死刑確定囚の中から次の執行者を予想希望するスレ3

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5名無しさん@お腹いっぱい。
【二月二十一日 ある死刑囚の記録】
うそ、罪 うそ、罪…
JR岐阜駅近く。二十人も入れば満席の小さな居酒屋だった。
隅っこの二人掛けのテーブルにはビールや小料理が大して口を付けられずに残っている。
「よくしゃべるなぁ…」。
中日新聞岐阜総局(当時)で県警を担当していた記者、市川真(31)は半ば、あきれていた。
一九九八年七月二十二日夜。向かいに座る男は「むとう、のりよし」と名乗った。
姓名の読みは変えていたが、もちろん、武藤恵喜(ぶとうけいき)である。長野県諏訪市で
旅館の女将(おかみ)(64)を殺害、懲役十五年の刑期を終え、三カ月前に岐阜刑務所を
仮出所したばかりだった。
恵喜は岐阜総局への電話で信用調査会社員だと自らを売り込み、二年前に岐阜県御嵩町で
起きた町長襲撃事件の情報を提供したいと市川を呼び出した。
「電車賃を出してくれ」「情報料だ。三千円でいいから」。延々と噂に毛の生えた程度の話をした後、
カネの無心を始め、断ってもしつこく粘った。後日、市川は旅行会社から身に覚えのない欧州旅行の
代金七十万円を請求される。だれが申し込んだか人相を聞けば、あの男。
カネにありつけなかった腹いせに、市川の名刺を悪用したらしい。
「豊橋(愛知県)の保護司に世話になり、仕事をしている」。仮出所の直後、恵喜は故郷、長野県の
母あての手紙にこうつづっている。確かにこのころ本籍地を豊橋市に移しているが、その住所は
保護司ではなく、暴力団員の居宅だった。まともに仕事を続けた形跡もない。
結局、恵喜は岐阜刑務所を出て一年半後の九九年十月、スナックでママのバッグを盗んだ疑いで
名古屋・中署に逮捕される。
大手企業のエリート社員や画廊経営者、有名タレントの知り合い…。本当の自分とはほど遠い
だれかに化け、飲食店でカネを盗んだり、代金を踏み倒したりと、似た手口の余罪が四十件ほど。
名古屋地裁の判決は懲役二年二カ月だった。
そして、五度目の刑務所暮らしを終え、また、たった二カ月であの夜がやってくる。
二〇〇二年三月十三日。前日、誕生日を迎え、恵喜は五十二歳になっていた。
いつものようにカネが尽き、いつものように夜の街をぶらつく。従業員も客も人が少ないところがいい…。
名古屋・栄の雑居ビル三階、店名「パティオ」。古ぼけた木のドアを開くと、初老のママがひとり、目に映った。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/feb21/list/CK2013122002000219.html