日常〜あるいは平穏な一日・第三部 『K'とクーラの永い夜――後編』
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「じゃ、私はもう帰るわね」
そう言ってウィップは立ち上がる。しかしK’は動かない。
無言のままの彼を見ながら、彼女は軽くため息をついた。
「そんなに気になるんだったら、今すぐ走って追いかければいいんじゃない?
…余計なお節介かもしれないけど、あの娘は私のことほとんど覚えてないから…
この誤解が取り返しのつかない事になるかもしれないのよ」
「わからねえよ…だからって、追いついてなんて言う?何を言ったって
言い訳じゃねえかよ。お前のことがわからないんなら…俺がどう説明しても納得なんて…」
「それが言い訳よ。自分まで誤魔化すのはやめなさい」
ウィップは厳しい声で断言する。
「あなたはいつもそうやって心を閉じ込める。悪いクセね。
昔はそれで良かったのかもしれないけど、失いたくないものが出来たのなら、
動かない理由を考える前に追いかけなさい。…人はいつも、失ったり
終わってしまったりした後でそれがかけがえの無いものだったと気づくのよ。
でもあなたは今、取り返しのつくうちに気づいている。
ならあなたが今何をすべきかはわかるでしょう?」
顔を背けながらも、K’はウィップの言葉を噛み締めるように聞く。
「わからねえ…今はまだ、どういう顔であいつに会ったらいいのかわからねえ…。
時間をくれ。そんなに簡単に自分を変えるなんて俺には…」
K’はたどたどしく、心情を吐露するかのように訴える。
そんなK’を見ながら、ウィップは幾分優しげな表情を浮かべた。
「そうね。いきなりそうしろというのは酷かもしれないわね。
でも、早いほど良いのも確かよ。頑張りなさい…自分の心に決着をつけるために」
ウィップは玄関へと歩いて行く。そして玄関の前で立ち止まり、
そのまま振り向かずに言った。
「……最後にひとつだけアドバイス。あなたは…そのままのあなたでいいのよ。
あなたはもう、自分に正直に生きていいのよ。いいえ、そうするべきなの」
ウィップからは見えなかったが、K’は微かに、だが確かにうなずいた。
「それから…あの娘は本当にいい娘よ。大事にしてあげなさい」
「…ひとつじゃねえじゃねえか」
ウィップの笑う気配が背中ごしに伝わる。
「そうね。それじゃ」
ノブをつかんだウィップを、今度はK’が引きとめた。
「ウイップ」
「何かしら?」
「……ありがとう」
ウィップはやはり振り向かず、左手を上げて軽く振るとそのまま部屋を出て行った。
それを見送ったK’は、ゆっくりとクーラの残していった紙袋を手に取った。
封をとき、無残に形の崩れたその中身を見て、K’はこみあげる複雑な感情に胸を詰まらせた――。
一方、部屋を出たウィップは、そのままドアの横の壁にもたれかかってため息をついていた。
「本当に…余計なお節介」
宙を見つめながら自嘲的に呟く。
夕暮れの街。背を丸めコートの襟を立てて寒さをしのぐ人々や、
楽しげに会話を交わしながら夜の始まりに心を弾ませる恋人達の中を、
目に涙を浮かべたままうつむいて歩く少女の姿があった。
彼女は通りのはずれにある、小さな、人気の無い公園に目を止め、
とぼとぼとその中へと歩いていった。
少女――クーラは古ぼけて錆の浮いたブランコに腰を下ろし、寂しげに軽くこぐ。
「(ブランコは行ったり来たり…壊れて動かなくなっちゃうよりはいいのかな…)」
その自分の胸の内の呟きに、忘れられないあの日の光景がよみがえる。
「(キャンディ…)」
去年彼女の前から去った『親友』の姿が目に浮かぶ。
「(キャンディも…K’も…みんなあたしの前からいなくなっちゃうよ…
ダイアナも?フォクシーも?あたし…いつか一人ぼっちになっちゃうのかな…?)」
再び涙が溢れる。すすり泣く声が、こらえきれずに喉から洩れだした。
「やれやれ…こんな可憐なレディを泣かす不届き者は、いったいどこのどちらさんだい?」
不意に横から聞こえた、甘く艶のある中高音の声は、一瞬の間を置いて
その持ち主を――彼をクーラに喚起させた。
「紅丸…!!」
「女の娘が一番輝くのは笑顔の時だってのに…それを奪うヤツは
骨まで痺れさせてやらないといけないな。何があったんだい?お仕置きなら手伝うぜ」
長い金髪を肩まで下ろし、優しげに微笑む紅丸がそこにいた。
黒いロングコートが細身の長身に良く似合う。
「べにまるぅ……ふえ〜ん!」
クーラは紅丸に飛びついて泣きじゃくる。
紅丸はそっと彼女の髪をなでながら、諭すように言う。
「そんなに泣いて顔腫らしたら、せっかくの美人が台無しだぞ?
まあ悲しいときは好きなだけ泣いていいよ。気が済んだらワケを聞かせてくれ…
あ、ちょっとタイム、ああコートで鼻をかまないでおくれハニー…」
「ぐすん」
「それで、クーラはきちんとK’に確かめずに部屋を出て行っちゃったってワケだね?」
昂ぶったクーラの要領を得ない話を、嫌な顔一つせずに聞き終えた紅丸は、
念を押すように彼女に問い掛けた。
「だって…ひっく、K’とウィップさんが二人で、あたしが邪魔だから明日にしろって、
あたし頑張ったのに出て行けってK’が勝手に入ってくるなって…うわぁーん!」
先ほどからクーラは万事この調子である。しかし、やはり紅丸は優しくうなずく。
「わかるよ。せっかくおめかしして、大好きな人を喜ばせたくて行ったのに
相手にしてもらえない上に冷たい言葉まで投げつけられたんじゃあ…辛いよな。
でもな…いいかい?クーラ。さっきお前は俺に抱きついてきたね?
それをK’が見ていたら、あいつははどんな気持ちになると思う?」
紅丸はゆっくりと訊く。
「え…?」
「そしてあいつはお前をデートに誘いに来たんだとして…どう思うかな?
おまけに、俺がその時あのキャンディがひょっとして元に戻るかもしれない、
って話をしていたら…」
「戻るの?!」
「いや、たとえば、ってことで考えてみてくれ。…どうだい?
クーラもK’に『後にして!』って言っちゃうんじゃないかな?」
クーラはしばし口に手を当てて考え込む。
「うん…多分言っちゃう。K’が嫌なこと、言っちゃう。でも」
「わかってる。その時K’とウィップが二人で何を話してたのか、俺は知らない。
でも…だからこそ、K’がクーラのことをどうでもいいと思ってるってことには
ならないんじゃないか?もう一度ちゃんと話してみても、いいんじゃないかい?」
「うん…そうだね。こわいけど…訊いてみなくちゃわからないよね」
「その通り。わかったじゃないか。じゃあ、今からどこへ行けばいいかはわかるよな?」
クーラは力強くうなずいて、勢いよくブランコを飛び降りる。
「わかった!あたしもう一回K’の部屋に行ってみる!」