一九四五年二月までに、ドイツ空軍の防衛力はゼロに等しいほど低下していた。
もはや操縦士を訓練するのに必要な燃料もなく、ME109は空から駆逐されか
かっていた。残った戦闘機にも使える滑走路がほとんどなかった。マクガヴァン
の経験でも、ドイツの戦闘機にダコタ・クィーンが攻撃されたことは一度もなか
った。ただし、もちろん対空砲火はまったく別の問題だった。バルジの戦いの
あと、連合国軍はライン川にせまり、いまにも渡河しそうな気配を示していた。
一方、赤軍もベルリンとウィーンを目指して進軍していた。前線が後退したた
めに、ドイツ軍は退却を余儀なくされた。アメリカ、イギリス、ロシアによる
ドイツへの航空攻撃はますます激しくなった。飛来する爆撃機の数が増え、
ドイツの損害の規模も大きくなった。そこでドイツは、八八ミリ砲兵隊を都市
のまわりに集中させた。わずかに残った製油所と、何よりも重要な操車場を守
るためである。言い換えると、連合国軍が勝ち進むにつれ、連合国軍の爆撃機
はいっそう激しい集中的な対空砲火のなかを飛ばなければならなくなったのだ。