ついてこようとする伊里野には、部屋で待っていてくれと言い置いた。ちょっとトイレに行くだけだから、すぐに戻ってくるから。
グランドには、まったく同じ作りのトイレがふたつある。部室長屋から遠い方のトイレに入り、浅羽は照明のスイッチを手探りした。
黄ばんだ蛍光灯《けいこうとう》の光に照らし出されたタイル張りの壁《かべ》が、まさしく公衆便所といった臭《にお》いを四角く閉じ込めている。
どこかの物陰でコオロギが鳴いていた。
一番奥の個室に入って、後ろ手に扉を閉め、鍵《かぎ》を閉めた。
じめついた床にダッフルバッグを置いて、ふたを下ろしたままの便座に座る。
バッグのファスナーを開けて中身を引っかきまわす。
まず、救急箱を引っぱり出して、必要なものをすぐに取り出せるようにフタを開けて床に置いた。
次いで、適当に折ったタオルを口にくわえた。
大きく口を開け、奥歯に届くまで深く噛《か》みしめる。
最後に、工作用のカッターナイフと使い捨てライターを手に取った。
5センチほど刃を出して、ゆっくりとライターの炎で炙《あぶ》っていく。
ライターを消した。
他《ほか》に何か準備することはないかと辺りを見回した。何かあるはずだ。何か忘れている。
準備不足のまま始めるわけにはいかない。絶対に何か忘れている。
何かないのか。
何もなかった。
本当にやるのか。そんな思いが初めてわき起こった。
タオルを通して大きく深呼吸する。もう一度。さらにもう一度。あと一度だけ。あと一回。
本当にやるのか。
左手の指先で、電波虫の位置を確かめる。
部室長屋からこのトイレに来るまでの間に奇跡が起こって、電波虫が溶けてなくなっていればいいと思う。
しかし虫はやはりそこにいて、浅羽《あさば》の位置をデジタル信号で発信し続けている。虫は二匹。
バッテリーとアンテナ。どちらか一方を潰《つぶ》せばいいのだ。
穿《ほじく》り出すのが簡単な方をやればいいのだ。
右手を動かす。
刃を上に向けて、電波虫のいる位置に切っ先を当てる。刃先に乗り移っているライターの炎の余熱を感じた。
目の前が暗くなる。
身体《からだ》中から冷や汗が噴《ふ》き出してくる。本当に、本当にここまでしなければならないのか。
右手が動かない、というのはまぎれもない自分に対する嘘《うそ》で、本当は右手を動かす気になれないのだ。
早くしろ、もう時間がないぞ、伊里野《いりや》が部室で待ってるんだぞ。
そんな言葉が脳裏を次々と過《よ》ぎっていくが、それがただのお題目であり、
ただの空疎な言葉の羅列《られつ》にすぎないということは自分でもよくわかっていた。
本心は、そんなものでは頑として動かない。痛いのはいやだ、彼の主張はひたすらその一点のみ。
早くしなければ。
焦る。早くしないと白いバンが来て、伊里野を連れ去っていってしまう。焦りのあまり涙がにじむ。焦りのあまり股間《こかん》がむずむずする。
なぜかペニスが勃起し始める。こんなときに。自分はどうかしているのではないかと思う。口の中のタオルはすでに濡《ぬ》れそぼっていて、
唾液《だえき》が糸を引いてひざに滴り落ちるが、そんなことに構っている心の余裕がどこにもない。己が首筋にカッターナイフを突きつけて、
すでにどのくらいの時間がたったのか。最初にやるぞと決心したのは何分前のことだったのか。そのときに勇気を出して始めていたら、
今ごろはもうすべてが終わっているような気がする。ずるい。うらやましい。代わってほしい。仮定の話の中の自分をうらやんでどうするのか。
そいつと同じ勇気を今ここで出せ。今すぐ始めろ。血も流す命も賭《か》けるなどとほざいたのはどこのどいつだ。
その舌の根も乾かないうちにこのザマか。泣くな。早くやれ。白いバンが来る。伊里野が連れ去られてしまう。カッターが汗で滑る。
嘘《うそ》をつくな、やめろ、カッターから手を離すんじゃない、手を離したらもう二度と触る勇気を奪《ふる》い起こせなくなるぞ。
腹が痛い。ならそっちの痛みを感じでいる隙《すき》にやってしまえ、どうした、まさか腹痛が治まるまで待つつもりか。
冗談じゃないぞ、その前に夜が明けるぞ、伊里野が連れ去られるぞ。よく聞け。大げさに考えすぎている。大したことじゃない。
首の皮をちょこっと切って、鼻くその親玉みたいなやつを取り出すだけだ。ただそれだけの話だ。
もっと大きな怪我《けが》だって何度もしたことがあるだろう。
そんなのよりずっとマシだ。