>>1 僕は是です。
なんで会話の片方が聞こえないだけで迷惑がるのかが
不思議で仕方ありません。それよりも2人以上でめちゃくちゃ
デカイ声でしゃべっていてウルサイ人たちのほうが迷惑です。
そもそもケータイを電車の中で使ってはいけないというのは
日本の中でさいしょ、「お、電車の中でケータイかあ、
新しいモノだからやっぱちょっと違和感あるなー・・・うーん
でもこれから慣れていくのかなー・・・まあいいか」という
どう受け入れていこうかな、とでもいうような空気があったのを
鉄道会社各社がトラブルがメンドクサイからといって乱暴に使用禁止して
しまったという感じが僕はして仕方ないのです。
僕は思うのですが、もしこれがナチス・ドイツだったらヒトラーは
「携帯電話という超未来的通信技術を国民に普及させ誰でもが
どこででも通信できるようにしろ!!
電車の中でも病院でも、どこからでも国民が連絡を取り合えるように
電子機器の電波シールドを開発したり音声レベルの調整を研究しろ、
ペースメーカーを始め、全ての医療電子機器も電波の影響を受けないように
改良するのだ!
ドイツ第3帝国は国民がだれでもどこからでも連絡の取り合うことのできる
情報化の進んだ超近代化国家になるのである!!」
とでも言って国家的な計画としてケータイの場所を選ばず
通信できる合理性を突き詰めて実現へと推進させていたのではないかと思う
のです。ところが現代日本はどうでしょうか。いいワルイはとりあえず
置いておいても、日本人は「合理性」よりも「情緒性」を優先させてしまい、しかも
「電車の中でケータイは使わない」という風習を定着させてしまったのです。
それも鉄道企業各社の利己主義、効率主義、事なかれ主義になあなあに流され
てです。僕は個人的にはこの態度は気に入りません。
僕はこのケータイの例は、新しいモノの受け入れ方が失敗した、近代日本に
おいても悪い例だったのではないか?という疑問を持っています。
そこには「最初の違和感を感じてもそれがやがては慣れてきたりうまい
システムが作られてもっと発展していくかもしれないな」という心の寛容性
の無さが感じられるのです。その一呼吸置いた熟慮と将来を見渡す心、一種の
瞑想的な心とでも呼ぶべき大和魂とでもいう寛容さの欠如こそが
現代の非合理的な「電車内での携帯電話使用禁止」に繋がっているのでは
ないかと考える時、僕はとても残念で仕方ないのです。僕は単なる「情緒的」
なだけではなく、「理性的」な判断という「日本の心」と共に電車の中で
ケータイを使える世の中がくることを祈っています。