極上生徒会 〜第53期生〜

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98風の谷の名無しさん@実況は実況板で
音楽には楽譜、演奏、録音といった複数のレイヤーがあって、各々の層において誰が
作者か、なんてことを厳密に考えていくと非常にややこしい。なので、歴史的にも、
イデオロギー的にも作曲者が一番エラいことになっていることが、再考されにくい
構造があるような気がしますね。ですから音楽学の領域では、いわゆるクラシック
音楽の作曲家に象徴される「強い作者性」が、研究の枠組みを規定してきたわけです。
  たとえば学校の音楽室の後ろには、バッハとかベートーヴェンの肖像画が並んでますよね。でも、美術室にゴッホやピカソの肖像画なんてないでしょう。そういうのも、
音楽の世界の作曲家中心主義を反映したものだし、同時に再生産しているものだと思うんです。
それがさほど疑われずに来てしまったんですね。いまでも西洋音楽史では、作曲家単位で
研究分野が編制される傾向が強い(最近では社会史や受容史も盛んになってきてますが)。
制作過程にある複数のレイヤーと、イデオロギーレベルでの作曲家中心主義はうまく折り合わない。
なんだか複雑ですっきりしないから作曲家中心主義の方を優先させて、複数のレイヤーを通じて
君臨する一人の「作者」を想定することで、たとえばベートーヴェンが一番エラいことにしちゃえ、と。
そんな感じだったんじゃないでしょうか。もう少し言えば、メディア的な特性として音楽は
「感覚に直接作用する」ものと考えられがちですよね。絵画や映画のような視覚的な芸術であれば、
対象との距離が意識されることになるんだけど、聴覚的なものってしばしば直接性の相のもとに
了解されるじゃないですか。だから聴衆の側にすぐにロマン主義的な欲望が立ち上がってきて、
「音楽のえもいわれぬものすごさ」みたいなものが強調されがちになる。だから「音楽は語れない」
みたいなことが安易に「語られて」しまうわけで、そのことも作者の神秘化をいっそう強化している。
そんなこんなもあって、音楽における「作者」概念の再検討という問題設定が意味をなさないと
見なされがちだったように思います。