1 :
名無しにして頂戴 :
02/08/26 21:30 ID:yyPXcOwz 最近ファンになったばっかでマーシャンとかの意味がわからないので歌詞の意味教えてください・わがままですいません
青姦でいいからさっさと射精しる!終電で帰るから!
3 :
:02/08/26 21:34 ID:???
ピザ屋なんかと付き合っちゃってミジメなあたしを ベンジーにグレッチで殴打してもらいたい
給料はちっとも上がんねぇし、まぁ悪くはない生活だろうがよくもない。 しょうがねぇからネタでも食うか
ネタ食いたいけど金ないし銀座のイメクラでバイトしたら 警官のコスプレさせられて客外人だし参ったねこりゃ。
将来はやっぱ僧でしょ。宗教法人。税金なんて馬鹿馬鹿しくて 払ってられっか。つっても教えとかひろめんのダリーから適当に任せて 自分は毎晩ヤってりゃいいや。
キン肉マングレートにマーシャルアーツキック食らったんだけど 臭いだけで失神しそうなくらいワキガだった。
近所のピザハットの店長がめちゃくちゃかっこいい
11 :
名無しにして頂戴 :02/08/26 21:59 ID:Fs6z/uzK
毎晩布団でセックスしてるだけの生活だべさ
>>1 ねぇ、マーシャンって何?
ねぇ、教えてよあたしに。
教えて頂戴よ。
マージャン?
13 :
名無しにして頂戴 :02/08/26 22:09 ID:yyPXcOwz
マーシャンじゃなくてマーシャルでしたね・・・マーシャル・ベンジーの意味がしりたいです
15 :
みほ :02/08/26 22:12 ID:yyPXcOwz
知らずにここで質問しててすいません。上のところいきます
16 :
名無しにして頂戴 :02/08/26 22:13 ID:yyPXcOwz
みほって名前つかっちゃってすいませn
1さんは某大御所サイトでも同じ質問を(略
教えて君ハケーン。
>>18 sage の s が s になってると下がらないよ。 と教えるクン。
アフォばっか。
21 :
名無しにして頂戴 :02/08/27 13:30 ID:qtbreHmj
ベンジーとは元BJC浅井健一の愛称。病床〜の快感ジャガーとはベンジーの愛車を想像して。
↑ 教えてさんはこの回答はマズ見てないと思われ
24 :
sagea :02/08/31 18:11 ID:ma/IRPX1
>>1 君、某サイトにも同じ内容カキコしてるよね。
2ちゃんじゃこういうの駄スレっていってわざわざスレ立てるのは迷惑行為なんだよ。
アハァ?ア?
ってココに居る人で其のサイトの住人居るの?
>>17 住人??
初心者みたいだから許してあげる。
>>24 林檎ふぁんだったら某大御所サイト見るっしょ
るっしょ
28 :
名無しにして頂戴 :02/08/31 20:41 ID:XjHfBbms
某ってどこ??
29 :
名無しにして頂戴 :02/08/31 20:55 ID:5AodDR8+
>28 OGSサイトです。
31 :
名無しにして頂戴 :02/08/31 21:25 ID:kxN+K5lC
マーシャル=浅井さんの愛用ギターアンプ ピザ屋の彼女=B.J.Cの「ピンクの若いブタ」を聞けば分かる
マーシャルの匂いってなんだよ?
アンプの匂い、ってあるんだよ((笑))
オラの安マーシャルはタバコの臭いしかシネーぞ。
35 :
sage :02/09/01 00:18 ID:5r9/jmOy
グレッチとは、ピザを切る時にクルクルとまわすあの道具のことだよ。
誰ですか、ピザカッターをピックにしてギター弾いてるアンポンタンは?
>>36 で、マーシャルの匂いってなんだよ? 結論書いてないよ。
ネズミの芸を見せて生活をたててるんだよ
40 :
名無しにして頂戴 :02/09/01 02:20 ID:lqQAYspt
飲み込み芸してたら、ねずみがでてこなくなったんだよね。
グレッチはギターだろ?
グレた中毒の略が「グレッチュ」です。
43 :
名無しにして頂戴 :02/09/02 12:23 ID:05jAHc3i
マーシャルって、危ないお薬なんですよね
44 :
中毒 :02/09/02 12:42 ID:u2XsnCPn
欲しいの?売ったげよっか?
こんなとこで商売すな!!
>>44 オラのシマで商売するなら、ちゃんと挨拶してくれないと、
うちの若い衆の指が一本減っちゃうんだよね。
47 :
中毒 :02/09/02 13:40 ID:u2XsnCPn
グヤトーーンなら 物良いよ、保証する。 1発でブッ飛びのピンクスパイダーって感じみたいな。 何もかも歪んじゃうって感じのパンチあり。 どう?三鷹より安いよ。
48 :
中毒 :02/09/02 13:44 ID:u2XsnCPn
45さんと46さんもどう? キマるよ〜ギャンギャンと。 フェルナンダス? ありゃーダメダメ。 混ぜ物ばかりで最悪ー。 国産は車だけだよ〜
(⌒\ ノノノノ \ヽ( ゚∀゚) アーヒャヒャヒャヒャヒャアーヒャヒャヒャヒャヒャ (m ⌒\ ノ / / ( ∧ ∧ ミヘ丿 ∩Д ) (ヽ_ノゝ _ノ
フェルはちょっとバンやろっってカンヂ?縛 PEAVYとかどうだ。カコイイぞ。 マーシャルのチューブ歪みがないと今の世界がないのを皆わすれとるな。 3段積み以外認めない人は多いよな未だに。
51 :
中毒 :02/09/02 15:05 ID:u2XsnCPn
その前にエジソンが居なかったら ソナタは奏でてなかった。 俺って詩人だな。ウム。
52 :
中毒 :02/09/02 15:08 ID:u2XsnCPn
アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に アフォ住民にも理解できます様に
エジソンなんて糞が居なくたって、既に期は熟していたのだ。
ギターが無くたって傾国の林檎タンは唄うのだ!
アフォ中毒にも理解できます様に
56 :
腹子 :02/09/02 15:13 ID:???
すまん、爆笑した。会社で。
58 :
中毒 :02/09/02 17:14 ID:6+n6dG93
19万も持ってないって 普通持ってねーだろうー! 当時二十歳前後の生娘がよー 金銭感覚おかしいんじゃないかと どんな金持ちの家で贅沢三昧して育ったんだと 俺には解るよー林檎たん 早くメールしてね アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に アフォ住民にも解ります様に
59 :
あ :02/09/02 17:45 ID:YmReU/L3
本来歌詞とは 音に合わせて作られたものなので 大した意味など無いのでござひます
60 :
中毒 :02/09/02 17:51 ID:???
そーかがっかい
61 :
中毒 :02/09/02 17:53 ID:???
「い」と「り」を間違えたと 大作ちゃんから説いといて頂戴
62 :
中毒 :02/09/02 17:54 ID:???
ん〜俺ってやっぱ詩人?
そーかせんべい
64 :
名無しにして頂戴 :02/09/02 20:55 ID:ClwzJ0l+
「ピザ屋の彼女」ってシドがピザ大好きだったからって聞いたことがあるのだが?? リッケン620頂戴ってのはなんなのでせふ?
66 :
名無しにして頂戴 :02/09/02 21:05 ID:HlORYEas
毛はえ薬??
林檎辞典にとべませむ!
毛はえ薬?!
でもさぁ、キーボードのヒト、毛はえ薬の効果ないようですよ。
73 :
名無しにして頂戴 :02/09/03 13:43 ID:gvOh0G99
グレッチはドラムもあるからね。
74 :
名無しにして頂戴 :02/09/03 19:36 ID:X5hK0/uz
毛はえ楽???
手はえ薬。
領収書を書いて頂戴〜。 いったい誰に書いてもらうの?
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ Λ_Λ | 君さぁ こんなスレッド立てるから | ( ´∀`)< 厨房って言われちゃうんだよ | ( ΛΛ つ >―――――――――――――――――――‐< ( ゚Д゚) < おまえのことを必要としてる奴なんて | /つつ | いないんだからさっさと回線切って首吊れ | \____________________/ (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (∩∩) (∩∩) (∩∩) (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (∩∩) (∩∩) (∩∩) (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (∩∩) (∩∩) (∩∩)
>>リッケン620 当時流行った合法ドラッグの事。 通販で誰でも買える。
79 :
名無しにして頂戴 :03/01/04 22:15 ID:Mv1/3R4o
リッケンくらい知らねーのか。 勉強してから出直せ。 ギターの種類だよ
↑ だれに向ってレスをしているのだろ?
セクス狂歌
82 :
名無しにして頂戴 :03/01/05 12:51 ID:aulXhmnM
あおかんで〜いってちょ〜だい♪
立憲政友会を知らぬか!
84 :
名無しにして頂戴 :03/01/06 03:28 ID:IO5yuoIx
グレッチは高いドラムの事でしょ
>>78 おしいけど微妙に違う。
みんなアフォか?
リッケン620はギターとかじゃない。何でもかんでも楽器に結びつけるなよ。
当時流行ったなんたらっていう合法ドラッグに含まれてた成分の事。
単体での販売は違法だったが、当時バンドマンの間で密かに流行ってた。
林檎もやってたかどうか知らないが林檎の周りは多分みんなやってたはず。
で、歌詞では19万円したリッケンバッカーと掛けている訳だ。
86 :
名無しにして頂戴 :03/01/06 21:41 ID:3Vvzjwmq
グレッチはギターのブランドだYO
87 :
38 :03/01/06 21:45 ID:kH1Kxcn+
ベンジーはブランキーの浅井。
88 :
ピストル :03/01/06 21:45 ID:qxhQ5pBy
>>86 ベンジーこと浅井氏が愛用してるらしいっす。
89 :
あ :03/01/08 01:28 ID:???
丸の内の歌詞 あの曲だけ林檎の作詞じゃないんだよね。 地元福岡の同級生のバンド「ジョリーピックルズ」のVo.が適当につけたフレーズだとか。
↑って「New Way To Fly」の歌詞のこと?
New Way To Flyスゴイ好きなんだけど 歌詞が聞き取れない Dieとか言ってるよね?
「グレッチでぶって」 シドが客をベースでぶったことに関係あるのですか? ベンジーにグレッチで殴って欲しい〜ってなだけですか? 深読みしすぎ??
93 :
山崎渉 :03/01/10 11:09 ID:???
(^^)
意味ふ
95 :
m :03/01/15 21:15 ID:N9dxmDIc
韓国人の4人に1人は刑務所に服役し、7割は脱走します
韓国人の男はマザコンが多く、30歳過ぎても母親と風呂に入りセックスします
韓国人の2人に1人は近親相姦で、妹に出産させます。
韓国のディスコに行くと、数十人の男にオールナイトでレイプされます
韓国のレイプ発生率は世界一で、毎年数千人の日本人女性が被害にあってます
韓国女性が強姦と暴力に耐えかね外国に逃げるので男はレイプするため日本や台湾に行きます
韓国の強姦魔は軍隊で鍛えた体で一撃必殺、気を失うまで殴り続けます
韓国のカルト宗教にだまされ、日本女性1000人、台湾人100人レイプされました
韓国政府は、日本人を殺したりレイプするように、子供の頃から反日教育を行います
韓国内では、17000人の若い日本人女性をセックスの道具として売買しています
韓国人は、駅前や大学のサークルで日本女性を勧誘して、外国に売り飛ばします
韓国の闇組織は、日本人女性を拉致してレイプショーをしています
韓国のホテルでは、ホテルマンが合鍵を持ってレイプに来ます
韓国の焼肉屋は、商品に豚の発情薬を混ぜてレイプします
韓国のタクシーに乗ると、運転手にレイプされて殺されます
韓国のレンタルビデオ店では、日本人女性のレイプビデオが一番人気です
韓国人の男はホモが多く、毎年1000人の男性がレイプされてます
韓国最大手のラーメン店は、工業用油を使用してました
韓国企業は、食品や化粧品にウンチ、鉄クズ、枯葉剤を混入します
韓国で整形手術をした人の6割は顔面崩壊などの副作用に悩んでます
韓国ヤクザが殺すので、政治家やマスコミは言いたい事が言えません
韓国の洗脳部隊・・・創価学会、オウム真理教、朝日新聞、テレビ朝日
韓国人とケンカをすると鼻に割り箸を突き刺します
韓国の暴力事件発生件数は、日本のおよそ102.2倍です
http://ex.2ch.net/korea/ ハングル板(韓国)
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1041341591/ ..,.,
96 :
名無しにして頂戴 :03/01/15 21:28 ID:6c9uljHN
97 :
山崎渉 :03/03/13 16:28 ID:???
(^^)
>>89 >あの曲だけ林檎の作詞じゃないんだよね。
>地元福岡の同級生のバンド「ジョリーピックルズ」のVo.が適当につけたフレーズだとか。
デモの英詩の方じゃなくて?
無罪では林檎作詞だった気がする。どうなんだろう…
99 :
名無しにして頂戴 :03/03/14 19:21 ID:q6wMlHHE
あげ。
100*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!
101 :
名無しにして頂戴 :03/03/29 00:44 ID:rhhGmwTG
102 :
有希子 :03/03/29 01:53 ID:rSPIhPAE
前なんかでみたことあるんだけど、丸の内ってもともと英詩だったのを 日本語になおしたらしい。「将来僧になってー」のとこは、 「so I`m・・・」の、ソーアイムが、将来僧に・・に聴こえたから だって・・・・だからこれといって意味はないんじゃ。。。
103 :
名無しにして頂戴 :03/03/29 09:02 ID:u5GN2Kh/
>>89 「東京の女」も林檎の作詞作曲じゃないけど。
104 :
名無しにして頂戴 :03/03/29 09:26 ID:Lqr0cFSr
>>103 無罪収録の中ではってことじゃ?
林檎が直接作詞作曲してないのって他にもいっぱいあるじゃない。
カバーも出してるし。
105 :
めぐみ :03/03/29 18:07 ID:cQcZBcXr
あたしは「ピザ屋の彼女になってみたい」ってのは、ブランキーのピンクの若い豚という歌で 「あばずれ、チューインガム、ピザ屋の彼女、メキシカンデラックス、ハラピニオ ダブルで」 という歌詞があって、その声のピザの頼み方がやたらセクシーだなあと思ってて、 椎名リンゴも同じことを考えてたのかなあ、と思っていました。どうだろう?
106 :
名無しにして頂戴 :03/03/29 19:00 ID:+gFgr0/q
ブランキーからパクタ でもおそらくベンジーも公認
新しい死に方
|゚Д゚) 108ゲッツDAゴルァ! |≡ ピシャン
109 :
名無しにして頂戴 :03/04/19 13:57 ID:H8Mdgyfx
肺に移ってトリップもなかなか意味不だよ、、
元は英語 輪廻ハイライトと一緒。 意味不明な日本語の羅列と考えるべき。 また、ピザ屋の彼女〜のところは 自分がピザ屋にバイトしていたことがあるため、というのが有力。 当時一緒のバイト先に彼氏がいたんだろう、と。
>>110 ブランキーの詩に憧れてピザ屋でバイトしてたんだよ。
112 :
山崎渉 :03/04/19 23:56 ID:???
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
113 :
山崎渉 :03/05/28 13:28 ID:???
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
117 :
名無しにして頂戴 :03/08/31 01:25 ID:BpkPA34Y
報酬は入社後平行線で 東京は愛せど何も無い リッケン620頂戴 19万も持って居ない お茶の水 マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ 毎晩絶頂に達して居るだけ ラット1つを商売道具にしているさ そしたらベンジーが肺に映ってトリップ 最近は銀座で警官ごっこ 国境は越えても盛者必衰 領収書を書いて頂戴 税理士なんて付いて居ない 後楽園 将来僧に成って結婚して欲しい 毎晩寝具で遊戯するだけ ピザ屋の彼女になってみたい そしたらベンジー、あたしをグレッチで殴って 青 噛んで熟って頂戴 終電で帰るってば 池袋
118 :
名無しにして頂戴 :03/08/31 01:30 ID:iptCvC/G
119 :
ななしにして頂戴 :03/09/11 20:51 ID:kNloXYVA
どうでもいいけど、むっちゃアンプ
120 :
名無しにして頂戴 :03/09/11 22:30 ID:u+o82vzk
丸の内線と林檎の関係が良く判らないなぁ 東中野に住んでたらしいけど中野坂上駅でも使ってたの? それと”最近は銀座で警官ごっこ”あたりの意味がサッパーリなんだけどね。
121 :
まり :03/09/12 01:22 ID:???
武道館北側二階U列、連番であればございます。 もちろん定価でおゆずりしますよ〜 バラでも okです。宜しくお願いします!
122 :
名無しにして頂戴 :03/11/05 20:10 ID:RD4DpSCg
age
123 :
名無しにして頂戴 :03/11/05 21:49 ID:3TD0Mfge
本当の幸せを探した時に愛し愛されたいと考えるようになりました。 そしてあたしは君の強さも隠しがちな弱さも含んで 時の流れと空の色に何も望みはしないように 素顔で泣いて笑う君にエナジーを燃やすだけなんです。 本当の幸せは目に映らずに案外側にあって気づかずにいたんですが かじかむ指の求めるものが見慣れたその手だったと知って あたしは君のメロディーやその哲学や言葉全てを 守るためなら少しくらいする苦労もいとわないのです。 時の流れと空の色に何も望みはしないように 素顔で泣いて笑う君のそのままを愛してるゆえに あたしは君のメロディーやその哲学や言葉全てを 守り通します 君がそこに生きていると言う真実だけで 幸福なんです。
124 :
名無しにして頂戴 :03/11/05 23:49 ID:o3MbdrH+
私は楽器が好きです、って歌だよ。
127 :
名無しにして頂戴 :04/03/21 23:20 ID:B0kuFyyp
age
其の壱 ・不況下、丸の内のOLが歌の主人公(一行目、《報酬は入社後平行線で》)。 女は地方出身者(《東京は愛せど何も無い》)、池袋をターミナル駅とした 私鉄沿線のわりと近めのところに住んでいる(《終電で帰るってば 池袋》) ――たとえば居住地は東長崎とか小竹向原といったところだろう。 ・女にとって東京は喧噪にあふれて淋しさを紛らわすような街と一見おもえるが、 東京の実質はその喧噪にしかなく、それを取り払うと空虚しかなくなるとも女は理解 しているはずだ。・御茶ノ水―後楽園―池袋の駅名列挙により、 女は丸の内線を使って通勤していると判断される。・曲はここでファンキーなリズムが 強化され、それに歌の言葉が躍動的に乗るようになる。どこかが投げやり。 歌詞は完全にトンでいるようにみえるが、以下の用語が理解できると解釈は ブレを起こさなくなる。すなわち――
其の弐 ・《リッケン》《グレッチ》=すべてエレキ・ギターの製造メーカー名。 《マーシャル》=ギター・アンプの製造メーカー名。 《ベンジー》=“ブランキー・ジェット・シティ”(最近解散してしまった) のリーダー/ギタリスト/作詞作曲者/ヴォーカリスト浅い健一の愛称 (すべて「クイック・ジャパン」特集「拝啓椎名林檎様」中の「椎名林檎大辞典」より)。 すると女はロック狂、とりわけブランキーの浅いに狂信的にイカれた女だと いうことが理解できる。女には友達も恋人もなく、会社勤務ののちはただアパートに 帰宅してヘッドホンでブランキーを聴くのみ(《毎晩絶頂に達して居るだけ》)。 ・女は、会社での仕事をぜんぜん面白いと思っていない(《ラット1つを商売道具 にしているさ》)。上述「椎名林檎大辞典」には「ラット」はギター名、そして 林檎を特集していた同人誌名との記載も見られるが、これは同じ「鼠」の意で、 パソコンの「マウス」から「ラット」へと語の転用が試みられたと考えるべきだろう。 つまり女は上司からいいつけられた社内文章などをパソコンで文書化する退屈な 作業しか会社でおこっていないということ。・《そしたらベンジーが肺に 映ってトリップ》=(解釈)女はパソコンで文書をつくりながら、“アタマのなかで” ブランキー=浅井の曲を再生していた。そしたらイッてしまった。それがなぜ 「肺に映る」のか。たぶん女は幼少期に肺を病んだ経験がある。そのからだの いちばん弱い部分がトリップの棲処となる――そういうことではないか(ちなみに 椎名林檎は内臓変形の既往症があり、幼児期に手術経験がある)。
其の参 ・歌詞カード四聯目《最近は銀座で警官ごっこ/国境は越えても盛者必衰》が 全体解釈のカギとなる。「警官ごっこ」とは婦人警官のコスプレを意味し、 そういうコスプレ・パブ店が銀座にあって、女はそこでアルバイトするという 二重生活(例の東電OLのようだ)に入ったことを意味していないか? (銀座は不況でそこまで「落ちた」のだ)。とすれば《国境は越えても盛者必衰》 は「フィリピンや南米からの出稼ぎの女が店にたくさんいて、“売春”に 従事している以上、みな一時的にカネ回りがいいが、やがては身を持ち崩して ゆくだろう」という意味に分解できる。(なお、《盛者必衰》は、前曲 「歌舞伎町の女王」の《「一度栄し者でも必ずや衰えゆく」》から引き継がれた 厭世的主題で、これが必ず「売春」に当てられることから椎名林檎の「売春」観が 透けてもみえる)。・なお、《税理士なんて就いていない》で、このパブは かなり前近代的な経営をしているとわかる。店がホステスたちに終電で最寄の ターミナルまで電車で帰るように強制している(その後はタクシーを拾ってもよい) と判断されることから、経営状態も良好ではない。とすれば《領収書を書いて 頂戴》また、深夜タクシーの運転手に歌の主人公が言った言葉だろう。
其の肆 ・以上でわかるように、歌詞は過激にシャッフル(編集)されている。 ・《将来僧になって結婚してほしい》→同僚に向けられた言葉?(不明) ・《毎晩寝具で遊戯するだけ》→前行と連関を断ち切って解釈すべきか。 《寝具》を枕・掛け布団・抱き枕程度のものと解釈すれば、独り寝《孤閨》の 淋しさが瞭然とする。この《寝具》には「シングル」が掛けられているだろう。 ・《ピザ屋の彼女になってみたい》→《ピザ屋》と《彼女》は同格(よって 「ピザの電話注文受付嬢」の意か)。バカで明るい女になりたいという隠喩(けれども 「自意識」がそれを邪魔してしまう)。・《そしたらベンジー、あたしをグレッチで 殴って》→露骨な浅井健一へのラブレター。林檎の(浅井にたいしてだけの) マゾ気質が窺える(たぶんその他の歌からいって通常の彼女はサド気質)。 ・《青 噛んで熟って頂戴》=バレ句。むろん《青姦[※野っ原でセックスすること] でイッて頂戴》が原意。前行の《ベンジー》へのラブレターの直後だから、 より不穏な意味が生ずる。あまりに露骨なので表記を置き換えたということだが、 その置き換えによりフレーズはダブル・ミーニングとなった。「青」は 性熟していない林檎自身、よって《青 噛んで》は「その青いあたしを噛んで」と 取れる。《熟って》には相手の男《≒浅井》が性熟しているという意が 入りこんでいるようだ。以上丸の内サディスティック 実戦サブカルチャー講義●椎名林檎「無罪モラトリアム」分析補遺より 阿部嘉昭
一気に読むと吐き気がすると思うので少しずつ読んでください。 正しい町 ・歌詞のなかの唯一の現在相は最初と最後の 《あの日飛び出した此の町と君が正しかったのにね》のみ (それに狭まれた全体が過去)→つまり歌全体がフラッシュバックの効果 を目指している。・出稿は空港を成田かどこかの国際空港とした (そこが間違い)→実際は福岡空港(つまり女のほうは上京するだけ =だからトレンディ・ドラマ風の「海外留学」ラストはここでは 意図されていない)→こうした間違いが生じたのは原稿執筆当時 《百道浜》《室見川》といった博多ローカルの地名に通じていなかったため。 解釈=「カレと言葉を交わすとき、あたしはその場その場でテキトーというか、 思いつき・ヒラメキで雰囲気的なことしか喋ることができない。それは一種、 あたしの女性性の発露であって、そのあたしの言葉の不定形なありようは、 まるで自分の経血のしるし(赤いもの)のようにおもえる――実際、生理中とも なれば、その苦痛は譬えようもなく、あたしの言葉は普段よりさらに 脈絡を失うのだから。言葉は反映ではない――そうはいっても確実に 心の領分というのは誰しもがもっているものだ。
そのなかには「本音」といったものすらあるのだが、 ただしそれを表に出すことは、言葉一般の属性から してありえない――それがつまりは、あたしの、 あるいは「女」の、疎外の型なのだ。言葉はいつも 足りない――でもそれでいいじゃないか。ただ相手と 間近にいて、互いの存在が淋しさのなかで確かめられ ればいい――そして、その程度のことは付き合っている カレも理解できてるとあたしはおもってた。 でもカレはあたしの脈絡のなさ、感覚っぽいところに 実は翻弄されていたんだ。カレは女々しかった。あたしを 理解できないと知って、泣きもした。あたしはそうして カレに、自分を哀しむ方法を教えたんだと思う。でも自分を 哀しむなんてバカなこと。あたしは冷淡というか、そういう ナルシズムの無駄を知ってるんだ。だからあたしはカレの懇願 ――「やり直そう」とかそういう女々しい言葉だって、すべて 冷淡に突き放してきたんだ。」・なお、上のフレーズと連絡するような 《赤い嘘》のフレーズは『勝訴ストリップ』「浴室」にもアリ。 上記でわかるように、月経という疎外をもつ女性特有の言葉の脈絡の なさが《赤い嘘》の言葉遣いに凝縮的に暗示されていると考える。 「真っ赤な嘘」ではない。以下、実戦サブカルチャー講義より抜粋 ※あくまで筆者の意図によるものです。
茜さす 帰路照らされど・・・ ・前奏はピアノ中心でデミニッシュ・コードが用いられている (ゆったりめのボサノバ調)。きれいな曲。 ・ため息、囁きを交えたうたいぶり=ユーミン調。 ただし、《ヘッドホンを耳に充てる・・・》以降、急に歌唱が つよくなり、巻き舌とビブラートがお下品にヒステリック化してくる。 初期ユーミン的な抒情歌唱への揶揄が感じられる。 ・交差点で恋人と別れた女のコの淋しい心情がスケッチされている。 あくまでも「点景」にとどまるので、この歌のヒロインは履歴・属性が 終始不明のまま。《夕暮れには切なすぎる/涙を誘い出しているの?》は 宇多田ヒカルがつくりそうな歌詞だ。・《ヘッドホンを耳に充てる/アイル ランドの少女が歌う》は「ここでキスして。」の予告か?なぜならその 歌の出だし部分(英語)の林檎の歌唱法はアイルランド・トラッド調だから。 ・女のコはたぶん処女。相手は子もちで、つまり二人の不倫関係は援助交際の 発展途上という気がチラッとする。
積木遊び・ジミ・ヘン調のファンキーなリズム・ギター (ドラムもミッチ・ミッチェル風)ではじまる。それが戸川純型の パンク歌謡へと変貌する。・冒頭《あなたはいつもそうやって 丸い四角を選ぶ/あたしは特に気にせず 三角をのせてしまう》の 歌詞に喚起力があり秀逸。「丸い」=穏当、「四角」=スクウェア、 「三角」=トンガリ、と解釈したうえで、この男女の意思疎通の齟齬の型が わかる。男は建設的で(だから共同生活は「積木」の組立てにも譬えられる。 ――ただしその組立ての謙虚さ・つましさが女はヤなのだろう。)、女は 感覚的なのだ(女の感覚偏向性は「正しい街」でもあった ――「正しい街」では男は弱かったが、この曲では男はつよい)。 なお、○△□は世界の構成要素で、その用例はセザンヌの絵画理論、 ならびに泉鏡花の小説「春昼」「春昼後刻」等にもみられる。・また上記掲出箇所 《そうやって》の「て」の音程の不安定さに注目。これは真似しようとしても できないはず。・《嗚呼 しくじった しくじった まただわ》という女の側の 自責は、一瞬、ヨーコ・オノの暗い名曲「Shiranakatta」を想起させる。 ・ボー・ジャクソン(某ジャクソン)→米国アメフトのスーパー・スター。 ただし語調のみを意識した召喚だろう。ほかに、《愛妻》=「I say」、 《友好》=「You call」など、英語/日本語間の言語遊戯もみられる。 ・《ののしるなんじ・・・》以下、伴奏に琴が入る。演奏者はクレジットによれば 林檎自身で、たぶんサンプリング。効果は六〇年代ベンチャーズ歌謡 (たとえば渚ゆう子》の、大正琴をシタールのようにつかう用例にちかく、 すごくキモチ悪い。・ちょっとジャズ調になったり、平べったい曲調になったり、 リズム・ギターが導入部はジミ・ヘン風なのにのちのリードはわざとジミ・ヘンに ならなかったり、ある部分ではテクノ・ポップ調をおもわせたりと、曲全体の トーンにはことさら不安定さが狙われている(意図された不真面目さということ)。
警告 ハード・ロック調のギター・リフ(六〇年代風)。 それで「不充足感」が演出される。林檎の唱法もとうぜん ハード・ロック(カルメン・マキ)調だが、やがてコブシと 巻き舌が入り、下品化/ヒステリー化する。・女が別れを 宣告するというシチュエーション。ただし、女には男に からだをあたえたことの後悔が身を貫くように残っている。 女は男の情けなさ・器量の小ささ・女々しさ(《受話器越しに 泣かれたってこっちが泣きそう》)・卑怯さをなじっている。 ・夏のアヴァンチュールで知り合った相手。ただし、女は そのときの男を理想化しすぎていたし、男もカッコをつけすぎていた (《夏に見たのは実在しない相手だった》)。付き合って約半年、 冬の季節となって、いま別れの修羅場が起こっている。 ・歌中《日の出を待ち切れぬまま 鋏を探し出す/あなたは全てを あたしが切っちゃっても効かない・・・》の歌詞が秀逸。二行目は 文法破壊的だが、その破壊性によってニュアンスが微妙かしている点に注意。 ・ラスト三行(歌詞カードで確認のこと)は女が男と出会った場所(海)への 再訪が描かれているが、時の流れの無常がそこで主題となる(前曲「同じ夜」と 同テーマ)。・間奏部、オルガンが六〇年代ブルース・ロック調。 そこにからむリード・ギターはモロにストゥージス風で[※六〇年代、 イギ―・ポップの在籍していたデトロイトの錯乱ロックンロール・バンドで、 ギタリストはロン・アシュトン――ノイジーなリードギターの嚆矢的存在だった]、 ド迫力がある(「ここでキスして。」もそうだったが、こっちのギターのほうが 上だろう)・歌詞がキツすぎて、この歌をカラオケでうたうのは、男にヒドい仕打ちで 裏切られた女しかいないのではないか。うたえば悲惨になること必定。
モルヒネ・出だし→ファズがかかり、音場が遠い感じ (エスクペリアンス風で、ギター・フレーズは ジミ・ヘン=エスクペリアンスの「リメンバー」のほぼ引用 といっていいのではないか)。そうしてはじまいながら、 とつぜんティン・パン・アレイ風のアコ・ギター(具体的に いえばはっぴいえんど「風をあつめて」=小阪忠= ジェイムス・テイラー調)に転換する。・曲のテーマ=恋愛を 自覚した女が“幸福妄想”を拡大してゆく際の不気味さ。 ちなみにいちばん不気味なのは《あたしにはとりえなんか無いですので》 という居直りフレーズだとおもう。・歌詞を順に追ってゆくと、 その“幸福妄想”が具体的な感覚変貌(ウィリアム・ブレイク参照)や 身体変貌(デヴィッド・クローネンバーグ参照)をも歌の主体=女に 呼びこんでいるとわかる。つまりはこれはホラーな歌だといえる。 ・《あたしはひたすら、だ液を吐き捨てる/密やかな密やかな行為に 専念していました》=スゴイ。脳内に麻薬物質が溜まれば 麻薬患者のようになるのだようか。唾液が口中に剰るのは シャブ中の特徴だろうが、出ない唾液を吐き捨てる動作をつづけるチック症例 (村上龍/庵野秀明『ラブ&ポップ』参照)とも取れる。 ・歌詞の不気味さと曲の愛らしさ(とくにサビメロは「ここでキスして。」に次いで すばらしい)の分離が壊滅的でこれもまた誰もカラオケでうたおうとは しないだろう。悪意にみちた名曲。・第一聯「納豆」が出てくる(粘液性の暗喩)。 ただし、椎名林檎は「納豆」「豆腐」「味噌汁」「豆乳」と、 大豆食品に熱中しているとの情報もある(「大辞典」参照)。
虚 症 言・フルート→ジェスロ・タルのイアン・アンダーソン風。 ユーミン風の発声で、曲調もわりとスウィート。・一応は「自殺否定」の メッセージ・ソング(《線路上に寝転んでみたりしないで大丈夫》)、 そして林檎が自分のアーティストとしての立場を自覚した歌と 第一義的には取れる(《いま君の為に歌うことだってできる》 《あたしは何時も君を想っているのに》等)。ただしこの曲のタイトルは 意地悪にも「虚言症」である点を改めてここで確認すべきだろう。・とはいえ、 この曲でアルバムの方向性(とくに七曲目「罪と罰」まで)が 決定されたといえる。つまり、『無罪モラトリアム』で展開された 「稀薄な個の、稀薄さゆえの変身可能性」ではなく「二人(おもに男女)で織り成す 共同体の疎外感覚」がアルバム前半のテーマになったということ。「個」から 「二人」へのシフトチェンジがあったのだ。・冒頭の一行《しかし何故にこんなにも 眼が乾く気がするのかしらね》=歌が「しかし」の逆接ではじまるのは前代未聞。 驚愕に値する。そして「乾き/渇き」は以後、アルバム全体の通奏テーマともなる。 なお、橋本治が『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』で漫画家・倉多江美を 分析したとき、彼女の漫画キャラクターには水分が欠乏しているという名言を 展開していたのをおもいだした。・二行目《黄色の手一杯に広げられた 地図には 何も無い》の「黄」はイエロー・ジャンプを指差しているが、 黄疸のような病的な感触もある。・《魚の目をしているクラスメイトが 敵では 決して無い》のフレーズは味到すべき。「敵では 決して無い」理由を 考えてみよう。@なぜなら自分もその一員にすぎないから。 A真の敵は別のところにいるから。・歌全体に漂っているのは、無為感・虚無感・ 渇き感など。しかしそういう現状を容認しなければ生きることがはじめられない というメッセージがある。そこで前述の自殺否定のメッセージが現れるが、その 直後、《あたしは何時もボロボロで生きる》の歌詞(つまり「自傷イメージ」の つよい言葉)がつづく点に注意。つまりメッセージ性は不安定といえる。 ・それは歌全体の組成が、他人へのメッセージと自分への確認が交互するかたちを とっている点でも立証できるだろう。
現代歌人・水原紫苑は新著で、古代歌人の式子内親王の和歌もまたそんな 組成状態にあるという分析をしていた(河出書房新社刊『空ぞ忘れぬ』参照)。 ・たぶん歌を裏打ちしている現状認識には、女性表現者の自死がつづいている点 への配慮がある(漫画家山田花子、漫画家ねこぢる・・・)。 そしてむろん椎名林檎自身への親近性が高いというイメージがある点にも 自覚的だろう。・しかし林檎は“教祖”であることを拒否する(麻原彰晃のことを 考えれば当然だ)。その証拠が《例えば少女があたしを憎む様なことがあっても /摩れた瞳の行く先を探り当てる気など 丸で無い》のに行。ちょうど ボブ・ディランの「悲しきベイブ」(『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』所収)の 歌の全体と同じ位置にある。・曲全体に林檎唱法の十八番=巻き舌は抑えられている。 真摯さを強調したいがためだろう。ただし繰り返すが、この曲が「虚言症」と タイトルされている点に注目。・演奏でいえばシンセ・オルガンの間奏が ドイツの前衛バンド“ファウスト”風だという気がした。まさか。 またラストのオケ風のシンセはサイケデリック時代風。 LPレコード時代の盤キズを模したノイズで次の曲につながれる。
浴 室・冒頭からドラムン・ベースが疾走し、歌がはじまると巻き舌が 今度はつよい。・歌詞カードのラストの二行《退屈なんか怖れていない/ どうして二人は出会った?》→仲の破滅的な成行きを予感させる。 恋人同士のこんな造形は林檎の十八番で、ロック音楽ではシド&ナンシー、 カート・コバーン&コートニー・ラヴといった具体的な先例がある。 ・「自己郷愁=抒情=湿潤」と「クール/ドライ」という価値観の相剋がみられる。 ちなみに「自己郷愁」は、《あんたが目の前で鳴咽を止められなかった/ 何だか浮世の全てが恋しくて堪らなかった/あんな夢を見させないで》の フレーズに顕著。・価値観の相剋という局面から、歌詞全体も分裂症的 (相反価値の点滅状態)となる。→例《今日は特別笑ってばかりのあたしは丁度/ さっき一度夢で死んだあんたを仕方なく愛す[※以上は諦念]/ どうか 見捨てたりしないで[※この箇所のみ前二行と離反する懇願]》。 ・サビメロ部分の歌詞を分析するとこうなる。(洗って 切って 水の中/ 呼吸器官は冒される[※以上、洗濯機の浴槽のなかで自らが溺死するイメージ] /磨いて 裂いて 水の中/無重力に委される[※また洗濯機のイメージ]/ あたしが完全に溶けたらすぐきちんと召し上がれ[※自らを素材にカニバリズム =人肉嗜食をそそのかすイメージ→これは戸川純「諦念プシガンガ」につうじる]》。 ほとんど象徴詩の技法だが不安定性が林檎の歌詞の東食。そこに男女の日常の つきあいの「スケッチ」が象徴的純度を保って混入してゆく。・なお曲タイトルは 「浴室」。ということは、上記のサビ部分の歌詞は、男女が浴室で 「死ぬの」「殺すの」の狼藉をおこなった際のスケッチとも考えられる。なお、 ジャン=フィリップ・トゥーサンのヌーヴォー・ロマンを映画化した 『浴室』(ジョン・ルヴォフ監督)は浴室を棲処とした男がそこで自足する姿を ユーモラスに捉えたミニマル映画だった。
・その他、象徴的技法ゆえ歌詞の解読を誘導する箇所をいくつか。 @《甘い匂いに汚された/御留守になっていた守備部隊》→「相手の男が 発する甘い雰囲気に酔ったとき自分の芯が汚れたような気がした。 あたしの自己防衛本能が不完全で、弱い自分の本質が丸裸になったいたんだ」。 A《赤い嘘に汚された/自分で吐いて傷を見た》→「赤い嘘」については 「正しい街」の項を参照。嘘に引きずられて「吐く」の字が用いられつつ、 自傷イメージの「傷を見た」でフレーズが収まることから「吐く」は「突く」 ともなる。とすればこの二行の大意は以下のようになるだろう。 「女特有の生理によってその場しのぎのことをいいつづけるあたしは、 いわば自分で自分を汚していたんだ。しかも汚れただけじゃない。 それは自傷行為のように自分の本質を傷つけるバカな振舞いでもあった」。
弁 ・タイトルの意味は不明というか、解読できず。 解・曲調はファンキーな調子に近づく。ボコーダーで変形されヒシャげた声。 ド シングルカットされた曲以外でなら、本アルバムで最も好きな曲のひとつ ビ(もうひとつは「月に負け犬」)。基本的には曲は同一フレーズの羅列を基本にし、 ュ それに変形が重ねられてゆくというパターン。だから曲自体にドアーズ風の ッ呪術的効果がある。それがあってのサビでの転調だからスリルがある。 シ その曲の雰囲気と、歌唱・歌詞の自堕落&自暴自棄&シュールな感覚とが |見事にマッチングしている。・1stアルバム中の「積木遊び」と似た主題、 つまり同棲男女の意思疎通の齟齬がテーマ。冒頭《言いたいことを探し疲れて 結果無駄口吐いてばかり/どうせあたしの人生 語呂合わせなんだもん》は 言葉の韻き(ひびき)のみによって通常は隣り合わないはずの語がスパークを ともなって隣接してゆく林檎「詞法」の機微を伝えてもいる。 ・次のフレーズ《どうして価値に理由を付けてポーズを執らされているのかな/ だって淀んだ水が薫るピアノなんだもん》の二行目の 捨て科白がシュールでサイコ―。・ここでうたわれている男女には実は類型化が 可能だ。手懸りは《甲斐性が無く向かい風のみ専門に出来る雄じゃなくちゃ》と 《何でも買ってあげるから 帰るだなんて巳めなさい》。最初が向日性、 明るいだけが取柄の金欠青年の姿を結像させる。これはむろんツバメの適性。 そう思わせておいての《何でも買ってあげるから・・・》 なので、上記の判断は確信となるはずだ。
じゃ女は誰か。たぶんカネとヒマが余り切った腐臭たっぷりのマダムではなく、 カネを溜め込んだ、それなりの腐臭をかすかにもつ三〇前後の独身OLだろう。 《だって淀んだ水が薫るピアノなんだもん》の「ピアノ」が、硬質、 少女時代の手習いの感触、しかも「弱い」の意味を孕んでいることから、 そういうニュアンスが出ている気がする。「ぴあの」が「大正琴」か 「尺八」だったらマダムという判断だった。・《チョーキングだけに 支配されて変化する莫迦な女で宜し》→「チョーキング」は ギターの弦を、フレットを押さえている指でもちあげ、音を半音以上あげる ギター奏法のことで、それでブルージーな感触がでる。このとき、 女のほうに自分を楽器と同質と考えているという見立てが生まれる ――つまりセックスとは、男の性儀によって女が演奏されることだという。 そのうえでの「チョーキング」だから、チョーキング特有の 「ブルージーな感触」は性愛後(あるいは渦中)の死にたいほど 昴まる憂愁とも関連づけられるだろう。女を楽器と見なした歌には、 現代歌人・岡井隆に次のような名吟がある――《ひさびさに男となりて見下ろせり 梅雨荒れの夜の楽器しろたへ》。・ラスト《ラビッシュ》は 英単語なら“lavish”で、「物惜しみしない」「ぜいたくな」の意味。 ただしあまり人口に膾炙した単語ではないのでは。 ありえない“rabbish”(兎のような)とか、“lavish”(ラベルを貼りつけられた) などという単語を最初おもい泛べてしまった。告白すれば、かつて「ひらひら」などの 名曲で活躍した暗いシンガー&ソングライター中山ラビの形容詞形だろうかとすら考えた。
男は「思い出づくり」のために女の写真を撮る者、 女はそれを嫌う者として(冒頭《あなたはすぐに 写真を撮りたがる/あたしは何時も其れを厭がるの/ だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない》)。 で、椎名林檎は自分の楽曲がどう使用されているか確認するため、 田尻監督の『OLの愛汁』をビデオか何かで観たのではないかと 邪推した次第。――以上、前置が長くなった。・ままず整理をしてみよう。 「写真を撮る→思い出をつくりたがる→物証によって自分の生の時間を 保証しようという生の吝嗇家」というパターンがこの歌に現れる男だろう。 逆に、「本当の生はそういう写真から剥落し、動態化されるもののなかにある →あたしはそういう自分の生を相手に与えてるんだ[よって“gives”] →しかも自分はいつも傷だらけ」という自覚をもっているのが女のほうだろう。 ふたりの価値観の齟齬はここでも痛ましい。男は安直に《絶対》を口にする。 女は時間の流れにたいして人は無力だと知っている。《あなたはすぐうに いじけて見せたがる/あたしは何時も 其れを喜ぶの/だってカート みたいだから あたしがコートニーじゃない》のフレーズにも、 女が加虐的、男が被虐的という温度差がみられる(本アルバムの 二曲目、三曲目も同じような設定だった)。贅言かもしれないが、 《カート》はグランジ・ロックの雄としてカリスマ化したのち自殺を遂げた ニルヴァーナのカート・コバーン、《コートニー》はその恋人だった コートニー・ラヴを指している。・最終二行目、《また四月が 来たよ》の ギブス 「四月」は「大辞典」によればカート・コバーンが自殺した月とされている。 ただ、どうしてもT・S・エリオットの詩集『荒地』の冒頭をおもいだしてしまう。 ちなみにそれはこうだ――《四月は残酷極まる月だ/リラの花を死んだ土から 生み出し/追憶に欲情をかきまぜたり/春の雨で鈍重な草根をふるい 起すのだ/・・・》(西脇順三郎訳)。
・全体はきれいなバラード。サビの部分で、[ここでキスして。」が そうだったように、やはり泣けてしまう。で、歌詞カードをみると “I wanna be with you”は《i 罠 B with U》というように、 漢字・アルファベット大文字・発音記号などによって文字化けしている。 しかしこの文字使用は深読みが利く。「B」をbe動詞、beingから「存在」と取り、 「U」を“un”を接頭辞にもつ否定語、もっといえば「非在」と取ると、 上記《i 罠 B with U》は、「あたしは非在と一緒になって存在を罠にかける」 という意味に変化するのだ。・曲の演奏が終わり、ラストはノイズが後引きするだけ になる。そこで次の曲の導入部となる弦楽四重奏が入ってくる。ここにはびっくりした。 というのは、リンゼイ・クーパー(音大出身、オーボエを中心にした 女性マルチ・プレイヤーで、後期ヘンリー・カウに加入した)の初ソロアルバム“RAGS” (輸入盤のみかつて発売されていた――現代音楽/ドイツリート風の歌曲/ 室内楽、の至上の融合例)にモロに同じ楽器編成・メロディの展開があったためだ。 この「引用」に気づくひとはそうはいないだろう。
・リンゼイ・クーパー風の弦楽曲から、ニューミュージック調に変化する (ヨーロピアンな感触は保たれている)。・男への一方的狂恋(《辿り着けない/ 此処に欲しい腕や髪や首筋》)を自覚した女の姿がスケッチされる。 《余りの暑さ・・・》からの二行、それに《天気予報が外れて・・・》からの二行が 女の日常素描。夏が到来し、雨つづき、東西線で通勤し新宿の事務所でOLとして 働く女は、打ち続く湿気と暑気ですっかり体調を崩し、憔悴しきって、 片思いの相手への心を募らせるばかり。女はすでに狂っている。なぜなら、 お呼びでないのに、自分が相手を守りぬくという狂信があるからだ(《貴方に 降り注ぐものが譬え雨だろうが運命だろうが/許すことなど出来る訳ない/ 此の手で必ず守る/側に置いていて》)。例示した箇所では《側に置いていて》が 前後の脈絡から非理性的に突出している点でとりわけ狂気の兆候となる (「浴室」の《どうか見捨てたりしないで》と同じ用例)。それと「雨」「運命」の韻が佳い。 ・女が客観的判断なしで恋に狂うほど精神的に弱かったのは、たぶんTVドラマで 夢をみすぎたためだろう。「守る」という言葉ならば、たとえば一時期の野島伸司ドラマ ――とくに『未成年』――が意図的に濫発していた。・女は自分の泥沼のような 自己献身願望を客観視してもいる――だからより不気味に映る。《招きたくない/ 空々しい土の香や向日葵の/すぐにも迎う馨しい絵画と化する日など》 闇に降る雨 ――自然志向や健康的な向日性が女には存在しない。 とはいえここには哲学がある。つまり、愛は晴れ晴れしい記念として事後定着的に 認識されるのではなく、相手を想う泥濘のような過程そのものの中にある ――あるいは、思考は結果ではなく、過程にこそ宿るという哲学が。 ・《貴方に身を委すことが譬え 危険だろうが安全だろうが/留め金など在る筈もない》 ――相手を想うあまり猛突進し、怖がらせて相手を喪失してしまうヒステリー類型の 精確な描写。・この歌のヒロインはキモチ悪い。だからカラオケでこの歌をうたうと 歌詞は歌い手に意地悪に作用することになる。・相手は女の妄想のなかのいるだけ。 ということは、「二人の情景」の地獄の諸相をえがきつづけてきたこのアルバムの流れが、 このあたりで弱体化したことになる。
・価値感の多様化・液状化によって、自己を見失った女が主人公 アイデ (《あたしは誰なんですか?》)。しかし「アイデンティティ・クライシス ィティテン (自己同一性の危機)」という話題はもはや文学的に使い果たされた感があり、 あまり個性的=椎名林檎的ではない。のみならず、 この曲の歌詞は喩的機能・凝縮力に乏しく、メッセージをただ並列・連打する手触りも 直截的にすぎ、よってアルバム中随一の駄曲といえるのではないか。 ・唯一の手柄は《此の先も現在も無いだけなのに・・・》の一行。 アイデンティティの喪失は時間の喪失をもともなうという思考がここにはみられる。 時間が意味連環をともなわず「ただ流れる」状態となったときの、身体的な危機。 それと、未来も現在もないというとき、それではこの女に過去はあるのかという 当然の問がでてくるはず。むろん、ない。過去があり、現在があって、 よって未来があるという時間意識の組立ては、人間にとって普遍的だからだ。 ・それと、このアイデンティティ・クライシスはスター化した 林檎自身の悲鳴と受け取られるような余禄がある。しかし彼女にあっては受動的な混乱と 明晰な錯乱ははっきりと区別されていたはず。むろん彼女は後者の体現者だった。 そしてこの曲は、「混乱」を常識的にうたいすぎてしまっているという難点がある。 ・《君を信じて良いのですか》というフレーズがあるものの、 共同体の情景の連打というアルバムの流れもまた、この曲で完全に寸断された。
保守age
149 :
名無しにして頂戴 :04/04/16 04:16 ID:WwfY4sdk
…こんなほとんど当てつけみたいな歌詞の長たらしい解説とかうざい。 林檎が雑誌で「ギブスのまた四月が来たよっていうところで四月はカート の死んだ月だからっていう勝手な解釈とか、本能でナースやったとたん ライブにナースで来るのとか、人3人位殺さないとやってけない」 って。 あんた殺されるね。
>>7 うわ・・・それ、たぶんビンゴかもしれない、勘いいなー いい線だと思う。
>>149 やっぱり何を言ってもバカだなwウプププ!
当たり前だろそんくらい勘違いされたって。
そういう行動ばかりしてるんだから。
自分が悪いんだよ。そんなのタイソンが悪い。
何でオレが怒られないといけないんだ? アイツの被害妄想だろ。
手におえない。バカすぎる。
ダッキングものすごい早いw
156 :
妻丘 ◆7KdroQNwi. :04/04/16 07:07 ID:eMCiduNG
まだNGか、NG=ノーグッドだとは知らなかった。
157 :
妻丘 ◆7KdroQNwi. :04/04/16 07:13 ID:eMCiduNG
サップはやらないほうがいいと思うけどね、 ビデオ見たカンジ予想してたよりタイソンて強いんだねw ものすごい早いのか、動きが。 オレはただパンチが強いだけのヤツなのかなと思ってた。 危険でしょーこれは、いくらサップでも。 4月30とか言ってたけどマジかなw?
昔のヤツばっか見てたw
このアルバム中、最もハードでヒステリックで、 鳥肌の立つような声だ。巻き舌もド迫力。 ・孤閨の怨み、と一言できる主題だが、貸しの運びに味わいがる。 一行目、《頬を刺す朝の山手通り》は末尾に「からの光」が 省略されているとみるべきだろう(ちなみに椎名林檎自身の現在の居住地は 港区らしいが、山手沿いという劣悪な立地のワンルームに住む女の凄惨が 「山手通り」という具体的地名ひとつで匂うように実体化されている)。 ・《今日もまた足の踏み場は無い/小部屋が孤独を甘やかす》からは、 メランコリー学者が唱えるメランコリーと室内の関係が泛びあがってくる。 《憂愁は[・・・]室内に属するものであり、〈気分〉、つまり室内の 事物の配置によって室内に結びつけられる》(ヴォルフ・レペニース著、 法政大学出版局刊『メランコリーと社会』より)。
・男への呼びかけのひとつ《不穏な悲鳴を愛さないで》は名フレーズだが、 典拠がある。ブランキー(浅井)のアルバム『幸せの鐘が鳴り響き 僕はただ悲しいふりをする』中の「円を描く時」に、《 悲鳴を上げる女の足首ほど純粋なものはないさ最後まで》というフレーズがある。 ということは、曲の「男」には浅井が擬されていて、そこに浅井を参加させるという 陰謀のもとで、曲がスタジオで演奏されたのだろう(だからこの曲は 「丸の内サディスティック」の発展形でもあるわけだ)。ちなみに既出 「円を描くとき」の歌詞は、ジム・モリソン(ドアーズ)の「音楽が終わったら」 (『まぼろしの世界』所収)の1フレーズ“Before I sink into big sleep, I want to hear the scream of the butterfly”にインスパイアされたもの ではないかという指摘は、昨年の講義(「ブランキー・ジェット・シティ」の 二回目)でおこなった。・以下、歌詞 罪 の部分分析を少々。@《未来等 見ないで/ 確信できる現在だけ重ねて》→本アルバとムの時間論の主題。しかしこういう時間論は セックス狂にも特有だという点に注意が罰要るだろう。 A《愛している――独り泣き喚いて/夜道を弄れど虚しい》→少し中島みゆきが入っている。 椎名林檎=中島みゆきの隠し子説があったのは周知のとおり。 B《歪んだ無常の遠き日も/セヴンスターの香り/味わう如く季節を呼び起こす》 →女は身を灼くほどの自己郷愁にも苛まれている。ちなみに林檎の愛用煙草は ハイライトらしい(「大辞典」参照)。ハイライト愛用者にはニュアンスが わかるとおもうが、不必要に甘いセヴンスターの香りはすごく偽善的、去勢的と 感じられる。C《あたしが望んだこと自体/矛盾を優に超えて/一番愛しいあなたの 声迄/掠れさせて居たのだろう》→女は恋愛関係において力というか存在が過剰で、 ゆえに男に嫌厭されているのではないか。ちなみに浅井健一もすごく魅力的な 枯れ声だった(なお、浅井はブランキー解散後、椎名林檎ではなく、 UAとユニットを組んで活動をしはじめた――そのUAには彼はアルバム『turbo』中 「ストロベリータイム」「午後」の二曲で楽曲提供・演奏参加をしていた)。
ス・『クイック・ジャパン』「椎名林檎大辞典」に「ストイシズム歌詞分析」の項アリ(必見!)。 トこの歌詞を起こす苦労は誰でも理解できるはずだからだ。一部「罪と罰」を逆回しでうたった イ箇所があるとは初めて知った。・曲調はヤプーズ(戸川純)のテクノ・ポップ調。ただし ズ技法は異なる。椎名林檎の歌には、歌そのものと歌のサンプリングとが、複雑に化合されている。 ム・この曲の詞・曲の散乱(破片化)状態はアイデンティティの崩壊ゆえとみることができる (「罰」として曲があるということ)。アルバム上、本曲とシンメトリーの対称点をなすのが 「アイデンティティ」だが、同曲は自己同一性の危機そのものの前段説明(それで「罪」をしめす)、 この曲はアイデンティティ・クライシスが完全招来されたあとの状態説明を、対称曲の「応用」 としておこなったと捉えることができる。 『勝訴ストリップ』収録の「ストイシズム」歌詞を聞き取りました。アアアアーアーアアッアアーアー×4/ でんよんゃち〜を〜えまなのしたあ〜/ララララ〜あなた〜あなた〜/ルルル・ルきれい〜きれい〜ドシラソファ/ ララララ〜すてき〜すてき〜/ルルル・ルきらい〜きらい〜ドシラソファソ〜/(こっちもってくるうとかさぁ) (アクセルアクセル、ブレーキ、ブレーキ、アクセル、アクセル、ブレーキ、ブレーキ、アクセル、ブレーキ、 ブレーキ、アクセル、パーキング。)/アアアアーアーアアッアアーアー×4/でいなさいあを〜いめひなんおふ〜/ ララララ〜つよい〜つよい〜/ルルル・ルきれい〜きれい〜ドシラソファ/ララララ〜よわい〜よわい〜/ ルルル・ルきらい〜きらい〜ドシラソファ/ララララ〜あなた〜あなた〜/ルルル・ルきれい〜きれい〜ドシラソファ/ ララララ〜すてき〜すてき〜/ルルル・ルきらい〜きらい〜ドシラ〜/レシレ!(大丈夫とかよぉ)
一部、「罪と罰」歌詞を逆回しで歌っています。また林檎さんが 「アクセル、ブレーキ、アクセル、ブレーキ、パーキングがサビに なる曲を作る、とタートルズのメンバーに約束した」ので作った、 というエピソードもアリ。最後の部分で「大丈夫とかよぉ?」と なぜ言っているのかについては「あれは、梨乃ちゃん(時津梨乃さん、 林檎さんの友人)が言ってるんですよ。梨乃ちゃんがサンプリングするときに、 何の音のない状態で『声出してみて』『え?どんなふうに言えばいいの?』 『オフッとか、そういうの言ってみて』って、で、ひとつずつやってもらって 『ありがとう。もう全部録れたから』って言ったら『大丈夫とかよぉ?』って(笑)」 (『Gb』〇〇年五月号)
月・ここから歌の主体(主人公) に が恋人などとの関係性をもた 負 ない(もてない)「個人」 け となる。主人公は曲ごとに 犬 変化(変身)してゆく。よって、 稀薄さゆえの個人の変身可能性 という、『無罪モラトリアム』 から引き継がれた全体的主題が 以後、花開いてゆくことになる。 ここで『無罪モラトリアム』を 規定していたのは「1」の変幻自在性、 本アルバムでは「2」にあらわされる 対称性、表裏ということになる点に 注意したい。ちなみに林檎の3rdアルバム というか八センチCDの三枚組集『絶頂集』 はすべて「3」が数字魔法になっている。 タイトル名すら漢字三字だ。
・ジミ・ヘン「リトル・ウィング」風 のリズム・ギターで曲が開始される。 (のちのリード・ギターではジミよりも さらにハードに飛行という意気込みが 感じられる――ちなみにギターは 名越由貴夫)。曲調はすごく 落ち着いていて、前言したように、 シングル・カット曲以外では、 「弁解ドビュッシー」と 双璧の名曲だとおもう。 ・一人称には「僕」が 用いられる。この点で ふたつにことが考えられる。 @“僕”→少年の自称→ すると歌全体の感触が ミス・チル風になる。 A“僕”→女のコの自称 (とくに七〇年代には 自分をこう呼ぶ文学少女がいっぱいいた。
・この歌には恋模様が完全にない。 「孤独」「傷」といったことどもを 前提に「生き方」のマニフェストが なされているとみていい。 ・歌の主人公と椎名林檎自身が ダブル・イメージとなる箇所がある。 →《明日 くたばるかも知れない/ だから今すぐ振り絞る/只 伝わるものならば 僕に後悔はない》。・その他、歌詞の部分解釈。 @《此の河は絶えず流れゆき/一つでも 浮べてはならない花などが在るだろうか/ 無い筈だ/僕を認めてよ》→時進行の無常感 (ほとんど『方丈記』の冒頭だ= むろん「同じ夜」に代表される主題 の反復でもある)。A《何時も身体を 冷やし続けて無言の季節に立ち竦む/ 浴びせる罵倒に耳を澄まし 数字ばかりの世に埋まる》→冒頭二行と おなじく「自己疎外」を しめしているが、こちらの詩句の 運びのほうが「少年」の息遣いが 感じられて好き。むろん 「アイデンティティ・クライシス」の 一歩手前の状態に歌の主人公はある。
B《上手いこと橋を渡れども/ 行く先の似た様な途を 未だ走り続けている/ 其れだけの僕を/許してよ》 →自分は世渡り上手だと歌の主人公は 感じているが、その点に充実感を おぼえていない。その醒めた意識によって、 かえって歌自体に哀しみの念が灯る。 優等生だけがもちうる哀しみというやつだ。 C《逢いたい人に逢うこともない/ だから手の中の全てを/選べない 日の出より先に 僕が空に投げよう》→ 「賭け」のお意識にみちた自己投企。 それが夜明け直前の時間であることで、 孤独な夜の夢想全体が諦めをもって完了する。 清々しさを感ずる。
その「夜明け前」の時間把握は以前の 「警告」と対照的(《日の出を待ち切れぬまま 鋏を探し出す/あなたは全てを あたしが切っちゃっても効かない・・・》)。 ・「河」「橋」「走り続けている」などの語句から、 曲全体に、夜明け前に川沿いに ジョギングをしている男子高校生(それも田舎の)の イメージが泛ぶ。そのジョギングが終了に近づき、 最後の一行となる――《吐く息が熱くなってゆく》。 ここで冷んやり、あるいは凛然と張りつめていた歌の空気に、 ついに希望の温かみが灯る。
・シンメトリー上の対称点 「闇に降る雨」との比較→ どちらも恋人(逢いたい人)は 自分の目先に現前していないという 共通点がある。しかし「闇に降る雨」の、 自己盲信で相手を助けうると考える新宿のOLは、 その心情そのものが罪ぶかい。 いっぽう本曲の主人公は 孤独な営み(ジョギング)を黙々と つづけるという「罰」を受けているが、 「罰」そのものは未来を組織してゆく 枠組であって、そこにはむろんのこと マイナスの価値がまつわっていない。
・前奏のコーラスと曲のはじまりのあいだに 落差がある。そこからクール・ギャズ風の ミュート・トランペットやギターが入り、 ジャジーな印象がつよめられる。 このジャズの導入は、歌の主体=主人公の女に 「売春」の匂いを立ち罩めさせるよう機能している。 冒頭の《ちっぽけで汚らしい動物 雌》という、 吐き捨てるような反フェミニズムのフレーズが 強烈だが、曲名「サカナ」の縁語《泳ぐ》の頻出は、 「女であることの“罰”を受けて巷間を 流れてゆく女一般」から、さらに「苦界(夜の街)を その日暮らしで泳いでゆく売春婦」 という風に像を具体化するようにおもえる。
・二聯目が重要だろう。 《たったいま頂戴した言葉 其れ/ 一体どういう意味を持つのですか/ 「愛している」と云う腕の中で/ 只 易々と 泳いで行くのかしら》 ――売春は多く個人的「必要」から生まれている。 女自身が、自分の物質化を諾っている(うべなっている)。 そんな状態の中では逆に客の精神的な言葉「愛している」が 異物となる。恐怖の言葉だ。それをたんなる 相手からの「信号」と受けとめ、その腕のなかで 泳ごうとする女の姿はすごく疎外論的に 捉えられるだろう。哀しい。売春は「肉体」に とどまるべき生業であり、それが精神科したときは 危機が生ずるという売春論は 「歌舞伎町の女王」の瞬間を彩ってもいた (《女に成ったあたしが売るのは 自分だけで/同情を欲した時に全てを失うだろう》)。
・最後の三行《あたしが届かない雲の彼方に 不思議も無く厳かに(おごそかに)構える/ 日のことを詳しく説明して下さいな/ 手を取り優しくそう捕まえる前に》 ――売春という「夜の世界」にあって サ 絶対的な他者は客ではなく、 たとえば太陽の熱・瞋恚(しんい) といったものだということ。ともあれそういうかたちで カ 絶対的な他者と出会った売春婦は、 罰からの脱出口を意識することができるだろう。 ・シンメトリー上の対称点「ギブス」との比較→ ナ ともに未来をヴィジョン化できない辛苦の時間を 歌の主人公が生きている点は同じ(ともに罪深いということ)。 ただし前段落のように「サカナ」の主人公は 他者に逢着するという明瞭な「罰」を受けていて、 それで罰の状態から生還してくる可能性が あるのではないだろうか。
病 床 パ ・ハード ブ ロック風 の前奏→ リ グラム ロック風の ッ 妖しさに 変化。・列 ク 挙体、散乱 状態の歌詞が、 歌の主人公で ある女の運転するクルマの走行速度を 体現している。夜のドライブ、走っている のは新宿通りか?・列挙体のなかでは構文をな している三つのフレーズに着目せよ。@《片や妄想 に生命を揺らし 消化したはずの汚物まで/戻して失う》 →「戻す」は嘔吐する、の意。それでこの二行から「過食症 イメージ」が湧き立つ。A《既にもう女として生まれた才能は発揮 しているのだけれど/脱がせてほしい》→女はすでに「脱ぐ」ことを繰り 返している(「既にもう女として生まれた才能は発揮している」)。→そこに 《脱がせてほしい》→とすれば、裸身になっても存在が裸になりきれない女の苦悩 がここにメタふぉらイズされていると考えるべきだろう(なお、《脱がせてほしい》 は特殊オナペット=性的偶像として自らを把握しているスター=林檎自身がファンを 挑発したチェリー・カリー的言辞と受けとることもできる)。B《もしも愛なんて呼 んで居なくて信号と云う解答で貴方を誘い出しても/変らないかな》→大意その一: 「愛情ではなく信号機の表示が変る程度の欲望のサインであなたを誘いだしても、ふた つの結果は同じ――寝るだけ――SEXは愛があろうとなかろうと昴奮という点で変わり はしない」→大意その二:「自分の歌に愛のメッセージを織り込んでも、文飾を信 号的に点滅させるだけでも、どうせファンは熱狂するだけ――変わりはしない」。
曲名「病床パブリック」は、「クルマの運転席にいるのは病床にいるのと同じだが、 立場は病床とちがい公的だ」という意か?・シンメトリー上の対称点「弁解ドビュッ シー」との比較→@ボコーダー使用が同じ。A主人公となる女の、ヤンキー風な、 ヒカリものジャラジャラのドギツいイメージが同じ(ツバメを囲うセックス狂 のOLも、この過食症のOLも、身体が過剰をもとめる感覚のともに支配され ている)。同一人物かもしれない。すると「病床パブリック」のヒロ インが運転中に携帯電話で呼びだした相手(《もしも愛なんて呼 んで居なくて信号と云う解答で貴方を誘い出しても》)も 「弁解ドビュッシー」のツバメということになるのか もしれない。「罪と罰」という点でいえば、 セックスに惑溺するのは罪の状態、 孤独な夜にクルマを駆るのは 罰の状態ということ になる?
・「事典」に「本能イントロ」の項アリ。 それによれば、イントロの英語歌詞は “I just want to be with you tonight/ I know that you want to be my babe”。 たしかにそう聴える。・アルバム中、最も ファンキーなビートがもちいられている。 ピアノも黒っぽい。そして、最もシンプルで クリアな印象をあたえる曲でもある (だから衝撃的)。・言葉/意識にたいして、 「本能」「衝動」のほうを価値づけする というのが曲の主題。・むろん セックス・ソングでもある。 《ずっと繋がれていたいわ》 [※「繁がれて」は誤植]――《もっと 中迄入って/あたしの衝動を突き動かしてよ》。 だからむろんカラオケでは同席者への 挑発目的以外にはうたえない。 深窓の令嬢は慎むべきだろう。
・ジャニス・ジョプリンの 「MOVE OVER(ジャニスの祈り)」 (『パール』所収)と同じ位相にある 歌だとおもった。同じファンキー・チューンだし、 出だしのブルーノート音階の骨組だけのような メロディのリフも感触が似ている。 ちなみにその歌詞の出だし部分はこんな感じ ――「おしまいだ――あんたがいう/ 終わっちまったのさ――あんたがいう/ でもまだ離れられないのなら/あたしのうえで ずっとカラダを動かしつづけてよ/あたしに 男が要ることはわかってるじゃない/ 男なしじゃいられないってこと/ でもあんたにこそ、いってほしいの/ “オレがヤッてやるよ”って」 [“move over”(俗語で、通常の辞書には 載っていない)を「動きつづける」「上で動く」の 両方の意で取った――なお、“move over”は、 映画興行用語としては「下位館に拡張興行する」の 意でもちいられる)。・そして「本能」には 厭世観がある――《終わりにはどうせ独りだし》。 だが「終わり」は来るのだろうか? 《朝が来ない窓辺を 求めているの》→ 朝が来ない(夜がつづく)かぎり、 セックスには「終わりがない」。その終わりが 来ないということが「終末」の本当の様相では ないだろうか(瀬々敬久監督のピンク映画の大傑作 『終わらないセックス』参照)。
・ヒロインの性衝動のみがうたわれているから、 歌が描写する「相手」は実像化しない。 よってこれは恋人関係のスケッチではなく、 ミーイズムの蟻地獄ソングと受けとりうる。 ・シンメトリー上の対称点「浴室」との比較→ 激しい肉体関係を求める女が描かれている点で 両者は共通。しかし「罪」ぶかい「浴室」の ヒロインは、湿潤さを嫌っていた――そこが 「救い」だった。「本能」のヒロインは 「罰」当たりのように終末を求めている ――しかし生き方がハードボイルド。 ここにもおまた「救われる」局面が 本 あるといえるだろう。 能
・デミニッシュ・コード、不可思議で 依 静的な印象をあたえる。曲調は 存 ニューミュージックにもつうじている。 症 ただし、冒頭からヒロインが海に 沈んでゆく音が入っている。 ・品川埠頭→甲州街道の道順で、 「病床パブリック」同様、これも女が 午前二時からドライブする光景が うたわれている。・《シャーべッツの ロゴが溶けている黄色い車の名は「 」》 ――この伏字部分に入るのは林檎の愛車の愛称 「ヒトラー」だという(「大事典」より)。 なお、「シャーべッツ(ト)」は浅井健一の ブランキー在籍時代のソロワーク名で、 『セキララ』『SIBERIA』という 二枚の大傑作がある。たぶんCDの 販促プレゼントのステッカーを 林檎は愛車に貼っていたのだろう。 ・タイトル「依存症」は以下の フレーズ等に由来? ――《孤独を 知る毎に あなたの 相槌だけ望んでいるあたしは/あなたの 其の瞳が頷く瞬間に初めて生命の音を聴くのです》。 平べったくいえば、生きているために 自らの恋情に「依存」している女の生が うたわれている。それを遮断したい ――そこに「自殺願望」があらわれる。
・自殺願望――《あたしが此のまゝ 海に沈んでも何一つ汚されることは ありませぬ》《いいえ 綺麗な花は枯れ 醜い過程が嘲笑うのです》。 あとのほうのラインは、 「若く美しいうちに死ななければ、以後、 醜くなった過程がかつてあった若さ・美しさを 帳消しにする」とも読める。 ・ただし、自殺は敢行されない。 なぜなら品川埠頭→甲州街道という道順を 歌が辿るためだ。女は品川埠頭で海に魅入られたが、 入水を断念した。だからクルマを運転しつつ、 甲州街道で渋滞に巻き込まれ、慘い《日本の朝》を 迎えることになったのだ。それでも自殺願望は 鈍く女に残っている――だから上述 《いいえ 綺麗な花は枯れ・・・》が 歌詞カード上、最終行にあらわれる。 ・シンメトリー上の対称点「虚言症」との比較→ 「虚言症」はいちおう「自殺否定」だった→ 「依存症」は「自殺傾斜」。ただし、 「自殺否定」の「虚言症」に自傷願望があり、 「自殺傾斜」の「依存症」のヒロインは 朝の惨い光に包まれる(これが「罰」だ)。 そういった「逆転」構造をともに 内包しているというレヴェルまでふくめて、 両者は「表裏」を形成しているといえるだろう。
●椎名林檎『勝訴ストリップ』全曲分析/実戦サブカルチャー講義より抜粋 二〇〇二年三月二〇日 初版発行 株式会社河出書房新社 阿部嘉昭(あべ かしょう)1958年,東京生まれ。批評家。現在,立教大学非常勤講師。
・省略した箇所がありますがご了承下さい。 ・書き忘れた箇所があるのですがお許し下さい。 ・変な箇所がありますが許して下さい。
男の人は凄いですね。椎名林檎はよく女は尻に引かれているなどと発言されますが そういうことも含めてノンフィクションの、日記をそのまま曲にしたような歌を 作られますが彼女独特の言葉を使ってもこうやって男性に読み取られてしまう。 世間では女性が体で感じて感覚的だと言われているけど、 女性に向けての全ての褒め言葉は男性のおだて言葉と受け取っていい。なんも考えとらん。 何も考えてない方が怖い。おだてておいて、先に行っていたという感覚。 女が怖いんではなくて男が怖いのだ。どうすればいいのか、林檎も含め、 男をライバルとするんではなくて女をライバルにすればいいのではないか。 しかし、女は女としての寿命が短いといえども、最後の最後の曲依存症にある通り、 分かってるからこそ化粧道具を駆使して美しさをひたすら求めて本当の美しさを 手に入れていくのではないか。そして、齢を取らないためには 決して外見だけじゃなくて想像も駆使していかなければいけないのかも知れない。 独り言
「カルキ」全曲分析マダァ-? (・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
>>183 ぶっちゃけ、カルキはこの板一連の流れ見ていればいいと思う。せっかくカルキの登場人物本人がこの板にリアルで実在するんだから。
カルキに関しては、妻丘・馬鹿ギターの此処での会話から掴んだほうが事実性が高いと思う。
@伊藤比呂美A戸川純B黒木香C森高千里そしてD椎名林檎。 この@からDの具体論に入るまえに、考えなければならない前提を まずお話してみることにします。 どうです?よかったですか?僕はこれらの曲が収められている『東京の野蛮』を 聴いているといつも泣けてしまいます。 この戸川純を僕はすごく可愛いとおもう。笑えもする。 同時にすごく痛ましいともおもう。 こんな複雑な感触は、僕がはじめて椎名林檎ちゃんと聴いたときと まったく同じだった。「可愛い」「笑えもする」「痛ましい」がまず 同じだということです。そしてそれに、「異様に才能がある」 「才能は歌詞の文学性にまず顕著だ」そして「歌唱法には演劇性があらわれだ」 ――それらも僕には戸川純と椎名林檎がダブルに重なってみえてしまう要因と なっているようです。僕、この戸川純を同時代にほとんど聴いてなかったんですよ。 ゲテだとおもって遠ざけていた。それも「歌舞伎町の女王」を聴いていながら曲の 「狙い」っぽい時代錯誤のアングラ性を警戒していた椎名林檎と同じです。 椎名林檎の場合は「ここでキスして。」で急に認識が変わり、 アルバム『無罪モラトリアム』を聴くに及んで完全にノックアウトされる。 じゃそういう椎名林檎や戸川純は果たして本当にヒステリーなのか、という 当然の設問がここであるとおもいます。でもこれは愚問です。 それはあくまでも意図された歌の効果だと考えたほうがいい。 何をいってるんだかわからなくなってきたな。ただ、掃きだめの鶴が美しいように、 不安定さ(音程じゃなくて精神だよ)のなかに、ある瞬間、確固たる意志をもって 現れた声が、それが女のものであるかぎい「可愛い」「泣ける」ということは あるとおもう。戸川純の歌の可愛さは畢意、この点に収斂してゆくと 僕なんかはおもってる。ということは、その可愛さは、痛ましさと 不即不離だということになる。僕は椎名林檎の「ここでキスして。」でも やっぱり泣けてしまったし。
椎名林檎のR音の下品な巻き舌はすごくイタリア人発声的なんだけど、 やっぱり一曲の歌唱を安定性に向けて着地させない機能を担っている。 あるいは歌詞の1ラインの語尾。トレモロをかけてるでしょ、椎名林檎って。 ドレミ音階でいったら、“ドー”でいいはずのところに細かく“レミレドー”って なるような。あれも歌の輪郭が、揺れるスカートのヘムラインのように華やかに ブレる効果をもっているんだけど、それを「意図的」ではなしに「生得的」に やってしまうかぎり、ヒステリー的なブレを感じさせてしまう。 同じようなことはたとえば今の歌い手でいったらaikoなんかもやっているんだけど、 あれは歌唱や曲づくりの技術として、精神的なものではなく音楽的な領域に 還元されちゃうとおもうのね。揺れ、あるいは「不首尾」の一貫性によって、 音楽――歌唱が「不吉に精神化される」という力業にまで達していないんだとおもう。
で、問題が「玉姫様」。ちょっと抜粋して歌詞を読みあげてみましょうか。 《ひと月に一度/座敷牢の奥で玉姫様のお発作がおきる/ もう何もみえない もう聞こえない/あなたの話が理解できない/ 異常な発汗と嘔吐の中で/六感は冴えわたる》・・・・・・これ、何をメタファーしてると おもいますー生理、月経なんですよ。たぶん月経をうたって唯一ヒットした曲がこれだろう。 僕、戸川純がゲテだとおもって食わず嫌いの状態で彼女を敬遠してたって さっきいったけど、この歌の印象が大きかったんですよ。 昔あった歌番組『夜のヒットパレード』か何かで、彼女は白眼をひんむいて、 赤い照明のなかでオドロオドロでこの曲をうたっていたという記憶があります。怖かった。 でも曲自体はすごくポップなんですよ。そのアンバランスが、 当時の僕にはすごく悪意にみちて感じられたんだとおもう。この曲を聴けば、 やっぱりい椎名林檎との共通点がピーンとくるとおもう。 つまり椎名林檎の生理は重いということは知れ渡っているわけだし。 あ、いまいった「白眼むき」というのも共通点ですね。
で、プリントで渡したさっきの「諦念プシガンガ」「蛹化の女」(むしのおんな)の 歌詞カードにもういちどサラッと目を通してください。「諦念―」では 自分が一塊の肉の塊で、あたしを牛・豚のように殺してもいいのよという 諦めに彩られた懇願が入っています。一方の「蛹化の女」では恋に破れ月下の 銀色に輝く森で、蛻変(せいへん)した飴色の昆虫――どこか粘液的で(「樹液すする」 という歌詞がその印象にあずかっています)、しかもそのからだの表皮を皮膚病のように 草に寄生された虫の女が主役になっています。そういえば僕、この歌の歌詞を 書きうつしていて、松本人志の新著『図鑑』の「落ちキッス」即座におもいました。 二九歳のOLが二歳年下の同僚サラリーマンに向けてたまたま守のなかで放った投げキッスが 躱されて(かわされて)しまう。それがそのまま地面に落ちたまま放置されて 「落ち葉」のような「落ちキッス」となって森のなかにあるという意味のことを松本は 絵と文でかたっているんですけど、女の妄執が森のなかにそのまま放置されているという把握が、 この「蛹化の女」と「落ちキッス」に共有されているんですよ。ちなみにこの『図鑑』、 松本の本ではもう抜群に面白い。ベストセラーになった『松本』『遺書』『愛』なんて問題じゃない。 超オススメです。これを、期末のレポートに書いてもらってもいいくらい。 絵文集で、ボルヘスがやったような奇妙なエンサイクロペディアに全体が構成されている。 そこに松本特有の奇想が満載されていて、しかも絵がへナへナでグロテスク、 どこかしらが性格異常で、笑えるんですよ。僕はその絵をすごくうまいとおもう。
ともあれ、こういうひとたちの稀薄さゆえの変身能力が戸川純にも貫かれていて、 それが僕は椎名林檎に隔世遺伝したんだとおもうんですよ。椎名林檎の変身能力は、 彼女の1stアルバム『無罪モラトリアム』に一目瞭然というか一聴瞭然です。 彼女はそのなかで恋人をふって故郷を飛び出した高飛車な女、母親の生業――「売春」を 継ごうと意気揚々と歌舞伎町に千葉から繰り出した無自覚(しかしどこかで勘のいい)少女、 フーゾクでも働く(ブランキー・ジェット・シティ=浅井健一を好きな)境遇の薄暗い 池袋近くに在住の丸の内OL、恋人を哲学肌とおもいこむことで幸福に安住しようとしている女、 自己チューで不良気取りの同級生を気迫で愛しつづけ、おねだりいキスをあたり構わず もとめるコギャル、恋愛気分でアタマのなかに脳内物質をためこんだ病的に 夢想癖のつよい女などに次々に変身してゆきますから。気をつけてくださいよ、 僕はシタリ顔で、みんなは知らないだろうけど、椎名林檎は戸川純の影響を受けたんだぜと 示唆しているわけじゃないんです。たとえばビートは椎名林檎のほうが微分的だし、 そこに乗る言葉の分量にも大きく差がある(林檎のほうが抜群に多い) ――自分で作曲・演奏を手掛ける林檎のほうが音楽性において全然恵まれているという側面も 否定できない。これは、才能の多寡の問題というより、時代の変遷(へんせん)という問題に 属するのだとおもいます。椎名林檎をカラオケでうたうこともほとんど不可能だし、 もしそれをうたったとすると、椎名林檎が歌のヒロインの特定化ということで仕掛けた罠に、 そこで倒錯的にハマることにもなる。
それに小室哲哉の大活躍した時代まで(とはいってもそれは数年前のことです)なら、 カラオケでうたわれることは曲が大ヒットする要因だった。 カラオケの勉強のためにシングルCDを買うことになるから。けれどもそれから不況の深刻化、 さらには携帯電話料によって女子高生世代がとくに支出バランスを崩してゆくという傾向が 如実になって、カラオケ離れが加速度的に起こってきます。ということは、 小室がカラオケ・ブームに対応したミュージシャン/アーティスト/プロデューサーだったとすると、 その後登場した椎名林檎はカラオケ離れに対応したアーティストなのかもしれない。 僕、八〇年代以降、戦後民主主義が崩れていったのは女たちの力にあずかるところが大きいと いいました。そのとき女の肉体をどういう変化のラインで捉えたのかをもういちど おもいだしてください。ヴェクトルでそれをしめすとすると、 《「記号化」→「具体化」→「階級化」(異物化)」》という流れだったわけです。 女は自覚的に自分の肉体を記号化し、具体化し、階級化し、場合によっては異物化した。 戸川純はその最後の段階――異物化の段階に、確実に突き刺さったんですよ。 たぶん黒木香も突き刺さった。伊藤比呂美や森高は突き刺さらなかった。森高は「一種類の」稀薄さをずっと 身にまとった――つまり、恒常的な変身後の状態を一個のヴァーチャルアイドルとして見せるだけの アーティストだから、実は。戸川純はだんだんミュージシャンから女優に活躍の場を シフトさせてゆくんだけど、妹の戸川京子とちがって、どんな役でもOKっていうにはどこか神経質な感覚が そこにつきまとった。やがてその活躍を、たとえば僕のれ寝るでは一切聞かなくなる。 で、次に彼女が芸能マスコミの話題になったのは、彼女が自殺未遂をしたという報によってだった。 そのとき彼女の文学性が彼女自身の内面に牙を剥いたんじゃないかという恐怖の感覚が 僕なんかには生まれたんです。黒木香も自殺未遂をしました。 彼女もその話法で明らかなようにすごく文学的な才能でした。
すると椎名林檎もそうなんじゃないか――そんな感じになるわけです。 不吉なことをいうようだけど。つまり、戸川純―黒木香―椎名林檎に共通している瘢痕は、 「自傷イメージ」だということです。身体感覚がつねに過剰を求めている ――彼女たちの裏側にはそんな感触が感じられます。 それはふつうならセックス狂か麻薬中毒か過食症か自殺か友達との交際中毒に行き着く。 黒木香はそれでセックスと過食症、さらには自殺未遂という経路をたどってしまったんだと 僕はおもいます。彼女の変身能力は半端だった。それでは椎名林檎はどうなんだろうか。 で、戸川純という先行者がやはりヒントになるんだとおもう。 ただし、椎名林檎と女の肉体についてでいうと、『クイック・ジャパン』の三一号、 特集「拝啓椎名林檎様」中の「椎名林檎大事典」(しかしこれは何度読んでもすごい。 近ごろの雑誌原稿の白眉というか極北だし、これさえあればどんな椎名林檎のタレント本、謎本も 吹っ飛んでしまっただろうと僕などはおもい、いっさいその類いの本に手だしを していません) ――そこにすごく好きな箇所がある。 コンサートで男性ファンがステージに立った椎名林檎に叫ぶ――「揉みてぇーっ!」。 それに林檎が応ずる――「揉んでぇーっ!」。この言葉の応酬がすごく好きなんです。 どこかに、肉体につての楽天性が林檎とファンのあいだで共有されている感触がある。 この感触があれば、椎名林檎は追い詰められることがないかな――そんな気もするんです。 実戦サブカルチャー講義 …戸川純、そして椎名林檎を準備した
戸川純の曲目を軽く 『東京の野蛮』より「母子受精」「遅咲きガール」「眼球綺譚」「玉姫様」 「諦念プシガンガ」「蛹化の女」「パンク蛹化の女」「レーダーマン」
この人文章上手いのか下手なのか分かりませんね。文を省略するのが難しいです。 “では”とか、“しかし”とか、“ということで”とか、“でも”とか、 “ただ”とか、“さて”とか、“まず”とか、“で、”とか、“つまり”とか “これについては”とか“ところが”などという接続詞がやけに多い。 若くて好奇心旺盛で、感受性が強い方なんでしょうね。
一口 ・病床パブリック―レスポール―Gibson製のエレキギターのこと。 このモデルの愛用者にはジミ―・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、 マーク・ボラン(T・レックス)、ジョー・ウォルシュ(イーグルス)等で、 誰もが憧れるモデル。 ジャガー―浅井健一氏の愛車はジャガー(九五年型)。 そのせいで、林檎さんは町でジャガーを見るたびにときめくらしい。 タイトル―病床で書かれた曲だから。林檎は無罪も出てない頃シングル曲のキャンペーン中、 体を壊し自宅で休養中ブランキーのライヴビデオを見ていて一時停止しては 浅井さんの顔を写真で撮り続けて、こんな時になにやってんだろうと思ってたとか。 依存症―レッグかフ―足錠 丸の内サディスティック―ピザ屋の彼女―林檎さんは宅配ピザ屋 (「ピザクック藤崎店」との説が有力)でバイト経験があるらしい。 しかし歌詞はそこからではなく、ブランキー・ジェット・シティの曲 「ピンクの若いブタ」からインスパイアされたものだとか。 その歌詞が可愛いピザ屋の彼女みたいな歌詞でそこから憧れて ピザ屋で働きはじめたとか。 そして幸福論と虚言症は一致すると言われています。 情報元―クイック・ジャパン三一号椎名林檎大事典、林檎アレルギー
(付言)アルバム『勝訴ストリップ』は、最初聴いたとき、 佳曲揃いで曲の流れが穏やかでありながらメリハリの効いている 『無罪モラトリアム』に較べ、散漫な印象があったが、 これはいったん登場した「才能」をすぐにパターン予知して、 失望を先どりするという現代人特有の悪弊によおるものだった (宇多田ヒカルはもっとひどい「才能低下」の非難にさらされている)。 ただ聴きこむとやはり素晴らしかった。「2=シンメトリー」の構造に 聴きながらもっと意識的になったし(それでアルバムの構成が緊密だという 認識を得る)、存在の変身能力が前作ほど発露されずに(ただしそれは アルバムがシンメトリーの構造をもったための必然だった)、歌の個々の世界も 女の疎外描写に傾きすぎているという最初の印象が薄らいでいった。 「罪」を列挙したあと、「罰」すなわち「救い」だと主張しているような曲の瞬間は 思想的にかなり高度だともいえる。そおhして、椎名林檎の存在の「芯」が前作より もっと露出されている印象をもった(アルバム名『勝訴ストリップ』はこの点に 由来しているだろう――ちなみに前作『無罪モラトリアム』は「大人」になる前の猶予期間を 無限に先延ばしにする若いモラトリアム世代に「無罪」宣告をする意図で タイトルがつけられたとみられる。 CDジャケ裏写真はその瞬間の高揚を表現している。)。 (以上、プリント終わり) この方、本当にこういう授業をされているそうです。
【林檎の向かうべき課題としての非親和化と驚愕の付与について。 あるいは終章】 逆証的にいうと、林檎の『加爾基 精液 栗ノ花』を組織しているのは、 親和性ではなく、非親和性――それも構造的に徹底化されたそれ、 ということになるでしょう。ただ、この非親和性を林檎は意図して 身にまとったのではないか。これは凄いことです。時代への精確な把握がある。――つまり、 ビートルズ時代とはポップスの真の概念が大きく変化したんです。 ポップスを親和性と錯覚しているのは、商業主義、ヒットチャート主義に 取り憑かれた者たちです。彼らは商品をつくるのであって、 作品をつくるわけではない。ただ、非親和性を「新しい音楽」のために 単純に実現すればいいのかというと、事態は微妙です。つまり先端的な音楽でも 「非親和性をつうじての親和性」あるいは「物欲しげではなく意地悪だが、 それでも親和性を前面化すること」にまだポップ音楽の前衛の基準が 置かれているのではないか。そして人間が聴く音楽というのは、たぶんその限界を 抜けられないだろうと僕もおもいます。シェーンベルグばっかり聴いていれば、 オレだって70年代郷ひろみを聴きたくなる(笑)。ただ、僕は音楽の非親和化を 魅惑的に印象させる手段として、唯一、有効な契機があるのではないかという気もします。 それが、「驚愕の付与」です。ショック効果の付与。作曲家は今後、 驚愕を作曲することで聴き手を驚愕させ、驚愕を作詞することで聴き手を 驚愕に貫けばいいのではないか。ただ、驚愕は追体験をつうじて それに慣れることで驚愕ではなくなってしまうという反論が 出されるかもしれない。それならば、アルバム全体を、乱数表的に組織すれば いいのではないか。となると、ある日の驚愕が別の日に納得や安心になるのと同時に、 ある日の納得が別の日に驚愕になるという運動が無限回つづくことになる。 この僕のイメージする無限性には、おそらくマラルメ的・ボルヘス的「世界書物」の 観念が投影されているんじゃないかとおもいますけど。ということでいえば、 おそらくジャンル音楽に依拠した時点で、今度の林檎は、驚愕という効果から 離れてしまったということになります。
なぜ、こんな壮大なことまでいうのか。 こんなに彼女に期待する試練が厳しいのか。それは僕が林檎が、 アヴァンギャルドな音楽家だという見切りがあるためです。 ところが彼女はアヴァンギャルディストなのに、アルバムを200万枚セールスしてしまう。 これは浜崎の600万枚などとはまったく異なる、意味のつよい数値です。 浜崎の数値は「衆愚」の集合可能性の数値で、何ら驚くべきものではない。 ところが林檎の数値は、少数派の臨界が現在の日本では200万枚まで上昇できる という可能性を表していて、これは真に驚くべきことだとおもうんです。 林檎はアヴァンギャルドでありつつ、「売れなければならない」という使命を 今後もずっと負っている。しかもより過激なアヴァンギャルドへと少数派をさらに 領導しなければならないという苛酷な隘路(あいろ)にもいる。 だから僕は彼女の音楽的・詩的才能に向けて、「驚愕」の価値を再考してください、 という提案をしたんです。これが将来に期待される「逆倒ポップス」の 指標となるのではないか。もし彼女が驚愕を意識した作曲を開始するならば、 その音楽はよりラクになり、より量産可能になるはずです。ランボーの詩を ジミ・ヘンが演奏しているような状態。一時のレノンのような異様なポップ曲。 アートのキラキラ。その意味で、「母性」を取り扱った今回のアルバムでの 彼女の営為にも、やや留保をつけなければならなくなる。 それは歌が体験個人に閉じる危険があるということではないんです。 その危険を突破するために、彼女は「母性」にさまざまな「逆倒」を仕掛けてみせた。 ただ、「母性」を主題化したかぎるは、林檎自身すら意図しなかった安直な共感が そこに最終的に用意されてしまう危険があるのではないか。 母性はある普遍にまつわっている。そこからは、どうしても「みたことのない」 「新しい」「抒情(情感)」が紡げないのではないか。ただ、こんな「わからず屋」の意見を 出せるのは、僕に子供がいないからだという気がしないではないけどね。 以下、椎名林檎VSJポップより椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』全曲完全解析
【椎名林檎の公式サイトが歌舞伎町を基盤としつつ それを遊園地感覚で表現しているなどの指摘にたいして】 いまいわれた「遊園地感覚」という印象を、僕はコンセプト・アルバムという 状態の相同性から、「サージェント・ペパー」感というふうに、『ユリイカ』の原稿では 表現したんです。ただ、このアルバムにたいする不満があるとすれば、 「ルーシー・イン・ザ・スカイ」や「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のように 音楽史に聳立(ちよりつ)するような楽曲が見当たらない点。 つくりこんだ音の絡み合いは多弁だけれども、曲の構成それじたいがサイケデリックに 破壊されているとはあまり感じませんでした。こんなふうに過重な注文を 林檎につけるのは、彼女にレノンのような音楽改革者になってほしいからです。 いまのところの彼女にはむろんその資格が充分にある。で、「遊園地感覚」。 これを現在の日本でやろうとすると、ドロドロになるんだとおもう。 刻一刻の不定形性が増してきて、アルバムの内部が全体溶融してしまう。 そう、僕がいまおもっているのは、七尾旅人のような音楽モデルです。 そのことで遊園地なのに「恐怖」や「廃墟」が感じられるという逆転が 起こるんだとおもう。つまり遊園地=TDLといった平板な認知は、 そこから「幸福感を約束するアメリカ」しかもない。 けれども、それは実定的なイメージにすらなっていないよね。 あれこそがあからさまな廃墟だから。オレ、『精解サブカルチャー講義』に 書いたけど、その意味じゃベンジー=浅井健一の、 ブランキー時代のTDLにたいする悪意はすさまじかった。ともかく歌舞伎町でも 何でもいいけど、「別の」遊園地をつくろうとすると、いまの日本ではそれが うまく空間画定(かくてい)できないんだね。その不安に、サイケデリックが 混ざりあってしまう――ということは、「遊園地」はいま外在的な定位が不可能だと いえるのかもしれない。つまり、脳のアドレナリンのような神経刺激酵素の領域 ――内在的な領域にしか感知できない。けれど、そんな領域に遊園地を「植えよう」とすると、 「内破」が起こるんだよね。
ただひとつ、いうべきことがあるとすれば、(これも『ユリイカ』の原稿に書いたけど) このアルバムのCDケースの「背」の部分が天地逆倒している点でしょう。 つまりそのことが作用して、ケースを最初に聴き手が開くさい、 みんな錯誤して、「アレッ?」状態になったとおもうんだ。 実はそれが指摘されるような「美術展覧」の仕掛けの前提になってる ――これから「さかしま」の世界をみせますよ、という、 これは林檎=作り手たち側のマニフェストをしめしているんだ。 この「さかしま」提示と、「宗教」「葬列」を考え合わせると、どうなるか。 先に「葬列」のほうをいってしまうと、これは母親から胎児に向けた 胎教ソングではなく、胎児から母親に向けた、暗い輪廻を認知強要させる 「さかしま」の歌なんだという考えを僕はいちおう披瀝【ひれき)したとおもう。 で、その胎児が産道を出てくると、それが「宗教」の歌の主体になる、 この、アルバム最終曲からアルバム冒頭曲に、歌の主体が移動してくるベクトルもまた、 『さかしま」なんだよね。ここでの「僕」には、椎名林檎の男の子の子供が ――それもその現在形ではなく「未来」が入り込んでいる。でも、じゃあ、このアルバムが全部、 彼女の子供のいる世界を描写しているかというと、それはむろんちがう。 さっき出た「遊園地」との関連でいえば、遊園地とは空間の細部が「神出鬼没」状態に 点滅する愉しさがあるわけですよ。だから別の歌の主体がここにも出没してもいる ――そういうことになる。それにだいぶ前にした「おだいじに」の解釈。そこでも僕は、 の歌の主体が「宗教」の数年後を継続しているととれる発言をしました。 ただ、むろんその歌詞は僕のしたような整合的解釈を受けつけない側面を残している。 つまり、あの歌の主体が臨月―出産によって入院を体験した林檎自身であって、 「おだいじに」が出産という大生産を成し遂げた林檎自身にむけられた 「世界」の餞(はなむけ)の言葉であっても何ら構わないわけだ。 だからここでは、かならず解釈留保の部分を残しておきたい。
【『加爾基 精液 栗ノ花』の主題として「母性」を感じるかという 座談会出席者からの最初の問題提議にたいして】僕は、いままで 椎名林檎について、その出自や実人生と、実際に演っている(やっている) 音楽との関係をあまり「反映論」的に捉えてはこなかったのね。というか、 彼女の音楽はもともと、音楽の中心主体である「個」に、 不安定さ――僕の言葉でいうと「同定不能性」を加味するところから 出発したとおもうから、「反映論」的な把握それ自体を嘲るところが あるでしょう?たとえば彼女のPVも、ずっと着せ替え人形的な「コスプレ」で やってきて、その変身の頻繁さは、「正体をくらましたい」という 意図とパラレルだった――そう捉えるのが自然じゃないかとおもう。 ただ、椎名林檎は歌の主体が刻々と変化してゆく『無罪モラトリアム』で フルアルバム・デビューしたけど、その時点で有効だった批評ポジションは、 もう現在では機能しないと僕もおもう。 たとえば、彼女がナンバーガールの雷光ギタリスト、田渕ひさ子などと 「発育ステータス」のバンド名で00年におこなった計11曲のミニライヴがあったよね。 その11曲は、ビデオ『発育ステータス御起立ジャポン』とシングルCD三枚組『絶頂集』のdisc3で 全貌が知れるんだけど、この11曲をどう捉えたでしょうか。 僕はそこに「反映論」の罠があったとおもう。簡単にいっちゃうと、 あれは女の子のローティーンからハイティーンまでの精神状況を編年的に 追っていったものだとおもう。つまり、初潮からはじまり、周囲と違和感を感じて不良化し、 男をつくり、フラれ、自意識地獄に堕ち、最後に「新しい女」としての再生が 予備されるという、いわば「早すぎた」「女の一代記」ものだよね? とうぜん「発育ステータス」全11曲の歌詞には、福岡の女学生だった椎名林檎の「実人生」が 反映されている――それもむろん林檎だから、ものすごい虚構を交えてのものだとおもうけど。
たとえば「光合成」では青梅を男とドライブしているとおもわせる歌詞の一節があるんだけど、 あの「青梅」は本当だろうか。僕はちがうとおもう。「青梅を疾走している期間は憂鬱」 という歌詞があったとして、その「憂鬱」と照りあう地名が「青梅」だった。 それだけで「青梅」の地名が歌詞に召喚されたとおもうんだ。 「青い梅」の酸っぱさ、毒性といった視覚的イメージもむろんそこで聴き手に作用する。 あるいはサブカル関連でいえば、山本直樹の漫画中の少女「青梅子さん」から、 さらには音の共通性から映画『オーメン』まで、イメージが膨らんでゆくとおもうんだ。 大体、椎名林檎の作詞法っていうのは、そういうイメージの瞬発的な 蒐集力から出てきてるわけでしょう。なのに、「発育ステータス」全体が「反映論」を 導入してくる側面は依然としてつよくのこる。たとえばビデオ『発育ステータス』の1曲目 「発芽」と2曲目「悪い苗 良い萌」。あれらには、福岡の女子中学生が学校内で見聞できたものが、 すごくリアルにちりばめられていたとおもうんだ。それで、ここには少女時代の林檎がいる ――そういう確信を呼びこんだとおもう。むろん2曲目の「悪い苗 良い萌」では、級友として、 曾我部(恵一=サニーデイ・サービス)、降谷=建志=ドラゴンアッシュ)、奥田(民生)、 向井(秀徳=ナンバーガール)の名前が出てくるというイタズラがありましたが。
ともあれ、この「発育ステータス」の11曲を通過すると、現在の林檎に「反映論」的な考えを もちだしていいのかダメなのか、急に心許なくなるのは確かだよね。あるいは、 林檎の二枚組CDによるカヴァー集「唄ひ手冥利』。ここでもかつて彼女の親炙(しんしゃ)した曲が 並んでいるわけだから、彼女の音楽的成長、その個人史が「反映」されていると看取できる。 たとえば宇多田ちゃんとカーペンターズのナンバーを唄う林檎ちゃんには、 「良家の子女」だった過去がみえる。あれなんか、すごい泣けた(笑)。 で、いまいったようなことをふくめて、提言について応えると、実は彼女の新譜に 「母性」を重ね合わせてみるという考えは、僕には全くの盲点だった(笑)。 エ!?母性!?とすごくビビっていたのね(笑)。むろん彼女が 「できちゃった結婚」して出産して、離婚して、子供を引き取ってという情報は 知っていたけど、そのことが新譜の曲に「反映」されているとは考えなかった。 これはむろん僕の浅慮の可能性もある。ただ、ケイト・ブッシュやパティ・スミスのように 出産後、母性の塊・化け物になってしまった展開とは、あきらかに椎名林檎は別路線を 行っているよね。僕はこの路線を密かに「岡本かの子路線」と呼んでいるんだけど。 それに、提言では母性を感知した曲として、「葬列」「おだいじに」「ポルターガイスト」 が挙げられた。うち「ポルターガイスト」と「葬列」は僕はオペラ趣味で「文章」を唄う試みと、 明治趣味=泉鏡花趣味が複雑に合体したものだとおもってもいた。そのことでいうと、 指摘された「母性感知」は、たぶん僕が考える以上に、もっと微妙な領域を突つこうと しているんだとおもう。
ところで、アルバム『加爾基 精液 栗ノ花』は、母性の関連でいうと、 ちょうど真逆のもの――つまり弱々しい「子供の声」からはじまっているよね ――「誰か僕に巧いお菓子を/毒で本望(ほんもう)嘘で元々さ/可成[ナルベク] なら甘いものが善い/湯呑勘定 虫歯も厭わない」という。 僕はこの曲が今度の新譜で最高だとおもってるんだけど、その他は曲想とすると、 ちょっとみな弱いような気がしないでもない。つまり、その他の曲ではいわれるように 「ふわふわ」「安定志向」を感じないでもない。バンド発想が後退し、 打ち込みが増えたからだともおもうけど。 たとえば僕は「やつつけ仕事」という曲をすごく好きなんだけど、今度のアルバムに入っている 可愛く凝ったアレンジよりも、『絶頂集』disc1に入ってた別バージョンの、 ド・ハードなバンド音のほうが好きなんだ。
【今度の収録曲を林檎は子守唄として多く作曲し、 しかもそれを唄って子供に泣かれたというインタビュー記事があったという指摘にたいして】 そんなエピソードがあったのか(笑)。でも「おだいじに」のピアノはプリペイドピアノじゃないよ。 パースネル表示にはそう書いてあるけど。プリペイドピアノというのは、 グランドピアノの蓋(ふた)をあけて、ピアノのそれぞれの弦に洗濯鋏なんかを挟んで 部分的に音を変えたり、殺したりし、鍵盤から弾きだされる音そのものに、 確率論的な不確実性をもたらそうという試みだから。「おだいじに」の話が出たんで少し僕もすると、 この曲は確かに「子守唄」風ではあって、その意味で「母性」主題に連なる曲ということはできるよね。 ショパン風という指摘があったけど、そういう曲調は、林檎の場合、初期から「必殺技」ではある。 『無罪モラトリアム』の「同じ夜」や、曲調だけだとすれば「幸福論」なんかもそうでしょう。 「あたし、単なるロッカーじゃなくて、お嬢ちゃんなの」って記号提示だよね。 こういう前提があるから、ド・ハードな曲想の曲を演ったときのイメージ操作が分裂的になる。 ただ、「おだいじに」の歌詞読解は容易ではない。実は僕は歌詞中の「肌を包むガーゼは白い嘘」 というフレーズに拘泥(こうでい)したんだ。歌が描写しているのはだから病者だと。 しかもここでは、病床に横臥(おうが)する者の限定的な視界に映るものだけが、 歌詞中に現れている気がした。もっと具体的にいうと、歌中の彼は自殺未遂をして、 その怪我の治療のために病院に入院しているということなんじゃないか。
1曲目「宗教」の主人公が、結局、生きる価値を見出せなかった果てに、 自殺念慮を高めてゆき、その「事後」の姿として、この「おだいじに」の主人公が 召喚されている――そう受け取ったのね。考えすぎかもしれんけど(笑)。 ただ、不思議なのは、そういった生の辛酸を舐めた者の「事後」の認識が、 ひたすら清澄だという点でしょう。「気持ちは晴れ」という唄いだしには 意外性が籠められているとおもいます。二、三行目の「眼に映る良さ 映らぬ善さ/ 隣の芝(しば) 青く見えたら出来るだけ睡るのさ(ねむるのさ)」は、 今度の『ユリイカ』の原稿にも書いたけど、すごい歌詞だとおもう。 可視性と不可視性、その双方の領域が「映る」「映らぬ」で手短に束ねられ、 そうした異様な視覚が「隣の芝」を「青」と感知している。 むろん「隣の芝は青くみえる」という成句の意味はここでズラされますし、 「緑」を「青」と表現する日本語の曖昧な許容性が一挙に無気味なものに変化してくる。 しかも、その二行の結論が、「昏睡(こんすい)への誘惑」だからね。 むろん、夢の中での視界は、「可視性」「不可視性」の絡まりをいったん「可視性」と 認知するような錯誤が起こっているわけだけど、この二行はそういう気味悪いものへの確認まで、 その意味性が延びていってるとおもう。そんな異様な感覚をもった 「暗いヤツ」(それに林檎は「おだいじに」と言葉を投げている)が、 病床で「小さく唄ふ位 笑ふ位許してね」といってるんだから、これを子守唄として唄うと、 やっぱり子供に嫌われるよね(笑)。ただ、子守唄は、もともと子供を恐怖で眠らせるという性質を もっている。その意味までふくめての、「おだいじに」の子守唄の感覚であり、 母性だということでしょう。回りくどいですが、引き続き何卒
【ギタリストはなぜこのアルバムで後景化されたか】 で、いまもいったように、この曲の生ギター(12弦みたいな感じがする ――これをハーディガーディというのか? ――ともあれ井上雨迩(いのうえうに)が弾いている)を 中心にした冒頭部は鮮烈だけど、あとで入る百々のギターは音場の「裏側」でのたうたっている。 あるいは、この曲の「対」になる「宗教」でも百々のギターは遠隔化されていた。また「おだいじに」の 井上によるE-BOWギター、さらには「迷彩」などのジャズ・ギターを別にすれば、 ギターは今度のアルバムで相対的に目立たない。むしろ瞬間発想的に、ギミック付与的に つかわれているという点が露わになる(あらわ)――そのことをかつて僕は指摘しました。 その割に、バイオリン、マンドリン、琴など、弦楽器の使用は多いし、あるいは、様々なタイプの 打ち込み音、さらにそれによるノイズも多様に展開されている。これはあらゆる楽器の、 アナーキーな「機会均等性」をこのアルバムでは目指し、同時に、その「さかしま」の使用をも 目論んだということなんだろうか。そうすると、ギターはたとえばベースやマンドリンとちがい、 奏法がさまざまに追求されているから、その「さかしま」な弾き方を提示しにくく、 驚愕が少ないためにその使用頻度が控えられたということなんだろうか。
ならば、この点が林檎の相変わらずのギターフリークぶりを逆に 問わず語りにするということになります。だからモーサム百々和宏のこのアルバムへの 参加もあった。それも林檎が画策したとするなら、相変わらず彼女のアンテナは 高感度ということになる。ただ、そうだとしても、アルバム全体にギターの音を抑制した理由の 積極的説明にはなっていない。で、ここで下世話的にヘンなことを言い出すけど、 林檎に胤(たね)を植えつけ、林檎に放逐された大工ヨゼフこと前夫とは、実は林檎の以前のアルバムに 参加していたギタリストじゃなかった?オレ、最近はジジィになって女性週刊誌的事情に疎いから あまり自信げにいわなかったんだけど(笑)、そのひとって虐待グリコゲンにいた弥吉淳二でしょう? その弥吉淳二と林檎は離婚しちゃった。オレは少女時代から林檎はライヴを観に行って、 それがすごい奏者でルックスもそこそこなら、必ずバンドのギタリストに入れあげるという 繰り返しをしてきたとおもうのね(笑)。ベンジーへのあられもない賞賛もそれに近い。 ところが林檎姫は離婚をけみして、そういう自分の心の尻軽さをすごく反省したんだとおもう。 で、その反作用としてアルバムからギタリストを表面的には放逐してしまったんじゃないか(笑)。 何かオレのいってることは、反映論における下種(げす)の極みみたいだけど(笑)。ただ、 僕は林檎のアルバムに参加したギタリストでは、名越由貴夫がいちばん好きだなぁ。 「月に負け犬」のジミ・ヘン的なリズムギターの「入り」なんか、ホント、泣けてしまう。 このひとはUAの新譜、その後の二枚組ライヴでもすごくいい仕事をしている。 ソロアルバム、出ないかなあ。 それともうひとつ、下世話的なことをいわせてもらえれば、林檎がもし再婚するとなると 相手はこのアルバムの「謎」である井上雨迩が最適だね(笑)。 このひとなら林檎は「新しい音楽」を発展できそうな気がするから。 ただこの井上さんが男性かつ独身だという条件つきだけどもね。
UAと椎名林檎 男の歌が続いたで女性歌手を召喚する。まずUA。 歌唱力の圧倒的な彼女は自分の声とエロキューションにある「倦怠」を 最大武器にしている。その倦怠が、自らの詞法に鏡面反射するように貼りつく (彼女の歌の作詞はすべて彼女が手がけているが、作曲者は彼女自身のほかまちまちだ)。 ところで奇異なことに倦怠の渦中から生じたディーバの彼女は、 倦怠をはじめとした情をその歌詞でほとんど具体的に叙述したことがない。 むしろ彼女の詞法は断片的な叙景のほうへ傾いている。 好個の例が佳曲「ミルクティー」(作詞=UA/作曲=朝本浩文/『AMETORA』所収)だろう。 歌詞の全体はモザイクになっている。 つまりここでは「遊歩道」「雲の裏」「ベランダのミルクティー」といった叙景対象に 挟みこまれるように「キスをして」「抱きしめて」が入りこんでいるのだ。 ところがその心の昴揚を伝うべき生の言葉が、彼女の「倦怠」の声によって凝結してしまう。 静物画=ナチュール・モルト=死んだ自然になってしまう。 聴き手はそんな隙間だらけで静謐ないめー字の連打のなかから、透明な悲哀を見透かす。 だからこの歌に最終聯の逆転が生ずる――《迷わないで抱きしめて/なだらかな肩寄せて/ 離れててもキスをして/生ぬるいミルクティー》。再確認しよう――蛇頭女(メドゥーサ)が その視線によって対象を石に変えるように、UAのアンニュイは恋人への自らの願いを あらかじめ静物画にすり替えている。ならば相手の現前など関係ないのだ。 そして彼女は実際にこの最終聯で種明かしをした。なるほど、ご高察のとおり恋人なんていないわと。 だから最後、「キスをして」は「離れててもキスをして」の撞着語法へとゆらめくように変ずる。 フィニッシュが「生ぬるいミルクティー」、まさに倦怠の象徴物だ。 同時にかなり前の「ベランダのミルクティー」とこの最終行が呼応し、 時のふしだらでだらしない経過を告げる。歌は何か不思議な余韻に明るく包まれる。
UAの歌詞のゆさは瞬時瞬時のイメージのゆらめきに現れる。 ありようが鮮烈なのではない。むしろ頼りなく消えそうだからそれは「弱さの強度」 という新しい価値を放つのだ。新譜『泥棒』はそのようにUAに秘められていたポテンシャルを 開示しようと半ばそれに成功した逸品と呼ぶべきだろう。 「記憶喪失」(作詞=UA/作曲=朝本浩文)が最も好きだ 《彼女はやはり朝本との相性が最高とおもう――浅井健一と組んだユニットAJICOでは 彼女の倦怠の歌唱は浅井の声やギターと相殺されてしまったように感じる)。 ひどい仕打ちをした相手との邂逅(であい)の記憶を消すために 隕石が自分に落ちないかとか宇宙人が拉致しないかとか願うここでの歌の主体には、 その願いが荒唐無稽であることで実は相手を忘れたくないという気持ちが宿っている。 唄い手は聴き手の詮索を誘導している。土星の輪(むろんメランコリーの王冠) でフラフープしてみたい、と他愛ない思いを吐露する件(くだり)までは、 歌はトラウマ消去を目論む唄い手のペースに乗る。
最初、三音単位の反復を繰り返すジャジィなベース音に、 同じくほぼ三音単位のUA作成の歌詞が乗る。 ところが下降をたどるベースの流れはだんだん緊迫してゆき、 やがては唄い手の叙志自体が陰惨な自己穿孔(じこせんこう)にいたってしまう。 超全性から崩落感へと唄い手の位相が小さく変化するその瞬間が痛ましい。 この段階で捨て科白と自嘲と悔恨が黒く混ざってゆく――色としては「青」を 唄っているのに。このときの詞が詞法的に最も冴えるから、この歌は完成度が高いのだ。 若干の省略を交えて引用しよう――《8月が去年より とても暑かったから/ 青い海に たくさんの朱色が浮かんで見えただけね》(改行は引用者の恣意―― というのも歌詞カードが文節を一字アキでしめす以外はすべて送り込みで表示されているため)。 このアルバムではほかにも驚愕的なイメージの閃きがつづく。 アト・ランダムに引こう――《舞台の中央に捨てられた心臓/ジャバラなあたしがめくられてゆく》 《そしてあたしの夢は 一時停止のまま/割った玉子もフライパンに届かずじまい/不埒(ふらち)な あなたが舌を出す》(「泥棒」)。《無くなった景色を探すように/子供達が傘をさす/雲1つない 空の下で》 《孤独が刺さって死んだの/だけど馬が待っている》(「世界」)。 「ブエノスアイレス」(作詞=UA/作曲=KIKI)も素晴しい。 《ブエノスアイレスを思った日の夜/隣の庭の大きな 梨に実がひとつ落ちた》 という脱論理的な唄いだしが、その果実の落下はUAの倦怠の歌唱によってスローモーション化する。 その粘りつくような余韻なかに幻像が次々に乱入してくる。 「ホルン」のかたちをした「ハンドバッグ」、「目玉焼きの国」――。 《嘘つきピノキオの鼻がどんどん伸びて/トオン記号みたいにくるんと曲がっていくよ》 という惑乱的な幻視報告がなされる前後で、継母(ママハハ)に育てられて、おそらくは熱に魘されている(うなされている) 歌の主体の姿が顕在化してくる。主体はUAではなく男児だった。
ところでこの歌の幻想的なイメージの数々は 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」にも共通しているとおもう。 ということはアルバム全体にも、UA風の遅速をかたどりながらも『サージェント・ペパーズ』の影が 揺曳(ようえい)しているのかもしれない。 椎名林檎の新譜『加爾基 精液 栗ノ花』にも「サージェント・ペパー」感がある。 曲調のストレンジな感触、トータル・アルバムの予感、曲間の否定、ラストのノイズ爆発――それら表面的な 諸要素から類似の結論を導くのはUA『泥棒』よりももっと容易だろう。 ところで林檎は自らにまつわる解釈学にこの新作で昴然と挑戦状を叩きつけたかにみえる。 歌詞の意味結像を阻み、全体が解釈の直線性を無効化するような朦朧感(もうろうかん)を湛えている。 この「はぐらかし」、あるいは打ち込み音が増え、ギター・サウンド中心の「バンド」感が低減した点、 音楽の既存ジャンルへの依拠性が高まりつつ却って(かえって)それが引用典拠に迷彩を張っている 曖昧な感触、さらにはかつての「ここでキスして。」や「月に負け犬」のような 「泣ける曲」が見当たらない点などをもって、この新譜を失敗作とみる向きも多いようだ。 実際、このアルバムでは冒頭曲「宗教」 ―2曲目「ドッペルゲンガー」にいたる刺激的な ストレンジ感覚は以後、途絶し、圧倒的な佳曲も見当たらなくなり、 聴き手が迷子になってしまうような不安がある。
ところで彼女の曲の解釈学は、その曲名を多くの手助けの具にしてきた。 あるいは曲の配列を。この新作でも6曲目「茎」を折り目にして、 同じ字数、同じ漢字・平仮名・片仮名配列の曲名がぴたりと折りあわさるような シンメトリーが目論まれている。オリジナル・アルバムとしての前作『勝訴ストリップ』の踏襲だが、 前作の折り目の中心は「罪と罰」だった。だから折り目以前を「罪」、以後を「罰」のパートとし、 シンメトリー対応している各曲の相関関係から「罰」にはすでに救済が入っているという解釈が導きえた (拙著『実戦サブカルチャー講義』参照)。今度はどうなのか。 椎名林檎がJポップの歌詞の最大の革新者だという点は誰でも知っている。 擬似的な歴史仮名遣いを駆使しつつ、脚韻や喩や詩発想のスピード追求、 メロディに言葉をどう乗せるかの実験を展覧し、一曲全体を暗喩・寓喩にすることまで、 その文学的・音楽的要素をもって果敢な実績を積みあげてきた。むしろ変装をつうじて自己の稀薄さを 逆証するシンディ・シャーマン的なパフォーマンスを参照例に、それぞれの曲の主体にコスプレ的変換を 試みた処女作『無罪モラトリアム』などは焦点を結びやすかった事例と呼べるかもしれない。 なら、今度はどうなのか。まずCDケースそのものを手にとってみる。 その背文字部分が天地逆倒しているからプラスチックケースの蓋を開けるさい誰もが錯誤に陥ったはずだ。 そうした外的条件はアルバムの内部実質=「さかしまの世界」を暗示しているとも気づくだろう。
1曲目「宗教」(作詞・作曲=椎名林檎)は 《誰か僕に巧いお菓子を/毒で本望 嘘で元々さ/可成なら甘いものが善い/ 湯呑勘定 虫歯も厭わない》という「弱さの魅惑」ではじまる (引用中「可成」は「ナルベク」と発言される)。最初、この死を望む少年が すでにもう死んでいるという逆説のなかにあるのではないかと直観した。 《丁度好い洋盃(コップ)が何處に行つても見付からないのだ》という “one size fits nothing”の法則はこの対象がさらなる対象と 対応するための実質を欠いている(つまり死んでいる)からなのではないのか。
《長壽の勝訴が何時になつても見當たらないのだ》という件にまで着目すると、 この「万物不一致の法則」は精神的な惨禍の色彩をよりつよめてくる。 (処女が処女膜をもつ正にそのことによって処女性を凌辱(りょうじょく) されてしまうように)人が精神をもつ正にそのことによって無惨に内破されてしまうという逆説。 その内破があらかじめ生者を死者に変える。そうして死んでいるのに、愛についての妄執を 抱きつづける――そんな「さかしま」の凄惨が曲ごとに展開されているのではないかとおもった (これはアルバムのラスト二曲でとくにつよまる鏡花的明治趣味・擬古趣味に引きずられた直観でもある)。 だがそう見定めてたとえばアルバム上、シンメトリーの対蹠点(たいせきてん)にある最終曲「葬列」を 辿ってもあまり明白な解答が引きだせない(「葬列」は「文章」をオペラ的に唄っている ――林檎の頭にはエディット・ピアフは電話帳を唄っても聴衆を泣かせるだろうとコクトーの言葉が 点灯していたのではないか)。ところが「宗教」での歌の主体=少年は季節の推移それ自体に実は「葬列」を みてしまっている――《季節は廻って急ぎ足/花は咲いた[…]/幾度も繰り還しをする/實る様で枯れるのが常と》 (このようにシンメトリー配置上「後ろ」にある曲から前の曲へと何かが滲みだす怪奇的感触はたとえば2曲目、 「ドッペルゲンガー」にもある――アルバム中シンメトリー位置にある曲名「ポルターガイスト」が「騒霊」の和名で 歌中に出てくるのだ)。
1曲目はとりあえずは自分に合うサイズがみつからず、死をもとめ、 全てに死を見出す、半ば死んだ少年の彷徨を抒情的に唄った名曲とみていい。 曲名「宗教」は何ゆえだろうか。消えいるように可愛い曲調が弩(ド)ハードに変貌した瞬間、 「立て」「撃て」・・・・・・といった無媒介性のみを顕示した「命法」がまるで落雷のように 降り立ってくる。それを「神の御言葉」と観じれば曲名が合点されるだろう。 だがここでは神と死んだような少年はすれちがうだけだ。 その不一致感がもどかしさとしてのこってしまうそ。の「もどかしさ」がアルバムのテマーだ。 この調子で曲ごとに解釈をつづけていると紙幅を費やしてしまうのでもう一曲だけ。 2曲目「ドッペルゲンガー」(作詞・作曲=椎名林檎)。まったく自分と相似の幻像――それに接したら 死が約束されるドッペルゲンガーはこの曲のどこに現れているか。ふと気づく。 《今日は 然様なら/愛してゐる 大嫌ひ/夕暮れ 泪雨/懇 赤の他人》という反意対句の関係が、 自己とドッペルゲンガーの関係にひとしいと林檎は示唆しているようなのだ。 愛のドッペルゲンガーが憎悪だという確信。けれども愛と憎悪は相補的に人に あらかじめ備わっているものではないか。人が内部にそうしてドッペルゲンガーを飼うというのであれば もうその人自身あらかじめドッペルゲンガーと形容してもいいだろう――曲はそのように使嗾(しそう)する。 やはり人を蚕蝕状態(さんしょくじょうたい)に導く「内破」の恐怖がここでも語られているのではないか。 そのときにこそ林檎の最も甘い言葉が響く――《樂にしてあげる》と。
ドッペルゲンガー的対照表をいまいちど確認すると三行目「夕暮―泪雨」が気に懸る。 夕暮のドッペルゲンガーを泪雨と感覚するには、感覚の冥府性が必要なのではないか。 ここで林檎の超感覚に聴き手は恐怖すべきだ。 ――いや、もう「解釈」はやめておこう。 ともあれ『勝訴ストリップ』とちがい曲の小さなフレーズから希望が見出せない。 その意味でアルバムに現代性が稀薄だ。ただし気になるのは「馨」の字の多用。 林檎は嗅覚上の「馨り」を視覚として唄っていないか。それが反世界への扉を開く視覚上の印などだと。 最後に、好きな詞のフレーズをひとつだけしるしておこう――「おだいじに」(作詞・作曲=椎名林檎)。 《眼に映る良さ 映らぬ善さ/隣の芝 青く見えたら出来るだけ睡るのさ》。
Jポッパー比較論より UAと椎名林檎
宇多田ヒカル、透明な「切なさ」 千変万化で悪辣(あつらく)な歌姫、椎名林檎 宇多田ヒカルの「天才」をいうために、彼女より四歳程度年長の、 もうひとりの「天才」を最初に召喚しよう。 「歌舞伎町の女王」椎名林檎だ。ただ、この歌舞伎町の女王だの、新宿系だののキャッチフレーズが 筆者にはゲテモノの先入観を植えつけ、つい最近まで椎名林檎をアルバムで聴いたことがなかった。 聴いてびっくりした。まず声が変幻自在。 似た声の歌手が歌詞の聯ごとに持ち回りで唄っているような印象を受ける曲すらある。 そのほとんどの曲で歌の主体(主人公)がどんな階層でどんな年齢でどんな性格でどんなルックスなのか 具体的な像を結ぶが、それらはすべて「恋愛する女」の自意識の無間地獄(むけんじごく)に陥ってもいる。 発想力に富んだ歌詞の語法はディストーションをかけたようにひしゃげていることもあるが すごく文学的だ。その破壊性が少女趣味をまったく駆逐している景色は奇観といえるだろう。 そして楽曲とその歌詞は痛ましいほどの分裂的乖離(かいり)をみせるが、 そこには唄われている内容自体への「悪意」が感じられる。つまり歌は魅惑的なトーンをもちながらも、 「それを信じるな」と釘うちされているわけだ。それと、既存の音楽ジャンルの引用頻度がひたすら高い。 現代ポップスの要諦(ようてい)が聴取者の気散じを惧れる(おそれる)あまりの華やかなパッチワーク性や 一般的には「醜」と呼ばれるものの美学化だとすると、彼女の歌はそのレベルのポップスの要請を満たす。 こんな歌姫に似た類型はあったか――パッと思い浮かんだのは『東京の野蛮』のころ(80年代前半)の絶頂期・戸川純と 『ウンバハーゲン』のころの二ナ・ハーゲン、 それと『アップ・アモングスト・ザ・ゴールデン・スパイアーズ』のころのダニエル・ダックスだった。
少し具体的にそのアルバム――『無罪モラトリアム』(99年2月) も全体を鳥瞰してみよう。全11曲の1曲目は「正しい街」。 パンキッシュなノイズ、ジミ・ヘンばりのギターで始まるこの曲は、 短いサビ先行ののち、グッとニュー・ミュージックによくあった旋律パターンに 曲が砕けてくる。始めの30秒程度でこの感触の急激な変貌ぶりはどうだろう。 圧縮された序破急と呼ぶにふさわしい。最初の歌詞は「あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね」。 途中でも「君が周りを無くした/あたしはそれを無視した」だの、曖昧模糊とした歌詞が連打される。 幾度か繰り返される「AI」音の韻。たとえばそれをひらくと「みじカイうそをつなげあカイものにかえてそガイされゆく ほんねをふせた」となるがこれを歌詞カードどおりに漢字表記に戻しても (「短い嘘を?げ赤いものに替えて疎外されゆく本音を伏せた」)、 現代詩に慣れない者には音素のみに還元された経文ばかりの意味不明さしかもたないのではないか。 そんな歌詞を載せて曲は出だしの「予告」どおり、 最終的にはニュー・ミュージック調からハードロック調へと突入してゆく。 で、その歌詞は聴いているばかりだと朦朧体のままだが、歌詞カードを丹念に読んでゆくと 具体的な「意味」を生産しはじめるような気になるのだ。 前述した「君が周りを無くした/あたしはそれを無視した」が鍵のフレーズ。 これを砕くと、所有欲のつよい「君」は「あたし」のからだのみに執着し仕事もなおざりになり 友達も失っていったが、「あたし」はそういう「君」の状態にすごく冷淡な態度をとった、 ぐらいの含みではないだろうか。終わりのほうの「都会では冬の匂いも正しくない/ 百道浜も君も室見川もない」で、男も女も地方出身者の同郷者と感じられてくる。 となれば(歌詞全体の詳察は省くが)、全体のシチュエーションはこうだろう。 ――同郷・同級の男女が なにかの誼みで(よしみで)共同の都会生活を始めた。男は女のからだに溺れるばかりで 自分の仕事をダメにしてゆく。将来性や建設性が感じられない。 で、別れた。一年後、ふと再会しキスも交わすが、やはり女は(彼女は自分の性格の冷淡さを自覚している) その男にはトキメキを感じられない。
そうして男と会ったのは、海外留学に向け翌日日本を後にするためだった。 結局は苦い蹉跌(さてつ)の記憶のみ引きずって女は機中の人となるだろう ――ちがう「解説」も可能だろうが、おおむねは「正しい街」の設定はこのあたりに 落ち着くの落ち着くのではないか。
自恃(じじ)の念がつよくその反面、客観的な自省のできないこのイヤな女に 椎名林檎は仮託して一曲の世界をつくりあげるが、これをカラオケで唄う女は さぞや面はゆい思いをするだろう。 この歌で最も攻撃の対象になっているのはなんだろうか。 それは憧れの都会生活でもなく薄ボケた同郷の相手でもなく、 唄われ仮託される「女」自身ではないだろうか。最後の「海外留学」がミソだ。 TVドラマで、恋人と発展的に別れるため女のほうが海外留学に行くという 安直なエンディングがままある。だがそれは別に自己改革の意識の発露ではなく、 たんに結末を無限に先送りしてゆく凡庸な逃避パターンにすぎない ――椎名はたぶんTVドラマにたいしそんな批評意識をチラつかせながら、 そういう女になりうる自分にも鋭い匕首(あいくち)を突きつけている。 つまりこのポップで伸びやかな曲調の「正しい街」を最終的に彩るのは 自虐という精神性なのだった。
椎名林檎のばあい一曲に含まれる情報はこれくらい精度が高く葉脈が多岐にわたっている。 個々の曲を詳しく聴き眺めてゆくと予定の紙幅を超過する惧れがあるので 以下は速度を上げてゆこう。2曲目は最初のシングルカットとなった「歌舞伎町の女王」。 坂口安吾の短篇「青鬼の褌(ふんどし)を洗う女」の導入部のような設定で (性に放埓な(ほうらつな)母親に日に日に似てくる自分への不安)、季節は夏。 15歳になった少女は男狂いの母親に捨てられ、単身フーゾク嬢になるべく歌舞伎町へと上京してくる。 故郷は九十九里浜。「皺々の祖母の手を離れ」の1フレーズで生家の稼業が漁撈か農作だったと理解させる。 この「九十九里浜」がメロディのキーになる。つまりMIKEの「想い出の九十九里浜」同様のピーナッツ調の旋律、 その導入契機となるのだ(ギターはニューウェイブ的でフリーキーな音色とフレーズを紡ぎもするが)。 むろん季節設定が夏なのでGSの夏物音楽風の軽快な湘南っぽさをビートは保ち、なんとラストでは ムード歌謡モロにマイナー6のコードで締める。 そのラスト、彼女の十八番(おはこ)の発声――イタリア語風の「R」の下品な巻き舌が披露される (これが彼女の悪達者ぶりをとくに印象づける要因となる)。 「歌舞伎町の女王」になるという意気揚々とした少女の心情はたった二行のフレーズで翳る。 「女に成ったあたしが売るのは自分だけで/同情を欲した時に全てを失うだろう」。 娼婦的存在はモノとして存在しているかぎりは生きながらえるが 「心」をもった刹那に頽落(たいらく)してゆくという政党かつ怖い認識だ (ここから、ゴダール『女と男のいる舗道』で哲学者ブリス・パランから 「ポルトス」の挿話を聞かされたのち横死するナナ=アンナ・カリーナの最期が不吉に揺曳してくる)。 よって主題は「盛者必衰」。
これをカラオケで唄う者は二類に分岐する。(1)実際のフーゾク嬢=「自分史」の凄惨さに ウルウルして唄う。(2)それ以外の女=自分の「演技」能力を自負しつつ、世のフーゾク嬢一般に軽い侮蔑を 投げてもみせるオバン臭い「社会派」として唄う。唄うとなればこれ以外に残余はない。 C「幸福論」。浅井“ブランキー”健一のソロワーク“シャーベッツ”のシングル「HIGHSCHOOL」同様、 ディストーション的なエフェクトをボーカルにかけられたこの曲の歌詞は自分自身に向けた「手紙文」の体裁だ。 これがミスマッチでハードな曲調(戸川純を筆頭とする80年代前半のパンク歌謡風)で徹底的に痛めつけられる。 その点から、字義どおりの「つましい」幸福観を謳うことではなく、身近な男の価値を再認識し、それに献身することが 最大の幸福と考えるようになった女の精神的退行=糠(ぬか)味?臭さを嘲笑することが意図されていると判明する。 歌中、主人公の相手の男は哲学者肌・詩人肌の男と顕揚されているようにおもわれるがこれも 女の視野狭窄(しやきょうさく)した眼が歪めた像だろう。 よって「歪みの気味わるさ」が曲全体の主題と感じられる。椎名は最後「1・2・3・4・・・」を連呼するが、 ここではガンバリズムの空疎・形骸的な精神主義が嗤われて(わらわれて)もいる。 アートな歌曲、だがこれはまったくカラオケで歌唱が不能だ。
E「シドと白昼夢」。5曲目同様、ユーミン調の唄いだし。 ハープを意識した伴奏もあって、曲調も「可愛い」。 この「シド」はだれかといえば2曲後「ここでキスして。」のディテールからシド・ヴィシャスと感じられるが、 ピンク・フロイドの創始者にして哀しき狂人シド・バレットの含意があるかもしれない。歌詞中、「此処の所」が「ここンとこ」、 「欲望も何も」が「ヨクボーもナンも」と発声されるに従い次第に意味内容が破礼(バレ)てくる。 評論口調が混入するあたりの逸脱が嬉しい。ストーリーを要約すると 「元来ロマンチックで憧憬対象(しょうけいたいしょう)(例=ジャニス・イアン)を“外”に置いていた自分がだんだん 現実や自身を直視するようになり」「すると自分のS気質に目覚め」「M男をうまくゲットして」 「SM遊戯に耽りはじめ(ふけりはじめ)」「その際にあまりにも自分の体感にフィットした興奮に思わず感極まった」 程度のものだろう。椎名林檎は、静的なバックのなか囁き口調で(ささやきくちょうで)語を丁寧に唄うと、印象に意外なほど ユーミンが入ってくるが、声量が一定にしかならないユーミンのデジタルな貧弱さに較べ、 だんだん歌唱に力感を籠めることもできる。この歌もそう。結果、中島マリをはじめとする物まねタレントのようなデフォルメをもらい、 ユーミン的類型が本来なら陥るはずの「ヒステリー」を笑劇的に造型できるのだ。 ヒステリーとは心理学的には対象に執着するあまり急激に接近し、結果的に対象を取り逃がしてしまう行動性をもつが、 この歌のなかM男さえも「女」はやがて取り逃がしてしまうのではないか――そんな危うい予感が最終的に走る。 玉葱を剥くように真相がたえず次段階へと先送りされるこの曲の発想は「悪辣」の一言だ。
G「ここでキスして。」、シングル第二弾。曲調がアルバム中、 最も伸びやかで予測不能性に富み、そのかぎりでポップだ。出だしの英語で唄われる アカペラ部分はブリティッシュ・トラッド調、ただし“SAY GOOD BAY AND KISS ME”の部分に ブルガリアン・ボイス調のコブシが入っていて清冽(せいれつ)だ。 そこから緩やかに(サイケロック時代風のウニャ〜ンとしたストリングスに乗せて)主旋律部への導入が果たされ、転調を経過したのち サビメロの美しさにウットリとなるが、むろんこれも一筋縄でいかない。 「違う制服の女子高生を眼で追ってるの」という恋人の描写一個で歌の主人公が女子高生とわかるのだ。 この歌の主体の個別化が「歌になりきる」カラオケ歌唱の際の意地悪な障壁となるのはこれまでと同様。 恋人は「現代のシド・ヴィシャス」と形容されるが、たぶんたんなるツッパリ男子高生、しかも優柔不断な奴だろう。 そんな男に一方的に執着し、相手をまるごと愛してると烈しく思いこみ、 「行かないでね」「ここでキスして」とおねだるする少女はEよりももっと明瞭なヒステリー類型だ。 増村保造が生きていて「性典」シリーズのころの若尾文子に似た少女を「焦がして」つかいコギャル映画を撮ったら こんな世界になるだろう。少女は相手に懇願している、「どんな時もあたしの思想を見抜いてよ」と。この「思想」の違和感ある用法に ドキッとする。だが情報の洪水のなかで必然的に視野狭窄してくる恋愛女の思想は、独善的な切なさという内実しかもたないとだれもが 思いなおすはずだ。 なお、この曲での椎名の黒っぽいビブラートをかけた一瞬の節回しを聴けば、彼女が正統R&Bをもうたえる余裕を残しているとわかる。
H「同じ夜」。アルペジオのクラシック・ギター+唄いあげるヴァイオリンによる伴奏、 モーツァルト的和音にみちた名曲だが、ここでは歌詞の構文の複雑さがカラオケ歌唱を阻む。 70年代の蓮實重彦が作詞したのではないかと思わせるほどだ。よく歌詞を読むと、 日々の喧噪や他人の干渉のなかで、やっぱり時間は静かに流れてゆく、世はなんと諸行無常であることよといった 短歌にもつうじる詠嘆が唄われている気がする。サビ部分、 「吹き荒れる風に涙することも 幸せな君を只願うことも 同じ」と言い切りつつ、その末尾の「同じ」を連結辞として 次のフレーズ「同じ空は明日を始めてしまう」につなげるが、 これがまさに短歌の懸詞(かけことば)と機能的に等しい。椎名は国文科なのか音楽家なのか。 だんだん盛りあがるにつれ歌唱に「泣き」が入ってくる。 小川知子や奥村チヨなど60年代後半歌謡曲では歌手の年少性を印象づけるために歌唱にネトつく媚びがもちいられ、 それが演歌にはなく歌謡ポップスのみに存在する不可思議かつ年齢不詳なコブシ回しとなったが、そのブキミ感に 椎名はさらに磨きをかけてゆく。
特筆すべきは間奏部のヴァイオリンの奏法変化。超絶技巧をもってノイジーで細片的なフレーズを組みあげてゆく。 超絶技巧だからヴェルヴェッツ時代のジョン・ケイル風ではない。むしろ間宮芳生の現代音楽を弾く天満敦子のような感じだ。 歌詞にふと出る「天神」は博多の繁華街名だろうか。 ラスト、「空は明日を始めてしまう/例えあたしが息を止めても」の歌詞からは、 「小さな死」「小さな自傷」を繰り返す者特有の狭隘(きょうあい)な自己愛と、 その背後にある他者的かつ巨大な永却回帰の運動とが一幅の絵として仄見え(ほのかみえ)、複雑な感触を残す。 以上で判明したとおもうが、『無罪モラトリアム』の世界は、具体相においては千変万化しながらも、 一貫して恋愛女の自意識の無間地獄を唄いあげる批評性を保持する、露悪的なものだ。千変万化を呼びこむ要因は 椎名自身の歌唱力が第一だろう。60年代歌謡、70年代ユーミン調、80年代パンク歌謡をベースに、ブリティッシュ。 トラッド、R&B、ハードロック的シャウト、果ては演劇的カンツォーネ唱法までも場合によっては繰りこんでゆく その多彩さは現今Jポップでも類例がない。それに呼応するようにバンドも、パンク、ニューウェイブ、歌謡曲、 ハードロック、60年代ロック(随所の隠し味となるジミ・ヘン的リズムギターのリズム細分的ノリと、 Iのストゥージス風リードギターがとくに圧巻)など、依拠するジャンルをスライドさせてゆく (一瞬、琴をつかった唖然とするようなサンプリングがFで入りもする)。その力量は目覚しく、 しかも終始「バンド感」の失われない点が肝要だ。つまり彼らは椎名を前面にたえずアーティストとして 屹立(きつりつ)しているのだ。客体化できる彼らはそのかぎりで不透明な他者と映らざるをえない。 そのありようこそが実は宇多田ヒカルとは「真逆」なのだといえる。
あらゆる歌の言葉は「切ない」 宇多田の音楽の特徴は、「透明」であるがゆえに自己愛に満ちた聴取者のカラオケ歌唱を自然に 誘導するものだという点だ。その音楽に「バンド感」はなく、ドラム/ベースのリズム隊がすべて 「打ち込み」で処理されているように、実はデフレ的現代に合致するような縮減性をもつ点も 注目されてよい。したがって椎名林檎の音楽のような楽器特性の強調という点でもほとんど意識が稀薄だ。 表現力は歌唱・作曲双方にわたり天才的だが、低音に弱点もあるその唄いようは 椎名と異なりつねに一定的で、歌詞はことさらに高校生世代特有のカタコト感を手放さないから、 マルチな異能を椎名のように強調されることもない(ただし歌詞の片言性は、実は同世代から彼女への フィット感を導く特質でもある)。ただ忘れないようにしよう――「automatic」をその極限に、彼女の歌は、 完全に記憶するまで、カラオケではとても唄いにくいのだ。
【今度のアルバムのシンメトリー構造・逆倒構造に即し、 まずアルバム最終曲「葬列」から曲解釈がはじまる】 「葬列」のポイントはいくつかあるとおもう。 まず前曲「ポルターガイスト」と同じ流れで、詞ではなく、文章が唄われている点。 とくに歌詞二聯目の終了間際「桃源郷が無いのなら、」でいったん歌唱が途切れ、 間奏があって「お造り致しませう。」が来て、曲が次の聯に跳ぶところが戦慄的(せんりつてき)です。 それは歌/言葉の温厚な連関を暴力的に断ち切るものだから。それと、すべての言葉に、 それが整序されてなくても旋律をつけられるとしたのがオペラ趣味の狂気でしょう。このオペラ趣味が、 ロック/ポップスでは、「コンセプト・アルバム」と容易に結びつく。 それは歌詞全体の物語性、対位や展開までふくめた演奏の線形的一貫性といった要素に 感知されるものだけど、たとえば曲間の否定などはその最もわかりやすい符号だよね。 この新譜もそれをやっている。だからこれをコンセプト・アルバムとして受け取れというメッセージを 林檎は投げかけているとおもうんだけども、じゃそのコンセプトが具体的に何かというと、 すごく考えがまとまらなくなるんだよね。歌詞の意味をあまりつよく規定してゆくと、 このアルバムの世界自体が逃走を開始してしまうのではないか。 逆に、このアルバムの歌詞の意味が、どういうふうに意味拡散の効果を織り出しているか ――そのことが精確に計測されなければならないとおもいます。 それと僕が「ポルターガイスト」「葬列」を、明治=鏡花趣味といったのは、文章が唄われているとして、 その文体が鏡花っぽいからです。とくに「ポルターガイスト」にその気味がつよい。
ただ「葬列」の歌詞を具体的に考えてゆくと、それは夢野久作に近いといえるかもしれない。 どういうことかをこれからいいます。 「出生の意志」という言葉から、「拝受」した「メイル」と「受胎告知」を関連づける指摘が あったけど、この歌は明瞭に、出産される直前の胎児が主人公でしょう。 受胎告知と臨月・出産では時制が随分ちがうと僕はおもう。 歌詞最終行の「お顔を。 /さあ、拝見させてください。」とは、産道を通過中の胎児が自らを産みつつある母親に 語っている言葉だと受け取りました。これ、事物の逆転の感覚です。 たとえば、「私が物をみるのではなく、物が私をみる」とでもいうような。 こうした事物世界の認知は、一定の哲学体系をつくりあげていますが(とくにメルロ=ポンティやラカン)、 どうも母親=椎名林檎が、赤児を産む自らを主体化した歌ではなく、生まれる子供から自分を捉え返す歌をつくったことにも、 そんな哲学が反映されているんだとおもう。でも気味悪いよね。 だから「母性」と単純に括って(くくって)いいのかどうか、僕には判断ができない。 気味悪さの根拠は、逆転哲学がこの歌にはまだまだちりばめられているからでもあります。 胎児は「亡骸」と把握されている。それが母胎を出て、「酸素」に触れると生体化する。 つまり出産は、死産から出産へという系統発生を辿るというのが、ここでの林檎の認知だとおもいます。
また母胎はひとに「回帰願望」をもたらすことからも「桃源郷」だという 一般認知があるだろうけど、それにも林檎は異議を投げつけている。 受動的に守られつづけ、外界の恐怖を遮断されたまま母親と共生したことを 桃源郷=ユートピアと称するのは、記憶の頽廃(たいはい)だ――林檎はそういってるんではないか。 僕はとくにフロイディズムへの敵意を感じました。 「桃源郷」は胎生状態にあるおではなく、被出産後の、感覚される外界の熾烈(しれつ)さのなかにしかない ――そういう正当な認識の再形成を彼女は促している。だから胎児が母親に「お造り」するもののなかには、 「・生むで廃棄する勇気」という、子捨ての呼びかけまでが入ってくる。 この「お造り」と、そのすぐあとの「・空を斬つてゆく庖丁」が一種の縁語なんだね。気味悪さはまだある。 「僕は、兩の肢から認知しました。」は、生まれはじめる赤児が、逆子だとしめしているんじゃないか。 「お造り」という言葉にも、バラバラ殺人めいた不穏な感触があるけれども、これも、出産によって母親と胎児が分離することを、 一種のバラバラ殺人とみなしているから、出てきた表記だとおもう。つまり、出産は死産―出産と系統発生しつつ、 同時に実際は存在しない桃源郷から子供を放逐する殺人なんだ。生まれることと死ぬことは同位でしょう。 寺山修司でいえば、その晩年の詩に、「ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかゝって/完全な死体となるのである」が あったわけだし。そして「桃源郷」が「無い」ということは、その基盤である母親もないということだ。 「亡骸」は胎児だけではなく、母親についてもいえるんじゃないか。 だからここでの胎児を生みだす母親は、実は亡骸なんじゃないかという気色悪いイメージがある。 死体が死体を産む――それを林檎は「輪廻」といってる気がします。
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名無しにして頂戴 :04/05/13 19:19 ID:tSoZFK1D
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「偖は、こんな輪廻と交際をする業が、お嫌ひなんでせう、当然です。」 というフレーズはこの把握のうえで捉えなければならない。 赤児が「未だ何の『建築も着工』してゐない、」のは当然だけども、 出産=建築ではない、だから「白紙還元」したいという母親の気持を、胎児は先取りして語っているんだよね。 それと、この死体が死体を産むという認知が、とうぜん曲名「葬列」につながっている、その「葬列」が、 シンメトリー上の対蹠曲(たいせききょく)「宗教」のどこに現れて、それによってどんな複合作用が起こっているかは、 いまは発言を控えましょう。ともあれ、胎児の意識から眩暈的・数学的無限が現れるという気味悪い「逆転」がここでは仕込まれている。 これ、夢野久作の『ドグラ・マグラ』なんだよね。その意味でこの曲は母性発露の曲として、とても一筋縄ではゆかない。 母性という形容がふさわしくないとおもえる面もある。これは男の発想――それも夢野久作的な異能の男のそれ――なんだよね。 オレ、よっぽどマタニティ・ブルーのときに林檎がこの歌をつくったんじゃないかと邪推した(笑)。 で、この曲はたしかに後期ツェッペリン的、ブリティッシュ・トラッド的な演奏と旋律をもっているんだけど、 ラストでノイズがどんどん不安に高まってゆくでしょう。あれが僕は、産道通過をしめしているとおもった。
こんな風にいちいち解釈しなければならない。一見ハッ?って感じのこのアルバム。 別に理解なんかしなくても、何の問題もなく生きていけるんだけど、解釈したくなる。 共感じゃなくて理解したくなる。これがカリスマ性か。 難しい言葉が多過ぎですがスルーで。丁寧に語って下さっています。 しかし、批評家って映画評論家くらいふわふわした職業ですよね。 自分の解釈があって良いと思うのですが、この阿部さんの解釈で林檎の意図を探れたらいいと思っています。 そして阿部さんごめんなさい。これを読んだら椎名林檎VSJポップ買わなくていいです。 この作品が出来たのも奇跡ですがこの林檎板に集っている我々が奇跡なのかも知れない。 この人神経科の先生とかカウンセラーみたい。自分も分析されたい。 そして林檎本人を始めアーティストはこれを読んでどう思うのだろうか。 一気に読むと吐き気を催すので少しずつ読んで下さい。暇な時にちょろちょろっと読んで下さったらいいです。 ※あくまで筆者の意図によるものです。
【1曲目「宗教」の解釈を開始するにあたって、 まずは歌声から突破口を探ってみる】とりあえずは浅井君がサイトへ投稿してくれた原稿にしめされていたような、 椎名林檎の声の6属性――そのせめぎあいといったものはこの曲では感じられないよね。 それに本来なら「立て」以下の断言命法部分でももっと声の「神聖化」に走るはずなんだけど、 その作用もほとんどない。「命法」部分も色で言うと、声が紫なんだ。 このユダヤ的「命法」部分までふくめて声全体に微妙にエフェクトがかかって震えがある。 しかも音場における声の出所設定がエコーの効果によって遠いほか、詩行のひとつひとつで 少し左右に振り分けられるような感触もある。ただし、「丁度好い洋盃が…」以降はコードがメジャーに変わり、 声も地上性に回帰するけどね。椎名林檎はカメレオンのように声音を千変万化させる悪達者としてデビューして、 そのときにはその声の刻々の複数性に、誰もが驚愕したとおもう。 ただ、その声の千変万化は、たぶん彼女の声の本質的な弱さの意識と表裏なんじゃないか。 「罪と罰」のようにシャウトができるし、R音巻き舌もあったから気がつきにくいんだけど、 彼女の歌の地声そのものは松任谷由実系で、本来は弱い。それがクラシック調の美しい極ではハッキリ出るから、 だから彼女の唱法は破片手見せたんだとおもう。けれど、そのままでいくと、声・唱法が行き詰まりになる。 とくにライヴビデオ『発育ステータス』では声が弱い。
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それと、「宗教」の唄いだしの微妙なブレというのは、声・旋律だけじゃなく歌詞のレベルでもある。 「誰か僕に巧いお菓子を(頂戴)」というのは、まずは単純な他者依存のように響く。 次の「毒で本望」は、自らの他者依存さえ成就されれば、もう死んでも構わないんだ、という恐ろしい 領域にたった一行で跳躍してしまう。つまりこれ、自殺志願サイトへの書き込みみたいな感じなんだよね。 ところが自分の存続それ自体にかかわる重大発言をしたはずなのに、声は無機的で表面的な変化がない。 ところがその表面には微細なものの震えも感知できる。声がそれでも基本的に無表情的平穏を保つのは、 「嘘で元々さ」という捨て科白があるからでもあります。これ、「嘘」の指示範囲が明確でないから、 すごく不安定な挿入なんだよね。他人がお菓子といって毒を渡すならそれはとうぜんその他人が 「嘘」をいったことになるわけだけど、挿入句はそのレベルにとどまらない。 もっと遡行する。「毒で本望」という不敵な内心が実は嘘なのかもしれないし、さらには無限定な他人に お菓子をもとめる乞食根性・坊ちゃん根性そのものが、「演技の嘘」というように遡ってもゆくわけ。 で、この「遡上」(そじょう)は、結局は歌詞部分「以前」にゆく。 すると、あれはフラット・マンドリン?それとさまざまな楽器が不協和音を奏でる音の冷笑的な混沌(こんとん)が あって「僕」の虚言性はそのあたりまで延びるんだね。いや、もっと延びるか。 CDを再生する前、聴き手がプラスチックケースを開くところまで。そのときが背文字の「さかしま」で、 リスナーがオロオロしている光景となる。
で、今度のアルバムで彼女が唱法上見出した活路が、 ひとつはスキャット・タイプのジャズボーカルの突き抜けるような洗練化だった。 部分的に日本語リズムが細分化される際には、硝子細工の転がりを音で「視た」ような驚異がある。 次が、弱い声を、いわば弱さのまま強さに変えること。 その最大の成功例が、僕は、この曲の「誰か僕に巧いお菓子を…」の唄いだしだったとおもいます。 最初聴いたとき、何かゾッとしたんだ。この声そのものが、性差・年齢の記号としては、学童期の少年に はっきりとなっているとおもった。それと「死の馨り」が馥郁(ふくいく)と漂ってもいて、その声の出所、 その孤独の境位が只事ではない――そう感じました。この少年はもうこの世にいない――そんな戦慄。 それは複雑な音のいじくり操作でつくられたものなんだろうけど、僕はそこにその唄いだしの旋律も深く関わっているとおもう。
で、第一聯の不安定さはもっとつづくでしょう?「可成なら甘いものが善い」で図々しさがペロッと舌を出す。 「湯呑勘定」が「チャラ」の意だとすると、冷笑が際立つ。 最後が「虫歯も厭はない」――これは自己の破滅傾斜は自分にとって快楽なんだ、ということだよね。 僕はここで少年が少し笑った気がする。すると、その歯がもう虫歯で真っ黒、ミソっ歯だらけ、 という気がしない?甘いものの食いすぎで唇の周りには粟粒(あわつぶ)のように ちいさいオデキがぶつぶつできてる予感がある――なんていうと、また夢野久作だけど(笑)。 ともあれまるで鉄漿(おはぐろ)女が笑うようだ。 あらかじめ破滅しているのに、歌の主体が破滅を志向している ――あるいは、あらかじめ死んでいるのに殺されることを願っているというのは、 こういうところから生じる錯視だろうね。 旋律あっての歌詞だろうけど、たとえ旋律を発想する能力があったとしても、 こんな歌詞、現代詩人の誰にも乗せられないよ。 オレ、だから最初この曲で、やっぱり林檎は天才だとおもった。 ともあれそうして、歌の主体の、冥府に閉じ込められているような孤独状況が定位された。 で、ビンビンに音割れしたベースが遠い戦場から響く連続砲弾のようなフレーズを開始しはじめる。 そこにギターが、これはドイツのカン、その初期のような遠くに伸びるギター音で加わる。 このベースもギターもギミック的だけど、それなりに危機感や不穏さは一挙に増大するよね。 そこに無媒介な「命法」が連鎖状態で降りてくる――雷鳴のように。 林檎の歌に大きな変化はないけど、やっぱりバック音が効果的・飛躍的に変化するから、 ここでは「雷鳴」感が出てくるとおもうんだ。 これ、黒沢清『アカルイミライ』、その浅野忠信のダイイング・メッセージ「行け!」とも似ているよね。 無媒介性が砂漠宗教のような熾烈さ(しれつさ)を印象させるということです。
【「宗教」における「命法」部分の具体分析など】 なので、この曲「宗教」における「命法」について具体的に内容指摘することから、単純に話してみたい。 その導入方法として、僕は林檎の歌詞に現れた「命法」を、まず範疇分け(はんちゅうわけ)してみます。 まず第一群――「撃て」「吐け」「出せ」「視ろ」「嗅げ」。これはさきほどチラッと示唆したように、 他動詞でありながら目的格を欠いた命令形群です。命令のうえでの目的設定がなされていない。 単純に、命令された対象に想定される肉体――その瞬間が、目的という文脈を超えて、 無名的切断的に捉えられているといっていい。その意味で「欠性」があらわになっています。 その結果、誰のものであってもいい肉体の自立性のみが、気色わるくイメージに浮かび上がってくるんだね。 人間はすべて「囚われ」(とらわれ)という状態において無差異なんだ ――なのに不遇は個別的にひとや家族を取り巻いてくる――そういうユダヤ的/カフカ的な身体把握が ここに感じられるとおもう。しかも「吐け」では、同時に現代的な身体浄化のイメージがここにまとわりつく。 「出せ」では真実吐露のみならず、やっぱり林檎的なストリップティーズのイメージとも連絡してしまう。 いずれにせよ、林檎は身体ディシプリンとエステティックの関係を、ひじょうにユダヤ的/起源的に、 ここでブチあげているんだとおもうよ。
次が第二群――「立て」「待て」「伏せ」。これらはほぼ自動詞だけど、そこに期待される「どこに(で)」という 場所の設定をやっぱり欠いている。だから欠性は一目瞭然。 しかも身体に向けられる規律性のつよさはより強まる結果となった。 他の命令と相互作用しあって、その命令を向けられた身体の位置は、 「斥候」(せっこう)的位置だというような、錯視がここで起こるからだとおもう。 いずれにせよ、すべての人間がこの命法のもと、あたかも「掟」にくるまれたような状態でいる。 このとき人間が物理的にみえつつ、その「みえがたさ」もがみえているという 二重視覚が生ずることになります。それがユダヤ的なんだよね。 彼らには偶像はなくても、二重視覚がある。 第三群――「歇むな(≒病むな)」「惡むな(≒憎むな)」「振り向くべからず」「覚悟を極めろ」。 これらは身体そのものではなく、いずれも精神態度に向けられた「命法」となっています。 要諦は(ようていは)、「とどまるな」ということでしょう。「振り向くべからず」があると、 ふっとオルフェウス=ギリシャ神話の連想から何かロマンチックなものをおもうかもしれないけど。 これはユダヤ的に考えれば、過去に囚われるな――記憶に偶像崇拝の像を結ぶな――過去にたいして盲目でいよ、 という指示になる。「歇むな」がこの感じの字義からいって「とどまるな」もしくは「流れよ」の意味をもつということになります。 これも黒沢清『アカルイミライ』での浅野忠信――そのダイイング・メッセージ「行け!」と奇妙に符号するのがおもしろい。
で、僕が着目するのは、「病むな」のメッセージの暴力性です。 実はこのメッセージは、「気に病むな」などというふうに意味補足をして、 内容馴化【内容馴化】してはならない。つまり、ひとが病気を罹患(りかん)することはいつも充分にありえ、 そこにはさまざまな勘案点もあるだろうに、これは、絶対に病気にかかるなという 無媒介的な暴力メッセージとして読むべきなんじゃないか。どういうことか。 やがてひとが死ぬということからも自明なように、人間はその人生全体のレベルでいえば、 一個の大きな病気に罹っている(かかっている)という前提がまずあります。「存在病」。 すると、その人間が病気に罹るということは、病気の自棄――病気の「複合」を意味する。 ところが、この「複合」というのは、たとえば最もユダヤ的心性を先鋭化したカフカのような才能にとっては、 まさしく「悪」の属性と把握されているんだよね。彼は「悪」の恐怖に魅せられてもいる。 けれども、それは自らの軸ではたえず回避されなければならない――カフカの離人症的な幻想の「根源」っていうのは、 たぶんこういうところにこそ、あるはずだよ。 第四群――「切り裂いても敬ひ去れ」「引き摺っても歩き行け」「不可解でも崇め逝け」「不愉快でも味わひ識れ」。 これは命令者が、対象者の不満を先取りしているのにもかかわらず、 自分の命令を通せると自覚している命法の数々です。 「――しても」の留保節つきの命令というのはそういうものでしょう。
で、この父親が最後、こう叫ぶ――「わしは今、おまえに死を命じる、溺れ死ね!」。 それは命令の対象物である肉体を、その所有者である「おまえ」が壊せ、という不可能な命令です。 ところが主人公はそうした命法の不可能性に電撃的に支配されてしまう。 彼は脱兎(だっと)のごとく家を跳びだし、結果、橋から川に、何の躊躇もなく、 投身自殺を遂げてしまうという結果になります。この四群の一連の命法のうち、 まずは「不可解でも崇め逝け」が、一見その内容を?みにくいとおもわれるかもしれない。 ただ、これは簡単に補足分解できると僕はおもう。 「私の命令が不可解でも、お前は私を崇め、それに従わなければならない。 それを一生つづけ、そうして人生を全うするんだ(逝け)」ということでしょう。なら、「切り裂いても敬ひ去れ」はどうか。 これも補足分解してみよう。 僕の考えでは、こうなります――「お前は生きているうちに数々、禁止されている偶像のある場所に赴くだろう。 その場合には迷わず偶像を切り裂け。むろんそうした偶像にたいしての崇敬の念は長く尾を引くかもしれないが、それには頓着するな。 ただ“その場を立ち去る者”だからだ」。これ、すごくユダヤ教的じゃないか。 この第四群の命法は、文法脱臼(ぶんぽうだっきゅう)が起こる直前で、ギリギリ意味が成立しているから、 僕は詩句としてとても美を感じる。命法と不可能性の修辞的合体というのは、現代詩レベルでも黄金パターンなんだよね。
【「万物不一致の法則」にかんして】 で、ようやく懸案となっていた「丁度好い洋盃が何處に行っても見付からないのだ」の話に入ることにします。 「命法」の具体分析ですでに素地は期せずしてできている。『ユリイカ』の原稿ではオレはこれを、 ザッパのアルバム『万物一致(同サイズ)の法則(One size fits all)』とモジってみせた。 まあこれは大したアルバムじゃないんだ(笑)。ともあれ「万物一致の法則」というのは、 西洋が科学成立のまえにウダウダと考えていた、哲学的/宇宙論的/存在論的/神学的「妄想」なんだよね、たぶん。 これにたいして、この「宗教」の主人公――僕らの見立てでは学童期の男の子は、「万物不一致の法則」を生きているということになる。 で、少年を直撃するこの「万物不一致の法則」が果たして疎外なのか、という判断に入っていきましょう。 だいぶ前に、この「不一致」あって、歌の主体の「彷徨」が決定されるんだけど、 その彷徨にはむしろ人間的幸福が潜んでいるんじゃないか――およそ、そんな指摘が出されました。僕も賛成します。 「アレ、前といってることがちがわない?」といわれそうだけど、それはこの曲を繰り返し聴いた結果、そうなったの(笑)。 オレの一大特徴はヘンセツ漢だということ(笑)。ヘンタイ漢じゃないよ(笑)。
この歌では、命法を発する神と少年が「行き違う」という共有前提はもういいよね。 ともあれ命法は鉛直軸なのにたいし、彷徨は水平軸だから、神と少年が出会うのは、命法が偏在的でなければ、 論理的にはひとつの交錯点しかない。で、この日本の男の子はそれに「行き違う」わけだ。 これについては、「男の子」が西洋的知性、「命法」がオリエンタルだから、 「行き違い」が起こったという発言があった。僕はそうとらない。むしろ逆だ。 「命法」はこれまでいったようにユダヤ、そして「男の子」の感性も逆に日本なんだよ。 最終聯の「憂ひ菩?」をトッコにとろうというんじゃないんだ。というか、これは、林檎の古風な語彙(ごい)のなかで、 「メシア」が和風に翻訳されたものだよ。で、「男の子」が西洋風だという判断は、 とうぜん「男の子」の内的独白部分から来てるわけだよね――「飲むでも飲み切れぬ壜(びん)で不條理を凝視せよ」とか 「模範だらけ 模倣だらけ」なんかがそれに当たるだろう。なるほど、いかにも「西洋風」だ。 けれど、不条理は禅的空白ととってもいいし、模倣も西洋的な理想主義にある範例参照ではなきう、 鶏鳴狗盗(けいめいくとう)という函谷関(かんこくかん)の中国故事を憶いだしてもいいんだ。
で、僕がこの「男の子」を東洋というのには最大のポイントがある ――第三聯「季節は廻つて急ぎ足/花は咲いた 蜂を呼寄せた/ 幾度も繰り還しをする/實る様で 枯れるのが常と」がそれね。 「男の子」は季節の巡りを「死の横溢」(しのおういつ)というふうに感知しているんだ。 すべては死産のかたちで生まれ、非成長に終わる。だから以前の林檎テーマ「盛者必衰」どころではない。 ところがそういう「未生」が続々と生まれつづけるという感知は、実はそれ自体で正しいのではないか。 で、その季節の進展が、ここでは「葬列」として意識されるんだとおもう。 つまり「葬列」段階の「葬列」とは、亡骸としての母が亡骸としての子を産む――その輪廻だった。 それには生否定とおい、暗く刺すようなエネルギーが凝縮しているよね。 ところが視野を広げ、その「葬列」を世界進行の常態としてもみた場合には、 当初あったエネルギーの暗さは明るさに向け拡散されるはずなんだ。その一転を押さえると、 この歌は急に「価値肯定」のほうに「逆倒」するわけだよ。オレはやっと、その機微をこのメール座談会で?んだね。 少年の自殺念慮は、「彷徨」によって薄く延ばされてゆき、ついに透明な明るさに変容する。 ただ、林檎は「彷徨」を自明とするなら、もっと苛烈に、ユダヤ的な命法を根拠に置けといってるんじゃないか。 とりわけ、自らをふくめ、偶像を破壊せよ――ということです。 この場合の「偶像」は何でもいいよね。アイドルだけじゃない。「セーラー服」「女陰映像」「人気ラーメン店」 「デパ地下行列」「田園調布のお屋敷」「ゲーセン」「皇居」 ――ホントに何でもいいんだ。
【10曲目「ポルターガイスト」の解釈について】曲頭の踏み切り警報音は、簡単にいえば、 歌詞の途中にある「今日は電車で!」部分の単純な先取りと考えるのが普通だよね。これ、 表面上はすごく普通の歌でしょう。ジャンルはハリウッド・ミュージカルで弦中心のオケをあしらったような シンセ・アレンジはちょっとディズニー調を意識しているのではないか。 じゃ歌詞は、というと、これは女から求愛を受けた男が家を出て、その女のもとに出向き、実際にその女の面前で 一曲披露におよぶという、まったく明瞭な情景の歌にすぎない。 つまり、この曲はたった一点を除くと、まったくアポリアなんかではないわけね。 ただしその一転がこの曲全体を迷宮化させてしまう。 それは何か――それこそがこの曲のタイトルが「ポルターガイスト」だということです。 モノをがちゃがちゃと動かす悪戯好きの精霊、「騒靈」と訳されるそれは、一体この歌のどこに出現しているのか。 そのことを考えだすと、一挙にこの歌の希望にみちた、愉しい明瞭性に不安な色彩がともってしまう。
249 :
名無しにして頂戴 :04/05/16 06:53 ID:zCfhQBer
ポルターガイストって、それこそそのまんまの意味じゃん。 藻米の解釈やわすぎる
ひとつの解釈は、ポルターガイストを、この歌の主体、 女の呼びかけでいそいそ出かけてゆく「僕」自身だと捉えることでしょう。 もうひとつの解釈は、この曲の客体、その男の来訪を待つ女自身(この女は林檎自身をおもわせる)と捉えること。 ただ、「反映論」でいえば、この歌の「僕」は学童期の男児そしてやはり林檎の子供の未来形、 「君」はその子供となぜか離れて暮らす宿命となった林檎自身という解釈が、どうしても捨てきれなくなる。 「今日は電車で!」と、交通手段の明示を故意にしているところがクサい(笑)。 それと歌詞の解釈にはとうぜん奏でられている音が割り込んでくる。その意味では、この歌の「僕」が子供だということを、 この歌のディズニー調が示唆していると考えざるをえない。つまり、この歌の主体は子供の「僕」なんだけど、 歌は実は「君=母」から「僕=子供」への呼びかけを逆に入れ子のように隠しもっているという解釈が当然でてくるはずなんだよね。 で、部屋のなかのものを無秩序にガチャガチャ動かし、おもちゃ箱のようにひっくり返すアナーキーな存在、 手のかかる存在が子供だとすれば、子供の属性はそのままにポルターガイストだということにもなるから、 まずはこの歌の「僕」がポルターガイストだという解釈が一義的に成立するんじゃないか――僕はそうおもいます。 ところが子供のポルターガイスト期は2、3歳、でもこの歌の主体「僕」を学童ととれば10歳弱で時差がある。 つまり現実の子供を眼前にしながら、その未来を林檎がおもいえがいたというのは、ここから生じる予感なんだね。 しかも、その「ママ」と息子は五年後ぐらいには離ればなれになってしまっている。 そこから林檎の予感が、子供にかんしてはより悲哀のほうへ傾斜している状態を感知できるかもしれない。
もっとひどい解釈だってある。 つまりこのママに会いに行く学童期の少年は、もう実はこの歌の時点で死んでいるんじゃないか。 そう、彼は幽霊=騒霊としてママに会いにゆくんじゃないか。 そんな解釈の可能性だって捨てきれなくなる。これは、「葬列」で死児として生まれた子供が、 「宗教」で自殺念慮をもった――その「逆倒」の「流れから必然的に起こってくる錯視でもあります。 ところがたったいま僕がしめした解釈の「あれやこれや」がさらに、 この歌のタイトル「ポルターガイスト」によって、より上位レベルで、ガチャガチャと動きだしてくる。 林檎は、この歌の「僕」が彼女の子供、この歌の「君」がその子供から見た彼女自身として、 聴き手に読まれるだろうことは明らかに意図しているんだとおもう。ところが、その平板な解釈が、 ポルターガイストによってさらなる散乱状態・迷宮性へと導かれてゆく上位次元を 示唆しようとしているんじゃないか。 つまり、これは適齢期の男女を扱った恋歌にすぎないんだよ ――そういう意地悪な「揺り戻し」(これがポルターガイストが通常おこなう「悪行」のひとつだよね)の作用がこの歌にある。 その次元では、「もつと澤山逢ひにゐらして下さい」と男がいわれ、その要請のままに男が女を訪問するという この歌の単純な因果関係そのものが突然瓦解(がかい)するような感触すら出てきはしないか。 そして、そこまで視野に入れたとき、この歌の「君」もまた、鏡花世界的な霊へと変貌しだすのではないか。
僕のいいたかったのは、つまり、歌が「ポルターガイスト」とネーミングされた途端、 解釈のすべての界面が騒霊の作用のように揺らぎだす、 この歌のもつ不確定性のことだった(こうした意味攪乱(かくらん)作用が、 このアルバム全体を律しているトーンだということね)。 それをまた林檎は、意地悪なことに楽しさのなかで演出しているんだ。 ただ、「恐怖」はジトッと小さな部分から滲んでいる。それが、 「若しも、此の部屋も無く、連なつてゐる輝きがまやかしであらうとも僕に恐れなどはないです。」の歌詞。 この部分が、「君」を「まやかし」ではなく「あやかし」とおもわせる根拠でもあるんだけど、 これはモノの同定性を理解できない、幽体離脱者の視界そのものを表しているともいえる。 あるいは、この曲がもう「宗教」を「経過」済みと考えると、「宗教」の万物不一致の視界が ここでこのような同定性不感知の視界へと進化を遂げたともいえるわけね。
悪いんだけど、この解釈は、あなたの脳内でしか通用しない。事実性に欠けるから。 空想したものを他者に見て欲しいというのはわかるんだけど。
いや、漏れは応援してるぞ (ノ∀`)シ
読んでないけどがんばれ!
何考えて書き連ねてるかわからん ちょっと怖い
この解説、永吉氏 独自の解釈であって、林檎の歌詞そのものの意味ではない、と理解した上で読むにはおもしろいかも。 ちなみに、この解釈、椎名林檎本人にとってはただ苦痛でしかないだロウな。これは絶対に100%確信できる。 >>永吉さん 林檎タン、これ見て、かなしんでるよ。それでも続けたいなら、貴方の自由だけど。
じゃ、俺がポルターガイストって事で。
259 :
名無しにして頂戴 :04/05/17 05:43 ID:i0SCevjU
矢沢永吉きもいよ。ってゆーか、なにがしたいの。 かなりの暇人だ。奈にしてるひとですか?
【「ポルターガイスト」の対の位置にある、 「ドッペルゲンガー」の解釈をする段になって 「夕暮れ―泪雨」の対句提示の感覚を冥府的だとした 『ユリイカ』拙稿の真意を問われる】 また難儀なことを(笑)。ともあれ質問に応えましょう。「今日は―然様なら」「愛してゐる―大嫌ひ」という 一見明瞭な反意対句の取合せでは、実は「世界」の座標軸は壊れない。 あるものと、その反対のものが単純に指示できる世界は、それなりの明徴性につらぬかれているということです。 ところが、反対でないもの、もっというと類似するものに「反対」「対立」を認めてしまうと、 世界の現われが妙な感触で変貌してゆかざるをえない。ここでは、明澄性そのものに一種の「微分」が起こり、結果、 定義できない中間領域――それをメランコリーの馴染む「夕暮れ」領域と定義してもいいですが――これが拡大してきてしまうからです。
そこで冥府。冥府とはむろん死後世界だけれども、冥府の語自体を僕は、天国と地獄、 それぞれの属性を洗浄した、「中間的」な統合名詞だと考えているんです。 宗教的な座標軸に乗っかる「天国」「地獄」と、乗っからない「冥府」。 だからこの曲のラストの詩句は、僕は「其処は天國」ではなく、 「其処は冥府」とするのが正統だとおもう。 不勉強でダンテやミルトンについて僕はここで語れない。ただ、全体構図のなかから、 彼らは生の世界の向こうに死後世界をおもいえがいているのではないか。 「天国」「地獄」はキリスト教、「冥府」はギリシャ神話的とすると、 彼らの世界観は前者にもたれて構築されている。ただ、むろんキリスト教自体が 中間的な死後世界を設定している――「煉獄」(れんごく)です。だから彼らが「煉獄」を語るとき、 たぶん記述がキリスト教以前に接近してくるだろうことも、容易に予想がつく。
僕は『ユリイカ』の原稿ではしめさなかったけど、 「苗床―赤の他人」という反意対句もすごいとおもう。 これにも「他界」からの大俯瞰視線を感じる。しかもこの一句で、 ひとつの苗床に植えられたそれぞれの稲がたとえば家族成員を構成するといった、 家庭にまつわるもろもろの「約束」が一挙に瓦解する感がある。 けれどもさらに無気味なのは、視覚像としては、他人のようによそよそしい集合として、 稲が風に揺れている幻がそこに残ってしまうんだね。で、ヘンなことすら考える ――「間引き」はあったんだろうか、などと。 「間引き」はみえないけど、間引きの「馨り」が漂ってしまうということ。
「間引き」といえば寺山修司の作劇要素のひとつだけど、 彼はいくら幻想を前面化しても、ほとんど世界像が定着的なままで微分化・中間化されないんだ。 葛原妙子とか林檎はちがう。たえず、ゆらぎだす。 大体この「ドッペルゲンガー」だって、寺山的な仕掛けの明示性がない、だって歌詞の表面上は、 いっさいドッペルゲンゲルが現れないんだから。多くの聴き手はここで踏み迷うことになるんだとおもう。 だから僕がしたように、反意対句の併置が、主体とドッペルゲンゲルの関係の 変奏だと考えなければならなくなるんだけど、その一点から林檎は、 人間の世界像の歪形(わいけい)を図っているんだね。そのように歌詞は、戯れた呟きのように見えて、 並々ならぬ着想を孕んで(はらんで)います。ただ、明瞭性をこれほどまでに奪ってしまうと、 歌詞はポップソングの要請から外れてしまうのではないか。けれどもその反対与件として曲調があるんだね。 僕は曲想がすごく「可愛い」とおもう――女のコのように。ホント、Aメロはわらべうただ。 そしてその曲想に乗ったとき、意味結像性のひくい呪文=歌詞が、さらに上位次元でポップ化する「逆倒」が起こる。 この「ドッペルゲンガー」はそういう構想が凄いんだ。僕が「宗教」と並ぶ名曲とするのは、この理由からです。
【「ドッペルゲンガー」の曲構造について】この曲の、速度を変えたAメロの「ロンド」のような 追いかけっこは、幻像と幻像の舞台登場、その魔術的な「入れ替え」をここでは意識しているとおもいます。 「回転舞台」が感じられる。で、この音楽構造からも、題名「ドッペルゲンガー」が現れてくる。 幻像と幻像の入れ替えは、ある座標に視点を設定すると、 自己と自己幻像(ドッペルゲンゲル)の入れ替えにしかみえなくなるという認識の魔法が起こるから。 そしてこの曲のアレンジにはギミック的に「シズル」が登場してくる。そのシズル自体もまた、 ノイズなのに快楽に聴き手を誘うんだけど、これもドッペルゲンゲルなんだね。ということは、 音楽を主情化した場合、その音楽は聴き手にとってのドッペルゲンゲルとして現れるというメタ発言すら ここでできそうな気がします。林檎の感覚は本当にするどい。たとえば反意対句のなかでは「 愛してゐる」がメロディ(音符)にたいして一音多いんだけど、これが「字余り」の怠惰な感覚ではなく シズル感を喚びこんでしまう例がそれにあたります。
Bメロ部分というのは、一瞬、デミニッシュ・コードが入るということもあるし、 曲想としては本来なら林檎の手すさび(イージーメイド)と糾弾される可能性もあるとおもうんだ。 こんな曲想を彼女は数多く披瀝(ひれき)している――それで、Aメロ部分の「新」曲想を「汚して」しまった、と。 ところがよく聴くとちがうんだね。これまでのよくあった曲想とは微妙に座標がズレている。 音のレベルで僕が最もゾッとしたのは、オーバーダビングによる林檎の声の多声性、そのズレたユニゾンから 「ポルターガイスト」「ドッペルゲンゲル」が現れる点と、かつてあった曲想を明示することでかえって容易に 座標転換へと聴き手を導くこの曲の狡智さだったんです。この狡智自体がドッペルゲンゲル的で、感触はサイケをまとう。 大きいのが、Bメロ部分で不協音階的なメロディで薄く遠く鳴っているシンセ・アレンジのオケだとおもう。 あれはストラヴィンスキー的といっていいものだった。それをヘンリー・カウは実際にオーボエや弦などで演ったんだけど、 ここではシンセで音を複合して貼り付けているんだとおもう。すると、ヘンリー・カウよりも、もっと恐怖感覚が増すんだね。 「貼り付け」そのものに、一種の冥府的な「隙間」が感知されてしまうから。で、このBメロの奥で鳴っている不協音階のオケ旋律が、 林檎曲に「ありがち」な旋律展開をサイケにひしゃげさせていることは確かなんだ。 サイケは時間論的には無時間的なんだけど、空間論敵には界面重複の異常なんだよ。
最後に、この曲は性交もしくは自慰をも示唆しているという見解にたいして、 僕の意見をいっておきます。性交というのはありうるね。構造的にいうと、 Aメ論部分=「反意対句」の連打のあとのBメロはさらに二分されているから。 つまり最初のでいうと、「見えてしまったよ」から「まう罷めるよ」までが反意対句列挙の 「幻像」をみた歌の主体の述壊で、そのあとが林檎の「介入」部分となる―― このときの殺し文句が「樂にしてあげる」「取り憑いであげる」で、これはむろん殺しと同時に、 性行為の誘惑でもあるから。その林檎そのものを「幻像」と捉えるなら性交もまた自慰に変貌するという 理解が生じるだろうけど、内海君はそれとは違った鋭い意見を披露している。 対句の対立が「個」対「個」の同一レベル、もっといえば個の脳の隙間のレベルで起こっている (実際この曲を聴くとそう感じられる)とするならば、性交は自慰に頽落する ――そのようなことを内海君はいったんだ。このようにして現れる歌の様相には別に 「自慰」という言葉をつかわなくてもいいんだろうけど、脳の細部の「擦れこすり」がひとを悦楽に導き、 最終的には狂気に陥れる恐怖は、この歌には明瞭にあるとおもう。僕はこの「自体的」な法悦の印象に、 Aメロ部分のさみしい「わらべうた」のメロディが寄与しているとおもう。 つまり、「退嬰【たいえい)へのいざない」なんだ、この歌は。 「葬列」の死児出産の幻からはじまったこのアルバムの「物語」の、徒労かもしれない「解読」は、 こんなヘンなところに着地してきたわけ(笑)。
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名無しにして頂戴 :04/05/17 13:09 ID:03s0oNMM
どけ!
【9曲目「意識」の解釈】 歌詞最終一行前の「お母様」ではっきり歌の主体と客体が子供―母親と確定され、 そこでたとえば添い寝する同士に想像上の狂気の恋愛が起こり、ついには 「心中未遂」といった凄惨な幻まで喚びこまれたということなんだとおもう。 子供を育てることは一般に母親を追い詰める。その「ふたりだけの世界」に母親が追い込まれると、 関係妄想の歯止めが利かなくなる。 これは猛烈に働く夫をもったマンション暮らしの妻が孤立無援で子育てする過程で陥りやすい病弊で、 このことが社会問題化してからも久しい。子供のペニスを舐め、それが常態化したのち、 子供に性徴が兆し母子相姦に発展したなんて事例もよく耳にします。 しかし林檎は傲慢ではあるよね。このような母子関係の歌では徹底的に「父の影」が無いから。 思いっきり「反映論」的に考えると、もう出産時にはギタリストの夫を完全放逐していたということでしょう。 ここにはある図式がみえる。父の無化は父の「大工ヨセフ」化であり、 自分は処女懐胎したんだという捏造(ねつぞう)です。それは子供のイエス化を導き、 ひいては自らの処女マリア性をも「捏造」してしまう。 林檎は聴き手の「マリア信仰」を唄う自らに誘導しようとしているのか。 で、マリア信仰というのは、スペイン僻地でも中国の景教でも日本の切支丹でもそうだけど、 土俗的なものと即座に結びついて、「異教化」するんだね。東洋ではマリアと観音の弁別がなくなる。 それでマリアが両性具有化する。このレベルまでふくめて林檎が今度のアルバムに かんし「陰謀=迷彩」メッセージを放っていたとするとちょっとヤバい。その意味で、「意識」には注意を要します。
ただ、しめされた見解では、「意識」が題名としてつけられた経緯の把握が 弱いんじゃないかとおもう。いまいったことは、歌のまだ「表面」なんだ。 これまで展開してきたことを憶いだしてほしいんだけど、このアルバムの構造というのは、 シンメトリー上、対にになる曲のタイトルが、その対になる曲どうしに意味レベルでの 相互シャワー効果をもたらしているってことでしょう。「ポルターガイスト」で唄われる 歌のふたつの主体が、シンメトリーの対蹠曲「ドッペルゲンガー」の反映を受けて、 その関係性がドッペルゲンゲル化されるというのはちょっと前に確認した例だし、 「葬列」の現れ方が、「葬列」からそのシンメトリー対蹠曲「宗教」では変化する ということも僕らは確認していたとおもう。 すると、この「意識」とは「迷彩」を張るような陰謀的意識のことなんだね。 で、この場合の陰謀者は誰か――それは第一義には子供のほう、ということになるでしょう。 詩法的に見た場合、この曲の歌詞はかなりヘンです。全体の物語は?めるんだけそ、 個々の詩法にはすごく文法破壊的な曖昧性が導入されている。 僕は最初、なんでこんなにフレーズ細部の意味把握がしづらいんだろうと怪訝(けげん)におもった。
つまり、この歌、「母子一体」を反映して、 歌の主体が二重化されている箇所をふくんでいるんじゃないか。 歌詞二行目「子供と呼べば汚されないで済むのさ」は精確には 「(自分の産んだモノを)子供(我が子)と呼べば、その有産性によって 母親は汚辱の生をお免除される」という意味と、「母親から子供と呼『ばれれ』ば、 子供は子供の座を定位され、どんなに悪心を抱いていても無辜(むこ)を想定される」という 二重の意味をもっているんだとおもいます。 つまり「子供を呼べば」―「子供と呼べば」、「子供と呼べば」―「子供と呼ばれれば」 というように助動詞・助詞を使い分けしなければならないところに意図的な御用を盛り込み、 歌の主体を母子に二重化させているような詩句がちりばめられているんだ。 で、子供は母親と騙し合いをしているという「意識」があるのではないか。 これ、「宗教」の子供と似てるんだよ。母親の溺愛に身を預けながら、 抱かれた姿のまま「観客」のほうに少し顔を振り返り、ペロッと舌を出すような狡賢さがあるんだ。 この子供は相当無気味だよね。三行目「僕に少しの光合成 君に似合ふ遺伝子」なんてどういう意味だろう。 前半からは何しろ母親によってふたりだけの幽閉生活に追い込まれた子供の「もやしっ子」ぶりが垣間みえる。 しかも子供はその植物状の生を、不敵にうべなってもいるという感覚がある。 つまりこいつ、「破滅」したいんだ、ということ。 じゃその子供はなんで母親に「君に似合ふ遺伝子を」なんていってるんだ?つまり母親が自分の子供に、 自分に似合ふ遺伝子を、と願うことなら、論理上ありうるだろうけど(むろんこれも気持悪いけど)、 このフレーズはその「逆倒」だからね。
あたかもこの歌の「僕」は、自分を育てることが母にとって 自分を「産み返す」ことで、その結果、母親は子供からの遺伝子を受け継ぐと いってるような気がしたんです(オレは、乳児がまだ言語を得ていない 喃語(なんご)状態でありながら異様に緻密な「意識」をもっている姿をイメージした ――子供は言語遊戯獲得によって原初的意識の無欠の明晰性を失うという 林檎の「逆倒」の性徴観がここでも透けているのではないか)。 「ヒトは仕様の無いことが好きなのだらう」にある「仕様の無いこと」を、 僕は「子育て(ごっこ)」と取ったんだけど、子供は終始、このように高を括り、 性急に結論を導くような「嘯き」(うそぶき)をしている。 それにたいし母親が「嘘ヲ吐クナヨ」と釘を刺す――しかもこれはたぶん「内心」の呟きなんだ。 子供は母親に溺愛される振りをしながら母親を実質的に支配している――そういう「意識」がある。 母親はしかし、その子供に騙されてやっている――そういう「意識」があるのではないか。 ほとんど諜報戦(ちょうほうせん)のような一対一の幽閉生活。 だからこの歌は怖いんです。指摘されたとおり、「泣いたら何だつて此の白い手に入りさうで」 はすごい歌詞だとおもう。まず最初は泣き顔を自分の手で覆うと、 その手に自分の顔ひいてはその存在全体が「飲み込まれる」イメージがある。 ところが顔と手が同一者のものという確証はないんだね――さっきいったように、 歌詞の各ラインで行為の主体が母―子に二重化されている気味があるから。 だから子供が泣き、その顔を母の手が飲み込んでしまうと考えることもできる。 そのときのイメージもまた、エラく怖いんだよね。
「僕」はやがて子育ての試練を母親に味わわせるために常套句的に 「(第一)反抗期」を「用ゐる」だろう。 母親は無垢の恋人との番いを夢見た「思春期」を、 倒錯的・年齢/血縁無視的にこの乳児の「僕」に投影するだけだ。 それはヒドい相互依存なんだけど、そこで「反抗期」―「思春期」の「語呂合はせ」が成立すれば 万事が安直にOKになってしまうだろ――子供はそうも嘯いている。これ、林檎の自己言及だよね。 『勝訴ストリップ』の3曲目の「弁解ドビュッシー」、その歌詞中の「どうせあたしの人生 語呂合わせなんだもん」を 子供は愛聴しているという含意なんじゃないか。早熟。恐るべき子供。そしてたぶんそれゆえに夭折を予定されている子供。 林檎の自意識はやっぱり途轍(とてつ)もない不安に傾斜しているんだけど、このレベルまで考えてくると、 彼女の母性愛は、僕が冒頭展開したマリア―イエス的な客観性ゼロの傲慢さではなく、「たをやめ」的弱々しさを 漂わせてくるという印象が生ずることにもなるとおもいます。
子供がいう「君が慕ふ思春期」の言葉は、過去を現在に転位する 母親の執着的な生への非難をふくんでいるとおもうんだけど、 これが「思ひ出に酸化した此の含嗽藥」のフレーズへと飛び火する。 薬であったものが思い出の文脈に置かれると「酸化」を来し(きたし)、 ついには毒薬へと性質を変えてしまう――そういう把握が子供には、 ひいては林檎にはあるということ。 で、その酸化した含嗽薬の商品名が「カムフラージュ(迷彩)」なんだ。 これ、香水に近いネーミングでしょう。つまり、黄金の香水をつかって、含嗽をしているような、 突き抜けたような虚飾の生の怖さがここでダブルイメージされるんじゃないか。 僕はランボーの『地獄の一季節』の1フレーズ――「俺は泣きながら黄金を見た。だが飲呑めやしなかった」を ふと想起しました。で、「迷彩」はまだつづく。その毒薬に変質した含嗽薬をつかって母子は「心中未遂」をしたと 一見歌詞は意味誘導するんだけども、よくみると、「心中未遂」した相手とは、「眠らない夜」なんだ。 つまり歌詞は「眠らない夜に心中未遂」ではなく「眠らない夜と心中未遂」となっている。 さっきのランボーを意識すると、ここでマラルメ、あるいはロートレアモン的な不眠強迫への「逆倒」が 起こるんだね。つまり母子は相互に心中を企てたんじゃなく、自らの「自意識」と心中しようとして果たせなかった ――そういう結果を導いたのが、母子のあいだの「相互定位」という魔術的な事態だったんじゃないか。 ともあれこの歌の第五聯の詩的凝縮度は並大抵じゃないとおもいます。 実はサンボリズムの技法をつかっているのに、それは内在化されていて、表に出てきてないんだ。 スピッツの草野正宗の表面的サンボリズムとは度合がちがうんじゃないか。 もうひとつこの歌の歌詞について最後に言及を。「僕に少しの光合成(を)」のフレーズで僕は 乳児の植物状の生を指摘した。それと、「お母様 混紡の僕を恥ぢてゐらつしゃいますか」が遠く呼応している。 この場合の「混紡」とはレーヨンなどの化学繊維のことでしょう。つまり子供は、歌の最後近くになって 、自然植物繊維ではなく化学繊維で組成されている自らの「似非」(えせ)性を自己暴露するんだ。
その子供が最後にいう「君が愛した 僕」というフレーズには、 慙愧(ざんき)から生じた事後性の「遠さ」がつきまとっている。 ここの最後のフレーズだけ、唄われている世界から数年が経過しているような感触がないですか? ここで気味悪いことを考えざるをえない。つまり、この最後のフレーズの時点で、 母親はもう過去のひと――「死者」になっているのではないか。 ちょっと待てよ、じゃオレは「心中未遂」の意味を取り違えたんだろうか――そんな気にもなりました。 「未遂」とは心中において片方だけが生き残ったことを指していたとしたらどうだろう。 子供が実は母親に心中をそそのかす。母親が無理心中を試みる。 ところがその段階で子供が母親がもちだした刃物をつかって逆襲する。結果、母親だけが死ぬ。 ということは、起こったのは、心中未遂というよりも殺人と呼ぶにふさわしい事態なのではないか。 以上、僕がしめしたこの「意識」という曲の「妄想」にも近い読解は、すべて、 この歌の歌詞が曖昧詩法に貫かれていることから起こったものです。 で、「意識」というタイトルの最終的な意図がわかる。 つまりこの歌はまず母子間の言葉には発せられない「意識ゲーム」を描いたものだった。 ところがそれは同時に林檎が聴き手に仕掛けた「意識ゲーム」でもあった――そういうことです。
【「迷彩」の歌詞解読について】 「意識」からこの曲へと逆倒的な流れが起こって、 それで最初の隠遁生活の誘い的な呼びかけをしているのがあ母親、 そしてその相手が子供だということにまずなりますよね。しかも子供は「意識」では乳児だったけど、 ここではもうハイティーンになっているじゃないか。 「逆倒」は「砂みたいな意識」のフレーズで「意識」の語が遡行的に入り込んでいる点からも イメージされるとおもいます。僕は隠遁地が海岸とはとらない。ただ、安部公房『砂の女』的な 砂の巣穴だとはとった。「水蜜桃」=「若い女」がいて、暑さ・寒さのある通常世界があるとすると、 隠遁地は砂だけが支配し、無温度的・無時間的だということでしょう。 その無時間性は桃源郷的ともいえるんだけど、それは精確には逆ユートピア、逆桃源郷だよね。 そこでもう老いてしまった母親と長じた息子の騙し合いの「意識ゲーム」が再開される。 しかし今度は無言下のゲームではなく、傷を伴うというレベルと進化(退化)したということなんじゃないか。
この曲、このアルバムのなかで最も意味のとりにくい歌詞だよね。 だからオレも憶測で論じきっちゃう(笑)。意味が不明朗になるというのは、 歌詞のひとつの界面に別次元からの貼付物が乗せられて、地と図の判断ができなくなるということ、 それが曲名「迷彩」の第一義でしょう。で、その貼付物は「青」「色」「白さ」という視覚性をもって 出現するんだけど、それらがどうもこの母子の身体にじかに貼り付けられているような感触が あります。そこで身体そのものが迷彩服化してくるんではないか。 「修正ペンの白さ」は精液ではない。それではフロイト的解釈に過ぎる。 やっぱり過去の修正・消去にこの修正ペンは関わっているんだけど、 それをすると身体に逆に傷が残ったようにみえる――たぶん林檎はそういう逆説を唄っている。
「現状を必死で繕つては剥いだ素肌に恐怖色」。 修正ペンの白が付着した肌からその白インクを剥ぎ取ろうとすると、 地肌までむしってしまう。で、そこから鮭(さけ)の生肉が露呈して、 それも個のアイデンティティに「迷彩」をかける「模様」になってしまうんだね。 ここではもう「意識」のように「君」「僕」の人称は出てこない。なぜなら母・子のあいだに 個別性の弁別がなくなってしまっているからではないか。 肌がむしられて生肉が露呈したのがどっちかわからないとするなら、 それはその双方が生肉を露呈させたということでしょう。そうして肌をボロボロにして、 その砂の世界のなかで母と子供が無差異になる。つまり砂と砂の見分けがつかないように、 母と子の弁別可能性がなくなるのではないか。 「意識」すら「砂みたいな意識」 ――流砂状となって、ただ魂はそこでグラグラという「揺れ」しか 感知できなくなる。この「揺れ」も肉の接触、もっというと交合を含意しているとおもった。 子供はそうして「青年」から「青」の部分を失ってゆく。怠惰にすべてを委ねたために。 ところが、まだ「迷彩」というタイトルの作用力は別にある。このような堕地獄めいた母子相姦の世界 そのものに「迷彩」とタイトル付けがされているというメタ構造がここにあるわけ。 つまり「これは迷彩です」「嘘だよーん」と林檎が種明かしをする趣があるということ。 これは以前の「虚言症」というタイトルの作用力と同じ問題を構成するんだ。
【8曲目「おこのみで」の解釈について】 この歌の主体のネールに塗られる色がなぜ黄金、鮮紅に歌詞の前半後半で分化するかが わからないという質問がありました。単純に考えれば、金色は虚飾の匂いもあるゴージャスさ、 赤は僕がいつもいうように、林檎の場合は、女性的な生理の等身大の発露にすぎないでしょう。 林檎はこの歌でも「虚構みたいに真赤の」とうたい、以前も「赤い嘘」とうたっているけど、 その嘘が嘘とバレる女性的虚弱さを、いわば真実としていつも逆説的に示唆しているにすぎない。 そのような属性を意識したうえで、金色のマニキュア(ペディキュア)をした「私」か、 それとも赤のそれをした「私」か、そのどちらかを「おこのみで」選んで、というふうに 歌がそそのかしているだけでしょう。しかも「処變はればお相手も變はつて往きます」というように、 女は通常、自分のイメージを金色(豪奢)と赤(切実=赤心)に使い分ける狡賢さをも、もっているんだけど、 この歌は聴き手には、そうした使い分け全体を、俯瞰させるような視界をあたえている。 その証拠に、金色/鮮紅に分けられた前半/後半で、林檎は歌唱法を変えているわけだよね。 前半はゴージャスでジャジィ、後半はだんだん進むにしたがっていよいよ「女の子」的な弱さが露呈しだす。 つまり、「金色」の虚飾を剥がされて剥き出しになった「赤」は限りなく弱い、という認知でしょう。 その場合、ある色のエナメルを塗られた爪の数が5→10→20と増加してゆくのは、 一種の歌のランニングタイムの刻々の表示にちかいものだとおもう。 だからその解釈に異形性の察知をするのも無理なんじゃないか。 5は片手の爪の数、10は両手の、20は両手両足の爪の数というだけでしょう、やはり。
僕は林檎固有で、かつ「新しい」作曲がみられたのはこのアルバムでは 「宗教」「ドッペルゲンガー」だけだとおもっているから、この曲の作曲能力は買わない。 それとジャズ唱法もほかの曲の法がいいとおもう。こんなふうにいうと、この曲、 まったくつまらないといってるようだけど、アルバム全体の連関のなかに置くと、 またちがった意味をもちはじねるんです。そこで着目しなければならないのが、 金色パートの「愛したひとは貴方だけ」と、赤パートの「愛と謂ふ言葉が嫌ひです」という、 この歌の主体が相手にいったと想定される括弧つきの科白。 「愛したひとは貴方だけ」はゴージャスを装った女が相手に漏らした虚言ではないか。 もともと歌謡曲の歌詞の定番フレーズだし(園まりが唄い、坂本冬美が忌野清志郎と細野晴臣による、 ストーンズのカントリー・タイプ・アレンジのバッキングでカバーした「逢いたくて逢いたくて」の モロ第一行目でもあります。『日本の人』収録)。
この歌の主体は相手に自らをあたえても(差し出しても) 何らの真実にもいたらないという諦観(ていかん)に包まれていると 僕はイメージしました。だからその科白が虚言と響く。 いっぽう「愛と謂ふ言葉は嫌ひです」(これは70年代の因幡晃のフォークなんかに 出てきそうな歌詞だ)は、愛をもとめる自分の乞食根性を疼痛(とうつう)として 自覚している言葉だから逆に真言として響く。で、歌詞最終四行の再コーラス部分は、 その科白をわずかに言い換えただけの科白が登場しただけなのではないか。 前者は過去形が現在形に変わり、後者では「嫌ひ」が「不要」へと変化したんだけども、 僕はそこに林檎が大した意味を負わせていないという気がする。 むしろこの部分全体の時制が問題なんだ。つまりここは「金色」と「赤」が融合、不即不離になったステージを 示唆しているのではないか。言い換えると、歌の主体は、金色と赤とに自分自身を使い分けたつもりだったけど、 結局、その使い分けは、巨視的にみれば本質的な差異がなかったということだよね。 その点は金色パート、赤パート、それぞれにもう予感的に現れてもいる。 金色パートの「燃ゆる頬今宵は果實色に」は赤面の赤を印象づけるし(むろん「燃ゆる頬」は 堀辰雄の小説名の借用だけど、そこには堀的繊細さへの揶揄(やゆ)が隠されているんじゃないか、 いっぽう赤パートの「日向の意圖か熟れゆく羞恥心のお庭」は赤面の次段階としての 「黄金化」を僕はイメージした。それと金色パートのゴージャスな存在でも 爪のエナメル塗りは相手任せの受動性に貫かれているし(「従服」という「服従」の転倒語もあるけど、 これもジャズをズージャ、ヨーロッパをパッチョロというがごときジャズ・ミュージシャン風の転倒ジャーゴンを 意図してるんでしょう)、しかも感極まって「過呼吸」に陥るんだから、 実は林檎の歌詞はあらかじめ皮肉を意図していると判断できる。
で、ここでアルバム全体の中の連関が問題になってくるんです。 歌の主体の金色/赤の二面性・双面性は、とうぜん主体とドッペルゲンゲルの関係を、 どっちがどっちともいえないけど、表しているんだということです。 本来そのふたつには差異がなければならない。ところが、それが無差異のなかに融合されてしまい、 その差異→膠着(こうちゃく)→無差異の運動性によって、存在に苛烈な「内破」が起こるんだ。 ドッペルゲンゲルに遭遇した者が死にいたる経緯というのは、おそらく分解的に捉えればそういうことになるはずでしょう。 だからこのゴージャスにはじまった曲は、ラストで破滅の色彩を湛えて(たたえて)くるということになる。 それで次の「意識」の曲頭のノイズ――とりわけそれは過呼吸による窒息をなだめる酸素吸入の音が 中心になっていると僕は取った――へと、音がつながれてゆく。 で、ここで「過呼吸」の裏側に隠れている酸素と、「葬列」の「酸素」が呼応しだす。 「葬列」では酸素は死児を生体化させる要因だったけど、この「おこのみで」では、 生体を死児化させる要因にまた変化しているのではないか。またも「逆倒」ということです。
この歌でとりわけ切なく唄われる一節が、「だつて明日は如何生る身露知れず 果てはたつた一時先の未来」以下二行でしょう。 さすがにここはちょっとゾッとくる(笑)。露と消える身という把握には日本古来の和歌の世界からの反照がある。 在原業平の「露とこたへて消えなましものを」です。で、このように都市的流浪をしている主体とは誰かと考えると、 最初に浮かぶのは娼婦のイメージだろうとおもいます。菊池章子「星の流れに」の歌の主体がふと呟きそうなフレーズなんだ。 ところが、本当に娼婦なんだろうか――そんなふうに、さらに疑義は発展してゆかなければならないだろう。 つまり僕は「男娼」ととりたいわけ。赤パートで20の爪に塗られたカラーエナメルはとうぜんペディキュアをふくむわけだけど、 その接頭辞「ペド」が童児姦を想起させてちょっとヤバいというと、さすがにこれは考えすぎということになるかもしれない(笑)。 ともあれそれもアルバム上の曲連関から生じるストーリー形成のなせる業なんだね。 つまり「迷彩」において母と砂のなかで近親相姦的な相互傷与の地獄を演じた、「葬列」で生じた赤子は、 アルバム内部を逆側から、かつジグザグ状にさまよった挙句、 この歌では男娼に身を堕としているんじゃないかという悪い予想を捨てきれないんだ(笑)。
ただ、そうだとしても、性差の表れが表面的に変化するだけで、歌が抱えもつ意味は一切変わらない。 そこが僕にとっては不満でもあるわけ。男娼もまた徹底的な受身存在になりうるから。 ただ、ここらあたりでアルバム全体のタイトルが『加爾基 精液 栗ノ花』という身も蓋もない(笑)ネーミングに なっている点が顧慮(こりょ)されなければならないのかもしれない。 するとこの歌の主体も、林檎が産み、将来は男娼に身を堕とし、苦界を彷徨するだろう子供と捉えるべきなのか。 その意味では貸しにこれみよがしの「菊」とかが入っていればよかっあ(笑)。 それともうひとつの不満は、歌の主体が自分を差し出すときの暗喩表現に「破礼句」(ばれく)感が林檎にしては 以外に薄いということです。唯一、「鎖骨のお皿」「注いで」「銘酒」の語の流れに、 「ワカメ酒」的なものを幻覚したにすぎなかった――こういうと絵に描いたようなオヤジ発言だけど(笑)。
【その対となる4曲目「おだいじに」の解釈について】これについては以前にしめした自身の歌詞解釈を、 僕は変える必要がないとおもう。入院中の病者が主体だということです。 ただそのとき僕は入院の要因を自殺未遂といった。 けれども、「おこのみで」を経過すると過呼吸症が悪化したからとも受け取れる。 あるいは、「肌を包むガーゼ」に着目すると、「おこのみで」の男娼が派手な刃傷沙汰(にんじょうざた)を 起こしたと捉えられるし、「肌を包むガーゼは白い嘘」まで判断材料を拡大すると、 この主体は病者を装うという「病気」にかかった「困ったちゃん」ということになるかもしれない。 以前にはいわなかったことをいうと、「自ら裏切るなら樂をするに限るさ」というフレーズが案外、怖い。 進んで「樂をする」ことが「自ら裏切る」ことにつながるという第一の含意のうえに、 それは「自ら裏切る」ことだから、「樂」は「樂」としてではなく「苦」と して発露するという逆説をも孕んでゆくのではないか。ここには「クレタ人の逆説」的な、 言葉の鏡面反射の無限入れ子状態があり、数学的な無間地獄性が察知されるとおもう。
二聯目は、ベッドに固定されつつ「身体も未だ自由が利く」「氣持ちは晴れ」た歌の主体が、 想像裡に描いた彷徨の様子を表しているとおもいます。 「覚えた儘 内緒の地圖で雨の中を出掛けやう」には歩いてゆく 主体の身体的切なさが転位されていて、とても美しいフレーズです。 この彷徨と、「おこのみで」の「処變はれば」以下、あるいは「だつて明日は」以下の 彷徨をイメージさせるフレーズとが美しく反響しあっている。それとその前 の「手にする貴さ 出来ぬ尊さ」も哲学的に深い。所有は大切なものを把持できる可能性を導く限り、 人間の一般的な欲望として肯定されるけど、非所有は人間性を超越した真理に導くとでもいった、 老荘的な東洋哲学にこれは翻訳できるでしょう。 それをこんなに少ない言葉数で表現できる林檎の言葉の圧縮力は只事ではない。 ただ、その前のフレーズ「氣の果てまで同じ風が馨つたら善い」が実はこの直前まで僕の述べていた 「意味の肯定性」を微妙に覆す効果をもっているんじゃないかとおもいます。どういうことか。
このフレーズにはまず空間はすべて同一性の延長だという絶望が蔵い(しまい)こまれているのではないか。 その奥の奥まで「同じ風が馨ったら善い」と願うのは、ニーチェ的にいえば病者の救い難い虚弱性の表れだし、 何かそれで世界が気味悪い同一性のなかに完全収束してゆくような不穏な感触がある。 しかも「氣の果てまで」という言葉は、そうした世界空間を、「氣」の一字で 客観的なものから主観的なものにスリ変える効果をもっているんじゃないか。 林檎は、「地の果てまで」というべきところをズラした。すると人間の主観性は同一性の連続として病的に 組織されていて、遂に異質なものを取り込めないという「万物不一致の法則」がここでも 滲みだすような感覚になる。その病性にたいし、「守るものは護るさ」といってるんだ。 病性を守る。結果、自己を護る。病性はトートロジーのかたちで反復され、 そうして世界(の病性)が温存されてゆくんだ。だからその意味では「おだいじに」は歌の主体のみならず 世界に向けられた言葉ともなりうるんです。「絶対諦念」ともいうべきものが歌の底に隠されている。
そのときにこの歌の主体は、自己尉撫的に「大人だから[…]唄ふ位 笑う位許してね」といっているんだ。 このときさらに「逆倒」が起こる」これはもしかすると、絶望を所与とした、 ものすごく力強い意思表明の歌なのではないか。歌は「死の馨り」がして無気味です。 歌の静謐(せいひつ)さがそのまま死の感覚を指標している。だけど、その呪縛を解き放つ力をもまた、 この歌は内在させている。その意味では、この歌の作詞法は奇蹟的な域に達していると僕も結論せざるをえない。 じゃ、曲はどうなのか。これはやはり、どんなに美しくても、 クラシックの素養のある林檎なら軽い手捌き(てさばき)でつくれる曲じゃないかとおもうんだ。 その「軽い手捌き」の感触が、愛聴を導くということはあるだろうけど。林檎のピアノ演奏は確かにいい。 子供の声の小さなノイズと、トレモロをしたように聴えながら長く伸びてゆく遠いギター (「E-BOW」っていうエフェクター名なのか――勉強になった)も素晴らしい。 歌唱も林檎の弱い声が弱いまま、「自分自身として」合致し、 そこで真摯な響き、エロキューション、震えというように、多彩な展開が企てられて、 これは絶唱と形容すべきなのかもしれない。
ただ、僕はやっぱり曲に、それまでにはない「新規さ」がほしかった。 というか、この曲では美しさが美しさのまま終始するのではなく、 最初の美しさがやがては無気味なものへと転調してゆくような過程が聴きたかった。 そうしなかった分だけ確かに愛唱性は備わったんだけど、そんな「渚にて」みたいなことは 林檎には僕はあまり求めていない。この曲のシンプリシティはだいぶ以前に指摘されたように、 『ジョンの魂』的な禅的境地を目指したのかなあ。でも、何度もいうように、 僕はアルバム冒頭から生じた予感によって、ここでは『サージェント・ペパーズ』、 あるいはサイケをもとめていたんです。「氣の果てまで同じ風が馨つたら善い」の 「無空間」が「無時間」に発展してゆくような楽曲を林檎は達成できなかったのだろうか。 その意味ではこの曲はミニマルだよね――わかりやすいほどに。
元の英語の方の意味が知りたい
>>286 「蔵(しまい)いこまれている」にワロタ。
つか、カルキは全曲「蔵いこまれている」w
将来子供が曲を聴いてどう思うんだろう。母子相姦。 もちろん、空想だろうけど。 空想だけど、まるで、映画みたいなじゃなくて手作りの物語みたいな。 いままで、ノンフィクションの曲を作ってきたから、 今度は重くて軽いフィクションの曲を作ってみたのかな。 正しい街は、フラッシュバック効果をもたらしてるけど、いったん林檎は東京に上京して 寂しくなったから故郷に帰ってるそうです。 「君に涙を教えた」は男性が言ってる言葉になるそうです。 たぶん、上京前に言った言葉かな。あと、ストイシズム最後大丈夫とかよぉ?って言ってるらしいけど、 どう聴いても大丈夫なのぉ?って、言ってますよね。 加爾基は、色んな解釈されるからいっそのこと、訳わかんなくしちゃえということで作られたそうです。 結果的に訳わかんなくなっちゃったのかもしれないけど。このアルバム贅沢ですよね。 おもちゃ箱みたいな。別に母子相姦なんて考えなくてもいいのに、このアルバムを通して考えてみたり。 私は、男性間での上司と部下みたいな感じで、下剋上を想像して聴いてます。気持ち悪いけど。 お前はもう死んでいる(終わっている)んだから早くここから立ち去れよというような。 加爾基に限らず林檎の楽曲。自らの恋情を投影するのも恥ずかしくなってきました。 ポルターガイストは、子供が死んだことになってるけど、解説にもあるけど、 「君」=母が死んでいるような気もします。そんなに、子供いいのかな。 子供産むの怖いし、子供と遊ぶのも決して得意じゃないけと、子供持ってる夢も見るし、 ちょっと欲しい男の子。楽しそうとは言えないけど。歌姫は男の子を産むよね。 女の子を産んでれば幸か不幸かこういう楽曲出来てなかったんだろうけど。 結果的にはよかったですけどね。 でも、加爾基 精液 栗ノ花を男の人が何気なく椅子に座りながら聴いてたとしたら、 その情景も悪くないですね。すいません、うっとうしいかと思いますが引き続き何卒、
そんなことより輪廻ハイライトの歌詞の意味キボンヌ
【7曲目「とりこし苦労」の解釈】 「とりこし苦労」は「昭和歌謡」の目立たないテクノ化(サンプリング化)という発想による曲です。 和田アキ子でも朱里エイコ、70年代初頭当時に、たぶん「ブルージー」を意図しただけのこんな曲調の曲が アルバムに紛れこんでいたんじゃないか。ただしシングルには切られなかった――理由はカラフルさに欠けるから だとおもう。この曲を「無機的なレインボーカラー」とするのは何かの誤解ではないか。曲が単調すぎるんです。 むろん二度目の「えゝい儘よ」の聯で林檎が順に同じフレーズ「ミラシドミ♭レ」を弾く楽器の七変化を意識して その発言がなされたとおもう。僕が聴いた感じでは、楽器変化はこうなる――「鍵盤ハーモニカ」「琴」「カリンバ」 「リコーダー」「エレキギター」「琴」「カリンバ」「口笛」の計八回。 これはワンマンバンド系の音楽家が次々と忙しく楽器をマイク前に持ち替えて演奏するコミカルな様子を パロッているんだとおもいます(むろんサンプリングによるんだけど)。 ただサンプリングはそういう領域での活用にむしろ固定されているので、 僕は「やつつけ仕事」よりも「目立たない」という判断をくだすんです。この曲の歌詞は意味がブレない。 つまり愛する男への女の懇願と、その際の自棄(ヤケ)気味の自己放棄、 それと相手へのあられもない依存や傾斜「のみ」を唄っているということです。その意味で「綾」がない。 それに語法も萎縮(いしゅく)し、かつ平板で、僕はベッドのあるような空間での エロチシズムもぜんぜん感じなかった。「燃盛る様 爪 熔けにけり」など語句の凡庸さ。 それに若干混ざる古語動詞も僕には子供が無理にひねりだしたように稚拙におもえる。 俵万智が万策尽きて口語短歌から歴史的古語をつかった和歌に衣替えしてその教養のなさを 問わず語りしてしまった90年代初頭段階をおもわせるんだよね(笑)。僕は高度な喩法をもつ 「宗教」「ドッペルゲンガー」「おだいじに」とこの曲が同一人物の作詞によるものとは 到底おもえなかった――だから単純に嫌いなんです。その意味でも「文体」の語がこの曲の説明に 当てられるのを僕はよしとしません。
で、この点が逆にいうと、この曲が「開かれている」ということになる。 つまり、曲調が昭和歌謡をかたどることで難解さをもたない――そして歌詞も 一律に女から男への依存を唄うことで通用性がある――こうした貧しいほどの イージーメイドさは、とうぜん曲の受容の裾野の広さを呼び込むのが通例なんじゃないか。 むろんここには「やつつけ仕事」でチボ・マットの音楽に比定できたような、 分解的・機械論的な少女性サンプリング音楽の過激さすら影を潜めてしまっている。 発想は凡庸、演奏にも盛り上げの欠落が、厭な感触で覆っている。 ただ、これまでの僕らの文脈から推せば(おせば)、 「とりこし苦労」で「あんた程の 男等[など]居らぬ」というときの[男]は 林檎の赤ん坊だという判定になります。林檎はもともと盲目的に男に?拝するには 自意識がつよすぎる女だったはずです。「ここでキスして。」でのキスの懇願さえ、 暴力的な視野狭窄と「自己チュー」的=病的「思い込み」から結果されていて、 女のヒステリックな懇願が、攻撃性にすりかわる瞬間が唄われていた。 その自意識の亀裂が唄う林檎自身に逆流するような惨めさを感知できたから、 「ここでキスして。」は、唄いぶり・見事な転調、それと清冽なトラッドへの参照と 相俟って(あいまって)「泣けた」んです。そんな林檎の男性観を例外的に武装解除する 「男性」=「あんた」とは、実は林檎の自子しかないのではないか。 そして「あんた」=林檎の自子と見立てたときのみ、この歌の「貧しさ」が批評性を獲得することになる。
つまりそれは、この歌が母性の貧しさを撃つという意図をもっていたということです。 思春期に異性に惹かれたように、母親が息子を再帰的に愛すること。 それは多くの母親にとって確実に、発生的に反復される営みでしょうけど、 その反復を林檎は貧しいといっている。ただこの点の示唆が、「意識」にあったような、 「君が慕ふ思春期と 僕が用ゐる反抗期」のような高度で圧縮的な詩句によって 唄われていないのが不満なんです。そうした場合、一箇所だけ歌詞に問題が出ます。 最終行の「こんなことにまう 口は使わぬ」がそれです。 つまり、愛の懇願を語るためにもう口は使わないと歌はいっている。 では口は何に使うのか――僕の考えではそれは「フェラチオ」ということになります。 でもこの歌をラヴソングととxちた場合は、そうなってもそんなに不穏な意味は形成しないとおもう。 若い女の子が「フェラ」「フェラ」という気軽な時代だから(笑)。 ところがこの歌の「あんた」を林檎自身の息子ととった場合には、むろん妖しい逸脱が起こる。ヤバくなる。 母子相姦が息子が用事のときの陰茎しゃぶりから始まることがあるという点は以前にも 話題に出した憶えがあります。
メロディの唄いだしの「えゝ儘よ」は不見転(みずてん)の精神的「飛躍」と その際の抵抗感をしめしている。その抵抗感が「苦労」だけど、対象を溺愛すれば、 対象もまた簡単に自分になびくという高の括りがある。 だから「苦労」は「とりこし苦労」になる――単純に考えれば、題名はこうした 精神的頽落の領域に自虐的にまつわっているだけです。そして、この曲の反照を受けて、 「やつつけ仕事」で唄われる疎外的日常が「子供とふたりだけでいる日常」に、 そして「やつつけ仕事」の「仕事」もまた『絶頂集』段階の「音楽活動』から「家事」や「子育て」に スリ替わるという意味変貌が起こるのではないか(あまり魅惑的な意味変貌ではないけど)。 ともあれ、僕がこのアルバムを最初の聴いた段階では、歌詞の意味結像性が 曖昧模糊としているというふうに判断した箇所がすごく多かった。ところが座談会冒頭での「母子の示唆」、 その導きのあかげで、ほぼ、そうした曖昧な部分を払拭(ふっしょく)できたとおもってるんです。 死児が出産されることで生体にスリ替わるというふうに「葬列」を解読した点が大きい。 それで全体がみえた。つまりアルバム全体の意味性は、「11―1」―「10―2」―「9―3」―・・・・・・と いうように対構造・逆倒・遡行という諸要素を組み合わせた運動から生じているという仮想です。
むろん聴き手はこのような順序で曲を聴くわけではない。 曲を飛ばさなければ、「1・2・3・4・ ・・・・・・」という正順で聴くに決まってる。 ところがそのような順序で繰り返し聴くうち、聴き手の無意識にはヘンな抵抗が生まれてくる。 けれどその抵抗の実質をなかなか言い当てられない。つまり聴く行為のなかで何かが 対構造として感じられ、何かが逆倒として感じられ、何かが遡行(そこう)として感じられる―― それは長い間そうした気味悪いだけの、予感化された感触のままとどまるとおもうんです。 わかりやすくいうと、1曲目を聴いた記憶が11曲目を「いま」聴いている感覚に作用しているんだけど、 その作用の性質を言語化できないように。ただ、11曲目が1曲目を指向している ――その「事実」にのみ虚心坦懐に向き合ったとき、11曲目で察知した主人公を、 1曲目の主人公に「代入」してみようという創造的聴取が開始されるのだとおもいます。 そのような手続きを繰り返すと。このアルバム全体が急速に、くっきりとした意味によって 分節されてくる――僻目(ひがめ)かもしれませんが、この座談会がここまでしめしてきた 旅程の見事さはすべてこうした確認のうえに則っていた点にあったとおもうんです。 そうしたときに、この「とりこし苦労」と「やつつけ仕事」の「対」のむなしさがとくに引っかかってくる。
僕の感触でいうと、「葬列」―「宗教」から「おこのみで」―「おだいじに」まで、 その対構造から生じる意味形成は実に濃厚だった。ふたつの曲が取り合わされることで生じる 「反照」の効果が、それぞれの曲にさらなる意味の「シャワー」を付与したという意味では、 対構造そのものが実体的・実定的だったとおもいます。 ところがこの「とりこし苦労」―「やつつけ仕事」にいたってその対構造は意味の加算ではなく減算を喚びこみ、 その意味では対構造事態が「虚体的」なものに変貌するんです。 これは何か――僕はこうイメージしました。アルバムは全体が同心円構造になっている。 その最も外円は、11曲目「葬列」と1曲目「宗教」の対構造そのものの連動性で、それが円周となっているといこと。 そのひとつ内側の円が同じ意味で、10曲目「ポルターガイスト」と2曲目「ドッペルゲンガー」のつくりだす円周となります。 そうして中心に力動が移ってゆくとすると、むろんその中心をなす曲として6曲目の「茎」が発見されることになる。 ところがそうして「茎」を取り囲む円が五重の実線として表現されることを林檎はアルバム完成にいたる直前の段階で 厭った(いとった)のではないか。見抜いた者にはアルバム空間が実体的な構造として捉えられてしまうことになるから。 それはこのアルバムが全体で意図する「さかしま」の世界にふさわない。だから「茎」にいたる直前の最も内側の 「とりこし苦労」―「やつつけ仕事」の円を林檎は破線で描こうとした。それにより、「茎」という曲の導管現象を高めようとした。 最も好意的な解釈をとった場合は、この「とりこし苦労」―「やつつけ仕事」の「対」はこのように解釈されるんだけども。
test
このままスター生活というだけでいいと 思うのですが、この方はそうはいかないようです。 【『絶頂集』バージョン「やっつけ仕事」について。 あるいは倦怠の速度化について】『絶頂集』バージョンの 「やっつけ仕事」は林檎の歌曲・演奏のなかでも 白眉を形成するものだとおもいます。「やっつけ仕事」は、 詞法がたとえば『加爾基 精液 栗ノ花』収録の他曲とは 著しく異なっている。意味把握が容易だということです。 つまりスター生活、もしくはもっと一般的な現代生活のなかで 多忙と自己疎外、さらには不感無覚を極めた歌の主体が、 「痛い思いをしたい」「機会になっちゃいたい」という 相反的な願望を抱き、さらに「引き裂かれ」の状況を 亢進(こうしん)させてゆくといった程度でしょう。 このアイデンティティ・クライシスをめぐるシンプリシティは 愛聴性の一領域を形づくるだろうけど、実はこうした 歌詞世界自体には、僕はさほどの魅力を感じていません。 つまり一般了解性がつよすぎるし、主題が文学的な意味で凡庸、 ということです。
ならば、『絶頂集』バージョンのどこが凄いのか。 通常、アンニュイ=倦怠はテンポ上は「遅滞」として 表現されるのが常なのに、ここでは速度感もしくは 加速感として逆説的に表現され、結果として或る 「鬼気」が確実に生じていたためでした。これ、 実はロックンロールの曲構造・コード展開とは 関係ないんだよね。R&Rは欲求不満や不如意などへの 怒りや自棄を情動化し、場合によっては社会的な 異議申し立てをおこなうのが通例です。
つまり「倦怠」に関わる感情というのは、 R&RのA−B−A−B−Cの曲構造には乗りにくく、 その自乗的な速度昴進にも乗りにくい ということです。むしろ倦怠は非反復展開 あるいは完全同一反復との親近性をもっている。 だからルー・リードの「キャロラインの話2」でも ジョン・レノンも「アイム・ソー・タイアード」 でも浅井健一の一部の歌曲でも「倦怠」を 表現するときには、ロックアーティストは ロックンロールとは別構造の曲をもちだしてくる。 ファドも日本のジャジィな演歌もあれば、 ボサノバだってある。そしてボサノバにいたり、 倦怠は速度化してくるから。そこまで考えれば、 実は倦怠はどんな型の音楽にも呼び込める感情 だったんだとわかる。ただナイーヴな ロックンローラーやパンクロッカーは それを知らなかった――そういうことね。 そう、ゆら帝はロックンロールと倦怠を 簡単に結びつけることのできる、 その意味では凄い才能です。
曲頭「毎日襲来する強敵電話のベル」のメロこそが、 もうこの曲の「命」なのではないか。 この部分の音階・曲調には穏当な発想では ないものがある。つまり通常なら全音展開される 部分が半音にズレているんだよね。僕はこの曲、 林檎はピアノをポロポロやって、コードつきではなく 単音の主旋律展開としてまず作曲発想したのでは ないかとおもう。そのとき林檎の指は、白鍵に 置かれるべきところで、黒鍵のうえを多く さまよった。その結果、短い単位主旋律だけど、 そこにはミステリー感、倦怠感、そして異教感、 さらには「ヘンに可愛い」感じすら出た、 ズレて壊れているような脆い(もろい)感触が 曲調にあるとおもいます。 これ、音程の危ういひとには、唄うのに苦労のある メロ展開じゃないかとおもう。しかもこのシンプル にして複雑なメロに林檎はさらに異化効果を乗せた。 つまり演奏時にはそれを速度化し、同時に荒々しい リズムギターの導入により、パンク化したんです。 結果、さっき僕がいったような、「倦怠」と「速度」、 さらに「鬼気」が矛盾ではなく統合としてみえる ような至高点(ブルトン)を獲得したということ でしょう。一曲が魔群的な音の塊として耳を通過 してゆく際の戦慄と血の騒ぎは只事ではないとおもいます。
で、倦怠を唄う女性歌手の瞳は通常は暗く輝くか、 ある種の冷笑をふくんでいるという共通認識が あるかもしれない。ところが林檎は自身への 歌への憑依(ひょうい)を完成したときには、 一種、威嚇的な閃光を放つ。眼瞬き(まばたき)が なくなり、邪眼化してくるんですね。精神分析的には ヒステリー類型を感じるゆえんです。 ただこれが習いとなりパターンを見抜かれると、 つまらないものになる。実は、「睥睨」(にらみつけ)は カリスマ性とは無縁だという認証が僕にはあるので。 ところが、林檎の白眼剥きやガン飛ばしは、いつも内向化の 局面をも同時に迎える。そのとき彼女は自身の性的鉱脈を 掘り当てたかのように、抒情性の文脈で、「性化」「女性化」 してくるんです。結果、瞳の光が内側を向き、その輝きが 暗くなる。これこそが、彼女が音楽存在に完全変身したときの 視覚的兆候ではないかとおもうのね。そのときの彼女が 僕はすごく好きです。思想的な意味でもエロチックな意味でも。 林檎は女であっても、自らの「性化」のため「泣き」を 利用しない。僕は「発育ステータス」のライヴ部分の彼女をみて 、 だんだん林檎の顔が汗で光ってくるにしたがって、 彼女の性的絶頂を垣間みてしまったというようなヤバいものを 感じました。動悸した。イコンとしてその顔をみせることについて、 林檎自身がすでに自覚的だとおもいます。 ただ、そのエクスタシー段階の彼女は、一種、「人間」領域を超えて、 「半獣神」になってしまっている。
周知のように、半獣神=牧神は淫猥(いんわい)で 処女凌辰をも施す悪を体言する一方で、音楽の神でもある。 唄ひ手のそのような「半獣神性」が見えたときには、 歌・演奏はその歌詞の文学的意味などを軽く超越し、 ある種の外部的強度を達成するということになる (例:モンタレー・ポップフェスでのジャニス・ジョプリン)。 林檎は日本の女性Jポップ・アーティストのなかで それが可能な例外的存在なんです。 そこでは「可愛さ」「元気」「自己肯定」「共感可能性」 といった、観客からの瞞着(まんちゃく)的な対応を 呼び込んでくるような「わかりやすさ」が消滅している。 外部=強度から裂け目のように林檎「自体」が出現して くるだけなんです。これは作曲能力では林檎と比較的 ちかいものをもっているともいえる矢井田瞳にもaikoにも 存在しない事態です。
そしてシンプルな曲では、そのような林檎の「顔」を、 視覚上感知できるか否かが、感動の大きな基準となる。 で、この『絶頂集』中「やっつけ仕事」ではそれが 確実にあるんだよね。だから、歌詞は、シンプルでも 印象が言語化できないよいう逆倒が起こる。 それは実はパティ・スミス・レベルの海外アーティストでも 僕はないとおもっています。で、この「顔」を強度に おいて感知するという聴き手の想像力が、たぶんこの歌から 「見たことのないような」新しい情感を引き当てたんだと おもいます。それが、「高速化された」「鬼気迫る」「倦怠」。 だからこの歌では感覚を「閃光的」に撃つものがある。 いや、「みたことがない」といったけど、たとえば 「アイム・ソー・タイアード」のBメロ部分を唄う ジョン・レノンの「顔」を感知しようとすれば、非常に 似たものが現れてくるかもしれない。
【『加爾基 精液 栗ノ花』バージョン 「やつつけ仕事」について。 その前に林檎とナンバーガールについて】 ナンバーガールと林檎が、2000年代初頭に どうすれちがったのかという厄介な問題に ついても言及しておきたいとおもいます。 向井秀徳ならびにナンバーガールは、 僕が『ユリイカ』の長論にも書いたように、 インディーズ時代はローファイ・パンクで、 腹にズンズン響くロックを展開した。重くて速い。 ゴテゴテとスッキリの同時実現。しかも ハンドメイド感を至上命題んしていて、 それがたぶん聴衆にも親和性として認知されて いたとおもいます。作曲技法的には「リフ」の 可能性を時代錯誤に掘り当ててゆく点に尽きている。 これは、彼らの最終アルバム『NUM-HEAVYMETALLIC』 でも同じことです――そのリフ部分で「和モノ」的な ギミックが入っていても。で、向井の歌詞はリフのうえに、 メロディをともなった歌ではなく、叩きつけるような 「演説」を載せてゆくような感触があります。 つまりそれは「演説」であって「ラップ」ではない。 そのことで、「ストリート・カルチャー」への 胡散臭い共感の擬態にすぎないJラップを、 付帯的にではあれ、高度に批判したとおもうんだね。 向井の成長過程は、アルバムを追って、曲に使用される コードが多彩化したという点よりも、その歌詞=演説が、 やがて狂言綺語(きぎょ)化に伴って、詩的にレベルの 高い自壊過程を呼び込んでいった点にあるんではないか。 どんどんゴツゴツしてゆく。それでパンキッシュな歌詞を 日本語に置き換える努力が真摯になされたんだと おもいます。
同時に、彼がその活動初期において意図的に 盛り込んでいた常套句(じょうとうく)の安直な引用と、 そのユーモラスなハンドメイド感が次第に失われていった。 それは単純であって、単純ではない。それは文学的であって、 文学的ではない。おSらく「新しい情感」にとても 敏感な林檎は、向井が生得的に生み出してしまう、 そのような構造の逆説に瞠目(どうもく)したのでは ないかとおもいます。しかも作用は結果的に複雑でも、 その「入り口」にはシンプリシティと情動化が 仕掛けられている。この向井の才能を一言で表現するなら、 神が味方についているような漢字、だということでしょう。 あるいは「筋がいい」とか。僕も向井秀徳の「気」や 「剣豪っぽい」ところが好きなんです。で、曲づくりが 構造的に複雑さを導き、同時にその歌詞が喩の形成力から 離れられない林檎は、明らかにナンバーガールに接近して、 その富を自分に転与しようとした時期があったとおもいます。 『勝訴ストリップ』「罪と罰」でのベンジーへの協力依頼も そもそもは同じ文脈にあった。ところが林檎は向井という中心を なぜか避けた。「発育ステータス」ではナンバーガールの ギタリスト田渕ひさ子とコラボレーションし、ナンバーガール的な ギターリフにもっと「宙に浮いたような感覚」を与えようとした。
あるいは、指摘されるように、今度の 『加爾基・・・』では、ナンバーガールの 元ドラマー、アイザワ・アヒトの参加がある。 白状すると、今度のアルバム発売前に関して その情報告知やインタビュー記事を一切 読まなかった僕は、アイザワ・アヒトの参加 そのものを知らなかった。 その事実を確認してみると、 このアイザワ・アヒトの起用はわりと 微妙な文脈だよね。確認したように彼の入っている 「意識」「迷彩」は、ともにジャジィな歌曲だった。 アイザワのドラムは、ロック的にドタッドタッとやりつつ、 実は曲演奏のスピード感からは外在していて、 リズムの枠組を消極的につくっているにすぎないと 僕はおもう。ただ、アイザワはそれをしなかった。 あるいは林檎がそれをさせなかった。 むしろジャジィな歌曲に、ナンバーガール的な ドラミングを加え、ミスマッチを実現させたかった んじゃないか。そのとき林檎のなかには ナンバーガール的なものにたいしての 貶価的(へんかてき)な眼差しが胚胎(はいたい) していたんじゃないかという邪推すらできそうな気がします。
あるいは曲調がナンバーガールにはない「半音」を 孕んでしまっている。さらには、林檎自身の歌声は 最初は倦怠の凄みをもってはじまるのに、 曲が終わりに近づくと、「少女的な」悲鳴や悲哀という 属性をも分裂的に表現しはじめる。つまり彼女の場合は、 声が自然に「展開」してしまうんだ。これらが、 ひとつの線分(シャウト)だけで自在な表現が可能な向井の 「筋のいい」個性とは烈しい離反点をつくりだしている。 あと、言い忘れていましたが、「やっつけ仕事」の「命」は その主旋律とともに、もうひとつあります。曲中に出てくる 「或いは目合いを以て営んでなんて目論んで居ないか」の フレーズがそれ。改めてカタカナ表記すると、 「アルイハマグアイヲモッテイトナンデナンテモクロンデイナイカ」。 「ナイ」「ナン」が一種フランス語的にリエゾンしてます。 その前段では不思議に話の合う男の相手に、陰謀的な底意を 感じている歌の主体の感情が歌詞表現されている。 それでこのフレーズ。意味的には眼千両を自負する 自称・美男子が、その必殺視線の光線で林檎にコナをかけ、 あわよくばそのカラダを手に入れてしまおうと 狙っていることは、アタシ自身、知ってるわよ、 程度の意味になります。「目合い」を「マグアイ」と 読ませたのが妙味だった。「マグアイ」は普通は「媾合」 もしくは「交合」と書き、それはSEXの意味になる。 だからダブルミーニングが生じるんだけど、向井秀徳は ダブルミーニングをつかってももっと着眼が 直截(ちょくせつ)で、鋭利な刃物のような感触になる。
この林檎のフレーズのような複雑な翳りを呼びこまない。 で、この音の魔性・反復性・呪文性のなかに、 治癒不能のような「倦怠」が潜んでしまっているのでは ないかとおもいます。これが林檎の個性なんだ。
【ようやく『加爾基・・・』版「やつつけ仕事」について】 『加爾基・・・』中の「やつつけ仕事」は、林檎の既成曲を ガールポップスの第三段階化(チボ・マット化)の文脈で つくりなおそうとした実験のように、僕にはおもえます。 そのとき森俊之という才能を林檎が「主体的に」利用した のではないか。もともと「やつつけ仕事」という佳曲は、 ナンバーガールの文脈に置こうとして、非ナンバーガール的な 差異線を際立たせてしまった「帰属不能」の曲だった。 その「帰属不能性」に「敗北」の痕跡を残さないように するには、「再帰属」を図るしかない。 で、今度はガールポップスの第三段階への帰属を狙った ――僕は林檎の意識をそのようのい推測します。そして、 そうしていい理由が実は曲自体にあった。まずは出だしからの 半音がちりばめられているメロにヘンな可愛さが あったということがひとつ。それからむろん歌詞中に 「嗚呼 機械になつちやひたいのに」という 明白な歌詞があることがひとつ。
総合的にいうと、僕の見解は『絶頂集』中の 「やっつけ仕事」全体をサンプリングし、 それをナンバーガール的文脈から ガールポップスの第三段階の文脈に置換する ――粉飾しなおす営みが、ここでの「やつつけ仕事」 だったとおもう。森のアレンジ/打ち込みは、 そのために総花的にポップを導入している。 ただ、その総花性が物欲しげで下品なんだ。 結果、その反照を受けて、よりスロー化した 林檎の歌自体が実態としては貧血化してしまった ような印象を受けます。だから僕は「買わない」。 あ、それと「やつつけ仕事」で最後に 言っておきたいこと。この曲、最後に、 森俊之のピアノと林檎のハープシコードの スカスカの合奏に転じるでしょう。 これが僕はこのY国のアレンジで唯一例外的に 好きなところなんだけど、これ、誓ってもいいけど、 ザッパ(マザーズ)『バーント・ウィーニー・ サンドウィッチ』中の「AYBE SEA」 (アナログ・レコード時代のかつてはA面最終曲だった)、 そのときのイアン・アンダーウッドのピアノ、 ザッパのアコギ、そのデュオの、「気分的」な 引用だよ。まあ、どうでもいいけどね(笑)。
で?輪廻ハイライトは?
葬列のひとりぼっちと茎の エントリーナンバー1と 結ぶものがあるし、交際するの嫌って 言ってるし宗教で神は子供に 冷たいし、子供を子供と思いたくないのかな。 11−1、10−2と聴いていって6になってから もう一回1に戻るのもいいかもしれない。 【6曲目「茎」の解釈】まず曲調。 聯単位で短調から長調へと移行する この曲の構造は、そこからして「希望」の 溶出に賭けられていると僕はおもいました (林檎の今回のアルバム収録曲はこのような 二部構成をとるものがかなり目立つよね ――最初これを僕は展開力・作曲能力の 枯渇と受け取ったけど、いまこの段階では それはシンプリシティへの積極的回帰と 呼ぶべきだと考えが変わってきています)。 そして、「ドッペルゲンガー」「おだいじに」 同様、「子守唄」的メロがここでも意識 されている(ただしそれは「若干」です ――どちらかといえば一聯目の曲調には 正統的な倦怠色が付与されているわけですから)。 それとこれ、すごく綺麗な歌だよね。 というのも、「明暗」というか、 陰鬱な発想とその排除の運動が、曲の構造 それ自体に取り込まれていて、 静謐(せいひつ)な曲なのにかなり高度な 緊張感を全体に湛えているからだとおもう。 僕がこの曲を、「宗教」、そしてたったいま 例示した曲などとともに、名曲だとおもうゆえんです。
出だしの陰鬱感(それはベース音、シンセ・ノイズ、 それと細かいリズム・ノイズとの複合によって起きる) が、バイオリンを主体とした弦楽四重奏的な バック音にスリ替わるときに、光明があふれだす ということは、単純な印象論的言辞にすぎないように おもえるだろうけど、その印象論を曲自体が 定着的に実体化している点も否めない。曲―歌詞の 対位法ではなく相互従属。その面で現れる シンプリシティも、実はリスナーの胸を「子供帰り」 させるようと撃つということです。この点が 「とりこし苦労」「やつつけ仕事」の直前の「対」 とは異なっている。「泣かせる」という点にだけ 焦点を絞れば、この曲がこのアルバムでは最大の 機能を負っているという判断です。
次、この曲での林檎の声。 「宗教」などとともに圧巻を形成している。 一言でいえばちょっとホラーがかったように 緊張度が高いんだけど、どういうか、 声の裏側に敷きつめられている感情の凄みが、 表面化されたときには「平静さ」として 出てくる二重性の感触にゾクゾクくるという ことなんだろうとおもう。ここでも林檎のもつ、 本来的な声の弱さが克服されている。 前にもいったように、声の弱さが弱さと いうかたちを保ったまま強さとして発露される、 というふうに。そのとき確実な「性差」として 出現する女の声の女性性に林檎は自体的な 肯定を付与したんだね。で、この局面で 「唱法」が前面化してくる。ところがその 「唱法」にも「あられのなさ」が感知されない。 つまりビブラートとか巻き舌とか、既存の声への 文化論的憑依とか恫喝的(どうかつてき)な シャウトとか、そういう声質。歌唱上の ギミックを抜きにして、この歌での微妙な、 押し殺したような声の「震え」、そして Bメロ部分ぼ真っ直ぐな歌唱のみを 賞玩(しょうがん)して、というように 林檎は導いてくるんだ。 そこに彼女自身の息子へと限定されない、 林檎の「絶対的」「母性」をオレは感知した。 この林檎姫になら、オレもあやされて睡りたい(笑)。
で、歌詞。冒頭「此の 扉 なら破れない/ 其の塔なら崩れない/彼の天なら潰れない/ 何れも嘘らしく馨ってゐます」はいわば 打開不能な現実=「所与」を絶望的表明 している言葉として連打されています。 これが誰の表明化は、のちにいいます。 ただ、「彼の天なら潰れない」という詩句が 素晴らしい。言葉に非定着性があるから ここでイメージが一挙にふくらむし、 この「天」によってその直前の「扉」「塔」も 位相を変えてくる。つまり、主体には幽閉者の イメージが出てくるということです。 その場合「天」が獄窓からの唯一的な希望と 気散じのための「眺め」「眺望」となる。 フーコーのパノプティコンの解読をここに さらに重ねれば、この第一聯はそのまま現代的な 権力機構への批判のふくみすらもって 意味性がさらに広がってくるはずです。 それと幽閉者が主人公という歌の決行が、 そのまま童話・メルヒェン的な偽装を歌全体に 施すということにもなるでしょう。
さて、この歌にフロイディズムをさらに 重ね絵にするか否かが、ここでの当面の 選択課題になるんだとおもう。 で、結論をさきにいうと、僕自身は その必要を認めない。「扉」=「子宮」、 「塔」=「男根」という暗喩読解は、 まさにダリやヒッチコックなんかがこのむ 俗流フロイディズムの定番解釈では あるんだけど、僕が「葬列」解釈時に 林檎がそういう俗流フロイディズム、 そしてそれに伴う還元主義に叛旗(はんき)を 翻して(ひるがえして)いると語った点に ここでふたたび注目して欲しいと思う。 還元主義・分類癖の化け物みたいな自動性に 無批判にからげられている現在の 思考潮流といえば、とくにフェミニズム、 ならびに精神分析ということになると おもうけども、林檎はもともと自分を 強度な性的供犠(せいてきくぎ)の具と することで、フェミニズムの弱体性を 撃ってきた超越論的な存在だった。 誓っていうけど、50年もすれば、 精神分析/フェミニズムの 「還元主義」「分類主義」はすべて失効し、 あとは精々がある程度デキのよかった フィクションとしてしか省みられなくなるとおもう。 世界内属性の無限分岐の状態にさらにより真率に なるとき、フロイトのフィクショナルな言説の 面白さは娯楽として回顧(かいこ)されることは 当然あるだろうけど、それでは世界の表れを 掬いとる(すくいとる) 思考の網として 粗雑すぎるんだよね。
フロイトの大事な仕事は『夢判断』ではなく、 「不気味」などのほうへ完全シフトすると いうことです。で、僕はこの「茎」に フロイディズムからの「陰茎」ではなく、 「茎」そのもの――さらにいえば、いわば 抽象的な導管現象そのものをみた。 アルバム全体、この曲をふくまない同心円の 土壌がまずあるとして、その中心部にある 「茎」はその土壌にある水分を上方に導いてゆく 単純な管としてあるということ。その「茎」の 内部が光でキラキラしてみえるのは、 一聯目の「天」という語句の使用がすごく大きな 機能を果たしているんじゃないか。 こんなふうにいってみましょう――どんなに汚れても、 絶対的に変更不能な所与、「われわれ」と「既存」の 永久の時間差をしめし、結果「われわれ」の 不如意をしめす「所与」として、 「青空」「空」への着目がここ十年ほどで すごく進展している。日本だけの現象か否かは 僕は詳らか(つまびらか)にしません。 ただ日本だけに限ってみれば、それは、 切通理作君の「日本青空論」で展開された ブランキーをはじめとした音楽、それから 僕がサブカルチャー講義で示唆した佐内正史の「空」、 さらにその延長線上には映画として 豊田利晃の諸作や石川寛の『tokyo.sora』などがあって、 それが今度、サイトに掲載を予定している 仙台の女性写真家、慶さんの写真なんかにも 現れている。
ともあれそんな空にたいする 「切ない」時代の共通認識が 下支えになって、この「茎」に あらわれる「茎」内部の組成には、 光が下から上へと次々に奔流を 繰り返してゆくような肯定的、 かつ哀しいイメージがあるとおもいます。 そしてそうだからこそ、このアルバム全体で 「希望」をしめす極点がこの「茎」内部に なるということです(僕は『ユリイカ』 原稿執筆時点ではこの林檎の 『加爾基 精液 栗ノ花』には 「希望」をしめす隻句(せきく)と 現代的戦略が欠落しているという 見解をしましましたが、この座談会を けみして、その考えをまったく改めました)。
で、歌詞解釈上の「茎」は、仙人草の茎として 具体化されるということになります。 第一聯での「諦念」の述壊が、この第二聯では 飛躍的な転位を遂げる。つまり短調から長調への 移行という外面的変化がまずある。 それから、場所が僕の考えでは、「獄中」から 「茎」内部へと変貌し、ここに幻視効果が ともなうわけですね。その飛躍にはむろん 「接合剤」があって、それが一聯目四行目の 「馨って」ということになるでしょう。 その四行目では視覚世界が嗅覚世界へと一瞬に して転位される。「みえているもの」が 「馨っているもの」として把握しなおされるとき、 視覚性の減殺(げんさい)が起こるんです。
で、その嗅覚性は、視覚世界の 「反転予感」「反世界予感」として生じ、 この曲ではその予感はすぐに現実化された ――そうしてここでは「クレマチス」が 歌詞上に召喚されてくるんです (この召喚のなされ方は、僕は俳句的「対置」に すごくちかいとおもうし、それは僕が このアルバムで褒めた「夕暮 泪雨」 「苗床 赤の他人」[「ドッペルゲンガー」]、 「眼に映る良さ[…]隣の芝」[「おだいじに」]の 詩句などにも共通しています――いずれも 「視覚性の減殺」がそこで機能していて、 そのときに何か「馨」という字に集約的効能が 負わされている――だから僕は『ユリイカ』の 原稿で「馨」という字に注意しろ、 という喚起をおこなったんです――で、 このような「視覚性の減殺」「半盲性の称揚」は とうぜん「宗教」の曲の奥底から感知された ユダヤ的な偶像否定と密接な関わりをもってくる)。
ボニーピンクのApril Shower〜四月の嵐〜と おだじにと似てる気がする。さて、この 「クレマチス」はどんな植物か。 これは『広辞苑』第一版(古い版でゴメンね)の 記述をそのまま借り受けましょう。 いわく――「うまのあしがた科の多年生蔓草。 葉は羽状複葉で、三―七枚の小葉から成り、 葉柄で他物に巻きつく。秋、多数の白花を開き、 白い毛のある痩果を結ぶ。有毒植物で薬用とする こともある[…]」。いやあ、「女のように」植物に 精通している林檎はすごい(笑)。僕は植物に うといから、さいしょ仙人草=クレマチスを 仙人掌=サボテンのように字面類推してしまった んだけど、ぜんぜんちがったんだね。 要点は、三つある。@他者依存的な巻きつきを しめしながら己れを進展させる蔓草(つるくさ) だということ。A多数の白花が、日照時間が より少なくなる秋に開く植物であるということ (そこでは「淋しさ」が収穫期に「複数性」と して変貌的に表れるという逆転が起きているんです)。 B毒草でもあり薬草でもあるという同定不能性を その植物存在自体がかたどっているということ。 そのとき第一聯の「獄中」を彩るアラベスクが 幻覚される。ところが、その「蔓」はやがて 獄窓の鉄格子に巻きつき、「天」を志向するという 実体的画柄(えがら)にまで微妙にすりかわって ゆくんじゃないか。しかしその天は「潰れない」 ――絶望的な「不変」のままなんですね。 ただクレマチスから拙出された「毒」は、とうぜん 1曲目「宗教」の「毒で本望」を 喚びだしてくることになります。
そして林檎はその「クレマチス」に さらなる属性付与をおこなう。 撒けば育つ。花も咲く。ところが 開いた花弁は瞬時に「堕ちて逝きます」。 そう、お馴染の「盛者必衰」テーマです。 所与を吸い上げて、光に変換し、 天へとポンプする「茎」の幻覚だけが 残りながら、植物自体は枯死してしまう ――そんな、「見消」(みせけち)の機能が ここにはあるのではないでしょうか。 そうした所感に囚われた者にとって、 「如何して? 何故 哀しくなったの/ 現實の夢」という問いかけ(もしくは自問自答) は、返答に値しない問いとしてしかありえない ――この歌は最初の段階ではそういう位相を 形成するとおもいます。この局面で卓見が 披露されたんだとおもう。「1―2―3」聯の 主体と、「4―5―6」聯の主体が母子に 分岐していて、歌全体が一個の応答歌だと いう見解がそれです。ところが、 結果的にいうと、どちらが母でどちらが 息子かという割り振りについては、僕は まったく逆の解釈をしたんです。五聯目の 「やつとで呼吸に成って来ました」に着目した。
そう、「葬列」では死児が酸素にふれ、 みずから呼吸することで、生体化して 生まれたんです。呼吸テーマとしては、 ほかに「おこのみで」があった。 そこでは金色エナメルを塗る歌の主体が 「過呼吸」に陥っていたけど、僕は その歌の主体を、「葬列」で生まれた 赤児が長じて男娼に変わったのだという 最終解釈をしました。赤子の前提的 トラウマとしてあった「酸素摂取の困難」 「呼吸困難」は、この「茎」の「やつとで 呼吸に成つて来ました」で治癒(ちゆ)を みるという流れになっている(この点でも アルバム全体の意味形成が、「逆倒」 「対構造」「遡行」として起こっている という解釈が正しいという証明が なされることになる)。
四聯目もまた「所与」の変更不能を 唄っているんだけど、それは一聯目とは 対象がちがうという点に、ここで 注意をしてほしいとおもいます。 つまり一聯目は外在的な水準にあるものが 「われわれ」にとって「所与」であり続け、 それは改革不変だという絶望が語られて いたんだ。ところが四聯目は「此の肺なら破れない/ 其の顔なら崩れない/彼の天なら限りない/ 何れも赤色に匂つてゐます」というように、 所与は自己存在の確定領域に移り、 その絶望的不変性が語りだされている。でも、 ここで僕が「絶望的」と称したのは、 言葉の綾です。つまり、自己の不変的な 固定性とは、そのままで存在の確固たる立脚点と つよさをも表すわけだから。なのにそこに 「赤色」=「血の色」=「夕陽色」の強烈な イメージ横溢(おういつ)がある。 「破れない」「崩れない」「限りない」という 韻重ねののち生じたこの「赤色」も、 「破れ」「崩れ」「潰れ」てあふれだし、 「天」にさえ全体化していった、 陰惨な血のイメージのように錯視されるのね。 もうこの赤は女性生理的な「赤い嘘」の 「赤」を超えている。その赤に唯一匹敵するのは、 産道を赤児が通過してくるときに彼を 取り巻いていた母親の、羊水と混じった 血液だけだ――あの「葬列」の。だからこの 「4―5―6」聯の歌の主体は息子のほうだと いう判断をしたんです。
そうしないと、この歌には、創造的な意味の 「逆倒」が起こらない。どういうことか ――五聯「斯くて哭いては惑つては生りませぬ」を 息子から母への「命法」としたほうが、 アルバム全体に肯定性が付与されるし、 そのような選択をすることで、聴き手は アルバム全体の意味の不確定性を意志的に 肯定性にすりかえる――そしてそうすることが 林檎自身の意思にかなっている――という 「宗教」で「万物不一致」の世界をさまよう 歌の主体に、垂直的に「命法」が襲ったんだけど、 その「命法」はユダヤ教的唯一神のものであると 同時に、母・林檎からのものだったという確認を 僕らはしました。ところがここでは「命法」は 子供から母へと「逆流」を起こしている。 これがこのアルバム最終的に辿りついた 「さかしま」の力学です。「老いては子に従え」 というけれど、「産んでは子にしたがえ」と いうぐらいに、ここでの林檎の時間感覚が短縮化し、 そして「急いでいる」。この「子から母へ」 という逆順をみとめ、それを存在にまつわる ディシプリンとするとき、このアルバム全体を 覆っていた母子相姦の逼塞(ひっそく)も 解放されるんです。「茎」内部の導管が 最終的にアルバム全体の土壌から吸水をおこない、 すべてを光の「天」へと仕向けることで 結果されるのは、このような「逼塞」からの 解放なんじゃないか。
男娼―男色をうる男。かげま。 男色―男性が男性に情欲を感じること。 男子の同性愛。なんしょく。 陰間(かげま)―〔江戸時代の若衆(わかしゅ) 歌舞伎で、まだ舞台に立たない少年役者の意。 男色を売ることが多かったことから〕 男色を売る少年・人。男娼。
このように、アルバムにちりばめられた 「毒」を事故否定的に「解毒」する作用を アルバム自体が内在していると読まなければ、 アルバム全体が拠りどころを[よりどころを) なくしてしまう。だから「政策的」に、 この「茎」では子供から母へと「命法」が 発せられると読まなくてはならない ――そういうことになります。 子の「さまよい」はこのようにして 最終的に価値化される。ここでも、 彷徨こそが絶望を解除するという見解が しめされているわけだけど、これは たとえば豊田利晃の新作映画 『ナイン・ソウルズ』のしめす現代的見解 とも一致しているということになります。 さて、母のいう「現実の夢」では助詞の 所有格が介在している。結果、それは現実の 内側に夢が組み込まれているという入れ子型の 世界観を指示することになる。ところが、 息子のいう「現実が夢」では現実と夢は 同格で、そのようにして現実が、それに ひとしい夢の干渉をうけて同定不能になる。 「これ」が同時に「これではないもの」を 死児してしまう。ところがそうした認識は 僕がいった「万物不一致」の法則ではなく、 より上位の世界認識をも喚びだすはずなんです。
それは何か――端的にいうと、 「融即の法則」という古代インド哲学です。 この哲学がインド宗教の根底にありつつ、 変型されたことで、インドは熾烈(しれつ)な 階層社会として、抑圧構造をもつにいたったのね。 ただ、そのもとにあった「融即の法則」は 世界の表れを豊饒化(ほうじょうか)し親密化し、 かつ所与も肯定するという認識の智恵に直結 されていたはずです。たぶん林檎はそんな視界へ 聴き手をいざなっているんだとおもいます。 また、そういうふうに考えたほうが このアルバムの全体性がより魅力的になるんです。 ともあれ、母と息子の主体分岐という点で、 この歌が母の歌―息子というように、 全体が二分構造になっている。ただ、ここでは 母子相姦の地獄はもう「解消」されているんです。 それと、七聯目がそうした母と息子の関係改善が あったのちの両者の「コーラス」だと いう指摘には完全に賛成します。
そのとき林檎のしめした見解が、ある一定の 現代的な認識のいえに立っているのが面白い。 「大事な生命 壱ツだけ だうか持つて 行かれませぬ様に」。まず、「命を持って 行ってしまう」危険のあるものと名指せるのが 自己の「絶望」でしょう。つまりここでは最初に 「自殺否定」が示唆されているということになる。 もうひとつ、理不尽・突然に現われる「敵」にも 注意せよ、という見解にもこの詩句は 関わっているのではないか。自己保全とは自己が 直面する可能性のある危険を注意力をもって たえず排除しなければならないという強迫意識とは もはや無縁でなくなっているということ。 それが「セキュリティ」の発想です。ところが、 「セキュリティ」とは現代社会にとっては 権力の管理システムという枠組の補助があって、 最終実現されるものです。つまり自己の安全は、 権力への従属と、両刃(もろば)の剣のような 構造になっている。しかし自己の保全のために、 権力の監視を受け入れることにたいし、 かつての国民総背番号制への異議申立てのような ナイーヴな対応はもう意味がなくなって しまっている。所与の水準が変化したんです。 そのとき権力管理と自己保全の現実的な 比較衡量(ひかくこうりょう)が図られて ゆかなければならない。それがたとえば 「現実的」で「急いでいる」左翼・東浩紀の 主張です。林檎のここでの歌詞はその東の 見解との連動性を感じるんですね。 そしてそんな認知に、転調によ歌唱音の上昇、 ひいては歌の世界の天上化がくわえられる。
最後に。この歌の最終行「エントリー番号壱」が、 一曲目「宗教」を再参照せよ、という指示を ふくんでいるか否かという問題です。 この語句は、字義どおりの解釈をするなら、 「一者=唯一者=単独者」として自分を 「此世」にエントリーせよ、という単純な レベルでいいとおもう。曲のメッセージ色を 尊重するなら、とくにそういうことになる のではないか。ところが出された提案は 捨て切れない。つまり僕自身が「現実に」 この曲の解釈において、1曲目「宗教」を 再参照するような作業をしてしまっている ためです。ただ、そうして「11―1」「10―2」… というように把握された位みの相互連関が、 この頂上の「茎」が終わったとき、 「1・2・3・4・ ・・・」の正順に再度組み なおされるという見解にまではついてゆけない。 アルバム全体解釈の多様性を無限に喚びこむ という点では確かに面白い着想なんだけど、 そこでは「着想のための着想」とでもいうような、 技巧性を感じてしまうのね。
128−と197−は同一者です。
(;・`д・´)な、なんだってー!!(`・д´・(`・д´・;)
椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』全曲完全解析/椎名林檎VS Jポップより抜粋 二〇〇四年一月二〇日 初版印刷 二〇〇四年一月三〇日 初版発行 著者 阿部嘉昭(あべ かしょう) 1958年,東京生まれ。批評家。現在,立教大学,日本大学芸術学部非常勤講師。
(註) 以下は標題のディスクをめぐって、「阿部嘉昭ファンサイト」上で、日芸文芸科三年の浅井秀一君、 ならびに放送学科三年の内海賢朗君とめぐって交わされたメール座談会にもとづいている。 そこでの阿部の発言を、本書様に再構成したものだ。この発言の書き込みが03年5月から同8月までの長きに 亘っている点にまず読者は留意されたい。つまり、その長いレンジの結果、余裕ある思考時間があたえられ、 発言の刻々でスタンスの変貌が生じている。なお、浅井君、内海君の発言も読み、座談会全体の具体的進行を 確認なさりたい方には、ぜひサイト閲覧をお薦めしておきます。
で?輪廻ハイライトの歌詞は?
339 :
名無しにして頂戴 :04/09/02 13:18 ID:EdTgu8UV
オチメ
340 :
名無しにして頂戴 :04/10/12 23:46:28 ID:l4WBM4Co
給料は入社後、全然上がらず月給は手取り19マソも無い。 リッケン620(覚せい剤)と引っ掛けて年収620はくれよて意味かと思った。
テスト
342 :
名無しにして頂戴 :04/10/20 22:27:46 ID:bqdAMiut
林檎サンってステキですよね?。
343 :
名無しにして頂戴 :04/10/21 10:13:12 ID:ARlLseiB
何が?
な ど 第 新 の う 1 宿 で し 問 は し て 豪 ょ 豪 雨 う 雨
346 :
名無しにして頂戴 :04/11/03 15:21:29 ID:brDN7FIJ
>>2 ホントに破壊神宣伝部部長なら、もっと大衆にわかりやすく宣伝してくれ。こっちも一杯一杯なんだからさ。
>>2 破壊神=カルキヴィシュヌヤシュスだっていうことを判っているから、
カルキザーメンなんていうタイトルでCD出したりするんでしょう?
こっちは世間からまるで精神苗扱いされて苦しんでいるんだからさ。
>2は椎名林檎本人だと俺は思ったけど。歌詞の解説もリアルだし。
↑(訂正)精神苗→精神病ね。
>>2 破壊神宣伝部長
もう、俺の本名晒しちゃってもいいよ。
クラヤ◆7KdroQNwi.を餌食なんかにしなくていいから。彼(女)も、このままだと可愛相だ。
>346-349は、
>>2 に宛てた文面なので、妙な書き込みで見苦しいでしょうけども、皆様は気になさらないでください。
東京の新しい会社に入ってはみたものの、収入は前と大して変わらない。 都会とは言っても大した事ないのね。 「あれ買ってよ」 バンドマンの彼がそういうの。 でもまだ今はお金が無いからまたね、っていったら怒ったような悲しい顔をしていたわ。 仕方がない。19万もキャッシュで持っていないもの。 この日も朝になるまで愛しあったわ。 私は彼に好きだった歌手のAを重ね合わせているだけかもしれない。 煙草を吸いながらそんな事を考えたら目眩がした。 そうそう 最近は風俗で働いてみたの。大好きな彼の為だもの、辛くは無いわ。 私は頑張って彼に尽くしたけど、終わりがきた。 今まで貢いだものを返してって私が駄々をこねたらお得意の屁理屈で「税理士なんて付いていないから」と鼻で笑われたわ。 やっぱり将来を考えるならちゃんとした人じゃなきゃ駄目みたい。でも彼は私がいなきゃ駄目なの。 「真面目な職についてよ」その言葉を何度も飲み込んで来たけど…もう駄目ね。 今でも毎晩彼を思って一人慰める。 でも、私は彼に幼い頃好きだったAを重ね合わせているだけだったの。 だからその報いが今私を独りにさせるのね。 ファーストフード感覚に男とつき合えたらいいのに、そんな事言ったら大好きなAにまで見放されてしまうわ。 今ならAに打たれても殴られても快感として受け止めれるんじゃないかしら。
A=浅井?
うん、そうだろう。 このスレも活気づくといいな
354 :
名無しにして頂戴 :05/01/17 06:50:53 ID:cAC2w0OI
過剰な解説気持ち悪い
さげ
356 :
名無しにして頂戴 :05/01/19 00:17:53 ID:lgwNlDqB
丸の内の歌詞を初めから教えて下さい。 今更ファンになった馬鹿な私に教えて下さい。 歌詞が良かったらアルバム買ってきます
358 :
名無しにして頂戴 :05/01/19 02:57:00 ID:lgwNlDqB
じゃあ買うわ
359 :
名無しにして頂戴 :05/01/19 10:14:28 ID:lgwNlDqB
360 :
教えてあげやう :05/01/19 12:43:43 ID:OI71aSj5
マーシャンでわなくて、マーシャルって言うアンプのメーカーさね。
361 :
みほ :05/01/19 19:01:35 ID:???
やっpりむつかしいで〜す (><;)
>>359 丸の内サディスティック
作詞・作曲:椎名林檎
報酬は入社後平行線で
東京は愛せど何も無い
リッケン620頂戴
19万も持って居ない お茶の水
マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ
毎晩絶頂に達して居るだけ
ラット1つを商売道具にしているさ
そしたらベンジーが肺に映ってトリップ
最近は銀座で警官ごっこ
国境は越えても盛者必衰
領収書を書いて頂戴
税理士なんて付いて居ない 後楽園
将来僧に成って結婚して欲しい
毎晩寝具で遊戯するだけ
ピザ屋の彼女になってみたい
そしたらベンジー、あたしをグレッチで殴って
青 噛んで熟って頂戴
終電で帰るってば 池袋
363 :
名無しにして頂戴 :05/01/20 05:31:35 ID:dKuLNlgW
>>362 さん、ありがとうございました!買いますワラ
365 :
名無しにして頂戴 :05/02/05 05:02:19 ID:r0O6HcR6
「ウチの家は汚いんだけど、家は大きなゴミ箱だと思えば気分がラクだよ」
366 :
名無しにして頂戴 :05/02/05 17:52:34 ID:r0O6HcR6
シャラポワ
367 :
名無しにして頂戴 :05/02/17 20:06:46 ID:hLyWxSbZ
セックスをちょうだい 青姦でイッてちょうだい
368 :
椎名林檎-Z :2005/04/30(土) 13:00:28 ID:XMDxMDhd
2ちゃんねらーは敵に回すと恐ろしいのですが、味方にすると頼りないのです
あげ
370 :
名無しにして頂戴 :2005/06/07(火) 09:46:41 ID:tmcUV6ZS
リッケン620は19万する林檎が欲しかった化粧水ですよ。 なんでもかんでもイメージで言うのやめなよ。
林檎たん、当時は若かったんだからそんな化粧水いらないはずだったのに
化粧水が19万!?
はぁ化粧水じゃねえよ リッケンバッカーってギターかアンプだった気ガス
いや、化粧水だよ
なっとうたべたい
376 :
名無しにして頂戴 :2005/06/17(金) 15:10:40 ID:aLnTqfth
>ピザ屋の彼女になってみたい リーゼンヘアーの彼女になってみたいって聞こえないか??
377 :
名無しにして頂戴 :2005/06/17(金) 15:21:13 ID:BZU2eMcf
ピザーラお届けやってみたい とは聞こえるかも
378 :
さな@林檎狂 :2005/06/17(金) 19:46:27 ID:yvfMRUgP
376 当時ピザ屋のバイトしてる彼氏がいたんじゃなかったっけ?
379 :
名無しにして頂戴 :2005/06/17(金) 22:19:32 ID:BsxFGrYK
林檎本人がバイトしてた。ピザ屋の彼女ってのはBJCの曲の影響だよ。
380 :
名無しにして頂戴 :2005/06/30(木) 02:04:06 ID:x+E8SvSd
>>374 リッケンバッカーの620ってギターの事だよ。
場所もお茶の水だしね。
ちなみにリッケンバッカー610とはギターの型番ね。
実際に買ったのは御茶ノ水じゃないんだよね。何処っつってたか忘れたけど。
383 :
名無しにして頂戴 :2005/06/30(木) 18:02:01 ID:EhR/UOkC
>>333 個人的には子供出産の隠喩的表現だと思ってた
身ごもってる間の子供に対する愛情と
自分が母親になることへの苦悩から
一番最後が子供が生まれる瞬間だと思うよ
リッケンバッカーは大久保の楽器店で印税で購入したんだよ
某掲示板のスレはワラタ 毎晩寝具で→毎晩シングルベットで 遊戯するだけ→しゅーぎするだけ(林檎語)
387 :
名無しにして頂戴 :2005/07/02(土) 19:10:26 ID:Mc6VoZ+Z
388 :
U3 ◆lovelyID3I :2005/07/02(土) 19:43:02 ID:IqcmrWQF
ミートのときゎマヂで寝具で。をシングルで。って言ってる
あとライブでは絶対 東京は愛せど→東京はあいしぇど(愛シャドウ?) って言ってるね
東京っていろんな色や建物ってイメージじゃないですか? 「アイシャドー×東京の色」 と解釈してた。
391 :
名無しにして頂戴 :2005/07/02(土) 20:40:55 ID:Y0Ciah22
間違えた。 「東京の色=アイシャドー」
それでどしたの車やさん?
別に聞こえるのは良いんだけどそれを林檎語だって言って変に讃えてるのが… すみません、どうでも良いことですね(´・ω・`)
誰も讃えてないと思うけどねー…
395 :
名無しにして頂戴 :2005/07/04(月) 00:48:11 ID:lRm+aFas
青姦で逝ってちょうだい
NHKでは駄目なのね
397 :
名無しにして頂戴 :2005/07/04(月) 01:54:43 ID:lRm+aFas
かろうじてОκ
398 :
名無しにして頂戴 :2005/07/04(月) 22:27:48 ID:lRm+aFas
主マーシャンじゃなくて マーシャルだよ ♪マーシャルの匂いで 飛んじゃって大変さ
毎晩寝具でぇ遊戯するぅだけぇーぁぁ
400 :
名無しにして頂戴 :2005/07/04(月) 22:34:41 ID:nIxAz2Lr
ピザ屋の彼女に〜なってみ〜たい
JASRACに通報
みんな丸サドは元は英詩だったって知ってるよね!?だから日本語でも英語っぽく聞こえるような歌詞にしてるの!歌詞に意味は無しって昔から言ってるよ〜
通報しまつたwww!
,,ィiii;:;:;:;:iii;:;:;:;:i;:i;:;:!;:!;:;:;:l、,,_ r'":;:;:;:;:;:;:;:ヾ;:;: 彡ノノ'ヾ、;:;:;:i! |:;:;:;、ゞゞゞ'7''"~ `l;:;:;i! l:;:;l ヽ、 l;:;:;:ミ l;:;:| ,,....、 __,;;;;;;;,,,,,ヾ;:;-、 ヾl,r"‐''''―、,-r'",..,、 i!`T")| l^ーi '"' ’'` ノ ヽ、,,,...-‐' j! | i! :; `''ー'''';:',, ,,, ) : |ー'" ヽ-l ,,.;:;::;;;;:,,,,, | ヽ i '"ー''''"~~`' / ,,.!、_ `ヽ、 "" ''' ,,.:'"/' :ヽ j^'ー--‐''".ィ'ン" `ー-、 r''"~~ ̄ ̄ ̄ ̄i\___,..-'" / / | /`ヽ / ヽ :;: ^|ヾ,r`' ,. ,,.r' ミヽ ヾ ::;;: | / ,.ィ" 通報されますた
「丸の内」はいつから「丸ノ内」になったのかな 下剋上では丸ノ内だね
406 :
名無しにして頂戴 :2005/07/06(水) 18:52:29 ID:BCivHYfL
ハーモニカの音最高!!
報酬
入社後
平行線
東京
愛
何
無
頂戴
万
持
椎名
お茶の水
匂
ピザ屋の彼女になってみたいってのは 廻されたいってことなんじゃねーのハァハァ
( ―_―)
422 :
名無しにして頂戴 :2005/08/13(土) 09:05:39 ID:yxeD7ATm
ピザ屋の彼女ってブランキーの歌と関係あるんだろ
423 :
名無しにして頂戴 :2005/08/13(土) 09:17:31 ID:A+Qwi6ww
「ピザ屋の彼女になってみたい」はブランキーの「ピンクの若いブタ」 (シングル「ガソリンの揺れかた」のカップリング)の歌詞に登場する 「ピザ屋の彼女」を受けた物で 実際林檎も働いていた事もある
後楽園!!
ちゃのみず
いけぶーくろぉん
マーシャル(・∀・)
コマーシャルのコマーシャルが最高にウザイ
強姦
430 :
名無しにして頂戴 :2005/09/28(水) 16:07:36 ID:Eq7p0Uee
>>430 MEETナントカBEATん時のじゃない?
スカパーかなんかで放送されたヤツ
コピバンでは無いことは確か
434 :
名無しにして頂戴 :2005/09/28(水) 21:02:32 ID:FBNANYeB
将来僧になって結婚してほしい。 毎晩寝具で→毎晩シングルベットで 遊戯するだけ→じゃ〜kissだけ じゃないのかとおもふ。
他にもそういうの教えて!
>>430 >>432 が正解ですな。MEET THE WORLD BEAT 2004の1曲目。間違いねえっす
あと、
>>389 は「報酬は入社後」の"しゃ"と韻を踏んでるんだと思うよ。
言葉を見るんじゃなくて、歌を聴いてれば自然にわかると思うんだけどなー
特に、この歌詞は音優先って公言してるものだし
なんつって違ったらカッコワルス(´・ω・)
>403 の 最後の英語の歌詞って聞き取れた人いますか?
442 :
名無しにして頂戴 :2005/09/29(木) 02:52:07 ID:ZUfASk1l
>>430 の間違いじゃね?テレコになってるんじゃ
んん"ぅをあ"〜 So I am looking for a new meditation Still looking for a〜
のあたりのことかな?I wish, I wish, とか 〜born in chicken as time〜みたいな。
他のライブの時、最後は"There's a time in chicken, That is fine, ah!!"
って聞こえる感じのときがあったけど、自分は全く英語はダメだ。
文法的にありえるのかすらわからんorz だれか他の人ヨロ
443 :
442 :2005/09/30(金) 23:34:27 ID:???
放置されてる・・・変なこと言っちゃったのかな・・・(´・ω・)
遊戯のところ、ちゅうぎって言ってるのはナゼ?
445 :
U4 ◆ec8NjNHzm6 :2005/10/01(土) 18:26:56 ID:/1qy1Pip
>>442 その後はなんか
Would you like some why?っぽい。
と
Still looking for a I (the I)
So I am looking for a new meditation,still looking for I.
Would you like some why?
訳
私は新しい考え(瞑想、熟慮)を探している。
未だ相変わらず自我を探している。 (Iっていうのは自我って言う意味もあるらしい)
貴方は何らかの理由が欲しいの?
ってのはダメ??
446 :
U4 ◆ec8NjNHzm6 :2005/10/01(土) 18:28:57 ID:/1qy1Pip
その自我っていうのは英語の哲学で使ったり用いたりする言葉だから 林檎は何か前、哲学大好きな感じだったし。
447 :
U4 ◆ec8NjNHzm6 :2005/10/01(土) 18:30:02 ID:/1qy1Pip
考えっていうのを、企み、もくろみに訂正。
448 :
名無しにして頂戴 :2005/10/01(土) 18:37:58 ID:ekU+cxxy
so I am lookiog for〜の辺りはまだ大丈夫だけど最後がよく分からん。NEW WAY TO FLYもいまいち聞き取れないし。
449 :
名無しにして頂戴 :2005/10/01(土) 18:57:16 ID:Cs/uXIqb
あたしには「じゅうぎ」って(ry
451 :
名無しにして頂戴 :2005/10/03(月) 03:29:37 ID:T5hR1Nr7
>>129 ラットはギターじゃなくてエフェクター
ベンジーが使ってる=商売道具
452 :
イモセンスキモハゲ ◆YsomnAZ8yo :2005/10/03(月) 13:57:55 ID:0Duklz75
( ゚Д゚)y─┛~~
みなさん椎名林檎【東京事変】に投票お願いします。
†
ttps://cgi2.nhk.or.jp/kouhaku/vote/send.cgi ここにいってメアドを登録スル
携帯はアウト
† 返信されてきた
メアドのリンクから投票する
† 投票方法
曲番号に545
そのまま下の「今年の最新ヒット曲や〜リストにない曲を〜」ってところの
曲名の空欄をクリック(同時に545の歌手名と曲名が表示される)
† リストにない曲を〜 のところに
群青日和 東京事変 と入力して 次へをクリック
(群青な理由は一般公募からもおそらく多いであろう曲だから)
(他の曲には投票するな。すればする分他の曲の順位が上がってしまう)
† 曲の思い出やエピソード〜 のところに
自分が考えうる最高のお涙エピソードを書く
† 個人情報はお前らに任せる。が、エピソードと矛盾しないように注意
† 締め切りは今月いっぱいだ!!!!!!
リストにあるくらいだから可能性はゼロじゃねーぞ!!!!
m9っ`・ω・´)おまえら本気で椎名林檎を大晦日に仕事させるのだ!!!!!!!!
コンサート前だから忙しいだろうとか、余計なことは考えるんじゃねぇ!!!!!
とにかく暴れろ!!!!!暴れるんだよ!!!!!!!!!11111111
>>129 今初めて読んだけど、これ本気?すっごい歪んだ解釈だなあ。感性にぶすぎ
ほっしゃん。は入社後、援交して/東京はアイシャドー何にも無い/日研知ってんの頂戴/19万も持っていない、お茶にガス マンションの臭いで飛んじゃって大変さ/毎晩、絶頂に達しているだけ/ラット一つを商売道具にしているさ/そしたらエンジンが肺に映ってトリップ 細菌は銀座で警官Cocco/国旗用は買えても乗車必須/教習所を変えて頂戴/税理士なんて就いて居ない幸楽で 障害躁になって決闘して放心/毎晩ヒンドゥーで注意するだけ/膝屋の感情になってみたい/そしたらエンジン/私を愚劣でぶって…
青姦で知って東大 執念で変えるってば違憲苦労
ワロスw
勝訴の頃吉本の若手芸人達が 替え歌作って歌ってたのを思い出したw
>>459 確かケンドーコバヤシのラジオだったように思う
流れ星は吉本じゃないよ
流れ星とかけんどーこばやしとか皆以外とまにあっく
ケンドーコバヤシ……知っていて損は無いぞ
>>464 タソ
466 :
442 :2005/10/07(金) 00:16:36 ID:???
>>445 ごめん放置したみたいになっちゃって。今見た
(つか
>>440 はどこいったんだ?)
うーんそう聞こえない事はないけど、"some why?"じゃあないような感じが・・・
しかしこれ、答えはあるのかな?適当だったりして
林檎はこっち見るタイプ、ではないと思う
丸の内の歌詞って別のセリフに聞こえないか? 自分の場合、 毎晩寝具で遊戯するだけ⇒毎晩シングルでチュー・キスするだけ かと思ってた。
延々ループだなw 自分は文字通り、じゃなくて聞こえるとおりに歌ってるよ。 「まいばんずぃんぐぅでぇ、ちゅーきっすぅだけぇいえぇえ」
てか、「最近は銀座で警官ごっこ」はそのままの意味だと思う。 銀座の警察博物館って所で、白バイに乗ったり制服を着たりできたもん。
471 :
ゴリライモ :2005/10/07(金) 22:58:59 ID:???
へー
えっ、「銀座で警官ごっこ」って、 銀座のイメクラで、婦警の格好をして働いている…って 意味じゃなかったっけ。
>>473 いや、本人が言ったわけではないから、断言はできないか。
過去ログで、そういう解釈があったんだよ。
それで、妙にリアリティを感じたという。
ただそれだけ。
475 :
474 :2005/10/08(土) 00:20:35 ID:???
>>470 その解釈、可能性としては、無きにしもならず、だけど、
わざわざ、林檎が銀座の警察博物館(?)まで
足を運んで、警官の制服着て遊んだりするかなあ…
その解釈だって、本人の口から出たわけでは無いでしょう。
↑「無きにしも在らず」と書きたかった。
イメクラよりかは全然ありえると思うなー。 だってどっかの交番の警官に「これ乗りたいんですけど・・・」とか言ってたよね? 白バイ指差して。wowowの番組でさ。
>>478 白バイに乗りたいと言った話は初めて聞いた。
パトカーを見て
「格好イイ!写真撮らせてください」
…と言った話なら聞いた事があるけど。
>>479 むう・・・ちょっと確認してみるよ。wowowで警官に何か言ってたのは間違いないと思う。
おらしゃああ見つけたよ! ちょっと違った。誘発オルガズムの最後で、交番の中の警官に 「あたしこれが、ずーっと欲しくて憧れてるんですけど、、、この白いバイク」って言ってた。 その指差してる先は写ってなかったけど。勝手に報告。
誘発オルガズムってSSTVだよな。 WOWOWじゃないよな。 そうだよな。 間違いないよな。
484 :
名無しにして頂戴 :2005/10/09(日) 20:11:45 ID:Mr8wuBJS
英詩の聞き取りと。翻訳に力をいれようぜよ。
確かに
流れ星は、ネタで歌舞伎町を歌うよね
ずっと「青姦でイッてちょうだい」だと思ってた
ずっと「リッケンせっくすを頂戴」だと思ってた
歌詞は本当に大事だ
やー、昔本人が雑誌で青姦って言ってたよね? 勿論、それは冗談でほんとは違うのかもしれないけどさ。
冗談でしょう
難解な歌詞だ…
椎名林檎が自主規制して、青噛んでになったんじゃないの?
そうだよ
497 :
名無しにして頂戴 :2005/10/16(日) 02:25:01 ID:cygIiW/B
リッケン620―ギター マーシャル―アンプ ベンジー―親愛なる浅井健一 ピザ屋の彼女―浅井(ブランキー)の歌のピンクの若いブタの歌詞から グレッヂ―ベンジー愛用のギター
ぐれっ ち
499 :
名無しにして頂戴 :2005/10/17(月) 19:21:09 ID:vaXxnVZb
デブ屋の彼女になってみたい
(´・ω・`)
(´・ωw`)
ベンジーは米屋の息子だよ
503 :
名無しにして頂戴 :2005/10/24(月) 00:28:49 ID:e2D/hJ/S
夜、女と密会するため渋谷に東横線で向かう。 その時Xとか入れながら丸の内をエンドレスで聴いてた。 精神的な解放感がすごかった。ある意味ドラッグソングだと思う。
504 :
名無しにして頂戴 :2005/10/24(月) 07:16:17 ID:VzisUi7j
という岐阜に住む17歳の青年のウブな憧れです。
>>503 >Xとか入れながら
ここの意味がわからん
なんで、報酬は入シャド〜なの?
入社後
508 :
名無しにして頂戴 :2005/10/24(月) 20:18:05 ID:IILFObeL
>>505 今はもう解散したあのビジュアルバンドのことだろ
東京は愛シャド〜だった なぜ?
愛せど
511 :
名無しにして頂戴 :2005/10/24(月) 21:43:23 ID:BxjQJwDW
>>505 バツ(エクスタシー)=ドラッグじゃないか?
なるほど。それで文脈が合いますな。
青噛んでいってちょうだいって結局なんなの?
青姦
それをわざわざ伏せ字にしてるわけですか?
自主規制
え、ほんとにドラッグ?今時ドラッグなんてださくない?
苦笑
520 :
名無しにして頂戴 :2005/10/27(木) 07:52:42 ID:nHlymhW/
>>518 今から5年も前の話だからダサくても許してくれ。
X=バツ=MDMAであってるよ
家の中のプライバシーを保つ為 ケンカの音やねん私のわがままの音やないねん 裁判を前提とした抗議の音 私の泣き声、悲鳴
そしたらmiyocoあたしを布団叩きでしばいて
>>522 _, ,_ しばくぞ!
(#`Д´)
◎━⊂彡☆))Д´)
流行でドラッグやる奴の気持ちがわからないw
ドラッグってあらゆる意味でかっこ悪いと思う。 自前の脳内麻薬を出せないつまんない奴ってことでそ? miyocoは出まくりだったんだろうけどな
526 :
くらげ :2005/10/30(日) 09:33:44 ID:???
脳内麻薬って自前でみんな持ってるモノなんですか?? だとしたらドラッグによっていつもより余計に引き出せるのかな〜
( ^ω^)つ〜〜〜〜〜〜〜◎
アホか
529 :
名無しにして頂戴 :2005/12/08(木) 21:43:28 ID:TwabKocf
どらどら
>>529 ちょwwwwwwwwwwwばかsageろwwwwwwwww
531 :
名無しにして頂戴 :2005/12/08(木) 23:43:54 ID:AjGkH8Vv
マーシャンてなに? 麻雀とちがうの?
阿呆が来ましたね
Dynamiteの丸サディ最高。次にいいのは下剋上
ファン歴浅いんだけど、無罪の丸サディの最初の男の人の声?で少し驚いた
>>534 カラオケで歌ったらその声が入ってたのでワロタ
ラットってねずみかと思ってた ねずみ芸させて商売してるのかと思った
537 :
名無しにして頂戴 :2005/12/11(日) 22:31:07 ID:Abra53kd
>>533 ダイナマイトの丸サディは師匠のいつものソロがなくて残念だったな。自分的には下剋上が1番。でもダイナマイトのピアニカもイイ!!
ダイナマイトのヒイズミのソロはいいよ。 けど、いつもソロ前に林檎がいう「師匠」は聞きたかった。
丸の内って元々英歌詞だったんじゃなかったっけ?
英詩じゃないかな。 この前の僕等の音楽では日本語の詩で歌った後英詩も口ずさんでたよー
最後の英詞の部分どなたか教えてください 宜しくお願いします
Im looking for and New way to fly
543 :
名無しにして頂戴 :2006/02/24(金) 14:18:29 ID:vo6VkSMG
ラットってねずみじゃないんだ・・・
こうだくみのオリンピック応援ソングってイントロこの曲に似てない?
>>486 自分はそれがきっかけで林檎に興味を持ったが・・・。
I'm looking for a new way to fly じゃないの?
So I am looking for a new meditation Still looking for a new way to fly
(・∀・)ニヤニヤ
このスレ見るたびに
>>1 のマーシャンにイラつく、なぜか
552 :
名無しにして頂戴 :2006/04/09(日) 23:56:39 ID:/0Kiw6i/
553 :
名無しにして頂戴 :2006/04/10(月) 02:43:36 ID:vtIIZVPh
マーシャ
( ^ω^) 555
丸の内サリンスティック
557 :
名無しにして頂戴 :2006/04/11(火) 13:50:42 ID:EH2H2PZM
マーシャンってマーシャルで、 アンプの名前だと思ってた ラットは雑誌 だと思い込みだったのかなあb
558 :
名無しにして頂戴 :2006/04/11(火) 18:42:47 ID:P9vyi07S
ピザ屋の彼女 昔椎名がピザ屋でバイトしていた所から当てはめただけで ベンジーは関係ない
>>558 や、林檎はBJCのピンクの若いブタって曲に出てくるピザ屋の彼女って歌詞に影響されて自分もピザ屋でバイト始めたとか。
560 :
名無しにして頂戴 :2006/04/11(火) 22:05:53 ID:3cX94SYE
グレッチでぶって(`・_・´)♪
29:Track No.774 :2006/02/16(木) 10:44:47 [sage]
>>27 ∬・Α・)ギターは人を打つためにあるんじゃないんだよ
∬・Α・)人の心を打つためにあるんだわ
562 :
名無しにして頂戴 :2006/04/12(水) 01:50:16 ID:oFgjosGi
うち、グレッチもってるよ。林檎ちゃんのとは違うけど。とにかく重い!本当はデューセンバーグが欲しい!
このきょくきいて「りんごさんってえむなのかな」とおもいました それまでえすのいめーじしかなかった
>>562 デューセンバーグ欲しいよねー!
スタープレイヤーのUが特に欲しいけれど・・・
群青日和とかで使ってた、シルバーのギラギラもいいなぁーー
前に放送した、僕らの音楽の、丸の内で浮雲が使ってた、
ギターの名前知ってる方いますか??
あの僕音バージョンの曲の出だしが最近猛烈にはまっるんです・・・・
丸の内を初めて聴いた時 その前年度ぐらいに中村一義が出した 「金字塔」ってアルバムを思い浮かべたの俺だけ?
566 :
名無しにして頂戴 :2006/04/13(木) 00:54:47 ID:suFl4EBB
知らんから思い出すこともできん
中二病が多いスレですね
正直中二病を卒業した奴は、2ちゃんに来ないで欲しい。 正論なんてどこでも聞くことはできるんだから
マーシャン…
LIVEで最後に言う英語、なんて言ってるんだ? 聞き取れん…
青噛んで熟って頂戴
age
>>568 その理論からいくとあなたは中二病ということになるんだが・・・・
>>576 そのままでは?
林檎好きは間違いなく、みんな中二病。
ああ、やっぱり林檎好きは中二病なのか。
579 :
名無しにして頂戴 :2006/12/31(日) 23:54:02 ID:nSPfNGzJ
さみしす
アケオメ。
>>572 I'm looking for...I knew the way to fly
って聞こえない?
I'm looking for...A new way to fly
飛んじゃって 大変さ あけおめ☆
583 :
名無しにして頂戴 :2007/01/02(火) 23:45:21 ID:Rr1FWBkA
丸ノ内聞いてたら東京いきたくなってきた
584 :
名無しにして頂戴 :2007/01/06(土) 20:38:46 ID:8k8hTlMt
東京いきたいね
585 :
名無しにして頂戴 :2007/01/07(日) 20:46:36 ID:ClJ27q6w
10月に修学旅行で東京行った。田舎モンには未来都市だね。
586 :
名無しにして頂戴 :2007/01/07(日) 21:25:25 ID:C7ZLrH40
マーシャル ギターのブランドの名前
587 :
名無しにして頂戴 :2007/01/09(火) 13:15:21 ID:dRdV0cr7
Not looking for a new way to dieにきこえる
原曲の曲名ってnew way to fly だっけ?
590 :
名無しにして頂戴 :2007/01/10(水) 14:43:13 ID:f1iH0Kbu
19万ももっていない 誰か頂戴
やだね
新しい死に方 new way to die
じゃぁ10万でいいから誰か頂戴
ん?
ふう
おーい
はい
600 :
名無しにして頂戴 :2007/07/07(土) 07:20:09 ID:6gm04sRf
携帯記念
602 :
名無しにして頂戴 :2007/07/07(土) 10:02:10 ID:9CNc1iUq
マンションの臭いでとんじゃって大変さ
バルサンのにおい焚いちゃって大変さ
604 :
名無しにして頂戴 :2007/11/15(木) 05:16:41 ID:+Kvs2vvR
本州は入社後「へい抗戦でい!」 東京「わーい瀬戸!」何にも無い 立憲セックス通「おお頂戴!」 「19万も持てないっちゃ」っのみZOO! 「麻雀飲み、おいで」飛んじゃって大変さ 美味いパンで町人 足しているだけ ブラット一つ 王将 梅毒にしてるさ そしたらベンジーが「胚乳」つってトリップ 殺菌は便座で 警官ボッコ 公共は故意でも乗車 必衰 漁師「嘘書いて頂戴」 税理士「何てついていない、こりゃ食えん!」 師匠、内臓になって結婚して欲しい 「美味いパン、チン!」具で忠義するだけ 伊澤の彼女になってみたい そしたらベンジーあたしをグレッチで殴って 「あかんで」言って頂戴 終電寝返るって わい「てぶくろ!」
>>604 うまい!伊澤の彼女になってみたいって(笑)
ワロス。
凄いスレだな!林檎板住人の蘊蓄と妄想に脱糞しそう。今となっては糞スレ立てた>1に感謝
608 :
age :2007/11/15(木) 12:26:38 ID:jJ/r9qoy
>604 サイコウす
「殺菌は便座で警官ボッコ」 すげーセンスいいww
スパトリの丸サディどんな感じなんかな
原曲のピアノ分がちょっと多めって感じだった。 師匠のベースソロも原曲どおり、きちんとありました。
あー生で聴きたかったな 早くDVDでねーかな
で、DVDいつ出んの
614 :
名無しにして頂戴 :2007/12/02(日) 14:23:46 ID:vXZiyo9L
ネタバレスレにフジの721でライブの模様が流れるってあった。 DVDでないと思うよ。でてほしいけど。
丸の内がカットされませんように
617 :
名無しにして頂戴 :2007/12/21(金) 12:21:58 ID:h6SSCOh0
お願いします
>>616 色んなライブレポに"椎名林檎ソロ時代の楽曲も披露"みたいなこと書かれてた(丸サディしかやってないのに)から丸サディはやるさ
>>610 いつぞやの僕らの音楽でのアレンジだったよ
いや、あれよりテンポうpして軽快な感じだったぞ。 ベースは原曲に近い感じ。
うむ。師匠のベースソロが素敵すぎてやばかった。
622 :
名無しにして頂戴 :2008/01/04(金) 23:10:05 ID:qAbgkgOJ
age
>610 新しいバージョンの鍵盤からはじまるパターン。 僕らの音楽みたくジャジー過ぎず、ジャジーが原曲に近くなってノリが易くなった感じ。 太鼓が裏から入ってないからそう感じるのかも。 六弦はワウ多用。 間奏の長さはいつもと同じで、師匠の原曲通りのソロ有。ちなみにウッドベースじゃなくていつもの方。 将来僧に〜は浮とユニゾン。最後は、I'm looking for〜で、浮とハモり。 Time goes by.(いつも通りな)thank youで終わり。 一回目の肺に移って〜の後に、二階の皆さん如何お過ごしですか?お元気ですか?手前共は元気だよぉ。と煽り(?)有。 終電で帰るってば〜箇所で脚を上げるサービスも有。 最後のピザ屋〜らへんで、気持ち悪い客の手が入る(笑)
ニコニコ スレ違いだけど
2:破壊神宣伝部長 08/26 21:33 ??? [sage]
青姦でいいからさっさと射精しる!終電で帰るから!
3:08/26 21:34 ??? [sage]
ピザ屋なんかと付き合っちゃってミジメなあたしを
ベンジーにグレッチで殴打してもらいたい
4:08/26 21:36 ??? [sage]
給料はちっとも上がんねぇし、まぁ悪くはない生活だろうがよくもない。
しょうがねぇからネタでも食うか
6:08/26 21:40 ??? [sage]
ネタ食いたいけど金ないし銀座のイメクラでバイトしたら
警官のコスプレさせられて客外人だし参ったねこりゃ。
7:08/26 21:45 ??? [sage]
将来はやっぱ僧でしょ。宗教法人。税金なんて馬鹿馬鹿しくて
払ってられっか。つっても教えとかひろめんのダリーから適当に任せて
自分は毎晩ヤってりゃいいや。
8:08/26 21:46 ??? [sage]
キン肉マングレートにマーシャルアーツキック食らったんだけど
臭いだけで失神しそうなくらいワキガだった。
9:08/26 21:47 ??? [sage]
近所のピザハットの店長がめちゃくちゃかっこいい
10:08/26 21:48 ??? [sage]
>>1 あと何がわかんないの?
歌詞全部貼れや
12:08/26 22:05 ??? [sage]
>>1 ねぇ、マーシャンって何?
ねぇ、教えてよあたしに。
教えて頂戴よ。
マージャン?
麻薬ちゃん→まーしゃん と解釈しておりました
ベンジー…浅井健一。「あかいたんばりん」 グレッチ…ギターメーカー。ベンジーの愛用ギターがグレッチのギター。テネシアンローズ。 リッケン620…リッケンバッカーというメーカーのギター。ギブスのPVで使用。 お茶の水…都内(全国?)一の楽器屋街がある。ギターだらけ。林檎はリッケンを新大久保で買ったと言っていた気がする(ソースは忘れた・・・) マーシャル…ギターアンプ。電源いれると、暖まって・・・。PCが熱もてば匂いするのと一緒。 ラット…ギターエフェクターの一種。オンにすると歪んだ音に変化する。 林檎がラット一つで商売しているのをみたことはないが、峯田和伸はラット一つをフルテンにして踏みっぱでバッキングをしていた・・・。ちなみに峯田もリッケンバッカー愛用。
何故ピザ屋の彼女になってみたいのか?
631 :
名無しにして頂戴 :2009/01/26(月) 17:18:56 ID:kSvtBrvL
将来僧になって結婚してほしい 毎晩神宮で祝儀するだけ とおもってた
林檎えきすぽ丸の内無いとかマジか
633 :
名無しにして頂戴 :2009/02/14(土) 00:15:25 ID:ORzoSkrS
終電で帰るの荻窪のほうがよかったな
受験で大学行くのに何ルートかあるときはわざと丸の内線使ったよw 後楽園のジェットコースターにまた乗りたい…
もうなんでもいいんじゃね?
質問スレ見て「え?チューキッスなんじゃないの?」と思ってこのスレ来てみたら、
>>469 が自分のレスでびっくりした。当時の自分がわかっていたことを今の自分は忘れてしまったようだ・・・
5ヶ月前近いレスにわざわざ下らんレスをする気持ちが分からん
三文ゴシップの丸の内サディスティックの歌詞が知りたいです。
SONGS!
642 :
名無しにして頂戴 :2009/09/15(火) 19:29:50 ID:8hxCc/9l
昔のほうが好きとかゆう奴結構いるけど何? 分かる。その気持ち。賛成ッス。
昔も今も「椎名林檎」
644 :
名無しにして頂戴 :2009/09/15(火) 23:01:01 ID:gozW7fzS
東京事変は、聞かないけど椎名林檎は好き。 やっぱり、人を惹きつける魅力があると思う。。
東京事変も椎名林檎
646 :
名無しにして頂戴 :2009/10/12(月) 23:07:08 ID:dFIeyKin
久々にきたらすごい過疎ってるけど・・・