説得力も無く、妄想と変わらない程度のものを真相として提示する姿勢は、
言わば「俺の作品なんだから、作中での検証可能性などにさらされることなく、
俺の作品の真実は俺が書けば正しい」と言っているのと同じことになる。
魔王14才やsimulaをはじめとして、作者の言う推理とは、
一定限のオープンさを備えたミステリ的推理とは違って、設定考察物なんだとする立場は、
要するに考察において作者の恣意がトップダウンで降りてくる構造を許容したと同じことになる
(その意味でも、インタヴューでの作者発言が「直接に真実である指示」として重視されるわけだ)。
この姿勢の構造は、作者の描く仲間関係や人間関係でも同じ反復が見られる。
結局は作者の恣意から逃れられない(後期クイーン問題の不可避性)としても、
その説得プロセス、交渉プロセスをどの程度重視するかによってリアリティのようなものが生じるのだろうが、
ここでも「俺が提示したんだから、リアリティが無くても作品内の真実だ(これが仲間だ)」と言っているに等しい。
要するに、感感俺俺ならぬ、最最俺俺(俺世界で俺最強)なんだろう。
オープンには推理できないが、トップダウンで俺が差し出すルールのもとでお前ら踊れよ(設定考察せよ)、
と言ってるんだろうな、と最近思いつつある。当人はその独善性、その閉鎖性に気付いていないようだが。