>>705『>話題になっている攻撃は12月なんですけど…』
当方は、11月30日の図と12月06日の図を見ています。
そして二つの図の攻路はほぼ同じです。 少なくとも、
>>699であなたが
言われている『趙家屯から西南部頂上に向う攻撃塹』など存在しません。
>>705『>攻撃塹が数日でできたり、攻略後にできたりするのなら』
二百三高地攻略後、この周囲は厳重に防御陣地構築が施されています。
その時に作られたかも知れないと、当方は思いますが。
『趙家屯から西南部頂上に向う攻撃塹』は11/30〜12/6の頃には無かった
と思います。公刊戦史付図に載っていないことが当方の根拠です。
そちらが『趙家屯から西南部頂上に向う攻撃塹』は12月の頃に有ったと
主張されるなら、その根拠を提示して下さい。38年1月の地図なんか出さずに。
>707
>『趙家屯から西南部頂上に向う攻撃塹』は11/30〜12/6の頃には無かった
>と思います。公刊戦史付図に載っていないことが当方の根拠です。
オチがついたね。公刊戦史まで持ち出されたんじゃそりゃかなわんわな(藁
せめて、歴群からの孫引きですと正直に言えばいいのに。
陸自施設学校云々とカッコつけて恥の上塗り。
>708
699氏のこれ、格好つけのつもりだったんですかね?
『
>>699 :名無し三等兵 :02/04/02 20:37
203高地付近図 陸上自衛隊施設学校蔵をみていますが?』
でも、これ、かなり目立つように「明治38年1月」って書かれているし、
そもそも爾霊山攻略時(11/27〜12/06)の攻撃路がどれかも書いてないし、
あまり参考にならないものだと即断できそうなものなんですが……。
あと、公刊戦史はなかなか面白い?です。市立図書館レベルなら蔵書して
いると思います。
>11/30〜12/6の頃には無かったと”思います。”
>公刊戦史付図に載っていないことが当方の根拠です。
そりゃ12月の攻撃時、予定の攻撃路を地図に書き入れることが
なかっただけでしょ。511と708の地図という概念には予定の道は
点線で描かれずに実線で描かれると思い込んでいるらしいから。<ワラ
>二百三高地攻略後、この周囲は厳重に防御陣地構築が施されています。
>その時に作られたかも知れないと、当方は思いますが。
あんたの防御陣というのは雷陣地が山頂に向うような陣地なのか?
しっかり地図をみて話をしてくれるか?そして趙家屯への中腹陣地への
塹壕は一度谷側に落ちてそれから昇って中腹陣地へと繋がっているのですが・・。
防御陣地ってのは防御するためにあると思うんだけどね……。
塹壕線や普通の地図すら読み取れないような人間がいくら資料を
みても無駄だよ……。春だねェ……。
それよりか、老虎溝山から203高地西南部のふもとの散兵壕へどうやったら
射線を引けるか伺いたい。下記の様に述べているのですからね。
>これも完全なデタラメです。『西南部攻撃隊』が東北部および老虎溝山からの
>側射により大被害を受ける記述は、それこそ何遍も何遍も出てきます
攻撃部隊がどこを通っていっているか、という根本的なことを見落として
こういった事例を出すことは無意味。
赤坂山(老虎溝山)山頂から第7師団主攻の矢印と西南部散兵壕に射線を引けるか
定規をあてて見てご覧。どうみても東北部の影に隠れますが。
また日本軍も他山の側射を避けるために当然、その影に隠れて進撃
するのが普通だと思いますが?
>これも完全なデタラメです。西南部攻撃隊が東北部および老虎溝山からの
>側射により大被害を受ける記述は、それこそ何遍も何遍も出てきます。
話題になった答申内容
A西南部は足場が確保されているので側射できる敵堡塁2箇所を征圧
できれば、西南部への兵力投入も安全に行え、占領が期待できる。
これに貴方の意見を当てはめると 老虎溝山が堡塁の一つに
なりそうですな…。これでいいか?
712 :
名無し三等兵:02/04/03 07:37
アゲ
713 :
おい豆腐屋さん:02/04/03 13:27
おめえの頭はおからで出来ているのか?で有名な木下2等卒(新沼謙治)は、
ほんとはニーヌ・マッケンジーいうカナダ出身の日系人です。
祖父はディエップ戦に参加(第2カナダ師団ローヤル・ハミルトン連隊)した
ばりばりの軍人。
714 :
名無し三等兵:02/04/04 00:46
>>696 >児玉来訪後の凄いところは、兵力投入の楽な西南部に兵力を集中し、
>今まで、各地域から長蛇のように進撃し、数百人規模で
>纏まって突撃させていたのを、30人単位に分散させ、間隔をおいて
>突撃させ、頂上が逆襲に占拠されたら、自軍砲撃後、次の30人が逆襲を加える
>所謂車ガカリを考案し実行させたのが凄いですね。
おいおい児玉が来てから第三軍が行った事はみんな児玉の手柄かい?
714、まあ熱くならずに。
この大将、日本史板乃木スレで虚言がバレっちまって、今大変なんだよ。(藁
>>715 いや、僕はROMだけが能の厨房さ。別に熱くなんかなっていないよ。
それより過去ログを一回りしてきたけど、今話題になっている二〇三高地の
東北・西南正面問題について、児玉がどの程度関わっているのか疑問になってきてね。
あの答申内容にしても結局作成したのは第七師団の方だろ。
>>518で書いてある
「目的を正確に把握し、目的に対する手段の具体性」を第七師団司令部が持ったことと
児玉来訪がどの程度関係あるのかわからないんだ。
>>520を書いたやつが似たようなこと書いてるけど、
要は「十二月五日、二〇三高地への攻撃再開時に備えて行われた戦術の変更は、
児玉による具体的な提案・命令の結果かどうか」
がわからなくてね。
たしかに冷静だ、これは見誤った。
んー、重砲位置の変更が児玉の指示、山頂を15分刻みに撃つというのが
児玉の指示というのは間違いないだろう、と思う。
しかし696が言っていた歩兵突撃に関してまで?どうかねえ?
これは現場の裁量じゃないのかな。
696は日本史板乃木スレで虚言癖がバレちまってるからなおさら嘘っぽいな。
落ち着いたところでふと疑問。
大東亜戦争の辻ーんなんかの独断専行は、やっぱり
「児玉伝説」に悪影響された結果なのでしょうか?
影響はあったでしょうね。私は影響というか憧れめいたものだろうかとも……。
>>696『>児玉来訪後の凄いところは、兵力投入の楽な西南部に兵力を集中し、今
まで、各地域から長蛇のように進撃し、数百人規模で纏まって突撃させていたのを
30人単位に分散させ、間隔をおいて突撃させ、頂上が逆襲に占拠されたら、自軍砲
撃後、次の30人が逆襲を加える所謂車ガカリを考案し実行させたのが凄いですね』
主語が判らないので、誰が『考案し実行させた』事を『凄い』としているのか、
よく判らない文章になっています。
1「児玉」が「考案し実行させた」?
2「軍司令部」が「考案し実行させた」?
3「師団・旅団司令部」が「考案し実行させた」?
または、
4「現場指揮官」が「考案し実行させた」?
軍命令(12月04日1600)にも師団長訓令(12月03日1500)にも攻撃隊隊長命
令(12月04日2000)にも、上記のような詳細な突撃方法に関する記述はありませ
ん。攻撃開始前に、このような戦法がもしも考案されていたら、攻撃隊隊長命令に
は反映されそうなものです。児玉を含めて攻撃開始前の考案とは思えません。
よって、696氏の挙げられた歩兵突撃の一戦法は、児玉の功績とは全く関係なく、
「現場指揮官によって臨機に発想され、用いられた戦法である」と考えるのが妥当
だと思います。
ちなみに、『30人に単位に分散させ……』という記述は、公刊戦史には以下の
ように説明されています。
『……歩兵第28連隊集成第一中隊長沼辺大尉は突撃準備の命を受けるや、その
部下中隊および工兵第八大隊第一中隊をもって歩兵各30、工兵各5の三突撃班
を編制し、各班をして約15mを間して続行し、敵の散兵壕に突入せしめ……』
696では、この戦法が「突撃陣地から西南部山頂を目指す時に」採られた戦法であ
るかのような記述となっておりますが、実際はそうではありません。
この戦法が採られた場面は、既に西南部山頂が確保されてのち、約数時間後に
「西南部山頂から更に東北部山頂を目指す時に」採られた戦法なのです。
また、上記公刊戦史記述を見る限り、この戦法は696が述べているような『頂上が
逆襲に占拠されたら、自軍砲撃後、次の30人が逆襲を加える』というようなもので
は無いようです。
『逆襲で占拠されたら』という「状況の推移」とは関係ありません。
『自軍砲撃後』という「条件」もありません。
まして、『次の30人』は『逆襲』するのでさえありません。
単に『15m間隔で次々に敵散兵壕に突入していく戦法』として紹介されています。
696の文章では非常に誤解を招くように思えたので、以上の点、指摘致します。
722 :
名無し三等兵:02/04/07 17:06
>696では、この戦法が「突撃陣地から西南部山頂を目指す時に」採られた戦法であ
>るかのような記述となっておりますが、実際はそうではありません。
>この戦法が採られた場面は、既に西南部山頂が確保されてのち、約数時間後に
>「西南部山頂から更に東北部山頂を目指す時に」採られた戦法なのです
↑こんな嘘を吐けるね?
徳間文庫のP390をよくご覧になってください。
723 :
名無し三等兵:02/04/07 17:07
徳間文庫のP390
12月5日 午前8時 斎藤少将率いる二百三山攻撃隊は既に突撃準備を終えていた。
村上大佐の選抜3隊(計120名) 歩兵第27連隊集成中隊 工兵第7大隊混成
1小隊(計35名)を率いて 二百三山西南部山頂で待機している。
碾盤溝榴弾砲隊を中心とする 攻城砲兵・野戦重砲連隊などの二百三山、老虎溝山
に対する砲撃は夜明けとともに激しさを増し、ロシア軍砲台をほとんど沈黙させる
させるまでの威力を発揮した。
午前9時15分 村上大佐は選抜隊、工兵隊に突撃を命じる。
選抜隊は激しいロシア軍の射撃の中をひるまず突進して、西南山頂部にまで一気に
躍進し、その散兵壕に突入した。
続いて歩兵第27連隊集成第3中隊がこの後を追い、同じく山頂に達した。
だが、このころ、突撃隊の第1線は東北部山頂、滕家大山方面からの銃火、
太陽溝、椅子山からの砲撃にさらされて、死傷者が相次ぎ、山頂の戦闘実員は
わずか40名前後にまで減少していた。
斎藤少将は第1線の兵力強化のために相次いで増援隊を急派し、山頂の占領を
ほぼ確実にすることができた。
徳間文庫P391
二百三山東北部山頂に対する攻撃の最前線に立ったのは、歩兵第28連隊集成
第1中隊(沼辺大尉)であった。沼辺大尉はその中隊員および工兵をもって、
歩兵各30名、工兵各5名の突撃班を三班組織して、二百三高地西南部から
進んで、東北部山頂、西部に達し、付近を占領した。
上記のP391より>「西南部山頂から更に東北部山頂を目指す時に」採られた戦法
と述べておりますが、これが最初とはどこにも書いていません。
P390の通り、選抜した兵力を第1線、第2線、と続けて投入し西南部を占拠して
います。このような方法は11/30以前の攻撃には徹底して行っていません。
それも其のはず、兵力を分散しているのでそのような展開はできない。
>>721の文章では異常な誤解を招くように思えたので、以上の点、指摘致します。
724 :
名無し三等兵:02/04/07 17:25
>>722 ヒトを嘘吐き呼ばわりする前に、まずは日本史板でお前さんが吐いた大嘘について
コメントしとけ。でなきゃ何言っても信頼性ゼロだ。
>>722・723
当方、徳間文庫の大元になっている「公刊戦史」にて確認しました。
「公刊戦史」の内容を、時系列に沿って説明すると、こうなります。
1020・村上大佐、同山頂の略取の目的を達したるものと認め、齋藤少将に報告。
1030・敵の銃火大いに衰え爾霊山西南部山頂の占領漸く確実となる。
1100・第七師団長、西南部山頂の略取全く確実となる後に東北部への攻撃を開始
するように齋藤少将に訓令。
1135・齋藤少将、村上大佐に山頂占領の確否を問い、占領確実ののちに東北部山
頂の攻撃に着手するよう通報。
・村上大佐は目下防御工事中にて東北部攻撃なお時期尚早、と回答。
・村上大佐は沼辺大尉に東北部の敵情を調査するよう命じる。
・沼辺大尉は斥候により、東北部の状況を知る。
1320・前面の敵情依然として変せず。
・齋藤少将、第七師団長に東北部山頂への攻撃を具申。
・第七師団長は攻撃を認可。
・齋藤少将は東北部攻撃の企図を老虎溝山攻撃隊に通報し、牽制を要求。
1345・齋藤少将は、攻撃隊(『歩兵第28連隊集成第一中隊』ほか)を東北部山頂
に突進せしめる。
で、1345に突撃する『歩兵第28連隊集成第一中隊』の戦法が以下のものです。
「……『歩兵第28連隊集成第一中隊長』沼辺大尉は突撃準備の命を受けるや、
その部下中隊および工兵第八大隊第一中隊をもって歩兵各30、工兵各5の三突撃
班を編制し、各班をして約15mを間して続行し、敵の散兵壕に突入せしめ……」
1030に西南部が占領確実となった『数時間後』の1345、東北部への攻撃が開始
され、その攻撃時に『歩兵各30云々』の戦法が用いられた、と書かれています。
このように、ある特定の戦法について、現場攻撃指揮官(沼辺大尉)の名前
まで
出して詳説しているのですから、この場面において特有の戦法であったと解釈する
のが適当と思います。
もしも西南部もこの戦法で行われたのならば、その時に書かれるべき説明です。
しかしながら西南部略取時にこのような記述は一切ありません。
>>722(723)
東北部山頂に攻撃を加える時に、それを命令した部隊指揮官名を記した上で
説明されている攻撃方法です。
なのに、それが数時間前の西南部攻撃の時にも行われていたと強弁されて
いるわけですね。
その根拠が「これが最初とはどこにも書いていません(
>>723)」ですか。
その根拠を以て「こんな嘘を吐けるね?(
>>722)」と宣うわけですか。
嘆息。
攻撃の時間も記し、部隊指揮官名も記して特定の戦法を記述している。
こういう書き方をする場合、わざわざ「この時初めて」とか「この時だけ」
とか書いていなくても、その時に特別に用いられた戦法であると解釈するのが
自然です。
729 :
名無し三等兵:02/04/07 18:52
>724=511だな。それより、老虎溝山から二百三高地西南部へ射線
が引けるようなことを下記のように言っているのでそれを先に解消してください。
>>697 これも完全なデタラメです。西南部攻撃隊が東北部および老虎溝山からの
側射により大被害を受ける記述は、それこそ何遍も何遍も出てきます。
これは大事ですよ。なんてたって当時のロシア軍のコンドラチェンコ少将が
指摘した三山の欠点を克服しているのですから。
730 :
名無し三等兵:02/04/07 18:54
>>726 公刊戦史の西南部攻撃を書かないところがいいね。
>>511は比較って言葉を知らないから致し方ないけど。
>>729 >>710『赤坂山(老虎溝山)山頂から第7師団主攻の矢印と西南部散兵壕に射線を
引けるか定規をあてて見てご覧。』
『主攻の矢印』
この図の矢印は、鳩湾(羊頭湾)方面の敵を駆逐する戦闘も含めた、まさに
第七師団全体の攻勢方向を記しているものでありましょう。爾霊山攻撃路の方
向を示すような局部戦闘の攻路方向の参考にはなりません。
そもそも、1/10000の地図の上に太く直線に引かれた矢印などという、大雑
把なものでは、当時の攻撃隊進路は示せません。
『定規をあてる』
1/10000の、標高線も大雑把で、攻防戦当時の攻路も書かれていない図
(「日露戦争」(歴群24)63Pの図)にですか?
当方は1/3000の、標高線もより緻密で攻防戦当時の攻路が記された図(公刊
戦史付図)に定規をあてて見て、老虎溝山山頂からの射線を確認しました。勿
論、実測ではないので不正確ですが、1/10000の地図に定規を当ててみるより
はマシだと思っております。
>>710『それよりか、老虎溝山から203高地西南部のふもとの散兵壕へどうやった
ら射線を引けるか伺いたい。』
上記のようにして老虎溝山から203高地西南部のふもとへの射線を確認すると、
二百三高地西南部山頂北西側の山腹部敵散兵壕(一部二重)は、老虎溝山からの
側射に守られる位置にあることが判ります。
よって、西南部山頂に向かう左攻路から突撃する攻撃側は、山腹の鉄条網を越え
て更に前述の山腹部散兵壕を越えて山頂の鉄条網に近接するまで、老虎溝山からの
側射を受けます。
もちろん、日本側の攻撃路も極力側射を避けられる斜面に作られていますが、
老虎溝山からの側射を避けることの出来る面に入ると、こんどは藤家大山からの側
射をまともに受ける面に出てしまいます。双方から側射を受けない面は、ほとんど
ありません。
双方いずれからも側射をまともに受けないために、やむを得ず、双方いずれの側
射をも完全に避けきれない場所を進むことになるようです。
結論:西南部山頂に向かう左攻路から突撃する攻撃側は、山腹の鉄条網を越
えて更に前述の山腹部散兵壕を越えて山頂の鉄条網に近接するまで、老虎溝山
からの側射を受けます。
>>730『
>>726 公刊戦史の西南部攻撃を書かないところがいいね。
>>511は比較って言葉を知らないから致し方ないけど。』
あなたが722で否定している当方の言は、
『>この戦法が採られた場面は、既に西南部山頂が確保されてのち、約数
時間後に 「西南部山頂から更に東北部山頂を目指す時に」採られた戦法
なのです 』
でしょう(
>>722)?
だから『数時間後に』『東北部山頂を目指す時に』採られた戦法で
あることを説明したのですよ。
あなたが『西南部攻撃』についても問題にしていたら、勿論触れました。
そろそろ、コテハンの使用を始められたら如何?
724と511はどうみても文体が違うんだが・・・
文体などすぐ変えられるとでもいうなら
もう妄想の域に入っているぞ・・・
734 :
名無し三等兵:02/04/07 19:22
>>511 その散兵壕の位置おかしいよ。
だから老虎溝山170mからみたら、高度200mの東北部山頂が
あってその向こうに西南部山頂がある。
東北部が透けているらしいね。あんたの見かたでは。
コンドラチェンコ少将の三山の指摘 化頭溝山、老虎溝山、
二百三山は他の堡塁からの援護射撃は受けられるが、相互の
側防射ができない。という指摘と食い違い。
また西南部は足場が確保されているので側射できる敵堡塁2箇所を征圧
できれば、西南部への兵力投入も安全に行え、占領が期待できる。
とも食い違いって来ます。すごいね、現実を否定し始めてるよ。
>>733 >511 2重人格とか自作自演って2ちゃんねるの華だから別に構わないよ。
>>734『東北部が透けているらしいね。あんたの見かたでは』
二百三高地西南部の山腹鉄条網と山頂鉄条網に挟まれた部分、山腹散兵壕が
作られている部分は、なだらかな傾斜地となっており、鉄条網間の幅が100m
近い場所があります。
二百三高地東北部の北西部斜面は、非常に急な斜面です。
東北部北西部斜面の急な斜面を沿うように、上記傾斜地を側射出来ます。
東北部山頂を越えて撃つのではありません。
『>コンドラチェンコ少将の三山の指摘 化頭溝山、老虎溝山、二百三山は
他の堡塁からの援護射撃は受けられるが、相互の側防射ができない。
という指摘と食い違い』
老虎溝山と二百三山が相互の側防射をしている記述は、当方もあなたも
何度も紹介していると思いますが?
『>また西南部は足場が確保されているので側射できる敵堡塁2箇所を征圧
できれば、西南部への兵力投入も安全に行え、占領が期待できる。』
これは、例の答申内容の理由ですね。
実は、師団長・旅団長が下問について答申している場面は、公刊戦史では
この「側射できる堡塁」という点についてこう説明しています。
「鴉?嘴(オウコシ)および西太陽溝両堡塁および老鉄山方面の諸砲台に対し充分なる制圧射撃を必要とし……(公刊戦史)」
つまり、公刊戦史では「敵堡塁2箇所を征圧できれば」なんていう記述には
なっていないのです。
そして実際、05〜06日に渡る攻防では多くの堡塁から射撃を受けています。
「……東北部山頂及び藤家大山より銃火、ならびに太陽溝および椅子山方面よりの砲火に対し身を起こす能わず……(公刊戦史)」
『敵堡塁二箇所を制圧できれば……』という状況ではありませんでした。
私はこの記述を読んで以来、攻撃部隊には攻撃計画段階から「側射できる敵
堡塁は二カ所だけ」という認識はなく、また、実際には非常に多方向からの射
撃を受けた状況だったと理解を改めております。
よって、現実を否定しているつもりはありません。
また、当方は724ではありません。
そろそろ、コテハンの使用を始めたら如何?
>>734 『
>>511』
いい加減にこの使用法を改めなさい。「>」「>>」の違いが判りますか。
『>その散兵壕の位置おかしいよ』
1/10000の地図でどうこう言っているあなたに言われたくありません。
『>老虎溝山170mからみたら、高度200mの東北部山頂があってその向
こうに西南部山頂がある。東北部が透けているらしいね』
ふもとを上がってくる敵兵めがけて撃つのに、なぜ射線が東北部山頂
云々と言われるのか判りません。当方が述べた鉄条網に挟まれている敵の
山腹散兵壕の標高は、170mよりも下です。
『>コンドラチェンコ少将の三山の指摘 化頭溝山、老虎溝山、二百三山は
他の堡塁からの援護射撃は受けられるが、相互の側防射ができない。と
いう指摘と食い違い』
老虎溝山と二百三山とが相互側防する記述は豊富にあるので、その現実と
コ少将の指摘とを比較して、コ少将の指摘なるものには、否定的な考えを持
っております。
『>また西南部は足場が確保されているので側射できる敵堡塁2箇所を征圧
できれば、西南部への兵力投入も安全に行え、占領が期待できる』
これは「日露戦争4(児島襄)」中の記述ですが、当方は公刊戦史中に、
それと異なる記述を見つけたので、児島襄のこの記述については、否定的な
考えをもっています。
『すごいね、現実を否定し始めてるよ』
現実の被害は、老虎溝山と二百三山が相互側防関係にあることを示しています。
公刊戦史には、「二堡塁を制圧すれば……」ということは書かれておりません。
従って、現実を否定しているつもりは全くありません。
738 :
名無し三等兵:02/04/07 20:34
あのさ? 老虎溝山から西南部への散兵壕を攻撃できるかと
聞いているの。
>鴉?嘴(オウコシ)および西太陽溝両堡塁および老鉄山方面の諸砲台
>に対し充分なる制圧射撃を必要とし……(公刊戦史)
>「……東北部山頂及び藤家大山より銃火、ならびに太陽溝および椅子山方面よりの砲火に対し身を起こす能わず……
>(公刊戦史)
あなたの上げた資料では老虎溝山とは書いていません。どこに書いているのですか?
>>738 こういう記述もあります。
『その一部は爾霊山西南部の敵の第二線散兵壕の前の岩石に拠り、一部は其の左翼同散兵壕を略取し第八中隊又同時突撃せしも老虎溝山及び前方第二線散兵壕より敵の機関銃の側射を受け直進する能わず』
『老虎溝山及び前方第二散兵壕より』と書かれています。
東北部の山頂からなだらかに東北方面に向って傾斜があります。
どうしてもこの影に隠れてしまいますが。あなたの地図では
そう読み取れないのですね。
ただ定規あてただけで、731の結論みたいな事、主張しませんよ。
『結論:西南部山頂に向かう左攻路から突撃する攻撃側は、山腹の
鉄条網を越えて更に前述の山腹部散兵壕を越えて山頂の鉄条網に
近接するまで、老虎溝山からの側射を受けます。(
>>731)』
739のような記述も確認したうえで述べているのです。
>>740 戦闘の記述にもあり、地図でもその射線は確認できているということ
です。
『その一部は爾霊山西南部の敵の第二線散兵壕の前の岩石に拠り、
一部は其の左翼同散兵壕を略取し第八中隊又同時突撃せしも老虎溝山及び
前方第二線散兵壕より敵の機関銃の側射を受け直進する能わず』
これは何時の攻撃時の話ですか?
>>740『>東北部の山頂からなだらかに東北方面に向って傾斜があり』
ありますね。
老虎溝山から見ると、その東北方面に向かう傾斜は露軍側の陣地ですね。
しかしながら、老虎溝山山頂とあなたが言われる東北部の傾斜地を結ぶ
線の延長先には、日本軍側の攻撃陣地なんて全くありません。
日本軍側の攻撃陣地を狙う射角の話をしているのですよ。
>>743 11月27日です。1930頃の状況を示す一文です。
『その一部は爾霊山西南部の敵の第二線散兵壕の前の岩石に拠り、
一部は其の左翼同散兵壕を略取し第八中隊又同時突撃せしも老虎溝山及び
前方第二線散兵壕より敵の機関銃の側射を受け直進する能わず』
そして、この日に用いられた攻撃通路は、以後ずっと使われ続けました。
511の言う攻撃陣地はどこかね。どうみてもそのなだらかな
傾斜で見えないのですが?機関銃の側射ってどう考えても
山腹の壕からでしょ?そんなもの、12月の時には砲撃で
吹き飛ばしていますが?
ごっちゃにしてないか?
>>545それは後備15旅団が西南部を”目指している”時の情景ですね。
西南部を確保したあとではありません。
>>746 『老虎溝山及び前方第二線散兵壕より敵の機関銃の側射』つまり、
「老虎溝山」と「前方第二線散兵壕」よりの側射です。
>>747 その後、西南部を確保した後に攻路が変わっていればあなたの指摘も
わかります。
しかし、攻路は変わっておりません。12/06もこの攻路を使っています。
>511 あなたはすべてを当てにしない、しかし全てを参考にすると
書いてましたが、名将乃木希典を当てにして、それを否定する参考意見に
疑念を抱く姿勢ですね。
何べんも出てくると書いていましたが、その話は西南部を目指すという
文章を抜かしてあなたは書いていますし、側射を受けた場所が西南部とは
確定できません。
この他にもあるのでしょ?出してみてください。
あと
>>726での追加ね。なぜ西南部山頂への攻撃を書かないのか?不思議だ。
9:15 村上大佐は工兵35人を選抜3隊に配属して突撃を下令した。
10:00 それでも選抜隊は既存の第27連隊集成第3中隊とともに、
吶喊して西南部頂上に到達したが、山頂兵力はわずかに約40人に減少した・
状況を知った二百三高地攻撃隊長 斎藤少将は第28連隊集成第2、第3中隊
工兵第7大隊の一部、さらに第25連隊を増派し、村上大佐はそのうち
第25連隊第一大隊第3中隊を西南部頂上に進出させ、ようやく態勢を立て直した。
1020・村上大佐、同山頂の略取の目的を達したるものと認め、齋藤少将に報告。
1030・敵の銃火大いに衰え爾霊山西南部山頂の占領漸く確実となる。
1100・第七師団長、西南部山頂の略取全く確実となる後に東北部への攻撃を開始
するように齋藤少将に訓令。
1135・齋藤少将、村上大佐に山頂占領の確否を問い、占領確実ののちに東北部山
頂の攻撃に着手するよう通報。
・村上大佐は目下防御工事中にて東北部攻撃なお時期尚早、と回答。
・村上大佐は沼辺大尉に東北部の敵情を調査するよう命じる。
・沼辺大尉は斥候により、東北部の状況を知る。
1320・前面の敵情依然として変せず。
・齋藤少将、第七師団長に東北部山頂への攻撃を具申。
・第七師団長は攻撃を認可。
・齋藤少将は東北部攻撃の企図を老虎溝山攻撃隊に通報し、牽制を要求。
1345・齋藤少将は、攻撃隊(『歩兵第28連隊集成第一中隊』ほか)を東北部山頂
に突進せしめる。
>>749 『名将乃木希典を当てにして、それを否定する参考意見に疑念を抱く姿勢ですね。』
当方もちろん、同書内容に反対する論点も持っております。それが話題に
なっていないだけです。
しかし、同書はとても頼りにしております。桑原氏の記述のほとんどは正確
であることが他書の比較で明らかになる度に、その信頼度が上がっております。
『>この他にもあるのでしょ?』
他の記述ですか?
『我が右翼を拡張せば藤家大山より、左翼を拡張せば老虎溝山及び爾霊山東北
部より共に側射を受けしに因り、狭小の正面を以て突進せり。』
西南部の記述であり、側射を受けているのは、西南部に向かう攻路です。
>>750『なぜ西南部山頂への攻撃を書かないのか?不思議だ』
西南部の略取についてはあなたの
>>722に於いて疑問の提示がなかったからです。
あなたの疑問提示は、当方書き込み「西南部確保ののち、数時間後に東北部
山頂を目指す時の戦法である」に対しての疑問点でしたから。
『>この戦法が採られた場面は、既に西南部山頂が確保されてのち、約数時間後
に「西南部山頂から更に東北部山頂を目指す時に」採られた戦法なのです
↑こんな嘘を吐けるね?(
>>722)』
西南部山頂への攻撃を書いても良かったのですが、このあなたの疑問提示に
対しては、詳説する気が全く起きませんでしたね。
752 :
名無し三等兵:02/04/08 00:43
>752
なんかそのリンク先の文章、読んでて頭痛くなってきた・・・・・。
乃木将軍に個人的な怨みでもあるんだろ。
二百三高地西南部と老虎溝山の関係についての書き込みが続いてましたが、そも
そも、696のあなたの下記発言「これは間違いです」が、全くおかしなものなのです。
当方が述べてもいない関係について、『これは間違いです』とは何事ですか。
>>696『>二百三高地と老虎溝山との関係は、主攻と助攻の関係で
>あるといえると思います。
これは間違いです。203高地東北部と老虎溝山の関係は深いですけど、
203高地西南部と老虎溝山の関係は主攻、助攻になり得ない。』
当方は『203高地西南部と老虎溝山の関係』など述べてはいない。上記にあなたが
引用しているとおり、『二百三高地と老虎溝山との関係』について『主攻と助攻の
関係であるといえる』と述べているのです。
当方が述べてもいない関係について、『これは間違いです』とは何事ですか。
『これ』とは何を指すのか。当方の意見を指すのならば、当方の意見は『二百三
高地と老虎溝山との関係は主攻と助攻の関係といえる』である。これに対して反論
しなさい。
当方が『二百三高地と老虎溝山との関係は主攻と助攻の関係といえる』とした根
拠は、公刊戦史中に以下のような文章が幾つか見られることです。
『爾霊山攻撃隊をして……突撃せしめ、老虎溝山攻撃隊をこの突撃の援助に任ぜり』
『老虎溝山攻撃隊……午後三時を期し爾霊山攻撃を援助する為準備を……』
『老虎溝山攻撃隊はその後、爾霊山攻撃の各期において牽制に努め……』
『援助』、『牽制』なる言葉から見て、『二百三高地と老虎溝山との関係は主攻
と助攻の関係といえる』と考えます。
まあまあ511さん、マターリマターリ。
勝利は近いですよ。
>>753 まったく。「3次攻撃前に二百三高地を攻撃せよと改めた関東軍司令部」
なんていつ改めたんだか。
でも日清戦争云々に関しては何ともいえない。