夏、殷(商)王朝を語ろう。

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600出土地不明
古代蜀の地理史である華陽国志は東晋時代に書かれたもので完全に妄想扱いだったが
近年の発掘によってあながち妄想では無い事が判明した。
史記に書かれている殷も伝説に過ぎないと切り捨てられたけど存在した。
夏の事も殷や古代蜀の様に伝説は含まれるがある程度は事実を記しているのだと思うね。
古代蜀王朝の王は「縦目」であると書かれていたが実際に目玉が飛び出て縦目の仮面が出土して
考古学者も仰天したようだし。
601ドレミ ◆YeeMODUSQg :2010/05/24(月) 21:54:52 ID:Az8FFmQc
蜀族と巴族は多分別部族ですよ。一方は漢蔵語族です。
住民の末裔は言語矯正されて大部分が唐代までに漢民族化してますが、
実はまだ、一方の言語や文字が残っています。
丁公陶文も彝語・彝(ロロ)文字として解読できたみたいですね。

巴・蜀と両者を一緒くたにしないほうがよいでしょう。
巴族は、「戎」ではなく「蛮」と呼ばれていたので、彝族の先祖とは違う可能性がある。
彝族の先祖=西戎、巴=南蛮、よって蜀は漢蔵語族という消去法で仮説立てされています。
でも「戎」と「蛮」は記述年代が違うので、その消去法はもちろん論理的に緩い。
巴族は、「蛮」の居住地域から推定して諸説いろいろでている最中です。
602ドレミ ◆YeeMODUSQg :2010/05/24(月) 22:04:13 ID:Az8FFmQc
>>600
縦眼の仮面は日本にも、秦氏系渡来人から伝わってます。
日本の追儺(ついな)
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/setubun-3.html

始皇帝の秦は「戎」であるのとされる記述があります。
その後の時代に他勢力との交流によって、秦氏系渡来人の持ってきたものに
流れ込んでいるのかもしれません。
秦氏系渡来人は、五胡系の勢力なので、時代はうんと後ですが。
603出土地不明:2010/05/24(月) 22:28:46 ID:lqa+5qIf
方相氏の四つ目を古代蜀の縦目と関連づけるのが適当かどうか疑問。三星堆の縦目仮面は
目ん玉飛び出してる訳だし。
それと、ググっても秦氏と方相氏の関係が出てこないので解説お願いします。
604ドレミ ◆YeeMODUSQg :2010/05/24(月) 22:53:34 ID:Az8FFmQc
>>603
方氏は、中文ソースに西戎系というがよくありますね。
もともと方角が重要価値とされる西戎系は、四角なり4が重要ナンバーです。
「四隅突出墳」なり「方墳」は別スレでよく話題になっていて、機動力のあった民族の指標に使われます。

五胡系の秦氏にも西戎系が合流している。
でも、秦氏の持ち込んだ要素を、どれが西戎だペルシャだツングースかと
簡単に分解できるわけでもない。
追儺式自体は、漢蔵語族全体に分布しているので、西戎起源といわれている。
中国だと、追儺式の起源を消去法で西戎勢力だと導きだしてますね。
日本側の追儺式の記事からだと、あんまりリンクしてこないでしょう。
605出土地不明:2010/05/27(木) 15:23:58 ID:dQKORh6J
>>601
巴族はインダス文明が気候変動で乾燥化して滅んだ後に四川に逃れてきた人たちかもしれない。
紀元前18世紀にインダス文明は居住地を放棄されている。アーリア人のインド侵入は紀元前15世紀なので
居住地を放棄した後の話。
一部はインド南部に行ってドラビダ人となったようだが
他にも四川に逃れてきた者が居てもおかしくは無い。
606ドレミ ◆YeeMODUSQg :2010/05/27(木) 22:07:07 ID:nInxmbNK
>>605
今でている諸説だと、出てきてないですね。
(1) 巴郡南蛮とか居住地域と現在の民族が連続性ありとする説
 土家族(漢蔵語族蔵緬語派),苗族(苗瑶語派)
(2) キョク人の文化痕跡から、他所へ移ったとする説
 タイ・カダイ語族,オーストロアジア語族モン・クメール語派
(3) 上流へ移動して、青蔵高原へ移動
 チベット族のうち先住民にあたるカロ遺跡の住民。
 炭素測定でカロ遺跡は3000〜4000年前。気候的に温暖化しているはず。
 カロ遺跡の出土物が仰韶文化との関係性が指摘されている。
 仰韶文化の住民自体は、苗族(苗瑶語派)の祖先の可能性があるとの意見がある。
 一方、東晋時代にアムドから青蔵高原へ侵入した發族は、漢蔵語族蔵緬語派。
   ↑
 カロ遺跡と仰韶文化の関連も、仰韶文化と苗族の関連性も、まだ結論が出てないみたいです。

よって、(1)のうち土家族の先祖ならば、昔でも通訳を何人も介せば彝族の先祖とも何とか意思疎通できたにできます。
ドラビダ人の言語で解読できそうな見通しがついたら、(4)として新説が立つと思いますよ。
ドラビダ人の言語が、中国の内陸部に残ってないから説が出てこないだけで、単語レベルでのアプローチでいって
何かのクレオール言語として、溶け込んでないかやってみる価値があるかもしれません。
607出土地不明:2010/06/02(水) 19:31:22 ID:IoH1X2VC
盤庚が遷都したのは殷、武丁が遷都したのは商。王朝の名前ではなく都市の名前と思われる、殷の前は当然別の都市の名前。。
周は昔からの呼び名である殷と慣習的に呼んでいたのでそのままにしておいた。
杞は啓と中国語では発音が同じなので元々は同じだったと思われる。
殷の時代に杞に変えられたのでしょう。

608出土地不明:2010/06/23(水) 09:38:24 ID:bIn4ZJ+Z
蜀の南部の昆明からも遺跡が出土している。文明といえるような代物ではないが巴族が
住んでいた土地では無いかと思われる。国家というレベルではないがソコソコの文化が存在した。
蜀とも繋がりが深そうだ。
インダス文明との繋がりとかも判明するかもしれない。昆明はインドや東南アジアとの交易ルートとして
昔から重要拠点だし。
609出土地不明:2010/06/29(火) 20:29:22 ID:UKHwKGrV
age
610出土地不明:2010/07/01(木) 11:07:20 ID:XzXs+7gQ
昆明周辺の人々は時代が下って戦国時代から秦漢時代にかけてインドや東南アジアとも広く交易していた。
殷周の頃の古蜀時代は情報が無くどうだったかは分からないが古蜀の南部の民族はインドまで行ってた可能性が濃厚
初期の巴蜀文字がインダス文字によく似ているのと関係あるかもしれない。
611出土地不明:2010/07/03(土) 13:45:07 ID:HtV8rGHK
612ドレミ ◆YeeMODUSQg :2010/07/07(水) 20:58:23 ID:PaXyWiTg
たしかにムンダ人が昆明に来ていると面白い展開ですね。
ドラビダ人よりもムンダ人のほうが地理的に近い。
613出土地不明:2010/07/09(金) 21:48:26 ID:sHqSgBEY

青銅器の龍文、龍信仰
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器
爵やラッパ型の様々な酒器。金銀器や金銀メッキ。
玉器、瓦、箸、傘、漢字の前身、篆書など
これらは本来実用性よりも権力者の墓所の副葬品や祭祀など
神聖な儀式に用いられるもので日常に使う代物ではない。
それに権力者や、その祖霊と「天」に献上する奉納品であるため
失敗すれば首を刎ねられる危険と隣り合わせの作業だ。
百姓どもに鋳造技術をむやみに教えるものではなかっただろ。
 
縄文・弥生ともに交易こそするが、経済活動をしなくとも狩猟採集と農耕
で充分食って行けたんだろうし、

万が一、億が一長江の民や殷商の民が日本に移住してきても
特定の職能集団によって造られていたと思われるし
その多くが商滅亡後に周王朝や諸侯たちに召し抱えられていたわけで
技術を持ってたとしても多くが銅鐸とか埴輪とか
単純な物しか作れなかったのが現実だろ
614出土地不明:2010/07/09(金) 23:53:28 ID:7SJcGUOH
二里頭の夏は龍信仰が盛んで、殷は龍も信仰していたが鳥信仰の傾向が強い。
周も鳥信仰だな。

昆明の発掘はまだ始まったばかり。戦国時代から巴蜀の商人は南方に出かけて
昆明からインド方面まで行ってたようだ。巴蜀文字さえ解読できればその交易の実態も分かるだろうに。
古くからヒマラヤ山脈の北と南で同じ作物が取れており古代から交流があったのは明白である。
その頃は未開の東南アジアも細々と道がインドに繋がっており蜀人はインドまで行ったのでしょうね。
黄金の仮面とかどこがルーツなのかな?
615出土地不明:2010/07/09(金) 23:59:10 ID:oaZDIjYG
秦嶺側からスキタイ文明が入ってきたのでは?
彝族の記録だとそうなる模様
鳥の羽をつけて船に乗るのは東巴教の司祭の姿
どうも西戎系みたいだな
616ドレミ ◆YeeMODUSQg :2010/07/10(土) 19:44:05 ID:2q6i6eKE
>>614
系統不明の巴族は滅んで西戎系の蜀族が残った。
蜀族の末裔は、どうやらイ(彝)族らしい。
鋳造法が西域の手法であるのと、記録が周やイ(彝)族によって
起こされているし、仕方ない。
BC2000年前より前のことはよくわかっていない。

鳥の羽飾りの付いた帽子かぶる・・・
アヴァール(阿瓦爾)の文化→ナシ族のトンパ(東巴)教という説も
あるので、残念ながら四川雲南の文化は南方起源より西方起源のほうが有力です。

また茶馬古道の一番南の路線はナガランドやアッサムを通り
ネパールに達する道であるが、秦漢よりも古い時代のことは不明。
ベンガル経由でムンダ人との交易についても言語から
ムンダ語とクメール語の音韻的な近似より類推されているだけで
出土物から取り沙汰されている訳ではなく、難しいんです。
617出土地不明:2010/07/14(水) 22:00:28 ID:o/JRqd6Y
始皇帝=焚書で秦以外の戦国七雄の書いた書物(竹書紀年・晋乗・燕春秋など)を焼き払う
商鞅=秦記から秦王にとって都合の悪い記述をシラミ呼ばわりして削除し焼き払う
項羽=残っていた秦記を焼き払ったのでますます訳が分からなくなった
ランダ=マヤ文字を書かれた全ての文献を焼き払う、中国人ほど熱心にマヤ人は書かなかった上にスペインの支配期間が長かったから4冊しかマヤ文字の書物は残らず
カエサル=アレキサンドリアの図書館を焼き払う
6、アレキサンダー=ペルセポリスを焼き払う

こうして貴重な歴史資料は永遠に失われた。個人的に始皇帝とランダは故意にやったから罪は重いと思う。
「晋乗」・「秦記(完全版)」・「春秋(斉・燕・宋の魯以外の春秋)」と楚の歴史書が永遠に失われた。
司馬遷は「秦記(不完全版)」と孔子の家から出てきた「春秋(魯)」の二冊を元に史記を書いた。
魏の「竹書紀年」は西晋時代に出土だから司馬遷は参照できなかった。

秦は紀元前7世紀の春秋初期に既に夏王朝や禹について記述した石版を残している。穆公か誰かが
夏王朝の後継者を名乗ってフルボッコにあった時期だと思われる。ただ禹はこの時は夏王朝の始祖ではなく
洪水神扱いで人間ではないとされている。項羽が焼き払わなければ秦紀(完全版)を司馬遷が参照できたかもしれないのに。
二里頭文化圏は秦と魏(竹書紀年)と杞が(後には楚が杞を滅ぼすから楚も含む)含まれる地域に属する。
秦は夏王朝の伝説と直に接する地域として魏と同じく重要。魯の歴史書の春秋よりも夏王朝に関しては詳しかったと思う。
618出土地不明:2010/07/15(木) 22:28:09 ID:U9O/eZxJ
戦国七雄の歴史書は全部で13存在すると言われている

国語・周逸書、晋乗・秦記・楚檮?・魯春秋・斉春秋・燕春秋・春秋左伝
春秋公羊伝・春秋穀梁伝・竹書紀年・趙の歴史書(今だ存在自体不明)

の13冊のうち春秋と名の付く書物と国語はほぼ同一書と解説書である。編纂した国が違うだけで
解釈が異なるだけで基本は同じであると言う。当然自国に都合がいいように解釈されている。元は春秋と言う
原本があってそれぞれの国で様々な解釈がなされた。
司馬遷はこの内の孔子の家から出てきた魯春秋・春秋左伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝・国語の春秋各書と周逸書と
不完全な秦記を元に史記を書いた。竹書紀年や晋乗・楚檮?は司馬遷の時代には失われていた為に参考にされていない。
後に竹書紀年のみ西晋時代に出土した。
秦記は項羽のせいで失われ、趙が書いたであろう歴史書は未だに存在自体が謎のまま。竹書紀年も司馬遷の時代は
存在自体が知られていなかった。もちろん焚書のせいだが。
619出土地不明:2010/07/15(木) 22:45:04 ID:U9O/eZxJ
儒者は主に春秋関連の書物を隠すことに全力を上げた様で春秋関連以外の書物まで保護の手が回らなかったのだろう。
個人的には秦記と趙の歴史書は見つかるのではなかろうかと思っている。

焚書をしたせいで夏王朝の事が分かりにくくなってしまった。始皇帝が他の六国の歴史を大事にしてさえくれれば
断片的な歴史ももっと鮮明になっただろうに。
楚檮?と晋乗と完全版秦記は一連の春秋系とは異なった儒教フィルターのかかっていない歴史書だろうから興味深い。
あと燕春秋なんか列島や半島の事について何か書いてあったかもしれない。
620出土地不明:2010/07/15(木) 23:00:17 ID:pRi94YNi
>>618
でも、まだ盗掘されていない墳墓から発見される可能性もわずかながらあるかも?
後は、盗掘されてない墳墓がまだ1万基以上ある日本から発見される可能性とか。
年代がAD300年くらいの墓なら、ぎりぎり伝承で残されているものを書き起こした人がいれば
残ってる可能性もあるかと思うけど、難しいかな・・・。
621出土地不明:2010/07/15(木) 23:13:21 ID:zxW5C8Y/
>>620
まぁ、日本に渡ってるくらいなら司馬遷の時代まで残ってただろうな。
622出土地不明
>>601
分かった!巴は倭人だ!
高床式Y-O2b*の線で行こう!
茶馬街道が出来る前からドラヴィダ人と交易してたんで語彙の交流が有った。
インダス傍流の変な文字も作ってた。故郷を追われ、日本に来た頃は、ド忘れ。