邪馬台国、大和朝廷成立前夜の日本について

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1出土地不明
邪馬台国や大和朝廷成立迄の日本には、どれだけの民族や國(国)があったのか?
王権や王朝と言ったものはあったのか?
一体誰が、日本最古の真の支配者なのか?
天皇家と日本人の本当の起源は?

素人さん、マニアな方、うんちく宜しくお願いします♪
2出土地不明:2009/01/09(金) 18:35:05 ID:taVkowb9
邪馬台国や大和朝廷成立迄の日本には、どれだけの民族や國(国)があったのか? → 中国側の文書によれば数百あったらしいですね

王権や王朝と言ったものはあったのか? → 日本南西部に広く住んでいた倭人だけで数百の国家に分立していたということは、サイズ的に考えてそれぞれの酋長は王権と呼べるものを持てていたでしょうね。

一体誰が、日本最古の真の支配者なのか? → 今の「日本」に近い共同体意識を作ったのが大和朝廷なんで、
熊襲を征伐し、東方にも触手を伸ばし始めた頃の大和朝廷の都での有力豪族の組合的なものが実効的な支配力を行使できたでしょうね。

天皇家と日本人の本当の起源は? → 天皇家は倭人系の集団に現地勢力がくっついてできた大和に持ち上げられた一族なので、血縁的にはその時々の有力豪族の血が全て入ってるでしょうね
(倭人、毛人、渡来人すべて含む)
ただ、ルーツとしては最初から倭人とともにいたはずなので、近畿まで北上する以前、つまり、九州あたりが起源でしょうが、当時の遺伝子はほとんど残っていないでしょうね。

日本人に関しては、憲法に沿って言えば4大島と周辺の島々、それに南西諸島、東京都島峡部の住人なので、
まず4大島のうち高知は東京都島部同様にポリ・ミクロネシアなど南洋系の影響がわずかにありますが、基本的にはまず、旧石器時代に海岸沿いに北上してきた原型人種がわずかにおり、
次に氷河期にフィリピンからネグリト祖先型、朝鮮半島から原アジア人、東シベリアから今のインディアンと共通祖先を持つグループが入ってきたでしょう。これが遺伝子の3割を占める「縄文人」です。
次に、中国で文明が生まれてから浸入してきたモンゴロイドおよび、樺太経由で入ってきた新しい北方系モンゴロイドが弥生人でしょう。

ただ、樺太系は人口密度が低いので原住民とハーフになって「毛人」と呼ばれるようになったのでしょうね。
倭人は今の西日本人とそう変わらないでしょう。それと、更に後になって断続的に入ってきた朝鮮人中国人は都を目指したので、これが関西人の骨格が他の地域の人より大陸に近い要因となったと思います。
3出土地不明:2009/01/09(金) 19:05:11 ID:8KIBoPOT

長過ぎ(^-^)

うんちく述べろってことだから、別に…たかじん委員会?
4鬼夜叉:2009/01/09(金) 23:33:27 ID:7gWEhkoS
私個人的には、超古代ムーの支配者一族やシャーマン一族が、列島に避難、定住して日本最初の真の支配者になったという、何かしらの証拠、痕跡さえ発見されれば、何も言うことは無いし、もう何時死んでも構わないよ。
5出土地不明:2009/01/10(土) 12:33:09 ID:z7wT6FJO
6ぶらっくされな:2009/01/10(土) 14:57:26 ID:pxLn8eIO
>>4
中国に『山海経』という、夏王朝開祖の伝説の帝王、禹が作成した世界最古の地理解説書があります。
そこには、縄文前期の日本に「胡不與」という大国があり、中期以降にこの国から分かれた九州の「拘纓国」と中国四国の「跂踵国」、北海道以東の「粛慎国」の4国ないしは跂踵国が2分した中国の「叔サン国」と四国の「大踵国」の5国があったと記録されています。
7ぶらっくされな:2009/01/10(土) 15:00:09 ID:oX3ujST0
>>4
因みにこれ以前の日本については未だ不明、確認されていない筈です。
でも、胡不與はもしかしたら、ムーから避難定住した人達が建国した日本最初の国かも知れないですよ、たぶん…。
8出土地不明:2009/01/10(土) 15:44:17 ID:z7wT6FJO
>>5
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko1.jpg
弥生初期から伊勢神宮のある伊勢地域は伊勢湾沿岸に属さず、奈良盆地の方に属していたということ、
伊勢湾沿岸には無文土器系統が入り込む、つまり、スサノオ的要素があることは後の狗奴国を暗示
するようだ。
9出土地不明:2009/01/10(土) 15:59:23 ID:z7wT6FJO
神武も対狗奴国戦線の最前線に立つ、宮崎県から動員された武将と言うことが言えるかもね。
10出土地不明:2009/01/10(土) 17:46:22 ID:3iuTh7+C
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11出土地不明:2009/01/11(日) 11:30:44 ID:lX8WVUpz
記述の弥生土器分布図参照。ちなみに、古朝鮮の琵琶型銅剣、細形銅剣、支石墓の分布図↓
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/b/b9/Bipabronze1.jpg
これを見ると琵琶型が遼西、細形が遼東、支石墓は遼東、楽浪で発生している。他方銅鐸については
原郷が殷・河南省方面であり、綏遠・三韓・吉野ヶ里・出雲・東奈良と言う風に無紋小銅鐸が伝わり、
後に、秦・漢の動乱、須玖時代に急激に膨張したと思われるが、これに鹿を初め動物とか、宇宙構造が
描かれるようになるのは古墳前夜の見る銅鐸である。この辺で宗教観が確立して行き、神獣鏡への
欲求が高まる。武器型青銅器は殷の近衛軍とか、燕・オルドス塞外の戎であり、銅鐸を受け入れるのが
長江下流域、呉の太白の地方とされる方面からの水稲栽培の尖兵的移民でこれを中心に殷のような
国の形が決まったようだ。
12出土地不明:2009/01/11(日) 12:00:01 ID:lX8WVUpz
方形周溝墓、大阪湾型銅戈の中から邪馬台国・大和朝廷が生まれるが、見落としてはならないのが
紀氏であり、熊野出雲族である。紀氏は吉備氏から分かれる。吉備氏は素鵞・熊野連合から来るが、
これは熊・襲、熊野・出羽、同様のイェニセイ・ケト熊族・イェニセイ・ケト白鳥族であり、連合して金海
(キメ)、吉備と称す。パレスチナ・アナトリア・アゼルバイジャン(麁鹿火という川がある)・アブハジア・
コーカサス北麓、後にはクマン族としてミラノ北部のスイス山村にナマハゲを残し、ポーランドには
沖縄のジュリ馬を残している。セイマトゥルビノと言う世界で最も精密な木彫り木型にによる鋳造を
発明、長槍軍団で西シベリアを席巻している。気多神社からは木曾・出羽等で日本彫刻芸術の
基礎を確立している。
13出土地不明:2009/01/11(日) 13:37:46 ID:lX8WVUpz
出雲にはキサカ姫伝承がある。このキサカ・屈射・越が同意語であり、日本海、東シナ海沿岸部に
屈射族が渡来したことを意味している。銅鐸文化圏はこうした民族と犬戎・狗奴国に取り囲まれていた。
これが邪馬台国、大和朝廷成立前夜の地祇と天孫の勢力分布図である。
14出土地不明:2009/01/11(日) 14:16:17 ID:/IkQpVYk
100国
15出土地不明:2009/01/11(日) 15:16:58 ID:lX8WVUpz
>>11 細形銅剣は遼東ではなくロシアのウラジオストーク、北朝鮮清津、元山方面を経由している。
この先はシベリア鉄道乃至は東清鉄道経由バイカル・エニセイ方面に繋がる。突帯文土器のルーツは
バイカルにあり、屈射はアルタイにある。日本の銅剣銅矛文化圏、銅鐸文化圏は南シベリアと長江下流
から来ていることになる。偉大なる匠の民族ケト族、気多の大神の子孫は現在の日本でも生き残っている。N-LLY22g* 1.2% N-M178 0.4% http://img438.imageshack.us/img438/5519/japan9zr.gif
これはナデネ・インディアンに近いとされており、言語的にもケト語は
ナデネ・シナチベット・コーカサスと同じ部類とされる。
16出土地不明:2009/01/11(日) 15:29:11 ID:lX8WVUpz
犬戎の長、秦氏の導きにより、ホレズムから日本に入るソグド・エフタル・滑はその地中海コーカソイド
遺伝子を残してはいないが、白いフンの一環として引き帰したのであろうか。だが、コーカサス系の遺伝子
I-P19は0.4%残り、ヒッタイト・フルリ人としてケト族とパレスチナ・アナトリアで活躍したことを物語るようで
ある。
17出土地不明:2009/01/11(日) 15:38:42 ID:lX8WVUpz
邪馬台国に到着した帯方郡の特使は邪馬台国の直ぐ南が上海であろうと考え、住民が呉の太白の
子孫であり、刺青をしているといっているが、ひょっとしたら、当時三輪神社の鳥居は今と同様の
中国南方系で、沖縄のウガンジョのようなものであり、唐古・鍵遺跡の生き残りは中国風の住居に
住んでいたのかもしれない。つまり、特使は遠賀川から日本海を北上する海流にのり、若狭琵琶湖
を厳重な警護の下に南下したと考えられる。邪馬台国の周辺は鬼の国だらけであることが、当時の
天孫の置かれた状況を物語っているのであろう。紀氏の国も含めてであるが。
18出土地不明:2009/01/11(日) 15:50:12 ID:lX8WVUpz
今で言えば上海から横浜に来て中華街で飯を食ってそのまま帰国したようなものであったのではなかろ
うか。
19出土地不明:2009/01/12(月) 02:09:42 ID:5KZrDDuE
神武は紀元前七世紀ころの話と言うんだから、素直に物語だってことで聞いて
おけばいいんでないの?
20出土地不明:2009/01/12(月) 10:08:43 ID:I2O0DaNO
左翼はそういうなー。
21出土地不明:2009/01/12(月) 12:43:07 ID:I2O0DaNO
>>15
南シベリア-金海ルート経由で馬韓、新羅、熊本、吉備、阿讃播には弥生末から奈良時代にかけて
多くの中央アジア・南シベリア民族が入っているが、日本にとって意味のあるのは
1)楯築遺跡で東胡・匈奴の石板墓立石型楯築遺跡建設を実行しようとしたもの。これは月氏を倒した
匈奴であり、松尾大社、三輪山の磐座遺跡と関係がある。
2)匈奴に討たれバクトリアで大月氏国を建国する大月氏の残党で、アルタイに残り、馬韓に進出、出雲
伯耆方面で孝霊に討たれ、阿讃播で前方後円墳に繋がる積石墳を開始するもので、阿波の忌部氏、
出雲氏、西都原遺跡等はこれに関し、上記の匈奴系と対立したもの。
3)時代は下り、隋・高句麗の頃に突厥の一部として活躍することとなる堅昆(キルギス)で、これが
熊本を中心に蒼穹装飾古墳を広める。
22出土地不明:2009/01/12(月) 13:05:51 ID:I2O0DaNO
前方後円墳はパジリク・月氏が持っていたケレクスル・円形古墳の要素と東胡・匈奴の持っていた
戎としての供物供献儀式壇を併設するという日本独自の古墳であった。この建設には弥生全域の
人々が貨幣のない時代でもあり、時刻の九州から関東の自国の土器、当然ながら食料を持参して
纒向に集合し、初めての巨大古墳箸墓を建設し、宮殿を築いた。これはこの前方後円墳創造にいたる
経緯を弥生人が知っており、古墳の全てが自分達の文化、伝承に照らして齟齬をきたしていないという
確信があってのことであり、決して上意下達の結果ではなかった筈である。
23出土地不明:2009/01/12(月) 15:26:44 ID:I2O0DaNO
箸墓に始まる大和の大型古墳は当時の東夷圏内では往時の始皇帝陵にも匹敵する高度な土木技術
であるが、設計思想の背景には始皇帝陵同様にエジプトのピラミッド建設の知識を持つものがいたようだ。
石上神宮のフツの御霊とはPtahのことと考えられる。始皇帝陵完工時に殉葬されたのはクルド系であり、
秦によって抑留のような状態にあったアレクサンダーギリシャ文化圏ホレズム/滑国(エフタル)人であろう。
これが須玖時代に三韓に亡命してきていた。これが邪馬台国建国前夜に金海の集団によってツヌガアラ
シトとして日本に入り、古墳建設の指揮に当たったのではないか。つまり、当時三韓・高句麗と帯方郡の
関係冷却を逆手にとって、銅鏡同様帯方郡の援助によって高句麗の束縛を離れ、帯方郡の管轄下に入
った不耐ヤイ王系のワイ人集団の一部として滑国人、エフタルが忌部集団を率いて阿波・河内・大和・
上総・毛野方面に入り込んだのでなかろうか。
24出土地不明:2009/01/12(月) 15:56:24 ID:I2O0DaNO
ミトラス教、ダビデ教、拝火教、エジプト太陽神教のさまざまな要素を含む神話が、鹿石をユーラシアに
国取り合戦のように張り巡らす国土神、猿田彦によって全国に広められ、せせらぎの女神、セオリツ
(犬の道、シリウス)姫の信仰は次第に大きくなって行き、日本の神統譜の頂点に立つ。そうして、
それを構成したどの宗教とも質的に異なる日本の宗教が誕生するのであろう。天皇もまた次第に
固まって行く。
25出土地不明:2009/01/12(月) 17:27:31 ID:I2O0DaNO
>>15 N-LLY22g* 1.2% N-M178 0.4%
現在ケト族はQであり、これとは違うが、日本人の勇敢さとか、手先の器用さ、日本に残る熊・白鳥トー
テム、裏日本、九州、東北に残る民俗を考えると、古代のケト人はヒッタイトであり、その遺伝子は
日本に来ており、現在のケト人は同じ地方に居住していた別の民族ではないかと思う。ちょっと、
虫がよさすぎるかね。
26出土地不明:2009/01/12(月) 18:03:01 ID:I2O0DaNO
>>23
クルド・ソグド族はミトラス教天真・天使派、牛宗教、拝火教と共に裏宗教としてダビデ教、黒犬信仰
を持ち、黒犬信仰は日本では稲荷信仰に、ダビデ教は神社文様に使用されているが、記紀にも
採用されている。これは殷・カラスク時代からホレズム方面経由で中近東と中国が文化交流を
していた結果によるものであろう。つまり、殷とホレズムの交流を司っていた民族は周・漢に押され
日本列島に流入し、遂には邪馬台国・日本を建国するに至った。
27出土地不明:2009/01/12(月) 18:12:03 ID:I2O0DaNO
エジプトの宗教については本来ウラル・ハラフの犬文化民族のほうからエジプトに文化的影響を
与えた結果であると、バシコルドの学者は主張している。ミトラス教についてはクルド系学者が
非常に古い時代からの研究を行っている。
28出土地不明:2009/01/13(火) 11:11:55 ID:GCrMFeUo
つまり、智略と戦闘と政治と呪術にたけた、古代世界の有力王家とその忠臣民族が日本に避難、定住して、邪馬台国や大和朝廷等々が成立したわけですね。
しかし、そーなると日本以西の世界各地の王家まがいは本物ではなく、一般民衆が王権を奪い盗って自らの為の国を世界中で乱立した、って事になりますが?
29出土地不明:2009/01/13(火) 11:27:17 ID:0g20kEi3
>>28
それが世界の歴史の真実なのだよ。神に最も近いルシフェルが堕天使ルシファーになったのも的を射てるわけだ。
即ち、真の王家を追放、抹殺し、一般民衆で力の強い者が王に成り済ます。
日本以西の王家、王権の真実はまさにそれだね。
30出土地不明:2009/01/13(火) 11:30:57 ID:bidVcCYl
>>25
ケト人と同系の日本人Y遺伝子はQ-P36 0.4% 、この下部クレードとしては、
Q1a1 (M120, M265/N14) Found at low frequency among Chinese, Koreans, Dungans←これは↓
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Dungan-Girls.JPG  美人じゃなー。
他にはユダヤ教のHazara、又、
Q1a2 (M25, M143) Found at low to moderate frequency among some populations of Southwest Asia, Central Asia, and Siberia
Q1a3* Found at low frequency in Pakistan and India
アメリカにも渡っており、
Q1a3a (M3) Typical of indigenous peoples of the Americas
Q1a3a1 (M19) Found among some indigenous peoples of South America, such as the Ticuna and the Wayuu
Q1a6 (M323) Found in a significant minority of Yemeni Jews
Q1b (M378) Found at low frequency among samples of Hazara and Sindhis
日本には白人系Y遺伝子もあり、R-M207 0.4%
近い下部クレードには
R1a1 (M17, M198) Typical of Eastern Europeans, Central Asians, and South Asians
がある。
ハザラなんて言うのは隠れユダヤ人であり、これこそユダヤ人・秦氏そのものではなかろうか。
聖書にもダビデがヒッタイトと通婚していたとあり、ヒッタイトはモンゴロイドとされる。ユール・ユール
ブリンナーのようなタタール系であったのだろう。しかし、この民族の女性は絶世の美人だよ。
31出土地不明:2009/01/13(火) 11:50:50 ID:bidVcCYl
「<雄略天皇7年是年条>吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は任那に単身赴任中、雄略
天皇が自分の妻「稚媛(わかひめ)」を犯した事を知り、新羅に援助を求める。天皇は新羅征伐を子供の
弟君(おときみ)に命じるが、吉備上道臣田狭は弟君に謀反を勧める。」
http://inoues.net/ruins/kibi.html
雄略はユダヤ人、吉備上道臣田狭はヒッタイトと見ているようである。
32出土地不明:2009/01/13(火) 16:11:22 ID:bidVcCYl
>>12 >>21
倭人伝では倭国の北岸を拘邪韓國としている。狗邪韓というのは吉備の日下部同様屈射族で、金海
木槨墓文化をもたらしたもの。この屈射族は熊トーテム部族として吉備、熊襲の熊、伊予の久万、
久米、球磨、熊野と同意であるが、金海、これはアルタイではキマクという。吉備はアルタイでもキビ
と言う。白鳥は日本では越、出羽、周防方面に残るがアルタイではチク、チャク等と言う。キプチャクは
クマンとも言うがこれは熊、白鳥の連合軍である。単独ではクゥイといい、紀氏がこれである。
倭人伝では半島内に駐留しているとおぼしき、載斯烏越なる倭国の官から対狗奴国戦争の事情聴取を
行っている。総合的に勘案するに倭国本陣は海岸の勅島にあり、金海一体に租借地弁韓の倭国租界
を防衛する拘邪韓國が存在し、更に弁韓の北方にはシ歳系の租借地も存続しているような状態にあった
と考えられる。出雲・吉備方面に屈射国の強力な勢力圏が成立し、銅鐸圏との緊張が高まり、高霊帝
の討伐を受けたのであろう。その戦闘行為の形跡が伯耆の青谷上寺地に残る。

33出土地不明:2009/01/13(火) 16:15:23 ID:bidVcCYl
どうもいとも簡単に帯方郡に降伏し、高句麗と袂を別つ不耐シ歳王と言うのは屈射族のような気がする。
34出土地不明:2009/01/13(火) 16:48:43 ID:bidVcCYl
古代の「釜山港に帰れ」はこんなのであったのでは↓
「常世べに 雲たちわたる 水の江の 浦嶋の子が 言(こと)持ちわたる
   (浦嶋子の言葉を伝えてくれる雲は常世にまで流れている)
   神の乙女が雲の間を飛びながら歌っていました
大和べに 風吹きあげて 雲放(ばな)れ 退(そ)き居(お)りともよ 吾(わ)を忘らすな
   (大和の国の方に風が吹いて雲を吹き飛ばした。離ればなれになっていても私を忘れないでください)
   嶋子は乙女への想いを断ちがたく,再び歌いました
子らに恋いひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 波の音(と)聞こゆ
   (乙女を思って戸を開けて外を眺めていると,常世の浜の波の音が聞こえてくる)
   後の時代の人がこの歌に付け加えて歌いました
水の江の 浦嶋の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば またもあはましを
   (玉手箱を開けなかったらまた会えたのに)
常世べに 雲立ちわたる 多由女 雲はつがめど 我ぞ悲しき
   (常世に向かって雲が流れる。雲は次々に現れるが乙女には会えず悲しい)」
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/urashima.html#fudoki
三千浦市勅島
http://www.ken-office.net/page-ken/hankodai/d_Folder/d-h.html
http://jpn.sacheon.go.kr/01/05.asp
ウガヤ・吹き上げ津とはこうしたものかも。
35出土地不明:2009/01/13(火) 17:31:25 ID:bidVcCYl
「命は温羅の首をはねてさらしたが、温羅は首だけになっても唸り声をあげ続け、命はその肉を犬に食わ
せてそれでも唸り声はやむことが無かったたため吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めたが、やまない唸り
声は13年に渡って釜を鳴らし続けた。」
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/ura.html
髑髏杯
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%91%E9%AB%8F%E6%9D%AF
The oldest record in the Chinese annals of the skull cup tradition among the ancient Xiongnu tells
about the son of the Xiongnu Modu Shanyu, Laoshang (Jizhu), who killed the king of the Yuezhi and,
in accordance with their tradition, "made a drinking cup out of his skull" (Shiji 123, ca 161 BC). According to Hanshu 94B, p. 3a, the drinking cup made from the skull of the king of the Yuezhi was
used when the Xiongnu concluded a treaty with two Han ambassadors during the reign of Emperor
Yuan (49-33 BCE). To seal the convention, the Chinese ambassadors drank blood from the cup with
the Xiongnu chiefs. Chavannes also quotes Livy to illustrate the ceremonial use of such skull cups
by the Boii, a Celtic tribe in Europe in 216 BCE.[1]
http://en.wikipedia.org/wiki/Skull_cup
要するに吉備に入ったのは匈奴であったということ。
36出土地不明:2009/01/13(火) 17:43:24 ID:bidVcCYl
>>21
高霊軍の捕虜になったアルタイ積石墳文化の屈射族が、始皇帝陵建設設計思想を持った秦・滑
亡命人のスーパーヴァイジングの下に開始してのが前方後円墳文化だといえようか。
37出土地不明:2009/01/14(水) 11:01:41 ID:kYSzzyI+
「◇狗奴(くな)国
 邪馬台国と狗奴国について魏志倭人伝は「(正始)八(二四七)年、倭の女王卑弥呼、狗奴国の男女と
素(もと)より和せず」と記述。両国が対立し、戦争状態だったことを伝えている。
 ノムギ古墳が築造された三世紀後半は、すでにこの戦後の時期にあたる。赤塚氏は「狗奴国は戦いに
敗れたかもしれないが、無条件降伏ではなかった」と推測する。
 最古級の前方後円墳に詳しい奈良文化財保存課の寺沢薫主幹は、前方後円墳を東海や狗奴国と結
びつけるのには否定的だ。「前方後円墳は、ヤマト王権を築き上げた人たちのシンボルの墓で、
明治維新に例えると薩長土肥のようなもの。一方、前方後方墳は、外様的な存在で前方後円墳の
被葬者ほどの力はもてなかった」と話す。」
http://www.minami3.com/iseki/03nie/030903nomugi.htm
厳しい交渉と戦闘の後に出雲勢は政界から撤退、冥界の儀式を専らとする宗教界、倭国の幽国とも
いえる出雲の地に、多くの匠は東海・信濃にと撤退したのであろう。「無条件ではなく」オオクニヌシの
霊は大和大国魂として残したようであり、ユーラシア・ノマドの神は牛頭天皇の姿をもって津島神社
近辺に残したようだ。
38出土地不明:2009/01/14(水) 15:45:33 ID:kYSzzyI+
キルギスの研究家によればキビとキムは同じ、つまり、吉備と金は同じと言うことだ。一方、新羅の
王統は 
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/Silla-monarch%284%2C9-14%29.png
丹波の昔氏(七枝刀に書体は崩れて入れるもののこれによく似た文字が倭国王名に使用されてい
る)、瓢公と金氏(吉備氏と言うことになる)が並立しているが、金氏の起源は
「『三国遺事』金閼智脱解王代条に拠れば、永平3年庚申(60年)8月4日、瓠公が夜に月城の西の里を歩
いていたところ、始林の中に大きな光を見たという。紫色の雲が垂れこめており、雲の中から金色の小箱
が降ってきて木の枝に引っかかった。箱から光が差しており、またその木の根元では白い鶏が鳴いてい
た。瓢公はこのことを脱解尼師今に報告したところ、尼師今は始林に出向かった。小箱を開くと中には小
さな男の子がいて、立ち上がった。新羅始祖の赫居世の故事[1]とよく似ていたので、小さな子を表す「閼
智」を名前とした。尼師今はこの子を抱いて王宮へと帰ったが、鳥や獣がついてきて、喜び踊っていた。
吉日を選んでこの子を太子に封じたが、後に婆娑(5代王婆娑尼師今)に譲って、王位にはつかなかっ
た。金の小箱からうまれ出たので、金を姓とした。」これは竹取物語と似ているが、何故丹波出身の瓢公
が登場しなくてはいけないのか。つまり、吉備氏こと、金氏を新羅の始祖に据えたのは丹波の瓢公という
ことを意味していると考えるとわかりやすい。
39出土地不明:2009/01/14(水) 16:54:26 ID:kYSzzyI+
現在Y遺伝子の研究で言われていることは、2,300年前の弥生時代にY遺伝子O-47zが朝鮮半島から
日本に流れるが、この遺伝子の先祖はSRY+465-T(と言う変異を含むもの)というもので、これの研究を
したところ、大体2,800前に弥生人の分岐が始まることが解る。これはSRY+465-Tの中において朝鮮人
のY-STRの多様性が0.832のところ、日本人のそれは0.609であるところから推定されるものといったこと。
金海金氏を祖先に持つ朝鮮人が非常に多いことは時代的に考えてもこうしたY遺伝子の流れとは全く
無関係であり、単に景気のいい金という苗字に人気が集まったことではないのだろうか。
40出土地不明:2009/01/14(水) 17:11:21 ID:kYSzzyI+
屈射韓国はキルギス研究家に依れば金帳汗国と同じと言うことになる。日本人、キルギス人、
カザフスタン人、ウベクスタン人等が一部共通の遺伝子、文化があるということでもっと活発に
国際交流を進めるように関係の学会にこの場を借りてお願いする。
41出土地不明:2009/01/15(木) 12:30:05 ID:7xKxLgvX
笑天〜ワライノテンサイ〜
http://www.orange-mikan.com/index.php?topic=1704.0
42出土地不明:2009/01/15(木) 16:24:56 ID:quC6xCu4
邪馬台国・大和朝廷成立、日本人はどこから来たかの問題は、夕月の民がどこから来たかという
問題でもある。現在の世界の良識でこれを論ずる場合、一つの枠組みとして有効なのは↓
Inner Eurasia as a Unit of World History
http://www.uhpress.hawaii.edu/journals/jwh/jwh052p173.pdf
世界史の一部としてのユーラシア内陸
david christian Macquarie University
マコーリ大学 デービッド・クリスチャン
ではないかと思う。現在では遺伝子も残らず、形質的特徴を特定する人骨もほとんどないが、
東アジアの史書にはモンゴロイドと共にコーカソイド等の異人種が東アジアで活躍していたことを
述べている。ロシア、旧ソ連衛星国の大学者はモンゴロイドとコーカソイドが人種を超えて共生して
いた歴史的事実を述べている。日本も中近東もインドも西欧も内部ユーラシアの遊牧文化がヘルニア
の如くギョロッと飛び出してきた現象を体験している。蒙古襲来、バルチック艦隊は確かに撃退しては
いるものの、ボーダーレスで、国家のない時代、対馬に入国管理事務所があるわけではなかった。
なるようになったのであろう。ただアマテラスとスサノオの神話を読む限り、日本には神話時代から
相当の浄化能力があったような感じだ。
43出土地不明:2009/01/15(木) 16:45:13 ID:quC6xCu4
>>38 >つまり、吉備氏こと、金氏を新羅の始祖に据えたのは丹波の瓢公という
>ことを意味していると考えるとわかりやすい。
気比というと敦賀と思われるが、丹後半島にも気比という地名、神社はある。丹後半島の籠神社は
前漢の連弧文昭明鏡(明光鏡)という、九州でも見られない銅鏡を伝世している。
44出土地不明:2009/01/16(金) 12:15:19 ID:R/1oYbOx
屈射の所在地を漢籍から見つけることは難しい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dinlins
前2世紀、彼らは他の26部族と共に冒頓単于に降り、このうちに月氏及び烏孫がるが、それら部族の名
称はほとんどわかっていない。匈奴帝国(及び丁霊領土)北方には後の史書ではイェニセイ・キルギズス
とされTannu Uriankhai周辺イェニセイ河本流流域に居住するGekun (鬲昆)があった。そのはるか西方イ
ルティッシュ流域にはHujie (呼?)が居住していた。匈奴の北方には他にもHunyu (??), Qushe (屈射), Xinli
(薪犁) があるが、中国史書は羅列するのみでそれらの詳しい所在地は不明である。・・・こんなものだ。
45出土地不明:2009/01/16(金) 12:17:45 ID:R/1oYbOx
ここで中世アラビア・ペルシャ史書を見てみよう。
http://www.amazines.com/Kimek_related.html
Kimek又はKimak (Yemek, Yamak, Djamuk) アラブ及びペルシャ中世地理学者及び文筆家にはチュルク
部族の一つであり、AD743-1050年頃Kimak Kaganate(汗国)7部族の一つとして知られているもの。その
他の6つの構成部族は、Abu Said Gardizi (1061年没)によればYamak, Kipchaks, Tatars, Bayandur, L
anikaz, Ajlad。中世の中国地理学者はKimakという民族名を知ららず、同様にChumuhun及びU"eban
(Pinyin ではYueban)はアラビア及びペルシャの地理学者に知られていないが、これらは全て同一の
Kimak族を意味している。共通名称KimekはImi 族及びImek族という2つの部族の合同体に由来する。"Kimek"と言う言葉で単独部族を自己表現することはない。Imi及びImekはアムール河(黒竜江)
支流Argun川峡谷に流入するImi 川にちなむ名称。Marquartはチュルク語によって"2つのImek"を意味
するKima"k Iki Ima"kが語源でないかとする。中国史書はU"eban悦般諸族を「弱い匈奴」と呼び、
Chumuhunもそれに含めている。AD155-166年、鮮卑が建国、ウスリー江からボルガ川及びウラル
山脈に6500 km広がり、漢の領土も占拠した。この後、後のKipchakであるDingling丁霊はSayan山脈
に押し込まれ、歴史から影を潜めた。最強の新ウゴール・コーカサス連合軍フン族は欧州に達し、
アラン及びゴートを支配した。「弱い匈奴」悦般はJety-Suに留まり、公国を設立、ADまで存続。フンに
惨敗する多くの欧州人には凶盗の悪名をとどろかしたが、中国の史家は彼らを「蛮族」にあっては最も
文化的なものと評した。AD2世紀悦般フンは Tarbagataiに駐在し、その後Jety-Suに移る。AD5世紀
悦般フンはウイグルに征圧され、Chuu"e, Chumi, Chumugun, Chubanの4族に分かれる。AD436年ま
でにJety-Suの中央アジアフンはU"eban悦般と称する地域を形成し、 Jujanに対する同盟形成を期して
中国に使者を派遣。A.N. Bernshtamはこれらの民族を、関係するChuu"e, Chumi, Chumugunといった
Chuy系諸族、Chuban及び(Chuu"eの末裔)Shato の2支部、といった全てフンの末裔であるChubanと
いう部族としている。Chuu"e族の一部はTu"rku"tと交わり、Shato族と呼ばれるものを形成、これは
Dzungaria南部、バイカル湖西部に居住。Chuy系部族はAD8世紀から連合集団として知られている。
Western Turkic KhaganateにおいてChuy族は連合集団の内部において決定力を持つ地歩を築いた。
Shato Turksは7世紀半ばにChuu"eを離脱、現在、帝政ロシアの、及び、20世紀の国勢調査でも有名な
少数民族として名高い。・・・とある。
46出土地不明:2009/01/16(金) 12:23:35 ID:R/1oYbOx
「共通名称KimekはImi 族及びImek族という2つの部族の合同体に由来する。"Kimek"と言う言葉で単独
部族を自己表現することはない。Imi及びImekはアムール河(黒竜江)支流Argun川峡谷に流入するImi
川にちなむ名称。Marquartはチュルク語によって"2つのImek"を意味するKima"k Iki Ima"kが語源でな
いかとする。」

ここにいう「Imi及びImekはアムール河(黒竜江)支流Argun川峡谷に流入するImi 川にちな
む名称。」ということは金海に入る屈射族の原郷としてはピッタリ来るものである。山海経にある倭、
Y−DNAにおいけるダウール、朝鮮、日本の共通性、バイカルの突帯文土器文化とも符合する。
47出土地不明:2009/01/16(金) 12:37:08 ID:R/1oYbOx
他方、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E7%9F%B3%E6%A7%90
桓帝の後継者である霊帝も177年(熹平六年)に夏育を護烏丸校尉に、田晏を破鮮卑中郎将に、臧旻を
匈奴中郎将に任命し、大軍を率いさせて再度鮮卑に遠征させた。彼等は鮮卑と対決関係にあった南匈
奴の屠特若尸逐就単于と共に檀石槐を迎え撃たせた。ところがこの戦いでも檀石槐は采配を発揮し、
大半の漢軍を屠り、さらに屠特若尸逐就単于も戦死する有様であったという。
ところが鮮卑は連戦連勝をしながらも食料難に陥ってしまったという。そこで檀石槐は肥沃な土地を求め
て秦水方面に移動した。秦水は四方の河に分かれ、中に魚がいるものの鮮卑には魚を捕獲する技術が
皆無だったために、不可能だった。そこで檀石槐は一案を出して、現地にいた倭人(または?人)を奴隷と
して、魚を捕獲させ、食料難を解決したという。秦水が現在のどの辺りかは確認はできないが、おそらく
現在の北朝鮮に当たる地域だったと思われる。
----------------------------------------------------------------------------------
戦前の満州経営、、戦後の東北開発を通じ「秦水は四方の河に分かれ」でピンと来るのは三江平原で
ある。吉林の東にあるのだが一筋縄では行くものでない。特に食料補給に最初の問題が発生するのは
手に取るように解る。・・・問題は倭人であるが、これは山海経の倭人であり、黒竜江の支流、今の
ブリャート方面で漁労を営んでいた部族に他ならない。では、何故これが倭人なのかを考えると、倭人
とはバイカルから金海に移動を繰り返す民族という認識があったと考えざるを獲ない。つまり、金海
(Kimek)、吉備、気比は少なくとも同じものである。
48出土地不明:2009/01/16(金) 12:53:38 ID:R/1oYbOx
>>38 金氏始祖伝説/竹取物語 参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E
竹取の翁は、物語の中で「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれていたとある。ここから、物語において
は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町)に竹取の翁が居住していた、とするのが
通説となっている。
ほかにも日本各地に竹取物語由来の地と名乗る地域があり、竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまち
づくりを行っている。また以下の7市町では「かぐや姫サミット」という地域間交流が定期的に開催されて
いる。
静岡県富士市
奈良県広陵町
京都府向日市
香川県長尾町(現さぬき市)
岡山県真備町(現倉敷市)
広島県竹原市
鹿児島県宮之城町(現さつま町)
・・・これは竹取伝承の分布であるが、竹取の翁は、物語の中で「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれて
いたとある。・・・このことに留意すると、これが忌部氏と関係を持つことに気が付く。
49出土地不明:2009/01/16(金) 13:02:16 ID:R/1oYbOx
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E6%B0%8F
氏族は多数に及び、各地に広がっている。九州・紀伊半島・四国・房総半島などに勢力をもった。 天日
鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波国の阿波忌部氏、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖
とする讃岐国の讃岐忌部氏、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする紀伊忌部氏、櫛明玉命(くしあか
るたまのみこと)を祖とする出雲国の玉作氏(たまつくりし)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖と
する筑紫国・伊勢国の忌部氏などがいた。 また、四国の阿波と房総半島の安房が何れも「あわ」と読む
のは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。北陸(越前国)、 山陰(出雲国、
隠岐国)、山陽(備前国)などにも忌部氏はいるが前者の氏族とは同族かどうか未だ明言はしがたい。
竹取物語流布本にかぐや姫の名付け親を「みむろとのいんべのあきた」(三室戸の斎部の秋田)とあり、
また竹取の翁の名を「さぬきのみやつこ」とあるのを、この氏族と結びつけ、作者を忌部氏の人とする説
や、讃岐忌部と作者の関係を指摘する説がある。
織田氏は劔神社の神官である越前忌部(斎部)氏の支流(あるいは越前藤原氏とも)であるが、後に桓武
平氏の系統と仮冒した。長徳4年(998年)3月21日、藤原行成の「権記」に越前劒大神宮神主 伊部守忠と
いう名前が見える。
四国の阿波、房総の安房に限らず、地名に関する事も多く、員弁(いなべ)など三重県や奈良県にも同氏
から付けられた地名を残している。
姓ははじめ首(おびと)だったが、天武天皇9年(680年)1月8日に、連(むらじ)の姓を与えられた。天武
天皇13年(684年)12月2日に他の連姓の50氏とともに宿禰(すくね)になった。
『日本逸史』によると、延暦22年(803年)3月に「忌部」から「斎部」に改めた。正六位上斎部宿祢浜成の
願出によるという。浜成の伝記は伝わってないが、『古語拾遺』の選者斎部広成と同一人物という説も
ある。・・・ >>46 忌部は黒竜江アルグン川のImi及びImek川流域の出自であり、金海伽耶、吉備、阿讃播
を経由、古墳文化を建設した民族と見て間違いない。その同胞は欧州を席巻したフン・ユーラシアを征圧
したタタール・モンゴルの一部であった。



50出土地不明:2009/01/18(日) 09:43:17 ID:rZGKJm8a
「3世紀末、洛東江下流域−金海・釜山−への北方文化の影響を述べられ、
@殉葬、 A厚葬(土器の多量埋葬)の習俗、 B陶質土器、 C鉄製甲冑、 D騎馬用馬具、 E歩揺
付金銅冠、 F「オルドス」形ふくといった物質文化、そして、これら@〜Fの文化を持った「金海型木槨
墓」が、先行の墳墓を破壊しながら造営されているとされましたのは、前述のとおり。この報告では、「日
本列島系土器」の流入について、これが加耶建設の時期とするならば、「日本列島各地から加耶建設に
動員された倭人集団」の存在を意味するということです。」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.2.html
>>38 >>48 と照らして考えると「「日本列島各地から加耶建設に動員された倭人集団」の存在」とは、
瓢公というのは3世紀末の列島でこれほどの動員能力を持ったれっきとした初期大和朝廷の重鎮とな
るが・・・謎が深まる。
51出土地不明:2009/01/18(日) 12:36:00 ID:rZGKJm8a
最もライクリーなキャラとしては丹波道主王↓があげられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E9%81%93%E4%B8%BB%E7%8E%8B
52出土地不明:2009/01/18(日) 15:18:33 ID:rZGKJm8a
>>50
「先行墳墓破壊風習を持つ木槨墓」文化は冒頓単于の屈射、堅昆等の征圧により、バイカルからイェニ
セイ、モンゴル西部に移動、最終的にはオビ河上流セミレチエ方面で悦般を形成、それが、吐谷渾、
前秦、渡来人秦氏等の介在により継体王朝時代に横穴装飾古墳文化と共に日本に渡来するということに
なるようだ。極めてアナクロなスキタイ期の箱式石棺墓、突帯文土器等が東方からアルタイ地方に出現し、
現地考古学者が大いに首をひねり、堅昆(キルギス)が来たのではないかと推測している。
53出土地不明:2009/01/18(日) 15:41:23 ID:rZGKJm8a
「先行墳墓破壊風習」は考古学的に認められた現象であり、
「明治9年、西殿塚古墳が第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田陵に治定
された。その根拠は不明である。宮内庁は現在、この古墳を手白香皇女衾田陵として管理している。」
http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/fusumada_ryo.htm
この古墳が手白香皇女のものであるとすると、それはこの慣行を実行に映したもので、少なくとも、
継体天皇を取り巻く環境は古い匈奴の風習であるといえる。ホケノ山古墳、西殿塚古墳が大和朝廷の
始祖的な存在の陵墓であると言う認識が存在したのではなかろうか。
54出土地不明:2009/01/18(日) 15:55:11 ID:rZGKJm8a
消去法で西殿塚古墳被葬者を推量して見ると卑弥呼クラスでは倭人伝で言われるイヨ/トヨとなるが、
あまり女王ばかりでは今後の男性遺伝子が劣化するというようなことを予感したのかどうか・・・
今夜のNHKで又考えてみることにしたい。
55出土地不明:2009/01/18(日) 16:04:36 ID:rZGKJm8a
横穴古墳の数だけの渡来人が来たということではなく、古墳建設ビジネスがそれだけ普及してきた
と言うことであり、邪馬台国は大和説が定着していたということの証明であるとも言える。系図等に
も相当うるさくなってきたということか。万世一系を補強する方向でとらええるべきであろう。
56出土地不明:2009/01/18(日) 23:14:21 ID:rS9bmDH/
シュメール、スキタイ、古代イスラエル等の王家とその忠臣が日本列島に避難して来て一時的に安住し、現地住民の助けや王家どうしの協力、連携によって大和朝廷を成立させるが、後に朝鮮半島から渡来した好戦的な蛮族によって大和朝廷が乗っ取られたわけなんですね。
57出土地不明:2009/01/18(日) 23:16:11 ID:sa+6vYC5
>>56
その後、何度も朝鮮半島や中国の渡来蛮族によって王朝が交代して現在に至ってますが、大和朝廷開祖の真の王家連合は密かに北の最果てに向い、北極のある場所からヤハウェイに導かれてエデンの園に到達、その地にアルザルと呼ばれる弥生系日本人の国を建国したわけなんです。
58出土地不明:2009/01/19(月) 09:19:50 ID:Ub3wmk9x
鼻の大きなシュメールはマソポタミア・マルギアナを中心に文明を築き、それはバクトリアから
夏・殷、更には半島、列島に遊牧民を介在して文化的影響を与えているが、エジプト文明への
影響の方が直接的で、更に大きい。スキタイは形質的にはコーカソイドであるが、ライフスタイルで
モンゴリア高原のモンゴロイド遊牧民・農耕民に影響を与え、匈奴を生む。言語がアルタイ語と
なったコーカソイドがタタールだが、匈奴の環境から生まれる。パレスチナから北方に移動する
セム語遊牧民に生まれる宗教がユダヤ教徒であり、宗教として遊牧民の中に広まる。バクトリア・
マルギアナの北方に形成される遊牧民は拝火教・ミトラス教・ユダヤ教等複数の宗教の影響
を受けている。
59出土地不明:2009/01/19(月) 16:45:42 ID:Ub3wmk9x
>>52
>バイカルからイェニセイ、モンゴル西部に移動、最終的にはオビ河上流セミレチエ方面で悦般を形成、
>それが、吐谷渾、 前秦、渡来人秦氏等の介在により継体王朝時代に横穴装飾古墳文化と共に日本に
>渡来する
これを自己批判すると、あまりにもややこしい。柔然によってショートカットできる。問題は毛野地方の埴輪
に見られる鷹使い、シルクハットのエフタル武人像、近江毛野に対する磐井の「共闘の同志」という
意味の捨て台詞、高句麗を考えると、エフタルを含む柔然の残党であって、高句麗の対隋戦略の弾みで
半島を南下したものではなかろうか。
60出土地不明:2009/01/19(月) 17:00:43 ID:Ub3wmk9x
↓AD510年頃百済において匈奴型石室墳-磚室墳に画期が出現する。これはBC2世紀からトゥーヴァ
ウルグ・ヘムにおいてタイムカプセルに入っていたもの。
百済 年代 熊津時代前半
(475〜510) 熊津時代後半
(510〜538)
磚室墓 なし 新登場→王陵
宋山里型石室 新登場→王陵 →貴族墓に転落
→日本
表井里型石室など 貴族墓
→日本 貴族墓
→日本
日本(畿内) 須恵器 TK23〜TK47がここに収まる
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0077.html
柔然の最後の年号
郁久閭醜奴508-520 (建昌 ) 508-520
http://en.wikipedia.org/wiki/Rouran
61出土地不明:2009/01/19(月) 17:13:26 ID:Ub3wmk9x
藹苦蓋(斛律)(410年 - 414年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E7%84%B6
木羅斤資
http://www.okunomasao.com/sogasi.html
↑この類似も気がかりだ。
62出土地不明:2009/01/20(火) 16:13:57 ID:8TCO5JvQ
冒頓単于の渾ゆ(こんゆ)・屈射(くつしゃ)・丁零(ていれい)・堅昆(けんこん)・薪犂 (しんり)諸国「北伐」
の裏付けのようにこの頃ザバイカルからトゥーヴァ及びタガール文化チェシン期のミヌシンスク盆地に
「時代錯誤的」突帯文土器、石棺墓、奇習である「先行墳墓追葬風習」、磚室墓、石室墳、ドーム形石
室墳、葬送動物石像、葬送傘壁画、軍事編成用と考えられる「か帯金具」を持つ文化が流入、匈奴文化
の突厥文化への移行が始まる。
63出土地不明:2009/01/20(火) 16:21:58 ID:8TCO5JvQ
日本では邪馬台国・大和朝廷成立の前夜、吉備において墳頂に東胡地域の石板墓に似る突厥形の
中円双方墳・楯築古墳が放棄され、月氏・匈奴の髑髏杯合戦のような伝承を残し、月氏・パジリク風の
円墳構造と戎の慣習を取り入れたような前方後円墳が邪馬台国・大和朝廷の誕生を象徴するが如く
奈良盆地東南部において開始される。
64出土地不明:2009/01/20(火) 16:28:43 ID:8TCO5JvQ
その後 >>62 のような文化は、YAP遺伝子の流れの如く朝鮮半島をスキップして、継体朝の日本に
流入。急速に国家の制度化が進む。こうしたことの背景には何があるのかを考えて >>59 のようなこと
ではないかと考える次第なんだが。
65出土地不明:2009/01/20(火) 17:01:12 ID:8TCO5JvQ
「出雲日御碕天神宮社記によると人皇第七代孝霊天皇の61年11月15日、日御碕の海上に数十隻の
軍船が襲来った。 これは神代の昔八束水臣津野命(やつかみずおみのみこと)が新羅國から持ち来っ
た日御碕の地(出雲風土記にある)を恢復すべく月支國(げっしこく)の彦玻瓊王(ひこはにおう)が攻めて
きたのである。よって天葺根命(あめふきねのみこと〜宮司家の祖神)11世の孫、明速祇命(あきははぎ
のみこと)は必死の勇を奮って防戦につとめられた。 この時「上の本社」に鎮まります素盞鳴(すさの
おの)神様は天上より大風を発し神威を振はせられたのでさすが猛り狂う月支國の軍艦も大破沈没して
彦玻瓊王は大敗したという。この故事により災厄避除悪魔退散の御守としてこれを広く頒布するもで
ある。」
http://www.eonet.ne.jp/~i-kimoto/Furusato/32simane.htm
66出土地不明:2009/01/20(火) 17:23:25 ID:8TCO5JvQ
金首露王妃陵 金首露王陵の隣にある。伝説によれば、インド阿踰?(アユタ)国の王女で、許黄玉(ホファ
ンオク)という。両親が夢で「駕洛国の首露王は、天から下りてきて王になった神聖な人であるが、まだ
伴侶がいない。そこでお前の娘を送れ」と上帝からいわれた。さらに目が覚めてから、再び声が聞こえて
きたので、はるばる船で金海まできたという。48年に首露と結婚した後、189年に157歳で亡くなったという。
古墳は 1641年に修築されたもので、わきには王妃がアユタ国から持ってきたとされる石塔が建ってい
る。婆娑(??:パサ)石塔といい、韓国では他でみることの出来ない形式の石塔である。インドの石と言う。
金海虎渓寺(?? ?:ホゲザ)に建てられていたものを移してきた。
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/gimae_004.htm
67出土地不明:2009/01/20(火) 17:36:11 ID:8TCO5JvQ
紀元前162年には冒頓の息子老上単于による攻撃を受けて、月氏の王が殺され、匈奴は王の首を持ち
帰り、>>63 頭蓋骨をくり抜いて、酒の杯にした(これはアジアの遊牧民族で広くみられる風習であること
が資料から読み取れる)と言う。・・・また中国への仏教伝来についての一説に、紀元前2年に大月氏国
王の使者伊存(いそん)が、『浮屠教』と言う経典を景蘆に口伝した、と言うものがありこれが諸説の中で
もっとも早いものとなっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%88%E6%B0%8F
68出土地不明:2009/01/22(木) 12:19:32 ID:RwjZUuw/
アマテラスのスサノオ追放はアルタイ上クマンディン族部族における保護神Payne霊魂への白馬生贄奉
献儀式へのアンチテーゼに他ならない。纒向建設の前夜東海土器圏には土器文様習得における共鳴
のような現象が見られるとされるが、纒向に集結する搬入土器は弥生全域からのものであり、当時
革命的な出来事が発生した事実を物語る。それは神話においてスサノオ政権打破、共和党政権打破、
であり、新たに民主党オバマ大統領のような新機軸が誕生したことを表す。それは平原の太陽を象徴
する鏡技術が、殷の傭兵の如き物部(矛を持つ軍事組織)と共に政権の座に着いたことを語る。これをも
って四隅突出型墳丘墓文化は歴史の表舞台から引退し、テキサスならぬ出雲に落ち着く。
69出土地不明:2009/01/22(木) 12:29:46 ID:RwjZUuw/
これは銅鐸文化が鏡文化(イミテーションによる鏡が多かったようではあるが)に変わることを意味する。
しかし、それは同一民族の内部において変化がおきることであり、騎馬民族の移動がなくては収まらない
大陸とは事情が違う。大和朝廷の基礎となる思想が固まり、それ以降全国に広まってゆくことを意味する。
70出土地不明:2009/01/22(木) 13:06:27 ID:RwjZUuw/
伊勢の瀬織津姫が次第に接近する倭姫にに押され、伊勢湾東方に引退、最終的には東北に
落ち着くがこの背景にある白山・白犬・駒ケ岳信仰は天孫・地祇とは異なり、ジョンガル(カルムィク)
とか、バシコルトの系統の神話を持つ。これが狗奴族であろう。しかし、天孫、地祇、狗奴に共通する
のは浪花節・喉歌であり、アイヌ・アラスカ原住民にも共通する。
ホーミー
http://majyo3com.ddo.jp/List.files/%83z%81%5B%83~%81%5B/%83z%81%5B%83~%81%5B.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%BC
ホーハイ節
http://myn.north-tohoku.gr.jp/kodawari/db06-m003-t002.php3
71出土地不明:2009/01/22(木) 13:13:33 ID:RwjZUuw/
最近韓国の青銅器文化を刻目突帯文土器とリンクさせようとする動きがあるが、バイカル湖周辺では
ほぼ縄文草創期から中世にいたるまで続いており、意味がない。あくまでも日本のように縄文土器と
弥生・無文土器との境目に登場する土器としてとらえるのが正しいと思う。
72出土地不明:2009/01/22(木) 13:30:12 ID:RwjZUuw/
天孫とは邪馬台国時代に現れる概念だが、日本列島に最も古く渡来するのは弥生・箕子朝鮮開始時代
であり、この頃、燕の存在した綏遠・遼西地方は古くから鹿トーテムがあり、それに鳥トーテム、豚トー
テムが加わる。神武、モモソヒメの父、高霊は鳥と因縁が深く、崇神は猪・贄である。鹿は東北から関東
を経由して大和に入る。初期古墳には鳥を模った出土品が多いので天孫は殷に近い東夷、高夷といった
ものではなかろうか。馬韓の百済・扶余は遼西方面からではないか。
73出土地不明:2009/01/22(木) 13:41:14 ID:RwjZUuw/
黒犬・ダビデ教と関係するのはウズベキスタン(ホレズム)方面であり、この地方と秦氏の犬丘のある
甘粛とは距離的に近い。この地方は四川・雲南・ビルマ・タイなどに繋がる茶馬古道とシルクロードの
ジャンクションである。
74出土地不明:2009/01/22(木) 15:42:58 ID:RwjZUuw/
Kumandと言う呼称、記紀にもクマヒトと言うのが現れるが、これは自称ではなく、近隣のTubalar族、
Shorts族、Telengit族、 Chelkants族が同族中の主要であり、最大である部族をクマンディン族をこのよう
に呼ぶことに由来するが、クマンディン族の自称はTatar- Kijiであり、Kijiとはアルタイ語で人を意味す
る。他の説によれば、クマンディンとは白鳥の意味で、白鳥をトーテムとするという意味とされる。ポロ
ヴェッツ、キプチャクの別称Kumanは完全にクマンディンと合致している。日本語の狛、高麗とも一致
する。その起源はKet族であり、コーカソイドでなかろうかとする説もある。日本では気多大はスサノオが
招いたものとする伝承が気多大社に残る。その居住地はBiy川中流で、一方、アルタイ語ではシャー
マンのことをKamといい、鴨のことを北アルタイ語ではurtek(urはケト語で水)、南アルタイ語では
su-gush(suはチュルク語で水)という。すると日本の神社名称の素鵞は漢字の意味からすれば白鳥
であるが、読みからすれば南アルタイ語の鴨に通ずる。日本の東北にもこの2社が対になっているところ
が多い。
素鵞熊野神社
http://www.cafefishing.com/look/gionsairei.html
素鵞神社
http://www.oyashiro.or.jp/link/0004.html
素鵞熊野神社
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ib1sgk.htm
熊野賀茂神社
http://www.kamojinja.org/map/index.htm
75出土地不明:2009/01/22(木) 16:00:43 ID:RwjZUuw/
Tubalarというのは円氏とか、ツブラサシ(佐渡のコンタン踊りににたもの)に共通するものを持つが、
豊穣儀式としてのホダレ祭りをKochakananといってそっくり同じ形で現在も維持しているとされる。
こうしたことの一致は偶然ではなくクマンディン族が少なくとも四隅突出型墳丘墓文化時代から
出雲を拠点として存在したことを物語るものといえる。さらに、タラシ、クル、フルと言う言葉には
帯に意味があるが、これにはシャーマンの使用する結界を超越し、異界を旅行する呪具という
重要な意味がある。フル川は結界の川、三途の川と言うことになる。氷塊が雷を起こしながら
北に流れるイェニセイ川以外に三途の川にぴったりなものはない。氷川神社は簸川神社で
Biy川のことであろう。古代の謎はアルタイ語で氷解する。
76出土地不明:2009/01/22(木) 16:09:53 ID:RwjZUuw/
他にも、銅、青銅、筒に魔よけの効力があるという信仰もあり、朝鮮半島、日本の青銅器埋納慣習の
起源を物語る。
77出土地不明:2009/01/22(木) 16:32:56 ID:RwjZUuw/
>キプチャクの別称Kumanは完全にクマンディンと合致している。
金海、球磨、久万はKu+ma(n)から来るが、このうちのKuと犬を意味するイラン語sak、これは大僻神社
等に残るが、これが一緒になって日下部、拘邪韓國となるのではと推察するのは私の自説である。
これは越と言う形になり、そのKuは出羽の羽に残る白鳥によって意味が出てくる。つまり、白鳥+犬の
習合形と考える。秦氏と鴨氏の関係は既にユーラシアの奥地で発生していたのかも。
78出土地不明:2009/01/23(金) 15:18:34 ID:hYjVGJ0u
>>75 三途の川
「死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・
宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の
順番で一回ずつ審理を担当する。ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は
無く、抜けて転生していく事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最
終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の
語源となった。
七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周
忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になって
おり、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても
助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。
なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行
うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすための受け皿として機能し
ていたようだ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B%E4%BF%A1%E4%BB%B0
79出土地不明:2009/01/23(金) 15:28:54 ID:hYjVGJ0u
現在の日米裁判制度を基に弁護士団体の利益を考えている官僚が代筆した法案が通ったとか、或いは、
セレモニアル産業、佛・神・基督等の代表が業界の利益を考慮して談合した裏のお経、つまり、こうしたこ
とをお経に盛り込むという談合行動規範といった感じがする。消費者側・信徒側にはいくらお金があっても
足りないというお経であり、作成されたのは相当現代に近いのではと言う感じがする。しかし、よく考えると
クリスマスの起源、エジプトの死生観、始皇帝時代の法家といったものが入っているということもありえる。
不可思議なお経だ。
80出土地不明:2009/01/23(金) 15:52:01 ID:hYjVGJ0u
「三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる(「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山の
ものをはじめとして、日本各地に存在する)。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報
いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による
塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いても
その繰り返しになってしまうという俗信がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E3%81%AE%E5%B7%9D
遼東の高句麗、阿讃播・奈良盆地における石積墳の開始はアルタイ方面から来たものとすると、それは
宗教の伝来であって、民族移動ではないのかもしれない。その石積宗教を持っていたのが四隅突出型
墳丘墓・出雲族ではないだろうか。
81出土地不明:2009/01/23(金) 16:42:26 ID:n43dJBX2
>>72
天孫は奈良・飛鳥時代の概念
勝手に遡らせるな
82出土地不明:2009/01/23(金) 18:00:32 ID:hYjVGJ0u
天円地方は日本で生まれるのではない。前方後円墳には織り込まれている。
83出土地不明:2009/01/23(金) 18:01:37 ID:hYjVGJ0u
記紀では神武天皇がよく使う言葉。
84出土地不明:2009/01/23(金) 18:14:48 ID:Mzbv109w

【歴史】淡路島で発掘。弥生時代の鉄製品加工拠点みつかる。国内最大級
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1232689257/

【社会】弥生時代最大級の鍛冶工房跡、淡路島で出土…砥石や鉄板も[01/22]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1232632812/
85出土地不明:2009/01/23(金) 18:26:08 ID:hYjVGJ0u
>>80
>完成する前に鬼が来て塔を破壊し
求菩提山、鬼の窟、五社堂伝説によく似た話があるが、五社堂は漢武帝の頃としている。

86出土地不明:2009/01/24(土) 11:54:41 ID:oJqxUp+m
エジプトの屈折ピラミッドから真正ピラミッドへの移行期には星辰信仰と太陽信仰の対立があったと
いうが、月氏vs匈奴にはモンゴリアを東西に二分する天円vs地方の対立が見られるとされる。
エジプトのシリウス信仰はバシコルドによってエジプトに導入されたとする説もある。日本には
岩手県にストーンサークルとクロマンタというピラミッド信仰の跡がある。古代のナビゲーションには
昼間の太陽観測と夜の星空観測の2つのチームが連絡しあう必要があったはずである。この天体観測
能力をナイル川のような巨大な農業経済社会に提供するものとしてのバシコルド族の存在意義は
大きかったのかもしれない。
87出土地不明:2009/01/24(土) 12:07:12 ID:oJqxUp+m
>>76
アルタイ・クマンディン族の強力なフェチシズムはスサノオ、神武に出てくる剣、銅剣へのフェチシズム
であり、それには部族の魂が宿るとされていた。出雲族は天孫族体制に並立する鎌倉幕府的存在は
許されず、天孫体制の下部構造に編入された。とは言うもののアンチテーゼのみのノンポリな天孫は
依然として多くの神学を出雲族の知識に頼っていたようであり、独自の神学は持っていなかったのだろう。
要するに後発的な近畿地方の豪族と言うのが天孫の正体ではないだろうか。
88出土地不明:2009/01/24(土) 12:36:05 ID:QTRbtQlq
あーあ、馬鹿な団塊が湧いてる
89出土地不明:2009/01/26(月) 12:35:43 ID:UXnqqPgR
基本的には↓ここに述べられている通り。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku2.htm
興安嶺東部、扶余の原郷にあった東夷・東胡諸族はオルドスから北進する匈奴に押され四方に移動する。
そのうちの最も初期の編成を保ったのがアルタイ、及び、畿内に庄内式土器、古墳をもたらす安曇海人族
であり、沸流扶余、邑婁、シ歳等が金海で合流し、近畿銅鐸圏に北部九州銅剣銅矛銅鏡文化を持ち込み
中央集権を作って行く。邑婁は楢山節考に出てくる棄老習慣を持っているが、民族生き残りのためには
死をも恐れないという美徳であり、日本の武士道等に通じる。また、豚を極めて活用し、葬礼の供物、皮革
油脂の耐寒用衣服への使用、「土蜘蛛」と見られる深い縦穴住居を特徴としている。九州・甲信越に入っ
ている感じであり、崇神「猪贄」もこれかもしれない。勿論、ゲルマン民族大移動というより、九州で
編成される物部軍団の近衛兵への登用とか、古墳建設要員・忌部の集団移動はあったであろうが、
近畿の庄内土器への変貌は在地弥生土器が時代の流れで変貌することを示すのであろう。
90出土地不明:2009/01/27(火) 16:43:02 ID:WWzFWq+r
上総・武蔵・毛野方面の埴輪には肩に猛禽を止まらす広縁帽子の武人像があるが、これはエフタル。
エフタルの祖先は月氏。月氏の名称を持つ国は百済にあった。始皇帝の秦は昔から犬戎・月氏に
依存するところがあり、応神朝に渡来する秦氏の背後には百済の月氏があったものと考えられる。
更に、烏孫、突厥阿史那氏は古代ローマと共通する狼に育てられた子供の伝承を持つ。これは
新羅・飛鳥とローマを結ぶもので、新羅と前秦の外交関係によって補強されたものであろう。
推古・斎明朝にトカラ方面から渡来人が来るのはこうした技術の流入の歴史を物語る。
91出土地不明:2009/01/31(土) 22:47:52 ID:11Er68h7
>>1
邪馬台国=大和国

高天原=葛城=現在の御所市周辺
高千穂=日向=現在の宮崎

天津=高天原(葛城周辺)
国津=高天原以外の日本各地

天神=高天原王家の譜代の家臣出身の豪族
天孫=高天原王家の親族の豪族
地祇=高天原以外の日本各地(国津)の豪族
諸蕃=日本以外から渡来した帰化豪族
92出土地不明:2009/02/01(日) 08:51:56 ID:/99+xVna
【考古学】 おーい、邪馬台国が見つかったゾーーー
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1233391757/

邪馬台国見つかるか 奈良・纒向遺跡中心部を再調査へ
93出土地不明:2009/02/01(日) 17:35:17 ID:mKOu2uog
初期前方後円墳の前方部が撥形であるのはエジプトのアピス信仰の太陽を頭上に頂く牛のイメージ
と合致し、倭国が殷の亡民、東夷諸族の知識の上に古墳時代を始めることと関係する。これは小河墓
で女王クラスの女性ミイラが牛の生皮で包まれた棺、牛の頭を足元に置いた形で埋葬されていること、
婦好のような司馬を考慮すると殷を構成していた東夷諸族のしきたりに依ったものと思えるが、千年も
前の慣習を持ち続けたのかと考えるとことは単純でない。高句麗好太王のエジプト古王朝階段ピラミッド
のことを考えるとさらに不思議である。他方、始皇帝陵建設にはソグド人系が参加しているが、バクトリア
は後にギリシャ・ローマ時代にエジプトと同じ国家となる。アレクサンダー3世はエジプトでアピスの祭典を
挙行している。ソグド人にエジプト・サッカラのピラミッドとか、アピスの紋章に知識があっても不思議では
ない。ましてや、関東の古墳からはソグド人と同系統であるエフタルの装束の埴輪が出土している。
94出土地不明:2009/02/01(日) 17:38:57 ID:mKOu2uog
日本における牛信仰は牛頭天王を祀る八坂神社で守り続けられている。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/shrine/04.html
八坂神社こそ卑弥呼の宗教を継承するものといえるのかもしれない。
95出土地不明:2009/02/01(日) 17:42:35 ID:mKOu2uog
渡来人東漢氏は神牛の教えに導かれて日本に渡来したといった。善光寺というのはペルシャ語で
意訳すればアフラ・マツダ寺であるが、牛に引かれて善光寺と言う伝承を残し、関係する寺には
ミトラス教を髣髴さす石窟のようなところがある。
96出土地不明:2009/02/01(日) 21:04:26 ID:C5axQhqv
神武天皇は熊襲だ!
こう考えるとなにもかもが見えてくるぞ。
97出土地不明:2009/02/01(日) 21:06:19 ID:C5axQhqv
ウガヤフキアエズ王朝はマキムクに神武以前から存在していた
98出土地不明:2009/02/02(月) 05:52:11 ID:+GiqAnHl
ウガヤ朝が72代続いたとする文献があるらしいけど、特定の王家や王権がユーラシアを東に移動(一族の本拠地を移動)しながら自らの歴史を綴り続け、72代かかって日本に辿り着いた…と考えるのはおかしいかな?
99出土地不明:2009/02/02(月) 06:24:38 ID:7CI2Mzwk
>>98
根拠はないけど、古代の日本は、ユーラシアを駆け抜けた有力王家の巣窟であったと考えていいかも知れませんよ。
100出土地不明:2009/02/02(月) 15:25:36 ID:n1skoSaF
>>93
>小河墓で女王クラスの女性ミイラが牛の生皮で包まれた棺、牛の頭を足元に置いた形で埋葬されてい
>ること、 婦好のような司馬を考慮すると殷を構成していた東夷諸族のしきたりに依ったものと思え..・・・
この頃ウラルではヴェーダにあるダージャンク尊者・アーシュヴィン双神による馬頭葬礼儀式が行われて
いる。これは死者の首を足元に置き、首の位置に馬頭を置くという方法であるが、これはククテニ・トリポ
リエ文化・アファナシエヴォ文化と共通な小河墓遺跡の古ユーロペイド牧畜ノマドが持っていた牛頭葬礼
をカザフスタン北部(烏孫の故地セミレチエ方面)において大型馬の家畜化と高品位錫青銅器の馬具への
応用技術に革命的前進が起こり、セイマ・トゥルビノ青銅器として西シベリアを西進することと関係する。
ヴェーダはこの頃に発生したのであろう。日本においては尾張の津島神社あたりで牛頭・馬頭の習合
が見られる。
101出土地不明:2009/02/02(月) 15:34:20 ID:n1skoSaF
小河墓では女王の遺体下半身に牛頭を置くが、これは被葬者が牛頭に乗って冥界を通交し、再生さ
れることを希求するものであろう。女王の被り物は後のマケドニア・スキタイ・日本において参内する
封建君主の被る烏帽子に引き継がれている。すなわち女王は戦士であったことを物語る。その
被り物には、あの地域としては極めてゴージャスなことであるが、二匹のイタチが巻きつけられて
いた。それはエジプトのファラオのミイラ棺の頭部に冠のように巻きつくコブラと同じ機能と考えられる。
102出土地不明:2009/02/02(月) 15:41:58 ID:FC2oriAC
岸祐二、増島愛浩、福田佳弘、本橋由香、、七瀬理香、濱松恵、須藤実咲、牧可奈子、三宅えみ, 古川恵実子,横山夏海, 三輪ひとみ, 遊人, 錦織良成


103出土地不明:2009/02/02(月) 15:50:50 ID:n1skoSaF
前3千年紀の終わりにアルタイに到着した古ユーロペイド牧畜ノマドが持っていた牛頭葬礼は現地の
モンゴロイド民族に大きな影響を与え、オークネフ文化の三つ目・牛頭神像となる。これはチベット・
インドに広がるが、元の牛頭自体は夏・殷の時代に神農・皇帝・蚩尤等の神像に変化する。ところが
日本人には角のある人自体がカルチャーショックであった。敦賀に上陸した新しい宗教の本尊は
「角がある人」であり、これが山城に入り牛頭天王となるのであろう。
104出土地不明:2009/02/02(月) 15:56:16 ID:n1skoSaF
邑婁等の満州モンゴロイドは牛ではなく豚を飼っていたが、西方から来た動物埋葬の啓蒙を受け豚を
供物として多量に埋葬した。玄室と地表を縄で結び、地表で豚の煮汁を作っては縄の腐るまで故人に
供養することとなった。
105出土地不明:2009/02/02(月) 16:53:47 ID:n1skoSaF
>>103
楽浪郡南東の江原道・チュンド(中島・冬のソナタロケ地)には殷の亡民である月氏を含む東夷の
宗教センターがあり、牛頭天王を祀っていた。
「角鹿神社 由緒 - 『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来し
て朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたと
いう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%A3%E6%AF%94%E7%A5%9E%E5%AE%AE
気比はハングル読みの金海、吉備に通じるが、吉備津彦とは卑弥呼の男王、
「一説には倭迹迹日百襲媛命が母(実際は姉)であったとも言われる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%A5%E5%BD%A6
これは高句麗の神でもあり、
「社伝によると、斉明天皇二年(656)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐
す素戔鳴尊をまつったことに始まると伝えている。伊利之は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖であ
った。」
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_yasaka.html
そして月氏を通してギリシャ・ローマ・インド・イラン・エジプトの文化とシルクロードを介して繋がっていた。
106出土地不明:2009/02/03(火) 13:41:35 ID:2mb/GaKn
地下式横穴墓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%BC%8F%E6%A8%AA%E7%A9%B4%E5%A2%93
トンカラリン 頭蓋変形
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20020616/m003.html
これらを解明するのは善光寺お戒壇巡りであるが、 
http://www.zenkoji.jp/hondou/kaisetsu/11.html
起源はシュメール・イナンナ(櫛稲田姫)の地下世界巡りが、牛頭天王/素盞嗚命
(ギルガメシュのヤマタノオロチ退治)等にある。
これが大国主命・諏訪神社の甲賀三郎等になるが、トラキアでは
オルフェウス神話となる。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A6%E3%82%B9/
これを裏付けるのは
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/0400.html
ここにある
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/img/04fig18s_b.gif
この構想が地下横穴式であることだ。これはコーカサス北方から黒海北岸を西進する
カタコンベ墓文化時代にシュメールからこの地方に民族の流れがあったことを意味する。
BC2400年頃にメソポタミアにおいて急激な人口減少が起こることと関連するのであろう。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/d/dd/MesopotamiaTrends.jpg
このカタコンベ墓文化の遺骨はトンカラリン同様頭蓋変形慣習を持つ。これは成人した
大月氏の諸王のコインの横顔が偏平な頭骨を現すことからも卑弥呼時代の大月氏において
行われていたことを意味し、日本の埴輪にも頭に物を載せて縛っている巫女の像があり、
馬韓でもそうした風習の伝承がある。
107出土地不明:2009/02/03(火) 13:59:22 ID:2mb/GaKn
マケドニアのアレクサンダーと言うのは琴欧州の先祖、シュメールの先祖は黒海、神武の子孫は
東国原と見たほうがいいかも。
108出土地不明:2009/02/03(火) 15:53:03 ID:2mb/GaKn
カタコンベとは地下横穴ということ。このカタコンベ墳時代にアファナシエヴォ文化と言う古ユーロペイド
人牧畜ノマドがアルタイのモンゴロイドに影響を与える。これがオークネフ文化を生む↓
オークネフ文化
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image007.gif
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image008.gif
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image009.gif
これはパミールの東方カラコルム山脈を越えインドに、及び、トルクメニスタンを進みミタンニ
方面に進出し、この方面のシュメール系統農耕民族を南に移動さす。シュメールのDingirが
アルタイのテングリ、日本語のタケリ等に入ってくるのはこの頃であろう。↓これがテングリ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Ohin_Tengry.jpg
ヤーマ、カム等に似ている。
109出土地不明:2009/02/03(火) 16:17:41 ID:2mb/GaKn
「アファナシェヴォ文化の後、南シベリアではモンゴロイドを主体とするオクネフ文化が続く。さらに西方の
南ウラル方面に現れたアンドロノヴォ文化(インド・イラン語派に関係があるとする説が有力)がこの地域にまで広がる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A9%E6%96%87%E5%8C%96
考古学的現実はオクネフ文化が優先的に南下し、その間隙をぬってアンドロノヴォ文化(インド・イラン語
派に関係があるとする説が有力)が東進したもの。
110出土地不明:2009/02/03(火) 16:32:45 ID:2mb/GaKn
こうしたことは馬・二輪車・複合弓をもってエジプトに登場するモンゴロイド・ヒクソスがオークネフ文化由
来のものであり、これがエジプトを撤退し、帰路ウズベキスタンにホレズム(フルリ人の国)を建設、
殷に二輪車をもたらし、殷・周革命に参加した、つまり、秦氏のようなものであり、更に時代が下って
秦・漢の時代に朝鮮半島に南下、応神朝の秦氏となるのではないかという推察を可能にする。

111出土地不明:2009/02/03(火) 16:59:04 ID:2mb/GaKn
ブリャート共和国東部、モンゴルとの国境付近にKudara村、Kudara川と言うのがあるが、ブリャート語で
Kudaraというのは「密かに」ということ。ブリャート人は西ブリャート人が国を追われて東ブリャートに
移住してきた落人部落のようなものであると考えている。百済は朝鮮語ではPekcheであり、Kudaraとは
読めない。ブリャート語による解釈ですれば扶余とか、衛氏朝鮮に追われた箕子朝鮮人が亡民として
住み着いたという意味がよくわかる。古代日本人が何故Kudaraと読んだのか、非常に古い記憶が残って
いたことによるのではないかと思われる。
112出土地不明:2009/02/03(火) 20:10:27 ID:iAYI66zv
考古学版にしては妄想だらけだなw
頭大丈夫か?というようなお説がほとんどですな。考古学に関係の無い
お説ばかりだし。ほとんど机上論ばかりで何の根拠も無いし。ひど〜
113出土地不明:2009/02/04(水) 11:32:05 ID:QxLnQcno
所詮、人の脳内活動は妄想の類だ。が、それでいいのだ。決定は自分のすることではない。さて、
わが国のカラスク、オルドス方面の考古学知識はよくして旧ソ連考古学主流派の発表するデータに
依存せざるを得なかった。モンゴリアとその周辺区域の夏家店上層時代、西周時代のその後の
考古学発展と言うものは、下手をすれば少数民族の独立運動に油を注ぎかねないことであり、
トーン・ダウンがあったのではなかろうか。さて、カラスクと言うのはほぼ殷商に並行し、安陽の
青銅器文化をバックにウラル方面にまで進出したものと考えてよかろう。研究の進むユーロッペイド
系移送牧畜民文化の拡張の物証を挙げることだけではなく、バイカル湖東部に三足土器が局在して
出土し、これがモンゴリア及び周辺中央アジアの石板墓、鹿石、ケレクスル(積石円墳)という
一つの文化圏を形成していたという事実、これが列島の邪馬台国・大和朝廷成立前後、朝鮮半島
南部に漢の目を避けるように開花する旧殷・東夷諸族文化を考える上で重要なポイントとなる。
114出土地不明:2009/02/04(水) 11:42:04 ID:QxLnQcno
移動牧畜民・ノマディック・パストラリストと言うのがまたしてもミスタイプであった。
115出土地不明:2009/02/04(水) 12:04:43 ID:QxLnQcno
ノマディック・パストラリズム/移動牧畜民とは↓
水を求め家畜と共に移動する農耕民族。中央アジア・西アフリカ・サハラに3-4千万人。家畜の頭数
増加、回遊周期内に牧草地の回復がない場合とか牧地の固定化によって環境砂漠化を惹起す。新石器
革命、農耕牧畜誕生の所産。戦士文化を生む。従来の考古学が農耕文化地帯の研究にとらわれていた
ために日の目を見なかった。先土器新石器B時代、前6200年頃、環アラビア移動牧畜圏において原セム
言語と共に誕生したとする説あり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nomadic_pastoralism
116出土地不明:2009/02/04(水) 16:34:01 ID:QxLnQcno
趙宝溝遺跡出土土器「樽」の動物画像
http://dragons-nest.ru/incl/image.php?args=../def/def/alkin-image002.jpg&alt=%D0%E8%F1.1.+%CA%E5%F0%E0%EC%E8%EA%E0+%EA%F3%EB%FC%F2%F3%F0%FB+%D7%E6%E0%EE%E1%E0%EE%E3%EE%F3+%F1+%
E7%EE%EE%EC%EE%F0%F4%ED%FB%EC+%EE%F0%ED%E0%EC%E5%ED%F2%EE%EC.+&title=+%D0%E8%
F1.1.+%CA%E5%F0%E0%EC%E8%EA%E0+%EA%F3%EB%FC%F2%F3%F0%FB+%D7%E6%E0%EE%E1%E0%EE%
E3%EE%F3+%F1+%E7%EE%EE%EC%EE%F0%F4%ED%FB%EC+%EE%F0%ED%E0%EC%E5%ED%F2%EE%EC.+
中国の学者は鳳凰+麒麟+猪龍であろうとしているらしい。が、山形県湯殿山神社には太陽鹿を表現し
ている画像がある↓
http://www.genbu.net/data/dewa/yudono.gif
http://www.genbu.net/data/dewa/yudono_title.htm
鳳凰は天、猪龍は大地に侵入しその地底をもぐる太陽、鹿は太陽を天に送る存在と言う解釈が成立
する。趙宝溝文化は興隆窪文化に続く新石器文化ではあるがエジプト文明よりははるかに古い。この
神話がバシコルトで言われるようにバシコルト系移動牧畜民によってシリウス信仰と共にエジプトに伝え
られるシナリオの可能性はある。
117出土地不明:2009/02/06(金) 11:54:19 ID:U/S1XSzw
鳳凰+麒麟+猪龍、この三つ巴がトナカイの角の林の上で演じられる地方は南極圏か北極圏。
「南極圏や北極圏で毎年冬至前後に起り、南極圏では毎年5月末から約2ヶ月、北極圏では毎年11月末
から約2ヶ月の間この現象に見舞われる。そのため特に暗い日としてこれらの地方のうちの英語圏では
冬至のことをミッドウィンターと呼ぶ。地球の自転軸は、公転軌道面に対して約23.4度傾いており、この
傾きが季節によって一日中太陽の昇らない極夜を極圏に作り出している。また、極夜の時期はオーロラ
最も綺麗に長く見ることのできる時期とされ、他にも極成層圏雲やダイヤモンドダストを観測することがで
きる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E5%A4%9C
コロナ フレア プロミネンス 黒点 三足烏
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/uchu/taiyo-02.htm
http://www.astron.pref.gunma.jp/news/050727_prominence.html
http://www.stelab.nagoya-u.ac.jp/ste-www1/naze/sun/sun18.html
太陽神アポロンは極北の地で修行したとされる↓
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/Rangifer_tarandus_map.png
ラポニアン・ハーダー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC
「ボルガ河支流サマラ川では、犬群を連れた狩人に扮したオーディン(Yuletide 儀式で入信するMannerbunde集団の神でもある)が森で咆哮するとされるゲルマン民族の聖誕祭12日、ローマのバレンタ
インLupercalia 、二月半ばに行われるギリシャの新盆Anthesteria(このときにヘルメスが墓から新仏を
招魂するのに使用する木の棒rhabdoが出土(入信儀式に被られ使用された犬毛皮も廃棄前に聖性除去
のためか破砕された砕片で出土))と関係すると見られる冬季に廃棄された犬の骨、毛皮が出土」
http://users.hartwick.edu/anthonyd/ritual.html
犬食文化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A3%9F
ノマディック・パストラリズム/移動牧畜民はナイル、ニジェール、アマゾンの方にまでも足を伸ばしている。
ニジェールのドゴン族はシリウスとか、球状地球の知識があるとされ、その仮面には魔多羅神と似たもの
もあり、踊りの様は連獅子、熊野の火祭りにも似た天に伸びる装備を用いる。これは銅鉱石の豊富な
アルタイのオークネフのステラにも神像としてあり、移動牧畜民がナイルを南下して交易乃至は探鉱
活動を展開していたということであろう、
118出土地不明:2009/02/06(金) 12:15:58 ID:U/S1XSzw
英国女王 「大使殿、この間差し上げた私の愛犬はどうなっておりましょうか。」
某国大使 「陛下、ありがたく賞味いたしました。まことに結構なお味でございました。」
英国女王 「オー、マイ、ガッド!!!」
「しかし、狩猟や遊牧を主たる生業とする北方民族は、犬を狩猟犬として、或いは家族や家畜群を外敵か
ら守る番犬として飼っており、犬肉を食べない。こうした犬は生業や家族の安全に寄与する生活の仲間で
あり、家族同様だったからとする見方がある。農業生産性の低かったヨーロッパでは伝統的に牧畜が
重要な生業であり、現在の西洋の犬食いに対する嫌悪感には、北方民族と同じ源があると見られる。
華北では、五胡十六国時代に鮮卑など北方遊牧民族の支配を受けた影響から、犬食に対する嫌悪感が
広まった。北方民族が入らなかった南朝でも、5世紀頃から犬を愛玩用として飼う風習が広まり、特に
上流階級はペルシャ犬を愛好した。この為、南朝でも犬食を卑しいとする考えが広まり、時代が進むに
連れて犬食の風習は廃れていった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A3%9F
↓北方遊牧民族のはるかに古い時代の興隆窪文化時代にも犬食を意味するような痕跡はないようだ。
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm
119出土地不明:2009/02/06(金) 12:26:13 ID:U/S1XSzw
ブリャート、日本にある御日射慣習、中国にある太陽を弓で打ち落とす伝承は旱害の元凶を太陽と見て
これを打ち落とすという考えで極北の太陽崇拝とは正反対。これは長江下流域などの南方の考え。
ツングース語族は南方起源ではなかろうかとする説もある。しかし、他方では太陽崇拝の影響もあり、
南北両方向考えが習合している感じである。l
120出土地不明:2009/02/06(金) 14:49:11 ID:U/S1XSzw
ユーラシア戦士祭祀女王の守り神は考古学上猫科猛獣とされている。ユーラシア移動牧畜民には
黒犬信仰があったとされるが、これは極北のラポニアン・ハーダーとか、更に古代の裸犬とかと考えら
れる。 狐と狸程度のファウナである埴輪時代の日本でこうした信仰を宗教化していく上で習合とか、
変身は不可欠であり、狛犬であるとか、稲荷とかいうのはそうした習合の所産と考えられる。すると、
稲荷神社と関連する秦氏とか、鳳凰、鴨と関係する鴨氏が最も古く渡来系宗教を持ち込んだもの
ではないかということになる。
121出土地不明:2009/02/06(金) 15:17:16 ID:U/S1XSzw
趙宝溝鹿文化の影響と見られるのは↓
http://www.bunka.pref.iwate.jp/dentou/kyodo/sisi.html
http://www.airinkan.com/kyoudo.html
スキタイ↓の動物文様、であるが、
http://www.bibliotekar.ru/skify/23.files/image004.jpg
「天狗の面を着け、毛冠を戴き手甲短衣に身を固め「タツキ」を穿ちたる男神(金蔵)は其の両手に紅白
の段々巻を施したる短棒(剣の代用)を握り終始猛獅子の正面に立ちて活躍し左右交互に獲物を打ち振
りつゝ獅子の進路を遮り其の威圧に耐へ兼ね獅子の気力稍々衰ふるや最も機敏なる行動により獅子の
背部に騎乗す。此の時獅子は奮然として男神に迫りて数尺の高所より大地に振り落したる上更に地上に
伏臥呻吟せる男神に向って愈々猛烈なる逆襲を試み観衆をして戦慄恐怖の念に耐へさらしむ。
本獅子舞中最妙技を表顕せしむるは実に此の瞬間に在り。
http://www2.ocn.ne.jp/~nhata/kinzoujishi-2.html
http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/kinzou.htm
↑ここにおいて劇化されている。
この辺には御物石器が多いが、中部から東日本に圧倒的に多く分布し、中でも岐阜県が全国の半分余りを占めていると云う。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/kasetsu/kasetsu23.html
↓ドナウ河方面にも古くからある。
http://users.hartwick.edu/anthonyd/images/mace%20heads.jpg
122出土地不明:2009/02/06(金) 15:54:16 ID:U/S1XSzw
猩猩獅子
http://homepage2.nifty.com/nonbox-himitu/tottori/kirin/kirin.html
金蔵獅子とと比較するとオカメが猩猩になっているのと、男神が抜けているのが違う。
オカメとは太陽神、ウズメのことと考えられる。猩猩と言うのが猿田彦に近い。
123出土地不明:2009/02/06(金) 16:16:25 ID:U/S1XSzw
イタリア・トリノ北方のスイスの秘境レッチェンタールに)にのこるチェッゲッテ
http://www.maskenkeller.ch/
http://www.loetschental.ch/admin/files/uptables/content/maske.jpg
http://w1.nirai.ne.jp/cruz/juriuma.jpg
http://www.stripes.com/article.asp?section=103&article=27897&archive=true
http://www.sagapictures.ch/masken/index.php?option=com_content&task=view&id=7&Itemid=8
これは男鹿のナマハゲ
http://www.namahage.co.jp/namahagekan/index/tayou/tayou3.jpg
鹿児島県甑島トシドン
http://www.koshikijima.net/event/tosidon.jpg
にも似ているものの、上記 >>117 Yuletide 儀式で入信するMannerbunde集団メーデーから
ハロウィーンまでの新月の日に森から出て村々を襲う儀式と関連するとも考えられる。山の神である
タンカンサが里に出てくる、つまり、高地-里山巡回農業牧畜(トランスヒューマンス)時代の名残
ではないかと考えられる。
124出土地不明:2009/02/06(金) 16:28:54 ID:U/S1XSzw
「ヒュペルボレイオス(Hyperboreios)は「北風(ボレアス)の彼方に住む人々」の意味で、ギリシア神話に
登場する伝説上の民族。永遠の光に包まれ、幸福に満ち溢れた地で彼らは自由に空を飛び、平和に暮
らしていたと伝えられている。太陽神アポロンを崇拝する民族として知られ、彼らの住む国は一種の
理想郷と捉えられていた。アポロンは誕生の際にゼウスの命令に背き、白鳥の馬車に乗り、ヒュペル
ボレイオスの住む地にやってきたと言われる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9
それは日本の直ぐそばにあり、実際には新大陸とも繋がっていた、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/Rangifer_tarandus_map.png
そこから南に向かって文化が流れたという基本的枠組みで、世界史と各国国史を読み解く必要があるの
ではなかろうか。


125出土地不明:2009/02/06(金) 18:21:30 ID:U/S1XSzw
ヘブライは約4,500年前の北極星Thubanは古代天文観測の龍座の「尻尾」で天球軸乃至は黄道軸の頂
点にあり、星はそれから「垂れるtalahもの-Teli」と呼んだが、アラブはAl Jaz'harと呼ぶ。交点(こうてん、orbital node)とは公転運動を行なう天体の軌道が基準面と交わる二つの点のことである。基準面として
は、地心軌道の天体では赤道面、日心軌道の天体では黄道面が用いられる。軌道傾斜角が 0 の軌道
は交点は存在しない。二つの交点のうち、天体の軌道が南半球から北半球に向かって北向きに交差
する点を昇交点 (ascending node, north node)、北半球から南半球に向かって南向きに交差する点を
降交点 (descending node, south node) と呼ぶ。天体の軌道面と基準面との交線(昇交点と降交点を結
ぶ直線)を line of nodes と呼ぶ。占星術などでは黄道面に対する月の昇交点をドラゴンヘッド
(Dragon's Head) インド占星術ではラーフ(R?hu)、降交点をドラゴンテイル (Dragon's Tail)インド占星術
では ケートゥ(Ketu)と呼ぶこともある。唐怒烏梁海のトゥーヴァ、丁霊族、土方などと言う言葉と似て
いる。極北の太陽の上り下りと関係すると見られる龍の起源を最もよく説明するのはヘブライ語・アラブ
語のようである。
126出土地不明:2009/02/06(金) 18:34:23 ID:U/S1XSzw
「祖先の火照命が海水に溺れ苦しんだ姿を演じる」
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/event/Hayatomai.htm
「其の溺れし時の種種(くさぐさ)の態(わざ)、絶えず仕へ奉るなり、隼人の歌舞の起源を説明している。」
http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/howori3.html
「隼人舞」
http://www.kyotanabe.jp/zukan/images/large/hayato_04_l.jpg
これは太陽神火照命が海に沈む様であろう。
127出土地不明:2009/02/08(日) 17:15:05 ID:gBEJruzN
邪馬台国 伊勢
クナ国  埼玉県秩父地方
128出土地不明:2009/02/10(火) 07:13:51 ID:8JXKTqrI
十種の神宝>古代イスラエル10支族王家の神宝。
三種の神器>シュメール、スキタイ王家の神器。
129出土地不明:2009/02/11(水) 10:45:11 ID:LcdG4o0G
熊本大学文学部教授甲元眞之氏が日本考古学協会2007年度秋季大会(熊本大会)での講演「環境変化
の考古学的検証」に備えて用意した「気候変動と考古学」
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf
では
「寒冷化現象により惹き起こされた西日本沿岸地域での砂丘や砂堤の形成期からは、
縄文時代晩期と弥生時代早期の境は・・・・・紀元前8世紀末、
弥生時代前期末と中期初頭の境界は・・・・・紀元前4世紀中葉、
弥生時代後期後半と後期終末期の間は・・・紀元後2世紀末葉
と比定される。・・・
しかし生態環境の変化に大きな影響を与える乾湿差に関しては、また別の検討を要する。
紀元前一千年紀はじめ頃の寒冷化は
西ヨーロッパと東アジアの沿岸地域では・・・湿潤であったのに、
中国大陸の北部と西部は反対に・・・・・・・・・極端な乾燥化をもたらしていた・・・」
とされる。
130出土地不明:2009/02/11(水) 10:49:27 ID:LcdG4o0G
更に
「寒冷化により惹き起こされた海岸線の後退は、沿岸部に砂丘や砂堤を形成することとなり、砂丘や砂堤
背後に後背湿地が形づくられた。後背湿地の初期は塩分を含むために植物の繁茂を妨げるが、脱塩され
るに従ってアシが生え、やがてガマが成育する時分には水田耕作が可能な農地に転換するところとなっ
たと想定しうる。この脱塩作用にとって湿潤な気候条件であったことは、後背湿地の淡水化へ拍車をかけ
ることとなり、水稲耕作民にとっては格好の条件を提供されることとなったのは想像に難くない。
九州の西海岸や山陰・北陸地方の沿岸部に弥生時代初期の遺跡が点在することは、砂丘背後の後背湿
地を耕作地として選択しながらの稲作栽培の分布拡大化のあゆみを物語るものである。
この時期、九州地方と同様に(高橋2007)、東北地方でも砂堤の形成があったことが仙台湾でも確認される
ことが最近判明したが (仙台市教育委員会文化財課2007)、東北地方へ急速に稲作栽培が展開するのも、
こうした生態環境が有利に働いていたことは充分に考えることができる。
砂堤背後に形成された低湿地は、上海での事例と同様に初期の水稲栽培には格好の生産場所を提供し
てくれたのであった。ただ単に炭素年代に依拠して環境変化の時期を捉えるのではなく、年輪年代を利用
しての正確な時期の特定を行い、考古学的事象と相関させることで初めて人類の生活実態を明らかにす
ることができるのである。」・・・このように詳述されているが、これこそ日本建国の基となったことと見て
よい。
131出土地不明:2009/02/11(水) 15:50:15 ID:LcdG4o0G
縄文時代晩期と弥生時代早期の境は・・・・・紀元前8世紀末→弥生時代の始まり
弥生時代前期末と中期初頭の境界は・・・・・紀元前4世紀中葉→江原道春川に黒龍江省綏芬河方面
から鉄器を伴う沃沮・ワイ族が移動してくる。これが楽浪方面の古朝鮮青銅器文化と合体してチュンド
文化を作り、これから後の三韓の文化が生まれる。出雲・山城の伝承では素盞嗚命はここから来ると
いう。
弥生時代後期後半と後期終末期の間は・・・紀元後2世紀末葉→古墳時代の始まり
132出土地不明:2009/02/11(水) 16:09:56 ID:LcdG4o0G
天孫降臨などと勇ましいことを言うが、実際に丸木舟で釜山に渡るのは大変なこと。しかし、
古代から日本と朝鮮半島には交易があった↓
http://www.ops.dti.ne.jp/%7Eshr/wrk/2001a.html#3
133出土地不明:2009/02/11(水) 21:31:52 ID:Zf95JsS6
神格の為に天孫降臨とした、戦前のようにね
大和朝廷は内陸の連合体で天皇は連合の盟主
天皇はどこから来たのか、の答えは此れだよ
特別なものじゃない、ただの和人だ
別の場所からきたとか特別に考える理由があるか?ロマン主義?
134出土地不明:2009/02/14(土) 15:20:44 ID:GJlJwUUU
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm
神武天皇生誕の地にあるこの古墳こそ神武天皇或いはその血縁者の墓と見ていいのではなかろうか。
そもそも当時は女王共立の時代で男王は東国原知事のように地方と中央を行き来していたということも
あろう。
135出土地不明:2009/02/14(土) 17:09:12 ID:GJlJwUUU
>>131
>弥生時代前期末と中期初頭の境界は・・・・・紀元前4世紀中葉→江原道春川に黒龍江省綏芬河方面
>から鉄器を伴う沃沮・ワイ族が移動してくる。これが楽浪方面の古朝鮮青銅器文化と合体してチュンド
>文化を作り、これから後の三韓の文化が生まれる。出雲・山城の伝承では素盞嗚命はここから来ると
>いう。
中国東北部松花江嫩江平原地方のBC1000-0頃の白金宝文化においては西隣のブリャートのように
遊牧文化が優勢になる現象は見られない反面、ロシア・アムール州ではポリツェという好戦的・移動性
文化が上記期間に拡大を見せる。これはバイカル湖のグラスコフ文化がケレクスルを伴う遊牧文化の
影響の下に鉄器文化の洗礼を受け、アムール河を中流に下ってポリツェ文化となり、クローノフ・トゥアン
チエ・沃沮文化と共に江原道に南下するという筋道が見えてくる。素盞嗚命・牛頭天王は家畜の毛皮
足、尻尾付の首を埋葬するという信仰は、犬が死者を冥界に導く信仰匈奴の葬礼でありこの流れで
江原道春川に降臨し、対馬近辺で蛮習を無害化し、出雲に入るのであろう。
136出土地不明:2009/02/14(土) 17:13:58 ID:GJlJwUUU
毛皮、足、尻尾付の首を埋葬と言うのではなく、アルタイではタタールの風習として霊安の小屋の脇に
柱の先に吊るしておく。天照大神が仰天したのはこれであろう。
137出土地不明:2009/02/14(土) 17:24:47 ID:GJlJwUUU
モンゴリア地方は気候の乾燥化、寒冷化によってシベリア・スキタイの影響を受けた石板墓、
これは楯築遺跡の立石構造に残るが、この文化は約3百年中断し、その後に匈奴が生まれる。
石板墓と対置したモンゴリア西部はケレクスルという石積円墳であった。これが初期大和・吉備・
日向西都原で前方後円墳となる。
138出土地不明:2009/02/15(日) 10:47:08 ID:Uo+6BsGj
極東における最古の鉄器文化であるBC7世紀ロシア・アムール中流沿岸Uril文化の方形縦穴式家屋
http://www.bgpu.ru/museums/arhy/lessons/images/amur.lessons.oldhistory.files/image020.jpg
黍を貯蔵した土器(先行する新石器時代には小麦が栽培されていた)
http://www.bgpu.ru/museums/arhy/lessons/images/amur.lessons.oldhistory.files/image022.jpg
それを踏襲するBC4世紀Poltse文化の鉄斧
http://www.bgpu.ru/museums/arhy/lessons/images/amur.lessons.oldhistory.files/image021.jpg
初期は鋳造で西暦起源にかけては鍛造に変わる。
この鉄器文化は西周期新疆の鉄器文化と同期であり、南下し江原道に入る頃には燕に到来していた
中原鉄器文化と合流すると見られる。ちなみに牡丹江-豆満江方面では西暦起源になるまで鉄器は出現
していない。
139出土地不明:2009/02/15(日) 11:00:54 ID:Uo+6BsGj
江原道春川方面を調査したロシア考古学チームは江原道において紀元前4世紀中葉鉄器文化の到来、
方形家屋、箱式石棺墓、表面が滑らかで材質が緻密な土器の出現に特徴があり、これは綏芬河方面
のポリツェ(粛慎→邑婁)文化を含有する沃沮文化の南下と見る。これは素盞嗚命のマダラ馬の毛皮、
耕作地への呪具投入れ(畑作儀礼)、玄界灘における箱式石棺墓の登場、出土人骨の形質変化、
土井が浜人を考慮すると、平原古墳での太陽神葬儀において渡来系シャーマンに不都合があったことを
物語るのではなかろうか。
140出土地不明:2009/02/15(日) 11:11:55 ID:Uo+6BsGj
土器のソリッド化は青銅器から鉄器文化への移行に伴う炉温上昇が土器製作技術に反映されると
見られ、半島における土器の瓦質化とか、日本の畿内における土師・陶器の出現とかに反映される
と見てよく、大和政権誕生時には庄内式・布留式といった土器が生まれるのもこれと関係するのであろう。
141出土地不明:2009/02/15(日) 11:16:00 ID:Uo+6BsGj
半島の伝承ではインドから姫が磐船に乗ってお輿入れをするとか、河内物部はUFOのように磐舟に乗って
山上に降臨するというが、これは極めて遠い国から来た異民族が石棺を作ったという伝承とも考えられる。
142出土地不明:2009/02/15(日) 11:54:05 ID:dGpxYBPW
何故か遠くに求めるやつ多い
道は近きにあり
143出土地不明:2009/02/15(日) 13:12:40 ID:Uo+6BsGj
>>138
>極東における最古の鉄器文化であるBC7世紀ロシア・アムール中流沿岸Uril文化の方形縦穴式家屋
http://www.bgpu.ru/museums/arhy/lessons/images/amur.lessons.oldhistory.files/image020.jpg
「続く三韓系瓦質土器の出現は昌原・茶戸里遺跡の星雲紋鏡から前1世紀中葉と捉えられる。瓦質土器
出現期こそ南朝鮮の前漢系遺物副葬開始期であり,九州の弥生中期後半のある時期に対応する。
須玖II式期のうちに三韓系瓦質土器が出現したはずである。以上より,須玖II式は前1世紀の土器型式と
捉えられる。漢4郡設置から南朝鮮・北部九州の前漢系遺物副葬開始までの時間差は,韓の強勢による
真番郡の廃止などを経て,楽浪郡と韓・倭の間に相対的安定期を迎えるまでに要した時間と捉えられ
る。比恵遺跡群中央の1期集落で集住が始まるのは,まさにこの時期である。」
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/1996a.html
http://www.h-seisho.ed.jp/tusin/hie.html
http://www.k2.dion.ne.jp/~kisa/fukuoka_k3.htm
「比恵遺跡群中央の1期集落で集住」したものをスサノオと言うことができようか。

144出土地不明:2009/02/15(日) 13:31:56 ID:Uo+6BsGj
>>139
江原道春川方面を調査したロシア考古学チームの報告書については↓
ソウル国立大学出版部2005年出版韓国語「Subbotina A.L.沿海州朝鮮半島早期鉄器時代無紋土器
比較研究」として4年前に公表されているという。
145出土地不明:2009/02/15(日) 13:51:35 ID:Uo+6BsGj
>>134
もし天照大神・素盞嗚命の説話が歴史的事実を反映するのであれば、神武の説話を荒唐無稽として
切り捨てることは出来ない。更には魏志倭人伝も同様に極めて重要な史実を含んでいるものとしなく
てはならない。事実、建国があってこそ現在の天皇制があるのだから。
146出土地不明:2009/02/15(日) 15:46:33 ID:Uo+6BsGj
「江原神社(こうげんじんじゃ)は、日本統治時代の朝鮮江原道春川郡(現 大韓民国江原道春川市)に
あった神社である。旧社格は国幣小社。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE
147出土地不明:2009/02/16(月) 08:24:04 ID:IB7fp8y5
>>138
>ちなみに牡丹江-豆満江方面では西暦起源になるまで鉄器は出現していない。
根拠→中国東北考古学・Jia Weiming
http://ses.library.usyd.edu.au/handle/2123/653
上記と手法が似ているのが日本考古学・歴博・藤尾 
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/index.html
これに付加して、気候変動と考古学・甲元
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf
こうした資料を基にロシア・欧米の中央アジア・ユーラシア・中近東考古学文献を精査してゆく
ことが古代日本史復元に役立つ。


148出土地不明:2009/02/16(月) 22:51:37 ID:kMJrljJk
>>1
邪馬台国=ヤマト国だろう?

もう、古代の日本は、そんなに謎ではない。
卑弥呼=媛命であり、ヤマトトトヒモモソ媛命(孝霊天皇の皇女)
149出土地不明:2009/02/17(火) 10:31:35 ID:TwqbXLnY
邪馬台国は大和国のこととすべきだろう。基本的には大和大国魂という霊的存在が三輪山と言う形を
取り、これを斎くのがシャーマン女王で、更にそれを執行するのがイリ・ナカツ・タラシ等の称号を
持つ男王で、後に天皇として記紀に載せられるものと見ればいい。
150出土地不明:2009/03/03(火) 11:33:42 ID:QpwS1wV1
いまだに邪馬台国の台をタイなどと読んでる奴はキチガイ
魏当て字=邪馬台
倭当て字=大和
読みヤ・マ・ト
151出土地不明:2009/03/16(月) 23:35:09 ID:s/vKn+Vi
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/shoseki_video4.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
152出土地不明:2009/03/16(月) 23:36:04 ID:s/vKn+Vi
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E3%81%84
153出土地不明:2009/03/17(火) 23:32:58 ID:T0CDwOWD
邪馬台国とはヤマトのことであり
ヤマトとは山門のことで
これは、三輪山周辺のことをいった。

ちなみに、このヤマトに隣接するのが、葛城であり
葛城は、またの名を高天(たかま)といった。
高天原のことである。
154出土地不明:2009/03/18(水) 08:32:37 ID:i7qCQaPR
いくら何でも必死すぎやしないか?
155出土地不明:2009/03/18(水) 11:31:30 ID:KKEQcD6t
もともと、ヤマト(山門=山戸=山門)とは、
現在の奈良県全域を指すのではなく
三輪山周辺の限定された地域を指す地域だった。

ちなみに、京都の一部は、ヤマシロ(山背=山城)であり、

このヤマシロ(山門)とヤマト(山背)の間には、山国という地名が残っている。
魏志倭人伝に登場する邪馬国のことだな。

で、この山門(三輪山周辺)の南西には、葛木という地域があり
ここには、葛木山、高天山(金剛山)があり、
この周辺は、またの名を高天原といった。

つまり、皇室の起源の地は、高天(葛木)のことであり
ニニギ命(神武天皇の曽祖父)は、
この高天(葛木地方)から、高千穂(九州南部)へ降臨したことになる。
156出土地不明:2009/03/18(水) 15:24:57 ID:LpqphMNc
天皇と日本の起源はイスラエルです
157出土地不明:2009/03/18(水) 16:54:53 ID:KKEQcD6t
>>156
そんなことはありません。以上。
158出土地不明:2009/03/18(水) 16:57:22 ID:KKEQcD6t
>>156
そんなことはありません。
高天原とは葛城のこと。
159出土地不明:2009/03/31(火) 02:50:00 ID:/c8hupts
高天原の地は、葛城。
このあたりは、高天という地名が残っており、
延喜式でも、そういう認識で記してある。
また、地政学的に見て、葛城は安全保障上、重要な地域だった。

しかしながら、中世になるにつれて、そのことの記憶が薄れていった。

なぜ、皇室発祥の地の高天原が、畿内の葛城なら
皇室は、わざわざ、畿内→九州南部→畿内というふうに首都を移さないといけないのか?
しかも、なんで、ニニギ命からではなく、神武天皇から初代皇帝としないといけないのか?
そういう疑問が沸き起こっていった。

そんなことは分かりきっている。
初期、畿内王朝では、神武の家系は、九州に飛ばされた傍系家系でしかなかったから。
そのことは、古代において、畿内王朝内部での
神武皇統を上回る家系の一族がいたことをあらわしている。

古事記を編纂する時に、天武天皇がそのことを隠そうとしたから
日本神話は意味不明な内容になってしまった。
そして、その天武天皇と大いにもめていたのが熱田社の尾張氏であった。
この尾張氏は火明命の嫡流に当たり、
皇室の祖であるニニギ命の兄が火明命だった。
この家系こそが、畿内王朝建国当時の正統な本流の家系だった。

それが途中、畿内で内乱が勃発し、
九州分家だった神武が援軍として駆けつけ、
その後、実際の神武が担当し、祭祀だけを火明命の後胤が受け継ぐことになった。
そして、欠史八代の途中、両者の間に内乱が勃発し(倭国大乱)
神武皇統は一族のヤマトトトヒモモソ媛命をたてることによって
事態を収拾したのである。
このヤマトトトヒモモソ媛命=卑弥呼なのである。

このことは、現在の纏向遺跡のは発掘によって、いずれ確実になる。
160出土地不明:2009/03/31(火) 12:43:04 ID:MlB9mbLA
>>159
>そして、その天武天皇と大いにもめていたのが熱田社の尾張氏であった。

具体的に、いつどのようにもめたのか説明してくれ。
そのことが記載されてる文献はどれ?
161出土地不明:2009/04/04(土) 00:07:19 ID:rkKSdfJF
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露? 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm



162出土地不明:2009/04/05(日) 12:05:51 ID:e5dKLUxB
>>159
面白いね
葛城が高天原なら、
ニギハヤヒと神武、どちらも天孫であるという記述の説明がつく
ニニギは葛城から日向に派遣されたということか
神武は反乱を起こして、本拠地を乗っ取った訳だね
163出土地不明:2009/04/05(日) 18:25:08 ID:yZiG2zZy
神武は葛城(本拠地)を乗っ取ったわけじゃないよ。
神武は橿原を占拠しただけ。葛城国は、独立したまま。
164出土地不明:2009/04/05(日) 19:04:25 ID:QyOO8btK
邪馬台国は鹿児島だよ。
165出土地不明:2009/04/05(日) 20:56:56 ID:VRAFqF9R
葛城に王朝は無かったんじゃい。
この辺りは縄文海進の影響で湖や湿地だったはず。
水が引いてきていい感じになってきた頃に、九州勢・吉備勢が入ってきたんだと思う。
166出土地不明:2009/04/05(日) 21:11:02 ID:cUBnMo0Y
>>165
>水が引いてきていい感じになってきた頃に、九州勢・吉備勢が入ってきたんだと思う。

まったくそんな事実は無い。
証拠は何?
167出土地不明:2009/04/06(月) 00:22:59 ID:5LHH5Y9o
奈良盆地は縄文〜弥生時代にかけて湖だったんだよ。
飛鳥時代あたりでも中心部は湖だった。
ここの下の方に出てる。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/index.html

つまり外から人が入ってきて開拓したってことだね。
168出土地不明:2009/04/06(月) 01:40:58 ID:OH+dMvlp
九州からじゃ、無いけどね。
169出土地不明:2009/04/09(木) 22:08:29 ID:IkqzUxFq
>>167
なんで、そう考えるw?
それよりも、その畿内王朝は
その大和湖の水資源を利用していて、
それが途中かれてしまったから
琵琶湖の水資源が利用できる山城のほうに
移転したのは、なんとなく想像できるわな。
170出土地不明:2009/04/10(金) 16:09:09 ID:CBmmn/wP
>>160
日本書紀か古事記に書かれている。
天武天皇が、熱田社から天村雲剣を奪って
なかなか返さなかった話だとか、
171出土地不明:2009/04/10(金) 19:14:31 ID:uXx4kY8e
>>162
ニギハヤヒというよりも
火明命(ホアカリ命)といったほうが良いよ。
172出土地不明:2009/04/11(土) 17:20:47 ID:pUF1fopM
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
173出土地不明:2009/04/12(日) 23:30:36 ID:GHKTH7qO
>>172
8世紀というのは、要するに
日本書紀や古事記が完成した時期だということだろう?
そういう意味で、よく「8世紀」という時期が
使用されるんだよ、日本の古代史の場合。
174出土地不明:2009/04/13(月) 00:10:56 ID:lS/iWClD
単にそれ以前の鳥居も遺物も埴輪も壁画も土器画も青銅器画も
一切何もないからだろ。

飛鳥時代の鳥居とか、飛鳥時代の鳥居の遺物とか、飛鳥時代の鳥居跡とか、
って聞いた事あるか?
175出土地不明:2009/04/13(月) 00:26:33 ID:h88b2OCt
>>174
ないね。飛鳥時代は。
なんとなく、鳥居って、山を崇拝する思想からみたいな感じだから
三輪山から起こったのでは?とも思う。
でも、そういうのは文献にはないよね。

あんがい、鳥居自体は新しい文化かも。
文献上はいつぐらいからなの?
176出土地不明:2009/04/13(月) 00:32:51 ID:h88b2OCt
>>165
息をするように嘘をつくな。
177出土地不明:2009/04/13(月) 00:41:43 ID:c4Z4J7Uq
やっぱり奈良平安からだろ。

鳥居は遣唐使が持ち込んだ唐の華表の可能性が高い。
178出土地不明:2009/04/13(月) 00:42:20 ID:4IscknxU
>>166
水が引く頃まで人が住んでいた形跡が何もない、ってことだな。
179出土地不明:2009/04/13(月) 00:49:25 ID:h88b2OCt
日本の神道自体は、高天山、三輪山の
山岳信仰が影響していると思うが

鳥居という文化自体は、意外に新しくて
遣唐使ぐらいの時代かもしれん。
180出土地不明:2009/04/13(月) 00:51:17 ID:h88b2OCt
>>178
おまえ、葛城ってのは、
現在の葛城市とは同じではないぞ。

現在で言うところの奈良県御所市高天あたりだろう?
あのへんは、近畿地方の重要な河川の上流部が集まっていたはず。
181出土地不明:2009/04/13(月) 20:28:43 ID:HB+jVSa2
【卑弥呼】倭迹迹日百襲媛命【邪馬台国女王】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1239621756/
182出土地不明:2009/04/14(火) 18:49:13 ID:BI/RPrpw
高天原は壱岐の原の辻。
原の辻付近の海から「ふりさけ見れば」三笠山=宝満山が見えるのは、
阿倍仲麻呂当時から変わらない。
ちなみに壱岐からは奈良軒の山は一切見えない。
183出土地不明:2009/04/14(火) 20:43:07 ID:oO4+yzbs
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/shoseki_video4.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
184出土地不明:2009/04/14(火) 20:44:18 ID:oO4+yzbs
しかも日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E3%81%84
185出土地不明:2009/04/15(水) 07:25:58 ID:epGvr1D0
大和における鵜飼いの歴史は? 何か遺物が出ているのかな?
186出土地不明:2009/04/15(水) 21:02:11 ID:t5wEaJRz
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/jpncul.html

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/15-1kouzan.htm

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/
◆遼寧の石包丁
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/./photos/uncategorized/2008/02/04/070827_078_2.jpg
187出土地不明:2009/04/16(木) 18:14:33 ID:k9NNYZig
邪馬台国ジャワ島説もあり得る
188出土地不明:2009/04/16(木) 20:46:43 ID:tPnf1htc
ジャワ台国
189出土地不明:2009/04/25(土) 00:30:10 ID:6c1+E0Dz
>>187 邪馬台国=山田国 説もある。
190出土地不明:2009/04/25(土) 10:40:35 ID:riKo+3Xx
山田国ってどこにあったの?
191出土地不明:2009/04/25(土) 12:24:06 ID:ZmrSeCkt
>>190 山田国は日本中にあるので位置不明だ。
192出土地不明:2009/04/29(水) 00:45:25 ID:jRRPT69L
>>191

残念でした。
山田という姓は近畿に多く、九州には少ないという事実がある。
電話帳で調べれ。
193出土地不明:2009/04/29(水) 09:32:02 ID:PRkfdqKj
>>192 3世紀と現代を比較してもあまり意味が無いと思うが。

 山田族が近畿へ大移動した可能性もある。
194出土地不明:2009/04/29(水) 10:39:39 ID:SLg1QmZP
山田といえば伊勢山田
195出土地不明:2009/04/29(水) 11:29:18 ID:H4AztKRd
>>193
3世紀に姓なんて無いだろ。
196出土地不明:2009/04/29(水) 17:38:24 ID:3xI8QVE7
>>196 難升米、都市牛利などは姓+名と思うが。
197出土地不明:2009/04/29(水) 18:20:55 ID:i3deN0CK
>191
福岡には山田市ってのがあって、
そこだけ山田姓が異常に多いのだ。
何故かは不明
198出土地不明:2009/04/29(水) 19:13:14 ID:3Irb9/aY
>>197
山田族が福岡に大量移民したんだろ。
199出土地不明:2009/04/29(水) 21:50:22 ID:2wybadDT
邪馬台国は宇佐で決着している
200出土地不明:2009/04/29(水) 23:52:08 ID:eNnm2WCE
宇佐は渡来人が開拓した土地だから、邪馬台国じゃないね。
201出土地不明:2009/04/30(木) 12:59:26 ID:QaicYJ2D
だいたい、伊都国は佐賀付近。そこから宇佐はないよ。
202出土地不明:2009/05/02(土) 21:45:14 ID:J9whHLDU
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦のプラントオパールも稲と同時に
検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から栽培されていた事に
なってしまい、改めてプラントオパールの調査自体の精度が極めて
疑わしいものであると言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
203出土地不明:2009/05/02(土) 21:46:35 ID:J9whHLDU
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg
204出土地不明:2009/05/08(金) 18:22:29 ID:gQ8/T+TK
魏志東夷伝 邑婁

穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。

・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。

 射撃が上手・・・これも同じだ。

 漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年〜226年)には反乱を起こした。

 掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。

・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。
205出土地不明:2009/05/09(土) 08:33:48 ID:UqIbxvO8
>>201
佐賀じゃなくて前原だろう。
206出土地不明:2009/05/09(土) 21:57:42 ID:H1lXRVoo
>>205
まだ、前原なんて言ってるのか? 遅れてるね。
207出土地不明:2009/05/11(月) 02:06:16 ID:G+20vWBq
>>204 『晋書』粛真・邑婁伝には下記も載ってるよ!

坐るときは両脚を投げ出して座り、足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)

風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る。
208出土地不明:2009/05/18(月) 00:55:44 ID:PudE3JQw
天皇家の発祥は、葛城の高天でしょう?
葛城地方には、高天原関連の遺跡が集結している。
奈良県御所市周辺の地名や神社を見てみろ。
「高○○」とか、「葛○○」とか、「秋津○○」そんなのばっかだ。
そんなのばっかだ。
とくに、近畿王朝初期の豪族の祖先の地が終結している。

現在の奈良県御所市高天。 葛城の高天に本拠地がある勢力が、出雲を併合したんだろう。
それは、ニニギ命(神武天皇の曽祖父)のあたりの時代の話だ。
紀元前1世紀か、紀元1世紀くらいの話かな?
その後、ニニギ命は、九州の高千穂に降臨する。
だから、九州から近畿へ東征した神武天皇の話も、決して間違いではない。

たしか、唐か宋の時代に中国に派遣された日本の使者が
「倭国が西にあって、日本が東にあって
もともとは東の日本は小国だったけど、倭国を併合した。
でも、その後も、ずっと日本は倭国の名前を継承していたが
この名前が好きではないから、変えてくれ」って
言っているんだよね。

あと、倭王武である「雄略天皇」が、中国への上奏文でも、
「私の国は、西に数十カ国、東に数十カ国、平定して
次に海を越え北に数十カ国を平定した」と説明している。
この私の国の本拠地は、どうみても、近畿地方、なかでも葛城の高天でしょう。
209出土地不明:2009/05/19(火) 18:32:20 ID:jxfqOPhC

■近つ飛鳥博物館:前方後円墳の成立過程、副葬品など300点で探る /大阪

 弥生時代から古墳時代への転換点になった3世紀の前方後円墳の成立過程を、出土した副葬品や埋葬施設の写真パネルで紹介する「卑弥呼死す 大いに冢(ちょう)をつくる」が、河南町の近つ飛鳥博物館で開かれている。6月28日まで。

 弥生時代末には、全国各地で地域の首長の墓(墳丘墓)が造られるが、日本海側では四隅を突出させた墓、吉備地方では特殊器台と呼ばれる土器を乗せた墓が出現するなど、地域によって多彩な特徴があった。
それが、「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が3世紀中ごろに成立して以降、全国の首長の墓が前方後円墳や後方墳に規格化され、全国的な政治連合が成立する古墳時代が始まったとされている。

 会場には吉備地方の特殊器台や、平原方形周溝墓(福岡県前原市)の巨大な鏡のほか、箸墓古墳でも見つかった特殊器台の破片、黒塚古墳(奈良県天理市)の三角縁神獣鏡など約300点が出品されている。

 月曜休館。開館は午前10時〜午後5時。一般600円、大学・高校生と65歳以上は400円、中学生以下無料。問い合わせは同館(0721・93・8321)。【大森顕浩】

毎日新聞 2009年5月19日
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090519ddlk27040448000c.html


■大阪府立 近つ飛鳥博物館ホームページ
http://chikatsu.mediajoy.com/index_j.html

・平成21年度春季特別展 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる ─前方後円墳の成立─」
http://chikatsu.mediajoy.com/2009_spring/index.html
210出土地不明:2009/05/20(水) 22:21:32 ID:8Waz4m+/
「鳥居」の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
211出土地不明:2009/05/22(金) 18:52:10 ID:E3YjshhL
■大阪府立弥生文化博物館 講演会
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html

大阪・滋賀博物館連携企画特別講演会
5月23日(土)

◆「卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」

奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長  寺沢 薫 氏

◆「鼎談 卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」

奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長  寺沢 薫 氏
滋賀県立安土城考古博物館学芸課長     大橋信弥氏
当館館長                       金関 恕

時 間:午後2時〜4時 ※午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付
場 所:当館1階ホール
定 員:170名(当日先着順)
聴講料:無料(要入館料)

大阪府立弥生文化博物館 大阪府和泉市池上町4丁目8-27(JR阪和線信太山駅から西へ約600m)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/

◇新型インフルエンザ対応について

大阪府立弥生文化博物館は、現段階では博物館所在地(和泉市)が、患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となっていない段階のため、通常どおり営業しています。
23日(土)講演会、24日(日)ミュージアムコンサートも現時点では開催する予定です。
なお、感染拡大防止のため、当館職員はマスクを着用させていただきます。また、ご来館者の皆さまにおかれましても、マスク着用等にご協力くださいますよう、お願いいたします。
今後博物館所在地が患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となった場合は、臨時休館する場合があります。
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/infuru.html
212出土地不明:2009/05/23(土) 16:57:41 ID:PmiGYx8r
■邪馬台国の会 第280回講演会 5月24日(日)
http://yamatai.cside.com/katudou/teiki.htm

◆特別講演会 「土器から見たホケノ山古墳・箸墓古墳」

 奈良県立橿原考古学研究所 関川尚功氏

 元産能大教授(邪馬台国の会主宰) 安本美典氏

・日時 5月24日(日) 13:30-16:30
・会場 文化シヤッターBXビル 多目的ホール(東京都文京区西片1-17-3)
・参加費  一般1500円/学生1000円

※参加ご希望のかたは直接会場へおいで下さい。

邪馬台国の会サイト
http://yamatai.cside.com/index.htm
213出土地不明:2009/05/24(日) 08:31:03 ID:6uLW/cZ+
安本も伊都国がどこにあったのか、考え直すと少しはましな話ができるだろうに。
214出土地不明:2009/05/26(火) 15:07:26 ID:KgFkmVpq
卑弥呼の心を捉えるに至らなかった富士山ってどんな形だったんだろ。
215出土地不明:2009/05/29(金) 10:16:55 ID:Xz0o9GG4

■奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定

 古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。
放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。

 「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。
邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。

 全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。

 考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。
周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。

 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。

 31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。

 歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は
 「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」
と話している。(渡辺延志)

朝日新聞2009年5月29日
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
216出土地不明:2009/05/29(金) 10:31:38 ID:M/Xl0nab
>>215
>■奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定


ただいまニュース速報+板(↓)で熱論中!!!

【歴史】卑弥呼の死亡時期と合致「奈良の箸墓古墳」 邪馬台国畿内説と九州説に一石を投じる結果に…国立歴史民俗博物館
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1243547663/
217出土地不明:2009/05/29(金) 23:01:08 ID://aWKsLa
魏志倭人伝によると邪馬台国は3世紀に外交文書をやり取りしていた。
通訳を帯同して使節を派遣した事。
これから考えると、3世紀にあった邪馬台国は文字を使う文明であったと言う事が分かる。
一方、大和朝廷は7世紀以降にしか文字を残していない。
文化の後退が同一王朝で起こったとは考えにくい。
伊都国にあったとされる外交と監視をつかさどる庁の発掘を急ぐべき。
これは範囲が狭く特定しやすい。
ここから必ず邪馬台国を示すハッキリとした資料が出るはずだ。
「日本の古代文化は文字を使わなかった」という嘘をきちんと覆して欲しい。
218出土地不明:2009/05/30(土) 01:52:07 ID:wpioQghe
和歌山県伊都郡かつらぎ町
219出土地不明:2009/05/30(土) 14:08:56 ID:jC6gdUth
(・∀・)またまたタッタヨー!!
ナ、ナント4スレ目ダヨー!!

【歴史】卑弥呼の死亡時期と合致「奈良の箸墓古墳」 邪馬台国畿内説と九州説に一石を投じる結果に…国立歴史民俗博物館★4
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1243658002/

ニュー速+板ダヨー
220出土地不明:2009/05/30(土) 17:25:45 ID:06J35KAI
悪いけど、もう九州説ないから…
221出土地不明:2009/05/30(土) 18:18:41 ID:Kla8P65C
大阪府立近つ飛鳥博物館 春季特別展 講演会

■「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」 5月31日(日)

時 間: 午後2時〜3時30分
会 場: 地階ホール
定 員: 200名

5月31日(日) 白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館長) 「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」

※講演会には今季特別展の半券または年間パスポートが必要です。
※12時より1階ロビーで入場整理券を配布します。

平成21年度春季特別展
 開館15周年記念「卑弥呼死す、大いに冢をつくる−前方後円墳の成立−」
http://chikatsu.mediajoy.com/2009_spring/index.html

大阪府立近つ飛鳥博物館 (大阪府南河内郡河南町大字東山299番地)
利用案内とアクセス
http://chikatsu.mediajoy.com/access_j.html
222出土地不明:2009/05/30(土) 18:42:20 ID:RORr+/2H
大阪府立弥生文化博物館 春季特別展関連考古学セミナー

■第3回 「弥生建築の実証的復元−青谷上寺地遺跡の衝撃−」 5月31日(日)

   鳥取環境大学教授 浅川滋男 氏

時 間:午後2時〜4時 ※午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付
場 所:当館1階ホール
定 員:170名(当日先着順)
聴講料:無料(要入館料)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html


平成21年度春季特別展 弥生建築 −卑弥呼のすまい−
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/h21_haru.html

常設展示「目で見る弥生文化」「池上曽根ワールド」
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/jousetsu/index.html


大阪府立弥生文化博物館 (大阪府和泉市池上町4丁目8-27)
アクセス
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/access/index.html
223出土地不明:2009/05/30(土) 22:00:47 ID:z3YrYNPt

(・∀・)タッタヨー

【歴史】 卑弥呼の死亡時期と合致、「奈良の箸墓古墳」。邪馬台国畿内説と九州説に一石を投じる結果に…国立歴史民俗博物館★5
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1243687084/

ニュー速+板ダヨー

ナ,ナ,ナント5スレ目ダヨー!!
224出土地不明:2009/05/31(日) 17:31:48 ID:7ana3jr7
九州山田には都高校があるし、酒米を作っている。
伊勢山田も酒米作り、山田錦。
土佐山田にも松尾酒造がある、打ち刃物。
陸中山田はなんだろう?鈴木善幸総理大臣。
酒に関係してると面白いけどなあ。

225出土地不明:2009/05/31(日) 19:00:12 ID:fJRhPsuB
高天原も近いし丹も採れる巻向しかないでしょ。
226出土地不明:2009/06/01(月) 00:15:24 ID:D8d3uYSt
九州に耳成山とか対馬にヒナモリという地名はないのかな?

 ニキとニニギ、忍穂耳とミミは関係ありだろうな。


227出土地不明:2009/06/01(月) 00:20:09 ID:rpYDfuZx

■箸墓古墳:歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから


  ──考古学協会理事、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請──

  ──データの信頼度など会場から質問続出──


 国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240〜260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。
247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。

 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。

 歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。
箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240〜260年を導いた。

 発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は
 「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」
と述べた。

 しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。

 中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。【伊藤和史】

毎日新聞 2009年5月31日
http://mainichi.jp/select/today/news/20090601k0000m040042000c.html?link_id=RSH02
228出土地不明:2009/06/01(月) 00:38:43 ID:rpYDfuZx

(・∀・)タッタヨー

【奈良】箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石 国立歴史民俗博物館★6
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1243783661/

ニュー速+板ダヨー

ナ,ナ,ナ,ナ,ナ,ナント 6スレ目ダヨー!! (@∀@;)
229出土地不明:2009/06/01(月) 08:22:32 ID:S+95daXl


日本とユダヤ、多くの共通点の一部



神武天皇の髪型(もみ上げを伸ばして耳もとで毛を巻いている)
http://blogari.zaq.ne.jp/randokku/img/img_box/article753.jpg
http://www.geocities.jp/bane2161/jinmutennou.htm


厳格な正統派ユダヤ教徒の髪型(もみ上げを伸ばして耳もとで毛を巻いている
http://www.tabibarber.sakura.ne.jp/tabinohanasi/nikki/diary45.html


それでも嘆きの壁とその周辺でよく見かけるユダヤ教徒には興味をそそられた。
およそ宗教徒とは思えないいでたちにアナーキーな髪型。
始めて見たからびっくりしたよ。
(剃りあげた頭にモミアゲ部分だけを両サイド伸ばし、クルクルって巻いてるのだ)
トリ曰く「(それなりに)永い美容師生活の中で、見たことも作ろうと思ったこともない髪型」。
そりゃそーだ。だって「電撃ネットワークに入りたい!」って人でもない限り思いつかない髪型だもん。
230出土地不明:2009/06/03(水) 22:23:54 ID:BywdNayp

<※以下引用をちょと伏字にするっすよ、興味あったら各自リンクファイル開くっすよw>


奈良大学文化財学科特別講義のお知らせ(PDFファイル)
http://www.nara-u.ac.jp/update/20090529/kougi.pdf

■文化財学科特別講義のお知らせ■

文化財学科では、次の日程で特別講義を開催します。

一般の方にも無料で参加いただけます。多数のご来聴お待ちしています。


   ■演 題: 「卑××と××古墳」
   ■講 師: ×××× 先生 (×××××××××名誉教授)


日 時:6月10日 (水) 16:20-17:50
会 場:奈良大学 教室棟 (C棟)3階 C-302教室

* 駐車場はありませんので、来学時は公共交通機関をご利用下さい。
* C-302教室は16:10まで他の授業で使用しています。入室は授業が
  終了するまでお待ち下さい。

奈良大学 (奈良市山陵町1500)
http://www.nara-u.ac.jp/
交通の案内
http://www.nara-u.ac.jp/kotu.html
231出土地不明:2009/06/05(金) 00:20:30 ID:aIn5uTDG

■広島県立みよし風土記の丘・広島県立歴史民俗資料館
   開館30周年記念 春の特別企画展 「弥生の都・吉野ヶ里遺跡」

 記念講演会(第2回文化財講座)

          『邪馬台国ヤマト説の今日』

  講師 奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長 寺澤 薫さん

日 時 平成21年6月6日(土) 14:00〜16:00
会 場 広島県立歴史民俗資料館 研修室

申込み 当日受付
定  員 120名
受講料 200円(資料代を含む)
http://www.manabi.pref.hiroshima.jp/rekimin/bunkazaikouza1.html

広島県立みよし風土記の丘・広島県立歴史民俗資料館 広島県三次市小田幸町122
http://www.manabi.pref.hiroshima.jp/rekimin/
232出土地不明:2009/06/13(土) 04:39:40 ID:cJId2Paj
■結界?石室上で柱穴が複数出土 奈良・桜井茶臼山古墳

 大和政権初期の大王(おおきみ)の墓の可能性がある奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(3世紀末〜4世紀初め、全長200メートル)で、後円部から複数の柱穴跡が見つかった。
県立橿原考古学研究所が12日発表した。被葬者を安置した石室の真上部分で、約150本の丸太で囲まれていたとみられる。

 橿考研によると、古墳から木造構造物跡が出土したのは初めて。石室の神聖さを守る「結界」の役割や、死者を弔う祭礼の館の可能性があるという。

 同古墳は1949〜50年に発掘調査されたが、竪穴式石室の構築法などの解明を目指し約60年ぶりに今年1〜3月に再調査した。
後円部中央にあった「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構(東西9.2メートル、南北11.7メートル、高さ約1メートル)の周囲98平方メートルを調べた。

 方形壇の周囲4カ所から幅約1メートルの溝が見つかり、いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30センチ)が計10個あった。
柱が埋め込まれた深さは1.3メートルで通常はこの2倍程度が地上に出るとされる。未発掘の部分も含め当時は、地上高2.6メートルの約150本の柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたらしい。

 格式が高いとされる前方後円墳など定型化した古墳が出現する古墳時代以前では、弥生時代の墳丘墓上から柱穴が出土した例がある。

 橿考研の寺沢薫・総務企画部長は「神聖な場所である埋葬施設を外部と遮断して結界し、邪気が入ってこないようにしたのだろう」と話す。現場は埋め戻され、現地説明会は予定されていない。(渡義人)

朝日新聞2009年6月12日19時49分
http://www.asahi.com/culture/update/0612/OSK200906120102.html

後円部頂上から複数の柱穴跡が出土した桜井茶臼山古墳=3月、奈良県桜井市、本社ヘリから、寺脇毅撮影
http://www.asahi.com/culture/update/0612/images/OSK200906120111.jpg
桜井茶臼山古墳にあった「丸太垣」のイメージ図=奈良県立橿原考古学研究所提供
http://www.asahi.com/culture/update/0612/images/OSK200906120110.jpg
桜井茶臼山古墳・後円部頂上の平面図
http://www.asahi.com/culture/update/0612/images/OSK200906120109.jpg
233出土地不明:2009/06/13(土) 04:49:23 ID:waP0tPDA

■【桜井茶臼山古墳】40〜50枚? 副葬の銅鏡、国内最多か

 桜井茶臼山古墳では、銅鏡の破片153個も出土した。
昭和24、25年の調査で見つかった20枚近くの鏡と合わせると、計40〜50枚を副葬したとの見方も浮上。国内最多の40枚が出土した平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、福岡県前原市)を上回る可能性も出てきた。

 鏡の破片は竪穴式石室周辺から出土し、大半が数センチ大に割れていた。
60年前の調査では、邪馬台国の女王・卑弥呼に対し、中国から下賜(かし)されたともいわれる三角縁神獣鏡などが見つかっており、同研究所は鏡の種類の特定などを進める。

 古墳出土の銅鏡は、大和政権の大王が、大陸の王朝から下賜されたものを国内の地方首長らに配布して服属を誓わせたとの説や、鏡の光によって被葬者の魂を邪悪なものから守るための「葬具」といわれるなど、謎の多い副葬品。
同古墳の鏡は、大和政権の権力構造を考える上でも重要なカギを握るとみられる。

MSN産経ニュース2009.6.12 20:46
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090612/acd0906122047003-n1.htm

桜井茶臼山古墳の後円部=8日午後1時1分、奈良県桜井市(本社ヘリから・前川純一郎撮影)
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090612/acd0906122047003-p2.jpg
234出土地不明:2009/06/13(土) 05:45:17 ID:hOE/z73E

■桜井茶臼山古墳:王墓囲う「丸太垣」 神聖な空間を区画

毎日新聞 2009年6月12日
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090613k0000m040042000c.html


■桜井茶臼山古墳:強大王への恐れ 封じ込め願う?

<略>
 調査を担当した岡林孝作・同研究所付属博物館総括学芸員は、石室を覆う方形壇のすそで見つかった二重口縁壺が、方形壇の上部から転落し壇のすそに立っていた丸太垣に引っかかった跡だったことに驚いた。
他に例がない光景が「大王墓」の証しになると確信した岡林さんは
 「王の偉大さに対する恐れがあったのだろう。何が何でも死者の魂を封じ込めたい、という強い思いが伝わってくる」
と話す。

 一方、石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)は柱列が垣の痕跡ではなく、屋根のある建物の壁だったのではないかと考える。
 「垣根ならこんなに深く柱を埋める必要はない。古代中国には『死者の魂は建物に宿る』とする思想がある。
 ホケノ山古墳(桜井市)の木槨(もっかく)には屋根があった可能性を示す柱があるし、勝山古墳(同)でも周濠(しゅうごう)から建築部材が出ている」
と指摘する。

毎日新聞 2009年6月12日
http://mainichi.jp/enta/art/news/20090613k0000m040091000c.html

60年ぶりの調査で現れた桜井茶臼山古墳の石室天井石=奈良県桜井市で2009年3月7日、三村政司撮影
http://mainichi.jp/enta/art/news/images/20090613k0000m040099000p_size5.jpg
235出土地不明:2009/06/15(月) 20:30:19 ID:mCuFD+qk
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
http://www18.ocn.ne.jp/~doukyou/shirukai/sub01.html

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/136.htm

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/kaihou26.html
236出土地不明:2009/06/15(月) 20:31:18 ID:mCuFD+qk
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
http://homepage2.nifty.com/kodaijin-tamat/index.files/karanokuni.htm

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/siba/karakuni.htm
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
http://www1.coralnet.or.jp/kn/tenti/c2002401.htm
237出土地不明:2009/06/15(月) 20:32:22 ID:mCuFD+qk
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
238出土地不明:2009/06/16(火) 11:33:40 ID:TGBuHJFS
木槨って遊牧騎馬民族の墓の特徴なんだってさ。
アルタイの王墓は立派な槨の中に石のベットに遺体が安置されていた。
扶余は「槨有りて棺無し」
日本は「棺有り、槨なし」
扶余と日本の折衷が日本の古墳になったと考える事も可能だろう。
239出土地不明:2009/06/18(木) 01:52:05 ID:a1BHkkTz
扶余なんて関係ねぇよバカ。
240出土地不明:2009/06/20(土) 22:48:33 ID:ySMUAtlk

■大阪府立近つ飛鳥博物館 平成21年度春季特別展
   開館15周年記念「卑弥呼死す、大いに冢をつくる−前方後円墳の成立−」

関連事業
○講演会」
 6月21日(日)
  「倭国がつくりだした大王墓の形象 ─前方後円墳─」 水野正好氏 ((財)大阪府文化財センタ−理事長)

時 間: 午後2時〜3時30分
会 場: 地階ホール
定 員: 200名

※講演会には今季特別展の半券または年間パスポートが必要です。
※12時より1階ロビーで入場整理券を配布します。
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2009_spring/index.html#kouen

大阪府立近つ飛鳥博物館 大阪府南河内郡河南町大字東山299番地
http://www.mediajoy.com/chikatsu/index_j.html
241出土地不明:2009/07/17(金) 11:34:41 ID:LUxIffus
■邪馬台国シンポジウム9 開催のご案内

 考古資料を通じて、邪馬台国が存続した3世紀の大和と各地域の関係や前方後円墳の出現・成立過程等を考える邪馬台国シンポジウムシリーズの第9回。
今年度は、古代に伊予(愛媛県)、豊前・豊後(福岡県東部から大分県)、安芸(広島県西部)、周防・長門(山口県)とよばれた西部瀬戸内地域に焦点をあて、
各分野に精通された7名の考古学研究者によって、邪馬台国時代前後の同地域と畿内の関係等について検討します。

▼日時 第1日 7月19日(日) 13:00〜  第2日 7月20日(月・祝日) 9:30〜
▼会場 香芝市文化施設・ふたかみ文化センター・市民ホール
▼定員 300人

▼内容
第1日(7/19)
13:00〜13:10 開催挨拶・趣旨説明 石野博信・二上山博物館館長
13:10〜14:00 「周防・長門における3世紀の集落と初期古墳」 田畑直彦氏・山口大学埋蔵文化財資料館
14:00〜14:50 「3世紀の豊後の集落と初期古墳」 田中祐介氏・大分県教育庁
15:00〜16:00 「3世紀の伊予と西部瀬戸内の土器交流」 梅木謙一氏・松山市考古館
16:00〜16:50 「畿内の西部瀬戸内系要素」 橋本輝彦氏・桜井市教育委員会
第2日(7/20)
09:30〜09:40 開催挨拶・趣旨説明 石野博信・二上山博物館館長
09:40〜10:30 「邪馬台国時代の前期古墳と西部瀬戸内の海人族」 苅谷俊介氏・俳優、日本考古学協会会員
10:30〜11:20 「3世紀の安芸の集落と初期古墳」 古瀬清秀氏・広島大学大学院
11:20〜12:00 「瀬戸内の早期古墳と近畿」 石野博信・二上山博物館館長
12:00〜13:00 休憩
13:00〜16:00 シンポジウム「邪馬台国時代の西部瀬戸内と近畿」
テーマ1「土器の流通」 2「住居と集落」 3「鉄と青銅器の生産と流通」  4「初期古墳─墳形と埋葬施設─」 5「初期古墳─副葬品(鏡他)─」
司会・進行:石野博信 パネリスト:梅木謙一氏、苅谷俊介氏、田中祐介氏、田畑直彦氏、橋本輝彦氏、古瀬清秀氏

▼その他
・事前の申込みは不要です
・入場には、当日発行の二上山博物館観覧券が必要です(観覧券は2日間有効です)
・資料集は1冊1,500円程度で販売します
http://kashiba-city.net/hakubutsukan_cgi/nicky.cgi?DT=20090614A#20090614A
242出土地不明:2009/07/17(金) 12:34:16 ID:K0PuIzqe
邪馬台国系スレッドで1番人気らしい

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!32
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1246892726/
243出土地不明:2009/07/18(土) 10:42:53 ID:qMGAX7TP
>>236
歌垣は現代日本でも生きているよ。
子供の遊びとしてね。
「はないちもんめ」がそれ。
244出土地不明:2009/07/18(土) 18:22:26 ID:eQSuZmfX
魏志倭人伝には倭人が「断髪」をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露? 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm



245出土地不明:2009/07/30(木) 16:02:34 ID:OXrgep0l
「卑弥呼」は、たぐいまれなサイキックな女性で、美しく聡明で、
圧倒的なカリスマ性で、古代日本を統治していたそうです。
各地方のリーダーは、誰もが「卑弥呼」を自分の、または自分の息子の嫁にと、
熱望しましたが、「卑弥呼」は生涯を独身で過ごしました。
ジョーが、「卑弥呼」と関わるようになったのは、学研「ムー」のプロジェクトへの参加がきっかけです。

数年前に、初めて「卑弥呼」をリモート・ヴューイングしたときに、彼女のあまりの美しさに驚いたそうです。

「卑弥呼」が生まれたのは、九州(天孫降臨の地と呼ばれている土地)です。
少女のころ、伯父の要請で現在の奈良に移り、両方を行き来しました。
ですから、「邪馬台国」は、九州説も畿内説も、両方正しいのです。
この論争に明け暮れている学者の皆さま、もう争わなくていいですよ。
246出土地不明:2009/07/30(木) 16:53:07 ID:PZ9bOEjJ
>>245

コピペはウザイが、
卑弥呼が九州〜畿内を行き来してたと言われればそれは否定できない。

問題は、魏と外交してた行政府が、九州と畿内どちらに置かれていたか、
卑弥呼の墓はどこか、ということ。

247LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/30(木) 17:31:15 ID:AwqUmk10
卑弥呼という名前が魏志倭人伝に出てくる3世紀の半ばごろ、畿内の土器、古墳は
吉備の影響を受けている。記紀の吉備津彦の姉、百襲姫を卑弥呼とすると話はピッタシ。
こうした纒向の巨大古墳建設開始に先立って紀州を制圧する神武の話があるのだが、
紀氏というのも吉備の出身であり、吉備の勢力というのは大がかりであったようだ。
248出土地不明:2009/07/30(木) 18:33:38 ID:6EImG7n/
>>247
>紀氏というのも吉備の出身

なにを根拠に?


紀氏の祖は武内宿禰のはずだが。
249LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/30(木) 20:26:59 ID:AwqUmk10
これはトルケスタンの古代チュルク語による族名の研究の結果を適用すると倭・伽耶
の金海、吉備、紀は等しく「熊」を意味する言葉で同一の族名であることによる。
250出土地不明:2009/07/30(木) 20:52:32 ID:gu6FI8Ib
オカルト板へどうぞ。
251LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:00:28 ID:wLN4OXhz
承前
台頭しつつあった突厥、それはチュルク語を話すコーカソイド集団、トゥーラン族であり、
月支等のイラン語を話すコーカソイドとは違うものであった。吉備・纒向に起こった
竪穴式前期前方後円墳は楯築の中円双方墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E7%AF%89%E9%81%BA%E8%B7%A1
、ひげクルガン・石板墓の折衷型同様トゥーラン族のものであった。
古墳時代後期、日向に興った地下式横穴墓はスキタイ・サカ族、つまり、イラン系のもの
であり、秦氏に率いられて九州に入ることになる月支族のものとみられる。他方現
ブリャート共和国西部には四辺内反り墳があり、これは出雲から裏日本・会津・信州
方面に拡大を見せている。モンゴリア周辺のトゥーラン化は冒頓単于による月氏
駆逐後に起こったのではないかとみられる。
252LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:12:15 ID:wLN4OXhz
神武東遷説話はこうした神武・イラン系の勢力圏が日向から山陽道を経て紀州に伸びた
ことを物語り、残余の地方、つまり、山陰から東海・越にかけてはトゥーラン系が押えて
いたことを物語る。もちろん経済の中心は久宝寺方面にあったわけであり、いわば宗教・
古墳づくり技術の分布状態を意味する程度のことではあろうが。
253LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:29:31 ID:wLN4OXhz
大陸において匈奴・月氏は敵将の首級を釜ゆでにして髑髏盃を作った。この伝統は
信長・浅井長政の時代にまで続いているが、古くは吉備で吉備津彦が温羅の首級を
釜ゆでにした故事から来ているようである。
254LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:42:22 ID:wLN4OXhz
キビ族は全国にあり、敦賀の気比神宮もそうである。鬼の温羅を征伐した桃太郎
ちいうのはおそらく敦賀の気比神宮を発したもので後の継体なども同様である。
吉備の文化が近畿を制圧したなんて言うものではなく、近畿庄内土器文化圏が
吉備に拡大されたといってもいい。
255出土地不明:2009/07/31(金) 10:50:29 ID:tOj53AX+
物部王朝は存在したのだろうか
256LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:59:55 ID:wLN4OXhz
物部王朝というよりは久宝寺経済圏の防衛組織としての河内物部は銅戈という武器
とともに存在し、西方からの神武の侵攻を防衛したと考える。彼らは銅鐸文明の最後の
守備兵であり、後に政権が交代しても近衛軍団として纒向石上に移動したのであろう。
蘇我に敗れたのちはどうやら信州・諏訪のホウリ・神主になったようだ。
257LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 11:09:09 ID:wLN4OXhz
いわゆる銅剣銅矛文化圏から銅鐸文化圏に移動してきたものと考えられるんだが、
伊都国・奴国が前漢・後漢の銅鏡文化を受ける時代にはすでに銅鐸文化圏に入って
いたか、あるいは、途中の出雲・吉備方面にいたかしたせいもあり、前漢・後漢の銅鏡
とはまったく縁がないようだ。
258LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 11:17:21 ID:wLN4OXhz
銅鏡というのはスキタイ・サルマート族に非常に強くみられる傾向であり、イラン
北部でも甕棺とともに出土している。つまり、イラン系の慣習であって、トーラン系
にはシャーマンが胸に小型のものをぶら下げる習慣はあるものの大量埋納の例は
聞かれない。
259LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 12:11:08 ID:wLN4OXhz
河内文化の退廃
「布留式古段階において、河内では最終末期の庄内式甕が大量に残存する。しかし
和泉などの周辺地域では庄内式甕の流入がほぼ停止し、土器様式が布留式へと強く
傾斜する。したがって、河内で布留式以降に残存する最終末の庄内形甕は、流通を
目的とした生産体制が崩壊し、自給的な一器種の位置まで後退していることを窺わ
せる。そして次の段階には河内でも布留式甕への転換がほぼ完了する。かつて庄内
式甕がみせたような特異な広域流通の経験と蓄積が、布留式誕生の下地を用意した
ことは疑いない。しかし結果的に庄内式甕は比較的短期間で退廃し、布留式甕へと
重心を移行させていった。その背景にはおそらく倭政権の成立に伴う政治機構の改変、
勢力関係の整理統合などの要因が介在する。」
260LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 12:12:11 ID:wLN4OXhz
纒向布留式甕への移行
「布留式土器には地域を越えた斉一性という大きな特性がある。こうした背景には、
旧来の各地方共同体にみられた弥生以来の伝統的な郷土色、地域色を払拭するば
かりか、畿内主導型の土器様式を浸透させることで、新たな広域政権の誕生を顕示し
ようとする意図すら窺える。また単に土器様式の変化にとどまらず、大形前方後円墳
出現前後の古墳の動態、古墳文化の拡散とも同調する点で、日本史の中でも特異な
時代であるといえよう。」
http://www.occh.or.jp/kako_news/images/040319/hajiki-leaflet.pdf
261LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 12:38:21 ID:wLN4OXhz
ブリャートの学会によればモンゴリアの中心を東西に分断する線によってモンゴロイドと
コーカソイドのそれぞれ方墳・円墳の対立軸があるとされる。従いこの区分により
東側の文化圏を東胡、西側の文化圏であって、冒頓単于による月氏駆逐以降の
ものをトゥーランないしはタタールとしてもいいのではなかろうか。こうすると四隅
突出型墳丘墓は東胡系、前方後円墳はトゥーラン系、日向の地下式横穴墳は
イラン系というようになるが。
262LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 12:42:02 ID:wLN4OXhz
古墳時代の人種についてはかなりコーカソイド・モンゴロイドがごたごた入り混じってい
たのではないかと思われる。倭人伝に鬼と書かれているのはコーカソイド系では
なかろうか。
263出土地不明:2009/07/31(金) 12:57:40 ID:HwGu6Gju
>>225

物部王朝というものは存在しません。
誰が最初に言い出したのかなあ?
鳥越だっけ?
264LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 12:58:53 ID:wLN4OXhz
http://history.novosibdom.ru/files/u8/sibir_65.jpg
これは石板墓文化人の戦闘装備であるが、この文化は鹿石文化として箕子朝鮮
が殷の時代に居住していた陝西省・山西省に広がり、周の克殷時には東方に移動
していることが分かっている。これが箕子朝鮮として、遼東・楽浪、そして衛満に追われ
ついには伊都国・奴国に亡命、更には物部として河内に移住したものと考える。つまり
支石墓文化である。支石墓とは九州で決別してはいるものの巨石文化の特徴は
信州にまで持ち込まれているようである。
265LUNAMASK aka 月光仮面:2009/08/01(土) 09:38:42 ID:leNyFb3I
>>249
イェニセイ・ケト族に「熊」族と自称するものがあり、自民族の言語で熊のことを、その
方言の違いでKibaまたはKybaと呼んだ。これが中世チュルク語のKibi族及びMrassu
中流域の民族名Kibaとなる
K voprosu o proishozhdenii nazvanij "kimak" i "kypchak"
Kostochakov G.V.より
266出土地不明:2009/08/20(木) 23:01:36 ID:l//njXBb
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/jpncul.html

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/15-1kouzan.htm

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/
◆遼寧の石包丁
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/./photos/uncategorized/2008/02/04/070827_078_2.jpg
267出土地不明:2009/08/26(水) 18:07:39 ID:QAwqSY/5
**これは縄文なのか弥生なのか分から無く成ってきたぞ。

桜町遺跡と河姆渡遺跡・・「高床の道は米の道、河姆渡遺跡と桜町遺跡はつながっている」

縄文中期末葉から後期初頭(約4.000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。
貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといつた二つの部材を組み合わせる
加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口」(木材を凹凸に削って組み合わせる)といった
高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古と
されていた。その加工技術が約4.000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。
http://siyasin.ninja-x.jp/sisou-2/kodaisi/hokuriku/sakurahukugen/hukugen.html
268名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:23:29 ID:0X4O7Cwg
389 :出土地不明:2009/08/29(土) 21:07:38 ID:oqHxVwoH
>>382-388
よう!

日本人のルーツを台湾人の祖郷江南に誘導する事がミッションの
侵略者チャイニーズタイペイ工作員くんw

馬鹿と低脳しかダマせない欺罔ネタはそれでもう終わりか?w

では、神の俺様から下々に向かってご神託をしてやろうw

その中で縄文高床式倉庫の証拠として使えるのは、数百以上の跡がある
三内丸山遺跡と高床式倉庫を構成する大部分の部材が出土している桜町遺跡だけだな。

跡や建材の一部だけだと、旧石器時代からある竪穴式住居のものだと言えてしまうからな。

で、肝心のその高床式倉庫の伝来先だが、三内丸山遺跡と桜町遺跡がある青森と富山に
当時登場してきた土器を見れば一目瞭然だな。

「円筒土器」は、東北地方北半部から北海道南西部にかけてと、不思議な事に
東北地方南部を飛び越えて北陸の富山から出土している。

で、この円筒土器、当時の遼寧から沿海州南部にいたる北東アジアに広がっていた
「平底筒形罐」と器形が全く一致している。

つまり、日本海を縦断した青森や富山から一番近い大陸だった「沿海州南部」との
交流を通じて、縄文高床式倉庫も円筒土器も玉ケツ(ケツ状耳飾)も伝わっただけなのである。

ただし縄文高床式倉庫と弥生高床式倉庫は連続していない。

西日本での縄文期の高床式倉庫の確証遺構が全く無いからである。

弥生高床式倉庫は弥生開始期と同時に九州北部に突如として登場するのである。
269↑↑↑↑↑↑↑:2009/08/30(日) 18:03:27 ID:bkluBJyS

@@@@@@@オレ少し台湾ノイローゼ気味かな@@@@@@@@
270出土地不明:2009/09/03(木) 14:31:46 ID:fnvoYuEf
247 :LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/30(木) 17:31:15 ID:AwqUmk10
卑弥呼という名前が魏志倭人伝に出てくる3世紀の半ばごろ、畿内の土器、古墳は
吉備の影響を受けている。記紀の吉備津彦の姉、百襲姫を卑弥呼とすると話はピッタシ。
こうした纒向の巨大古墳建設開始に先立って紀州を制圧する神武の話があるのだが、
紀氏というのも吉備の出身であり、吉備の勢力というのは大がかりであったようだ。
271出土地不明:2009/09/03(木) 14:33:00 ID:fnvoYuEf
249 :LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/30(木) 20:26:59 ID:AwqUmk10
これはトルケスタンの古代チュルク語による族名の研究の結果を適用すると倭・伽耶
の金海、吉備、紀は等しく「熊」を意味する言葉で同一の族名であることによる。
272出土地不明:2009/09/03(木) 14:34:36 ID:fnvoYuEf
251 :LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:00:28 ID:wLN4OXhz
承前
台頭しつつあった突厥、それはチュルク語を話すコーカソイド集団、トゥーラン族であり、
月支等のイラン語を話すコーカソイドとは違うものであった。吉備・纒向に起こった
竪穴式前期前方後円墳は楯築の中円双方墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E7%AF%89%E9%81%BA%E8%B7%A1
、ひげクルガン・石板墓の折衷型同様トゥーラン族のものであった。
古墳時代後期、日向に興った地下式横穴墓はスキタイ・サカ族、つまり、イラン系のもの
であり、秦氏に率いられて九州に入ることになる月支族のものとみられる。他方現
ブリャート共和国西部には四辺内反り墳があり、これは出雲から裏日本・会津・信州
方面に拡大を見せている。モンゴリア周辺のトゥーラン化は冒頓単于による月氏
駆逐後に起こったのではないかとみられる。
273出土地不明:2009/09/03(木) 14:36:22 ID:fnvoYuEf
252 :LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:12:15 ID:wLN4OXhz
神武東遷説話はこうした神武・イラン系の勢力圏が日向から山陽道を経て紀州に伸びた
ことを物語り、残余の地方、つまり、山陰から東海・越にかけてはトゥーラン系が押えて
いたことを物語る。もちろん経済の中心は久宝寺方面にあったわけであり、いわば宗教・
古墳づくり技術の分布状態を意味する程度のことではあろうが。
274出土地不明:2009/09/03(木) 14:37:36 ID:fnvoYuEf
253 :LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:29:31 ID:wLN4OXhz
大陸において匈奴・月氏は敵将の首級を釜ゆでにして髑髏盃を作った。この伝統は
信長・浅井長政の時代にまで続いているが、古くは吉備で吉備津彦が温羅の首級を
釜ゆでにした故事から来ているようである。
275出土地不明:2009/09/03(木) 14:38:40 ID:fnvoYuEf
254 :LUNAMASK aka 月光仮面:2009/07/31(金) 10:42:22 ID:wLN4OXhz
キビ族は全国にあり、敦賀の気比神宮もそうである。鬼の温羅を征伐した桃太郎
ちいうのはおそらく敦賀の気比神宮を発したもので後の継体なども同様である。
吉備の文化が近畿を制圧したなんて言うものではなく、近畿庄内土器文化圏が
吉備に拡大されたといってもいい。
276出土地不明:2009/09/04(金) 18:56:37 ID:dHd4mquJ
邪馬台国論争したいならこっちだろ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!37
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1251882149/
277出土地不明:2009/09/05(土) 23:01:12 ID:nLBV0xvC
「呉服」は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
http://kamnavi.jp/link/kojiki2.txt
278出土地不明:2009/09/09(水) 08:37:05 ID:+jT5vUiz



LUNAMASK←こいつマジで精神異常者だよ

279出土地不明:2009/09/09(水) 08:51:37 ID:W7MRCw49
280LUNAMASK aka 月光仮面:2009/09/09(水) 08:51:51 ID:uKe8Y0tB
奈良県桜井市三輪の大神神社は古代の女神・女王の殿堂であり、倭国女王は日本の
国魂・大物主の妻として摂社・末社に祀られている。歴史的倭国女王とみなされるもの
をピックアップすると、
(1)桜井座大神荒魂神社姫蹈鞴五十鈴姫命
(2)同・勢夜多々良姫
(3)神御前神社倭迹迹日百襲姫命
(4)大直禰神社(活玉依姫の子)大直禰命
こうしてみると崇神による大直禰命の抜擢は活玉依姫の復活であり、これは天孫の
戦略により大国主命に対する地祇系との神婚の禁止、つまり、吉備文化圏から加美・
久宝寺文化圏が自らの卑弥呼を共立することを禁止したことを意味する。しかしながら
(1)桜井座大神荒魂神社姫蹈鞴五十鈴姫命(2)同・勢夜多々良姫は出身が加美・
久宝寺文化圏であるのに対し、百襲姫は系図から考えると吉備系である。そして、
百襲姫没後には活玉依姫の復権の意味において加美久宝寺と同様河内系の大直禰
が抜擢されている。このことはAD248年ごろに高齢で没したとされる卑弥呼の治世下に
おいて銅鐸を改鋳乃至は埋納して銅鏡を作る鏡作りが出来上がり、纒向に銅鏡を埋納
する古墳群が造営されたと考えられるが、この卑弥呼の女王就任は対抗馬である
御当地出身の活玉依姫に冷や飯を食わすという極めて物騒な爆弾を抱え込んだ上で
成立していたようである。記紀には佐保彦、武埴安、クガミミノツカサ、倭人伝では
クガチヒコの反乱が伝えられている。
281LUNAMASK aka 月光仮面:2009/09/09(水) 08:56:41 ID:uKe8Y0tB
一方纒向建設には当時の関東から九州に至る地域の土器を携行した人々が
参加している。国家も存在しない時代にこれだけの人員を動員できるものはなにか
と考えると高地性集落の果たした役割を考えざるを得ない。
282出土地不明:2009/09/09(水) 09:08:56 ID:ETKXhqdU
だからLUNAMASKなんだろ?

LUNAという言葉には気違いじみたという意味もあるんだよw 
283LUNAMASK:2009/09/09(水) 13:46:17 ID:uKe8Y0tB
>>281
参照 日本人どこから来たんだ?8
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1248834365/menu987
神武東遷の初めの部分はとは高地性集落経済圏の歴史的東方拡大過程概略を述
べたものと考えることもできる。卑弥呼・倭迹迹日百襲姫のような銅鏡(箸墓に先行
する周辺古墳の出土品)はこうした交易圏東方拡大の結果として起こったということ
で卑弥呼・倭迹迹日百襲姫は神武の子孫といえる。
284LUNAMASK:2009/09/09(水) 13:51:34 ID:uKe8Y0tB
三輪山の周辺では兄弟が骨肉を分けてたたかう社会的闘争がおり、神武の戦闘とは
社会組織が弥生から古墳の階級構造に変わる変革を表したものと考えられる。
285LUNAMASK:2009/09/09(水) 13:59:42 ID:uKe8Y0tB
「桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と?が強勢となり、郡県では制することができ
ず、多くの民が韓国に流入した。建安年間(196年−220 年)、公孫康、屯有県以南の
荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを遣わし、流民を集めるため、兵を挙げて
韓と?を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属さ
せた。」出所[さだべえ]
郡県から穢・三韓に向けての人民の流出が起きた。倭人伝の記録倭国乱と照らしても
旧民は穢・三韓から倭国にも流出したものと考えていいのではなかろうか。
286出土地不明:2009/09/12(土) 16:57:04 ID:A3AujntQ
「鳥居」の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
287LUNAMASK:2009/09/13(日) 11:05:47 ID:xsRPbw5n
日本人どこから来たんだ?8
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1248834365/nenu871
幽霊の正体見たり枯れ尾花・・・であったか。大いに騒がれる神武の正体も単なるホケ
ノヤマであった可能性は高い。神武集団は大和の丘陵が平地を取り巻く地形に惚れ込
んだ、山の辺の道の立地条件が古墳文化を引き込んだ。倭国乱の時代、伊都国・奴国
で始まったヤマト探しは、本州に上陸、吉備吉備で温帯性低気圧クラスになり、大和で
台風となったが、その時の気団は西都原に流れ温帯性低気圧クラスに変貌したのであ
ろう。朝鮮半島における支石墓の発展の初期段階と日本の古墳文化開始は非常に似
ている。投資先を求める外資集団の動きとも似ている。
288LUNAMASK:2009/09/13(日) 12:35:19 ID:xsRPbw5n
「ドルメン博物館 > 支石墓(ドルメン)の保存
私たちの先祖は、巨石に精霊が宿ると信じていた。その精霊を崇拝する信仰の対象とし
て支石墓を築造した。支石墓はある区域に数十基が群をなして存在することもある。
これは、血縁で結ばれた集団が形成されていたということを示している。血縁によって
形成された集団は、先祖崇拝を重要視するようになり、そのような先祖崇拝は生命力と
不滅の意味を持つ支石墓を通じて実現された。
韓半島全体の支石墓の数として約36,000基が学会に報告されている。その中で南方式
支石墓が北方式支石墓よりも多い。コイントルというのは純粋な韓国語で、それは南方
式支石墓に由来する言葉だ。すなわち、コイントルというのは「支えのある石」という
意味で、これは支石墓と一般の石を一次的に区分する方法である。
今日、支石墓の機能はより多様なものだったと考えられている。支石墓は大部分、
血縁集団の墓であるが、血縁集団の墓を象徴する墓標石、氏族や集団の集会所ある
いは儀式を行う祭壇だったと見ることができる。
支石墓が分布している地域を見ると、大体は川辺の平地や丘、山麓、峠の頂上部に
位置している。これは重い石を運搬するのに容易な地域、あるいは周辺で石が手に入り
やすい地域ということで、それらの場所に支石墓が集中的に造成されたものと見ること
ができる。
高敞郡には高敞邑から古水/星松/大山面に続く東部山間地帯と、高敞邑から雅山/
富安/海里/心元面に続く北部山間地帯があり、全体的に低平な丘陵地帯をなして
いる。支石墓は東部山間地帯と北部山間地帯に集中的に分布している。この分布の
様相から、当時の人々は河川のある山間や丘陵で生活し、徐々に内陸に移動して
生活するようになったということがわかる。」
http://www.gcdolmen.go.kr/japanese/2008/main_sub.html?mTop=A2000
これが奈良盆地、纒向峡谷立地選定の根拠だ。
289LUNAMASK:2009/09/13(日) 12:52:44 ID:xsRPbw5n
「これらを挙げてみると、その築造者は前三世紀末〜二世紀初ごろから活動期に入った
貊人(後の高句麗人と系統を同じくするもの)であったに違いないこと、分布は遼寧地区
と朝鮮半島を中心として山東やわが国の北九州にも僅かながらあること、後の高句麗
人は支石墓の分布地帯を舞台として政治的発展を遂げたこと、支石墓は石棺墓の巨大
化した形式とみられるが、両者の拡がりは朝鮮半島において完全に一致し、南朝鮮にお
いては両者が合して複合形を取るものさえあること、などである。」
「東胡系統のトーテムは不明だが、烏丸の名や烏丸・鮮卑の大人に烏氏(鮮卑の烏倫
は率衆王に封ぜられた)があったことからして、鳥トーテムに関係があったのではなかろ
うか。
『魏書』蠕蠕伝に東胡の子孫と記される蠕蠕(柔然)に関して、その西移した一枝が六世
紀中葉にヨーロッパに侵入しドナウ河流域を中心に勢力圏を築いたアヴァール族だった
とみる説(内田吟風氏)がある。」宝賀寿男・・・これは現在ウクライナ考古学者によって
地下式横穴墳と関係するとされている。そして、これは日向にも現れる。
290LUNAMASK:2009/09/13(日) 13:23:18 ID:xsRPbw5n
牧羊犬のようなに犬戎・騎馬民族を駆使し、農閑期の農民に古墳、長城、ピラミッド、スト
ーンヘンジ等の強制労働にをさせ、農業地帯・放牧地帯の共存共栄を図る戦略はBC2000
年頃コーカサス北麓においてアッカド系シュメール文化と原ヒッタイト系印欧語族文化の
間に成立を見た。夏・殷・周の間この戦略は龍山文化においても実行された。戦国の末
これを実行した秦、その走狗となった犬戎、これが神武の祖先、狛だ。
291LUNAMASK:2009/09/13(日) 13:40:19 ID:xsRPbw5n
>>288
>巨石に精霊が宿る
コーカサスではそうではなく、高句麗の朱蒙が無間勝間の船に針で穴をあけ
河伯の娘との婚姻を避けたり、キリストが針の穴とらくだのたとえを出したり、
少彦名がががいもの船に乗ったりするように、死霊はミニチュア化され、ドルメン
の隙間から外に出ると信じられ、ミニチュア化した祭器が供養用に使用されたこと
などから、高句麗の朱蒙、少彦名はコーカサスから山東、遼東、大和に到着した
ドルメンの神であるといえる。
292LUNAMASK:2009/09/13(日) 13:45:40 ID:xsRPbw5n
ユダヤ・キリスト教、秦始皇帝、天皇は山に登りたがるが、これはコーカサスと
平原部で成立した上記戦略を実行するためには黄山、嵩山のようなお膳立てが
必要であったことによる。それは山里回遊放牧・農業文化ともいうべきもので
日本では日向方面にタンカンサとして残る。
293LUNAMASK:2009/09/13(日) 13:50:12 ID:xsRPbw5n
西都原には神武軍団のキャンプがあったということになろうか。
294LUNAMASK:2009/09/13(日) 13:58:16 ID:xsRPbw5n
パレスチナでヒッタイトが不動産業をやっていたころのアブラハムはホームレスであり、
妻の墓を買う金がなくて苦労したようである。このヒッタイトというのがハタとも読める。
295出土地不明:2009/09/14(月) 19:33:46 ID:4WUQ+m7l
むかーしむかし、長江の河口域あたりの江蘇省から3000年前、渡来系弥生人が
九州北部に渡来して水田稲作を伝えました。

ところが、なぜかこの最古の水田遺構を残した長江の渡来人、何を血迷ったのか、
自らの故郷の石鋤などの石製農耕具を伝えず、長江に無いはずのクワを農耕具として
伝えてしまったんです。しかも木製の。

最後の最後まで当時の江南の農耕具の主役だった石鋤を一切伝えてくれなかったんです。

おまけに、この水田稲作を伝えてくれた長江の渡来人、何をとち狂ったのか、
故郷の江南系中国土器を伝えず、わざわざ遠く離れた北方の沿海州系の土器を
最古の水田遺構に伝えてしまいましたとさ。


おしまい(爆
296出土地不明:2009/09/16(水) 00:39:09 ID:47uhdnxs
>>288
>これが奈良盆地、纒向峡谷立地選定の根拠だ。

縄文時代から続く三輪山信仰が纒向遺跡へと発展しただけでしょう。
297出土地不明:2009/09/17(木) 20:52:08 ID:n3BIckfu
「呉服」は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
http://kamnavi.jp/link/kojiki2.txt
298出土地不明:2009/09/17(木) 21:28:58 ID:SH9A+y0n
>>297
あれっどうして金さん、李さん、朴さん、って居ないの?

百済って韓国人の国じゃないんだ!
299出土地不明:2009/09/18(金) 01:37:24 ID:PdCBBabc
だから倭人みたいな名前の百済人は倭人と同種
1文字の人たちは秦の時代の中国から流れてきたのだろう
300出土地不明:2009/09/18(金) 02:21:14 ID:FgOMwwRl
三国志魏書 東夷伝(魏志東夷伝)

韓在帯方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。

「韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里ばかり。」


三国志魏書 東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里始度一海千餘里
至對馬國

「(帯方)郡より倭に至るは、海岸にしたがい水行し、韓国をへて、南へ東へと進み、
 その(倭国の)北岸狗邪韓国へと至る。七千余里を進み、初めて海を渡ること一千余里、
 対馬国に至る。」


同種というより、朝鮮半島に存在した倭国領に住む正真正銘の倭人。
301出土地不明:2009/09/18(金) 05:01:51 ID:WWSvEJF9
三陸会は誇りであり不平等条約なるものは撤廃、白蓮教は現代の創価と何ら変わりなしのカルトである。http://gadou.tv/viewFileDetail.php/0023?aid=2208955&RNTLUSERSESS=7629967425a52319f3d8bbde578c24f1&guid=ON
302出土地不明:2009/09/18(金) 23:07:15 ID:Dek5N/xB
>>300
朝鮮半島に存在した倭国領ではなく、
魏志倭人伝のころは倭自体が朝鮮半島にあったんだろう。
もちろん倭自体の広がりは列島にまで及んでいたかもしれないが、
鉄の供給を弁辰に頼っていたことからして、
半島に領地があるうちは首都も半島に置くほうが便利。
従って邪馬台国も朝鮮半島にあったと推測。
303出土地不明:2009/09/19(土) 02:06:16 ID:m7K1ox77
>>302
>魏志倭人伝のころは倭自体が朝鮮半島にあったんだろう。
>従って邪馬台国も朝鮮半島にあったと推測。

「その(倭国の)北岸狗邪韓国へと至る。七千余里を進み、初めて海を渡ること一千余里、
 対馬国に至る。」と書いてあるのだが、魏志倭人伝を読んだことがないのか?
そもそも魏志倭人伝の巻頭からいきなり、
倭人在帯方東南 大海之中 依山爲國邑。
「倭人は帯方郡の東南の 大きな海の中にあって 山々の中で国を営んでいる。」と述べられている。
304出土地不明:2009/09/19(土) 02:09:09 ID:m7K1ox77
魏の使者が倭の女王国へと旅した経路(魏書東夷伝倭人条より)

到 其北岸 狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國。
「その(倭国)の北岸 である狗邪韓国に至る。七千余里をへて初めて
 海を渡って対馬国に至る。」
半島南部の狗邪韓国は、倭国の北の果てであって、都でも中心部でもない。
また魏からの遣倭使が対馬を渡っていることで、倭国の本体は日本列島にあったこともわかる。

又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國。
「さらに南へ瀚海という海を渡ること一千余里で一大国に至る。」
又渡一海千餘里至末盧國
「さらに海を渡り一千余里で末盧国に至る。」
東南陸行五百里到伊都國。
「東南へと陸行すること五百里で伊都国へと至る。」
東南至奴國百里。
「東南へ百里進んで奴国へと至る。」
東行至不彌國百里。
「東へ百里進んで不彌国へと至る。」
南至投馬國水行二十日
「南へ水行二十日で投馬国へと至る。」

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。
「南へと水行十日し陸行一月で邪馬台国の都、女王国に至る。」

半島南部の狗邪韓国が倭国の北限で、そこから海を渡った遙か彼方に女王国が
あるということにより、倭国の本体は日本列島にあったということもわかる。
305出土地不明:2009/09/19(土) 11:42:55 ID:VjScMtK6
>>304
韓の南が倭と接していることからして、
倭の領土が半島(+列島)だったことは確か。
半島と列島に領地がある場合、
首都をどこに置くかという話だね。
海を何千里渡ってどこそこに着く、というのも、
半島南に山ほどある島々を渡っていただけかもしれんしね。
306出土地不明:2009/09/19(土) 13:47:31 ID:cUEr3ue5
朝鮮南部にあった倭人の国は東夷伝韓の条にある彌烏邪馬国その他だろう。

 列島にあった首都は邪馬台国、半島は別に出先機関?として後の任那(日本府)があった。
307出土地不明:2009/09/21(月) 18:29:05 ID:YucHk+lh
「入れ墨」は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
http://blog.livedoor.jp/sakae101/index.rdf
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
308出土地不明:2009/09/21(月) 18:31:26 ID:YucHk+lh
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
309出土地不明:2009/09/21(月) 18:33:14 ID:YucHk+lh



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
http://www.tnc.ne.jp/oasobi/oasobi03/119tatoo/index.html
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

310出土地不明:2009/10/06(火) 09:47:54 ID:V/+0eANz
>>304
韓国と明記されているのに、狗邪韓国は倭国だというのは無茶苦茶だな。
311出土地不明:2009/10/06(火) 13:11:17 ID:jTSnJMUZ
>>305 漢文を読めない朝鮮妄想だな。
312出土地不明:2009/10/06(火) 17:11:28 ID:LXUKdaQ6
>>305
>海を何千里渡ってどこそこに着く、というのも、
>半島南に山ほどある島々を渡っていただけかもしれんしね。


朝鮮人の願望はどうでもいい。
「初めて海を渡ること一千余里、対馬国に至る。」
「さらに南へ瀚海という海を渡ること一千余里で一大国(壱岐)に至る。」
半島南部から対馬へと南下し、そこからさらに海を渡ったら日本列島しかない。
というか、対馬自体がすでに日本列島。


>>310
残念だが、「韓」とは単なる地名を指す単語でしかない。
この時代の「韓国」とは「韓地方にある国」という意味であり、朝鮮民族の国という意味はない。
朝鮮民族の国が韓国と呼ばれるのは1910年の大韓帝国から。
魏志倭人伝は、狗邪韓国は韓地方にある倭人の国だと言ってるのである。
313出土地不明:2009/10/06(火) 22:46:21 ID:avDxTYEL
>>312
魏志は、民族で国を分けているわけではない。国がある地域で分けているだけだ。
倭の地にあるのは倭の国、韓の地にあるのは韓の国だ。あなたの言うように、狗邪韓国
は韓の地にある。だから韓国だ。韓の地にある以上、倭の国ではない。
それに、倭人伝は、狗邪韓国を倭人の国だなんて一言もいってないよ。
314出土地不明:2009/10/08(木) 11:13:29 ID:Uxuf/Aw4
>>313 >>倭人伝は、狗邪韓国を倭人の国だなんて一言もいってないよ。

・・・韓人の国であるとも一言もいってないな。
315出土地不明:2009/10/08(木) 14:07:11 ID:uqRBREhU
当たり前だろ。倭人伝なんだから、韓国についていちいち説明するわけがない。
316出土地不明:2009/10/10(土) 17:32:31 ID:ZEGEsudi
韓国は属国にならないと生きていけないのですなぁ。結局。
317出土地不明:2009/10/10(土) 21:12:48 ID:WFrK9d6K
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/jpncul.html

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/15-1kouzan.htm

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/
◆遼寧の石包丁
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/./photos/uncategorized/2008/02/04/070827_078_2.jpg
318出土地不明:2009/10/10(土) 21:14:47 ID:VAJWg9yy
水稲が江南→日本→半島もあるが、
半島に伝わっていない品種があるので、
水稲が 江南→日本−×→半島もあります。
稲のDNA調査から、ほぼ間違いないと思われます。
また、朝鮮半島に稲作が伝わったのは4〜5000年くらい前、
日本では、稲作や麦作は約6000年前からです。

稲作が朝鮮半島から伝わったのなら、日本列島になぜ古代朝鮮半島の
農機具も伝わっていないのだろうか、
弓山里遺跡から石鍬、角鍬、猪牙鎌などの農耕具が出土してるのに、
日本列島は木製農機具ばかり。
また、朝鮮半島では、石犂、石鎌も智塔里遺跡から出土している。
農機具で、稲作の伝わり方を説明するのには、朝鮮半島経由では、
矛盾が出てくるんだが。
319出土地不明:2009/10/10(土) 21:17:19 ID:0Wzury02
生口にて、食材としての人間を大量に中国に輸出していた。

中国人にとって日本人は美味しいご馳走であったわけです。

これは中国人を貶めるわけではありません。

古代ローマでもマンショ(宿場)で出されたスープに人間の指が混ざってた
なんて、普通の話です。

古代ローマyた漢帝国は進んだ文明ではありましたが、所詮は古代文明です。
320出土地不明:2009/10/10(土) 21:44:12 ID:m3RHgIE9
むかーしむかし、長江の河口域あたりの江蘇省から3000年前、渡来系弥生人が
九州北部に渡来して水田稲作を伝えました。

ところが、なぜかこの最古の水田遺構を残した長江の渡来人、何を血迷ったのか、
自らの故郷の石鋤などの石製農耕具を伝えず、長江に無いはずのクワを農耕具として
伝えてしまったんです。しかも木製の。

最後の最後まで当時の江南の農耕具の主役だった石鋤を一切伝えてくれなかったんです。

おまけに、この水田稲作を伝えてくれた長江の渡来人、何をとち狂ったのか、
故郷の江南系中国土器を伝えず、わざわざ遠く離れた北方の沿海州系の土器を
最古の水田遺構に伝えてしまいましたとさ。


おしまい(爆
321出土地不明:2009/10/10(土) 22:47:23 ID:z3DK79hS

日本に縄文稲作が有ったのは確実で、その縄文稲が朝鮮経由なら

遼寧の半月型石包丁が縄文遺跡からザクザク出てくるはずだが出てこないね

あれえ〜〜どゆこと トンスル団員さん教えて!
322出土地不明:2009/10/11(日) 07:55:36 ID:+xGVWUO0
考え方が単純すぎるんだよ。北からも南からも人は出入りしていたんだ。
片方から稲が伝わって、もう一方からは全く入ってこないなんてことはないよ。
どちらからも、入ってきたんだよ。
323出土地不明:2009/10/11(日) 09:54:07 ID:O9UaO9Hr
南からは全然無い。
324出土地不明:2009/10/11(日) 14:21:52 ID:upOhDRZw
○日本海沿岸と太平洋海沿岸の対岸観の違い
日本海沿岸の人々は、朝鮮、沿海州から海岸に物が流れ着く場所であったこともあり、
海の彼方に人の住む世界のあることを古代から認識していた。
一方、太平洋沿岸の人々は、中世末期以降にヨーロッパと接触するようになって
はじめて海の彼方に人の住む世界のあることを認識した。
・対岸世界の認識
6000年前の縄文海進による干潟の形成によって、
日本海沿岸の干潟付近に人間が住み出し、貝塚が形成され、
この時期に日本海沿岸の人々は丸木舟を作り海に出た。
対岸でも同様で、ロシアのザイサノフカ遺跡などの貝塚も日本と同時期に形成された。
日本海を挟んで、人々の海洋適応が始まり、対岸世界の認識が生み出されたのであろう。
325出土地不明:2009/10/11(日) 14:46:58 ID:efDr241h
>>323
南からは全然無い。 ×
熱帯ジャポニカ種の稲は南方から伝わった。
寒冷地の栽培に向いていないから。
326出土地不明:2009/10/11(日) 15:30:19 ID:7ZuL7gH1
おっかしな論理だな。

温帯ジャポニカは熱帯ジャポニカから生まれてきたんだぞ。

華北や遼寧や朝鮮半島に入ったばかりの当時の稲が、
最初から温帯ジャポニカしか無かったとでも?
327出土地不明:2009/10/11(日) 15:41:10 ID:efDr241h
華北や遼寧に熱帯ジャポニカ種があったの?
328出土地不明:2009/10/11(日) 16:00:53 ID:l/1TbWR3
あったに決まってるだろうが。

イネが華北に入ったとたんに全部温帯ジャポニカに変わるのかよw
329出土地不明:2009/10/11(日) 16:28:24 ID:upOhDRZw
日本人のご先祖様を褒め称えると同時に、
沿海州にいた人にも、絶大な感謝をしています。
もちろん、江南の人にもです。
理由は、東シナ海沿岸にも、船を大海に漕ぎ出した人たちもおり、
これらの人々の行ききする共通の場所で、
南北の物品が、物々交換されたと、個人的に考えています。
330出土地不明:2009/10/11(日) 16:59:28 ID:efDr241h
>>328
>あったに決まってるだろうが。

熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、
朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されない。
331出土地不明:2009/10/11(日) 17:08:50 ID:1b62xM3I
>>329
じゃあ、その江南の人と物々交換した物品とやらを出してみ?w



>>330
趙:  光州新昌洞遺跡から出土した炭化米を、1996年佐藤先生に分析依頼しました。その中に熱帯ジャポニカ
の資料があって驚きました。韓国は温帯ジャポニカしかないと思っていたので。その辺り佐藤先生に。

佐藤: えーっと、ひどく困っています。

金関: なぜでしょうか?

佐藤: 私も韓国に熱帯ジャポニカがあるなんて、考えもしなかったんですね。

http://inoues.net/study/japonica6.html
332出土地不明:2009/10/11(日) 18:54:35 ID:VDUl810E
>ひどく困っています。

韓国南部に熱帯ジャポニカが発見されると、
稲作が九州から伝わった事が、明確になるので、
朝鮮半島の北中部、中国北部、からは、発見されていない。
333出土地不明:2009/10/11(日) 18:58:13 ID:VDUl810E
困った理由が書かれています。

佐藤:えーっと、ひどく困っています。
金関:なぜでしょうか?
佐藤:私も韓国に熱帯ジャポニカがあるなんて、考えもしなかったんですね。
金関:これがでた意義は?
佐藤:1粒でしたので、もっと慎重に考えないといけませんが、我々は稲が中国や韓国から来たとばかり
   思っているが、反対方向を向いていったやつもいたかもしれない。
金関:むしろ日本の熱帯ジャポニカが向こうへ行った可能性もあると。
佐藤:あり得るでしょうね。
334出土地不明:2009/10/11(日) 21:48:44 ID:upOhDRZw
>>331 とりあえず、魚と米というのはどうでしょうか?(329)
335出土地不明:2009/10/11(日) 22:47:18 ID:+xGVWUO0
小さい舟で運べる物だろう。玉とか朱とか。
336出土地不明:2009/10/11(日) 22:55:33 ID:LR4idXvd
だろうなあ。

朝鮮からの搬入物を見ても、やっぱ縄文人が欲しいのは中国玉器や
中国土器・金属器だよ。

両方とも無えけどなw
337出土地不明:2009/10/12(月) 15:57:58 ID:d5kZ4lpa
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4〜5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
http://inoues.net/study/japonica3.html
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm072.html
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+−50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1873.entry
338出土地不明:2009/10/12(月) 16:01:39 ID:WPVdgvzp
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。




弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文〜突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
http://www.rekihaku.ac.jp/press/yayoi_kaishi.pdf



339出土地不明:2009/10/12(月) 16:04:54 ID:3j/AII4J
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
340出土地不明:2009/10/12(月) 20:07:00 ID:0C/LuHIa
>>337 >>338 >>339

熱帯ジャポニカ種の稲が朝鮮半島北部から出ていない点で
日本列島から朝鮮半島南部に熱帯ジャポニカ種が伝わったと考えられ、
遺伝子の面から見ても、朝鮮半島から日本列島に伝わった説には無理があり。
341出土地不明:2009/10/12(月) 20:48:41 ID:rG1aD8Ct
334だが、
布・米・家畜・穀物などの交換が、原始的な取引だろう。
価値を共有できる食物、衣類の物品交換が、かなりの時間行われた後、
黒曜石などの道具の交換が行われたと思う。
342出土地不明:2009/10/12(月) 21:36:08 ID:Ptc4H8wb
>>313
馬鹿か?
何が民族じゃ。
だから、

>残念だが、「韓」とは単なる地名を指す単語でしかない。
>この時代の「韓国」とは「韓地方にある国」という意味であり、朝鮮民族の国という意味はない。

と言ってる。

>あなたの言うように、狗邪韓国
>は韓の地にある。だから韓国だ。韓の地にある以上、倭の国ではない。

そんなことは誰も言うてまへん。
ちゃんと流れを読みましょう。
343出土地不明:2009/10/12(月) 22:10:43 ID:oEuNtFId
自分が書いたことをちゃんと読め。
344出土地不明:2009/10/12(月) 22:34:20 ID:UNRu3utX
>>340
その前に、北朝鮮以北の最古級の炭化米で熱帯ジャポニカの調査を
してないじゃないの。

サギはやめましょう。
345出土地不明:2009/10/12(月) 22:47:44 ID:oEuNtFId
ドン来いで意見がないから、こっちで聞いてみよう。
通説は伊都国=怡土説をとるが、みんな疑問をもたないのかな。
通説がおかしいと思うのは、次のような点だ。
@ 末盧国からの方角と距離。末盧国が唐津ということはほぼ問題ないだろう。
 怡土はそこから東南五百里。ところが怡土は東北、どうみても方角が合わない。
 距離も五百里(40キロ程度)よりもかなり短い。
A 末盧国で上陸したのは船ではいけない所とみるべきだ。怡土ならば船で直行
 したはずである。
B 玄界灘沿岸からいきなり南水行というのは不自然だ。乍東とか乍西を言わず、
 いきなり南というはずはない。伊都国は南水行ができるところでなければね。
以上は、誰もが疑問に思うところだと思うが、異論はあるかな?
346出土地不明:2009/10/13(火) 11:44:11 ID:1dXKo46j
ここで散々やってたからな
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1254400875/l50(謎の女王卑弥呼)
多数の人が飽きてることも考えうる
347出土地不明:2009/10/15(木) 00:19:32 ID:t4WyUvGG
倭人伝の距離・方位がおかしいということを早く認めろよ。
348出土地不明:2009/10/15(木) 00:32:00 ID:DzlNfsfA
ぜんぜんおかしくないよ。おかしいという方の頭がおかしいんだ。
349出土地不明:2009/10/15(木) 09:59:24 ID:DG3NulI5
朝鮮から日本へ向けて船を操るのなら海流の関係でほとんど舳先を南に向けておくのが当然だろうな。

 山陰地方へ向う場合もそうだろう。

 しかし陸地で方角を見誤るとは思えない。
350出土地不明:2009/10/15(木) 21:49:34 ID:J4PSoizd
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1164871625/




.
351出土地不明:2009/10/22(木) 18:07:51 ID:ArwshIkG
こんな板、あるの知らなかった!orz

日本史板(謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1255870802/
352出土地不明:2009/10/22(木) 20:33:49 ID:tRMm+o8Z
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/jpncul.html

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/15-1kouzan.htm

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/
◆遼寧の石包丁
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/./photos/uncategorized/2008/02/04/070827_078_2.jpg
353出土地不明:2009/10/22(木) 22:07:51 ID:oDo4IQsP
>>1 魏志倭人伝には倭国の東に国があり皆倭種と書いてあるから、少なくとも3世紀までには日本(九州、本州、四国)には異民族はいなかったんだろう。

(アイヌを除く)
354出土地不明:2009/10/22(木) 22:23:04 ID:fh6p8nbO
本州ならば、渡海千余里復有国皆倭種なんて書かないよ。アイヌのことがあるからね。
九州だから、書いたんだ。九州の中は皆倭人だし、東にも倭人の国があったから。
355出土地不明:2009/10/22(木) 23:47:42 ID:oDo4IQsP
>>354 それは、志摩半島から伊勢湾を渡った、と畿内説はこじつけるんだろう。
356出土地不明:2009/10/23(金) 10:58:19 ID:RFEz6hV9
そう、こじつけだ。南とあるのを東の誤りとみる以上、東渡海千里は北渡海千里と
考えなければいけないのに、そこは東が正しいとする。いいかげんな話だ。
357出土地不明:2009/10/23(金) 18:43:20 ID:kCkFaN9Y
中国の臣下になった卑弥呼が畿内にいたわけがない。
その頃の畿内では、すでに天皇が独立国として大和朝廷を興していたわけだから。
358出土地不明:2009/10/23(金) 19:51:31 ID:oTBc89/V
宮下文書
359出土地不明:2009/10/25(日) 21:37:44 ID:e9nioZvN
ミマナイリヒコイニエについてどう思いますか?崇神天皇の日本的本名です。ミマナは任那、イリは西(の意味…例えば西表島)僕は3王朝交代説を信じているのですが…
360出土地不明:2009/10/25(日) 21:56:15 ID:kxv1TRro
>>359 その名前はミマキ・イリヒコだろう。
361出土地不明:2009/10/25(日) 22:21:42 ID:e9nioZvN
ミマキです。すみません間違えました。…任那木(城)ですね。
362出土地不明:2009/10/25(日) 22:28:54 ID:e9nioZvN
ミマキは任那木ですか?美馬木でしょうか?独り相撲で騒がせて失礼してます
363出土地不明:2009/10/25(日) 23:16:54 ID:sCMtqyfa
ミマナは関係ないだろ。自分で読み間違いしてこじつけてるだけだ。

ミマキイリヒコは、御間城入彦だ。字の通りの意味でしかない。
親族の系譜も、畿内の豪族の血でがちがちだ。九州が入り込む余地は無い。

364出土地不明:2009/10/26(月) 00:54:23 ID:qWClc8Tf
>>363 御間城て、どういう意味?
365出土地不明:2009/10/26(月) 22:15:13 ID:2oZ05KF0
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://www.frontstyle.com/dictionary/j_ka.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
366出土地不明:2009/10/26(月) 22:16:16 ID:2oZ05KF0
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html00
367出土地不明:2009/10/31(土) 22:12:51 ID:j01bcOQz
島根あたりにあったような予感もする
368出土地不明:2009/11/10(火) 12:51:46 ID:HhnfFPo8
【日本国家の成立】
〜日本民族の統一〜
@神武朝(神話)
A崇神朝(大和朝)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)→天智・天武→聖武・桓武→明治(維新近代化)→現在に至る。125代!(実質、各王朝内は「男系」にて繋がり、王朝間は「女系」にて繋がりを維持する)
369出土地不明:2009/11/10(火) 19:00:32 ID:Dqem8+z2

■卑弥呼の宮殿? 奈良で3世紀の大型建物跡出土

(2009年11月10日17時32分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091110-OYT1T00860.htm

 邪馬台国畿内説で最有力地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼が活躍した時代とされる3世紀前半〜中頃の大型建物跡が初めて出土し、市教委が10日、発表した。

 南北19・2メートルと当時、国内最大の規模で、市教委は 「飛鳥時代以前の大王や天皇の宮などの原形とみられ、日本の国家形成過程を探るうえで貴重な発見」としている。
時代や場所などから、「ここが邪馬台国の中心で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり、市教委はさらに範囲を拡大して調査を進める。

 昨年度までに出土した建物群跡の東側を調査。南北19・2メートル、東西6・2メートル以上の掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。
調査区の西側は後世に溝が掘られて削られているが、建物のバランスや柱穴の形状などから東西は2倍の12・4メートルだったとみている。
柱の直径は約32センチで、南北の柱の間には、床を支えたとみられる細い柱穴も見つかり、高床式の建物だったらしい。一緒に出土した土器などから時期を判断した。

 これまでの調査から、今回の大型建物跡を含め、少なくとも4棟が、柵をはさんで中軸線をそろえて左右対称で建てられて東西一列に並び、綿密な計画性がうかがえる。
現場は小高い台地を大規模に造成しており、南北約100メートル、東西約150メートルの区画があったとみられる。市教委は「整然とした規格に基づいて構築された国内最古の建物群で、弥生時代の建物とは一線を画する」としている。

 現地説明会は14、15両日午前10時〜午後3時。雨天中止。駐車場はない。JR巻向駅下車すぐ。
370日本@名無史さん:2009/11/10(火) 20:27:30 ID:vUkjzwCk
オオクニヌシの治めた、元祖出雲国が明らかにされるのは良いことだ。
371出土地不明:2009/11/10(火) 22:58:06 ID:UHTyoB4M
>>354
海て湖も海っていってたんだぜ。。琵琶湖も「うみ」って呼んでた
http://gogen-allguide.com/u/umi.html
372出土地不明:2009/11/10(火) 23:31:06 ID:kMxQnn85
>>371
魏志倭人伝を大和言葉で読み解くのも、また面白いかも。
373出土地不明:2009/11/12(木) 01:05:11 ID:FXb7Xt3K
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
http://www18.ocn.ne.jp/~doukyou/shirukai/sub01.html

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/136.htm

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/kaihou26.html
374出土地不明:2009/11/12(木) 01:05:56 ID:FXb7Xt3K
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
http://homepage2.nifty.com/kodaijin-tamat/index.files/karanokuni.htm

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/siba/karakuni.htm
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
http://www1.coralnet.or.jp/kn/tenti/c2002401.htm
375出土地不明:2009/11/12(木) 01:07:21 ID:FXb7Xt3K
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
376出土地不明:2009/11/15(日) 16:43:35 ID:MwwNz0wF
「呉服」は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
http://kamnavi.jp/link/kojiki2.txt
377出土地不明:2009/11/17(火) 02:58:58 ID:X3vmsEV3

●● 民主党が進める「選択的夫婦別姓」が、なぜ悪いのか ●●

選択的夫婦別姓(現状も旧姓使えるのに…)が決定したら…


選択的ということで「別姓夫婦もいる」という口実で、戸籍制度を家族籍から個人籍へ移行


個人籍になり、日本伝統の家族制度崩壊。戸籍廃止論(既にある)を必ず盛り上げる(これが夫婦別姓の目的)。アメリカなど戸籍のない国もある。


戸籍制度廃止。日本人と外国人の区別形骸化。抵抗ある日本苗字を名乗らなくていい中国人が押しかけ永住。
 →二重国籍容認(千葉大臣など)
 →中国等から移民大量受け入れ(民主・自民まで言ってる)
 →外国人参政権(民主幹部ほとんど全員賛成。もちろん国政参政権も鳩山が発言)
 →民主党沖縄ビジョン(沖縄を日本から切り離す。本気で民主党政策としてHPに公開)


日本が、中国共産党の傀儡政権化。これが究極目的。


政治に疎い人は、極端に思われるでしょうが、明白な事実です。
新聞はまだしも、テレビは一切報道しないので、皆さん、できるだけ多くの人に拡散お願いします。

378出土地不明:2009/11/19(木) 21:13:13 ID:pwY+OFyH
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://www.frontstyle.com/dictionary/j_ka.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
379出土地不明:2009/11/19(木) 21:14:04 ID:pwY+OFyH
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html00
380出土地不明:2009/11/20(金) 17:24:12 ID:27NR51V4

とてつもなく日本 : 民団メンバー御用達ID変換機能付き荒らしツール2009年9月16日 ... 民団メンバー御用達荒らしツール 1253084434711 http://triple-aaa.org/home/up/asia/src/1253084434711.jpg ...
懐かしいツールだな結構不具合があると聞くが、バージョンあがったのかな? ◆雑談スレ99◆今日をどう生きる ...
awfuljapan.livedoor.biz/archives/51276969.html - キャッシュ


【民潭工作員のツール】プロパ切り替え自由 ネット荒らしツール2009年9月26日 ... 2chの民潭工作員のツールを・・。 民潭の人が、あるウィルスにひっかかってくれて、写真を暴露してくれました。 ...
正直、吃驚しちゃいました。 参考写真:ネトウヨ/阿呆太郎・連呼厨愛用 民潭謹製 ネット荒らしツール ...
namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1253966293/ - キャッシュ
少数精鋭のクソスレ製造機「ネトサヨ」? - 2009年10月26日
【民団】ネトウヨ連呼厨はやはり朝鮮人【自白】? - 2009年9月3日
民団が応援した民主をニヤニヤ見るスレ? - 2009年8月31日namidame.2ch.net からの検索結果 »
381出土地不明:2009/11/22(日) 12:29:35 ID:wfv2VGeT
「断髪」を倭人がしていたなんて魏志倭人伝には書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露? 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm



382出土地不明:2009/11/24(火) 21:26:38 ID:DfIjqabL
あーくさいくさい
383出土地不明:2009/11/24(火) 22:30:55 ID:rFSXzT6Z
ハッカクくさーーーーい!

台湾ハッカクくさーーーーーーーーーーーーーーい!!!!
384出土地不明:2009/12/07(月) 18:50:56 ID:3XLS3Quu
魏の使節の規模は? 護衛の兵士はどれくらいいたの? 北九州までは、安心感あるが。奥地に行けば行くほど危険だよね。魏の権威も通用しない部族も増えてくる。軍隊でない使節なんか いい獲物だよね。?自分の手柄の水増し報告 当たり前。邪馬台村は北九州にあったと思う。
385出土地不明:2009/12/07(月) 23:28:52 ID:qNyI//gx
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@、を無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
386日本@名無史さん:2009/12/08(火) 00:41:19 ID:kFqkP97x
 なんか稲の話とか縄文時代のこととか聞くと
卑弥呼の時代って進歩してねえな。
なんかみんなの話で卑弥呼かすみました。

ダイナミズムがあるよ。ホント。感心します。
387出土地不明:2009/12/10(木) 08:09:31 ID:2cSUDq2x
>>385

>邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする

日本人なら、コメントに「竹島(独島)は日本固有の領土です。」
ぐらい入れておかないと。朝鮮人と呼ばれても弁解できないよ。
それとも、、、、、w

388出土地不明:2009/12/10(木) 20:44:37 ID:1MWXlkIL
倭の五王の記述からみると 中央集権は確固としたものではない。
邪馬台国も浮かんでは消えて行った泡沫地方政権。
ヒミコの墓なぞ見つかる訳はない。
389出土地不明:2009/12/14(月) 03:21:00 ID:wbZUJZx0
見つかるよ。訳ないよ。
という意味に受け取った。

390出土地不明:2009/12/14(月) 07:14:31 ID:rNHGfIAp
【中央日報】小沢氏が「この話をもっと強調すれば日本に帰れないから、これ以上強く話すことはできない」と話すと笑いが起こった[12/13]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1260681960/

現在では学術的に完全に否定されてる「騎馬民族征服説」を主張して、韓国人から誉められる
391出土地不明:2009/12/14(月) 20:04:59 ID:VyZaSOKh
小沢は日本国王になったみたい


先が見えたね(笑)
392出土地不明:2009/12/16(水) 20:24:26 ID:Wl5/ARJ9
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai01-dokuritsu.html
朝鮮半島から追い出され、日本に移ってきた民族
昔は九州から朝鮮は同じ感覚みたい
今の朝鮮半島人とは全く人種民族が違う
dnaで証明されてる

日本人こそが、本来の元祖朝鮮半島人といえる
393出土地不明:2009/12/24(木) 04:31:39 ID:Z5T02WXL
>>392

>>http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai01-dokuritsu.html

蘇我蝦夷と蘇我馬子の混乱が見られるが・・・馬子は入鹿の祖父で一巳の変と年代が違うぜ
394出土地不明:2010/01/01(金) 04:21:17 ID:vWqGTguZ
>>1
「大和朝廷成立」とは、何を基準にするかで変わるよな。
395出土地不明:2010/01/02(土) 23:46:09 ID:szVLOt/Q
テレビを見たけど、今は「大和王権」と呼ばれているのか?

左翼の喜びそうな名前だ。わざわざ、格下の「王」を使う事もあるまい。
そういう「格」に触れない「大和朝廷」の方が良かった。ヨーロッパと
合わせるなら、「大和朝」でよい。
396出土地不明:2010/01/03(日) 14:41:22 ID:uSfcPsOx
大和朝廷の前に邪馬台国があるのは確実。
邪馬台国こそが、ヤマトであり、本来の日本。
大和朝廷は馬賊政権。
397出土地不明:2010/01/06(水) 23:13:02 ID:FizeN5d6
質問ですが
ヤマトが奈良を指してるかはともかく
ヤマタイ=ヤマトって認識で大丈夫なんでしょうか?

398出土地不明:2010/01/07(木) 11:32:58 ID:D8H8Prcs
邪馬台国の(卑)弥呼
=ヤマト国の巫女で良いんじゃね?
399出土地不明:2010/01/07(木) 12:49:06 ID:NtnjLwAr
>>397 邪馬台の読み方は確定していないので「邪馬台」と書いておく方がいいな。

 ヤマトともヤマタイとも決定していない(ヤマタイは和語として有り得ないが)。
400出土地不明:2010/01/07(木) 23:33:36 ID:QqQKbDwD
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
401出土地不明:2010/01/09(土) 12:24:55 ID:jMBF0EUv
>>395
朝廷かどうか議論の余地があるから。
というよりもむしろ「朝廷」ではない可能性の方が高い。
402出土地不明:2010/01/09(土) 12:37:49 ID:ijVViepH
↓嘘

>大和朝廷は馬賊政権。
403出土地不明:2010/01/09(土) 12:39:00 ID:ijVViepH
これも嘘。直接関係だらけ



>Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました
404出土地不明:2010/01/10(日) 22:32:51 ID:Rvq0YhJE
卑弥弓呼 は 高千穂の 権威で くまそや隼人に擁立された 日向王(神武の兄系)
卑弥呼(姫皇=神功)と 遠戚なねで 魏役人が 同字蔑称を 意識的に 使わせた (魏のあとの魏誌記述役人も)
405出土地不明:2010/01/10(日) 22:46:16 ID:Zh8nexP1
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
406出土地不明:2010/01/15(金) 23:37:46 ID:wPpwBpi1
南九州の邪馬壱国と近畿のタイ国(秦王国)が合併して邪馬台国が成立したんじゃない?
北九州に豊日国を盟主とする東表国があったけど、タイ国か邪馬壱国が滅ぼしちゃったんだよ。
407出土地不明:2010/01/19(火) 08:43:23 ID:s89hPNRs
タイは東南アジアだろ
408出土地不明:2010/01/19(火) 11:23:05 ID:IDDBjEuE
泰と秦を混同しているのかな?
409出土地不明:2010/01/23(土) 02:24:18 ID:Mi7FLiXQ
邪馬台国、卑弥呼は四国徳島で決まり。
天皇家は蘇我で聖徳太子は蘇我入鹿、これも決まり
410出土地不明:2010/01/23(土) 02:26:29 ID:Mi7FLiXQ
天皇家は熊襲かユダヤ
411出土地不明:2010/01/29(金) 05:21:44 ID:QkopPPXh
「日本人の祖先は朝鮮族だ」っていいたい、日教組に潜入した在日、VANK工作員は
必死になって、弥生文化が稲作長江文明であることを否定する火病に罹患してあちこちで、
マルチコピペをしまくってます。
412出土地不明:2010/01/30(土) 10:53:32 ID:nnu6QRxz
>>409
徳島は邪馬台国ではない、むしろ狗奴国だよ。
413出土地不明:2010/02/04(木) 00:12:00 ID:cfRcegqs
日本と朝鮮は同じ意味
鮮は魚や羊を供える意味で、祭壇を表す
本は木に斧「-」を入れた切り株のことで、切り株にお供え物をして神を祭った祭壇を示す
朝と日はともに太陽・陽光を示すので、日本と朝鮮は同じく太陽信仰の神壇を意味する言葉である
414出土地不明:2010/02/07(日) 05:03:23 ID:9hMhCCc3
戦前の認識として
邪馬台国やヒミコってどういう位置づけだったの?
一応前660年からの神武天皇からが正当な支配者なわけで
ヒミコは完全にそれに対する敵対者の扱い?

ヒミコは時代的にも3世紀であることは動かせないし
そうなると天照大神にもできない
415出土地不明:2010/02/07(日) 14:31:24 ID:N5xt7RMh
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
416出土地不明:2010/02/09(火) 14:38:30 ID:L5xpqlae
>>414
神功皇后にあてられてたんじゃないの?
戦前の歴史スターの1人だよね。
417出土地不明:2010/02/10(水) 21:01:15 ID:wjFHcLKE
■■■悪の王者『VANK工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
↓妄想だけで、弥生人主派・長江文明人(FR-O2)と台湾人(FR-O1)の区別すら理解できない観念論。
↓執拗にその馬鹿さを晒してる。科学部門でノーベル賞を一個もとれない朝鮮半島文化人。


>ID:N5xt7RMh
>Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました
418出土地不明:2010/02/11(木) 14:43:29 ID:y+OOTPNp
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
419出土地不明:2010/02/13(土) 13:01:37 ID:yTnCxaQy
12世紀以前の古文書を、すべて焚書して残さなかったのが朝鮮半島文化。
その歴史隠蔽、歴史改竄を正義とする朝鮮半島民族は他国の歴史をも隠蔽、改竄
しようとしている。

420出土地不明:2010/02/13(土) 14:50:53 ID:6pM/q7hY
朝鮮煙幕でゼンマイを巻いてるんだろ?

後で、江南!江南!狂言しまくるために。

分かりますw
421出土地不明:2010/02/14(日) 04:48:43 ID:DInMfZvM
物部以前の日本列島の歴史は
富(登美)氏伝承、宇佐氏伝承を読むと良く分かる。
出雲神族、宇佐族、和邇族、等の歴史について書かれている。
422出土地不明:2010/02/14(日) 17:44:18 ID:4JX+D1su
秦氏が新羅系という説は、秦氏が交易にたけた氏族だと考察するとその根拠は全く失われ。
日本書紀の記述のとおり、百済経由で大陸からきた氏族というのが信憑性を増す。
423出土地不明:2010/05/05(水) 02:46:57 ID:sOXJqs/4
朝鮮半島には秦末から魏晋南北朝にいたるまで大量に漢人が移住してるわけだから、先祖は漢人ですと言ってもほとんど嘘にはならない。
424出土地不明:2010/05/05(水) 23:33:04 ID:285eUrGC
辰(秦)韓→新羅の流れだと書かれると、素性がバレてしまうので、金を積んで、百済と書かせたのでしよう。
漢人とは、一度は湖北−安徽−浙江のラインあたりの南まで全国ネットワークを築いだ人達である。
東晋・前秦を経て五胡十六国の頃には、彼らは何でもありの商人的な感覚で活動していた。
交易が円滑になるよう百済に擬態していてもおかしくない。
425出土地不明:2010/08/06(金) 13:12:19 ID:5bA3S9JT
百済の字を見れば、山東半島から海を渡って逃げて来た「斉」の諸族が
作った国と読むのがイチバン自然。東北の扶餘の多族が海を渡って来たら
な〜んで百済の字に成るのよ。扶餘が馬韓地方に逃亡して見れば、そこには
既に斉人が居て、彼等は先進国から来た先輩。文明語ペラペラ、難解文字スラスラ。
チュゴク人、恐ろしス。一部を除いては文盲だらけの扶餘の亡命者達には、
チュゴク人達が呼ぶ百済と言う地名を「扶餘」に変えるパワーは無かった。
これからも新移住地で国作りするのにチュゴク人の世話に成るしぃ。
扶餘が苦し紛れに言った、「(斉人でなく)扶餘が大勢で海を渡ったから
百済ですぅ」の大嘘に、中国側は付合ってそう記録しただけ。
426LUNAMASK:2010/08/07(土) 12:02:05 ID:oWatB7Rb
邪馬台国成立前夜、高天原・伊勢遺跡で国譲りが行われた。
http://www2.city.moriyama.shiga.jp/iseiseki/ise8.htm
この遺跡と神武・卑弥呼纒向遺跡をくっつけて検討する必要がある。
427LUNAMASK:2010/08/07(土) 15:21:22 ID:oWatB7Rb
琵琶湖畔伊勢遺跡高天原海幸山幸両党合同野外会議において決定された出雲への国家最高方針

山幸党(邇邇芸命・吉備-銅鏡)、海幸党(饒速日命・物部/尾張・海部-銅剣・銅鐸)は、葦原中国騒擾平定の
ため、伊勢遺跡において高天原(タカ=山、アマ=海、ハラ=野外集会)両党合同野外集会を開催、出雲・
大国主命への最後通告を検討した。結果、出雲の本質は青銅器資源独占による倭国穀倉近畿・三河・遠州の
支配にあることを認識し、出雲青銅器本位制度から脱却し、天孫と称する高天原両党体制による鉄器、
土師器の主導的流通、新価値体系である銅鏡輸入、生産、流通の国家独占を行い、このことにより、東海・
近畿・中国の環濠集落閉鎖経済を統一経済圏とする神武革命の決行を決定、出雲には既得行政権益の
奉還と、今後その活動をヤマト王朝体制内における古墳造り、葬祭用土器製作等の分野に限定することとし、
その代わり、出雲の神社、文化財保護には天孫が協力することを交渉団に託し出雲に送った。
(しかし、この決定事項も河内・大和の辺境にまでは周知徹底されず、大和に向かおうとした神武は河内、大和
で地元豪族のさまざまな抵抗を受けることとなった。)
428出土地不明:2010/08/15(日) 05:17:07 ID:eaqVmixI
もしかして卑弥呼って肥の国の巫女って可能性無い?
隣に豊の国もあるし
429出土地不明:2010/08/16(月) 10:04:27 ID:TTPnCFqF
>>428
肥の巫女! わあ、脱帽です!
肥巫女の後継は、13歳の乙女、豊芦原のトヨちゃん。
肥巫女が死んで、後継に立てられたトヨちゃんは、赤い靴はいてた或る日、
南から来たロリコン神武に舟に乗せられて、奈良へ連れて行かれちゃった。
430出土地不明:2010/08/16(月) 15:31:52 ID:NlyHoSYi
┐( ̄ヘ ̄)┌ ヤレヤレ
431出土地不明:2010/08/25(水) 09:24:48 ID:HQMRMpyn
>>397
邪馬台国はヤマトだろう。
台与をタイヨじゃなくトヨと訓じているだろうに。
432出土地不明:2010/08/25(水) 10:20:15 ID:5P9LnY+E
初めまして
>>431
そのとおり
学会はいつになったら
邪馬台を「ヤマタイ」から「ヤマト」の詠み方に変えるんだろうか

いや、変えないだろう
だって≪謎≫が謎でなくなったら自分たちの仕事がなくなるんだからw
433出土地不明:2010/08/26(木) 21:33:14 ID:Oqn1UarE
邪馬台国の読みかた

邪馬台「ヤマタイ」 → 台与「タイヨ」(日本的な名前じゃない)

邪馬台「ヤマイ」  → 台与「イヨ」(これは日本的な名前だね)

邪馬台「ヤマト」  → 台与「トヨ」(これも日本的な名前)
※ついでに伊勢神宮の外宮の「トヨスキノイリヒメノミコト」にも通じる名前

こうしてはっきり出てきているのに、
なぜわざわざ<捻くれた>呼び方をしているんだろうか?
c;sm
<
434出土地不明:2010/08/26(木) 21:38:18 ID:Oqn1UarE
つづき

いや、これはきっと一般の人々に対する単純な謎かけで
古代への興味を引くための≪エサ≫に過ぎない―――そう思いたいです^^;)
435出土地不明:2010/08/28(土) 09:19:52 ID:hJ8jjLCO
あげ
436出土地不明:2010/08/29(日) 22:54:39 ID:p1BcvPJe
奴国・邪馬台国・倭の五王までは大陸との関係は良好だったのに
奈良の大和朝廷は外交が拙劣で隋とギクシャクしてなかなか関係が進展しない

前者は九州中心の王国で大陸と連携していた
後者は高句麗などの系統を引く勢力で隋とは緊張関係にあった
まったく別系統の国であることが理解できないと古代の全体像が理解できていない
437出土地不明:2010/08/30(月) 03:03:42 ID:B/lChG50
>>436
もろ、朝鮮人妄想
ウリが大和朝廷を立てた。
ウリがイルボン原住民を征服した。

おめでとう。
438出土地不明:2010/08/30(月) 10:37:31 ID:EgwdoTue
>>436
>後者は高句麗などの系統を引く勢力で隋とは緊張関係にあった

悪くは無かったよ。
返礼の使者が来たぐらいだからね。

439出土地不明:2010/08/30(月) 10:39:00 ID:EgwdoTue
>>436
それねぇ、戦後韓国で流行った「分国論」の典型だよ。
440出土地不明:2010/08/30(月) 12:24:11 ID:8PUGGMZY
>>433
@邪馬台「ヤマタイ」 → 台与「タイヨ」(日本的な名前じゃない)
A邪馬台「ヤマイ」  → 台与「イヨ」(これは日本的な名前だね)
B邪馬台「ヤマト」  → 台与「トヨ」(これも日本的な名前)

・・・@Aは二重母音が含まれているが、日本古語は二重母音を許容しない。
   残るのはBのヤマトだけだ。
441出土地不明:2010/09/03(金) 07:37:32 ID:cM81x9I3
442出土地不明:2010/09/03(金) 08:15:18 ID:RClHHhKY
お豊(台与)さん。皇祖の重要な一柱。

理由は明快。古代の皇族には御名に「トヨ」が漏れなく?付いていまつから
443出土地不明:2010/09/03(金) 13:01:13 ID:/IAAOZea
豊葦原瑞穂国は豊前、豊後にあったんだろうな。

 秋津島は安芸津か?
444出土地不明:2010/09/04(土) 12:54:46 ID:N8DxyDap
豊前豊後説はけっして軽視できない
なぜなら九州地方の東端(日の出の方角)にあるから。
関西における伊勢神宮も同じ
445出土地不明
>>443
大日本豊秋津洲なんてのはどうなる?
「豊」は美称でしかないのでは