、田んぼはかなりグチャグチャになっちゃうっす。
209名無し三等兵:02/02/10 21:46
>「改正三河後風土記」(かいせいみかわごふどき)
>江戸時代の史料。合戦前後の天候を記す史料としては比較的古いもの。

合戦は5月で雨期に入りかけた頃なんですが、これが当日は雨だった論拠らしい。
この史料の編年はかなり後じゃないですか?
これで当日の天候が判断できるのかな。
210名無し三等兵:02/02/10 21:50
天候は雨だろうが、問題は雨量だな
少なくとも、武田軍に正面攻撃を決心させる程度の雨量しかなかった可能性もある
211名無し三等兵:02/02/10 21:52
馬防柵に平行して連吾川がはしってるから前日大雨降ったとしたらかなり増水してるわな。
その川を越えてドロだらけの場所吶喊しても・・・駄目だ、負ける(藁)
212207:02/02/10 21:53
すまん、勘違いしてた、合戦は5月だった
鬱田氏嚢
213ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 21:56
>合戦は5月〜
 とすると、例え前日に雨が降ってなくても、田んぼは田植えの準備、またはその後で
田んぼはドロドロなワケじゃ……

「改正三河後風土記」以外にも、合戦に参加した武将の書状とか日記とかに、当日、
前日の天気の事が触れられてるんじゃないかな?
 武田側の記録(甲陽軍鑑?)に「先日雨」って書いてたって話を聞いたが……
 
214ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 21:58
>>212 さま
 まんまと引っかかった私もお間抜けく〜ん!(w
215名無し三等兵:02/02/10 22:24
合戦前日まで降り続いた雨。
霧と硝煙に遮られて、武田方は連合軍側陣地の実態をすぐには掴めなかったのではという
推理があります。(名和弓雄氏の著作による)
そもそも連合軍は地元住民を味方につけ、武田の物見を尽く射殺するか追っ払うかして
陣地の様子を秘匿することに成功したそうですし。

(武田方から見た合戦の様子)
法螺貝を吹き鳴らし、第一隊が霧の向こうの連合軍に向かって前進開始!

静まり返っている連合軍側。「それ行け!」勝ち誇って歓声を上げ、なおも突撃!

ふと気付くと、ほんの十数メートル先の土塁からこちらを狙う、黒光りする銃身!

轟音と共にバチバチッ!!と弾ける火花。泥の中で逃げ隠れ出来ない武田兵、
あっという間にまとめてあぽーん。

一方、霧と硝煙に遮られて第一隊の様子が皆目わからん他の武田勢。
ただ、喚声と鉄砲の轟音だけは聞こえてくる。しかしそれも次第に弱まったので、
「第一隊は織田勢を蹴散らし、更に前進しているに相違ない。遅れをとるな!
 ものども続け!」

(以下繰り返し)

・・・・・・という名和氏の説が、個人的には一番面白い。
216名無し三等兵:02/02/10 23:03
素朴な質問。

雨ないし湿気が多い状況で、火縄・火薬は大丈夫だったんですか?
不発が多かったのではと思うんですが。
217ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/10 23:23
>>216 さま
 昔、NHKでやってたんだけど、火縄は木綿かなんかの乾きやすく、火が消えにくい
火縄を使ってたみたい。
 詳しく知ってる人にフォローをお願いします。
218名無し三等兵:02/02/10 23:35
織田側って3万人居たんでしょ?
仮に3段撃ちが史実だったとしても、鉄砲以外の兵員は何してたんでしょう?
鉄砲が3000丁あったとしても、残りの2万数千人が
ボーっと戦場を眺めてたとは思えないんだけど・・・
219名無し三等兵:02/02/11 00:28
>>216
鉄砲足軽は、自分の火縄や火薬を湿らせたら
軍法で死刑になったんだよ
だから防湿防水には気を使ってた
220名無し三等兵:02/02/11 00:32
当時田んぼであったのは地元の検地表と照合して、というわけだが、
検地は江戸期を通じても行われていた。いつごろのものななのか。
太閤検地は長篠より20年くらい後だから、仮に当時のものが残っていた
としても当時田んぼだったとは必ずしもいえない。
史家の言うことは尊重するにしても、
完全な論証とは言い切れない。

長篠の通説を覆すために敷衍した要素も多分に考えられる。
NHKの歴史番組はこれまでもデマに近い矛盾したものを
流した実績があるからね。
221名無し三等兵:02/02/11 00:41
>>217
種子島の火縄は、初期は麻、中後期は仰るとおり木綿の縄を使っていました。
それらに油煤や墨汁を染み込ませ、そこに硝石を水に溶いたものを塗布して
使用します。
これくらいやらないと、湿気よけにならない上に、最初の発砲のショックで
火縄の火が消えたりすることがあるのです。
(たいてい、発射の火口からの吹き返しで火縄は火挟み(撃鉄)から吹っ飛んでしまいます)
流派によっては竹を砕いた繊維で火縄を作ったりします。
222名無し三等兵:02/02/11 01:52
>>218
そういう数って信用できるんかなぁ
三国志の100万人とかどうもねぇ
三万いたとして兵站はどうしてたんだろ?
223名無し三等兵:02/02/11 01:57
戦闘時間もね。三段撃ち6時間もやるか
224名無し三等兵:02/02/11 02:02
>>222
かなり現実的な数字だと思いますよ。
ではどのくらいの数字がいいのでしょう。
30人ではないでしょう。
300人でもなさそう。
3000人でも少ないと思う。
文禄の役での陣立てはある程度信用できますから、
それから換算しても妥当な数だと思いますが。
225名無し三等兵:02/02/11 02:11
>222
織田徳川連合軍は3万5千人とゆー話もあります。
その内4千人は迂回部隊で長篠城開放に向っていて6千人は後詰(信長・信忠・秀吉)
で前線には2万5千程度とかと。
226ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/11 20:50
 ところで『長篠合戦三段撃ち』や『武田騎馬隊突撃』の話の出所はどこなの?
 信長公記?
227名無し三等兵:02/02/11 20:57
まずー
やばいよ、やばいよ、戦国ネタのレベル三戦板よりたかいよ。
とゆーか、出張組。
228次郎:02/02/11 21:26
≫226
太田牛一の『信長公記』では1000挺となっていたのを
のちの小瀬甫庵の『信長記』では3000挺の三段撃ちに
なってしまったようで、そこがネタ元です。
229名無し三等兵:02/02/11 21:31
太田牛一は弓の名手だったので鉄砲が嫌い
230ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/11 21:53
>>228 次郎さま
 レス、ありがとうございます。
 ついでにお伺いするのですが、小瀬甫庵の『信長記』って、歴史資料としては、
どの程度、信頼が置けるレベルの物なんでしょうか?
231名無し三等兵:02/02/11 22:07
>>228
太田牛一の「信長公記」の版にはいくつかあって、
3000丁と後になって加筆されており、太田牛一本人の
ものによると考えられているのではなかったですか?
232山野野衾:02/02/11 22:07
>230
「おけはざま山」の合戦を正面からの攻撃としていた太田の記録に対し、奇
襲であったかの様に記していました。
信長批判の文章や彼の職業を考えてみても、史実よりも「正当性」や「かっ
こよさ」を強調して書かれたものの様です。
「三河物語」でも批判されています。目糞鼻糞ですが。
233ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/11 22:15
>>232 山野野衾 さま
 よ〜するに、歴史資料とするにゃ『あまり、よろしくない』ってレベルなんですかね?

 教えてくんと化してるのですが、(^^;
『信長公記』では、長篠の戦いの事をどう書いてるのか、誰か知りませんか?

234山野野衾:02/02/11 22:18
失礼、次郎様宛てのご質問にでしゃばってしましました。
なお「三河物語」には合戦を
「(大久保)兄弟之者共ハ、敵味方之間に乱入て、敵かかれば引、敵退けバ
かかり、」
「此衆(武田の将達)ハ雨之脚のごとくなる鉄砲にあたりて、場も去らず打
死をしけれバ、」
等と記してありました。鉄砲だけでは無かったという事の様です。
235次郎:02/02/11 22:21
≫230べタ藤原様
鈴木眞哉氏の『鉄砲と日本人』(ちくま書房)の96ページ
では「俗書」といっていますが、いずれにせよ太田牛一の
『信長公記』を下敷きにした軍記物であり、『信長公記』
よりは史料的価値は劣ると考えられます。
236次郎:02/02/11 22:30
≫231
鈴木眞哉氏の『戦国合戦の虚実』(講談社)の106ページ
では『信長公記』の「三千」の「三」の加筆は「だれかが書き加えたもの」
であって牛一本人かどうかは確証はないようです。
237ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/11 22:36
 小瀬甫庵『信長記』に関して、こんなHPを発見!
ttp://www12.u-page.so-net.ne.jp/ja2/funahasi/mitsuhide04.htm

>特に甫庵の『信長記』では「平手正秀(が諫死にあたり信長に宛てた)五箇条の
>諫言」が記されていることで知られているが、この諫言は甫庵の創作であるとい
>う見方が殆どであるように、『信長記』も、その記述の時代背景とともに、時の
>政権に都合良く、しかも庶民受けされるように書かれていったのだ。
238名無し三等兵:02/02/11 23:01
>>224
戦国時代について書かれたものを見ても殆どがどれ位の人数が戦闘してどんな戦法を取ったか
しか語られてないじゃないかなと思ったんですよ
戦争で一番目立つのは戦闘ですけど、重要なのはそれ以外の部分(兵站特に食料)ではないかなぁと

3万人の部隊を動かすためには、それに飯を食わせなければいけない(現地調達では辛いだろうし
各自持参は考えにくい)
一人一日2食、2膳の米を食わすと考えると、一膳60gと考えれば120g
3万人なら3600kg、1俵60kgと考えれば、たった1日で60俵も消費します
しかも当時の輸送手段の主流は馬で背中に積むタイプですから一頭で運べるのは
せいぜい2俵、とすると30頭も必要になります

そのことも考えて妥当な数字なんでしょうか?
239ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/11 23:19
 山野野衾 さま
 次郎 さま

『鉄砲三段撃ち』の出所になってる、小瀬甫庵『信長記』自体が困ったちゃんで、
それを元に語られてる通説も困ったちゃんとして見る方が、妥当なんでしょうね。

 では
『鉄砲三段撃ちは無かった。もしくは胡散臭い』
 と結論付けちゃって良いですかね?
240名無し三等兵:02/02/11 23:31
>>238
輜重や軍夫も含めて3万なら十分あり得ると思うがどうか
241名無し三等兵:02/02/11 23:40
連合軍側は、自分の勢力圏で戦っているのだから、
遠征してきた武田よりは補給が楽だったんでしょうか。
輸送のための人夫を考えると、武田軍の戦闘員は
実際はもっと少ない?
242角川版信長広記:02/02/11 23:50
5月18日設楽が原信長着御人数3万ばかり・・・
東向きに備えられ、家康・滝川の陣の前に、馬防ぎの為柵をもうけられ
彼のあるみ原は、左は鳳来時山より西へ太山つづき、又、右は鳶の巣山より
西へ打ち続きたる深山なり。岸をのりもと川、山について流れ候。
両山北南のあはひ遙かに三十町には過ぐくべからず。
鳳来寺山の根より滝沢川、北より南のりもと川へと落ち合いひ候。
長篠は南西は川にて平地の所なり。川を前にあて、
武田四郎、鳶の巣山に取上り居陣候はば、何共なりべからず候を、
長篠へは攻衆七首差し向け、武田四郎滝沢川を越来り、あるみ原三十町
ばかり踏み出し、前に谷を当て、甲斐・信濃・西上野の小幡・駿河衆
遠江衆・三州の内つくで、だみね、ぶせち衆を相加へ、一万五千ばかり
十三所に西向に打ち向ひ備へ、互に陣のあわひ廿町ばかりに取合ひ候。
今度間近く寄合せ候事、天ノ与る所の候間、悉く討果たされるべき旨、
信長御案を廻らされ、御見身方一人も破損せざるの様に御賢意を加えられ
坂井左衛門尉召寄せられ、家康御人数の内、弓、鉄砲然るべき仁を召連れ
坂井左衛門尉大将として二千ばり、これに信長御御馬廻り鉄砲五百挺
金森五郎八、佐藤六衛門、青山新七、賀藤市左衛門、御検使として相添え
られ、都合四千ばかりにて、
五月廿日 のりもと川を打ち越し、南の深山を廻り、長篠の上鳶の巣山へ、
五月廿一日 旗首を推立て、ときの声を上げ、数百挺の鉄砲をドウと放ち懸け、
責め衆を追払い、長篠の城に入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋、小屋
焼上げ、篭城のもの忽ち運を開き、七首の功衆案の外の事にて候間、とまどう致し
鳳来寺さして敗北なり。信長は家康陣地に高松山とて小高き山御座候に取上られ、
敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨兼てより堅く仰含められ、鉄砲千挺ばかり
佐々蔵介・前田又左衛門・野々村三十朗・福富平左衛門・塙九朗左衛門、
御奉行として近近と足軽懸けられ御覧候、前後より攻められ、御敵も人数をだし候
一番、山県三郎兵衛、推太鼓をうって懸り来り候。鉄砲を散々に打立てたれ引退く。
二番に正用軒、入替、かかればのき、退けば引付、御下知のごとく鉄砲にて過半人数
うたれては其時引入るなり。三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄砲にて待請けうてせられ候へば、過半打倒され
無人になって引退く。四番に典厩一党黒武者にて懸り来る候。かくのごとく
御敵入替へ候へども、御人数一首も御出しなく、鉄砲ばかりを相加え、足軽にてあしらい、
ねり倒され、人数をうてせ引入るなり。五番に馬場美濃守、推太鼓にてかかり来り、
人数を備え、右同前に勢衆うたれ引退く。




243名無し三等兵:02/02/12 00:08
三段うちはあった、ないで散々議論は出てるんだろうけど、ひとつ疑問をさしはさむと、
そもそも三段撃ちなんて誰でも思いつくと思うんだけどね。きっとある程度の数そろえてる
大名家ならどこでも使ってた戦法なんじゃないかな
244名無し三等兵:02/02/12 00:12
242です
草臥れた。
おまけに信長広記だって、鬱だ

注約は、連子橋から約2,500m乾き掘りを堀、9mから6mほどの間隔で
出入り口をつくり、直径3cmほどの木材で柵を作った。
信長軍は身隠しから鉄砲をうった。これくらいですね。

245名無し三等兵:02/02/12 00:17
>>240
ちゃんと検討してないんではっきりとはわかりません
色々調べてみようと思います
246名無し三等兵:02/02/12 00:17
約千挺の鉄砲を集団使用したことが事実で、後はわからんと。
どの文献(一次資料が隠されていれば別)をみても
三段打ちは記入されていないと。ゆうこと。
247名無し三等兵:02/02/12 00:51
>>239
ちゃっちゃと結論づけたいんなら、戦闘の実相について明らかにするべきだな。
248名無し三等兵:02/02/12 01:43
>戦闘の実相

いや、それがわかれば、ここまで話も混乱しないわけで・・・(w
249名無し三等兵:02/02/12 03:11
たしかに「信長公記」に対して小瀬甫庵の「信長記」は年代も
20年ばかり後に成立したようですから資料的には落ちるでしょうね。
しかし信長公記を書いた太田牛一も以前は信長の祐筆と言われていましたが
そうではないという説もあるそうです。
それに「信長公記」を仕上げた当時、太田牛一はかなりの高齢だったそうです。
長篠から30年後のことです。
さて「信長公記」を下敷きにして書いた小瀬甫庵ですが、かれは長篠合戦当時
はまだ10代。信長記をものにしたのは脂の乗り切った壮年期でした。
問題の信長公記の「3000丁」という書き直しを誰がしたかということですが、
もし太田牛一でなければ誰が書きに直したのでしょう。今となっては分かりません。
小瀬甫庵はその書き直されたものを見て書いたと考えるのが確かに最も
妥当でしょうね。
250249:02/02/12 03:12
(つづき)
しかし、こういうことも考えられます。
小瀬甫庵は現在の学者と違って戦国の体験者ですし、信長秀吉の時代を
生きた人間です。いろいろな人から情報を聞いて長篠の合戦についても
自説を抱いていたのかもしれない。
ここで重要な人を見つけたのですが、小瀬甫庵と同郷で、若い頃から信長に
つかえ重要な戦いには全て参陣し、しかも信長の馬周りにいた岡田重善
という武将がいます。
この人は太田牛一とだいたい同年輩で長篠合戦当時は45歳。まさに中枢の幹部
といった存在でした。
かれが小瀬甫庵に合戦話を多く方って聞かせていたというのです。
おそらく鉄砲の三段撃ちなどの話もこのあたりから情報を得ていたのではないでしょうか。
何もない白紙の状態から「三千丁三段構え」の発想を浮かべるとは思えませんから、
その根は何処にあるかと聞けば、この辺ではないでしょうか。
そうすると戦場を見なかった太田牛一と戦場にいた岡田重善のどちらの弁を信じるか
ということにもなります。
信長公記は第一級の資料で、信長記は第二級とさげすまれているようですが、
いまでいえば長篠合戦に関しては「信長公記」も「信長記」も等価の二次資料となります。
想像ですが、岡田重善が
「太田さんの書いたものには間違いが多い。実はこうだったのだよ」
と方って聞かせたのかもしれない。
いや、かなりの高い確率でそれはあったのではないでしょうか。

こういうことも頭に入れておくべきではないかと思いました。
251249:02/02/12 03:20
うーん。鬱だ。
失礼。
岡田重善は信長公記成立時には死んでいますから、
信長公記を目にはしていませんね。
ただ、長篠に関しては生前語って聞かせていたと思いますよ。
252名無し三等兵:02/02/12 04:08
>>238
何処にお住まいか知りませんが、一度大阪城を見物なさっては如何でしょう。
そのくらいのことは簡単にやってのける時代でしたよ。
253次郎:02/02/12 07:26
≫250
たしかに御指摘のように、谷口克広氏の『織田信長家臣人名辞典』
(吉川弘文館)の岡田重善の項には、「小瀬甫庵と親しかったらしく
合戦の様子について彼に語ったという」とありますね。
一般には「信長公記」の方が「信長記」よりも史料的価値が高いとされ
ていますが、どちらも後世の編纂史料という点では同じであり、
長篠合戦時の同時代史料ではないという意味ではかわりはないと
おもいます。ポイントは三段撃ちが技術的に可能なのか否か
という純粋に軍事史的な分析が必要であって、この問題は単なる
歴史学の範疇を超えていると思います。これまでの歴史家が
まともに信じてしまったのもこうしたうらみがあるためであって
単なる史料解釈の是非だけではおさまらない問題とおもいます。
254山野野衾:02/02/12 08:14
>249
しかし(同じく余り信用されていないものの)大久保彦左衛門の「三河物語」を見
る限りでは少なくとも「三段打ち」でカタをつけた訳ではなさそうです。
彦左衛門は当時16歳の初陣で兄二人がこの合戦で活躍していましたし、それなり
に信用しても良いのでは無いでしょうか。
255名無し三等兵:02/02/12 09:32
>>237
諫めの意味合いで切腹したようではないらしいのだが・・・
どうも馬のことで信長に詰問されての切腹、という説もあるみたい
256次郎:02/02/12 20:04
≫254
三段撃ちについては「信長記」のような軍記物以外に記載がない点が
ネックであり、三段撃ちが目をみはるような効果をあげたのであれば
一次史料を含めて多くの者が記録してもよさそうなものですよね。
それとも、三段撃ちが特記することもないほどポピュラーなものだった
とも思えませんし、「三河物語」に三段撃ちの記載がないことはそれなりの
根拠があるのかもしれません。いずれにせよ、信長関係の軍記物は長篠の戦い
において、勝者信長と敗者勝頼を対比的に描くことに力点がおかれ、その文脈
の中で信長を賞賛する脚色が出来上がったような気がします。
257ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/12 20:06
>「三段撃ち」
 長篠以外でこの戦術が使われたって、記録はないのでしょうか?
258ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/12 20:15
>242 さま
 わざわざ『信長公記』の該当部分を書きこんで頂いて、ありがとうございます。

 武田側は波状攻撃をしかけ、織田側は鉄砲、足軽で撃退してるワケなんですね。

 なんか、クルクス戦みたいっすね(^^; 
259名無し三等兵:02/02/12 20:28
むかしNHKの番組での検証によると、当時の黒色火薬を使用して一斉射撃をすると
濃い硝煙が立ちこめて、煙が晴れるまで数十秒か風によっては一分近く視界が効かなくなる
と言っていたが...
260名無し三等兵:02/02/12 20:32
三段撃ちのような隊列交互斉射をやっても、単位時間当たりの投射弾量は全員が斉射した時と変わらない
むしろ、一定の正面幅当たりに銃兵が蝟集し過ぎることによって全員での斉射が困難な時にこそ
隊列交互斉射は効果を発揮する
つまり、いわゆる「三段撃ち」は、発射速度を上げるための戦法というよりむしろ、
一定の正面幅に可能な限り火力を集中するための戦法と言える

仮に織田軍が3000挺の種子島を装備していたとしても、
1キロ近い戦線を支えるのに3000挺程度では余りに弾幕が薄い
恐らく鉄砲組毎の全力斉射を行っていたのだろう
261 某S :02/02/12 20:36
攻め寄せる敵を陣地で迎え撃つ場合、
守3万人 対 攻1.5万人という戦力差を考えると、
たとえ銃が無くても、武田軍の負けというのは常識的な結果かな。と思う。

でも、一つ気になるのが、
「序盤の死傷者数は、互角だった」という記録。
これが事実なら、攻守関係なく両軍が組んずほぐれつの乱戦しかイメージできない。
262名無し三等兵:02/02/12 20:43
>>259
視界が聞かなくなるといっても、隣の奴の顔もわからない程じゃないだろう
火縄銃の射程を考えるとそれ程深刻な問題ではないと思う
263名無し三等兵:02/02/12 20:51
>262
いや。
視界が聞かなくなったからこそ三重の馬防柵を超える程の山県隊の乱入を招いたとも考えられる。
あと至近距離からの射撃増加とかもね。
264名無し三等兵:02/02/12 21:06
>>263
そんなNHKの想像が都合よく事実だったとは思えないのですがね。
NHKの番組には演出によってしまって事実の追究のストライクゾーンを
はずすことがある。
265259:02/02/12 21:08
>>262
テレビ画面で見る限り半端じゃなく真っ白だったけど
266名無し三等兵:02/02/12 21:11
>>265
その番組見てないから何とも言えんが、視程はどれ位だったんだろう
半端じゃなく真っ白なら攻める武田軍にとっても深刻な問題だな
267名無し三等兵:02/02/12 21:18
現代の黒色火薬を使用した種子島の打ち放しでも、たとえ十数丁の発射でも
人の姿が霞むほどの煙が出ます。長篠にあやかって、6人×3回の射撃を
したら、煙幕をかけたみたいにしばらく何も見えなくなって、司会が焦って
ました。射手のすぐ横にいた私も、何も見えなくて目は痛いし咳は出るし。
昔の不純物が多い火薬ですと煙が黒っぽくなるそうですし、何百丁もの種子島を
つるべ打ちに放ったら、大変なことになると思います。
268ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/12 21:20
 敵の鉄砲を先に発砲させ、発砲によって発生する煙を利用して敵に接近する
って戦術があったそ〜だから、かなり煙が発生するんじゃ……
269名無し三等兵:02/02/12 21:21
>>268
逆ならよく聞くが、敵に先に発砲させるってのは初耳だ
どこの戦術?
270名無し三等兵:02/02/12 21:25
>>252
あの大阪城ですか?
天守閣の高さは54.5m、鉄筋コンクリート製
確かにそれだけの技術があれば可能でしょうね
271259:02/02/12 21:27
大分前の番組なのではっきりとは覚えてないけど。結論は「三段撃ちは無理」で
他にも理由を挙げてたが忘れた。スゲー煙のシーンが印象に残ってたけど。


ちなみに同じ番組だったと思うが車懸かりの戦法をどこかの大学の体育会系の大学生
を使って検証してた。みんな動き回るのにへとへとになって戦闘どころではなかった(w
272名無し三等兵:02/02/12 21:29
赤城の三段空母は大うそか。

実質、ニ段だったそうじゃないか。
273名無し三等兵:02/02/12 21:37
NHKの「実証番組」というのはとにかくクサイ。
274ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/12 22:05
>>269 さま
『鉄砲と日本人』にな書いてあった。
275名無し三等兵:02/02/12 22:07
>>274
それは戦場のテクニックの一つで、慣用的な戦術じゃない・・・・
276ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :02/02/12 22:22
>>275 さま
 なるほど! 勘違いしてました。
 ご指摘ありがとうございます。 
277名無し三等兵:02/02/12 22:32
今話題に上っているNHKの番組、俺も見た覚えがあるけど、かなり
アップダウンのある地形で、鉄砲兵が横一列に展開するとその長さと
相まって号令や合図なんか見えもしないし聞こえもしない。
よって三段打ちは不可能だ。というような内容だったような気が...
278名無し三等兵:02/02/12 22:33
「長篠合戦図屏風」は徳川マンセーの世に描かれたので、
柵の前にいるのは徳川勢。
後ろから撃ってるのは織田勢。
279 某S :02/02/12 22:47
だれか、
「序盤の死傷者数は互角だった」という記録について、
私感でもいいから、真偽のほどを教授してくれよぉ
280名無し三等兵:02/02/12 22:49
>279
やっぱり尾張の兵はヘタレなのかねえ。
281名無し三等兵:02/02/12 22:57
>279
過去レスに幾らでも出てるから教えてやんない。
282名無し三等兵:02/02/12 23:42
>>278
あの絵、服装の考証がデタラメだったり、地形にデフォルメが
加えられたりしてるけど、部隊の配置や、描かれている個々の
エピソードは、記録に照らしてみると意外と正確なんだそうだ。
合戦の功績を後世に伝えるとともに、戦闘記録を正確に残すと
いう目的があったらしい。
武田方の武士が銃弾を受け落馬し、その首を敵に取られることを
恐れた家臣によって斬首され、持ち去られる場面なんかも描かれ
ているよ。
283 某S :02/02/12 23:47
>281
でちゅーか?
>270
オリジナルは鉄筋コンクリート無しでそれだけの高さを達成していたはずですが?
285名無し三等兵:02/02/13 00:21
>257
 遅スレの上、厨房的レスで申し訳ないが、日経に連載された歴史小説
(タイトル失念)では、根来や長島の一揆衆あたりは、早くから三段撃ちに
近い戦法や、雨天用の火縄の工夫なぞしていたと書かれていた。
286名無し三等兵:02/02/13 00:23
>>285
「下天は夢か」?
287名無し三等兵:02/02/13 01:01
>>242です。
おまいら、小説を読んで論じても意味が無いとおもいますがどうでしょう。
おまいら、大戦略をする時間で図書館の一次資料を読んでください。
おまいら、もう寝ます。
288名無し三等兵:02/02/13 01:11
http://www.google.com/search?q=%90%4D%92%B7%8D%4C%8B%4C&hl=ja&lr=

とりあえず1件はヒット。よかったね。君は孤独じゃない。
289名無し三等兵:02/02/13 01:34
>>270
現在でも鉄筋コンクリートでつくるより、木造にするほうが
何倍もお金がかかるらしいですからね。

と言って見たりする。
290名無し三等兵:02/02/13 01:36
>>277
既出だろうが、
なので、あの番組のリクツはおかしいのです。
一斉に打ったとは誰も言っていない。
三段にして打ったのだから、3組が入れ替わり立ち代わり打てば同じ結果となる
(射弾数)。
291名無し三等兵:02/02/13 01:57
>289
再建のとき、大黒柱が一本から2本になりました。
鉄筋コンクリだし、第一そんな巨木がなかったそうな。
大阪城は・・・昭和7年に再建だっけ?
292名無し三等兵:02/02/13 01:58
小説によると、ってのはちょっとな
三戦国板でも「司馬遼の小説ではそうだったんです!」て切れた奴がいたな
293名無し三等兵:02/02/13 01:58
三段撃ちがなくとも
武田が敗れた事実はかわらぬ
294名無し三等兵:02/02/13 02:16
NHKかどっかで昔やってたような・・・もう忘れたけど
295名無し三等兵:02/02/13 03:23
>>291
忘れましたが、たしか戦災で焼け、戦後に再び作り直し、さらに
大阪築城400年を記念して今の姿に修復されたのではなかったですか?
天守閣の中は鉄筋でつまらないが、やはりあの石垣をはじめとする遺構
を初めて見る人は大抵圧倒されるものです。
296名無し三等兵:02/02/13 09:34
>>268
>>269
遅レスだけど

類似の戦法にスコットランド兵の使った「ハイランダーチャージ」があります。
まず敵陣にピストルを射つ、すると敵も反射的に銃を発射する。
発砲後すぐ黒色火薬の煙にまぎれてダッシュ、再装填中の敵兵を切り殺す戦法です。
イングランド兵は銃剣を装備してハイランダーチャージに対抗しましたが。
297名無し三等兵:02/02/13 09:42
>>295
>>291が正解
戦争では近くの砲兵工廠は焼けたが、天守閣は無事だった
298名無し三等兵:02/02/13 18:25
>>291
大黒柱のオリジナルは屋久島の巨大杉らしいね
299名無し三等兵:02/02/13 18:46
上の方で真っ白で前が見えないと書いてるけど当時の銃って狙って撃てる代物じゃなかったって話を聞いたことがある。
ワーテルローの戦いでイギリス軍のマスケケット銃兵がが四角い陣を張ってフランス軍を撃退したときは真っ白になって前が見えなくなっても撃ったらしい。
300名無し三等兵:02/02/13 18:54
>>299
いや確かにヨーロッパではそうだったけど、
種子島はヨーロッパのマッチロックに比べて精度高かったし
鉄砲足軽も機械的に撃発するんじゃなく、ちゃんと狙って射撃してたらしい
「暗夜に霜が降りるが如く」ってのは種子島のマニュアルの一節だし

でも、目の前が真っ白って言っても無風でもなければ
そうそう問題にはならないと思うが
301名無し三等兵:02/02/13 19:46
煙で打てなくなったのをNHKが実証したからと言って信用できないのは、
たとえば蔚山での清正の奮戦など鉄砲が活躍した戦史があり、
「煙で見えなくなって打てなくなった」
と嘆いていてはとても戦史どおりに進まなかった戦があるから。
長篠もそのひとつと思う。
学生を使ったりアナウンサーが駆けずり回って証明したものが
絶対的な評価基準とは思えない。
302270:02/02/13 22:14
皮肉で言ったんですけどね・・・
理由がとても軍板とは思えないものでしたので。

その論法でいくなら平安時代の出雲大社の方が秀吉の大阪城より8m高いですから
平安時代以前にはすでに3万以上動員出来ることになります。
303名無し三等兵:02/02/14 01:35
>>302
軍事版にふさわしからぬ認識ではないかと思えるのですが、
古代において白村江、新羅討伐軍(準備だけ)では、
3万規模の軍勢を揃えたことになっています。
本当だとしたら平安以前にも3万は動員できます。
奈良時代にはたしか700万ほどの人口でしたから十分可能でしょう。

大阪城と出雲大社を比較するのもどうなんでしょう。
まったくスケールが違うと思いますが。
304名無し三等兵:02/02/14 03:39
>>302
当時の日本は、世界的に見てもかなり突出した戦争国家だったようです。
2万人程度の動員力を持つ有力大名も珍しくありませんでした。
ましてや織田・徳川連合軍なら3万人は、決して大げさな数字ではないと思います。
305270:02/02/14 11:32
なにがなんでも無理とは言ってないですよ
その数値が妥当かどうか聞いただけなので
納得させられることを言ってくれればいいだけです。
この文献に書いてあったからとか、従者の数がこれ位だからとか
そんないいかげんな話では納得できない、と言ってるんです。
軍事板ということで期待しすぎているのかもしれません・・・
306名無し三等兵:02/02/14 13:27
>>305
人の示唆に噛み付くくらいなら自分で調べたらどうですか。
自分でこの問題の要点をそのように把握しているなら少しでも
本を開くとか図書館に通うとかしてみればどうですか。
この場合、通史として常識的に納得されている3万人説に
大きな疑問を持たない人はそんな労力はあえて費やさないだけのことです。
だから知見の範囲で述べている。
それに不満なら新学説でも立ててくださいよ。
307名無し三等兵:02/02/14 13:30
要約:ぉιぇτくんuzeeeeee(わらい
308名無し三等兵:02/02/14 14:48
>>307
古参兵の方へ敬礼(W
309名無し三等兵:02/02/14 16:51
>>305
>この文献に書いてあったからとか、従者の数がこれ位だからとか
>そんないいかげんな話では納得できない

あとは、実際の長篠合戦時に日本野鳥の会にでも協力してもらって、
数えるしかないですね。
310名無し三等兵:02/02/14 17:06
>>305
関が原時の大名の兵隊動員力を調べた研究では1万石につき250人動員できるとしています。
3万人ということは120万石分ということになります
当時の信長領は尾張、美濃、伊勢、近江、山城、大和、越前、摂津、河内、和泉。
家康領は遠江、三河の大部分。
これらを合わせれば120万石ぐらいはいくのではないでしょうか。
それと当時は兵農分離が完全ではないのである程度食料は自弁です、近代軍とは違います。
後3万人といっても全てが完全武装の戦闘員でないことは当然のこととして軍団の勢力に数えます。
近代軍隊で輜重兵、通信兵なども軍隊の一部であることと同じです。


311名無し三等兵:02/02/14 19:08
>>310
それでは織田軍の全力が長篠に集中していたことになりますな
領内の城や他の戦線に貼り付けられた兵力の合計のほうが、
長篠で戦っていた軍勢よりもずっと多かったのではないでしょうか
1万石につき250名という数字は、領内から独立的に行動する外征軍を編成する場合の基準の一つで、
兵站管理上の問題がなければ動員能力自体はもっと高かったと思われます
経済活動にそれ程影響を与えない常備兵力の最大数は
総人口の1パーセント程度とする説もありますし、
大規模な軍事行動の際は更に増加していたでしょう
特に織田は兵農分離が進んでいたので、動員率はより高かったと思います
どちらにせよ3万という数字は実行上可能な数字だと思います


ま、>>305は何言っても納得せんでしょうが
312名無し三等兵:02/02/14 20:09
慶長三年の検地高

尾張 57.2万石
伊勢 56.7万石
近江 77.5万石
山城 22.5万石
大和 44.9万石
越前 50.0万石
摂津 35.6万石
河内 24.2万石
和泉 14.2万石

合計 382.8万石
313美濃が抜けた:02/02/14 20:14
美濃 54.0万石

ついでに
遠江 25.5万石
三河 29.1万石

信長 合計 436.8万石
家康 合計  54.6万石
314名無し三等兵:02/02/14 20:37
当時突出した国力を持ってた織田家に三万人動員が難しいんなら、
1万5千動員した武田って?
315まほろVS北斗の拳:02/02/14 21:18
当時は半数以上が非戦闘員では?
関が原の赤備えの井伊軍団も4割程度が戦闘員だったそうな。
316310:02/02/15 02:13
>>311
そうですな。石山戦争や各地の防衛部隊などの資料も出ればよりわかりやすいかもしれませんね。

305の人が直感的に納得できないというので数字であげればわかりやすいかなと思って示したわけです。
厳密に検証するとすればいろいろ細かくなりますけど。
信長の当時の動員の方法や領国の把握の問題とか。
実際、越前などは一向一揆の反乱により長篠直後に一大ジェノサイドを敢行していますから。

まあこれで305の人が納得できないと言うのであればタイムスリップしてくださいとでも言うしかないですが。
317ろび太郎 ◆5r7LAros :02/02/15 02:15
純粋な戦闘騎馬兵だけで2〜3000居れば御の字。
318名無し三等兵
>>317
当時の戦国封建武士団は歩兵が主力でした。