異父兄弟である日本人と韓国人

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395出土地不明
「ルーツ探しガイダンス」から刺激を受けて「文化的側面からみた前提」を参考までに記述してみました。
参考になれば、幸いです。

1、縄文人=縄文時代人(縄文文化を伴った人々)

参考までに。
『日本列島各地で発掘され、「回転縄文」という特徴的な施文技法による縄目の文様を特徴とする土器を一般的に
縄文土器と呼びます。そうした土器群を持つ竪穴住居や貝塚や墓地など集落遺跡で出土する土器、石器など、
様々な遺構・遺物つまり彼ら縄文人たちの持っていた生活道具、およびそこからうかがわれる生業や信仰、儀礼、
祭祀、風俗習慣などの精神生活、そういった彼らの物質文化や精神文化総体のことを「縄文文化」と呼び、そのような
文化の続いた時代を「縄文時代」と便宜的に呼んでいるのです。』
---「考古学の教室」 菊池徹夫(比較考古学研究所所長)著より一部抜粋

>「回転縄文」という特徴的な施文技法による(略)そうした土器群を持つ

「回転縄文」という特徴的な施文技法である土器の外面に、撚り紐で作った縄を回転させて施文する手法
は中南米に類似例がある以外は、日本列島独自のものである。そして、その施文技法である「回転縄文」
という特徴的な施文技法は現在全国に60あまり知られている土器様式の過半を占める。(過半を占める)
ということは、この「回転縄文」を伴った人々が縄文期の日本列島における主流であった。

『縄文期、文化的な縄文人の主流は日本列島独自の人々が主流であったということができる。』
396出土地不明:2010/04/23(金) 23:16:32 ID:iAPphJJH
2、弥生人=弥生時代人(弥生文化を伴った人々)=(縄文文化+渡来文化が融合し、それを伴った人々)
[弥生時代の始まりについては、現在論争中であるという前提をもとに記述します。]

参考までに。
『弥生文化には、縄文文化の伝統を引いたものも多い。土器づくりの基本技術、狩猟に用いた打製石器
漁労に用いた骨角器、漆を使って容器や装身具を飾る技術、貝殻に穴をあけて腕に通した装身具である
貝輪、竪穴住居など、生活の多方面にわたっている。---(略)---弥生文化は、農耕社会を形成してい
た朝鮮半島南部から、稲や金属器をたずさえて日本列島に渡ってきた若干の渡来人が、縄文人とともに
生み出した文化であると考えられる。縄文時代後期の遺跡から、籾の痕がついた土器がみつかっている
ので、すでに縄文人は稲を知っており、栽培していたとも考えられている。そうした縄文時代の植物栽培
が、農耕文化を受け入れる基盤になったのであろう。』
---『詳説 日本史研究』山川出版社より一部抜粋

1)縄文形質が強いまたは、縄文形質である、弥生文化を伴った人々
2)渡来形質が強いまたは、渡来形質である、弥生文化を伴った人々
3)縄文形質と渡来形質との混合であると思われ、弥生文化を伴った人々
4)縄文形質であり、縄文文化を伴った人々
5)渡来形質であり、渡来文化を伴った人々
以上の人々すべてが弥生人であるという前提もあるが、1)から3)が弥生人であった、すなわち弥生人とは、
弥生文化を伴った人々という前提をもとに記述します。

弥生文化とは何か.。
「弥生文化とは、西日本の縄文文化と渡来文化の融合によってその土台が形成され、さらに、
その文化が東進によって各地域の縄文文化の壁を乗り越えつつ生じた文化である。」

『弥生人とは、縄文文化+渡来文化が融合し、それを伴った人びとすなわち弥生文化を伴った人々である』
397出土地不明:2010/04/23(金) 23:17:33 ID:iAPphJJH
3、古墳人=古墳時代

古墳期に「大量の渡来民」によって民族置換が生じた、あるいは古墳期の日本列島原住民を
征服したとの説があるが、「短期間に劇的な変化が起った遺跡、遺物が多数発掘された
考古学情報はない」すなわち、古墳期に民族置換が起きたという考古学的根拠はない。

参考までに。
『1949年に東洋考古学者の江上波夫が提起した学説で、4世紀後半ころ、東北アジア系の遊牧
騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入し、統一国家を樹立したとするもの。--(略)--
確かに、前期の古墳にはまったくみられなかった 馬具が、中期の5世紀になると古墳の副葬品
のなかにみられるようになり、前期にみられなかった乗馬の風習や騎馬文化が急速に普及した
ことを物語っている。また中期には新しく朝鮮半島の影響により成立した横穴式石室が古墳の
埋葬施設として登場し、後期には古墳の最も一般的な埋葬施設となり、さらに中期には須恵器
と呼ばれる朝鮮半島系の土器の生産も開始される。ただそうした馬具や横穴式石室の普及、
あるいは須恵器生産などは、5世紀初め以来100年の間にしだいに進展してきたもので、古墳時代
の前半期と後半期の古墳文化の間に革命的な変化を認め、その背景に騎馬民族の渡来
・征服などを想定するのは困難である。むしろ、4世紀後半以来の高句麗の南下に伴う朝鮮半島
南部の戦乱に倭国もかかわり、その結果、こうした大きな変化が生じたと考えるべきであろう。
なおこの戦乱の影響で、多数の渡来人が日本列島に渡り、日本列島の社会や文化にきわめて大
きな変化を及ぼしたことは正しくとらえなければならない。その後の倭国が中国を中心とする
東アジアの文明を短期間に受容し、7世紀後半には強力な中央政権的古代国家を打ち立てることが
できたのは、倭人が絶えず多くの渡来人を受け入れ、新しい先進的な文化を受容する能力を常に
保持していたからにほかならない。』
---「詳説 日本史研究」 山川出版社より一部抜粋

>古墳時代 の前半期と後半期の古墳文化の間に革命的な変化を認め、その背景に騎馬民族の
>渡来 ・征服などを想定するのは困難である。

もうひとつ参考までに。
『おもに五世紀を通じてもたらされた渡来文化は、六世紀にはすっかり定着していく。したがって、
後期(五世紀末ごろ〜七世紀初頭ごろ)古墳文化と前期(三世紀中ごろ〜四世紀後半ごろ)古墳
文化を直接的に比較すると、まさに異国の雰囲気さえ漂うし、異質な側面を強調すれば渡来人
の大量渡来がイメージできなくもない。騎馬民族征服説もその一つの学説だが、(江上 1967)、
五世紀を介在させれば墳丘・埋葬施設・副葬品のどれをとっても劇的な変化は認めがたい。』
---「考古学の基礎知識」 広瀬和雄編著より一部抜粋

>五世紀を介在させれば墳丘・埋葬施設・副葬品のどれをとっても劇的な変化は認めがたい

『古墳人とは、日本列島原住民(弥生人)が大陸文化を受容して生じた人びとである。』