日本人どこから来たんだ?15

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712出土地不明
「縄文人」について、ちと参考までに。

『縄文文化は東アジアの中で孤立してはいないし、むしろ東アジア的世界の一翼を担っていたとも言える。しかし、一方で日本列島
独自の展開を見せていることも事実である。そして幸か不幸か現代の日本国の領土とおおよそオーバーラップしているので
あるが、それはあくまで結果として一致しているのである。--(略)---少なくとも研究をする上で、日本列島周辺と比較することは重要
である。縄文時代に日本列島の範囲を示す文化要素の存在は、縄文文化の範晴を示すものとして、 「縄文式」土器の概念(日本列島
各地の縄文土器型式が列島外とは一線を画して、相互に結び付き合って一つのまとまりを示していて、これらの土器型式群の総称
として縄文式土器、縄文土器がある)として設定しうることを、土器型式以外の要素から証明することにつながると私は考える。』
---「文化としての縄文土器型式」 川崎保著 P187より一部抜粋

>日本列島各地の縄文土器型式が列島外とは一線を画して、相互に結び付き合って一つのまとまりを示していて、
>これらの土器型式群の総称として縄文式土器、縄文土器がある


『縄文土器型式は何を示しているのか。土器自体は当たり前だが自分の意思で自分勝手に移動しない。もちろん、人間が移動させる
のである。つまり、人間の移動の結果、一義的には焼物の生産・流通圏や使用される範囲を示している。ここまでに異論はないだろう。
しかし、それから何が見えるか。各地域の縄文土器型式が、縄文時代の各時期を超えて、基本的に隣接地域と密接な関係を
絶えず維持しているということは、縄文時代の地域文化が、日本列島内で密接に関連しあっていたことを反映している。このことにつ
いては、後述するが、広い意味では、たとえば「縄文人」のように、 日本列島を対象とするような集団の概念を定めることには有効であ
ると筆者は考える。また、小林達雄が規定する土器様式群やさらに山内がいう個別の土器型式も人間集団の動態を示すという考え
方には有効である。』---「文化としての縄文土器型式」 川崎保著 P189より一部抜粋

>つまり、人間の移動の結果、一義的には焼物の生産・流通圏や使用される範囲を示している。
>各地域の縄文土器型式が、縄文時代の各時期を超えて、基本的に隣接地域と密接な関係を絶えず
>維持しているということは、縄文時代の地域文化が、日本列島内で密接に関連しあっていたことを反映している

『だから、いったん縄文式土器を日本列島内の各地域の土器型式に解体してみて、それを積み上げてみる。そうしてみると、今後も細
かい検討は必要だろうが、中国東北地方や朝鮮半島などの東アジアの新石器時代土器と近似しつつも、日本列島を中心に分布
する土器型式群の存在がおぼろげながら浮かびあがってきた。それは、口縁部文様帯をもち続けるバケツ形の深鉢形土器を中心
として構成され、器形は当初尖底であったが平底へ変化し、二度と戻ることがなかった土器群であった。筆者はこれを縄文(式)土器で
あるとしたい。器面調整に回転縄文を多用することも特徴的であり、縄文式の名称の起源ともなったが、これを決定的な要素とは筆
者は考えない。』---「文化としての縄文土器型式」 川崎保著 P197より一部抜粋

>日本列島を中心に分布する土器型式群の存在→口縁部文様帯をもち続ける土器群

少なくとも、最終氷河期が終って海面上昇が始まり、アジア大陸と日本列島地域が海によって隔てられ、現在の日本列島と
近い形になって以後、弥生時代まで、土器型式群を基に考察すれば日本列島各地の土器型式は列島周辺外とは一線を画し
ていて、列島周辺外と"同一文化圏"を形成することはないのである。
すなわち、「口縁部文様帯を特徴とする土器群を伴った文化を維持・継承していた文化集団がヒト集団としての"縄文人"である」
と考えられる。