ここではトスケルが杉村氏に話して「アガンベン がドゥルーズの名前しか出さない」と怒っているのか、
それとも杉村氏がトスケルに「アガンベンはドゥルーズの名前しか出さないらしい」と言ったことに対して、
もしそれが本当ならひどいことだ、という意味で「そりゃないだろう」と怒ったのか、はたまたトスケルが
杉村氏に対してそんな話はありえないだろうと怒ったのかが、わからない。
アガンベン批判の論拠となったであろうアガンベンの『ホモ・サケル』のイタリア語原書
(エイナウディ社1995年)の巻末参考図書を見てみると、確かに、『ミル・プラトー』が
ドゥルーズ一人の著書になってしまっており、本文中でも実際に引用該当部分はドゥルーズの
名しか出てきていない(22頁)。むろん用意周到な『ホモ・サケル』英訳版ではそれは訂正されている。
この本には仏訳版もあるのだが、手元にないので確認できない。恐らくは訂正されているだろう。
うっかりなのかどうかはわからない。アガンベンは確かにドゥルーズ論を書いたことがあるけれども、
しかし彼はいわゆるドゥルージアンではない。杉村氏の鋭敏な危機感は理解できるが、
現時点では杉村氏が批判対象を欲しているという側面はなかろうか。
ガタリが正当に評価されていないのは、彼がしばしばアカデミズムの枠から大きくはみ出している
理論家であり、枠を壊して乗り越えていくアクティヴィストだからだ。それは真実だろう。
しかしそう単純に「説明」して済ませることには用心したい。これは杉村氏のことを言っているのではない。
むしろ粉川氏にそうした「埋葬」の匂いを感じる時があるのだ。それは氏がガタリを評価
しているからこそ余計にやっかいなのではあるまいか。外なる人としてガタリを捉えるのは
あまりに安全すぎる。ガタリはアカデミズムの圏域にあって果敢に概念の組替えを実践
していったではないか。アクティヴィストとしてのガタリへの評価は、粉川氏の中で変遷している。
氏が「乖離を感じる」というガタリ生前最後の著書『カオスモーズ』は河出書房新社から邦訳刊行の予定である。
この著書はそうした理解の困難さの只中へ生まれてくる、時代の鬼子となるだろう。