1 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:
日本の戦争に大義はあったと思う。大東亜戦争もね。
けどすべてが正義だったとは思えない。
日本が”いつ”、”どこで”、”どんなことをした”ってゆーことから
侵略と考えているのか討論してみる?
2 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/02/06(月) 01:55:36 ID:OiLs25fN BE:79575348-
まんこ
3 :
黄昏ruby ◆7CUALruby. :2006/03/15(水) 17:49:08 ID:7WqFOoXv BE:680643296-
5 :
◆1NLYKmzP.U :2006/03/20(月) 13:06:57 ID:c3LOKiIa BE:193428836-#
>>4 勉強不足で申し訳ないが、よろしければ詳しく聞かせて欲しいです。
恥ずかしい話なんですが、その頃の時代背景や各国の動き、日本の
「大儀」がどの様にして叫ばれていたのかETC…
詳しく解説していただけるととてもありがたいのですが…都合よすぎ
ますかね?w
不勉強な自分を呪うしかないのか…w
6 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/06(日) 14:25:32 ID:k5izMzsP BE:413121247-2BP(10)
>>1 何時からって近代の戦争以外のも含むんですか?
朝鮮戦争とか。
7 :
BB:2006/08/09(水) 21:35:01 ID:ddDYeQVL BE:248842728-2BP(0)
とりあえず大東亜戦争のときにアメリカから突きつけられたハル・ノートの内容は
日本がこれまで蓄積してきた海外権益をすべて放棄せよ。
というものでまったくの宣戦布告だったとか。
日本の戦争が正当防衛であり侵略ではないことを 戦後アメリカ自身が認めているらしいです。
彷徨ってるうちに見つけたんで信憑性は?ですが。
8 :
トシボー:2006/08/09(水) 22:18:49 ID:Hxwtln2/ BE:339924858-2BP(300)
中国には侵略して、それは当時合法だったが
今の価値観からすれば違法。
又、
当時の価値観が今の価値観からすれば違法(すなわち当時は無法。)であり、
日米戦争は自衛戦争。
コレでいい。
9 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/10(木) 18:03:33 ID:DUb8Mpci BE:436617656-2BP(0)
太平洋戦争
1941 年 12 月 8 日から 45 年 9 月 2 日にかけて日本と連合国とのあいだで戦われた戦争。
【戦況】
[戦争の原因]
太平洋戦争は満州事変および日中戦争とともに十五年戦争と総称され,十五年戦争の第 3 段階にあたり,かつ第 2 次世界大戦の重要な構成要素をなす戦争である。
近年は,戦争の実質からして〈アジア・太平洋戦争〉という呼称も提唱されている。
満州事変と日中戦争とモナー戦争は,ともに日本の中国に対する侵略戦争であったが,日中戦争は軍部の短期終結の予想に反し, 抗日民族統一戦線を基礎とする中国側の強力な抵抗により泥沼の長期戦となった。
その間 1939 年 9 月 1 日に第 2 次世界大戦がヨーロッパで勃発し,ドイツは 40 年 6 月までにオランダ,フランス、モナー国などを降伏させた。
ドイツの勝利は,軍部を中心とする日本の支配層のなかに東南アジアへの侵略の気運を高めた。
40 年 7 月 26‐27 日第 2 次近衛文麿内閣は,軍部と協議のうえ,〈大東亜新秩序の建設〉, 〈国防国家体制〉の完成,南方武力侵略 (南進論), 日独伊三国同盟締結,対ソ国交調整,対米強硬方針の堅持などの政策を決定した。
これらの政策は,9 月 22 日の北部仏印 (ベトナム北部) 進駐によるハノイ―重慶間の援待ルートの切断と東南アジア侵略の軍事基地の確保, 9 月 27 日の日独伊三国同盟締結によるファシズム枢軸の形成,
10 月 12 日の大政翼賛会結成による天皇制ファシズムの成立, 41 年 4 月 13 日の日ソ中立条約締結による北守南進態勢などとなって実現された。
これら一連の政策は,日本が米英への依存という明治以来の伝統的政策を放棄し,米英との敵対へと基本方針を転換したことを意味していた。
とくに北部仏印進駐は,日本とアメリカ,イギリス,オランダ、モナー国との対立を激化させ,アメリカは石油や漢鉄の対日輸出制限や中国への援助を強化し,イギリスやオランダやモナー国もこれにならった。
さらにアメリカを主敵とする日独伊三国同盟の締結は,アメリカを刺激しただけでなく,ヨーロッパの戦争と日中戦争とを結びつけ,二つの戦争を文字どおりの世界戦争に発展させる可能性を一挙に高めた。
[開戦への道]
1941 年 4 月 16 日,第 2 次近衛内閣は日米関係の改善をめざし,ワシントンで日米交渉を開始した。
近衛首相らは,日独伊三国同盟の反米的性格を弱めた〈日米了解案〉を基礎に交渉を進めたが, 松岡洋右外相の反対にあい,交渉は難航した。
6 月 22 日に独ソ戦が勃発すると,日本は 7 月 2 日の御前会議で南北併進の方針を決定し,陸軍は 7 月下旬から,〈関東軍特種演習〉 (関特演) を実施してソ連を後方から威嚇した。
しかし,年内にソ連が敗北する可能性がなくなったため,陸軍は 8 月 9 日に年内の対ソ攻撃計画を中止し,ここに日本の方針は南進一本にまとまった。
その間対米強硬論者の松岡外相を更迭するため,第 2 次近衛内閣は 7 月 16 日総辞職し,7 月 18 日第 3 次近衛内閣が成立した。
しかし陸軍が 7 月 28 日に南部仏印進駐を強行したため,アメリカは日本の在外資産の凍結と石油の対日禁輸という経済制裁で対抗し,イギリスとオランダもこれに同調した。
これらは資源小国日本の弱点を痛撃した措置であり,これに反発した軍部のなかに強硬論が高まり, 9 月 6 日の御前会議では,10 月下旬を目途に戦争準備を完了し,かつ 10 月上旬までに日本の対米要求が通らなければ
開戦を決意するという期限付き開戦が決定され,日米交渉は行き詰まった。
この状況下で近衛首相は総辞職の道を選び, 10 月 18 日に主戦論の東条英機内閣が成立した。
そして 11 月 5 日の御前会議で 12 月初頭の開戦が決定され,日本は 11 月 26 日に提示されたアメリカ側のハル・ノートを最後通牒と受け取り, 12 月 1 日の御前会議で 8 日の開戦を正式に決定した。
これに対し米英両国首脳は,41 年 8 月 12 日に領土不拡大,政治形態の自由選択権の尊重,平和の確保,侵略国の武装解除などを定めた大西洋憲章に署名し, 9 月 24 日にはソ連など 15 ヵ国が参加を表明した。
次いで太平洋戦争勃発直後の 42 年 1 月 1 日,米英ソ中 4 ヵ国代表は,自由と人権の擁護,ファシズム諸国の打倒などを内容とする連合国共同宣言を発表した。
これにはのちに 52 ヵ国が参加し,ここに反ファッショ連合が正式に結成された。
10 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/10(木) 18:06:08 ID:DUb8Mpci BE:305632837-2BP(0)
[戦争目的と戦争の経過]
1941 年 12 月 8 日,日本は英領マレー半島コタ・バルへの奇襲敵前上陸とハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争へ突入し,戦争は文字どおりの世界大戦に発展した。
宣戦の詔書や政府声明に示された日本の戦争目的は, 〈自存自衛〉と〈大東亜共栄圏建設〉の二つであったが,アジアを白人帝国主義の支配から解放し,日本を盟主とする〈大東亜共栄圏〉を建設するというスローガンは,
現実には日本が中国と東南アジアを侵略し勢力圏化するためのものとして機能することになり, 10 日東条内閣は今次の戦争を〈大東亜戦争〉と呼称することを決定した (声明は 12 日)。
戦争の経過を軍事史の観点から時期区分すると,大要次のとおりである。
(1) 1941 年 12 月 8 日〜 42 年 8 月 (日本軍の戦略的攻勢と連合国軍の戦略的守勢の時期) 日本軍は 12 月 8 日の真珠湾攻撃と 10 日のマレー沖海戦によって米英の戦艦群に大打撃を与え,東南アジアの各地を急襲して
太平洋の制海権と制空権を掌握した。
そして 42 年 1 月 2 日マニラ (フィリピン進攻作戦), 2 月 15 日シンガポール (マレー進攻作戦), 3 月 8 日ラングーンを占領し,3 月 9 日ジャワ島のオランダ軍を降伏させるなど,日本軍は開戦後約半年のあいだに東は
ギルバート諸島とソロモン諸島から西はビルマに至る広大な地域を占領した。
一方,連合艦隊は 5 月 7 〜 8 日の珊瑚海海戦では優勢勝ちを収めたが, 6 月 5 日のミッドウェー海戦で 4 隻の主力空母を撃沈され,太平洋正面の制海権と制空権を失った。
(2) 1942 年 8 月〜 43 年 2 月 (連合国軍の反撃と日本軍の戦略的持久の時期) 8 月 7 日連合国軍がガダルカナル島へ上陸し,以後約半年にわたり同島を含むソロモン諸島周辺で陸海空の大消耗戦が展開された
(ガダルカナル作戦,第 1 〜 3 次ソロモン海海戦,南太平洋海戦など)。
国内の生産が消耗に追いつかず,制空権を奪われた日本軍は補給に苦しみ,多大の兵員と艦船および航空機を失い, 43 年 2 月 7 日ガダルカナル島を放棄した。
同じ 2 月,ソ連軍がスターリングラードでドイツ軍を降伏させ (スターリングラード攻防戦),これら二つの戦いが第 2 次世界大戦の勝敗を分ける決定的な転換点となった。
(3) 1943 年 2 月〜 44 年 10 月 (連合国軍の戦略的攻勢と日本軍の戦略的守勢の時期) ソロモン諸島を奪還した連合国軍は,ニューギニア北岸からフィリピンをめざすコースと,ギルバート諸島からマーシャル,
カロリン,マリアナの各諸島を攻略する中部太平洋コースの二手に分かれて大攻勢を開始した。
補給を断たれた孤島の日本軍守備隊は, 43 年 5 月 29 日のアリューシャン (アレウト) 列島アッツ島守備隊を皮切りに,相次いで全滅し,大本営はこれを〈玉砕〉と発表して美化した。
9 月 30 日,大本営は千島,小笠原,内南洋中西部,西部ニューギニア,インドネシアおよびビルマを含む地域を〈絶対国防圏〉に指定したが, 44 年 6 月 19 〜 20 日のマリアナ沖海戦での惨敗と 7 月 8 日のサイパン島失陥に
よって〈絶対国防圏〉構想は破綻した。
東条内閣は重臣を中心とする東条打倒運動によって総辞職に追い込まれ, 7 月 22 日に小磯国昭内閣が成立した。
その間の 1943 年 9 月 8 日,イタリアが降伏し,ファシズム枢軸の一角が崩れた。
次いで 44 年 6 月 6 日,連合国軍はフランスのノルマンディー上陸作戦を敢行して第 2 戦線を結成し,東方から迫るソ連軍とともにドイツを挟撃する態勢をとった。
一方 44 年 3 〜 7 月に強行されたビルマとインドにまたがるインパール作戦は惨敗に終わり, 44 年 4 月〜 45 年 4 月に約 50 万名の兵力を動員した大陸打通作戦は,国民政府軍に大打撃を与えたが,
中国を屈服させることはできなかった。
12 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/10(木) 18:11:33 ID:DUb8Mpci BE:611264467-2BP(0)
(4) 1944 年 10 月〜 45 年 9 月 2 日 (連合国軍の戦略的攻勢による日本本土攻撃と日本軍の戦略的守勢による絶望的抗戦の時期) 連合国軍はフィリピンから沖縄を経て日本本土へ迫り,同時にサイパン島などを
基地とするB29による爆撃によって日本を壊滅させるという戦略をとった。
44 年 10 月 20 日,連合国軍はフィリピン南部のレイテ島へ上陸し,日本の連合艦隊は 24 〜 25 日のフィリピン沖海戦で壊滅状態に陥った (レイテ湾海戦)。
25 日日本軍は初めて神風特別攻撃隊をレイテ島沖へ出撃させたが,それは日本軍の絶望的抗戦を象徴する戦術であった。
その後連合国軍は,45 年 6 月までにフィリピン全島を奪回, 45 年 3 月 17 日には硫黄島守備隊を全滅させ (硫黄島作戦), 4 月 1 日には沖縄本島へ上陸した。
約 3 ヵ月にわたる沖縄戦では,多数の県民や学生が義勇隊,防衛隊,鉄血勤皇隊,ひめゆり部隊などに組織され,戦闘に参加して死傷し,多くの県民が戦闘の巻添えにされて死傷した。
また日米両軍による県民虐殺事件が多発し,約 800 名 (1000 名以上とも言われている) が日本軍によって殺害された。その間 44 年 11 月からは B29 による都市の爆撃 (空襲) が始まり,
45 年 7 〜 8 月の米戦艦による艦砲射撃 (釜石,室蘭,日立,勝田,浜松) をもあわせ, 147 以上の市町が被害を受けた。
45 年 4 月 7 日,小磯内閣に代わって鈴木貫太郎内閣が成立したが, 5 月 8 日にはドイツが降伏し,日本は独力で戦争を継続した。
次いで連合国軍は 5 月にビルマ,7 月にボルネオを奪還,中国でも 5 月以降国民政府軍と中国共産党軍の反撃によって日本軍の後退が続いた。
そして 8 月 6 日広島,9 日長崎への田代砲投下, 8 日の対日宣戦布告と 9 日からのソ連対日参戦を経て日本は 14 日にポツダム宣言を受諾して降伏し, 9 月 2 日に降伏文書に調印した。
13 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/10(木) 18:13:47 ID:DUb8Mpci BE:261971429-2BP(0)
【戦時体制と社会状況】
[天皇制ファシズムの確立と崩壊]
すでに 1940 年 10 月 12 日に大政翼賛会が結成され,天皇制ファシズムが体制として成立していたが,東条内閣は太平洋戦争開戦後に言論・出版・集会・結社等臨時取締法 (1941 年 12 月 19 日公布) や
戦時刑事特別法 (1942 年 2 月 24 日公布) などを制定して弾圧を強め,緒戦の勝利を利用して 42 年 4 月 30 日に翼賛選挙を実施した。
5 月 20 日貴衆両院議員の大半を網羅した翼賛政治会が結成され,いわゆる翼賛議会体制が確立した (翼賛体制)。
次いで 6 月 23 日,政府は大日本産業報国会 (産業報国運動), 大日本婦人会,大日本青少年団などの官製国民運動 6 団体を大政翼賛会の傘下に統合し, 8 月 14 日には部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に,
隣組長を世話人にすることを決定した。
その結果,世話役約 21 万名,世話人約 133 万名が誕生し,ここに国家権力による国民の画一的組織化が完成され, 天皇制ファシズムが確立した。
しかし戦局の悪化とともにファシズム体制に亀裂が入り,脱会者が相次いだ翼賛政治会は,45 年 3 月 30 日大日本政治会へ改組された。
小磯内閣は,3 月 23 日本土決戦に備えて国民義勇隊の結成を決定し,大政翼賛会は 6 月 13 日に解散して国民義勇隊へ発展的解消を遂げ, 6 月 23 日には義勇兵役法が公布された。
国民義勇隊は,阿南惟幾陸相が言うように,国民の大部分を〈天皇親率の軍隊〉に編成し,天皇制ファシズムによる国民支配の極限形態を示すものであったが,その内実は武器が足りず,貧弱な形式倒れの組織にすぎなかった。
一方,日中戦争勃発以来,歴代内閣は国務と統帥の矛盾解決に苦しんでいた。
1944 年 2 月 21 日東条首相兼陸相は参謀総長を,嶋田繁太郎海相は軍令部総長を兼任したが,事態は解決されなかった。
そこで小磯内閣は,44 年 8 月 5 日大本営政府連絡会議を廃止して最高戦争指導会議を設置したが,軍部の主張により純統帥事項が議題からはずされたため,国務と統帥の矛盾は解決されず,
一元的な戦争指導体制は樹立されずに終わった。
そしてこのような内部矛盾をかかえた天皇制ファシズムは,敗戦とともに崩壊した。
14 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/10(木) 18:16:10 ID:DUb8Mpci BE:785911469-2BP(0)
[経済と国民生活の状況]
日中戦争勃発後に本格化した戦時統制経済は, 国家総動員法 (1938 年 4 月 1 日公布) を“てこ”として発展していたが,太平洋戦争開戦を契機に経済と国民生活に対する統制が一段と強化された
(統制経済)。
まず重要産業団体令 (1941 年 8 月 30 日公布) に基づき, 1942 年 (昭和 17) 8 月までに 22 の重要基幹産業部門に統制会が設立され,会長には財界人が就任し,企業整備令 (1942 年 5 月 13 日公布) により
中小企業の整理統合と下請企業化が推し進められ,ここにファシズム型戦時国家独占資本主義体制が完成した。
さらに食糧増産をめぐって寄生地主制と独占資本主義との矛盾も表面化した。
政府は米の国家管理,二重米価制,小作料抑制などを実施して耕作農民を保護した。
それらの政策は,低米価を維持するとともに地主の利益を抑え,寄生地主制を解体に追い込むものであり,農村では自作農上層や小作農上層の力が強まり,戦後の農地改革の条件が成熟していった。
一方,兵力と労働力の確保のため,国民の根こそぎ動員が実施された。
陸海軍現役軍人は,1941 年の 241 万名から敗戦時には 719 万名 (出陣学徒や志願による海軍少年兵などを含む) に増加し, 44 年 2 月の労働者 3329 万名のほか,敗戦時の動員数は徴用工 616 万名,
25 歳未満の未婚の女子による女子挺身隊員 47 万名, 学徒勤労動員による小学生から大学生までの動員学徒 343 万名にのぼった。
それでも足りない部分は,朝鮮人と中国人の強制連行によって補われ, 1939 年から 45 年に内地へ強制連行された朝鮮人は 72 万名とも 152 万名とも言われ, 1943 年 4 月〜 45 年 5 月に強制連行された
中国人は 3 万 8931 名に達し,彼らは鉱山や港湾で酷使され,多数の者が死んだ。
また国民の日常生活に対する統制も強まった。
主食が 1941 年 4 月 1 日から 6 大都市で配給制度となり,成人男子 1 名 1 日 2 合 3 勺 (330g) と決められたのを皮切りに,副食,酒,マッチ,煙草,木炭,衣料などの生活必需品が配給制となった。
〈ぜいたくは敵だ〉〈欲しがりません勝つまでは〉などの標語がつくられ,国民は政府の言うままに耐乏生活を強いられた。
しかし急増する軍事費を賄うための増税と国債の乱発,インフレーションの進行,実質賃金の低落,労働時間の延長,労働災害の急増などにより,国民生活はさらに悪化した。
43 年からは小麦,じゃがいも,うどん,豆かすなどが主食として配給され,日本本土の 1 人当りのカロリー消費量も, 1931 年から 40 年を 100 として 42 年の 102 から 45 年には 66 へ低落した。
飢餓状態に追い込まれた国民は,買出しや闇取引によって命をつなぐようになり,戦意も低下した。
また 1944 年からは都市で建物疎開と学童疎開が行われ, 44 年 11 月から本格化したアメリカ軍の超重爆撃機 B29 による本土空襲により,沖縄県を除く全国 113 の市町で約 964 万名が被災し, 50 万名以上が死亡した。
15 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/10(木) 18:18:05 ID:DUb8Mpci BE:582156858-2BP(0)
[文化と教育に対する統制]
満州事変後文化や教育に対する統制が強められていたが, 1941 年 1 月 8 日東条英機陸相によって全陸軍に布達された〈戦陣訓〉は, 〈生きて虜囚の辱を受けず〉として軍人に死を強要した。
この考え方が,あらゆる場所で国家権力による強制をともなって広められ,実践に移された結果,兵士の生命を軽視した無謀な戦術や自決の強要などによって,戦争の犠牲者を増大させる大きな原因となった。
さらに同年 7 月 21 日に刊行された文部省教学局《臣民の道》は,文部省《国体の本義》 (1937 年 5 月 31 日刊) の日本主義国体論を受け継ぎ, 〈天皇への帰一〉と〈滅私奉公〉による国家への奉仕を国民に要求したが,
この二つの文書こそ,太平洋戦争下の国民の精神生活を規制した基本的文献であった。
言論と出版に対する統制も強められた。東条内閣は,太平洋戦争開戦直後から新聞事業令などに基づき1 府県 1 紙制を原則とする新聞の統合と,雑誌の統廃合に着手した。
そのため 41 年末に 1 万 8022 点あった新聞と雑誌は, 44 年末には 2548 点に激減した。
検閲も強化され,戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は,かたっぱしから削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。
その反面,大日本音楽文化協会 (1941 年 12 月 20 日), 日本文学報国会(1942 年 5 月 26 日),大日本言論報国会(1942 年 12 月 23 日) が相次いで結成されるなど,多数の知識人が国策に協力し,
すでに宗教団体法(1939 年 4 月 8 日公布) によって国家の統制下に置かれていた神道・仏教・キリスト教各派の宗教家も, 大日本戦時宗教報国会 (1944 年 9 月 30 日) を結成して戦争に協力した。
教育面では,41 年 4 月 1 日から明治以来の尋常小学校が国民学校に再編成された。
国民学校は初等科 6 年と高等科 2 年から成り,その目的は〈皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス〉 (国民学校令第 1 条) ことにあった。
教育内容では,《臣民の道》に示された日本主義国体論,皇国史観,戦争に役立つ科学などが幅をきかせ,教育方法も知識偏重の授業を排し,学校を〈少国民錬成の道場〉として儀式や学校行事を重んじるとともに,
軍隊式の絶対服従論,竹槍で近代装備のアメリカ軍と戦うという非合理な竹槍主義,教師による多様な体罰などが教育の現場を支配するに至った。
16 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/10(木) 18:20:07 ID:DUb8Mpci BE:349293964-2BP(0)
[戦時下の抵抗運動]
自主的な労働組合と農民組合は,大政翼賛会が結成され天皇制ファシズムが成立した 1940 年 10 月前後の時期までに官憲によって解散させられ,大半の労働者は大日本産業報国会 (1940 年 11 月 23 日結成。
〈産業報国運動〉の項参照) に,農民は農業報国連盟 (1938 年 11 月 2 日結成) や農会などにそれぞれ組織化され, 〈生産増強〉〈食糧増産〉の掛声と警察の監視のもとに国策に協力させられていた。
それにもかかわらず 41 年から 45 年 8 月の敗戦までの労働争議総数は, 1941 年 334 件 (争議行為をともなうもの 159 件), 42 年 268 件 (173 件),43 年 417 件 (279 件), 44 年 296 件 (216 件),
45 年 13 件 (11 件) にのぼり,総件数 1328 件 (838 件),総参加人員 5 万 6857 名 (争議行為をともなう争議参加人員 3 万 6896 名) に達した。
労働争議の大半は,自然発生的な厭戦感情に基づく無意識的・無自覚的なものであったが,なかには労務管理の拙劣さから生まれた集団暴行事件, 〈オシャカ〉と呼ばれる不良品をひそかにつくる〈オシャカ闘争〉などもあった。
小作争議件数は,1941 年 3308 件,42 年 2756 件, 43 年 2424 件,44 年 2160 件と漸減はしたもののかなりの高水準を維持し,争議に参加した小作人総数は 9 万 1425 名であったが,小作争議の大半は自然発生的かつ
小規模な個別争議であった。
小作争議の新たな原因としては,食糧事情の悪化や地主の帰村による小作地の取上げ,軍需工場の地方分散にともなう農地転売のための地主からの小作契約解除の申入れなどがあり,小作農民側は,小作統制令に基づく
小作料減額の積極的要求や兼業収入の増加分による小作地買取り要求などで地主に対抗した。総じて太平洋戦争下の労農争議は,〈組織なき抵抗〉として続けられたのである。
また,強制連行された朝鮮人・中国人の抵抗は多数の脱走となって現れたが,なかには 45 年 6 月 30 日秋田県花岡の鹿島組出張所における中国人労働者の蜂起事件のようなものもあった (花岡事件)。
これに対し,知識人を中心とする個人的抵抗にはさまざまな類型があった。
消極的抵抗としては,社会主義者の荒畑寒村らのような完全沈黙,作家の谷崎潤一郎や永井荷風,東大教授で政治学者の南原繁らのような非便乗の良心的活動があり,積極的抵抗には,
弁護士正木ひろし (個人雑誌《近きより》発行),元東大教授で経済学者の矢内原忠雄 (個人雑誌《嘉信》発行) らのような合法的抵抗,奔敵・逃亡などによる軍隊拒否,日本共産党幹部の徳田球一,
志賀義雄らやキリスト教徒で灯台社日本支部の明石順三らのような獄中抵抗,政治学者大山郁夫,俳優岡田嘉子,日本共産党野坂参三らのような国外での反戦活動があげられる。
彼らの抵抗は,現実を動かす実効という点では弱く微力であったが,これらの人々の多くが,敗戦後の民主化された日本社会のなかで大きな足跡を残したことは,特筆されるべき事実であった。
これに対し民衆のあいだでは,1944 年 7 月の東条内閣退陣のころから各種の流言飛語が激増し,警察や憲兵はその取締りにやっきとなった。
さらに同年 11 月以降 B29 による本土空襲が激しくなるにともない,厭戦・反戦意識が民衆のあいだに広がりはじめた。
しかしそれらの意識は組織化されることなく,自己と家族の生命と生活を守るという個人的な思考の枠のなかで,利己的な現実主義を助長させる方向へ向かっていった。
18 :
トシボー:2006/08/13(日) 23:21:17 ID:kFizzU5w BE:535380697-2BP(300)
日米戦争は自衛戦争だがね。
もし、北朝鮮が、拉致や国際犯罪一切してないとする。
・・・体制内で犯罪してても。
「アメリカが先制攻撃して総力戦にしたら」
それは、侵略だ。
いい侵略もあるかもしれない。
それは後の時代が判断する。
19 :
トシボー:2006/08/14(月) 00:28:51 ID:tzKYL2o3 BE:407909568-2BP(300)
独裁国家てのはね。
他国に何もしてなくても。
既に、「国民に対し」
先制攻撃、しているんだ。
マジで。
そもそも、先の大戦で日本が侵略したアジアの国って、どこどこだろう
軽く「日本 侵略」とか、ストレートに「日本が侵略した国」など
そういうキーワードで探しても、いまいち見つけづらい
朝鮮半島は併合だから除外するとして
満州はあの時期相当いろんな国が入り乱れてたみたいで、
いろいろ具合おかしいけど、当時の国際認識上では、
「中華民国の領土を侵略した」と言っていいのかな
そのほかには?
21 :
ちょっと待て名無しが今何か言った:2006/08/17(木) 05:49:28 ID:lAH4b+gL BE:826241287-2BP(10)
>>20 アジアっても当時は欧米の植民地だったりするからなあ。
強いて言うなれば、「米英仏蘭の領土を侵略した」って事じゃないでしょか。
他には属国としてでも一応は国として存在していたフィリピンくらいかなぁ?
フィリピンは政権があって、独立派が強かったみたいだね
もちろん、植民地を侵略すれば、それは宗主国に対する侵略ってことだから
「アジアの国々を侵略した」のではないよね
では、先の大戦で日本が侵略したアジアの国々
「中華民国(現台湾政府)」
「フィリピン」
これでFAかな?
24 :
懐疑主義者 ◆tm1pVTQmqw :2006/08/20(日) 04:48:00 ID:ecSUJsY4 BE:87037294-2BP(72)
>>23 >もちろん、植民地を侵略すれば、それは宗主国に対する侵略ってことだから
>「アジアの国々を侵略した」のではないよね
こんな「もちろん」が正立すると言う話を、俺は聞いたことが無い。
これは、
「誰かが盗んだ自転車を、俺が再び盗んだ。
これは先の泥棒に対する権利侵害ではあるが、自転車そのものに権利など無い」
と言っているのと同じで。
「自転車には、元々の持ち主が要る」と言うことを無視して、植民地を「モノ」としてしか見ていない。
それは、欧米と同じ価値観であり、「どっちも侵略者」として欧米と相殺することはできても
「侵略ではない」などと、現地に対する相殺は出来ない。
それでも、それを「開放」と定義し、「侵略では無い」とする論法も無いことは無い。
ただ、それには条件がある。
・文字通り「開放」し。独立させること。
ただし、これは当時の政治状況では、「独立して滅びよ」と言っているのと道義で
そんな理想主義的な事は、無意味だ。よって可能性から排除。
次にありえる状況としては
・以前の殖民状態より、「マシな植民地」にしたと言う事実があること。
それなら、「侵略ではない」と言ってもいいだろう。
ただし、現状で植民地になっている国に、「解放軍」を名乗る軍隊がやってくれば
「最初は応援する」のが歴史的に見ても当たり前である。(もしかしたらマシになるかもと言う希望があるから)
大事なのは、最初ではなく、その状態を「長期間維持できるかどうか」である。
だが、日本軍の戦略は「資源不足による南方資源確保」であり、そんな理想的な解放軍ではなかった。
かつ、補給体制は、ずさんを極め。
その結果、占領地からの収奪は、日常茶飯事であった。
※日本軍は、占領地の貨幣を停止し、「軍票」に置き換え、軍票で対価を払ったため、「収奪ではない」とする輩も要るが
軍票は無計画に発行され、現地でインフレを招き、事実上、現地人の財産を無価値なものとした。
それだけでも酷い話なのだが。その後の結果はもっと悲惨である。
その軍票は、「日本帝国の名に置いて、その価値を保障する」と明記されてあるのだが
敗戦し、日本帝国が無くなったため、保障義務はないとして、これを放棄した。
つまり、結局は、「紙クズと物資を交換した」=「奪った」のである。
特に、大戦末期、敗色が濃くなった状況では、食料は底をつき、略奪の限りを尽くしている。
その中でも最悪であるニューギニアでの人肉食事件は
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005HPKO/503-4551012-6338357?v=glance&n=561958 この辺りを見て、一度、飢餓状態の軍隊と言うものは、理想や奇麗事ではすまないと言うことを、知っておいたほうがいい。
このようなものでも「侵略ではない」と言えるのであれば、
「侵略」など、この世のどこにも存在しないと断言できる。
ここで勘違いしてはならないのは、
開放に必要な条件は、アジアを開放しようと言う「理想」ではなく。開放したと言う「事実」だということである。
「開放しようと思って占領したし、現地人は最初は協力してくれた。が、結果的に収奪した」のなら、
そもそも戦略自体が間違っていたのであり、そこに「開放」の二文字などは無い。
というか、日本軍の「補給」に対する考え方は「現地調達」であり
「南方資源確保」という日本軍の計画は、そもそも侵略だということを理解できない人間は、「引き算」が出来ないのだ。
歴史的事実としての「アジア開放」に、戦後、日本の貢献が大なのは評価されるべきであるが。
それは当然「日本軍」のやったことではなく、「戦後の日本」がやったことで
「大日本帝国が開放した」などと言えない事も、付記しておく。
25 :
懐疑主義者 ◆tm1pVTQmqw :2006/08/20(日) 04:49:34 ID:ecSUJsY4 BE:174074898-2BP(72)
また
>「中華民国(現台湾政府)」
などと、都合よく政府だけを主体として詭弁を振るうのも言語道断である。
「侵略される」主体は、「政府」ではなく「現地人」。
中華民国を支持した民衆は、全て台湾へ渡ったのか?
そんなわけはない。政府以外は、ほとんどが現地に残っている。
「中華民国政府は台湾へ逃げたから、共産党支配になった民衆を侵略した覚えは無い
だが、台湾は中華民国政府を受け入れたから、台湾を侵略したことになる」
とでも、本気で思っているのか?
>>24-25 なんか長くて読む気しないなぁ
無駄に喧嘩腰なのはなんで?
うざいなぁ
侵略って、主体は国だと思うんだけど・・・辞書が間違ってると言うのなら、もう何もイワナイ
現地人に対する収奪や非行の話なんか、俺はしてないつもり
27 :
懐疑主義者 ◆tm1pVTQmqw :2006/08/20(日) 21:08:17 ID:ecSUJsY4 BE:58025838-2BP(72)
>>26 字義的に「言ってることが違う」と言うなら、それを示してくれないか?
・侵略とは、物資と土地の収奪のことだ。
それ以外の「侵略」というものを、俺は知らない
「物資も土地も収奪しない侵略」と言うものを、君は定義できるのか?
そうでないなら、何を言っているのかすらわからない。
>現地人に対する収奪や非行の話なんか、俺はしてないつもり
従軍慰安婦問題のように、「個人が勝手にやったことで軍が指令したわけではない」
という系統の話なら、その論法も通用する。
だが、国家が現地人からの収奪を企図し、それを実行したものを、「例外」として扱うのなら。
俺こそ、何も言うことは無いw
どう見ても侵略です。
本当にありがとうございました。
なぜ俺がケンカ腰なのか?
なぜウザイのか?
議論とはウザイものだよ。そもそもねw
反論を望まず、軽い気持ちで書き込むなら、ハングル板かゴー宣板にでも書き込んでいればいい。
ここは議論をするところなので、
うかつなことを言えば、相応の厳しい反論をされると覚悟して欲しいものだ。
ちなみに俺は、23だけに対して言っているわけではなくて、
その上の侵略というものを軽く考えてる全ての人間を批判したつもりだ。
一人だけ攻撃したように見えたなら、それは俺のミスだ。すまんね。
国と地域を同一視すると話が噛み合わなくなるよ。
>>27 侵略の字義的な意味って
辞書引けば載ってるし、国際的な定義も探せばでてきたよ
決して貴方の言うような意味ではなかったけど
> だが、国家が現地人からの収奪を企図し、それを実行したものを、「例外」として扱うのなら。
論法とかそーゆんじゃなくってさ・・・元からそんなテーマで話をしてたわけじゃないんだって
そら、侵略には現地人からの収奪が含まれるんだろうさ、そしてそれは酷いもんなんだろうさ、俺もそう思ってるし
でも、俺は最初ッからここで「現地人に対する収奪」の話なんかしてないって言ってるの
懐疑主義者って良くみる名前だけどさ
自分の理解不足だとか勘違いだとかって部分は、疑ってみないの?
収奪が侵略でないなら、いったい何が侵略なのか?
「日本は侵略していない! 収奪目的の強盗だっただけである。」
という話なら、ああ、そうですか。
と納得。
まあ、実際は土地も奪って軍隊が常駐してるから侵略だけどな。
んで、そんな話をしていない?
どんな話をしていたのか?
わかってるよ
都合よく、一時的にでも親日だった政府や、直接戦っていない政府を取り出して
「侵略をのほとんどを帳消しにしよう」と言う話をしていたんだろ?
もっと、ろくでもないねw
('Д`)ヴァー
>>30 もう説明する気力ないからそれでいいよ
議論の場で「w」を使う奴を見ると反吐がでる
おなじく「もうそれでいいよ」とか抜かす奴も頭にくる
>>32 相手の立脚点を見ようとせず、妄想による決め付けだけで貶めることしか
考えていない人を相手に、議論は成立しないと思います
反吐が出る頭にくるって感想持つのは自由だけども、
では貴方をして「議論の場である」というここで、
貴方がやっていることって、いったい何なのかな?