serial experiments lain

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412ほとり@f136022.ap.plala.or.jp
 倫理観、世間体、協調性、それらは今日まで人類が行ってきた経験と歴史的事実によって生み出された
「こうすれば、人と人とは上手くやっていけるだろう」という、一つの指標であるでしょう。
 しかしそれらが、こうも永くにわたり続いてきた人類の歴史において、未だに完成を遂げていない理由は
なんなのか、未だに世界に蔓延する不条理や悲しい事がなくならないのはなぜなのか、私はこう考えます。

 今日まで私たちは、わざわざ遠い距離を出向いて、相手の顔色を伺いながらそれぞれの思惑の渦巻く
「会話、会議」という不自然で不確かな形のコミュニケーションにより、それぞれの経験、データ、
それぞれの立場による言い分を寄せ合い、結論を導こうとしてきました。しかしそれにより導き出された
結果は、いうまでもなくあまりに不確かで信頼性の低いものです。
 例えばAという人間ががBという人間にCという事柄に関して「YES」という断定的な形で発言を
行ったとしても、それさえ「会話、会議」というコミュニケーション形態においては、その発言を
そのまま真実と受け取る事が出来ないということです。
 その情報はAより発信される際に、
 「そもそもそのAが事実であると信じている情報が間違っていないか?」、
 「そこでその事に対してYESと言ったことにより、そのAに対してどういう利害が生じるか?」、
 Bが受信する際には
 「定義としてのその言葉をどう解釈するか?」
 「その発言をAが発信する事にどういう意義を持つのか?」
 「それらを推測した上でAの発言によって自分が汲み取れる真実はなにか?」
といういくつもの歪んだフィルターにかけられることになるのです。
 今までの人類は、そういうままならないコミュニケーションと、歴史的事実を通じて「自分一人が次に
何をするべきか」を考え、行動し、それらがまた歴史の流れを作ってきたわけです。
 我々のとる行動は、その絶対的な情報量の不足と信頼性の低さにより、多くの場合間違っている、場合が
多いのでしょう。それら間違った結論に基づく間違った行動が、今日まで繰り返されてきた悲しい事や
誰も望まなかった結果を生みだしてきたのだと思います。
 自分の場合、人間は性善、性悪そのどちらでもなく、与えられたデータに対してその結果を出力するだけの、
関数的な存在だと考えています。それに対して意識とは、与えられたデータとそれにより生まれた結論に
沿って、世界に対して自分のとった行動、そしてそのような多くの行動により流れを変えていく世界、そして
また、その世界の流れにより形を変えていくという、「形の定まらないもの」だと思っています。
 すなわち、世界を形作っているのは私たち一人一人の意識そのものであるということです。
 我々はそのように世界を形を決める権利を持っているにも関わらず、なぜ今の世界は多くの人が望まない
形を留めているのか?、その原因となっているのが「それぞれの意識同士のコミュニケーションの不全」に
よるものだと考えているのです。

 しかし、これから私たちはネットワークを行使し全ての意識を統合する事によって、ある事象に対して
何らかの結論を得たい場合、世界に今日まで起こった全ての事例と情報を参照し、それらを照らし合わせ
より信頼性の高いものとし、全ての意識の立場に立って考えることが出来るのです。
 それこそが、これから私たちの進むべき「次の段階」であり、「次の階層」たり得るワイヤードが
成すべき役目なのではないでしょうか?