29 :
出土地不明:
日本史板にアップしたのだが、こちらにもアップしておく。
「縄文人=アイヌ人」論を初めて打破した清野謙二という学者の
コトを調べた文書だが…彼は結構とんでもない人物だ。
京大大学教授を窃盗で首になるは、大東亜共栄圏に学者の立場から
参画するは、731部隊には自ら積極的にかかわるは…。
彼は「元々ここにはアイヌ人がいた」あるいは「日本人がアイヌ人を
追いやった」という考えがとにかくいやで、それを打破したかったん
だろうな。成否はともかく…
30 :
出土地不明:04/02/26 19:11 ID:2BSyIv9j
20世紀初頭、日本旧石器時代人の論争は小金井良精のアイヌ説にまとまりつつ
あった。そこへ、突如1926年医学者の清野謙次は「津雲石器時代人はアイヌ人
なりや」という論説を発表する。
清野謙次は、1919年から翌年にかけて岡山県津雲遺跡で発掘・収集された縄文
人骨46体をはじめ、収集した日本各地の古人骨を使って、モリソン・マルチン
氏変差図やポニアトウスキー氏型差公式(いずれも人間の骨格の各部分の大き
さから人種を特定しようとするもの)をあてはめ、現代日本人とアイヌ人・津
雲人の人骨の形質の差を測定する。その結果、「日本人とアイヌ人は、アイヌ
人と津雲人よりもずっと似ている。つまり、津雲人は現代の両人種よりもずっ
と異なっている」という結果を発表する。その理由として「現代アイヌ人も現
代日本人も元々日本原人なるものがあり、それが進化して、南北における隣接
人種との混血によって成ったものだ」と言うのだ。
31 :
出土地不明:04/02/26 19:12 ID:2BSyIv9j
彼の説は学者らに歓迎される。「説は一々の科学的考察の元に到達され
たもので、少しの予断も許さない以上、当然の帰結である。清野博士の
獲得されたものは学説ではなく事実である」とまで東大人類学教室の中
谷内宇二郎は極言した。実際、清野の説は多くの研究者に歓迎された。
それは彼らがその後、考古学資料を根拠とする人種に関する論議を「し
なくなった」ことに現れている。また、その時すでに70代の小金井は
「北方において、いかなる種族と混血して、現今のごときアイヌができ
たのか、全く不明」であるとの批判を持っていたが、それを公にするこ
ともなかった。
32 :
出土地不明:04/02/26 19:13 ID:2BSyIv9j
ここで、清野の生い立ちを見てみよう。彼は、1885年岡山県立医学校長
兼病院長・清野勇の長男として生まれる。京都帝国大学医学大学を卒業
後、ドイツに留学し生体染色を研究し、京都大学に帰りその分野での世
界的第一人者となる。また、幼少の頃から考古学を趣味にしていた彼は
、仕事のかたわら古人骨などの収集に情熱を傾ける。
ところが、1938年自分の研究総括をドイツ語論文として発行し評価を得
た直後、「誠に奇妙なる精神状態」のうえに収集癖がこうじて、教典・
古文書窃盗事件を起こしてしまう。それが発覚し、彼は在籍する京都大
学を辞職させられてしまう。
1941年上京した彼は、太平洋協会の嘱託となり、大東亜共栄圏建設に人
類学者として参加する。また、満州731部隊の病理解剖の最高顧問を務
める。
33 :
出土地不明:04/02/26 19:14 ID:2BSyIv9j
満州事変事後、清野の言論は次第に変化していく。1938年の学位論文に
は「この意味において日本島は人類生息以来日本人の故郷である…断じ
てアイヌの母地を占領して居住したものではない」「我らの先祖は気宇
広大でよく他人種をいれて自己の種族に同化したのであった」などの扇
情的な文章が織り込まれている。同じ時期に自分自身は盗みをしながら
このような広大な事を発言するのだ。また、大阪で発見されたわずか2
体の長身人骨(160cm台後半)を日本書紀や古事記の記述にある、神武東
征における長髄彦(ながすねひこ)と結びつけて考え、その考証に3ペー
ジを費やし、自らの論文の支柱とした。「日本石器時代人」説構築の際
には、そのような行為はアイヌ伝承や記紀を利用するなど他の人はやっ
ているが、自らは非科学的であるとして批判し採用しなかったのにであ
る。このようなダブルスタンダードをやって恥じないのは、それが彼の
「信念」に基づいているからだろう。
34 :
出土地不明:04/02/26 19:15 ID:2BSyIv9j
清野は太平洋協会では大東亜共栄圏建設における国民のイデオロギー的
統一を積極的に企てた。また731部隊に対しては人材確保・指導などに
「異常なまでにてこ入れした」(石井四郎発言)戦後彼はアメリカとの
密約に基づき戦犯追及を逃れ、依然として医学と考古学の分野で影響力
を残していく。