輪るピングドラム180th STATION

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312名無しさん@お腹いっぱい。
震災後に行われた大塚英志と宮台真司の対談において、宮台は《一〇〇〇回も目撃してき
たルーティンの一〇〇一回目を目撃しただけのことだ》(大塚英志、宮台真司「愚民社会」)
といつもの姿勢を崩していないが、大塚は憤りを隠していない。

震災ではそういう「土人」ぶりが図らずも露呈した。『atプラス』で書いたエッセイで今回
の震災後の寄付合戦みたいなことを「ポトラッチ(蕩尽、消尽)」という言い方をしても、
誰もその皮肉に気づいてくれませんでしたが、栗本慎一郎なんかがいっていた輝かしい経
済人類学用語ですよね。もっと不穏当で心ない言い方をしますけど、「これで日本経済復興
するぞ」っていう震災後の高揚感なんて、富が空からやってくるという「カーゴ・カルト」
でしょう、といったほうが僕の中ではすっきりするんです。(大塚英志、宮台真司「愚民社
会」)

震災直後の日本社会に一体感がみなぎっていたということはよく聞かれる。これには、被
災地への同情も含まれていたのであろうが、「これで日本経済復興するぞ」という高揚感が
含まれていたことも疑いない。失われた二十年において、グローバル化という環境の変化
に対して、日本型システムはその場しのぎの対応しかしてこなかった。日本型システムの
疲労は蓄積し、社会はバラバラになっていった。そうしたなかで、東日本大震災が起こっ
たのであるが、被災地への同情によって、バラバラになっていた社会は一体化し、それに
より「日本経済復興するぞ」と感じられたのであろう。社会の一体化があれば日本経済が
復興するというのは、昭和のころの記憶に引きずられたものであり、日本経済が復興する
にはグローバル化という環境への対応が不可欠である。それを怠っているのに、震災を契
機にして復興を期待するというのは、どこか他力本願という感は否めない。それでも震災
後の社会の一体感は自生的なものであった。
しかし、このような社会の一体感を原発事故は壊した。福島第一原発一号機の建屋が吹き
飛んだのは震災の翌日であるから、社会の一体感は一日にして潰えたことになる。「日本経
済復興するぞ」どころではなくなったのである。
しかし、社会の一体感は別の形で求められることになる。放射能を分かち合うことによる
一体感である。米アトランティック誌はこういっている。

瓦礫を閉じこめることは、すでにやっかいな「汚染」と「非汚染」地域の目に見えない境
界線をはっきりさせ、前者に不当な汚名を着せる。おそらくそれが広域焼却の動機の一部
だろう。一つの地域を長期の「汚染」ステータスに運命づけるよりも、日本のあらゆる地
域に放射能のタブーの重荷を分担させる。みなが「汚染」されていれば、相対的に言えば、
誰も汚染されていないことになる。(Japan's Latest Nuclear Crisis: Getting Rid of the
Radioactive Debris By Michael McAteer)
313名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/08(金) 14:26:07.26 ID:BVxHXRT70
放射性物質は封じ込めるのが原則である。しかし、原則はあっさりと反故にされ、希釈政
策とドイツ人が命名したものが原則となった。このような命名さえ日本人には出来なかっ
たのである。逆に封じ込められたのは希釈政策への異論である。このように原則を翻した
のは、そうすることが日本社会にとってしっくりするからである。

このシステムではツリーのどこかに切実な「痛み」が発生しないかぎり、重要な決定をつ
くりだせない。問題の発見と解決とを「痛み」という利害感情に変換して行う、まさにそ
のために現在の問題にしか対処できないのである。未来の、まだ「痛み」が生じていない
問題。今対処すれば軽くすむが、手当をおこたれば、近い将来必ずすさまじい「痛み」を
もたらす問題。こうした問題に対して、日本的な決定システムは構造上うまく対処できな
い。(中略)日本的社会はこの「痛み」をわかちあう決定システムの下、いわば相互に「被
害者」となりあうことによって、「共同体」たりえてきた。(佐藤俊樹「近代・組織・資本
主義」)(「現在の」に傍点)304~5頁

地方の「痛み」を、中央を介して、全国で分かち合う。これが日本社会の原則である。希
釈政策はこれを放射能に当てはめたものである。封じ込めなど論外である。日本社会の行
動様式は他者の期待に添わなければならないというものであるから、全国は「痛み」を抱
えた地方の期待に添わなければならない。
もちろん、全国が分かち合う「痛み」が死に至るようなものであれば別であろう。しかし、
「痛み」といっても大したものではない。なぜなら、テレビやラジオに出てくる専門家に
よると「100ミリシーベルト以下は心配無用」だからである。応援とは100ミリシー
ベルト被曝することである。しかし、「100ミリシーベルト以下は心配無用」であるかど
うかは疑わしい。

飯舘村や福島市、さらには郡山市などでの広範な放射能汚染が判明し、避難地域の拡大や
除染の必要性が明らかになると、テレビやラジオに出てくる専門家の論調は、「すぐに健康
への影響はありません」から「100ミリシーベルト以下で健康影響は観察されていませ
ん」、あるいはさらに踏み込んで「100ミリシーベルト以下では影響ありません」へと切
り替わった。この変化の裏で何があったのか、私はいまだに理解しかねているが、そうし
た「100ミリシーベルト以下心配無用説」は、これまでに蓄積されてきた放射線被曝影
響に関する基本的な科学的知見に反していると私は考えている(文献[7])。(今中哲二「低
線量放射線被曝」)

ICRPの勧告はこういっている。
314名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/08(金) 14:26:48.48 ID:BVxHXRT70
基礎的な細胞過程に関する証拠は、線量反応データと合わせて、次の見解を支持している
と委員会は判断する。つまり、約100ミリシーベルトを下回る低被曝量域でのがんまた
は遺伝性影響の発生率は、関係する臓器および組織の被曝量増加に比例してい増加すると
仮定するのが科学的に妥当である、という見解を。(国際放射線防護委員会2007年勧
告:ICRP Publication 103、日本アイソトープ協会(2009))

しかし、その場がしのげるのであれば、官僚としてはそれでいいのである。なぜなら、彼
らは限定された任期しかそのポストにいないからである。日本社会には希釈原理がしっく
りくるのだし、それをせず、封じ込めを行うとすれば《「汚染」と「非汚染」地域の目に見
えない境界線をはっきりさせ》なければならないことになる。それをすると責任が自らに
生じかねない。また、「汚染」地域の人々に対して、そのように告げることは、心苦しいこ
とである。

これはどういうことか。間が悪い、ばつが悪いといった私人の間の気がねが、それぞれの
国を代表する外相と大使との公式の、しかも最も重大(クリティカル)な時期における会
見の際に東郷を支配して、眼前に既に勃発している明白な事態を直裁に表現するのを憚ら
せたということだ。更にこの東郷の態度の裏には真珠湾の不意打ちに対する内心のやまし
さの感情も入り交っていたかもしれない。いずれにしても相手の気持ちの思いやりもここ
まで来ると相手に対する最大の侮辱と等しくなる。(丸山眞男「軍国支配者の精神形態」)
(「やましさ」に傍点)

汚染地域の人々には「放射能は安全である」という期待がある。官僚はその期待に添わな
ければならない。彼らに汚染を告げるなどすれば、官僚のか弱いハートが折れてしまうで
あろう。《いずれにしても相手の気持ちの思いやりもここまで来ると相手に対する最大の侮
辱と等しくなる》のかもしれないが。
しかし、どうして、汚染地帯の人々には「放射能は安全である」という期待があるのであ
ろうか。

だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないの
である。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていた
わけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が
別の誰かをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり
日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかし
さや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にか
つ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ちにわかることである。(伊丹
315名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/08(金) 14:27:41.72 ID:BVxHXRT70
万作「戦争責任者の問題」『伊丹万作全集』1)

自己が「放射能は危険である」と期待していたとしても、他者が「放射能は安全である」
と期待していると期待されるとすれば、自己は他者の期待に添わなければならない。そこ
で、他者に「放射能は安全ですか」と問われれば、自己は「安全に決まっていますよ」な
どと答えることになるのである。自己としては他者をだましたことになるが、自己が「放
射能は安全ですか」と問うても、他者は「安全に決まっていますよ」などと答えるであろ
うから、互いにだましたりだまされたりしていることになる。
マスクを付けるなどもっての他である。他者が「放射能は安全である」と期待しているの
にもかかわらず、その期待に違背することになるからである。
このようにして、全国に放射能を分かち合うことによる一体感が生まれたのであるが、「風
評被害」がなくなったかといえば、そうでもない。次のような態度が一般的である。

調べてまで食べたいと思わないもんね。キノコは全部駄目と仮定する方が簡単で楽。同じ
ように関東の物はなるべく買わないと決めるのが一番簡単で分かり易い。外食や加工食品
は深く考えてないから普通に食べるけど、産地表示のある関東の物は買わない。私の周り
では、そんな感じの人がいちばん多い。(放射脳にうんざりしている奥様26-163)。

しかし、このような態度は政府としてはそれほど問題ないのである。汚染地帯の物は外食
や加工食品の中に混ぜればそれで済むからである。このような消極的抵抗に対しては見て
見ぬふりをすればいいのである。問題は積極的抵抗をする人々である。これらの人々に対
して、政府は非常に残虐である。

普通には残虐な支配はないが、いったん権威信仰の雰囲気的なわくに入って来ないとみる
と逆に非常に残虐になる。これは家族的原理の中に入って来ないものに対する「敵」への
憎しみに外ならない。(中略)中心となる権威が赤裸々な人間の支配としてあらわれず、雰
囲気的な支配としてあらわれるのが特色である。(丸山眞男「日本人の政治意識」)(「わく」
に傍点)

希釈政策に対する積極的抵抗が「雰囲気的なわく」に入らないことは明らかである。それ
ゆえ、政府は容赦なく弾圧している。下地准教授はそのあからさまな犠牲者であろう。し
かし、再稼働反対は逆に新たな「雰囲気的なわく」になりうる。これは日本的なものとし
っくりするのである。再稼働反対デモは、再稼働反対というシングルイッシューで行われ
ており、希釈政策については中立ということであるが、このようなものに中立ということ
は、賛成していると見做してかまわないであろう。つまり、一億総被曝と原発放棄はセッ
トなのである。太平洋戦争の処理として、一億総懺悔と戦争放棄が行われた。これは、戦
316名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/08(金) 14:28:27.17 ID:BVxHXRT70
争を起こした責任はみなで負い、懺悔する、そして、戦争そのものを放棄することで、悲
劇を繰り返さないとするものである。原発事故の処理にも同じような便法を用いようとい
うのである。つまり、原発事故を起こした責任はみなで負い、被曝する、そして、原発そ
のものを放棄することで、悲劇を繰り返さないとするものである。
原発事故を起こした責任がみなにあるというところは釈然としないが、地震大国であるに
もかかわらず世論が原発を認めたことによるのであろう。しかし、原発事故は政府事故調
によると津波対策さえきちんとしておけば防げたのであり、このような不備にまで国民に
責任があるとはいえないだろう。規制する側が規制される側の期待に添った規制しかしな
かったことから、このような不備が生じたのであろうが、これではおよそ規制が求められ
ることはこの社会では行なってはならないということになるだろう。
このように一億総被曝と原発放棄による「雰囲気的なわく」が出来上がりつつあるように
も思われるが、そのような「雰囲気的なわく」は他にも指摘されている。大塚英志はこう
いっている。

母子の問題ですが、震災後の一部の母親の言説はやはり「おかしい」というべきです。ぼ
くは母親ではないから分かりませんが、「原発」であれこれと動いている母親は自分と子供
が完全に一体化して、自我の延長としての子供がある気がしてならない。「子供のため」と
いいますが、自分の体、自分の身体の延長に放射能が飛んでくるから、だから嫌だという
生理的な反応が「子供を守れ」という言い方で正当化されていませんか。その想像力や危
機意識の「閉じ方」がぼくは嫌です。
だいたい母子がシンクロしたときには、この国はロクなことはないんです。母子単位での
「セカイ系」です。(大塚英志、宮台真司「愚民社会」)

母子単位で「雰囲気的なわく」が出来ているということのようである。ここに彼が震災後
に感じた憤りの元があるのであろう。しかし、ここには誤認があるように思われる。一般
的に、母の愛は無条件の愛とされる。これはこれで「母性という神話」なのかもしれない
が、しかし、日本においてはそうではない。母が子を愛するのは、子が母の期待に添う限
りなのである。そして、子が母の期待に添い、母が子の期待に添うことで、母親と子供が
一体化する。母の愛が無条件であれば、子は母を離れることも出来るだろう。しかし、こ
のように条件付であるがゆえに、母と子は離れることが出来ない。そして、母の期待は汎
人称的期待と通じている。《母即(すなわち)世間なることを思へ》(島田清次郎)とはそ
ういうことである。
日本的な母は母性的ではない。大塚の誤りは、母性的なものと日本的なものを区別してい
ないことである。それを区別していないから、子供を放射能から守るという母性的なもの
から出た行動を非難することになる。大塚は日本型ファシズムを「母性的ファシズム」と
考えているが、これも同じ誤りから来る。
317名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/08(金) 14:29:30.63 ID:BVxHXRT70
日本社会の行動様式は他者の期待に添わなければならないというものであり、日本型ファ
シズムはそれが極端化したものと考えるべきであろう。他者の期待に添わなければならな
いとすると、どこまで期待に添っていいか分からないので、自己は過剰に他者の期待に添
うことになる。そして、それが美談として顕彰される。そもそも美談は美しくない。日本
は美しい国ではなく、美談の国である。
震災後は東京電力の記者会見に見られるような無責任さが随所で見られたために、美談は
それほど発掘されなかった。そのようなものを発掘しても、他者の期待など意に介さない
無責任さにより打ち消されてしまい、意味をなさないからであろう。代わりに「風評被害」
やら「食べて応援」やらといったスローガンが連呼された。これらはサブリミナル的なも
のとして、意味をなすのかもしれない。
しかし、南三陸町の女性職員が津波にさらわれるまで避難放送を続けたというエピソード
は例外である。これは美談といっていい。行政が避難放送を行うという市民の期待に対し
て、過剰に添っているからである。このエピソードは埼玉県道徳教材に「天使の声」とし
て採用されたが、これには非難が殺到した。このような非難は理解できる。このようなエ
ピソードを顕彰することは、期待に過剰に添うことを強いているようにも考えられるから
である。実際には、女性職員は津波にさらわれるまで避難放送を続けたわけではなく、津
波が来るまでに避難放送を終えたものの、逃げ切れなかったということのようである。し
かし、これでは美談にはならない。期待に過剰に添っていないからである。
忠犬ハチ公も飼主の期待に過剰に添ったからこそ、銅像にまでされたのである。これを名
犬ラッシーと比べれば、彼我の差は明らかであろう。ラッシーは飼主の期待に添ったので
あるが、別に過剰に添ったわけではない。ラッシーは新たな飼主から逃げてでも、飼主の
元に戻ろうとしたのであるが、この行為は抗事実的に期待を貫徹するものである。捕虜に
なった日本兵が既成事実に屈服し、取り調べる米兵の期待に過剰に添ったこととは対称的
である。名犬ラッシーはオデュッセイアを思わせる英雄譚である。ダウンタウンのごっつ
ええ感じ第132回放送(1995年03月05日)において、ザ・対決#52名犬ラッシーvs忠
犬ハチ公という企画が行われたが、これは犬の戦いを超えている。これは英雄譚と美談の
代理戦争なのである。
《恐怖国家ソ連は作業員は英雄。奴隷国家日本は作業員は雑巾》(原発情報2905-278)であ
ることも、これに対応する。ソ連の作業員が英雄とされるのは抗事実的に期待を貫徹した
からであり、日本の作業員が雑巾止まりなのは期待に過剰に添っているとまではいえない
からである。期待に過剰に添うのは下位のものである。下位のものが期待に過剰に添うこ
とを美談として顕彰することで、自発的に奴隷であれと刷り込んでいるのである。全ての
英雄は顕彰されるだろうが、全ての奴隷が顕彰されることはありえない。過剰に期待に添
わない奴隷はただの奴隷である。
しかし、下位のものは過剰に期待に添うどころか、全く期待に添っていないこともしばし
ば見られる。除染を請け負いながら、土を集めてきて川に捨てたりしているのである(朝
日新聞2013年1月4日付)。下位のものが期待に添うのは、引き続いて上位のものが期待
に添うことが見込まれるからである。今そのような見込みはない。