872 :
名無し三等兵:02/03/20 03:51
>>870 うんうん、おじいちゃん達はホント日本の誇りだよん
母方の祖父は砲兵として中国にいたそうだ。長生きしたが多くを語らなかった。
父方の祖父はやはり中国に軍医としていっていた田舎のインテリ。
当時としては大柄で、馬を担いだという伝説も残っている豪傑。
細菌の研究などもしていたと伝え聞いているが…。
シベリアに抑留され帰ってきたときには衰弱してスイカも自力で食えず、
頭もすっかりおかしくなってしまっていたそうだ。
874 :
名無し三等兵:02/03/20 11:45
私の知り合いは、当時帝大生だったが、
海軍主計学校(?)を出ていたので、
海軍主計少尉として任官されたそうだ。
当時の日本国内は、ご存知の通り物不足だった訳だけど、
軍の中は物が豊富にあったようで、
食事などはかなり豪華だったそうだ。
因みにその人は、某有名企業の社長の息子で、
戦後も順調に出世し、「その道」を極め、
日本国政府及び某欧州の政府より勲章を貰っているが、
それでも、戦時中よりも美味い飯は食べたことがないそうだ。
一体、海軍ってどんな世界なんだ?
風呂に入るときなどは、御付きの人が2名付いて、
身体を洗ってくれるそうだ。
875 :
名無し三等兵:02/03/23 15:38
ahe
祖父、上海事変出兵。
その時「サクマ式ドロップ」の缶に宝石を入れ密輸したそうです。
宝石の出所は全く不明・・・。
877 :
名無し三等兵:02/03/23 16:31
祖父は年が行っていたため徴兵されず終い。
祖父の弟は関東軍参謀本部でなにかやってたらしい。
迫撃砲の成績抜群云々ということだった。
祖母の弟は大陸で捕虜になりシベリア抑留。
ガリガリに痩せこけて生還するも、数週間後に
栄養失調で死亡。死ぬ前の日は妙に元気でスッキリ
したような感じだったそうだ。
父は小学生。甘いものを腹一杯食べたかったそうだ。
878 :
名無し三等兵:02/03/24 11:51
マレー半島で蛇食ったって言ってた
ラバウルで敵グラマンを撃滅したんだけど
そのグラマンの操縦桿を持ち帰った
880 :
名無し三等兵:02/03/29 17:19
あげましょう
詳しくは聞いてないが、俺のじいちゃんは水兵でラッパ吹いてたらしい。
どんな船に乗ってたかは知らないが、
ケツに鉄砲喰らった痕があったから、結構前線まで出てたみたい。
でも、特に後遺症も無く元気だったな。
882 :
名無し三等兵:02/03/30 23:03
「ワシゃ、グラマンに追いかけられて近くにあった小川に飛び込んで助かったんじゃ」
という話が、ベストセラーじゃないかと思う今日この頃。
883 :
名無し三等兵:02/03/30 23:18
母方の祖父は上海に言ったらしいが友人にビルマに行くと
言い残したまま帰ってこなかった。
884 :
名無し三等兵:02/03/30 23:57
呉の海軍工廠で戦艦大和を作ってました。希少鉱物のプラチナを少し
ちょろまかし、祖母への結婚指輪を自作しました。今でも祖母の
指に収まってます。
父かたの祖父は満州からシベリヤに抑留後病死。
886 :
名無し二等兵:02/04/03 19:13
母方のじーちゃん、赤紙で陸軍にとられた。
南方に行ったらしい(詳細不明)。
無事に生還してきたよ(さすがにもう故人だけど)。
なんか「騎兵隊に居た」なんて言ってたから、
捜索連隊にでも配属されたのかなぁ?
あんまり戦争の事は話してくれなかったよ。
人の嫌がる軍隊に志願で出ていく馬鹿がいる〜再役までする馬鹿もいる〜♪
うちの爺さんはその馬鹿だったわけですが、
再役してるうちに准尉にまで昇進して、フィリピンに行ったきり。
なのでうちの婆さんは今でも爺さんのことを馬鹿と呼ぶ。
かみさんの祖父はサイパンで戦死。
お櫃の中には石ころが入っていたとか。
自分の祖父は戦争に行かず、戦後釣り行く途中進駐軍のジープに跳ねられ他界。
親父は当時中学生で昼間は勤労動員?
当時は東京の港区に住んでおりまして、毎夜の空襲で叩きおこされ‘死んでも
いいから寝かせてくれ’と言ったそうな、で防空壕に入る直前に焼夷弾が落ちて
ケツに火が付いたとか。
食料不足により飼っていたニワトリの首はねたら10m位、首なしで走ったって。
祖父だけが‘うまい、うまい’と食べてその他家族は手をつけなかった。
そんな祖父も下町へ焼死体の処理に行ったときは飯は食えなかったみたい、
夜になるとあちこちで燐光が見えたと言ってたそうです。
889 :
名無し三等兵:02/04/05 00:53
中国に通信兵として出兵したらしい
とある都市での大虐殺の跡に進駐したとき、
ひざ下まで血の池状態だったとか〜
あとは、終戦の年、田舎の港から豊後水道を通るでっかい戦艦が見えたとか
890 :
名無し三等兵:02/04/05 01:03
母方の祖父は徴兵されましたが、玉音放送だけ聴いて帰って来た
そうです(当時18歳)。ちなみに、その1月ちょっと前には、
たまたま所用で実家に帰ったその晩に空襲で下宿が丸焼けになっ
たと言ってました。
891 :
名無し三等兵:02/04/13 14:53
ウチの父は(当時旧制中学生)沿岸警備隊と酒盛りしてました
志願で出て行くバカもあると言う歌を歌っていたそうで
上陸されたらいちころだと思ったそうです。
892 :
名無し三等兵:02/04/14 13:29
消防・厨房・孝行・職場と我が人生の全ての場が旧陸軍駐屯地跡。
ちなみに久留米(福岡)です。
893 :
名無し三等兵:02/04/14 13:33
ウチの曽祖父はペリリュー島の土となりました
ウチの母方の爺様は徴兵されて満州に行ってました。昭和19年に除隊して内地に戻った。
余り詳しくは語らなかったけど、戦闘後血で染まった雪原の雪を溶かして飯盒を炊いた事を
聞いて子供ながらに怖かった。
形見分けの時、出征時に軍服を着た爺様が俺と激似で親族で驚いていた。
遺伝子だけは立派に引き継いでいるのに、ほとんどヒッキーで2chばかり。
爺ちゃん、ヘタレな孫ですまん……。
895 :
名無し三等兵:02/04/14 17:00
うちのじいちゃんは岐阜からの徴収兵で陸軍名古屋第68部隊
所属、その後、呉守備隊になりました。
空襲の時朝鮮兵の人が母国語で騒いでいたのがなんともこっけい
だっやそうです。
父方の祖父:飛行機工場で尾翼部分を作成。
祖母:学校の校庭で、芋作りに励む。
母方の祖父:学徒動員。九州の守備隊にいたらしい。
祖母:工場で働いてたらしい。
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/ | \ \ (´ー` ) 現地幼女
/ | \ \ ノ( )\('-')
ヽ./ | \/ \/ ノωヽ 只ヽ....
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/ | \ \ 祖父
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ヽ./ | \/ \/ ▽ ノω ヽ /⌒\
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私の父は,終戦時陸軍士官学校生徒で,常陸教導飛行師団所属.
同師団からは特攻隊も送り出していたし,米軍空襲時には迎撃も
行っている.水戸飛行場から群馬県の新田飛行場に移ったところで
終戦を迎えた.機銃掃射で逃げ回ったこともあったらしい.
隼,鍾馗,飛燕,疾風等の実機をさわっているらしいので,
模型ファンの私としては,その場面だけ代わってほしかった(藁
戦後は学校に戻り,定年まで会社勤めをし,定年後の現在も働いて
いるが,とても元軍人とは思えません.
899 :
名無し三等兵:02/04/23 03:20
東京本所で金儲け戦争は儲かる
戦時中でも温泉三昧のヒコクミーン
でも3/10は東京にいたのでエライ目に・・・
900 :
名無し三等兵:02/04/23 03:30
最近、昔満州に住んでいた祖父のために
「蘇州夜曲」をフルートで演奏しました。
901 :
名無し三等兵:02/04/23 03:42
>>893 おお!
うちの爺さんもぺリリュー島で戦没した。
902 :
名無し三等兵:02/04/23 07:08
祖父は内地でぽっぽやしてたらしぞ
軍人だった頃、金剛受領しにイギリス逝ったとか
写真見せてもらったことがある。
まぁ、漏れはその祖父にはあった事はない
生まれる前には死んでいた
親も漏れも、親が歳食ってからの子だったからな。
入院中のおじいちゃん薬が嫌いらしく看護婦の前で飲まされてるが
看護婦が去った後ベットから薬を取り出した、飲んだんじゃないの?
と聞くと、飲む振りをして捨てる訓練を受けてたと言ってた。
カコイイじじいb(゚▽゚)イイ
904 :
名無し三等兵:02/04/23 10:41
北京の予備師団に配備され、治安維持にかり出されたらしい
遊撃隊(ゲリラ?)との交戦中に同郷の仲間が、テキダン筒で攻撃するつもりが
点火した手榴弾を逆さに装填してしまいテキダン筒ごと・・・
お爺様がご健在な方も多いようですが、大切にされて下さい。亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
父方の祖父‥刑務官から徴兵されて海軍へ(今年の2月末に他界)
母方の祖父‥徴兵されて陸軍へ終戦時は軍曹?
母方の祖母‥戦時中は仙台市電の女車掌、機銃掃射を受けて時、腰を抜かした運転手を背負って逃げたそう。
母方の祖父が負傷した時、同郷の上官が手当てをしてくれたそうですが、その時流れ弾を受け戦死…俺の代わりに死んだと泣いてたなぁ。
うちの爺ちゃん戦艦長門で弾道計算だかなんだかやってたらしい
907 :
名無し三等兵:02/04/23 18:27
私のひい爺ちゃんは海軍の整備兵、階級は兵曹長
空母に乗っていたが乗艦は撃沈された。
この前墓参りに行ったら墓石にこう彫ってあった
「昭和十七年七月 ニューギニヤ南方海上において壮烈死
この書 元帥閣下の恩情にて絶筆なり」
ひい婆の話によると元帥閣下とは山本元帥の事だと言っていたが
一准仕官のために書いてくれるものなのだろうか?かなり疑問。
なお死因は爆弾の直撃と聞いています。
あと この時期に空母が沈むような海戦は起きたのでしょうか?
良ければお教えください。
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俺のひい爺ちゃんはドイツの独裁者の影武者してますた。
910 :
名無し三等兵:02/04/27 01:30
>>889 膝下まで・・・
ちょいと図面を書いてどれぐらいの血がどれくらいの広さ深さの場所にの場所に
どのようにたまってる状態なのか、またそれが
どのくらいの人間から流れ出た血に相当するのか
また流れる血が地面に吸われるのか吸われないのか、
更にそのような場所を歩兵がわざわざ通るのはどのようなときか、
を具体的に想像してみてください・・・
お爺さまには申し訳ないが「兵隊の間のおおげさなうわさ話」の類である
可能性はかなり高いと思う・・・
>膝下まで
池にでも、血の流れてる死体を流せば可能かと
>>907 5月なら珊瑚海海戦があります。
祥鳳にでも乗っていたのでは?
913 :
名無し三等兵:02/05/03 18:34
死んだじいさんは「鈴谷」に乗ってたみたいだ!
914 :
名無し三等兵:02/05/03 18:43
うちの母方の爺ちゃんは戦時中。
八幡製鉄所で品質検査の仕事をしてた。
母によると、製鉄所は体力使う仕事だそうで、家族も食料には困らなかったそうな。
父方の爺ちゃんは、国内で衛生兵として勤務。
何事も無く終戦を迎えたらしい。
今でも、俺が料理しててけがしたときに手当てしてくれる(笑
俺の母親の弟は大和に乗って戦死だって。
916 :
名無し三等兵:02/05/07 23:27
祖父は海軍飛行隊の3期生。開戦時は加賀の整備分隊長、特務大尉。真珠港から帰ると
中国の基地航空隊へ。真珠湾攻撃で金鵄勲章。終戦時、海軍少佐。兵隊上がりとしては
最高位を極めた。父は三菱で魚雷の設計。長崎での原爆投下時地下2階の研究室におり
九死に一生を得たそうな。三菱の技師であったため、昭和18年頃の海軍の召集は即日解除されたそうな。
後で、祖父が裏で手を回したことを知ったらしい。
原爆で負傷し長崎近郊の親戚宅に身を寄せていた父を、久留米の部隊にいた父の弟(陸士出身)
が見つけ、特権で陸軍病院に入院させたらしい。
917 :
名無し三等兵:02/05/09 00:07
>>911 だからどの程度の深さと大きさのいけに何体の、
どの程度の状態の死体を放り込めば(以下略)
918 :
名無し三等兵:02/05/09 01:52
k関係ないがうちの学校元陸軍の馬とかいるところだったらしい
919 :
名無し三等兵:02/05/09 01:57
親父は消防だった。
近所に中島飛行機の工場があったせいで
結構戦闘機とかが来ていたらしい。
機関銃で撃たれて、どぶに身を入れてしのいだ
なんて話しも聞いた。
920 :
名無しさん:02/05/09 02:21
私の父方の祖父は原爆が落ちた次の日、現地救援のため広島に送られました。
郵便関係の仕事についていたので、国内にて通信関係の仕事を任され
海外に送られなかったのが不幸中の幸いでした。
広島での死体処理は壮絶そのものだったそうです。
当時現地でとった写真を見せてもらったことがありましたが
白黒の上、ピンぼけでよく分かりませんでした。
それでも異様な雰囲気だけは伝わってきました。
当然被爆者手帳を持っています。そろそろ80になるがまだ一人で歩けます。