死刑確定囚の中から次の執行者を予想希望するスレ3

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6名無しさん@お腹いっぱい。
【二月二十一日 ある死刑囚の記録】
狙われた幸せの“中庭”
前年からの暖冬で、近くの公園の桜は、つぼみがほころびかけていた。
IT不況からの回復はまだ緒に就いたばかりで、名古屋有数の歓楽街、栄四丁目も盛況とはいかない。
二〇〇二年三月十三日夜。雑居ビルの三階にあるスナック「パティオ」ではママの千葉春江(61)が、
あまり使わないボックス席で暇を持て余していた。
春江は、かかあ天下とからっ風で聞こえる上州、群馬県桐生市の生まれだ。下に妹が一人。
四歳で迎えた終戦の年に父が亡くなった。母と姉妹、女ばかり三人の暮らしは楽ではない。
幼いときから、炊事に洗濯と病気がちな母を支え、中学に入ると、学業の傍ら、織物工場で働き、
家計を助けた。二十代になると地元の結婚式場で、客あしらいを覚えながら、独学で調理師免許
を手にしている。自分の店を持ちたい−。
そんな夢を描き、名古屋で水商売の世界に飛び込んだのが三十路(みそじ)に入ったころ。
一度目の結婚に失敗したすぐ後だった。
クラブのホステスとしては初々しく、それでいて鷹揚な物腰。ひいきにしてくれる客はすぐついた。
二つ年上で、金融関係の仕事をしていた須藤正夫(仮名)もその一人。
三年ほどこつこつためた金と、正夫の力添えで念願の店をオープンしたのが一九七九年のことだ。
「こんなに早く店が持てるなんて」。春江は正夫の前で子供のように喜んだ。スペイン語で「中庭」
を意味する店は、居心地の良さで常連客をつかみ、二十周年を祝うまで歳月を刻んだ。
籍こそ入れなかったが、いつからか正夫と同居を始め、前妻との間の娘二人もわが子のように
かわいがった。 ささやかだが「幸せ」を手にした、そんなころ。
武藤恵喜(ぶとうけいき)が店のドアを開ける。
「何時までやってますか」
時計の針は午後十一時を指そうとしていた。ふだん、店は午前零時で終わり。いちげん客も入れない。
売り上げの落ち込みが気にかかったのだろうか。
「時間は気にしなくていいから、飲んでいってくださいよ」
恵喜はカウンターに腰掛け「安藤」と名乗った。
日付が変わり、店を閉めた向かいのスナックのママ田中しげ子(52)が「パティオ」から
漏れる男の歌声を聞いている。「千葉さん、きょうは遅くまでお客さん入って、良かったわ」。
そんなことを思った。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/feb21/list/CK2013122102000223.html