勇気を出せ。10数えるうちにやれ。9、8、7、6、5、4、3、2、1、
浅羽は、餌《えさ》をねだる子犬のような声を上げた。
だめだ。刃を引っ込めるな。まだ一ミリも切っていないぞ。まだ血も出ていないぞ。
違う、それは汗だ。さあいけ、刃をもう少し刺し込んで上に動かせ。
膝《ひざ》ががくがく震《ふる》え始めた。少しでも油断したら、カッターを持っている右手も震え出しそうだった。
もう刃先は肉の中に入っている。痛みと痔《かゆ》みの中間のような感触がある。
この状態で手が震え始めたらどうなるのか。それが恐ろしくて、右手から力を抜くことができない。
右手から力を抜くことができないと刃を進めることができない。
歯を進めることができないと傷口を広げられない。傷口を広げることができないと電波虫を取り出せない。
電波虫を取り出せないと伊里野《いりや》を助けることができない。
刃を進めた。
恐怖の悲鳴を上げた。
悲鳴はタオルに吹き込まれる呼気となり、滴り落ちる唾液《だえき》となって膝を濡《ぬ》らした。
等身大で先の想像がつく、まさに最悪の恐怖だった。その恐怖に比べたら、傷がもたらす苦痛など物の数ではなかった。
自分はこれからどうなってしまうのか。今度のこれは汗ではない、シャツの肩口に染み渡っていく生温《なまぬる》い感触。
どんどんあふれてくる。肩にホースで血を浴びせられているような気さえする。恐怖が苦痛で苦痛に恐怖する。
もう何も見えない。目を開けていられない。最初は言い訳のつもりだった腹痛が本物になってきた。
肉の中で刃先をねじると痛みに目が眩《くら》む。しかし、そうしないと電波虫の場所を探ることができない。
もっと深いのか。もっと深く切らなくてはいけないのか。
なぜこんなことをしているのか。なんで自分はこんな目に遭わなくてはならないのか。
怒りは手触りがよかった。それにすがれば気力を奮い起こせそうな気がした。
しかし、意味のある量の怒りをかき集めることが難しい。
ちっぽけな怒りなど、圧倒的な恐怖や苦痛にひとたまりもなく押し流されてしまう。刃先を進める。
手の動きが次第に、首の肉をスプーンですくうようなものに変わっていく。それでも電波虫は見つからない。
恐怖と苦痛にすすり泣く。絶対に目を開けてはならない。血の色を見てしまったら身動きもできなくなると思う。
見えていない分だけ恐怖に負けて、自分は傷の大きさや深さを過大評価しているはずだ、絶対に。
傍《はた》から見たら、便座の上でバカ丸出しの格好でのたうちながら、
自分の首に自分でみみっちい傷をほじくって虫が見つからないとわめいているだけだ。
えぐった。
音が聞こえた。
それまでとは違う、真っ白な苦痛が来た。
気がついたときにはタオルを口から吐き出して、便座と個室の壁《かべ》の隙間《すきま》に挟まって泣き喚《わめ》いていた。
うわあ、うわあ、うわあ、うわあ、うわあ、うわあ。
まるっきり幼稚園児のような、自分でも信じられないような泣き声が自分の口から迸《ほとばし》り出ていた。
目を開けてしまっていることに気づいたときにはもう何もかもが手遅れで、
血みどろの右手と血みどろのカッターがはっきりと網膜に焼き付いてしまった。
おまけに刃が折れていた。
折れた刃先を抜き取ろうとして傷口に触れてみた。
ない。どこかに抜け落ちてしまったのか と思ったそのとき、傷口からほんの数ミリだけ飛び出している金属の突起に気づいた。
折れた刃は、首の傷口の中にほぼ完全に埋まっていた。
泣くしかなかった。
もういやだった。もうやめたかった。野外の便所の床に転がっていることなど、もはや何の問題でもなかった。
唐突に癇癪《かんしゃく》を抑えきれなくなって、手足をでたらめに振り回して個室の壁《かべ》を打った。
その癇癪を叩《たた》き潰《つぶ》したのはやはり首の傷口で、果てしなく続く苦痛が何もかも溶かしてしまう。
傷口に刺さったままの刃先を抜き取る、という絶望的な未来は目と鼻の先に転がっていて、気の遠くなるようなその山を越えることは、今度こそできそうにない。
傷口に触れてみる。
指先で傷口を恐る恐る押し開いてみる。苦痛が強まる。苦痛がどんどん強まっていく。
涙と鼻水と涎《よだれ》でべとべとになった顔が、自分の意思とは無関係に歪《ゆが》んでいく。
刃先を指でつまむことがどうしてもできない。右手をズボンの太ももで拭《ぬぐ》ってもう一度挑戦する。
今度は、意識して傷口の中に指先を入れようと試みる。
信じられない感触。
やはり敵は苦痛よりも恐怖だった。たとえごくわずかであれ、指が首の中に入っているという事実が恐ろしかった。
便所の床に横たわっている足が、自分の意思とはまったく無関係にがくがく震《ふる》えている。
スニーカーの底が規則正しく扉を叩いている。早く終わらせたい。
もう何がどうなってもいいから、とにかく傷口から刃先を抜き取りたい。
つまんだ。
引き抜いた。
そのまま指先から力が抜けて、抜き取った刃先はどこかへいってしまった。
顔から血の気が失せている。それが自分でもはっきりとわかる。
なぜ。
どうして、首筋にカッターの刃先が刺さっていたんだっけ。
右手が、身体《からだ》の周囲の床をまさぐり始めた。
カッターがどこかに落ちているはずだ。
時間がないのだ。
早くカッターを探し出して、今度はもう少し短めに刃先を出して、その刃先をもう一度ライターで炙《あぶ》って、
そして、もう一度この傷口と戦わなくてはならない。電波虫を穿《ほじく》り出すために。
追手に居場所をさとられないようにするために。伊里野《いりや》を助けるために。
右手が、ようやくカッターの在処《ありか》を見つけた。
便所の床から起き上がる。山によじ登るような思いで便座に這《は》い上がる。ライターは、ライターどこだ。
ポケットの中だった。刃先は少し短めに。今度は折れたりしないように。
炎で炙《あぶ》ると、うっすらとした煙が刃先に巻きついた。刃にこびりついた血が焼けているのか。
よし、もういい、今度は一気にやる。それがコツだ。ぐずぐずしているとかえって痛くて怖い。
大丈夫だ。やれる。
深呼吸。
えぐる。
苦痛も恐怖も、すべて叫び声にして口から外に出してしまえばいいと思う。いくらでも叫べばいいのだ。
刃先が肉の中にある小さくて固いものを探り当てる。コオロギの声を聞いたように思う。
個室の外に誰《だれ》かがいる。
誰かが、個室のドアを叩《たた》いている。
ノックなどではない。
それは拳《こぶし》ですらなくて、両手でなければ扱えないくらいのハンマーを振るって叩きつけているような、
ドアを丸ごと打ち抜こうとするかのような打撃《だげき》である。
便所のドア如《ごと》きが途方もないその衝撃《しょうげき》にいつまでも耐えられるはずはなく、
掛け金が弾《はじ》け跳び、ドアは蝶番《ちょうつがい》ごと外れて斜めに傾《かし》いで床に落ちる。
そのドアを引き戸のように押しのけて、伊里野《いりや》が個室に飛び込んできた。
飛び込もうとして、壁《かべ》に突き当たったかのように足を止めた。
血痕《けっこん》にまみれた個室の中で、浅羽《あさば》は伊里野に半ば背を向けて立ち、
ゆるく握った右の拳をボディブローでも打つような格好で突き出していた。
その首筋には葉書ほどもあるガーゼが貼《は》り付けられており、傷口からの血を吸い上げて真っ赤に染まっている。
シャツの右半身も血に浸したような有様だ。
突き出した右の拳の真下には、緑色の汚物入れが口を開けていた。
浅羽は、拳を解《ほど》いた。
拳の中から、小さな何かが汚物入れの中に落ちて消えた。
本当にちっぽけな、白金色をした何かだった。
浅羽が振り返る。首筋のガーゼに血を搾るような皺《しわ》ができる。
「行こう」
言葉もなく立ち尽くす伊里野の姿を見て、血の気の失せた頬《ほお》がようやく和んだ。