1 :
北陸の縄文人:
北海道の黒曜石がアムールに伝わったり、
アムールから教えてもらった可能性の高いけつ状耳飾が見つかったりして、
列島と大陸で交流があったには違いないだろうが、その実態は公知ではない。
賢者よ、どうかその高き智慧をこのスレッドに現し賜え。どうぞ。
2 :
出土地不明:2009/10/20(火) 23:37:46 ID:EhGGRhc0
最近新書出たじゃないか。
オホーツクの古代史 菊地俊彦 平凡社新書
面白かった…後半、くどい表現があったがw 本にまとめるのに時間がかかったから、何度も書いちゃったんだろうな。
****
この本によると、中国の唐の時代に記述がある「流鬼」はギリヤーク民族のことで、ギリヤークは北海道オホーツク海で活動した
オホーツク文化の担い手で、その頃遙か北方のカムチャッカ半島北部にやってくるセイウチの牙を契丹と交易して利益を得ていた
とか。契丹では、セイウチの牙の工芸品を貴重なものとみなして集めていたとか。
3 :
出土地不明:2009/10/20(火) 23:52:01 ID:EhGGRhc0
ギリヤーク民族の最盛期は7〜8世紀頃か。奥尻島まで進出していたことが2002年の発掘で明らかになり、
これによって、阿倍比羅夫が奥尻島で蝦夷の言葉が通じない人たちと交戦したという文献史料が、ギリヤーク人であったと
するのが無理のない解釈ということになっている。
阿倍比羅夫が戦ったのは粛慎というツングース系民族だが、ギリヤークもツングース系民族であった。
****
ここまで書いて wikiでギリヤークの項を調べると…英語版や中国語版の方が情報がいっぱいあるじゃないかw
なんなんだ。日本にも数千人ギリヤーク民族がいるはずなのにね。
4 :
出土地不明:2009/10/21(水) 00:00:11 ID:chkCTZTa
5 :
出土地不明:2009/10/21(水) 00:01:09 ID:chkCTZTa
6 :
出土地不明:2009/10/21(水) 06:33:01 ID:90PYr9Sh
舟はどんな種類のものを使用してたんでしょうか?丸木舟?
漁撈民が、大陸間の仲介貿易をしてたんですか?
7 :
出土地不明:2009/10/21(水) 19:49:59 ID:2rtiX0fF
8 :
出土地不明:2009/10/21(水) 19:51:02 ID:2rtiX0fF
9 :
出土地不明:2009/10/21(水) 20:09:42 ID:90PYr9Sh
★丸木舟は古久里浜湾を走る
対岸の吉井城山遺跡や茅山遺跡からは、
夏島貝塚から出土した釣針の倍近い大きさの釣針が見つかっています。
数十人規模となった集落人口を養うためには、より大型の魚を採る必要があり、
三浦半島では、人類最初の交通手段としての舟が発達していきました。
三浦半島の縄文人は、早くから丸木舟を造り、
当時衣笠付近まで入り込んでいた古久里浜湾内を縦横に舟で行き来し、
湾内で魚を取っていのでしょう。
大型の丸木舟は三浦半島ではまだ発見されてませんが、
この時期は、4〜5人乗りの大型の丸木舟も造られ、
大型魚の群を追いかけて、外洋に漕ぎ出していたと想像しています。
三浦半島にいた縄文人は、いち早く外海に進出を始め、
徐々に、太平洋岸の地域や伊豆諸島と海を越えての交流を活発に行うようになります。
★丸木舟は太平洋の荒海を超えたのか?
縄文早期中葉の時代にすでに神津島産の黒曜石が
三浦半島の複数の遺跡から発見されています。
縄文早期後半になると、
対岸に位置していた茅山遺跡から出土した「茅山式土器」
(植物繊維を含む粗雑な粘土を使い、多くの条痕がある)が、
大島、新島のはるか南に浮かぶ三浦半島から150キロも離れた御蔵島へ
運ばれていたことが確認されています。
縄文人の海に対する強い思いは、我々の想像を遙かに超えていたのです。
http://members2.jcom.home.ne.jp/umi-kaze/sub0-6.htm
10 :
出土地不明:2009/10/22(木) 00:05:58 ID:wEY2AQXM
11 :
出土地不明:2009/10/22(木) 00:13:48 ID:wEY2AQXM
12 :
出土地不明:2009/10/22(木) 00:24:52 ID:wEY2AQXM
13 :
出土地不明:2009/10/22(木) 00:46:35 ID:wEY2AQXM
コピチコ:
アムールを論ずる時にはアムールを3つに分けて考えます。
まず上流地域というのは、川幅が狭くてタイガのなかを流れている。
中流地域というのは平原を流れている。
下流地域はタイガも森林もあって、ここの一番の特徴は非常に寒冷であって農業ができない。
したがって、アムール上流地域では川が狭くて魚もあまりいないので、
ここの文化は当然森林の中で狩猟を行う文化となってます。
中流地域は平原ですし、気候もいいので古くから農業の栄えたところで、
農具に関する遺物もたくさん見つかっています。
下流地域は土地が平らなのですが、気候が寒冷なので農業には適さない。
ただ、ここは魚がたくさん登ってくるので、ここの人びとは漁撈文化が主になります。
ここで見つかる遺物について見ても漁撈・狩猟用のものであって、
中流域で見つかる農具とは異なる。
しかし、これら地域のそれぞれの文化に属する人びとはお互いに交易を行っていたはずです。
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040630-r2-.htm >>アムール川の上流:狩猟 中流:農耕 下流 漁撈
>>3つの地域で主たる従業が異なり、交易が発生する。
14 :
出土地不明:2009/10/22(木) 00:55:57 ID:wEY2AQXM
15 :
出土地不明:2009/10/22(木) 02:13:55 ID:4Jk+gjbF
16 :
出土地不明:2009/10/22(木) 08:53:02 ID:37aTHe9S
>>12 縄文初期は九州も多い
しかし何度か有った火山噴火で壊滅的な打撃を受けて減ったと考えられる
その後も警戒してあまり住み着かなかったんでないかな
17 :
出土地不明:2009/10/22(木) 21:29:05 ID:wEY2AQXM
18 :
出土地不明:2009/10/22(木) 23:26:16 ID:D3G92usK
>>17 そのサイトの言葉を借りよう
>日本の縄文時代を、文化、交易、言葉、食材など、全般的に見なおすことが大切ではないかと思った。
http://www.osaka-law.com/jouhou/tuusin/tuusin6-10.htm >日本では、北海道から九州・長崎までの間、10ヵ所のヒスイの産地が知られている。
>にもかかわらず、北の北海道・青森のように、400〜700キロも離れているのに、
>糸魚川産のヒスイが大量に発掘されているのである。
>九州では、ヒスイそのものではなく、量としては蛇紋岩系の石材による玉類が多く発掘されている。
>しかし、1つ2つかならず糸魚川産のヒスイが、その中に混じっているということで、これも不思議なことの一つである。
19 :
出土地不明:2009/10/22(木) 23:47:05 ID:D3G92usK
あと縄文時代は、八丈島や琉球とも交易してるよ
20 :
出土地不明:2009/10/23(金) 00:50:45 ID:16y0NJH4
21 :
出土地不明:2009/10/23(金) 00:52:23 ID:f8rVwc2D
22 :
出土地不明:2009/10/23(金) 00:59:30 ID:f8rVwc2D
23 :
出土地不明:2009/10/23(金) 01:07:05 ID:f8rVwc2D
24 :
出土地不明:2009/10/23(金) 02:07:04 ID:3p9Ts3VV
25 :
出土地不明:2009/10/23(金) 16:26:35 ID:Z9tX+aiC
>>24 ブリヤート人はO2bを持ってるよな
ブリヤートから日本ではなく、日本からブリヤードの可能性が高いな
26 :
出土地不明:2009/10/23(金) 17:22:08 ID:5Jw8S9Zy
27 :
出土地不明:2009/10/23(金) 22:00:55 ID:cRcfu7Sb
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
28 :
出土地不明:2009/10/23(金) 22:01:41 ID:cRcfu7Sb
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
29 :
出土地不明:2009/10/23(金) 22:34:25 ID:n4xDDEzR
>>27,
>>28 > 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
> 小麦などのプラント・オパールも見つかり
プラント・オパールは稲以外に無いと思い込んでるのかね、
イネ科は古くは禾本(カホン)科と呼ばれ、小麦、ハト麦は
もちろん、竹笹以外の単子葉植物を広く指すのだが、、、
30 :
出土地不明:2009/10/23(金) 23:20:56 ID:1Oa3fh/z
ほれww
2005年2月には、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)
の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかった。
その量は土1gあたりプラントオパール2000〜3000個という大量のもので、
これはただ単にイネが何らか理由で持ち込まれたという規模ではなく、
まさに栽培されていたというレベルである。
31 :
出土地不明:2009/10/23(金) 23:38:46 ID:16y0NJH4
北海道というのは、意外なほど農耕が盛んだったのではないか。というのは、
[『松浦武四郎日記』を見よ]加藤晋平さんの指摘によると、ヒエ、アワ、ソバなど、
その外側では、タバコ、カボチャ、ゴショイモ、シソ、トウガラシ、ナス、センダイカブ…、
かなりの作物を作っていることがわかる。カブも作っている。
しかも、カブだけ作らないで、カブとアワを混ぜて種をまいている。非常に作物の種類が多い。
このなかには日本の本土のほうから種子が行ったものもあるが、
たとえばセンダイカブとかタバコやトウガラシとかいうものは、
むしろシベリアから入ってきた。つまり沿海州を経由して入ってきたものではなかろうか。
今では沿海州というところは、ずっとレベルが落ちてしまったけれども、
かつてはそこに理想的な、一時は非常に栄えた農耕文化があったのではなかろうか、そう見られる。
沿海州と北海道とが深い関係にあったということは、日本のほうの歴史でいえば、
ちゃんと明らかであった。蝦夷征伐のときにミシハセ(粛慎)まで行ったとある。
沿海州である。『続日本紀』(元正天皇養老二年八月条)を読むと、渡嶋(北海道南部)
の蝦夷が馬一〇〇〇頭を朝廷に献上したという記事がある。ほかの地方とはケタが違う。
それだけの馬を今の北海道南部のアイヌが飼って持っていたのだ。
野馬の放牧ではなかったかと思われる。
http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/nothhis1.htm
32 :
出土地不明:2009/10/24(土) 01:59:59 ID:neULN99r
縄文時代は調べれば調べるほど面白い
気象変動が大きかった時代に適応した優れた文明だと言える
個々の遺跡で見れば断絶も多いが、日本全体で見ればずっと継続している
なんだかんだといいながら1万年継続した希有の文明
しかし
ゆとり教育は縄文は無しで、弥生時代から日本の歴史が始まる
ひどすぎる、いんぼうか!
最近復活したと言う噂が有るが、どうなんだろ
33 :
出土地不明:2009/10/24(土) 08:00:53 ID:fwY5//l6
>>32 こんな話もあります。
東北や北海道の縄文の人たちの中には、気候変動が激しかったので、
寒冷化したときには、農業をやめ、採集生活に戻った。
農耕は、せっかくの堅果を実らせるナラや照葉樹林を草地にしてしまう
理由で、非常に高リスクを伴う選択だったのかもしれませんね。
34 :
出土地不明:2009/10/24(土) 16:52:23 ID:W0B0MKUr
「鳥居」の登場は8C。
鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85 8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
35 :
出土地不明:2009/10/24(土) 17:14:09 ID:fwY5//l6
よみがえる海の民のくらし
「オホーツク文化」は本州の古墳時代から平安時代に、
サハリンから北海道のオホーツク海沿岸、
千島列島にかけて分布した海洋狩猟民の文化です。
オホーツク人は続縄文文化の終わりに宗谷海峡の周辺にいた人々が
サハリン北部から来たグループと出会ったことで生まれた集団で、
オホーツク海の沿岸を巡るように広がっていきました。
その遺跡からは海獣を狩るための骨角器や、繊細な文様を施した土器、
黒曜石で作られた石器類、鉄製の武器や青銅製の装飾品など
様々な遺物が出土します。 目梨泊遺跡では4軒の住居跡と
46基のお墓が発掘され、膨大な量の遺物が出土しました。
オホーツク文化の遺跡としてはまぎれもなく最大級だったのです。
それでは、オホーツク人の物語をのぞいてみましょう。
http://www.town.esashi.hokkaido.jp/contents/anschluss/esashi/story/index.html?0
36 :
出土地不明:2009/10/24(土) 19:27:45 ID:r6RjZEtw
37 :
出土地不明:2009/10/24(土) 20:02:33 ID:TR6BpeNx
単に日本海交易で土器やその他文物で東北・北海道南部と一致している
沿海州南岸方面から入ってきたものだろ。
長江江南なら九州・西日本からわんさか出土しないとおかしいからな。
38 :
出土地不明:2009/10/24(土) 22:17:59 ID:fwY5//l6
>>36 >>37 丸木舟での移動距離は、高々200kmぐらいかなあ。
海岸沿いの拠点間で、物々交換、あるいは、相手先で見聞きしたことを、
自分の集落に帰ったときに伝えたことも考えられます。
拠点Aと拠点B 拠点Bと拠点C.....拠点Nと拠点N+1と、
いうような複数の繋ぎ間で、長い時間を得て伝わったと思います。
39 :
出土地不明:2009/10/24(土) 23:30:19 ID:TR6BpeNx
40 :
出土地不明:2009/10/25(日) 00:11:47 ID:Ho/i1YTE
38のリレー説を考えると、桜町遺跡の高床式倉庫や富山周辺で見つかる
円筒土器やケツ状耳飾りは日本海を縦断して持ち込まれたものではなく、
晩期の三内丸山遺跡との交流によって移植されただけかもしれんね。
ただし、三内丸山遺跡の集団だけは沿海州沿岸部と接触してるな。
道南の奥尻島から沿海州沿岸まで日本海縦断で350kmくらいだから、
何とか丸木船で頑張って日本海縦断したのか、或いは、樺太経由で
安全に大陸に渡ったのかまでは分からんが。
41 :
出土地不明:2009/10/25(日) 07:44:45 ID:CagMgNg4
▼贈与交易、管理交易、市場交易▼
E.ポランニー(1886-1964)は古代交易について積極的な説明を与えたとされてきた。かれに
よれば、社会における財貨の統合形態を「互酬、再分配、交換」としたうえで、「交易とはその
場所では入手できない品物を獲得する方法である」と定義する。それは「必然的にその共同体
にとって対外的な関係をつくりだす。そうした獲得の前交易的な形態は、狩猟であり、遠征であ
り、侵略である。そこでは財の移動は一方向的である。……しかし、交易とは平和で二方向的
な活動であり、……[この]二方向性の原理にもとづいて、3つの主要な交易の型……贈与交
易、管理交易または条約交易、そして市場交易」があるという(同著、玉野井芳郎・栗本慎一
郎訳『人間の経済1』、p.89、p.159、p.179-80、岩波書店)。
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/page012.html
42 :
出土地不明:2009/10/25(日) 07:54:28 ID:CagMgNg4
▼交易地(港)、交易民族、そして中継交易▼
すでに述べたことをなぞることになるが、交易は共同体間の境界あるいは隙間において行わ
れる。それが一時的であれば、その都度、取引の場所が変わるということがありえよう。しか
し、同じような産品が、断続的であっても、顔なじみ人々のあいだで取引されるようになれば、
それはおのずと一定の場所が行われるようになる。
こうした共同体間における取引は、さらに多共同体間における取引として結合していく。その
結果、財貨の生産地や消費地、そしていくつかの共同体のあいだに、一定の交易路が築かれ
ることとなる。さらに、それら交易路の結節点に、主要な財貨の集散地あるいは交易地(港)が
形成される。こうして多種多様な財貨が近隣地だけでなく、遠隔地からも調達できるようにな
る。すなわち、交易のリンクとノード、すなわち交易圏(交易ネットワーク)の形成である。
43 :
出土地不明:2009/10/25(日) 11:37:32 ID:GjhabM4w
44 :
出土地不明:2009/10/25(日) 13:02:58 ID:CagMgNg4
>>43 ありがとう。500kmも漕げるのか。
時速40kmの船で12時間半、丸木船ならぶっとうしで2日ぐらいか?
日本海縦断をするメリットは、よほど大きかったんだね。
45 :
出土地不明:2009/10/25(日) 14:19:16 ID:CagMgNg4
国語読本の間宮林蔵
第十七課 間宮林蔵
樺太 カラフト は大陸の地続なりや、又は離れ島なりや、世界の人は久しく之を疑問としたりき。
然るに其の実際を調査して此の疑問を解決したる人、遂に我が日本人の中より現れぬ。
間宮林蔵これなり。
今より百二十年ばかり前、即ち文化五年の四月に、林蔵は幕府の命によって、松田伝十郎と
共に樺太の海岸を探検せり。樺太が離れ島にして大陸の地続にあらざることは、此の探検に
よりてほぼ知ることを得たれども、更によく之を確かめんがために、同年七月林蔵は単身にて
また樺太におもむけり。
先づ樺太の南端なる白主といふ処に渡り、此処にて土人を雇ひて従者となし、小舟に乗じて
いよいよ探検の途に上りぬ。それより一年ばかりの間、風波をしのぎ、飢寒と戦ひ、
非常なる困難ををかして樺太の北端に近きナニヲ―といふ処にたどり着きたり。
これより北は波荒くして舟を進むべくもあらず、山を越えて東海岸に出でんとすれば、
従者の土人等ゆくての困難を恐れて従ふことをがへんせず、止むなく南方のノテトといふ処
に引返し、酋長コ―ニの宅に留りてしばらく時機の至るを待ちぬ。
網をすき、舟を漕ぎ、漁業の手伝などして土人に親しみ、さてさまざまの物語を聞くに、
対岸の大陸に渡りて其の地の模様を探るは、かへつて目的を達するに便なることを知りぬ。
たまたまコ―ニが交易のため大陸に渡らんとするに際し、林蔵は好機至れりとひそかに喜びて、
切に己をともなはんことを求む。コ―ニは「容貌の異なる汝が彼の地に行かば、
必ずや人に怪しまれ、なぶりものにせられて、或は命も危かるべし。」とて、
しきりに止むれども林蔵きかず、遂に同行することに決せり。
46 :
出土地不明:2009/10/25(日) 14:20:40 ID:CagMgNg4
出発の日近づくや、林蔵はこれまでの記録一切を取りまとめ、之を従者に渡していふやう、
「我若し彼の地にて死したりと聞かば、汝必ず之を白主に持帰りて日本の役所に差出すべし。」と。
文化六年六月の末、コ―ニ・林蔵等の一行八人は、小舟に乗じて今の間宮海峡を横ぎり、
デカストリ―湾の北に上陸したり。それより山を越え、河を下り、湖を渡りて黒龍江の河岸なる
キチ―に出づ。其の間、山にさしかかれば舟を引きて之を越え、河・湖に出づればまた舟を
浮かべて進む。夜は野宿すること少なからず。木の枝を伐りて地上に立て、上を木の皮にておほひ、
八人一所にうづくまりて僅かに雨露をしのぐ。キチ―にて土人の家に宿る。土人等林蔵を
珍しがりて之を他の家に連行き、大勢にて 取囲みながら、或は抱き或は懐を探り、或は手足を
もてあそびなどす。やがて酒食を出したれども、林蔵は其の心をはかりかねて顧みず。
土人等怒りて林蔵の頭を打ち、強ひて酒を飲ましめんとす。折よく同行の樺太人来りて
土人等を叱し、林蔵を救ひ出しぬ。
翌日此の地を去り、河をさかのぼること五日、遂に目的地なるデレンに着せり。デレンは
各地の人々来たり集りて交易をなす処なり。林蔵の怪しみもてあそばれるること此処にては
更に甚だしかりしが、かかる中にありても、彼は土地の事情を研究することを怠らざりき。
コ―ニ等の交易は七日にして終りぬ。帰途一行は黒龍江を下りて河口に達し、海を航して
ノテトに帰れり。此処にて林蔵はコ―ニ等に別れを告げ、同年九月の半ば、白主に帰着しぬ。
林蔵が二回の探検によりて、樺太は大陸の一部にあらざることは明白となりしのみならず、
此の地方の事情も始めて我が国に知らるるに至れり。
http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/pkrus.htm
47 :
出土地不明:2009/10/25(日) 14:45:55 ID:GjhabM4w
>>44 500kmぶっとしは分からないけど、八丈島に行く場合は100kmぐらい島がまったく無い区間が有り
黒潮という横からの強い海流があるから、200kmぐらいは無停止で行けたと思う
沿岸沿いに停泊有りなら事実上距離無制限かもw
太平洋側は黒潮に乗ったら行ったきり帰って来れないが、
日本海なら北に行っても、海流に乗って大陸廻りで割と楽に帰って来れる(今これをすると拿捕されるが)
冬はともかく夏なら波も静かだから便利だったと思う
48 :
出土地不明:2009/10/25(日) 15:49:14 ID:3cIkaf5C
縄文へのいざない(1) 大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長
縄文文化が日本列島に興ったのは今から一万二千年前のこと。それから間もなく、縄文文化は日本列島のすみずみにまで広がった。
北はもちろん北海道で、北方四島の択捉島からも縄文土器が見つかっている。今のところサハリンには縄文人の気配がないが、
どうやらその南に浮かぶモネロン島からは縄文土器が出ているらしい。南は沖縄本島までで、八重山諸島には縄文の痕跡はない。
西は対馬、半島南部、東は八丈島までだ。
日本列島の文化を考えるとき、多くの人はこの文化の基盤になったのは弥生文化だと考える。日本の文化の大きな特質が
稲作農耕にあると考えるからだ。それは一面では正しいかもしれない。しかし、弥生文化が日本文化の基盤をなしているとするなら、
北海道や沖縄のように弥生文化の根付かなかった地域はどうなるのだろう。
49 :
出土地不明:2009/10/25(日) 16:33:34 ID:X553ogdx
やっぱ三内丸山人のエリート船乗りたちは道南から沿海州南岸までの
350km日本海丸木船越えをやってのけたのかもな。
そうでなくても時間をかけて樺太北部から沿海州沿岸に渡り、
そのまま南下するという沿岸伝いコースでいくらでも沿海州南岸と
交流できる訳なんだが。
50 :
出土地不明:2009/10/25(日) 16:41:16 ID:GMw2aFDT
「呉服」は百済経由で伝わっている。
また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
http://kamnavi.jp/link/kojiki2.txt
51 :
出土地不明:2009/10/25(日) 18:45:19 ID:CagMgNg4
>>49 樺太経由の場合は、ニブフ、ウィルタ、ナナイなどとの交流も
可能性ありますね。ニブフは毛皮と器具の交換をする話、見たよ。
52 :
出土地不明:2009/10/25(日) 19:18:16 ID:jt5Xjphg
樺太に平底筒形罐の話も聞かないから、やっぱ日本海縦断やってるな。
53 :
出土地不明:2009/10/25(日) 19:44:25 ID:zd9P4em3
海を行くときカヌーの速度は時速約4キロだそうだから、
2ノット≒時速4kmでまったり航海しても350kmなら三日半で着いてしまうから、
ベテランの船乗りならその気になれば何の問題も無くやれてしまうものなのかもしれん。
54 :
出土地不明:2009/10/25(日) 21:54:58 ID:jale272L
バヌアツの縄文土器
http://www.wonder-okinawa.jp/024/japanese/kataru/serizawa/banuatu/index.html 今から約30年ほど前、日本からおよそ6000Km離れた南太平洋のバヌアツ共和国で、フランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士が
縄文式土器と類似する土器片14点を発見。この土器片は当初、フィジーで出土する『叩き目文土器』に似ていると発表されていた ...
九三年から行われている太平洋の土器分析の権威、ウィリアム・ディキンソン米アリゾナ大学名誉教授(地質学)による
同土器片の成分分析では、バヌアツに存在しない鉱物添加物を含み、しかも青森県出土の典型的な円筒下層c、d式土器の
鉱物添加物と組成、量とも一致することがわかった。
続いて、最近、英オックスフォード大学などの熱ルミネッセンス法による年代測定で約五千年前のものであることが判明したため、
研究チームは文様、製造技法、粘土成分、年代などを総合的に判断、日本で作られた縄文土器(複数)が、何らかの原因で
バヌアツに運ばれたものと結論づけた。
55 :
出土地不明:2009/10/25(日) 22:00:37 ID:jale272L
逆に、西太平洋地域ではパプアニューギニアで出土した古い土器に日本の縄文早期の土器の影響が見られる、との関連学説があることを支援材料として指摘。
出席した考古学者から、フィジーでも縄文土器特有の文様を持つものが出土しているとの情報が寄せられた。
http://www.asahi-net.or.jp/~NA2Y-YMMT/yomiuri814.html 博士は、現時点では、「偶然に到達した可能性」が強いとし、「縄文土器を積んでいた当時の舟が何らかの原因で日本からバヌアツへ漂着したケース」を推測する。
傍証として日本から中部ミクロネシアへ漂流、漂着した過去の多数の例や、一九五一年に長さ八メートルの小舟が中部太平洋マーシャル諸島からバヌアツに到達した例などを挙げた。
最近では、日米の人類学者により、人骨や歯の比較調査から縄文人が南太平洋へ南下、移動した可能性も指摘されており、今回の縄文土器との関連性にも関心を寄せている。
同博士らは、この縄文土器片が狭い範囲での一回の採集で得られた四十点のうちの十四点であることに注目。「地元民がヤムイモを地中深くから掘り出す際に出土したことも考えられ、
まだ深い地層に多数埋まっている可能性もある」として、本格的な現地発掘調査の必要性を指摘している。
56 :
出土地不明:2009/10/25(日) 23:23:40 ID:ztsC/yRW
>>54 八丈島に渡ろうとして道に迷った縄文人が漂流したのかも
数日掛かるから土器に水や食糧を詰めてたはずだし
海流が時速2kmとすると1日で48km、だいたい50km/日として100日で5000km移動
海流はぐるっとめぐってるから、200〜300日耐えれば着きそう
丸木舟は沈まないから、転覆しても何度でも復旧できる
10人乗ってるとして1人づつ食って行けば結構頑張れるな・・・
57 :
出土地不明:2009/10/26(月) 00:23:59 ID:b3Is1JqE
違うな。
クルーは全員船上で死去してるだろ。
人骨と縄文土器を積んだ船だけがドンブラコッコ、ドンブラコッコと
バヌアツの砂浜に打ち上げられましたとさw
58 :
出土地不明:2009/10/26(月) 01:17:40 ID:IXLuZWXy
59 :
出土地不明:2009/10/26(月) 01:39:38 ID:8okKD5Ri
丸ノミ石斧は日本が圧倒的に最古なのに何で南方から日本に北上した
根拠になるんだよw
本末転倒だろ。
60 :
出土地不明:2009/10/26(月) 06:41:44 ID:7MRFATIB
東北地方のカッパ伝説ですが…。僕はカッパは女真族ではないか?と思ってるんです。@カッパの頭は女真族の弁髪に似ている。A一種の神に見なされるのは科学技術者・医者だったからB胡瓜…(?)
61 :
出土地不明:2009/10/26(月) 20:57:50 ID:goEemgPe
62 :
出土地不明:2009/10/27(火) 00:36:02 ID:InMAjL20
普通に考えると、家族は、
”おとうちゃん、いってらっしゃい。
魚もいいけど、おいしいお芋も食べたいよ” だと思う。
限られた範囲しか、普段は行かないものと思う。
63 :
出土地不明:2009/10/27(火) 19:48:48 ID:21A0J8jV
64 :
出土地不明:2009/10/27(火) 19:50:51 ID:21A0J8jV
しかも日本の「鵜飼」は中国よりも古い。
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。
隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。
確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E3%81%84
65 :
出土地不明:2009/11/11(水) 23:08:38 ID:Dtry0cCx
66 :
出土地不明:2009/11/13(金) 21:29:09 ID:2uhhcHX7
67 :
出土地不明:2009/11/13(金) 21:30:04 ID:2uhhcHX7
68 :
出土地不明:2009/11/16(月) 09:52:52 ID:U18vB3ZO
ものすごく基礎的な質問で申し訳ないんだけど、
海流そのものは縄文当時と現在とでほぼ変化していないと立証されてるのかな。
海流のありようによっては航路の予測も違って来ると思うんだけど。
69 :
出土地不明:2009/11/16(月) 10:01:53 ID:GxULR685
潮目見なきゃ何も出来んのかよ?
良いからモンゴル草原にでもこもって貰ったほうが東アジア史の為になるなw
70 :
出土地不明:2009/11/16(月) 11:55:23 ID:e3TW5Mzt
>>68 詳しい研究は無いと思いますが海峡の深さから予測は出来ます。大体ですが北からの水深
間宮海峡 10m
宗谷海峡 60m
津軽海峡 140〜450m
対馬海峡 平均水深約90〜100m
関門海峡 50m
トカラ付近 1000m以上
つまり津軽海峡は氷河期を通じて日本海と太平洋が繋がっていて
対馬海峡も縄文早期には繋がりました。この時点で日本海流が生まれます。
12000年前には繋がってたはずです。次に繋がったのは宗谷海峡です。
10000年前の海面は今より50mぐらい低だけなので、初期の海面上昇が急激だった事が
窺えます。よって縄文早期の住居は高台が基本です。海岸付近に住んでても高台です。
間宮海峡はずっと後まで塞がってましたので、その辺は湾の様に静かだったでしょう。
ともかく北上は日本海流に乗ってしまえば寝てても着くし、帰りは海流に逆らうよりは
海流がほとんど無い大陸よりを来た方が楽です。
大陸よりを北上する海流の可能性は、朝鮮半島付近以外は無いと思います。
左回りの渦になっていた可能性が高いです
今も冬に氷で間宮海峡が塞がると、日本海は左回りの渦のような海流になります
縄文時代は夏でも間宮海峡が塞がっていたので、もっとつよい渦になっていたと思います。
あと日本海を海流を避ける形で沖を南下する場合、高い山が目印になったと思うので
高い山の周辺を住居として好んだ可能性も有ります。
ともかく日本海は東に行っても西に行っても陸地に付けます。丸木舟は転覆しても沈みません
海さえ荒れなければ意外と安全な旅だったかも
71 :
出土地不明:2009/11/16(月) 13:06:19 ID:U18vB3ZO
>>70 詳しいお答えありがとうございます。
海峡の深さから類推するのですね、なるほど。
日本海の狭さを思えば、上下に潮流が存在するなら
交易もある程度活発だったと想像されますね。
集落が高台、もしくは河口から奥まったあたりに存在する理由も頷けます。
先日、函館にあるアイヌ民族の資料館へ行き、交易範囲の広さに驚いたのですが、
潮流について後々疑問に思ったため、こちらで伺った次第です。
理解の助けになりました、感謝します。
72 :
出土地不明:2010/04/17(土) 17:36:52 ID:7o3+hROd
縄文時代は13000年前頃、人類が南方と北方両方から、
原始林が茂る南の民には暑くも無く狩猟の動物が年中沢山住み、
自然の恵みが豊富にみのっていただろう陸地(今の日本南の地域)に
流れ着き、海の魚(漁猟)も採り、山の獣も狩猟して夫々の小集団を作り、
ある程度の集落を形成していたのではないでしょうか?
又、北方からも、寒い寒冷地帯を抜けて大陸から、
温暖な気候の森林が茂り自然の豊富な食べ物、動物が豊富に住んでいた
陸地(今の日本の北国地域)これらの人類の営みの時代は、
相当長く日本全土に移動しつつ森林・山岳・海岸沿いに
豊かな自然の木の実や獲物を求めて、歴史研究の学者先生の諸説に
寄れば10000年ほど、時代を重ねたとも聞く。
(この時代の間が仮に数千年としても、やはり其の地域、
地域の族の間で、縄文土器の製作技術に長けたグループと、
硬い石器が多数造れるグループと、山の幸・海の幸を交換し合ったり、
装飾品、や狩猟道具のお互いの得意分野で、
他の族(集団)にまたまた出会い交換
(交易と言うには多少問題があろうかと?)事例があっても不思議では無く
次第に、地域・地域で数千年の間には、交易と言える状況に
発展していったと考えます。
73 :
出土地不明:2010/04/17(土) 22:13:14 ID:dgnCs6N5
澤村は2
74 :
出土地不明:
図書館で拾い読みしたことあるんだけれど、『古代の日本海文化』で触れられている話?
>>73 ……?