続・独ソ開戦から60年、本当はどうだったの?

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79名無し三等兵
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ソ連は1930年代初期に、英・米・独とほぼ同時にレーダーの研究をはじめた。
レーダー・システムが開発され、一部は1941年以前に生産段階に入っていたが、
その進捗状態はレーダー支持者が望んだほど急速なものではなかった。実用と理論の
うえで、まだ克服されない障害があり、科学者や軍関係者の間にも若干の懐疑論が
あった。それだけでなく、ソ連無線工業は必要な装置の製造に困難を感じていた。
粛清もまた、ソ連のレーダー開発に大きなマイナスの影響を与えた。
 戦時中にようやく政治指導部はレーダーの重要性を理解した。1943年7月、
国家防衛委員会はレーダー評議会を設置し、マレンコーフが議長となって研究・
開発を調整し、装置の生産を拡大することになった。レンドリースによって米・
英・カナダから供給されたレーダーが、コピー生産された。航空工業人民委員部
にレーダー総局が設置され、機器製造工場の1つがレーダー製造に切り替えられ
た。
 終戦時にレーダー評議会は特別調査団をドイツに派遣して、レーダー設備と
ドイツの電子工業を調査させた。この調査団は詳細な技術リポートを作成したが、
これが米英のレーダー研究とあいまって戦後のレーダー開発の基礎を作った。
ドイツのレーダー専門家がソ連に連れて来られ、ソ連の各工場に配属された。
評議会はレーダー開発3ヶ年計画を作成し、1946年7月に政府はこの計画を
承認した。ソ連はかなり立ち遅れており、1946年の米国諜報機関の評価では、
ソ連のレーダー開発は米国より少なくとも10年は遅れているとされた。しかし
1946年初までにソ連は、大規模なレーダー開発の基盤を築き上げていた。