WWU爆撃・攻撃・雷撃機について論じる

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643事故が多かったアメの重爆
 エリナーとジョージは妻帯者用の兵舎に入った。ここで初めて、二人は同じ
部屋で暮らせたのである。編隊飛行はきわめて難しく、事故が多発したから、
エリナーは夫のことが心配でならなかった。無理もない。地上軍兵力のほうが
大きかったにもかかわらず、航空将校の戦死者数は、それ以外の全陸軍の戦死者
数の二倍にのぼったのだ。しかも、この戦争では三万五九四六人の航空兵が事故
死している。戦時中に事故死した陸軍軍人の四三パーセントである。

「ワイルド・ブルー」(スティーブン E・アンブローズ)の124頁
644欧州航空戦総括:02/09/30 20:05 ID:???
 ドイツ空軍司令官のヘルマン・ゲーリングは、じつに雄弁にしゃべった。
彼は総合的な結論として、連合国軍の目標の選定はたいへん的確だったと評
した。そして、精密爆撃は夜間爆撃よりも有効だったと断言した。とはいえ、
空軍力だけでドイツが負かされたわけでは決してない、というのがゲーリング
の結論だった。しかし、ナチス・ドイツの第二代総統、すなわち最後の総統
となったカール・デーニッツ海軍最高司令官は、空軍力こそ決定的な要素だ
ったと言う。陸軍元帥のゲルト・フォン・ルントシュテットも、連合国軍の
勝利を決定づけたいくつかの要素のなかでも、空軍力は最高のものだと確信
していた。ヒトラーの側近だった作戦部長のアルフレート・ヨードル将軍は、
制空権を確保したことが戦争の勝利を決定づけたと言い、とくに戦略爆撃は
最も決定的な要素だったと言った。また軍需相のアルベルト・シュペーアは、
地上での侵攻がなくても戦略爆撃で勝利を得られただろうときっぱり断言した。
 連合国軍はドイツの産業力を過小評価していた、とドイツ軍の指導者たちは
言った。背後に巨大な産業力を擁していたから、ドイツはゆっくりと戦時体制
に入ることができた。産業力は伸びつづけ、一九四四年半ばにピークを迎えた。
だが、そこで戦略爆撃作戦が強化された。戦時中に第三帝国を襲った全爆弾の
七二パーセントは、一九四四年七月一日以後に投下されたものだった。
645643・644の同書20頁:02/09/30 21:05 ID:???
 コンソリデーテッド社は、フォード・モーター、ダグラス・エアクラフト、
ノースアメリカン・エビエーションとともに「リベレーター製造連合」呼ばれ、
四社で一万八三〇〇機以上のリベレーターを製造した。B-17の全製造台数
より約五〇〇〇機も多い。リベレーターが稼動しはじめたのは第二次世界
大戦が始まってからで、戦後に使われることはなかった(一九四五年から
四六年までで、ほぼすべてのB-24がスクラップにされ、残りは太平洋
に浮かぶ島々に放置され、腐敗するにまかされた)。