■弥生人中国説の容疑を厳しく追及するスレ■

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165出土地不明
山東省の瑯牙郡?だかから諸葛氏など
西晋(統一王朝)から東晋(南朝)へ移動したという。
華北の門閥貴族が、揚子江へ五胡十六国の戦乱を避け移動。

民国時代に山東省の農民が、満州の奉天(瀋陽)へ入植。

女直族が満州族と改め明を攻撃、揚子江を超え南京福王を滅ぼし
(北から南へ)満州八旗・蒙古八旗が、華南(南明・三藩)を攻撃し定住。

明王朝の時に
広西省の苗族や広東・福建・四川の兵が外洋船(亀甲船)で朝鮮南岸へ
四川の都督の劉艇は、満州で女直族と戦闘。

黄河洛陽崇山少林寺の僧侶が、
福建の少林寺や、(福建移民からなる)台湾の少林寺へ。北から南へ。

女真族の金国が北宋を攻撃、皇帝家の趙氏ほか科挙官僚が江南に避難。
(北から南へ)女真族が揚子江を超え、杭州・紹興を攻撃。

遣唐使で日本天台宗第4代座主の円仁(栃木人)が
揚子江北岸の楊州城から
山東省の赤山法華院から黄河を経て河北に入り
(北から南へ)山西省の五台山へ密入国の留学をし、長安を経て
淮河の近辺の港から日本へ帰国。

唐時代に白村江の戦いの際に蘇定方?の水軍の船が
斉(山東省)から派遣(海から満州を経ず)
熊津[くまなり・シェンシン]を急襲し百済王を捕縛連行。
熊津都督の劉仁顔が百済を占領。

達磨大師は(南朝)梁の武帝と公案問答・禅問答の末に
(北朝)魏に渡り面壁九年。石の上にも三年。
洛陽伽藍記にみる禅林(禅宗僧の集団や禅寺の立ち並ぶ)を実現。

南の人が北に渡るも、北の人が南に渡るもある。西の人が東に渡る。