続・独ソ開戦から60年、本当はどうだったの?

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34名無し三等兵
「第二の罪 ドイツ人であることの重荷」(ラルフ・ジョルダーノ 白水社)
パルチザンの射殺ではなく逮捕を明確に禁止したのも、フォン・ライヒェナウだった。
その命令がヒトラーによって「すばらしい」と賞賛されたので、他の陸軍司令官も
この命令を発した。歩兵隊のエーリヒ・フォン・マンシュタイン将軍も一九四一年
十一月二十日、同様の命令を発した。「この戦闘はソ連軍に対し、ヨーロッパ戦争の
規定のみに従って 従来の形で行われているにあらず。前線の背後でも闘いが継続
されつつあり。・・・・・ユダヤ的・ボルシェヴィキ的組織は一挙に根絶せしめるべし。
それがわれらのヨーロッパ生活圏に再び侵入するようなことがあってはならぬ。
 したがってドイツ兵士は、この組織の軍事的権力手段を打ち砕く 任務を
帯びるにあらず。ドイツ兵士は民族的理念の荷い手として、彼およびドイツ
民族とに加えられたあらゆる残忍な行為に対する復讐者としても行動すべし。・・・・・
 ボルシェヴィキ的テロの精神的荷い手であるユダヤ人が罪滅ぼしをする必要性に関し、
兵士は理解を示さねばならぬ。 その理解は、ほとんどユダヤ人によって企図される
全ての反乱を 萌芽のうちに摘み取るためにも必須なるべし。」
最後に,エーリヒ・フォン・マンシュタインは,「軍人たる名誉」を誓った。
 陸軍第十一軍の司令官マンシュタインは、この軍人たる名誉なるものを
ナチスの根絶・絶滅政策に対する彼の個人的支持と結びつけたばかりでなく、
その後一九四九年には、ハンブルクにおけるイギリス軍軍事法廷で彼が
とった態度とも一致させることができた。私はジャーナリストとしてこの
裁判を傍聴した。フォン・マンシュタインの弁護体制は鉄のように固かったが、
全く信用するに値しないものだった。自分が直接危険にさらされていると感じても、
記録文書で証拠がない場合には「記憶にございません」と言ったり、そっけなく
否定した。彼自身が発した命令が裁判所に提出されて有罪の心証が避けがたい
場合などには、自分の役割を過小評価したり弱めたりする。彼に好都合と思わ
れた時には、事実次第で責任を上や下に押しつける。私はこの見すぼらしく、
いつも言い訳や逃げ口上を考える人物、かつては大軍の将であった者が、
ローテンバウム大通りのクリオ・ハウスの中の法廷被告席で見せたあの姿を、
決して忘れないだろう。イギリス軍事法廷により十八年の懲役の判決を受けた
この貴族の既決囚は、時の流れの恩恵と彼の同類たちにたいするアデナウアー
時代のおぼしめしによって、わずか四年服役すればよかった―一九五三年、
彼は再び自由の身になったが、何も学んでいなかった。彼は、その回想録に
『失われた勝利』というタイトルをつけた。

Order of the Commander of the Eleventh Army, von Manstein
http://www.netbistro.com/electriczen/documents/wehr2.html