>>57で近代の近代学校教育に反映されている軍隊式とは画一化であると説明した。
つまり、近代以降の教育法にもう一度日を照らし有用性が考えられるものは抽出すると
軍隊的な要素は完全に消えると言う事も話した。
それに対して『海 ◆Kveoxyl9RE』は
>>58でこう帰してきた
>それは、自分も言っていますが、その通りです。だが、これ自体に総じて不要論を投げかけるのは懐疑を感じざるを得ないし、
>学校はスイミングスクールではないと思います。やるときにはやると言う考え方を学ぶ場だと思いますので。
>>37の上段で言っている事は軍隊的な要素を持っています。これは必要だからです。
>しかし、たまにある全体集会では、ヘルメットをかぶらず帽子をかぶり、社服を着てきれいに並んで臨みます。
>こういう風に物事を区別して考えて、判断をしているわけです。
>軍隊的要素を持った教育が一切必要無いのであれば、こういう判断をすることの学習ができなくはないですか?
と、返している。
そういう前提で
>>72の
>学校で習った・実感があったからこそ、これは「やって良い事」、これは「良くない事」の判断ができるわけです。
>フィードバックというやつですね。
>会社員はスーツを着ますし、会社の社長もスーツを着てますね(堀衛門は別ねw)
>なんで着るかって。現代社会の礼服であり、基本であるからです。
と言う発言がある。
それが
>>118で
>てことは自分の言ってる事と一緒になる。軍隊式に有用な点があると言ったのはそこに掛かっている。
>画一化という考え方の範囲が違ったからそれぞれの捉えた物が違っただけ。
ですか?
しかも
>>127で
>>「どこにはそれが必要で、どこには必要でないか。」が議論の主体であるべきではないだろうか?
>全く同意。そこに踏み込んでいければいいんだがね、、どうしても嫌みたいらしい。
と話を最初にループさせている。
これを、『悪質』と言わず何というのだろうか?